愛陶語録
北大路魯山人
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なにしろ根がずぶの素人の陶作家、固より何の教養もあろうはずもなく、はじめは随分気のひけたものである。今でこそ、素人なればこその見識をそのまま仕事に打ち込むことができるのだ、などと言えるようになった。
それもそのはずである。最初のアマチュア時代が四十代で、それから三十年も経っている。遅れ過ぎて競走するのは全くいやになってしまう。
正直なところ、年甲斐もないのが先ずきまりが悪い。かと言って、他にこれという能もないのが因果、恥を忍びつつやっているまでだが、決して心中大きな顔はしていないつもりである。だが、なんとしたことか、持って生まれた美食道楽がおのずと限りなき欲望を生み、美しく楽しめる食器を要求する。即ち、料理の着物を、料理の風情を美しくあれと祈る。美人に良い衣裳を着せてみたい心と変りはない。この料理の美衣をもって風情を添えることは、他人はどうあろうと、私にはかけがえのない楽しみである。
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良き物を手に入れんとする骨董買い上手の五則。
一 まず第一旦那買いすべき事
二 みだりに値切らざる事
三 一旦買い取りたる上は返品せざる事
四 心に欲すると欲しないは別とし、品物の難くせ言うは悪し
五 儲かるとてみだりに売るべからず
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途方もない考えがなくては、途方もない結果はない。
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芸術家には芸術と不即不離の実生活があるはずである。むしろ、芸術そのものが実生活である。また、その実生活そのものが芸術である。作品はこれが表現されたものに過ぎない。
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素人で茶碗をこしらえてみたいと軽々しく希望する人がある。これは恐らくその人が平生どんな茶碗を観ても、その茶碗の作家の精神までは観ていないということになる。茶碗に限らず、作品はすべてその人の全人格を正直に表現しているものである。だから、その人が自己の醜は醜として人眼にふれても仕方がないという芸術家魂を持った人でない限りは自己の趣味、自己の精神は茶碗に溶け込んでくるものではない。
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まあ、なんと言っても自然に親しむことが第一だね。どんな芸術にしてもそうだがどこまでその人が自然を愛しているか、自然を掴んでいるかということが素材をなして行くのだから、写生がまず第一番に大切だね。写生によって自然に対する細心な注意を養って行き、また心に印象を刻んで行くのだ。そうしているうちに省略法を覚えて来て筆を支配する力が出来てくる。実際にはここにもう一つの枝があるけれど、ない方が美しいから取って了うとか、群像を一筆で表現して了うとか、つまり、実物を離れて心術で描くようになって来るんだね。一口にこういうと、容易なことのようだが、なかなかちょっとやそっとの努力ではそこまで行けないのだ。言わば写実劇が歌舞伎劇になって行くようなものだ。舞台の上でバタバタと駈け出したって、ちょっとも美でもなければ、駈けている感じも出ない。けれど、ノッシノッシと六方を踏んで行くと、もう見物は吾を忘れて駈けている気持になってしまう。能狂言に至っては、更に、その美を増すようなもので、絵もそうした境地にまで入って行かなければ嘘だね。しかも、その上に雅味もなくてはいけず……。まあ心がけとして、常に名画や名器に接近して美に浸るということが大切だと思う。
いつも言うことだが、陶工となって名品を作り、世に名を成さんと考えるほどの人は、絵を描かせても、一かどの画家として、その道に通るくらいの者でなければならんはずであるが、それが従来は美術に関心はあるが、絵描きたるには力が足らず、瀬戸物造りにでもなればという当てずっぽうで土いじりを始めた者が多いようだ。これであっては、土台問題にならないものが出来るわけである。画家に比べて、陶工連中の方はどうも氏素姓のタネが悪いらしい。祖先からの職人級ばかりが多いとのことである。こんなことでは良い陶器が出来るはずはない。一流の画家になれるほどの者が好き心で陶器の世界に入り、一道楽やってみようと来なければ期待は持てない。
例えば木米のようにである。タネの悪い現代の職人風情ばかりでは、芸術的名品はいつになっても生まれないであろう。今の陶工たちも、大いに精神的な美しい栄養を摂取して職人の域から脱皮することがなければ、ウソの生活に徒労を重ねるばかりである。官展に於ても、工芸美術なんて二流美術の名称を授けられ、軽蔑を受けながら多としているなどは、全く駄人という奴である。
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絵を以て陶器を作る。もしこれを満たさざれば、汝は世の軽蔑と貧困に包まれつつ駄工として一生を了わらん。
どんな趣味生活、道楽に於ても言えることだが、私の年来の希願は「いい物を求める」、これだ。この願いは取りも直さず、上向きの心、即ち、絶え間なき完全なるものへの精進である。それは、何かにつけて修業になる。
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門を叩けば門は開く。
無理をせぬことが芸術の要領であり、健康のための本旨でもあるとするなら、守らねばならぬ。況んや栄達を求めて不自然な要求をしてはならぬ。
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自分の作意を他の作家に輸出することは意味の無い事だ。
