避病院
正宗白鳥



 町村の自治制が敷かれてから間もないころであつた。私の父は選ばれて村長になつた。父の性質としてかういふうるさい役務は好まなかつたのであるが、人物に乏しい僻村へきそんでは他に適當な候補者が見つからないので、據所よんどころなく選ばれ據所なく承諾したのらしかつた。

 名譽職だといふので、しるしだけの俸給に甘んじて、終日出勤して、五つのあざなの合した廣い村の面倒な事務を執つてゐた。父の一身が忙しくなつたのみならず、私の家庭に用事が多くなつて、祖母や母も困つてゐた。父の歸宅が遲くなることもあるし、屡々しばしば人を招いて酒食をきやうすることもあつた。

 自由黨の壯士が私の村にまで來て演説會を開いた時、演説といふものはどんなものかといふ好寄心から、私は戸の外で立ち聞きしたのであつたが、その題目は郡長攻撃の次に村長攻撃であつた。近村に傳染病があるから、この秋の祭禮には神輿みこしを出して騷いだりすることを禁ずるといふ父の方針が口汚なく攻撃されてゐた。若い漁夫れふしどもは鼻を鳴らしてうれしさうにその演説を聞いてゐた。「もつとも〳〵。」「よう〳〵出來ました。」などゝめてゐるものもあつた。

 私は驅けて歸つて、演説の筋を話したが、父は微笑しただけで何にも云はなかつた。

ぜにを出してそんな演説をして貰ふてもあかんこつちや。」と、祖母は村の者の愚かなことをぶつ〳〵云つてゐた。


 神輿のない祭禮は淋しかつた。あざなによつて組をつくつてゐる若い衆連が、互ひに他に劣らぬやうに寄附金を集めて、神輿を飾つて練り廻るのは、盆の踊りにもまさつて、年中行事の第一の賑ひになつてゐたので、これを差し留められるのは、彼等が縮緬ちりめん犢鼻褌ふんどしなど買つて、久し振りに沖から歸つて來る時の樂みを奪はれるやうなものであつた。

 が、その代りに飮み食ひや賭博はいつもよりも盛んであつた。西瓜すいくわを食ふな眞桑瓜まくはうりを食ふな、あるひは章魚たこが惡い生水なまみづが危險だとかいふやうな訓示が懸廳から村役場や警察の手を經て村々へ傳へられるのを、漁夫どもはいはれのない囈言たはごととして聞き流してゐた。先祖代々食つて來た物が腹に惡い譯はないといふ量見だつたが、賭博についても同じやうな考へをもつてゐた。先祖代々やつて來て漁夫の生活くらしには缺くべからざる娯樂になつてゐる遊び事が何故惡いと思つてゐるやうに、廣い村にたつた一人しかゐない巡査の目を免れるくらゐは何でもないことゝして、彼方あつちでも此方こつちでも禁を犯してゐた。村の賭博宿が危くなると舟を沖へ出して惡遊びに耽つた。灣内の小島に新築された避病院をも利用してゐた。

 が、この避病院も何時までも賭博宿にはなつてゐなかつた。隣村に瀰漫びまんしてゐた病毒は、祭禮時まつりどきの暴飮暴食につけ込んで、私の村へも浸染した。そして患者はぼろ舟に乘せられて、海上半里の離れ島へ送られた。

 私は二階の欄干てすりもたれて、この病人船が埠頭場はとばともづなを解いて、油を流したやうな靜かな初秋の海を辷つて行くのを、恐しい思ひを寄せて見たことがあつた。二階からは避病院の小屋の屋根が微かに見えた。小屋の下は崖になつて、そこらには沙魚はぜ釣りの足場として相應ふさはしい岩が四つ五つ並んでゐるので、私は一度釣船に乘せて貰つて島へ渡つた時、その岩から岩を飛び歩いたことがあつた。濁つてゐる村の埠頭場あたりとはちがつて、その岩のまはりには蒼い水がたたへてゐた。出船はその島を廻つて隱れ、入船はその島の角に現れ、夕立はその島の方から雨脚あまあしを急がせ、落日はよくその島を金色こんじきけぶらせた。……が、避病院が建てられてから島は、最早私の目にも繪のやうな感じは與へなくなつた。島の周圍には病毒がうじよ〳〵してあるやうに思はれ出した。

