月を見ながら
正宗白鳥
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縁側に蹲んで、庭の樹の葉の隙間から空を仰ぐと、満月に近い月が、涼しさうに青空に浮んでゐる。隣家から聞えて来るラジオは流行唄を唄つてゐる。草叢には虫の音が盛んで、向うの松林には梟が鳴いてゐる。さういふいろ〳〵な物音を圧し潰さうとするやうに、力強い波濤が程近いところに鳴つてゐる。
「あの月は旧の七月の、本当の盂蘭盆の月だな。」
私はさう思つて、ひとり静かに初秋の夜を楽んでゐたが、いつとなしに、幼い頃の故郷の七夕や盂蘭盆の有様が思ひ出された。この季節は、幼時の追憶のうちでも最も懐しいもので、私の心は深い感化を受けてゐるのである。三四十年前のことであつても、風俗習慣が目まぐるしい変化を続けてゐる日本の現代では、一世紀も二世紀も昔の事のやうに思ひ做される。僻陬の故郷でも、今はあの頃の風習は影が薄くなつて、遠海へ出稼ぎに行つてゐる漁夫の帰郷の季節を盂蘭盆と名づけるに過ぎないらしい。七夕の竹も立てなくなつた。盆踊りは近年全く止めになつて、その代りに素人芝居をやつたり活動写真を催したりするやうになつた。
昔、私達は老いたる下男に連られて、寺の藪へ七月竹を切りに行つた。そして、二三日がゝりで書いて置いた、薄つぺらな色紙や短冊を紙縒で二本の竹に結へつけて、庭に立てた。短冊の文字の多くは、曾祖父が編纂して自費出版をした『七夕狂歌集』から撰んで写したのであつた。茄子で馬をつくつたり、玉蜀黍や胡瓜や大角豆などをいろいろな形にして集めたりして、小机の上に乗せて、七夕様に供へた。煎豆を重箱に詰めて置いて、七夕祭を見に来る村の子供に一握りづゝ施すのが常例になつてゐた。夜が更けると井戸で冷した西瓜を皆して食べた。
盆の精霊祭や墓詣りは、祖母の指図に従つて私達は神秘的興味をもつてよく勤めた。十五日の夜満潮が波戸場の岸を浸す頃を見計らつて、私達は蓮の葉に盛つた供物と共に精霊棚を流した。それが波に漂うて次第に沖の方へ遠ざかつて行くのを月の光りで見てゐると、霊魂の世界が幼心に空想された。御先祖は、盆の三日間供養したあとでお墓の中へ送り返し、精霊棚で祭つた無縁の亡者は海上へ送り出すのだと、祖母は云つてゐた。
「海へ流されて、しまひには何処へ行くのぢやらう。」
私は、無数の霊魂が海上に浮び海底に沈むことを思つて、月夜の海に対して無気味な感じを起した。
海端の住吉神社の境内では、宵から夜中までも踊りがつづくので、宵のうちは崩れ勝ちな踊りの輪も夜が更けると、子供が去つて、熱心な男女ばかりが残つて、調子が揃つて、手の音、足の音、音頭取りの唄声が、私の寝床まで快く響いて来るのであつた。故郷の盆踊りは手振が単純なので、私なども、幼い頃にはそれをよく覚えてゐた。一二度踊り仲間に加つたことさへあつた。
二十歳前に上京してからは、故郷の踊りも他所の踊りも見る機会は全くなくなつたのであつたが、ある年、──今から十数年前に、常陸の国五浦の浜で、珍しい盆踊りを見た。季節は丁度今時分で、月の冴えた晩であつた。
美術院の首領であつた岡倉覚三氏が、一時収めてゐた羽翼を張つて、再び美術界へ乗り出さうとした時で、一族郎党とゝもに、その仲間や新聞雑誌関係者などを、自分の隠棲地の五浦へ招いて、門出の盛宴を催したが、その余興の一つは盆踊りであつた。近村の漁民の一団を呼んで、この地方独得の踊りを踊らせたのであつた。岡倉氏自身も酔顔に手拭を被つて、踊り仲間に加つて、調子外れの踊りを踊つた。しかし、身心ともに疲労してゐた私には、さういふ異つた光景も面白くは見られなかつた。とても幼年時代に楽んで見てゐた盆踊りのやうに無邪気には受け容れられなかつた。
画家は絵を書いてゐたらいゝだらう。展覧会を開きたけれりや、仲間うちでいゝ絵を書いて陳列したらいゝだらう。政治家や商人見たいに、人を集めて御馳走したり盆踊りを見せたりして、威勢をつけるには及ぶまい。岡倉さんを一部の人が英雄扱ひするのは可笑しいと、私は、氏の頬被りした踊り姿を見て、磊落視するよりも滑稽視してゐた。
「早いものだ。岡倉の踊りを見て以来、もう十五六年経つてゐるのだ。」
