假面
正宗白鳥
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五月も末になつてゐるのに、火鉢の欲しいほどの時候外れの寒さで、雨さへ終日降りつゞいた。
午過ぎから夜具を被つて横になつて、心を落着けようと努めてゐた馬越は、默してぢつとしてゐればゐるほど、頭の中の狂暴に堪へられなくなつた。其處等にある家具を片端から打壞すか、誰れかを打つか蹴るかしたなら、いくらか頭が輕くなりはしないかと思はれた。右へ轉んだり左へ寢返つたりしてゐたが、少しも睡りは催されなくつて、電燈の點くころになつた。
電球がぱつと赤くなると同時に、彼れは跳ね起きて、帽子も冠らずに、二階を下りて外へ出たが、心の荒れてゐるのとは打つて變つて、階子段を踏む足音も、障子や格子戸を開ける音も穩やかだつた。周圍を憚つてゐるやうに擧動が靜かだつた。が、傘に重たげに肩を掛けて行く先の定めなく其邊を歩き出した彼れは、電車や自動車の行き交ふ大通へ足を入れるのが自分ながら危險に思はれるくらゐに頭が亂れてゐる。ある新聞の取次店の前には、傘や蝙輻傘が押し合つて、角力の勝負札を見てゐた。さま〴〵な批評も人々の口から出てゐた。
馬越もふと足を留めて、傘と傘との間から今日の勝負を見て、二つ三つ番狂はせと思はれるものを心に留めてから通り過ぎた。世間の事を考へるどころではない彼れも、嘗て見たことのある力士の顏形や、國技館の土俵の光景を念頭に浮べた。度外れに大きな體格をしてゐる力士を空想してゐると、彼等は肉體の力ばかりで確實に生きてゐるやうに見えて、馬越自身などは靈魂ばかりでふは〳〵と生きてゐるやうに思はれた。しかも彼れの靈魂は汚く黝ずんでゐて、艷も光もなかつた。
青々と繁つた並木の葉末には、電燈の光が雨にきら〳〵してゐる。冷たい風が傘の上にぱら〳〵と雫を落した。それ等の音も光も色も彼れは間違ひなく見聞きし得られる五官を具へてゐながら、自分の知りたいことの些とも分らないのが齒痒かつた。……死後の世界を知らうとか宇宙の外を知りたいとかいふやうな大それた願ひを、この頃の彼れは抱いてゐるのではないが、只目の前に起つてゐる事の眞の姿を明ら樣に知りたかつた。
で、彼れは自分の家へ歸りかけた足を轉じて、浮つかり電車に乘つた。妹に會つたつて何の甲斐もないとは思ひながら、妹の嫁いでゐる櫻田町の北川の家へ向つた。電車の内でも角力の噂がされてゐたが、電車を下りてからも、彼方此方の店先で、誰れが負けたの勝つたのと、興ありげに語られてゐた。
妹のおすぎは夕餐の支度に取り掛つてゐたが、何時の間にか茶の間の入口に突立つてゐる兄の顏が目につくと吃驚した。
「默つて入つて來るんですもの……。」と、やがて、自分の吃驚した言ひ譯して、「何處か加減が惡いの?」と、兄の目顏の普通でないのを氣遣つた。
「どうもしないさ。僕は散歩した次手に一寸寄つたのだよ。まだ夕餐は食べないけどお腹は空かないから何も御馳走しなくつてもいゝよ。」と、馬越はわざと氣輕に云つて笑ひを見せて、壁に凭れて兩脚を投げ出した。
「誰れも御馳走しようなんて云やしませんよ。家では今日歸りが遲いんださうですから、お座敷の方で煙草でも吸つて待つてらつしやい。皆んな一緒に御飯を頂きませう。」
「僕はさう愚圖々々してはゐられない。北川に會ひに來たのぢやないしね。」
「ぢや、私に會ひたくつて、雨の中をわざ〳〵來て呉れたのですか。珍しいわね。女と話したつて詰まらないなんてよく云つてた癖に。」
妹は悦しさうに云つて、臺所のことは下女にまかせて置いて、火鉢の側に坐つて、身内の噂をし出した。顏立ちは似てゐるとは云へ、兄の弱々しさうなのとは異つて、妹は丸々と肥つて、色艷もよかつた。
