幼少の思ひ出
正宗白鳥
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今から二十年あまりも前の事である。ロンドンからエデインボロウに向ひ、グラスゴーだのリバプールだのを経て、ロンドンへ帰るまでに、沙翁の故郷であつたストラツトフオード・オン・エボンへ立ち寄ることにした。途中の田舎町で、汽車の乗り換へを間違へたりして、まごまごしてゐた。それで、田舎の停車場にゐた学校帰りらしい数人の女学生に、ストラツトフオードへ行くには、どの汽車に乗つたらいゝかと訊くと、「それは今度此処を出る汽車に乗つて、一度乗り換へねばならぬ。」と、一人の女学生が答へて、「何とかさん。」と、仲間の一人を呼んで、「あなたは其方へ帰るのだから、この方に乗り換へを教へて上げなさい。」と云つたやうであつた。その女学生は同意したらしかつた。それで、そちら行きの汽車が来ると、私達夫妻を促してその汽車に乗らせて、自分も乗ることは乗つたが、私達の隣りの車室へ入つて行つた。そして、乗り換へ場所へ来ると、早くプラツトホームへ下りて、私達の下りて行くのを待つて、ストラツトフオード行の汽車を教へて、左様ならの挨拶をして別れた。
これだけの事でも、私達には外国旅行の面白さが感ぜられたのであつた。かの少女は、東洋の黄色人種と座席を共にするのを嫌つてゐたのであつた。極りを悪がつてゐたのであつた。
目差したストラツトフオードに着いたのは、九時頃であつたが、七月はじめの、日の長い季節であつたので、あたりはまだ薄明るかつた。下車客は、私達の外には、中年の女性一人であつた。私はその人に教へられて、シエークスピアハウスとか云ふ宿屋へ入つた。其処には、幾つかの部屋々々に、シエークスピアの作品に取材した壁画が描かれてゐたやうであつた。遊覧季節ではなかつたので、泊り客は甚だ少なく、ひつそりしてゐた。私達は珍しく夜食をたべた。静かな宿でよく眠つて、翌朝はおそく起きて、私は宿屋の入口の階段に立つて、ぼんやりあたりを見てゐたが、すると其処へ、通りがゝりの中年の紳士が足を留めて、「ユーは、シナから来たか、シヤムから来たか。」とたづねた。余計な事を訊きやがると思つたが、為方がない。「日本から。」と簡単に答へた。我は日本人であると云つて見たところで、先方では、日本人を、シナ人以上シヤム人以上と思つてやしないのだから、そんな返事はどうでもいいのであつた。
私達は、予定通り、シエークスピアの生家、夫人ハサウエーの生家、シエークスピアの墓のある寺院や、図書館などを巡覧し、劇場で『ロメオとジユリエツト』を見物し、一シルリング払つて、遊覧船に乗つて、綺麗なエボン河を、二三十分間ほど上り下りしたりして、一日一晩を過した。文豪の故郷でなくつても、一日の清遊に値ひする土地であつた。島村抱月は『沙翁の墓に詣づる記』のなかに、エボン河の舟遊びの事を書いてゐたが、舟中、同乗の紳士淑女と、沙翁の噂をし、互ひに、沙翁の人と作品に関する感想を語り合ひ、抱月自身「東洋の紳士」と呼びかけられたことも書かれてあつた。私は舟中その記事を思ひ出した。
「東洋の紳士」であらうとも、「シヤムかシナか」であらうとも、どちらでもいゝので、たゞ平和の時代に、のびのびと世界を旅するのは、人間の楽事である。私のかつての凡庸な世界旅行も、老後の今日では、楽しい追憶となつてゐるのである。不思議な事は、歳を取るにつれて、生れ故郷の事と幼少時代の事が、おのづから心に浮び上つて来ることである。人間誰しもさうなのであらうか。私は三十代四十代と云つたやうな、人間の活動力の盛んな時分に、普通に、順調に世を渡つて、身辺に大した異状は起らなかつたゝめ、その時代の追憶は稀薄なのであらうか。とに角、独りでぼんやりしてゐる時なんかに、知らず〳〵心に浮ぶのは、世界漫遊中の見聞と、幼少時代の郷里と家庭の光景である。学校卒業後の東京生活時代には、子供の時の事や田舎の事なんか、思ひ出しもしなかつたものだが。
ところで、今おのづから回顧に耽つてゐると、必ずしも懐しい楽しい思ひ出ばかりがあるのではない。子供の頃の事が思ひ出されると云つたつて、無邪気に周囲に親しんで、無邪気に我世を喜んでゐた記憶に浸つてゐられるのではない。私は何代も子の生れなかつた旧家に生れたので、祖母にも曾祖母(当時八十八歳)にも珍重された。五月の節句に、幟を建てるのに、巨大な、天にも届かんばかりな材木が用ひられた。一つの赤ん坊が生れたために、そんなに大袈裟に祝福すべきものであらうか。