私は、あれ以来岡倉門下の多くの秀才が、時運に遭遇して、絵の評判と共に、財産をつくつたことを思ひ出した。物質上に成功して別荘をつくつたり、妾宅を設けたりするのを見ると、ある種の日本画家は実業家見たいなものだ。だから私などでも新聞社の美術部を担任してゐる間は、五浦の宴会などへも招待されて、買収されようとしたのだ。
「しかし、これも馬鹿正直だつた。七年間美術記者を勤めてゐたのに、知名の画家に絵を一枚たりとも書いて貰はなかつた。先方からお世辞に書いてやらうと云つても、要らないと云つて断つたが、岡倉の奇抜な踊りを見たのを、新聞記者の役得とするやうぢや詰まらなかつた。」
月夜の感想がいつか理に落ちてしまつた。耳を傾けると、ラヂオは大正十一年頃の流行唄だと云つて「私もお前も枯すゝき」といふ唄を唄つてゐた。大正元年以来の流行唄の演奏が今は終りに近づいてゐるのだ。
「踊り目が切れたよ。くされ縄かよ、また切れた。」と、子供の時分に聞いた踊り唄が思ひ出された。
私は樹の間を離れた月を仰いだ。昔の日本人には、月といふものがどれほどに親しまれてゐたのであらう。王朝文学などには殊に月の感じがよく書かれてゐる。今日読んだ弁ノ内侍日記には、月の日記と云つていゝくらゐに、どのページにも月のことが、何とかゝとか書かれてゐる。電灯などのなかつた時代には、月の光がことに有難かつたのであらうが、詩や歌がかうも月のことに拘泥してゐるのを見ると、頭の単純さに少し呆れて来る。月の歌が月並の平凡に見られて来る。
「見るところ花にあらずといふことなし。思ふところ月にあらずといふことなし。」と、芭蕉は風雅の秘訣を説いてゐるが、私は、かういふ美しい月に対してさへ、美しい天地の中へわが心を融け込ますことは出来ないのである。とても芭蕉流の発句などはつくれさうでない。
私の曾祖父は『七夕狂歌集』を大阪の書肆に頼んで印刻させたのであつたが、重患に罹つて、製本した歌集が届かないうちに死んだので、病中の譫言に「もう大阪から舟が着いた筈ぢや、早う見て来い。」と、絶えず云つてゐたさうである。その話はよく祖母から聞かされて感動してゐたのだが、年齢を取つて、その歌集を読むと、平凡愚拙甚だしいもので、鮮明な印刷や、破つても破けないほどの紙質が、貧しい内容にくらべて勿体ないやうに思はれた。曾祖父は柄にない風流心と虚栄心とから、こんな無駄なことをしたので、今の文学青年の新作小説の出版と弊を同じうしてゐるのである。
芭蕉はえらかつたであらうが、芭蕉形の風流の模倣者を続々と出して、今日に及んでゐる。『奥の細道』の如きも、頭から偶像視しないで、読んだら、芭蕉の常識的な風流心が今の目には愚かしく見えるではないか。この人は温和で前代の流れに従つてゐた人である。塩釜神社の秀衡(?)の灯籠を見て、名を末代に残したことに感心したなどは、俗物の考へではないか。「細道」の文章を簡潔だの印象的だのと云ふのは、私には全然首肯しかねる。芭蕉の紀行はどれも、多少の感傷的の味ひがあるだけで、概して蕪雑で、印象的でも描写的でもないのである。私の説に反対の人は、雷同癖古人崇拝癖を止めて、も一度虚心に読み直して見るがいゝ、簡潔だの印象的だのといふのは、西鶴の文章のことなのだ。
徳川時代の学者の書いたものを読むと、彼等の社会観人生観道徳観が、どれも孔子の創した範囲を出でないのに呆れる。熊沢蕃山、山鹿素行、山崎闇斎、大塩中斎、など、凡庸を脱して、徳川の官学に盲従しなかつたのであるが、どれも孔子に楯突くことはしなかつた。何千年前の支那人である孔子の説く所を頭から盲信して、それに対して一点の疑ひを寄せることを、なぜ躊躇したのであるか。彼等は時代の反抗者らしくつても、その実時代の流行を離れることは出来なかつた。人間の個性なんて微弱なものである。
風流心のない私は、秋の夜の月を見ながら、つひにこんなことを考へだした。
底本:「日本の名随筆58 月」作品社
1987(昭和62)年8月25日第1刷発行
1999(平成11)年4月30日第10刷発行
底本の親本:「正宗白鳥全集 第二六巻」福武書店
1986(昭和61)年3月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月9日作成
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