「お前に話したつて仕方がないが、おれは二三日怨靈に襲はれてゐるよ。獨りでその事を考へてると根が盡きてしまふよ。……かうしちやゐられないと思ふ。」
馬越は煙草一本吸ふ間もなく座を立たうとしたが、妹は怪訝な顏して、引き留めて、「兄さんはどうかしてるわね。心配事でもあるんならはつきり云つて御覽なさいな。」
「さう輕率に云へるこつちやない。……お前なぞは明日の日も恐れずに遊び事見たいなことばかりして暮してゐるけれど、今に頭を金槌でどづかれるやうな目に會はされるぞ。」
「どづいてやらうか。」妹は雄々しい聲で口眞似して、子供の時分よく兄達の口から出たこの田舍言葉を懷しく思ひ出しながら、「何も罪のないのに金槌なんかでどづかれちや溜らないわ。」
「さう云つて笑つてられる間が仕合せさ。」
「兄さんは何時も自分一人が苦勞してるやうなこと云つてるから可笑しいわ。私にだつて云ふに云はれない苦勞があつてよ。だけど毎日泣いたり悔んだりしてたつてはじまらないから、無理にでも面白さうにしてるんだわ。……兄さんには美術家としての苦勞があるんでせうけれど、世間の俗人には分らない藝術上の煩悶があればこそ、製作に價値が増すんぢやありませんか。」
「おれなんぞの繪が藝術も糞もあつたものか。」
馬越は投げ付けるやうにさう云つて、わざと自分を貶した。妹が一かどの鑑賞家のつもりで、兄の繪について批評めいた口を利いたり、流行の藝術的用語など使つて生意氣な議論を喋々するのを、齒の軋むほど平生厭がつてゐたのだつた。
「おれは平生だつて、自分の繪のことは些とも考へてやしない。お前はおれが屈託してゐるのを見ると、藝術の夢でも見てるやうに思つてるだらうが、そりやおれを買ひ被つてるんだぜ。」
「そんなに謙遜しなくつてもいゝわ。兄さんの繪が評判になれば私達まで肩身が廣くなるのだから、心細いことなぞ云はないで確かりして下さいな。今度の日曜ごろには新しい作品を拜見に行かうと思つてるのよ。」
「拜見に來たつて、おれはこの頃何も書いてやしないよ。部屋の中は空つぽだ。空つぽの部屋の中を、おれは布團を被つてごろ〴〵轉げ廻つてるんだ」
「氣樂だわね。私も一日でもさうして氣儘にごろ〴〵してゐたいと思つてゝよ。この頃は正午過ぎになると、睡くつて〳〵仕樣がないんですもの。でも、主人がお勤めに行つてる留守に、まさか居睡りなんかしちやゐられないわね。そこは兄さんは得だわね。寢たい時には寢て、起きたい時には起きて、北川のやうな機械的に時間に縛られて齷齪しなくつてもいゝのだから。……藝術家の不規則な生活を責めるのは沒分曉漢よ。私始終さう思つてゐるの。」
これは藝術などに些しも趣味のない兄嫁に當てつけたのだとは、馬越も直ぐに感じた。が、彼れは今の場合さういふ趣味の缺乏について妻を非難する氣が更になかつたのみか、むしろさういふ氣取つた趣味を妻が持つてゐないのをいゝ事だと思つてゐた。妹にしろ妻にしろ、自分を世間に出しては取り柄のない人間と見做して、さう見做した上で、身内のよしみで、永への愛情を寄せて呉れることを望んでゐた。自分の繪などに三文の價値も置かれなくつてもいゝから、業病で鼻が缺けて身體中から膿が出るやうになつても、愛想を盡かさぬほどの親しみを求めてゐた。
「おれがごろ〴〵寢ころんでる間に何を考へてるかお前にや分るまい。」
「私が毎日家の中でまご〳〵してゐる間に何を考へてるかも兄さんにや分らないでせう。お互ひさまだわ。兄さんの心の活動が分らないつたつて私の無智の證據にはならなくつてよ。女は女で、いくらえらい男でも持つてゐない智惠を持つてるのよ。だから、見下げるものぢやないわ。」
妹の快活な言葉を聞けば聞くほど、馬越は二人の心と心との隔りを感じながら、「おれには見上げるものも見下げるものもありやしないよ。今日もおれは自分のこのやくざな頭を打壞したいと思つてた。」
