奇怪な客
正宗白鳥
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こんな珍しい話がありますよ。
あるホテルであつたことですがね。ある晩、そのホテルの帳場へ、築地の吉田といふ待合から電話が掛つて、「今夜わたしとこのお客がそちらへ行くから、泊めてくれないか。」といふんです。「何といふ方だ。」ときくと、名前は今いへないといふ返事なので、それぢや困ると、ホテルでは一先づ斷つたのでした。それで、もしも、さういふ變な客が來たら、泊めないことにしようと、ホテルではきめて、夜勤の者にさういひ含めて置いたのです。ところが、かういふ宿屋に勤めてゐる人間のうちにも、薄ボンヤリした者が、一人や二人はあるもので、その晩の夜勤者が、不注意にも、その問題のお客を泊めることになつたのです。帽子を深々とかぶつて、顏ぢゆうをマスクで蔽うた、一目で變な人間と思はれるお客が、やす〳〵と關所を通り拔けて、上等の客室へ收りました。
ところが、その客は、部屋へ入ると、それつきり誰にも顏を見せない。部屋にゐる間は錠をおろしてボーイを内へ入れないし、外へ出る時には、朝早くか、夜遲くか、人目の薄い時を見て、例の帽子とマスクで顏を隱して、弓を離れた矢のやうに、サツと飛び出すのです。ある時、どうしたはずみか戸が少し開いてゐたのでボーイがこの時こそと、中へ入つて行くと、寢床にゐたお客は慌てゝ毛布を頭からかぶつて動かない。さういふ譯で、部屋附きのボーイも、一度も客の顏を見ることが出來ないし、無論訪問者は一人もない。
時としては、二日も部屋に籠つて、一歩も外へ出る樣子がないので、ボーイが氣遣つて、たび〳〵ノツクするんですが、全然答へがない。それで、食事は、ホテルの食物は一度も食べないから、何を食べてるのかと、不在中に部屋をよくさぐつて見ると、チヨコレートの屑と蜜柑の皮とが散らばつてゐる。それから、不思議なのは、チヨツキや肌着なんかゞ、一二度着たばかりの新しいのが、毎日のやうに屑籠へ突込まれてゐる。
どうもあたりまへの人間ぢやなさゝうだ。精神病者かも知れない。……もしも自殺でもされちや大變だから、早く出て行つて貰はう。それには最初この客を入れた夜勤者に責任があるんだから、責任者に斷らせることにしようといふことになつて、その男も、いやとはいへなくつて、おつかなびつくりで部屋へ出掛けて、合鍵で開けて入ることは入つたが、さうすると、お客は、飛鳥の如く部屋を飛び出して、どこかへ行つちまふんです。……それで、一度不在中に、部屋の中からロツクして、開かないやうにして置くと、お客は夜遲く歸つて來て、戸口で、「開けて下さい開けて下さい。」と嘆願するんです。
どうも始末におへない。しかし、打遣つとく譯には行かないので、前納されてゐる宿料が一週間で盡きた時分に、ホテルのある勇敢なる事務員が、強制的追ひ立てを試みるつもりで出掛けて行きました。
やはり合鍵で開けて入つて見ると、客は、部屋の中でゞも、例の通りに、マスクと帽子とで顏を隱してゐて、事務員が挨拶しても、蔽ひものを取り除けようとしません。「一週間の期間が過ぎましたから、どうかお立ち退き下さい。」といふと、
「いや、もつと泊めて頂きます。改めて宿料を收めにまゐりましても取つて下さらないので當惑してをります。わたし、いくらでも前金でお拂ひするつもりで、お金はもつてゐるのですから。」とお客はいつて、ポケツトから百圓札を二枚も出して、「どうかこれで取つて下さい。」
「いや、お泊めする譯にはまゐりません。」
「どうしてゞす?」
「だつて、あなたは、わたしがかうしてお訪ねしてゐるのに、顏をかくしていらつしやるぢやありませんか。みんながあなたに對して不安を感じてゐるんですから、お泊めする譯にまゐりません。」
「さうおつしやらないで泊めて下さいな。」
「いゝえ、いけません。」
