玉の輿
正宗白鳥



 時節外れの寒い風が吹いた。五人もの子供を抱へてゐながらビクともしない働きものゝおたまは、薄明りが差すと、誰れもまだ起きない前に寢床を離れて、手早く衣服きものを着替へて、藁草履を突掛けて、裏木戸から水汲みに出掛けた。風呂桶へ四五荷も汲んで、使ひ水をも大きな水瓶みづがめに滿すと、肥つた身體からだにべつたり汗の出るほどに温かくなつた。

 共同井戸の側には、次第に人が集つた。

「かう出し拔け寒くなつちややり切れないよ。」

「冬の仕度はなんにも出來てやしないのに、弱つちまふよ。……おたまさんなぞ、手まはしがいゝから、慌てることはないだらうけれど、こちとらは、これから足掻あがき廻るだけよ。」

「お前んとこは、おかめちやんを奉公に出したから餘程よつぽど氣輕になつたぢやねえか。乳呑ちのはなし、お前んとこは、これから樂が出來るばつかりだよ。」

「さうだとも。おもとさんは言ひ分なしさ。おらのとこも、おさとを御別莊へ上げたいと思つてるんだけど、同じ奉公させるのなら、東京へ出した方が當人の爲になりやしないかと思つて迷つてるだ。」

「さう云へば、濱田のよつちやんは、日本橋の大きな問屋の息子さんに所望されて、お嫁入りすることに話が極つたつてことだよ。」

「よつちやんが。本當かい。」

彼處あしこぢやまだ祕密ないしよにしてるやうだけど、おら、昨日きのふ確かなところから聞き込んだのさ。よつちやんがその息子さんに見染められたといふことだが、女は容色きりやうのいゝのが何よりだ。大した仕度金が出るつてことだよ。」

 およねと云ふ容色よしが、大磯に別莊を有つてゐる松本男爵の東京の本宅に小間使奉公をしてゐるうち、男爵家に出入りの商人に見染められて、結婚を申し込まれたといふ噂は、その日の井戸端での第一の話題となつたので、おたまの耳にも刻み込まれた。それで、彼女は、水を汲んでしまふと、姑や夫に向つて、まづ第一にその噂を傳へた。

 數十年來別莊地として有名なこの土地では、土地のプロレタリヤ階級の人々は、女の子を家事の手助けの出來るくらゐな年頃になると、御別莊へ奉公に出すやうにと心掛けるのを例としてゐる。御別莊では、避暑時に使ひ馴れた女中を東京の本邸へ連れて行くことも少なくない。さう云つた女の子は、一般にその給金を蓄へて嫁入り仕度を調へたり、給金の一部を月々親元へ送つて生活くらしの足しにしたりするのであつたが、中にはお屋敷の若樣といゝ仲になつて、とゞの詰まりは、莫大な手切金を頂いて引き下つたものもあれば、お屋敷奉公が縁となつて、富家ふけと縁組みをしたものもあつた。

 近年、女の子を有つてゐるプロレタリア階級の羨望の的となつてゐる特殊の例としては、ある別莊に小間使として勤めてゐて、そこに一人で保養に來てゐた坊ちやんと偶然に關係を結んだおつたといふ少女のことであつた。坊ちやんの父親は、東京の本邸でその噂を耳に入れるや否や、激怒して「よし、おれが行つて、おつたを追抛おつぽり出してやる。」と云つて、直ぐに出かけようとしたが、驚きと憤りとがあまりに激しかつたゝめに、立ち上るや否や腦溢血を起して卒倒して、それつきりとなつた。親一人子一人であつたそこの坊ちやんは、父親が死んだあとでは、愚圖々々でおつたを家へ引き入れて、正妻として戸籍に入れることになつた。それには世才に長けたおつたの伯父が、巧みに魂膽をめぐらしたのであつた。おつたは、左程容色がすぐれてゐるのではなかつたので、坊ちやんの一時の出來心のために、意外な幸運が掴めたのであつた。

「おつたさんのやうに。」とは、女の子を持つてゐる何人の母親の胸に浮んだ羨望の聲であつたであらう。

「よねちやんなら、東京へ出したつて恥しくはないからね。」と、おたまの姑は、おたまの話に合槌を打つたゞけで、心には留めなかつたが、おたまは心が平らかでなかつた。

 おたまの長女のお辰は、およねと同い年の二十歳であつた。奉公には出さないで、小學卒業後には、縫物の稽古をさせながら、家事を手傳はせてゐた。夏場だけは、親戚の經營してゐる海水茶屋へ手傳ひにやつてゐたが、娘を自分の傍から離して、他家へ住はせることは、夫妻ともに好まなかつた。縁組の時期が來ても、長女だけは遠方へはやらないで、手近な所へ嫁がせたいと思つてゐた。それで、お屋敷奉公の口があつても、今まで話に乘らなかつたのだが、今度お辰と同年で、幼い時分には一番に仲のいゝ遊び友達であつたおよねが、東京で玉の輿に乘りかけてゐるといふ噂を耳に入れてからは、いろ〳〵な迷ひが起つて、頭の中が掻亂されだした。