芸術は計画とか作為を持たないもの、刻々に生まれ出てくるものである。
言葉を換えて言うなら、当意即妙の連続である。
言い古された言葉だが、「浮気はその日の出来ごころ」というのがある。芸術も、言わばその日の出来ごころである。やって行くうちに生まれ出てくるものである。
真の美術家になるためには、飽くなき美術道楽をすることにあると思うね。人工美を極めつくした上に、自然美に眼を向け、これに没入することだね。人工美だけでは何々流という奴になって、一向に面白くない。前者よりも後者が大切だ。
本当の美生活とは、形の美と心の美を兼ね備えたものだ。即芸術生活である。
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私は人間の皆が美しいことを好み、良い物を良いとわかり、本当の道を歩くことが本当だとわかり、仮りにも邪欲の道に陥ることのないよう力を尽したい。
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ものの真を見んとする時に情実がお供するようでは真の姿は顕われない。それにつけても美の根源は、自然界が教師であり、お手本であるから、自然界そのものの美の姿に目も心も奪われるように、まず自分を養うべきではないか。
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この世の中を少しずつでも美しくして行きたい。私の仕事は、そのささやかな表われである。
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美を探求する、美を愛する、美を身につける、美と接吻をつづけるのでなければ、美術家としての命はない。
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ものはわかったから出来るとは限らない。否、わかったからとて出来るものではないのである。わかるということと、出来るということは別問題である。
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名器を見て学ぶ態度を修業の第一としなくてはならぬ。これが私の作陶態度であることは言うまでもない。
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やきもの作るんだって、みなコピーさ。なにかしらコピーでないものはないのだ。但し、そのどこを狙うかという狙い所、真似所が肝要なのだ。
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芸術鑑賞に於ても、生い育った環境というもの、血筋というものが大切。
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止まった時計は地金の価値しかない。絶え間ない努力精進によって、昨日よりは今日、今日よりは明日と前進しなければならない。勉強、一生勉強なんだ。
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美に親しむ心、自然に親しむ時間を惜しむな。
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自分の声をきかせるよりも、他人の美しい声に耳を傾けることに心を使え。
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よく言うじゃないか、好鳥は俗韻を吟ぜずって……。
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自然の風光と四季のうつりかわりに敏感な感覚を持て。
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今日、満足に自然描写の出来る作家がいなくなったね。画家だって同じことさ。
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いいやきものを愛するつもりなら、結局、審美眼さえ発達してればいいじゃないか。好きな結城のきものを択ぶのに、結城を織る婆さんに択ばせる着道楽がいるとしたら、軽蔑する気に、御身自身がならないか。
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やきもののことを知りたい。どういう本を読んだらいいかと尋ねる人がいる。美人を見たいが、どういう本を読んだらわかるかね。仙厓和尚が生きていたら反問しよう。
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事も無げとは無造作であり、楽に描く事であり、超常と言えないこともない。
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乾山の絵に近代人の好む近代感覚はないかも知れないが、ともかく、絵は生きている。
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人間というものが出来ていなくて、しかも、作品だけが立派に出来得るということは、ものの道理が許さないことであるから、是非とも人間から造ってかからねばならぬことを、とくと考えねばなるまい。
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作家たちの信念のなさに次いで挙げられるのは審美眼の不徹底である。現代美術に向う場合は、相当になにやかやと口賢しく、軽々と議論を下しているが、少し遡って古名画、古美術を示す場合には、一目で美術価値の程度を看破し、真贋を見極めるという鑑識眼を有する者は殆どないと言っても過言ではない。高が竹田や山陽程度のものでさえ鑑えない者たちである。貫名、山陽の程度に於て、即座に真偽鑑定に責任を持ち太鼓判を押せる鑑賞画家というのはまずない。