お客は椅子に腰を掛けたまゝ默つてるんです。十分廿分と時が過ぎても默つてゐる。事務員の方では不安に襲れだしたが、勇氣を鼓して、言葉に力を入れて、立ちのきを迫つたのですが、さうすると、お客は、手をポケツトへ入れて、何か搜つてゐる。「ハヽア、ピストルでも出すのかな。」と、事務員が警戒してると、お客は、黒い丸い曲物を出して、その蓋を開けて、何かを掴んでヒヨイと口へ入れました。どうも飴のやうなものらしいんです。そして、口をもぐ〳〵させながら、覆面のいひ譯をするんです。
「わたしは顏が長くつて見つともないから、いつも帽子を深くかぶつて、人樣にお會ひする時でも脱がないことにしてゐます。それから、わたしの口は臭くつていけませんから、いつもマスクを掛けることにしてゐるんです。」
「さうですか。……そして、このホテルにお泊りになるのは、何か御事情がおありになるんですか。」
「いや、わたしは、ホテルが好きなんです、誰にも煩はされないでホテルに一人で泊つてゐたいんですの。……洋食は嫌ひですから、夜おそく築地の吉田へ行つて、日本料理を食べさせて貰ふことにしてをります。……わたしは、泊めてさへ頂ければ、どの點からもホテルへ御迷惑はかけません。わたしの身分をお疑ひになるのなら、今直ぐにでもわたしの宅へ電話をかけますから、そこで聞いて下さい。」
お客はさういつて、卓上電話で、小石川の自分の家の者を呼び出しました。「おたけかい。」といつて、その女中らしい相手と話をして、出入の車宿から車を一臺寄越すやうにといひつけたりしました。
車は間もなくやつて來ましたが、その車夫にきくと、眞夜中の二時か三時の時分にも、御用を仰せつけられるのが、不斷のことになつてるんださうです。
「面白い話ですね。」
私は、ある人の話を聞き終つてからいつた。
「ボーイの説によると、そのお客は、どうも婦人らしいんですよ。」
「もしさうだつたら、ますます面白いですね。」
「谷崎さんの小説の材料になりさうな話ぢやありませんか。」
「全くさうです。あの人の筆にかゝつたら、男裝した怪婦人が活躍するでせう。」
私は、この説話者に別れたあとで、谷崎氏の小説中のいろ〳〵な人物を連想したりしてゐたが、次第に、さつきの話の主人公がさほど怪奇な人物であるやうには思はれなくなつた。
成程、そのお客は婦人なのだらう。洋食の嫌ひなこと、時々は蜜柑と甘い物で餓ゑを凌いでゐること、自己の馬面惡臭を氣にしてゐることなどにでも、婦人らしいところがある。
しかし、男裝してゐるのは、婦人として、ホテルに一人で泊るのが危まれたためなのではあるまいか。そして、金持らしいこの婦人が、世間を避けて、ホテルの一室で、氣儘に寢たり起きたりして暮したいといふ氣持には、私は同感こそすれ、それを奇妙不思議な心理とは思はれないのである。何かの事情で、一時家庭を離れて、さういふホテルの孤獨生活を樂んでゐるのであらうが、婦人のことだから、半年も一年もといふやうに、長い間さういふ生活を續けることは出來ないに違ひない。
私は、今日、英國近刊のある怪奇小説集の一篇を讀んだ。その荒筋を極めて簡單に述べると──。
ある貧しい少年が、饑ゑを感じながら街上を歩いてゐると、ある怪しげな中老男子が側へ來て、食物と金錢とを與へる約束をして、少年を自分の家へ連れて行つた。そして、穴倉のやうな陰氣なところへ導いた。……しかし、約束通りに、否、それ以上に、金貨や寳石を堆く積み上げて、少年の取るに任せた。いろ〳〵な珍味佳肴をも卓上に運んで、少年に饗應しようとした。しかし、それには相客がいる。自分の女房を連れて來ると、怪男子はいつて、間もなく他の部屋から一個の人間を運んで來たが、それは女の木乃伊であつた。……怪男子の凄味を以つた述懷によると、彼は全心を擧げて妻を愛してゐたのであつたが、妻が姙娠して、産氣づいた時に、それが非常の難産であつたので、轉々と苦悶をしだした。