 父は役目として、新たな患者の出來るたびに、醫者や巡査と一緒にその家へ出かけた。眞夜中に提灯を點けて患者を舟へ護送したり、時々は自から避病院へ渡つたりした。病氣除けの石炭酸の臭ひや石灰の臭ひが其處等中にしてゐた。父は案外平氣で役目を勤めてゐたが、私は子供心にも毎日が恐しくてならなかつた。

 病氣を隱蔽する者が多いため、巡査は夜中に村を巡つて村民のかはや通ひに注意し出したので、靴の音がすると、誰れでも便所へ行くのをさへひかへるといふ噂さへ起つた。皆んな寢鎭まつて蟲ののみしてゐる所を、ギシ〳〵靴の皮を鳴らして巡査の歩いてゐるのを、私は夜半の寢醒めに聞き留めて、異状のない家族の寢顏を行燈あんどんの光で見まはしたこともあつた。

「病氣になつたら、島流しぢや。島へ行くのは殺されに行くやうなものぢや。」と、村の者は云つてゐて、患者の親兄弟は村長をうらみ、巡査を憎み醫師をものろつた。


 役場の使ひに叩き起されたことも二度や三度ではなかつた。

 ある夜戸叩く音に私が先づ目をまして、また赤痢があつたのかと氣遣ひながら耳を澄ましてゐると、ふすまのない次のに寢てゐた母が寢床から聲を掛けた。

「私ぢや…島田祐齋です。」と、外では重々しく答へた。

 疲れ切つてゐる父は母に搖り起されても容易に起きなかつた。そして、「むつヶ敷げに理窟をねに來たのぢやらう。用事だけ訊いて成るべく返すやうにせい。」と、寢言のやうに云つて、そのまゝ眠りをつゞけた。

 母は細帶を締めて、枕元の行燈をげて出て行つた。表の掛金を外す音がした。醫師の島田は二三言何か云つてゐたが、やがて太い咳拂せきばらひをして歸つて行つた。

 私は再びに就いたが、表の怪立けたたましい物音に間もなく驚かされた。れるやうに戸が叩かれて女の悲鳴が耳をつんざかんばかりに響いた。母も祖母も飛び起きてあががまちへ出て、

「おさとぢやないか。どないしたと云ふんぢや。」と訊ねた。

「龜藏が宵から急にじゆつながつて仕樣がありませんから、お醫者さんを呼びに來たら、村長の仕打ちが氣に入らんからに行つてやらんと仰有おつしやる。……旦那樣に早う行つて譯を話して貰はにや龜藏の命は助りません。」

「お前は島からどないして戻つたのぢや。」

 附き添ひに行つてゐるおさとが、どうして避病院を拔け出て歸つたのかと母は訊いてゐたが、おさとはそれには答へないで、醫師の無慈悲や父の無慈悲を戸の外で怒鳴り立てた。と、そこへ、聲を聞き付けたのか、巡査がやつて來て、泣き狂ふおさとは追ひ立てられて濱の方へ行つた。

 法規上避病院は設けられてゐても、監視は行き屆かないから、離隔されてゐる者も近くにゐる漁船に乘つてこつそり歸つて來たり、あるひは若い男だと泳いで歸つて來たりするのだつた。

「島田は島へ渡つて行つても、一寸おれ達の言ひ方が氣に觸ると、病人の前で、村長と意見が違ふから、お前を診てやらんと云つたりするんで困つてゐる。」父は母から今の樣子を聞くとさう云つてゐた。

ほかの醫者を頼んだらどうでせう。醫者が不行屆きのために私の家まで怨まれちや災難ぢやから。」

「他の村の醫者を連れて來るとなると、費用が大變ぢや。島田は機嫌を惡うさへせねや錢金ぜにかねで苦情は云はんから、こんな貧乏村の醫者にや持つて來いなんだ。治療は上手じやうずな方ぢやないさうだが、そんなことは大目に見とかにやなるまい。」

 父は島田の醫術の無能なことを例を擧げて話してゐたが、それを聞いてゐた私は、子供心にも不安心でならなかつた。たとへ費用が嵩張かさばつても、すぐれた醫師を招かなければ村の惡疾の消滅する望みがないやうに思はれた。