かように徳川末期の表面的な芸術に於てさえ鑑識不十分とあっては、それ以上年代を遡っては、ますます自信のあろうはずはない。まことに現代鑑賞家のために遺憾千万、残念至極である。
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画家だから絵のことはわかる、書家だから書のことだけは確かであろうと、内外の素人というものは考えているようだが、とんでもない間違いであって、むしろ画家には絵はわからない。書家には書はわからない、と明白に訂正しておきたい。陶器師だから仁清もわかる、乾山もわかる、木米もわかると考えるならば、それは大きな錯誤である。事実専門家というもの、わかっていそうで、実は何もわかっていない。
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こんなわけで自信がない、自信がないから人間が出来ていない。人間が出来ていないから肚というものがない。肚がないから腹芸が出来るはずがないとなる。腹芸が出来ないために、猪口才で行こうとする。手先きで器用な細工をしようとする。かくて浅薄な作品ばかりが、後から後へと柄を変えて生まれる。浅薄なるために識者は感心しない。識者が感心しない故をもって、遂に群盲までが追従して、感心しない仲間入りをする。従って、作品の価格も人気も永続するところがない。とどのつまり反古となり、消滅して行く。
さて、こうなるのが、本当であるとすれば、なんと言っても絵筆の前に、まず人間の方から鍛え造ってかからなければ、言うところの本当の絵画は生まれないのである。
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芸術家ぶってはいるが、本当の芸術家と言える者が幾人あるだろうか。殊にやきものの世界に、芸術みたいなものを作っているが、芸術作品は少ない。芸術というのは、いつも言うように人間の反映だ。形以外のもの、肉眼では見えないものが作品に籠っていなければダメだ。これは並みの人では作られるものでないだろう。今のように作家とは言えないような人が、一人前の顔をしているときには、なおさらのことだ。作るものも鑑賞家も、もっと心眼鏡を研ぎすますことだ。いいものは直感でピーンとくる。人間を造ることが第一だね。
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昔の作家は道を楽しんだ。たとえば、やきもの作家は本当にやきもの好きだったということだ。だから、好きなやきもののため苦しみを楽しんだ。それに比べて、今の作家はどうだろう。名を挙げること、立身出世に、そして食うことに汲々としているではないか。好きな道のためなら乞食、ものもらいまでしても道を枉げないという人がいるだろうか。世間体ばかり考えて、なんらなすことをしない。良寛さんのような人はもういないのか。いかに一休が戒めても、キリストが人生を説いても、「緋の衣」を着ることばかり一生懸命ではないか。
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わかる奴には一言言ってもわかる。わからぬ奴にはどう言ったってわからぬ。
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傑作と凡作との間は紙一重の相違である。しかもこの紙一重がなかなか破れない。これを突き破って傑作の域に入るためには、精神の不断の緊張を必要とする。感激のないものには、精神の緊張がないから、感激が傑作を作ると言ってよい。みずから感激して初めて人を感動せしめることが出来るのである。
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古来の優れた芸術形式を熟々視るに、まず心があって、そこに形が生まれ出たものであることがわかる。心あっての形である。
しかるに、当今の人は形のみを学んで心を忘れている。彼等の仕事が死んでいるのはそのためである(このことは茶や花に於て、もっともよい例を見る)。
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人間なんで修業するのも同じことだろうが、自分の好きな道で修業できるくらいありがたいことはない。
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人は誰にでも必ずそれぞれ好みがある。それが個性というものだ。自分のそういう気儘をせいぜい通して行くがよい。各自の好む所に従って、せいぜい勝手気儘に楽しむがよい。
そういう好みの程度を高めて行くことは、結局情操を高めることであり、人間を高めることになる。
人間の修業は、限りないもので、その点から言えば、許す限り気随気儘にするがよい、せいぜい我意を通すがよい、それが結局一歩一歩高まって行くことになる。
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芸術はすべて心の仕事である。
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分る人は金のない人、金のある人に限って眼が利かぬ、決定的だと念を入れて言う。
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真と言えば公平も真、不公平も真、物事総じて両面があるようだ。
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世の中には、使わぬ金を持っている人がある。使う金を持つ人が欲しい。死に金も可、生かす金も可。
