論語とバイブル
正宗白鳥
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吾人はアレキサンダー、シーザー、ナポレオンなど所謂英雄なる者の社会に存在したことを喜ばぬと共に、基督、釈迦、孔子など所謂聖人なる者の出現を謳歌せぬのである。世の識者という中には、武人的英雄物質的英雄の人世に不幸を増したことを認めながら、一方に聖人が人間を救済し、現世に幸福を下した如く考える者もあるが、彼等は果して赤裸々の個人として見て、それ程の人物であったか、其の言う所行う所、吾人凡俗を遥かに擢んでていたのであるか。
吾人は彼等聖人に対して、非常に僻見を有している、少時より一も二もなく、尊い人と教え込まれて、公平に観察する力はなくなっている。基督教的教育を受けて、基督は神であるという考えが頭に染み込むと、冷静に批評する余裕もなくなり、何となく勿体ない気がして、生理学者が動物を解剖するような態度で、基督に分析的研究を加えるに躊躇する。よし又宗教の信仰がなくても、幾千年の間、幾億万の人間が賢愚共に崇拝する人は、まさか凡人ではなかろうと思われる、ろくろく研究もせず其の経典の一頁をも読まずとも、何となくエラそうに見えるらしく、公平な見識を抱けりと自称する人は、孔子釈迦基督が世界の聖人大君子救世主とは自明真理の如くに信じている。されど無邪気に、小児の如き心を以て所謂古聖人を研究すれば、吾人と左程の懸隔なき人間に過ぎぬ。人世に幸福を与えたかも知れぬが、其れと共に大弊害を生じたのである。或いは彼等が後代を動かして今日まで其の勢力の存するを見て、大人物だというかも知れぬが、其れはほんの偶然の結果である。若し名誉とか不朽の事業とかで尊き者と仮定すれば、基督をしてかかる大名誉を得させ、かかる百代の事業をなさしめた大恩人は、ピラトであろう。彼れ若し磔刑に処せられなかったならば、基督は神として伝わらなかったであろう。従って十字軍も起らず、新教徒の迫害もなく、不道理極まる罪の観念に悩さるることもなく、後代の人間は、一層面白く世を楽んだであろう。基督一人の名誉の為に、西洋幾億万の人間は幸福を減じたこと夥しい、しかし基督自身は名誉心の為にかかる事業を企てたのでもないから、咎める訳にも行かぬが、其の代り大人物でもない。彼が後代に残した勢力は善悪共に偶然である。孔子とても釈迦とてもそうである。人或いは此等二三の聖人が出現しなかったらば、社会は如何に野蛮極まるであろうという者もあるが、これは一面を見た人の議論に過ぎぬ、古代希臘など、あらゆる基督教国の歴史に類のない幸福な国であった。人間に備わる五官の慾望を円満に満足させ、現世の幸福を極度まで楽んだ、吾人が理想に近い国であったらしい。
剣菱茲に論語、聖書の中より二三節を抜摘して、公平なる批評を加えて、孔子や耶蘇が何れ程利口な事をいったか研究して見よう。昔からこの二つの書は註釈や批評が無限であって、一字一句の研究にも幾多の人間を苦しめ、色んな騒動まで起して、殊にバイブルの如きは、人間の罪悪を救い、祝福を来すと自慢しながら、其の解釈の争いから悲惨な事件が起って人間の不幸を醸した。耶蘇自身は己の知ったことじゃないというかも知れぬが、こんな争論の種ともなる曖昧の言論を播いた責任は免れようがない。
山上の垂訓は耶蘇の道徳観を述べ尽したのであるが、不条理の点が多い、第一「貧しき者は幸なり。」とは会得出来ぬ言だ。自殺するのも、人殺しをするのも、泥棒をするのも貧乏の結果たることが多い。耶蘇教信者とても会堂を建てたり伝道をするにも先立つ者は金ではないか、或いは貧乏しなければ天に手頼る気にならぬとコジ付ける人もあれど、金がないから止むを得ず、神様に縋って慰めようというのならば、其の反面には、金があれば神や仏はどうでもよいという意を含んで来る。金の方が神よりも尊く見えて来る。悲む者はよいとか、病気するはよいとか、七ツの祝福何れも常識のある人間の首肯し難い者のみである。「我れ世に来るは平和を齎さんとに非ず、子を親に背かせ……。」は恕すべからざる不埒な言である。正義の為には夫婦離反してもよいというかも知れぬが、世に親子夫婦睦まじく笑って暮すよりも重んずべき主義があろうか。生中宗教がある為に宗旨争いで家庭の不和が生ずることは随分ある。「一里行けと命ぜらるれば二里行け。」とか「上衣を取らるれば下着を与えよ。」とか、行うべからざる教えである。いかに耶蘇崇拝家でも癇の虫があるからこれには全然従われぬと見え、様々にこれを曲解しているが、無心に見れば、個人を蔑視した暴論である。姦淫の訓戒も人間固有の性に背いている。全章只一つ吾人の気に入る文句は、「明日は明日の事を思い煩え、一日の苦労は一日にて足れり。」と今日主義、酔生夢死主義を鼓吹した事である。
しかし耶蘇の説教は実行すべからざる空論として読めば、常規を離れている丈に面白い、其の生涯も詩人風で芝居的である。新旧全書共に眠気醒しにならんでもないが、論語に至っては世にも稀らしき平々凡々、砂を噛むが如き書物である。真理は平凡なるに違いないので、吾人も孔子の言に反対は称えぬが、敬服もし兼ねる。雨が降る日は天気が悪い、水は冷たい火は熱いといえば、何人も御尤もと首肯すれど、大発明だと恐れ入る訳には行かぬ。論語全篇凡てこんな言で満ちているのである。「学而時習之不亦悦乎。」という開巻第一の言も仮名でいえば「皆さんは学校で教わった事を家へ帰ってもお温習えなさいよ。」と同じ事で、論語知らずの小学校の先生でも常にいっている。「有朋自遠方来不亦楽乎。」の言も平凡。元田永孚先生の如きはこの一節を説明するにも幾万言を費し、古今の大真理としたそうだが、「酔うて唄う亦楽しからずや。」という剣菱即製の論語も真理は孔夫子のと同じく、これを実例を挙げて説明すれば、一日や二日の講義を要するのである。畢竟論語もバイブルも吾人が恐れ入るにも当らない凡書である。
底本:「日本の名随筆 別巻100 聖書」作品社
1999(平成11)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「正宗白鳥全集 第二五巻」福武書店
1984(昭和59)年6月
初出:「読売新聞」
1904(明治37)年10月15日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月9日作成
2014年1月17日修正
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