「何で急にさう失望することが出來たの? 私にまで憚つて隱す必要はないでせう。」妹は氣遣はしげに訊いたが、顏では戲談見たいに笑ひを浮べてゐた。
「おれは泥棒した譯ぢやないし、反抗を企んでるのでもないから、お前達に隱さうと思つてやしないが。……」
「ぢや、早く仰有いな。」
「好奇心がお前の目の中に現れてる間は、おれは口へ出すことは出來ない。」
「ぢや、かう?」
妹は嚴つく口を噤んで黒瞳を相手の顏へ据ゑたが、すると、馬越はそのわざとらしい浮薄な態度にむかつとして、急に起ち上つて玄關の方へ出た。
「兄さん怒つたんですか。」
呆氣に取られて見送つて出た妹に返事もしないで馬越は外へ出た。
「おすぎの奴、おれが狂人にでもなつたかと思つてやがるだらう。そして、あまり藝術に苦心するために腦が疲れたのだなんて思つてやがるだらう。」と、暫らくして、先つき妹に對して無用な口を利いたり焦々した素振を見せたりしたことを後悔した。
妻にも妹にも母にも云はれないやうなことが、明ら樣に打ち明けたら笑はれるか卑しまれるかしさうなことが、馬越を責め苛んでゐたのだつた。田舍の病院に勤めてゐた内海といふ再從兄弟くらゐの縁に當る醫師が、今年になつて上京して、ある先輩の經營してゐる病院に奉職してから、馬越の不安はます〳〵激しくなつたのであつた。
馬越の目に映つた内海は筋肉が逞しくて、しかも顏にも姿にも人を親しませるやうな柔し味を有つてゐた。技術が傑れてゐて自信もそれに伴つてゐるやうに思はれた。で、昔馴染みのこの男に會ふたびに、馬越は幼い頃を顧みて、二人の別れて來た道を辿つた。一時は同じ學校にゐてお互ひの氣質や學才は云ふまでもなく、身體の何處に黒子があるか痣があるかといふことまで知り合つてゐたのだが、此方では父兄の保護で微弱な生涯を續けてゐた間に、先方では學資の不足に惱みながらも、望み通りの學問をやり通して來たのだつた。
昔下らない事を云ひ合つてゐたこの友人の頭の中に豪い魂が動いてゐるとは信じられないが、この世の中ではかういふ男が得意な生活をするといふことは疑はれなかつた。この男の前に立つと、馬越は自分がどの點からも、太陽の光つてゐるこの世の生存に適しないほどに劣つてゐる有樣が反射されるやうだつた。……それだけならまだいゝ。が、内海が舊友として、親類の端として、無遠慮に家庭に立ち入つて來るのが恐しかつた。
「君は半歳ばかり海岸へでも轉地して、御馳走を食つて汐風を吸つて、十分に靜養して來なくつちや駄目だぜ。……そして半歳か一年は全く女色を絶つんだね。」と、先日馬越の身體を細かに診察した後で内海は眞面目に忠告した。
女色を絶つと云つて、馬越には色を漁つた經驗など殆んどなかつた。
「妻君は連れて行かないで一人でゆつくり靜養して來るさ。」と、内海は笑ひ〳〵云つた。
「僕はその點では潔白なものさ。」と、馬越はその慾望には殆んど無關心であると眞しやかに日ごろの事を説いた。
「君の潔白なのは昔からだが、三十になるやならずで、去勢した動物のやうぢや心細いぜ。」
内海は相手の身體には人間の生命の波が極めて稀薄に打つてゐるやうに云つたが、さう云つたのには侮蔑の意味は含んでゐなかつた。むしろ、昔ながら温順しくつて控へ目で精神的な友人の好意と同情を持つてゐたのであつた。
「精神的」といふ形容詞を名前の上に冠されるのを、嘗ては喜んでゐた馬越も、今はそんな文字を甘くも酸つぱくも感じられなくなつてゐた。古くから評判の聖人や傑人の智慧だつて高が知れてゐるかも知れないが、他人は他人として、馬越は自分の微弱な精神の働きに人らしい誇りは持つてゐなかつた。たゞ、知人に捨てられるのが恐しさに、世間並に流行々々の進んだらしい思想に跋を合せたり、身内の者に對しては有り來りの人の道を守つてゐるばかりであつた。そして、内々、「この味氣ない世の中に住み終つて後では、光明淨土へ入る望みはないものか。」と、他人には笑はれさうなことを一圖に念じてゐた。
