新婚旅行
正宗白鳥



新婚旅行


 例年の如く、晩秋のこの頃は、黄ろい葉や紅い葉で色取られて、箱根の山は美しい。この山に限らない、何處の山でも何處の田舍でも、秋は美しいに違ひない。

 晴れ切つた、風のない空に、烏が幾羽も浮んでゐる。

 山中でも温かい日盛りの午後の二時頃。

 一人の男と一人の女とが、宮ノ下の電車の停留所へ、足早に坂を登つて來た。彼等の乘つた二等室には、他には乘客がなくつて借し切り見たいであつた。

 この二人はさう美しい人間ではなかつたが、目鼻立ちが小奇麗であつた。男は面長で痩形で、若いくせに寒がりらしく、厚ぼつたい温かさうな外套を着てゐたが、腕には力があるのか、可成りに大きな鞄を輕々と提げてゐた。その鞄には、彼等の昨夜の宿を示してゐる塔ノ澤××樓の札がついてゐた。

「箱根では何處が一番美しかつた?」と、車内の席に腰を落着けてから、男は訊いた。その聲は澄んでゐて、柔しくもあつた。

「今通つて來た所は、隨分奇麗だつたわね。」と、可愛らしい小柄な女は、柄に似合ない凜とした聲で答へた。彼女はコリ〳〵した地質の、色合ひのけば〴〵しくない、年よりも地味な者を薄く着てゐた。

「宮城野の村がよかつたね。山よりも、柿の生つてる百姓家なんかの方が僕には面白かつた。……湖水はどうだつた?」

「湖水もよかつたわね。でも、湖水を見詰めてると、淋しい感じがしてよ。」

「あの邊はもう秋が過ぎて冬らしかつたからね。……大涌谷は?」

「いやな所ね。あたし、腰のところがまだ痛くつてよ。駕籠をく人は苦しいでせうね。乘つてる人でさへあんなに苦しいんだから。」

「來月神戸へ行く時には、外國航路の汽船に乘つて行くことにしようね。」

「えゝ。」

「汽船のベツドルームは、帝國ホテルのよりもいゝよ。特等か一等でなきや駄目だけれど。セコンドキヤビンのお客はまるで待遇が違ふんだよ。」

「さう?」

 女は懷中鏡を出して、顏をいぢくり出した。窓外では、見窄みすぼらしい身裝なりをした朝鮮工夫が道路の修繕をしてゐた。僅かばかりの石を入れた籠を重さうに脊負つてノロ〳〵と坂を上つて來る工夫もあつた。彼等の宿泊所らしいトタン葺きの、山の夜風をどうして凌ぐかと思はれるやうな、隙間だらけの假小屋が見下ろされた。

「僕が一昨年をととしの今時分、地震後に此處へ遊びに來た時には、それはひどかつたんだよ。自動車が谷へ轉び落ちたまゝになつてゐたり、レールが弓のやうになつて谷へぶらさがつてゐたりしてゐて。これぢや、三年や五年で登山電車が恢復する見込みはあるまいと思はれたのだが、よくこんなに早く元のやうになつたものだ。人間の力も馬鹿に出來ないものだね。」

 男はふと感激した口を利いた。女は默つて、化粧紙で小鼻のあたりを拭つてゐた。窓外を見てゐた男は、目を轉じて、女の、小さな、可愛らしく渦を卷いてゐる耳をそつと見詰めた。

「あなたは臙脂べにがお好き?」と、女はふと訊ねた。

「さうだねえ。臙脂も使ひやうによつていゝけれど、あんまり際立つといやだね。」

「頬臙脂はいや味ね。」

「西洋では、頬へ臙脂を差したり、色のついた手巾を持つたりしてゐる女は賤業婦なんだよ。」

「さう? ……」女は鏡を收めて微笑した。

「お母さんはお化粧に凝る方なんだらう。」

「えゝ。お母さんは家にゐても、お化粧しない日は、十日に一度くらゐなものよ。」

「色の白い品のいゝ人は、生地のまゝで人工を加へない方がいゝだらうにね。」

「本當に奇麗な人なら、それでいゝんですけど、あたしなんぞ駄目よ。お化粧しないと、顏がいかつくなつて。」

 二人が窓際で差向ひで靜かにそんな話をしてゐるうち、電車が塔ノ澤に着くと、二三組の客が賑やかに乘つて來た。なかには酒臭い息を吐いてゐる男もあつた。

「少し寒くなつたらう。コートを着た方がいゝよ。」

 男は鞄を開けた。

「いゝのよ、面倒だから。あたし、ちつとも寒かないの。」

 女は新來の乘客の方をちら〳〵見てゐた。かまびすしい話聲に耳を留めてゐた。が、狹い車室の中には、間もなく、酒の香ひとゝもに、煙草の煙が濛々と漂つたので、女は細い眉を顰めて、輕い咳をも洩らした。手巾で面前の煙を拂つたりした。

