古染付の絵付及び模様
北大路魯山人
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明の古染付に対する大体の観察は上巻に於てこれを述べた。ここでは特にその絵付及び模様に就てすこしばかり考へて見度いと志した。
言ふ迄もなく明の古染付なるものは、その時代の文化を最も能く具体的に反映させてゐるものであつて、そこにこれが発生の必然性も共に十分認められるのである。
殊にこれは元時代の興隆期を承けて、この明時代につながる南画の命脈的発展と照合させる事によつて何よりもそれがはつきりすると思はれる。
南画と古染付とはその根本の性情に於て一致するものがある。即ち他の写実画、他の純模様的陶磁に比べて、より写実的に、意志の力が働きかけてゐる、又より主智的に智慧の力が作用してゐる。唐宋の時代に見られた芸術的に豊富な抒情的要素といふ様なものが、この明の時代になるとグツと意識的に転向されて来て、すべてが力争的な状態に置かれて、作品そのものを刺戟しやうとした。
南画は明代に及んで、次第に形式化されはしたが、然しその一方に於ては、その画的表現を通じて、眼に見える以上の、それに関する消息を、出来るだけその作品の中にぶち込んで見せやうとした。
然し、かうした南画それ自体の刺戟的な傾向は、今日から見れば必ずしも大局的には成功を収めたものとは思はれないのみならず、或る部局の如きは、却つてその形式化を加速度に増長せしめて、真の南画精神を殺してしまひさへした。
とは言ふもののその時代文化の表現的傾向は、このいはゆる古染付に関する限り、実にうるはしい成功を特に「透明なる朗かさ」にまで遂げる事が出来た。
その歴朝の天子はこれが制作を極度に奨励せられた。又それを助ける四囲の条件もその時代ほど具合よくととのへられた事はなかつたやうだ。材料的にも、工作的にも用途的にも、何一つこれが発達を妨げはしなかつた。
そこで古染付の絵付及び模様を考へるのに、これには凡そ左の三通りがあるかの様である。
素描形式を発展させたもの
図案形式を意図したもの
成画の直写を念としたもの
もつともこれは(単に染付と言ふ工芸品にのみでは無いが)その全体を通じて、体系的に見た処の別け方であつて、絵付及び模様そのものを材料的に見ると、嘉靖前後のいはゆる祥瑞風なるもの、すべての構成要素、それから字くづし模様、唐草模様、隆慶の動物画、草花画、万暦の花鳥、山水、道釈人物画といつたやうになるのであらうが、勿論この区分は正確には容易に判定せられない。
元来この古染付ほど、その絵付及び模様に於て無制限に趣きのちがつて居るのは無い。作品がただちに数量的に多いとか、又はその器形が意匠的に多種を極めてゐるとかの事でなしに、この古染付へのみは、その時代のあらゆる工人が、自動的にも亦他動的にも、思ひ切つて端的にその表現欲をくすぐる様にして行つたが為に、おのづから左様になつたのであらう。
その多くの絵付及び模様の中で、古染付そのものの発生的性質を最も能く保持し、且つ中心的にその生命の所在を示してゐると思はれるのは、何といつても「素描形式を発展させたもの」の一類である。そしてその次は「図案形式を意図したもの」、又その次は「成画の直写を念としたもの」といふ事にならうかと思はれる。
この素描形式を発展させたものが、何故に何故に古染付の有するあらゆる性質に一番能く合致してゐるかと言ふに、要するに古染付の性質が、前にも述べた如く意力的又智力的に、線的表現に、その当初の意識を置いてゐるからである。(南画の影響をその全体に取り入れつつも、いはゆる大小米点の筆法をその何物にも、いつの年代にも微塵だに取つて用ひざるが如き、実にその心情を窺ふに足るものであるといはねばならぬ。)
「図案形式を意図したもの」、又は「成画の直写を念としたもの」は、何れかと言へば素描形式を発展させた処の第一の要素が、工芸的に移行した場合の相そのものであつた、と言ふ、とこの明の古染付なるものは、一寸考へると工芸品としてはむしろ二次的の発生過程を取つたものの如くに考へられるのであるが、一方には又それだけ余計に美術価値への接近を見せてゐる訳なのである。従つて明の古染付は、その点に於て美術作品であると同時に、又工芸作品であつたのである。蓋し明代人生活の反映であつて、必然の発生なのである。