母でさへ妻でさへ、たまに心の思ひを訴へる馬越の言葉を笑つた。
「まるでお爺さんの云ひさうなことだわね」と、妻には何時も輕く聞き流された。母は笑ひながらも、馬越家の中心であるこの息子が、何一つ道樂らしいことはしないで、無事に世を送つてゐることを喜んでゐた。際立つた出世はしないでも、愚圖ら〳〵してゐても、他所の子達のやうに間違ひをし出かさないのを何よりも仕合せだと思つてゐた。わが子が思はしく稼がないのを歎くよりも、奢り癖のないのが母には悦しかつた。
「逆さま事か知らんけれど、私はお母さんの生きてゐる間に死にたいと思つてゐますよ。あなたの手に縋つてゐなければ、私は死ぬるにも死なれないと思ひます。」と、ある日眞顏で母に云ふと、
「それや私の云ふことだ。私には望みも樂みもないけれど、お前達に介抱されて死ねれば、極樂へ行つたも同樣に結構なことだと思つてる。」
「いくら考へ直しても恐しいものですね。かうして毎日顏を見合つてゐる人間でも、死んだらそれつきりになるのだらうから。」
「それはさうだけれど……。」母は老いてはゐても、まだ目の前に迫つてもゐない死際の苦しみを今から豫め苦しんでかゝるほど餘裕のない人間ではなかつた。
「私は昔からのえらい人が、汽車や電信を發明したり、繪だの芝居だのを發明したりする先に、死んだ後の成り行きを發見しといて呉れたら、どれほど有難いか知れないと思つてゐますよ。私など頭の惡い者には一寸さきの事も分らないけれど、えらい人が大勢で考へたら少しは分りさうなものだが。……またそれが分らんほどなら本當のえらい人ぢやないと思ふ。水の泡のやうな世の中の便利不便利や、僅か生きてる間の遊び事を一生懸命考へるだけの人なら、私はさう崇める氣になれませんよ。」
「惡い事さへしなければ、死んだ後も案じるには及ばないさ。」
「若しお釋迦樣の云はれたやうな未來があつても、殺人者が極樂へ行つて、慈善家が針の山へ追はれたりしたら、皆んなの當てが外れて餘程變なことになるでせうね。そんな筈はないと爭つたつて取り返しはつきませんからね。」
母親など相手にこんな話をするのは不似合ひだが、他には座興にもならぬこんな話に相槌を打つて呉れさうなものはなかつた。妻でさへ取り合つて呉れなかつた。
其處へ、内海が屡々やつて來ては生々した世間話で家の中を賑はした。まだ東京馴れないので、此處の母親や妻君を何かにつけての相談相手にしたり、大人しい馬越を氣焔の受け役にしたりした。
母親や妻君は馬越のためにいゝ友人の出來たのを喜んで、快活な笑ひ聲が二階や客間に響き渡るやうになつたのを喜んだ。そして、客の好みに適つた食物なども拵へて心待ちにするやうになつた。
「内海さんが、あゝ仰有るんだから、思ひ切つて保養にでも行つて來ちやどうだい。兄さんのやうに夭死をしちや大變だから、家の事は心配しなくつてもいゝから、繪を書きながら何時までゞも、身體のよくなるまで養生してお出でな。」と、母親は内海の云ふことにかぶれて、頻りにわが子に轉地療養をすゝめた。
「行きたけりや内海なんぞに云はれないでも、今までに行くんでしたけど、私はさう永く轉地なんかしちやゐられませんよ。これまでたまに四五日も旅行してさへ、痩せて歸るぢやありませんか。私に一人で轉地をしろといふのは、私を世間普通の患者同樣に見てるからなんですよ。」
「ぢや、誰れかお友達の方を誘つたらいゝだらう。」