 それを見た男は、直ぐに立つて、側の窓を開けた。密集した臭い煙が流れでるとともに、何時の間にか吹きはじめてゐた夕風が入つて來た。

「寒かあない?」

「いゝえ。」

 が、騷々しく笑ひ話をしてゐた他の人々は、ふと空氣が冷たくなつたのに氣付いた。窓の開いてゐるのにも氣付いた。そして、そのうちの一人は、

「濟みませんが、そこの窓を締めて下さい。」と、聲を掛けた。

 が、男は知らん顏してゐた。

「醉ひが醒めると急に寒くなつた。」と、酒太りらしく肥滿した乘客が呟いて、「お願ひだから、その窓を締めて下さい。」

 と、強請するやうな聲を掛けた。

「いやだ。」と、男は今までとちがつたきつい聲でキツパリ答へて、「みんなが煙草を止めたら窓を締めてもいゝ。」と、言葉を續けた。

 意外な答へに、他の人々は呆氣に取られてゐた。苦笑したものもあつた。しかし、進んでかの男に反抗するものはなかつた。暫らく室内はヒツソリした。

 女は寒さを感じだしたのか、鞄からコートを出して着て、謹ましやかに窓外の野を見てゐた。

 小田原の町へ入ると、客が込み合つて、自から風除けになつた。塔ノ澤から乘つた連中は、また賑やかに笑ひ聲をしだした。

「彼奴變な奴だね。」「新婚旅行か知ら。」「なあに、カツフヱー女か、丸ビル女だらう。」「どちらもいやに澄ましてやがる、當世の若い者にやかなはない。」などと、さゝやき合つてゐるものもあつた。

 小田原の停車場に着くと、男は、輕々と鞄を提げて、女と並んで急ぎ足でプラツトホームへ出て、熱海行の汽車に乘つた。


カルモチン


 上野の停車場を出る時、旅行鞄を汽車の中まで持ち込んで呉れた兄は、

「ぢや、辛抱の出來る限り居ることにしろ。旅費が足りなくなつたら、さう云つて寄越せ。」と云つたきり、發車時までプラツトホームで見送つては呉れないで、直ぐに行つてしまつた。

 彼女は窓から顏を出して、脇目も觸らずに歸つて行つた兄の後ろ姿を見送りながら、大きな目に涙を溜めた。同伴者の妹も顏を出して、キヨロ〳〵あたりを見廻してゐた。

 同じ二等室には、いゝ加減に客が乘つてゐた。洋裝した體格の大きい彼女は、他の客の注意を惹いたが、目の小さな、頬骨の出た、そして可成りにお化粧を施してゐても、冴えない、病人々々した彼女の顏は、誰れにもいゝ感じを與へてゐなかつた。姉とちがつて頬ぺたの膨らんだ色艷のいゝ妹は、ひとりでそのまはりをはしやいでゐた。

 伊香保まで彼女は退屈を續けた。澁川で電車に乘り換へた時には、特等室がついてゐなかつたので、人に遲れて乘つた彼女は、少しの空席をも見付けられなくつて、妹の手を執つて立つてゐなければならなかつた。若い學生などが大勢乘つてゐたが、侮蔑を含んだ目を此方へ向けるばかりで、誰れも席を讓つては呉れなかつた。彼女は息苦しくなつて青褪めた顏をます〳〵青くした。今にも卒倒しさうにさへなつて、旅行に出たことが後悔されたが、幸ひに、一人の老紳士が座を立つて、「さあ、お掛けなさい。」と彼女を招いた。彼女は辭退する間もなく、倒れるやうに、空いた席へ腰を下ろした。

「あなたはお母さんの膝へお掛けなさい。」と老紳士は、妹の手を執つて彼女の膝へ押しつけた。

 九月の末で、山の夜は寒かつた。日中はまだ暑かつた東京から、薄着をして來た姉妹は、伊香保の宿に着くまでに、いく度もくさめをした。

 食事は汽車の中で濟まして來たので、部屋が極ると、直ぐに湯に入つて、二人で枕を並べて眠つた。温泉場の暇な時節で、あたりには客の氣色けはひもなかつたが、彼女はどうしても眠られなかつた。はじめは靜かな所と望んで、三階を撰んだのであつたが、夜が更けると、あまりに靜かなことが氣にかゝり出した。遠くの梯子段の足音にも、天井の鼠の音にも脅かされた。戸にあたる忍びやかな夜半の山風は、都會の電車や自動車の音よりも、一層凄く彼女の神經を惱ました。そして、不斷の如く兄や兄嫁の側にゐる方がまだしも氣樂なやうに思はれだした。