又いはゆる陶画なる語も、もとをただせばこの古染付のそれよりして、最も似合ひの意味を判然と有するに至つたに相違ない。全く陶画の意味は、この古染付に於て明確に通用する。又事実古染付のそれを考へないで、この陶画なる語を完全に具象化させる事は出来得ない。
古染付に展示された描線表現のものには、中にいはゆる名画以上の名画に見るやうな感無量のものがある。その線表現、まことにこれを能く見れば、第一にその線の展開の方向が、一般絵画のそれとは著しく異つて、絶えずその力が、生地に作用する事を忘れないのである。そして線表現の要領としての速度の緩急、肥痩の加減、軽重の調子、その他すべて一層に安気なる緊張のもとにやられてゐる。即ち一般絵画以上に、ここでは全く智力的高度と、至つて安易なる作家心理の表現が示されたのであつた。従つてその内容も亦おのづから悠々たる豊富さであつて、且つ自由を極めざるを得なかつた。
さるがゆゑに中には全く屈託なしに、痛快なほどそれを象徴的に、性質の極端な類推的な展開を企てて居たり、又は写意を突き進めて、それが窮極的なものになると作者の心象をそのまま、何のお構ひもなしにその作品の中に躍り込ませて居たりなぞ、実に多々益々これを弁じての已む処がないといふ凄さであつた。前きに明の古染付が力争的な状態を見せてゐると言つたのも、ここに至つてその事実が恰も手に取つて見得られるが如くではないか。
その己れに眼醒めるといふ事にかけて、想へば明の時代の陶工はまことに賢しく、烈しく、且つおのづから可能の分を多分に所有してゐた。
図案形式を意図したものを見ても同じくその事が云へる。いはゆる祥瑞模様を始めとしてその他あらゆる模様の多変化性を見られよ。何一つとしてそれが意識的に又智力的に、作品それ自体を刺戟してゐないものがあるのであらうか。そしてその成績の如何に明快に一つの大きな時代といふものを示し得てゐる事であらうか。
それにこの模様にも、その時代の生きた相、即ち文化の反映が又いちじるしく多分に取入れられてあつた。唐草、丸紋、その他の織物模様はどうか。当時の明の勢力が海外からこれら織物を移入した事によつて感象せられたのに外ならない。福、禄、寿なぞの文字の応用はどうか。それこそその頃の人の生活に対するそれぞれの祈りの心を象徴したのに他ならない雷紋は、氷裂紋は、凹字、亜字等の組字写しは。言ふ勿れそれらとて悉く、他のその時代の生活的実構の中に盛んに用ひられたものではないか。(但し真の祥瑞なるものに就ては編者に別途の研究あり、不日解説に当る。)
然し明の全時代のそれを通じて、これが模様は直線的に、同時に角形をなしたものよりもむしろ曲線的に円形をなしたものに、うるはしい熟味があつたかの様である。
そして今日最も驚嘆に価ひするのは、全体的にその模様の表現が、材料的には、ただ青華の一色をのみ以てしたといふ事である。その青華の一色が素白の生地に働きかけた場合、その効果は却つて多彩のそれにまさつて、能くその内容にあらゆる色を吸収し、又反撥する事が出来た。二度窯に拠る錦窯の多彩様式は之を染付の第一調子に比しては、如何せん第二調子として推賞せんも已む無きでは無いか。
要するにすべてこの古染付の簡約、勁抜、自由を本位とした表現と、そして特に意志的にねらつたその効果とは、どこまで行つても斯様にピタリとしてゐるのであるが「成画の直写を念としたもの」に至つては、時代も下るかして、余りにもいはゆる陶画への趣味に堕ちすぎるものがあつて、そのねらひは効果的に全く本末を顛倒した。之が例証としては清朝に於ける康煕乾隆の精作に十分其間の消息を伝ふるものと見るを得るのである。
古染付の絵模様に就ての編者寸観は、如上にて大意を尽すものであるが、それと同時に大々的に注目せざるべからざるは、土そのものを以て成る処のいはゆる「成形」上の問題である。そして、それに対する製作上研究的な考察は、その絵を語ると同程度に、ここで一応試みて置かなければならない義務がないではないが、これが工作に関する事柄は、専門作家の為に触るる事の多い割合に、一般鑑賞家の為には因縁稍疎にして遠き感がある。でこれが解説は異日他の機関を以て徐々に発表し、その責任を果さんとするものである。
底本:「魯山人陶説」中公文庫、中央公論新社
1992(平成4)年5月10日初版発行
2008(平成20)年11月25日12刷発行
底本の親本:「魯山人陶説」東京書房社
1975(昭和50)年3月
入力:門田裕志
校正:木下聡
2019年6月28日作成
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