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世の中というものは実にいいかげんなものだ、と嘆息する輩を鮮しとしない。
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「盲千人目明き千人」と言うが、実際にはそんなことがあろうか。ものの見えない人が千人で、ものの見える人が一人もどうかと怪しまれはせぬか。
良寛の書が貴ばれる。それはよい。良寛の書はいかにもよい。が、良寛の書でさえあればなんでもよいというふうな心酔の仕方ではどうかと思う。ましてや、良寛の真贋を百発百中、一刀両断的に鑑定する具現者はどれだけあろうか。
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私の陶芸は日本の様々な古典的古陶を師範に採ることが多い。
その他、東洋に西洋に古典的存在を範としていることも事実である。しかし、私はあらゆる自然美を唯一の師範と仰ぎ、美の探求を続けている。
私の陶芸はすべてそこから生まれる。
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真に美なるものは、必ず新しい要素を多分に有するのである。真の美なるものは、いつまでも新しいのである。日本民族の遺産『万葉集』の秀歌は、今日に於ても非常に新しいものとして、われらの感覚を喜ばせるではないか。
また、古陶磁の佳品は唯の今、窯の中から焼き上がって、焔のほとぼりも冷めぬような新しい肌をしているではないか。真に美なるものは、時空を超えて常に新しいのである。
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よく一塊の土くれにも、一本の草にも美はあるのだ、などとすぐ言う人があるけれど、それが本当にその人の生活からにじみ出た言葉かどうかは、その人の作品を見れば一目瞭然だ。とにかく、まじめに芸術に精進しようとするならば、赤裸々な気持で進まなければだめだね。私など遠慮なく直評を放つので、時々人から誤解を受けるけれど、自分の所信に向って、自己を鞭撻して行こう。そして、お互いが最高の目的に向って精進しようという念願がなくては、馬鹿らしい憎まれ役なんか買って出やしないさ。とにかく、大乗的でありたいものだ。「桃李言わざれども下自ら蹊を成す」なんて済ましていられるもんじゃないよ。
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益友を持つこと。坐右の書物、道具、調度もまた益友の一人である。坐右にいい物を置くように心がけることが精神の向上につながる。
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現代人は木に縁りて魚を求むるが如き夢想は愚考として、古えに見る第二流、第三流どころの芸術(的)なるものに心得の良否を送るべきである。それが必須条件として名利に遠ざかる実行が第一である。これを古くさい金言として嘲笑してはならぬ。そして、夢中に芸事に熱中することだ。我を忘れて芸事に日夜興奮することだ。而して自然、天然を相手にのみ、極力角力をとることだ。自然を相手にすることに飽いた時は頭の下がる古名品に頭を下げて、師友の交わりをしてもらうことだ。
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秀れれば秀れるほど、富士の高嶺のように相手がいなくなる。だから、自然を相手にしたくなる。
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いろいろな生き方もあろうが、ともかく、断固として生きることが必要だ。
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自然は芸術の極致であり、美の最高である。
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大抵の人は、器物に対し他動的に動いているが、ある程度、手習いが済んだら、それからは好みを出さねばならぬ。
それが普通は、いつまで経っても、稽古ばなれがしていない。こんなことではダメで、時が来たなら遠慮会釈なく自分の好みを出し、それぞれの分に応じてやらねばいけない。いつまでも他動的ではいけない。
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ともかく仕事の上で、いいものばかりを作ることが芸術で、芸術は最高のものとなる。即ち、正直、純真、清さというものが、一切の最高となるのだ。
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振り返って見ると、人の一生の間には想いもうけぬほどエネルギーの発揮できたときと、気力共に充実していながら、実際にはなにも出来ないときがあるものだ。
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箱書き一つするのだって、皆には無造作にシャッシャッと片付けているように見えるか知らないが、こっちは一字一字なかなか苦しんでいるのだ。ああこれも拙い、これも駄目だと思いながら書いてしまったのだから、どうもならないで、その儘にしておくようなものだ。判一つ押すのだってそうなのさ。
底本:「魯山人陶説」中公文庫、中央公論新社
1992(平成4)年5月10日初版発行
2008(平成20)年11月25日12刷発行
底本の親本:「魯山人陶説」東京書房社
1975(昭和50)年3月
入力:門田裕志
校正:木下聡
2020年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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