曾祖母や祖母や、それに母性愛の母親などが、寄つてたかつて甘やかしたのにちがひないので、甘やかされた私は、自分の家を離れて、広い世間へ出て行くと、騙されたり、いぢめられたり、風にも雨にも悩まされて、生存に堪へない人間になる筈であつたが、さうはならないで、青年期壮年期老年期を通じて、人並みの生存を続けて来たのは、運がよかつたゝめでもあり、独自の心掛けのよかつたためでもあつた。それよりも、私が独り子でなくつて、続々と子が生れて、綜括して十人もの子供が、何代も子のなかつた家庭を賑はすやうになつたゝめであつた。はじめは甘やかしてばかりゐた子供も、同類が大勢になると、さうひどく関つてばかりはゐられなくなつて、次第に放任主義になつて、自分々々でどうにでもやれと云ふことになつたらしい。
今のやうな時世になつて考へて見ると、十人といふ子供は、いかにも多過ぎる。どうしてそんなに大勢の子供を育てられたのであらうと、不思議に思はれるくらゐである。それは、小作米の相当に入つてゐた、当時の私の家では、食糧に困らなかつたし、人間がいくらでも安く使へて、下女下男子守の雇ひ入れに屈托することがなかつたゝめである。私は、釣ランプの下に、一人々々の膳を並べて、下女下男子守、或ひは臨時の雇ひ人をも加へ、子供沢山の大家族が、蚊遣りの烟にむせびながら、汗にまみれて晩餐を食べてゐた真夏の頃を思ひ出してゐるが、それは、文学的に云ふと、現世の地獄である。蚊帳のなかに入つても団扇を離せない。蒲団はべつたり汗に染みるので、茣蓙を敷いてゐた。
ところで、私の最初の記憶は何であるかと云ふと──
私の祖母の匹偶で、名義上私の祖父にあたる人は、不断身持の悪い人であつたが、祖母に子供の生れないのを口実に、公然妾を設けることにした。私には曾祖母であり、祖父母には義母であつた八十歳以上の長寿を保つた老女は、若い時夫に死なれ、数十年間寡婦として旧家を維持してゐた気丈な昔気質の女性であつたので、「お前のやうな不身持な男には、由緒あるこの家をまかせる訳に行かない。出て行つて呉れ。」と、既に老境に達してゐた養子追放を強行したのであつた。それで、地所家屋家財家具を二分して、私の祖父に当る人を、本宅の戸籍から離した。祖父は若い妾と別に一家を構へることになり、私の父が本家の曾祖父の実弟の血統なので、本家を相続して、曾祖母、祖母と一しよに暮すことになり、直ぐに結婚もしたのだ。
かういふごみ〳〵した家庭の事件はどうでもいゝのだが、これが私の最初の記憶に関係があるのである。私が生れるとゝもに、別居した祖父の家にも男の子が生れ、両方が競争の形になり、村人の噂の種になつてゐたさうだ。子を産まぬのが匹偶の蓄妾の口実にされたのだから、祖母としてはます〳〵私を溺愛することになつたのだ。両家の往来は杜絶されてゐたが、どちらの子がどちらへ行つても、毒を食べさゝれはしないかと、陰口を利いてゐた者もあつたさうだ。子守も、そちらの家へ遊びに行かぬやうに注意されてゐたにちがひない。
それなのに、子守は私を、その祖父の家へ連れて行つたらしい。私が数へ年の三歳になつたかならぬかの時であつたと思ふ。私の最初の記憶として残つてゐるのは、或る晩祖母が私を雨戸の外の濡縁に出して、雨戸を締め切つたことである。私は泣き叫んだ。恐れのためか、怒りのためか。声を限りと泣き叫んで雨戸をたゝいた。五分間か十分間か、或ひはもつと長かつたか、そんなことは記憶してゐないが、兎に角、祖母によつて家の外に出されてゐたのだ。折檻されてゐたのだ。私の人生の一歩は此処からはじまると云つてよからうか。今回顧すると、祖母は、私が祖父とその妾との家庭へ行つて、物を食べさゝれたことを、無念に思ひいま〳〵しく感じ、且つ、私が毒になる者でもたべさゝれはしなかつたかと云ふ恐怖に駆られもしたのでなかつたか。私が祖母から受けた感化の激しいことは、屡々思ひ出すのである。私は、嬰児の時から癇症で、額に青筋が立つてゐたさうだ。祖母はそれを気にして、村の漢方医に診せて、「ハツボ」とか云ふ和蘭流の治療法を施したのであつた。それで、私の頭の真中は、その時からつるつると禿げてゐたのである。余計な事をされたと、私は幼い時からそれを悲んでゐた。頭が禿げたゞけで、癇症はちつとも癒つてゐないのである。
種痘は私の義理の伯父にあたる隣家の主人が、近所の嬰児の腕から膿を取つて、私に植ゑたのださうだ。無論消毒もしなかつたであらう。物心ついてからその話を聞いて、私は戦慄を覚えたのである。