「まあ。とくちやんはよく眠るのね。」と、寢返りを打つて、足を夜具の外へ投げ出した妹に向つて云つた。妹は天國の夢でも見てゐるやうな平和な顏して、安らかな寢息を洩してゐた。

「さう眠てばかりゐないで、たまに目を醒ましたらいゝぢやないの。」

 彼女はいま〳〵しさうに云つて、妹の脊をつゝいた。妹はちよつと身もだえして眉を顰めながら何か呟いたが、そのまままた深い眠りに落ちた。

 明け方になつて、彼女もいくらか目蕩まどろんだが、長つたらしい雨戸の繰り開けられる音に、やうやくにして捉へた曉の夢を破られた。山上の澄んだ朝の空氣は、さすがに氣持がよかつた。彼女は浴衣の上に古ぼけた袷羽織を着て、廊下へ出て、妹を相手にあちらこちらと歩いたり、椅子に腰を掛けたり向ひの山を見たりしてゐた。

 一度片附けられた寢床を、掃除の濟んだあとで、また敷かせて、元氣のない身體をだらしなく横へた。妹は外へ遊びに出たがつたが、姉が連れて行つて呉れないので、部屋のまはりで、獨りで何かやつては時を過してゐた。時々は童謠を口ずさんだりした。二つ三つ部屋を隔てた廣間で宴會があつて、老人や青年が賑やかに酒を飮んでゐるのを、廊下から覗いては、その樣子を姉に報告した。會場の田舍訛りの高聲は、寢床に就いてゐる姉の耳にも入つた。

「あしこでは何してるの? 大きな提燈上にあります、小さな提燈下にありますなんて、馬鹿なことを云つてるぢやないの。」

「間違へて云つた人が、お酒を飮まされるの。」

「さう? 詰まらないわね。」

 彼女は午餐後には按摩を呼んだ。保養に出てゐる間は、出來るだけ好きな事をしようと企てゝゐたのであつたが、さて來て見ると、これと云つてしたいことが見つからなかつた。湯に入ると身體がだるくなつて、外へ出るのも億劫であつた。温泉場へ行つたら面白い話相手に出會ふだらうと空想してゐたことも當てが外れて、浴室で會つたり階下の廊下で行き違つたりする男女は、田舍くさい人間であつた。

「この宿は安つぽい宿なのよ。兄さんがよく知りもしないくせに、こんな宿を教へて呉れたもんだから、詰まらないことをしちやつた。」と、彼女は妹に云つた。が、十歳になるやならずの妹には、宿のよし惡しはどちらでもよかつた。

「とくちやんはもうこの土地にあいて? お家へ歸りたくならない?」

 妹は口を閉ぢたまゝ、喉でウヽンと云つて首を振つた。

「こんな淋しいところに辛抱してゐられて? 感心ね。お家ぢや、あたしとあなたとがゐなくつて廣々したと、兄さんや義姉ねえさんは思つてるに違ひないのよ。」

 姉は、衰へてゐる神經に感ぜられる家庭の不平を妹に向つてゞも並べたくなつたが、そんなことを喋舌しやべつて、心をいら立たせるのは、折角保養に來た目的に背く譯ではあるし、そんな話のために昂奮して、今夜また熟睡されないやうではたまらないと、口に出かゝつた兄嫁の惡口を、ねばつこい唾液つばきとゝもに呑み込んだ。

「お八つに湯元饅頭でも取つて上げようかね。」と云つて、女中に吩附いひつけて、ふかし立てのおいしさうなのを、ドツサリ取り寄せて、氣前よく女中に頒けてやつて、あとで、「さあ、食べませう。」と、自分でお茶を入れて、妹に勸めたが、彼女自身は、辛うじて一つ食べたばかりであつた。