苦悶のあまりに思はず口に出した言葉は、夫以外のある男の名前であつた。彼女はその男の種を宿したのだといつて、今生の最期に一目その男に會ひたいと口走つた。……夫は愛と憎みにさいなまれて、妻の死後もその死骸を保存して、復讐を試みることにした。街上へ出ては、若い男を誘つて來て、死骸の妻と會食させながら、「おのれ姦夫。」といつたやうに、その若い男に飛び付いて殺戮するのを例とした。さうして、すでに數十人の少年を同じ方法で殺してゐた。ところが、今度の少年は、膂力が非凡に傑れてゐたためにやうやく、この怪男子に打ち勝つて、錠の下りてゐる戸を排して戸外に逃げ出した。怪男子は半死半生の身を引きずりながら、少年の後をどこまでもと追ひ掛けたが、つひに力盡きて路傍に倒れた。──
私は、いろ〳〵な凄い道具立をつくつて敍述されてゐるこの怪奇小説を讀んでも、さして奇怪な感じには打たれなかつた。世の男女が異性に對する執念は、日常、自分の周圍に飽きるほど見聞してゐるところなので、さして珍しくはないのである。怪奇小説も、内容は怪奇でないと同樣に、日常の生活も、見やうによつては、怪奇不可思議に思はれないこともない。
私は、五十年間生きて來た間に、人間生活のさま〴〵を見て來た。そのさま〴〵は見馴れた目には平凡に映つてゐるが、新しい目で見直すと、どれも怪奇に思はれないことはない。將來私が生に別れて死の境に入る刹那には、どういふ怪奇な現象を見るか分らないが、私の記憶に殘つてゐるこの世における最初の事件はかうである。……私は先づそれを見て、人生に入つたやうなものである。
私が三四歳の頃であつた──私は祖母の溺愛のなかに育つたのであつたが、祖父は、老いて實子のないのを口實にして、かねて養子としてゐた私の父に祖母を託して、自分は別居して、その新宅に若い女を入れてゐたのであつた。自然本宅と別宅とは反目して、往來を絶つてゐたのであつたが、ある日、子守に背負はれてゐた私は、その別宅へ招かれて、何か甘いものを食べさゝれたらしかつた。それは私の記憶に留まつてゐないのだが、家へ歸つてから、祖母の激怒を買つて、雨戸の外へ出されたことは、よく覺えてゐる。私は聲の限りに泣き叫んだ。……私の最初の記憶はそれなのだが、年を取るにつれて、その事件の内容が次第に分つて來たのである。
それから、も一つの事件は、私の近所の漁夫の家庭に起つたことで、その漁夫の顏は、五十年後の今日でも、私の心にまざ〳〵と殘つてゐる。目の爛れた口の曲つた、醜怪な人相をしてゐたその漁夫は、下駄を振り上げて、妻や娘を追ひ廻して毆打してゐた。妻や娘は顏面に鮮血を滴らせながら壁にもたれて泣き叫んでゐた。當時四五歳であつた私は、その光景を一瞥して、極度の恐怖に襲れ、その漁夫を鬼のやうに思つたのであつたが、後年誰に聞いたともなく聞いたところによつて判斷すると、彼は、顏に似合ない好人物であつた。それをまたいゝことにして、彼の不在中に、淫奔な妻や娘が、おつぴらに情夫を家に引き入れてゐたのださうだ。
この二つの事件は、私の幼な心に最もつよく印象された。私は先づこの二つの事件に會つて、それから人生の門へ入つたやうに思はれる。……爾來五十年、人生のこと、右を見ても左を見ても、怪奇と思つて見れば、さう思はれるものばかりだ。
底本:「正宗白鳥全集第十二卷」福武書店
1985(昭和60)年7月30日発行
底本の親本:「サンデー毎日 第七年第二十七号」毎日新聞社
1928(昭和3)年6月15日
初出:「サンデー毎日 第七年第二十七号」毎日新聞社
1928(昭和3)年6月15日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:山村信一郎
2013年7月2日作成
2013年10月16日修正
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