私は話を聞くことが好きで、祖母をせびつて、いろいろな面白い話を聞かうとしてゐたが、祖母の話には、仏教的迷信種が多かつた。純白な幼児の頭にさういふ話を注入されるのは、いゝ事ではなかつた。幼少期の教育によつて人間の一生は支配されるらしいのに、祖母の教育態度は甚だよろしくなかつた。しかし、どんな教育法がいゝのか。それは疑問である。良妻賢母型の婦人の教育方法が必ずしもいゝとは云へまい。
以上、幼時の回顧として不愉快な回顧であるが、楽しい懐しい回顧も少なくない。祖母は一念発起して、剃髪して、毎朝仏壇の前で観音経を読んでゐた。私もそのそばに坐つて、口まねをしてゐた。老いたる下男は、黒住教か何かの神道信者で、毎晩、神棚の下で、祝詞を唱へてゐた。私はその側で口まねをしてゐた。どちらの文句も意味は分らなかつたが、子供心にも教育勅語の暗誦よりも興味あるものと思つてゐたにちがひない。
それから父には日本外史の素読を授けられた。たゞ声を出して読むだけなのだ。私は、夏の夕方、これから水泳に行かうとして、裸体になつて駆け出さうとしたところを、父に呼ばれて、裸体のまゝ正座して、外史の音読をしたことを思ひ出す。外史の詞句は面白かつたが、それよりも、八犬伝を読んだ時の面白さは一生を通じて例のないことであつたと回顧されるのである。私が九歳、十歳と云つた時分であつたと思ふ。私は、浜の隠居(すなはち私の祖父にあたる人)が、三四人共同で、八犬伝といふ大変面白い本を買つたと云ふ事を聞いて、それが読みたくてならなかつた。以前はその祖父の家へ子守に連れて行かれたゞけで、雨戸の外へ出されるやうな酷しい懲罰を受けたのであつた。が、その後祖母の態度も次第に緩和されて、私達は何かの場合にそこへ出入りすることもあつた。私は本を借りたさに行つたのだ。赤い表紙の粗末な本であつたが、私は側へ寄つて世にも珍しいものを見るやうに、それを見た。「おれがまだ読まんから貸せない。」と、祖父は云つて貸してくれなかつた。私は、寝ても醒めてもその本の事が気になつてゐた。それで、二三日するとまた行つて、のぞき見した。その物欲しさうな様子を、見るに見かねたやうに、祖父の妾が、「貸してお上げんさい。」と祖父に云つて、「いいでせう。」と念を押して、妾自身その本を持つて来て私に渡した。不断祖母から悪く云はれてゐたこの妾も、その時の私には観音様のやうに見えた。私はその本を持つて飛ぶが如く家へ帰つた。そして、祖父の妾が貸してくれたことは、祖母には云はないで、直ちに机に向つた。借りて来たのは、仁義礼智と四冊に分れてゐるうちの一巻であつたが、そんなことに拘泥しないで、与へられたところから読みだした。面白いだらうと思つた以上に面白かつた。夜おそくまで、小さなランプのそばで読み耽つて、知らず〳〵机の上に頭を垂れて眠るのを常例とするやうになつた。どうして十歳くらゐで、あの六ヶしい本が読めたか、面白く読み通せたか、不思議であるが、兎に角夢中で面白かつたのである。八行の玉の一つが自分のそばに落ちて来ないかと、本気で思つたりしたのであつた。
八犬伝や日本外史を、幼い頭の中へ注ぎ込むことがいい事であつたか。封建思想の結晶、こち〳〵の仁義忠孝などで、白紙の、純白な頭を縦横無尽にいたみつけられて、それでいゝのか。私は、人間の形を取つて生れて以来、和蘭風の「吸い出し」を頭にかけられたり、危険な種痘をされたり、地獄の赤鬼青鬼の話を聞かされたり、八犬伝や日本外史で精神教育を授けられたりして、人間としての成長を遂げたことは幸福であつたかなかつたか。幼年時代を回顧して、いゝ気持はしないやうだが、それでは、どういふ風な環境に置かれ、どういふ風な教育を受けたらいゝだらうか。みんながいろ〳〵な教育法を云つてゐるが、どれも当てになりさうでない。
それで、私は幼少の頃を回顧して、自分の生ひ立ちの危かしさを感じてゐる。成長して世間へ出て、自分の力で生存を続けて行けるやうに育て上げるのにはどうしたらいいかと疑つてゐる。私は子供がないから、子供の育て方なんか考へたことはなかつたが、成るにまかせて置くより為方がないのであらうか。
底本:「日本の名随筆 別巻44 記憶」作品社
1994(平成6)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「正宗白鳥全集 第二八巻」福武書店
1984(昭和59)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月9日作成
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