「村長の女房は行儀作法をわきまへて居らん。わしが訪ねて行つても寢卷に細帶をして出て來たりして。」と、島田がののしつてゐたことを翌日わざ〳〵知らせに來た女があつた。

「さういふ自分の方が行儀を知らんぢやないか。夜中に人の所へ來て、自分勝手なつんけんしたことを云つて、碌に挨拶もせいで行つたのだもの。」母は腹立たしさうに云つた。そして、この後あの醫師の前には決して顏出しをしないと云つてゐた。

 が、しかし、その日島田と父とが舟に乘つて島へ渡つてゐるのを私は二階から見つけた。龜藏の病氣の經過は特に私達の身に關係が深いやうに思はれて、私はその噂には絶えず耳を留めてゐた。龜藏はまだ二十はたち足らずだが、一人立ちで魚商ひをしてゐた。「買はう〳〵。」と間延まのびな聲で呼んでは、漁船の間を漕いで魚を買ひ集めて、買つた魚を籠に入れてをかへ上ると、今度は威勢のいゝ聲で「賣らう賣らう。」と叫びながら村中を驅け廻つてゐた。

 私は日暮れに遊びに出た次手に怖々こはごは龜藏の家の見えるところまで行つて見たが、あたりは繩張りがされて、家は堅くとざされてゐた。ふと氣付くと、裏口の柿の木に近所の子供が上つてゐて、まだよく熟してはゐない柿の實を手切ちぎつて落すのを他の子供が掌で受けてゐた。

「伯母さんに貰ふたんぢやから取つても構はんのぢや。」と、下にゐる子供は私に聞かせるつもりで云つた。

「そんな物を食べると赤痢になるぜ。」と、私は云つた。

「嘘を云ひなさい。」その子は私に當てつけるつもりで皮ごと一つ噛つたが、澁かつたのか顏を歪めて吐き出した。

「それ見い。」私はいゝ氣味だと思つてゐた。

 木の上にゐた子供も下りて來て、取つたのを二人で分けながら、賄賂わいろのつもりか、よくれてゐるのを擇つて、二つ三つ私に呉れた。傳染病が出來てからは、嚴しく食物の注意をされてゐた私は、赤く熟れて甘い汁の多さうな柿の實を手に取ると、口から涎液よだれが垂れてならなかつた。二人の子供が少し澁いくらゐは我慢してむしや〳〵噛つてゐるのを見ると、尚更食慾が刺戟された。で、半ば無氣味な思ひをしながら、齒で皮を剥いて甘い所だけ食べた。二口三口味ふと食慾は次第に募つて、子供から貰つたのだけでは滿足出來なくなつて、自分のうちの山につてゐる柿の實がしきりに目先にちらつき出した。

 祕密喰ないしよぐひのうまさは母にも祖母にも告げなかつたが、柿のために腹がいたむといふことはなかつたので、不斷の戒めをいくらか輕んずる氣になつた。

 飮用水には藪の側の一つの泉を村中で用ひてゐるし、ちよろ〳〵流れの谷川の水で皆んなが洗濯してゐるのだから、病氣ははびこるばかりで、小さい避病院は間もなく滿員となつた。

「かうなつちや經費が溜らん。」と、父はこぼしてゐたが、避病院を島へ建てたことを、祖母などに向つて内々ないないで後悔してゐた。

 病院は暴風に板塀を壞され、大雨が降ると雨洩りがして、障子は破れたまゝで、時候が冷え出すと夜具蒲團さへ不足勝ちだといはれてゐた。附き添ひが行つてゐるだけで、醫師の廻診は日に一度に過ぎないのに、その醫師さへ機嫌が惡いとか波が荒れるとかすると、苦情を云つて出掛けなかつた。でも、最初村民が怖がつてゐたやうに死人はあまり出なかつた。火葬のけむりが島に立つたのは一度か二度に過ぎなかつた。