「それこそ自分の破滅を招きに行くやうなものです。平生友達と話してる間でさへ、どれほど私の壽命が縮まつてるか、お母さんには分らないんですか。私は友達は戀しいけれど、此方で云ふことを腹の中で冷かさないで聞いて呉れるやうな友達は一人もなさゝうですからね。内海だつてさうらしいです。……だから私の友達はお母さんかおつゆぐらゐだと思つてるんですよ。私の獨り言が兎に角聞いて貰へるんだから。」
人のいゝ母親は「それもさうか。」と、何の考へもなく息子の話を受け入れてゐた。が、馬越は友達は扨置き、母にさへ妻にさへ、謙つてゐなければならぬ腑甲斐なさを悲んでゐた。──この二人も知らず識らず自分を内海に比べてゐるらしかつた。まだ世間の波に搖られてゐない、異性に對する批判力のまだ養はれてゐない妻のおつゆでさへ、内海のきび〴〵した男らしさや、面白い話の種に富んでゐることなどに心を惹かされてゐるらしかつた。
「内海はおれ達とは異つて、田舍にゐた間取つた金は右から左へ使つて好きなことをやつて來たのだよ。毎日病人を取り扱つてゐながら、自分は永久に病氣しない人間のやうに思つてゐる。おれが醫者になつたら患者が一人死ぬのを見ても、飯の味が變つて一晩くらゐは眠れないかも知れないね。自分もやがて死ぬることは忘れて、他人の死を自分の力で止めることが出來るやうに考へる醫者の量見が不思議に思はれる。」と、馬越は妻に向つて云つた。
「でもお醫者さんの云ふことは守つた方がよ御座んすよ。内海さんが貴下の身體について仰有ることには成程と思ふことがあるんですもの。貴下には病氣があるんですよ。」
「おれが平生云ふことには成程と思ふことはないのかい。」
「それはあるかも知れないわ。」おつゆには夫の平生の尤もらしい言ひ草はたわいないことのやうに思ひ出された。そして、興もないことをくど〴〵言ひ立てられるのを恐れて、「あんな方の奧さんになる女は隨分氣骨が折れるでせうね。何でもよく知つてらつしやるんだから迂闊なことは出來ますまいよ。」と話を外らさうとした。
「内海を何でも知つてる男とすれば、世間の男は皆んな何でも知つてゐる。お前だつて世の中へ出れば何でも知つた女になれるだらう。一寸銀座や淺草を散歩しても、お前の目の色も顏付も變るくらゐだから。」
「まさかそんなことはないわよ。」
「お前は田舍から出たばかりの内海に智慧をつけられて、世間を面白づくめに見てゐるやうだが、この先いろんな人に觸れるたびにます〳〵家の窓の外へ目がつくやうになるだらう。」
それ以上は口に出さなかつたが、馬越は自分の女房が自分と同じまぼろしを何時までも見てゐないのを手頼りなく思つた。自分だけの眞實を妻などに何時までも強ひてゐられさうでないのが淋しかつた。そして、馬越には自分の身内の一人をも生きながら自分のために殉死させるやうな力はなかつた。
馬越が妹に別れて、袂を濡らして寒氣に震へながら家へ歸つた時には、母は妻とは膳立てして待ちあぐんでゐた。馬越は帽子も被らずに何處へ行つたのかと二人は多少氣遣つてゐた。
「内海さんでもお訪ねしたのかい。」と、母親は馬越の姿を見ると、胸の痞へをおろして云つた。「寢てばかりゐたのに、急に羽織も着ないで出歩いたりしちや身體にさはるだらうに。」
「皆んなしてこの頃は私を病人にしてしまふから。」
馬越は不平らしく云つて、妹を訪問したことは默つてゐた。食事の折には何かと話がはずむので、母親の慈愛のみならず、妻の親しみをも感ずるのはこの食卓のほとりなのだが、今夜はむツつりして手早く食事を終つて、二階へ驅け上つた。晝間引被つてゐた布團は片付けられて、部屋の中は見違へるほどに整頓されてゐた。