 彼女は寢床に、だらしなく横はりながら、妹の口の動くのを見てゐたが、

「あたし、こんな山の上へ來たつて詰まらないわ。お金がありさへすりや、日本なぞにゐなくつてもいゝ、西洋へ行つちまひたいよ。大きな汽船の一等客になつて、フワ〳〵した柔かいベツトに寢て、オゾーンを含んだ大海の空氣を吸つて。……あたしの體格は生れつき丈夫なんだから、肺臟と精神にいゝ空氣を送つて自由な生活をしてゐたら、身體に肉がついて、神經衰弱なんか見る間に癒つてしまふんだわ。印度洋の入日いりひはさぞ雄大だらうと思はれてよ。レツドシー、名前からしていゝわねえ。……あたし巴里へ行つたらダンスを習ひたいの。生活のために働くのはいやだけれど、活動俳優には一度なつて見てもいゝの。東洋を舞臺に取つた新作のヒロインになつて見たいのよ。あたしの身體は日本の女性としては偉大な方なんだから、フランスの男の中にまじつたつて、さう見窄らしくは思はれないに極つてるわ。あたしが彼方で映した新作のフイルムが日本に輸入されて、帝劇か歌舞伎座で日本人に見られるやうだつたらどんなでせう。あたしといふ女の本當の價値ねうちを知らないあの人やあの人に見せてやりたいわ。いゝ御亭主を掘り出した氣で大きな顏して高慢な口を利いてるSさんに、あたしの本當の價値を大きな字で見せつけてやりたいわ。Sの奴、何の取柄もないくせに、涙ほどのダイヤをひけらかしやがつたり、貧乏人を侮辱したりなんかして。お前さんは御亭主の寄生蟲になつてやうやく今日が暮してゐられるんぢやないか。……人間は不公平だ。日本の社會は不公平だ。西洋はこんなことはありやしない。一萬圓か二萬圓か、せめて五千圓も、お父さんがあたしの分として遺産を置いて行つて呉れたなら、あたし明日の日にでも外國へ出掛けるのだけれど。……お金が無いのなら無いで、今日の生活にも困るやうに貧乏だつたら、それでもいゝわ。あたし、妹や弟の犧牲になつて、事務員にでも女給にでもなつて働くのだけれど。生じつかカスカス生活くらしの立つやうな家に生れたからいけないんだわ。緊張した氣持になれないんだもの。……勸められたから來たのだけれど、こんな温泉場なんか詰まらないわ。山なら山で、人つ子一人目につかないやうな山の奧へ入つて、木の實でも食べて、谷の清水を手で掬つて飮んでゐたら、汚らしい世の中の事なんか忘れて、どんなに心が奇麗になつて、神樣のお姿が、あたしにも拜めるかも知れない。……あたし奇麗な心になりたいの。埃一つ留らない透き徹るやうな奇麗な心になりたいの。家庭なんか持つて、氣まゝな男の御機嫌を取つて、子供を大勢生んで、おしめの洗濯ばかりして日を暮すのは醜い人生ぢやないの……。」

 彼女は、あるひは悲しさうにあるひは悦しさうに、こんなことを言ひ續けてゐたが、ふと首を持上げて、話相手を見ると、妹は、盆の上の饅頭をあらまし平げて、お茶をがぶ〴〵呑んでゐた。

「とくちやんはよく食べたのね。おいしかつて? 姉さんにも一つ頂戴な。」

 彼女は寢床の上に起き直つて、饅頭を抓んだが、獨り話で腹までも空いたのか、さつきよりも味がよく感ぜられた。

 そこへ、顏の新たな女中が、夕餐のお好みを訊きに來た。獻立表によつて二三品料理を誂へたあとで、

「此方にも藥屋がありまして?」と訊ねた。

「御座います。」

「ぢや、カルモチンといふお藥があつたら、小さい箱のを一つ買つて來て下さいね。」

「カルモチン?」

「えゝ。睡眠劑ですわ。あたし夜分眠れなくて困りますのよ。」

「奧樣は昨夕およれなかつたので御座いますか。それはいけませんですね。……カルモチン……承知いたしました。」

 女中が出て行つて階子段を下りると、「馬鹿にしてるわ。」と、姉は呟いたが、「奧樣」と呼ばれたことは、異樣な刺戟を彼女の心に與へたのであつた。

 その夜、彼女は、晝間より長つたらしく、木偶でくの如き妹を聞き役にして、胸中に叢がる思ひを取り留めもなく打ち明けた。話のうちに涙をさへ落した。そして、聞いてゐる筈の妹が寢ころんで眠りに落ちると、姉はカルモチンを定量通りに服してから机に向かつて、繪端書に、

「折角此處まで來たのだから、成るべく長く辛抱して、からだを丈夫にして歸りたいと思ひますが、とく子が遊び相手のないのに飽いて、淋しさうにしてゐるのが可愛さうでなりませんから、二三日うちに一先づ歸宅いたしますかも知れません。前以つてお知らせして置きます。」と、兄夫婦へ宛てて書いた。

 今夜は幸ひに、隣室に一組のおとなしい客が泊つてゐるので、彼女は氣丈夫な思ひをして、晝間から敷きつ放しの寢床に就いた。

底本:「正宗白鳥全集第十二卷」福武書店

   1985(昭和60)年730日発行

底本の親本:「中央公論 第四十一年第一号」中央公論新社

   1926(大正15)年11日発行

初出:「中央公論 第四十一年第一号」中央公論新社

   1926(大正15)年11日発行

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:山村信一郎

2013年115日作成

青空文庫作成ファイル:

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