 なほつて送り返された者で、青い顏をしてゐながらも、病中の苦痛は忘れたやうに、「結句お上に食はして貰つたゞけ得をした。」と云つてゐたものもあつた。


 病氣が消滅したのか、ひそかに放任主義を執ることになつたゝめなのか、避病院といふこの村には開闢かいびやく以來の一種特別な建物は、年の暮れには不用になつた。そして、私の家に出入りしてゐた和助といふ老人夫婦が、自ら望んでそこの留守番になつた。くは肥桶こえをけや僅かな農具をたづさへて渡つて、島のはたけを耕すのだと云つてゐた。村の濱とは違つて、自分のおかずにするくらゐの魚は直ぐ近所の岩で釣れるし、やがて小屋のまはりに柿や梨を植ゑれば樂みにもなるし儲けにもなると云つてゐた。

 私は興味をもつて二階から屡々和助の新宅を眺めた。西風の強い日や雨の降り頻る日にはさぞ淋しくて心細いだらうと思はれた。和助は飯米や日用品を買ひに村へ來た時に、私に島遊びを勸めて、私も心が動いたが、避病院といふ名前が怖さに何時も躊躇してゐた。

はじめうちは蟲けらが多うて氣味が惡かつたけれど、この頃は草を刈つたり燃したりして綺麗になりました。私の家から見る村の眺めはまた格別ぢや。今に雪でも降つて御覽じませ。島の景色は風雅なものでせうぜ。」

 和助は避病院用だつたぼろ舟で往來してゐたが、女房が一人では怖がつてゐるといふので、用事だけ足すとさつさと舟に乘つた。時々は島の濱まで出迎へに下りてゐる女房の姿が微かに見えることもあつた。

 柴草を刈りに行く連中は、和助の家をいゝ休み場にして、お茶をばれて辨當をつかつた。炊事の烟や枯葉を燒く烟が舞ひ上つてゐるのを海を隔てゝ見てゐると、避病院の建たなかつた以前よりも却つて島に風情が添つた。

 舊の正月前には、夫婦して餅をきに來て、次手ついでに知人の家を廻つて私の家へ一晩泊つて歸つた。私は異郷の話でも聞くやうに島の樣子を面白く聞いた。風當りの強いこと、闇の夜には外へ出られない代り月の夜の美しいこと、寺の鐘が風次第でよく聞えることや村の燈火が見えること。

「御當家のお二階の燈火あかりはよく目につきます。」と、和助はそれをさも懷しさうに云つた。

「今度の夏にまた傳染病が出來たらお前達はどうするんぢや。此方へ戻つて來んかい。」

「その間にや一軒小綺麗な家を建てませうわい。向ひ側の洞穴の所を生洲いけすにしていろんな魚を飼つといたら商賣にもなるし、面白いだらうと思ひますぜ。」

「菓物や花も一面に植ゑときやえゝぜ。」私はさうなつた時の美しい島を心に描いてゐた。


 舊暦の正月の三ヶ日がすんで間もない頃だつた。

 島火事だと叫び廻つた近所の者の聲に驚かされて、私は慌てゝ二階の雨戸を開けた。北風にあふられて避病院のあたりはすさまじい焔が燃え上つてゐた。……次から次へ觸れ廻つて村中の者は皆濱の方へ飛び出して若い者達は爭つて漁船に乘つて島の方へ漕いだ。私の父も身仕度して出掛けた。

 私は島の全燒を覺悟して、和助の身の上を氣遣ひながら何時までも見詰めてゐたが、火消しに出掛けた舶が向うへ着くまでには、火焔は餘程衰へた。夜が明けてからよく見ると、避病院の建物は最早目に映らなくなつた。濱邊には船が群がつて、木の間〳〵には人影がちらついてゐた。

 火事場の光景は早くも村中へ傳はつて、和助の女房が大怪我をしたとか、炬燵こたつの火から火事が出たとか云はれてゐたが、近村の若い漁夫どもがそこへ集つて賭博を打つてゐる中大喧嘩を初めて、その揚句にこんなことになつたのだといふ噂が一番眞實まことしやかに傳へられた。

「和助も島で畝作りくらゐして生活くらしの立つ譯はない。初手から賭博宿にでもする量見であつたのかも知れん。」と、祖母はその噂を信じて云つた。

底本:「正宗白鳥全集第六卷」福武書店

   1984(昭和59)年130日発行

底本の親本:「早稲田文学 第百三十一号」早稲田文学社

   1916(大正5)年101日発行

初出:「早稲田文学 第百三十一号」早稲田文学社

   1916(大正5)年101日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:山村信一郎

2014年1013日作成

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