馬越は一家の主人として、身内の者に大事にされることを、些細なことまでも感じてゐた。袂の綻び一つ縫つて貰つても、身のまはりの世話を何かとして貰ふのを、身内ならばこそと、をり〳〵心で禮を云つてゐた。そして、それとともに、自分の柄にない仕事に精を出して、少しは名前を賣つて、皆んなを喜ばせたい氣持にたまにはなつた。が、さういふ氣持は力強く實行に移らなくつて、われながら仕事の上に傑れた進歩は見られなかつた。肉體を描いても自然を描いても、實感の伴はないものばかりだつた。大家の評判の筆法を眞似てはとぼ〳〵と繪筆をいぢくつてゐるのが、われながら醜かつた。
孫の生れるのを待ち設けて、お願掛けをしてゐる母親の心根をいぢらしく思ふほど、彼れは自分の肉體の欲望の人並でないのを知つて居た。子供の折からの自分の過去を考へて見ても、肉慾の刺戟の乏しかつたやうにのみ思はれた。西鶴とかあるひはもつと激しい物語の祕密出版などを讀んでも、試みに遊廓などへ足を踏み入れて見ても、血の湧き立つやうな樂みは得られなかつた。結婚するについても、浮世の淋しさを慰められるための同棲者を求めるやうなつもりだつた。縁談の極つた時に、「おれのためには幸福な日かも知れないが、この女のためには不幸な日かも知れない。」と、濟まぬやうな氣がしたのだつた。
「が、不幸な方はおれだつた。」
馬越は綺麗に片付けられた部屋にしよんぼり坐つて、降り頻る雨の音を聞きながらさう思つた。一年あまり、心を盡して情を求めて來た妻のおつゆが自分を遠く離れて行くのも目の前に迫つてゐるやうで、ふは〳〵した彼れの魂は絶えず脅かされてゐた。母の側を離れて自分達二人になつた時には、妻が口を利かうとするたびに彼れはおどおどした。
惡氣を有つてゐなくつても、内海のために、夫としての自分の價値が妻の心に低くされてゐることを馬越は疑はなかつた。
そこへ、階子段を踏む足音がしたが、妻のではなくつて、母親の靜かな足音だつた。仕事の邪魔になるのを憚つて、よく〳〵の用事でもなければ二階へ上つて來ないのにと訝つてゐたが、母親は火鉢を持つて來たのだつた。
「寒いやうだから。」と、火鉢を馬越の前に置いて、自分も手を翳しながら、「おつゆを連れて、一晩寄席へでも芝居へでも遊びに行つてお出でな。家にばかり籠つて勉強してゐちやよくあるまいよ。おつゆも時々は遊びにやらなければ可哀相だから。」
「ぢや、お母さんが何處へでも入らつしやい。私は留守番しますから。」
「私なぞは何を見たつて分りやしないから、お金を使つて遊びに行つても詰まらないよ。自分で芝居を觀るよりも、お前達に後で話を聞かせて貰つた方が面白いくらゐだから。」
「お母さんも金のかゝらない人ですね。」馬越は珍しさうに母親の顏を見詰めて、「私だつて百圓の稼ぎをして、百圓の生活をするよりも、十圓の稼ぎをして十圓の生活をした方がいゝと思つてゐますね。この頃はそれどころぢやない。二杯の飯を一杯に減らしても損得はないやうに思ひます。」と云つて、自分の腑甲斐なさを嘲るやうに笑つた。
「いくら儉約するつたつてまさか御飯まで減らせるものかね。内海さんのお話もあるから、儉約は儉約として、お前の食物には氣をつけてゐるつもりだよ。」
「大政治家とか大學者とかいふ人は蛋白質を何匁とか取らなければ腦が強くならないから、えらい研究は出來ないのださうですが、私の頭は滋養物も役に立ちませんね。私はそれよりもお互ひに骸骨に皮を着たやうになつても、永久に捨てられないやうになつたらと思ひますよ。」
「…………。」母親は無意味に笑つてゐた。そして、一寸樣子を見たゞけで安心して階下へ下りた。
今見た母親の顏は、見る方の頭のせゐでか、殊に老いさらばひて死相を帶びてゐた。馬越はこの骸骨見たいな母親の外には、三十の歳をした自分とは縁のない男女が何百萬百億萬と世界にうよ〳〵してゐることを、無關心で座興見たいには見てゐられなかつた。
「私は歳を取らぬ間に身に藝をつけて置かうと思ひますから、半日だけ學校へやつて下さい。」と、先日おつゆは熱心に云つた。