 四五日のうちには、およねの出世の經路が、何處からともなく洩れて、町内に流布するやうになつたが、それは、惡いことにおまけがつくやうに、いゝことにも尾鰭がついて、噂を聞かされる誰れでもが、涎を垂らして羨ましがるほどに、いいことづくめであつた。……先方の息子は、名の聞えた太物問屋の次男坊で、結婚と同時に、別に世帶を有つことになつてゐるし、嫁入仕度の一切の費用は惜し氣もなく出すことになつてゐた。「明日にも千圓といふ大金が貰へるんださうだ。」「太物問屋だから衣服の目利はいゝにちがひない。何處の華族樣にも負けないやうな素晴しい衣裳を拵へて貰へる。」「三越か松屋か。」「話は極つたさうだから近くに打ち合せに此方へ歸つて來るんださうだ。」なんて云ふ噂は、井戸端でゞも、店先でゞも、濱邊の曳網仕事の間ま〳〵にも、彼方此方の人々の口から出てゐた。

 さういふ噂を聞くたびに、おたまの神經はビク〴〵と動いた。不斷夢なんか見たことはなかつたのに、この頃は突飛な夢に襲れるやうになつた。娘のお辰が金絲銀絲で縫ひ取りされたピカ〳〵する衣服を着てゐる夢を見たり、およねが襤褸に纏はれて松原で行き倒れになつてゐる夢を見たりした。

「お前は、東京へ御奉公に出る氣にはならないかよ。」と、ある晩、たまらなくなつて、食事の折にお辰に向つて云ふと、

「お屋敷の御奉公なんかいやなこんだ。學校へなら行つてもいいけれど。……お母ちやんは、人に勸められても、お前は女中奉公なんかするでないと、よく云つてたぢやないか。もう忘れたのかい。」と、お辰は平氣で答へた。

 さう云はれると、おたまは返す言葉がなかつたが、お辰がおよねの出世をさほど羨ましく思つてゐないが齒痒くなつた。

「東京へ行つたつて、みんながみんないゝ目が出るとは限らないさ。おれつちはおれつち相應な生活を立てるがいゝだ。高望みをすると、得て間違ひがあるもんだ。」

 女房よりも引込み思案な、亭主の定吉が平氣で言葉を插んだ。

「わたしだつて東京へ行きたくないことはないよ。だけど、奉公はいやさ。學校へなら行きたくつてしやうがないんだけれど……。」

「學校へ?」おたまは目を丸くして「お前は學校へ行つて何を習はうといふんだい。」

「それは習ひたいことはいくらでもあるさ。英語も習ひたいし、ピアノのお稽古もしたいし。……」

 お辰は、夢でも見るやうに、望ましい稽古事の數々を思出してゐた。

「呆れて物が云へないや。」おたまは苦笑して「お前にはピアノのお稽古がさぞよく似合ふこつたらうよ。」

 姑や定吉は座興のやうに聞き流して笑つてゐたが、おたまは、思ひがけない娘の大望を、一概に頭ごなしに叱り飛ばす氣にもなれなかつた。

「わたしが東京の學校へ上りたいと云つたつて、どうせ行かせて貰へる氣遣ひはないんだから默つてゐたのだけど、わたしにだつて、ピアノくらゐ習つて出來ないことないわ。」お辰は自信をもつてゐるやうに云つた。

 おたまは、お辰のさう云つた自信の言葉を聞くと、自分の娘は、容色こそおよねに劣つてゐるにしても、智惠は優るとも劣つてやしないのだから、東京へ出して稽古事をさせたなら、立派に藝を身に具へることが出來るだらうのにと思はれて、ふと、お辰を不憫に思つた。

 しかし、不憫に思ふだけで、そんな柄にないことの實行されよう筈はなかつた。お辰だつて、ふとした機會でそんなことを口に出したゞけで、修學の希望を果したい熱心があつたのではなかつた。話はそれつきりで濟んだ。

 暇のない家事に追はれて、いつとなしに日は過ぎてゐたが、十一月の月も末になつたある日、およねは、結婚の準備のために親里へ歸つて來た。華美な衣裳が近所の人々を驚かしたばかりでなく、人が違つたやうに容貌が優れて位がついたために、見る人々は氣壓けおされた。蔭口を利く力もなくなつた。

 およねは、近所の知人に土産物を配つたが、おたまの家へも、盛裝して現れて、紅白の水引のかゝつた美事な箱を差し出して、愛嬌を振りまいた。

 おたまは、反抗する氣力もなく、恭しく挨拶して、心からお祝ひの言葉を述べた。お辰もニコ〳〵して挨拶した。

「これから東京へいらつしやつたら、お寄んなさいましね。」と、およねが、お愛想を云ふと、

「えゝ。」と、お辰は謹ましやかに云つたゞけで、幼馴染みのおよねに對しても、最早打ち解けた無駄口は利けなかつた。

 それから、おたまは例の如くせつせと働いて、お辰は例の如く母親の手傳ひをしてせつせと働いた。……東京行の空望みは、彼女等の心をさして動かさなくなつた。

底本:「正宗白鳥全集第十二卷」福武書店

   1985(昭和60)年730日発行

底本の親本:「女性 第十二巻第六号」プラトン社

   1927(昭和2)年121日発行

初出:「女性 第十二巻第六号」プラトン社

   1927(昭和2)年121日発行

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:山村信一郎

2013年72日作成

2013年1016日修正

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