「何を習ふつもりだい。そして何處の學校へ行かうと思ふのだ。」
「貴下やお母さんが承知して下すつてからでなければ云はれませんわ。貴下からお母さんによくさう云つて下さい。私は我儘で勝手なことをするんぢやないんです。心細くつて仕樣がないやうな氣がこの頃するのですもの。自分の身に一人立ちの出來るだけの藝を持つてゐなければ。」
「一人立ちの出來るやうになりたいのかね。」馬越は驚いたが不思議には思はなかつた。「惡い考へぢやないから、思つた通りのことをやつて御覽な。」
妻の方で豫期したやうな反對が夫の口から出なかつたゝめに、妻は隱れた不滿を洩らして、馬越の痛いところをこづき廻すことが出來なかつた。
打やつて置くと、おつゆは學校行きを實行する氣配は見えなかつた。そして、ふとまた改つた口調で、
「角の麺麭屋は面白いほどよく賣れるわね。千圓も資本があればあのくらゐな店は出せるんですつて。私もあゝいふ商賣を初めて見たいと思ふんですがね。資本は貴下に出して頂かなくつても、私が自分でどうにか工面をつけるつもりなのですから、只商賣を許して頂きさへすればいゝんですよ。」
「お前もいろんな計畫を立てるぢやないか。……もう一年か二年今まで通りにしてゐる譯にも行かないのかね。」
「だつて思ひ立つたことは一日でも早い方がいゝわ。貴下のためにも生活の心配が減つていゝんですよ。」
「おれのためにもなるから商賣か何か初めようと云ふのかい。」
「えゝ。……」
「……おれはこの先困ることがあれば、割長屋の紙屑屋の隣りに住んでもいゝ、殘飯で生命をつないでもいゝ。……」
「いくら零落れても、まさか乞食見たいな暮しはしたかありませんよ。」
妻は一生そんな淺間しい境遇に落ちることは夢にも豫期しないやうに笑つてゐた。が、馬越は自分の身體も靈魂も、人の助力を乞はないでは、一人立ちで生きて行く力のないことを思つて、さながら一種の乞食のやうな氣がした。……そして、この乞食に憐みを投げて呉れる一人の女が、自分に冷笑を見せて離れて行くのが見え透いてゐるやうで、云ひやうのない寂しさを覺えた。
母親が階下へ下りてから、馬越は先日中からの妻の態度や言葉などを穴の明くほど見詰めてゐたが、すると、怒りを含んで物狂はしさの發作を感じた。……が、その怒りは誰れも相手にも出來ないやうな茫漠たる怒りであつた。
やがて睡眠時刻になつて、この部屋へ妻が入つて來て、この頃萌してゐる邪惡な目付を見せるのが今から不穩でならなくなつた。おれが持ち前の話は何の興をも與へぬとすると、相手に媚びるために、内海の事か内海に聞いた話を話さなければならなかつた。
妻の心に根差してゐる事を、遲かれ疾かれ起るべきある光景を思ひ出すと、馬越は女房でも誰れでも斬りきざむか毆り殺したくなつたが、さうなつて行くまでの波瀾に自分が堪へられるやうでなかつた。何事の侮辱を憤る價値も自分にはありさうでなかつた。
ふと、彼れは日々の乞食見たいな生活を免れて一人立ちになるには、こんなやくざな身體を亡ぼすより外仕方がないと思つた。二三日以來の本體の分らぬ物狂はしい思ひは、彼れをして少しの間死の恐しさを忘れさせた。薄暗い雨の夜に隣家の塀から伸び出てゐる松の枝は、彼れの身體をぶら下げて息の根を絶つに役立つやうだつた。……
底本:「正宗白鳥全集第六卷」福武書店
1984(昭和59)年1月30日発行
底本の親本:「梅鉢草」平和出版社
1917(大正6)年4月15日
初出:「文章世界 第十一巻第七号」
1916(大正5)年7月1日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:山村信一郎
2014年7月16日作成
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