非名誉教授の弁
和辻哲郎



 わたくしは東京大学の名誉教授ではない。というよりも、わたくしには東京大学の名誉教授となる資格はないのである。しかるに近ごろわたくしは時々東京大学の名誉教授と間違えられる。間違えられたところで、それによってわたくしが何か利益を得るわけでもなければ、また間違えた人がそれによって何か損をするわけでもないのであるから、そんなことはどうでもよいことなのであるが、しかし事実と相違していることはちょっと気持ちの悪いものであるし、また人によると和辻はおのれの価しない「名誉」を不当に享受していると考えないものでもない。そういう誤解を受ければ、わたくしは名誉教授と間違えられることによって「名誉」を不当に享受するどころか、逆に不当な「不名誉」をうけることになる。暑さで仕事のできないのを幸いに、名誉教授にあらざるの弁を弄するゆえんである。

 まず初めに、なぜわたくしが名誉教授と間違えられるに至ったかを考えてみると、一般の世間のみでなく、大学と密接な関係を有する方面でも、大学の名誉教授がどういうものであるかをいっこう知らないように思われる。わたくしが最初名誉教授と間違えられたのは、昭和二十四年の三月に東京大学を定年で退職してから二月目か三月目のころである。そのころ吉田首相が文教審議会というものを発案し、それにわたくしも引き出されることになって、初めての会合に出席した。席上配られた謄写版刷りの名簿を見ると、わたくしの名に東京大学名誉教授という肩書きがついている。たといわたくしに名誉教授として推薦される資格があったとしても、その手続きには教授会とか評議会とかの審議がいるのであって、通例は退職してから半年以上も後に発令されるのである。退職してから二三か月で名誉教授になっているなどということは、通例はないことである。いわんやわたくしはその資格のないことを知りぬいているのであるから、この名簿が間違いであることは一目してわかった。しかしこの名簿を作成したのは、内閣審議室か文部省か、どちらかである。文部省なら大学のことをよく知っているはずであるから、こんな間違いはしないであろう。しかし内閣の方は、名誉教授の任命などを司どっている場所であるから、そういう辞令が出たかどうかを一層よく知っているはずである。どうもおかしい。この名簿はたぶんあまり名誉教授のことなどを知らない下僚が作ったのであろう。それにしても、内閣で作った文書にこういう間違いがあるのは困る。そう思っている時にちょうど隣の席へ、当時の増田官房長官がすわった。これは具合がいい。官房長官はこういう文書の責任者に相違ないから、早速訂正を申し込んでおこう。そう思いついてわたくしは、名簿のわたくしの名のところを官房長官の前で指さして、これは間違っています、わたくしは名誉教授ではないのです、と言った。ところがちょうどその時、官房長官は何かに気をとられて会議の席を見まわしていた。そのせいかわたくしの誤謬の指摘がいっこうに心に響かない様子であった。事は小であっても、誤謬を指摘されて緊張しないのは、政治家として頼もしくない、とわたくしは思った。もっともわたくし自身も、その場限りでこの問題を忘れてしまって、会議のあとで事務の人に同じ訂正を申し込むことをしなかった。

 そういう類のことはこの後にも起こった。平和問題懇談会が結成されたのは同じ年の暮れであったと思うが、その時の名簿にもわたくしの名に東京大学名誉教授という肩書きがついていたのである。わたくしはこの会の世話をしていた吉野源三郎君にこれは間違いだということを申し入れた。その席には他の人もいたように思う。だからこの名簿はたしか訂正されたはずである。しかし吉野君が重役をしている岩波書店の編集部の人々にはこのことは徹底しなかったと見えて、昨年の初めに改版を出した『人間の学としての倫理学』の表紙の包み紙の裏側に印刷されたわたくしの略伝には、東大名誉教授と記されている。実はわたくしは本ができたときにはそういう個所に注意せず、それに気づいたのはごく最近のことなのである。たとい包み紙であるにしても、とにかくわたくしの著書のなかにそういうことが印刷されているとなると、それを見た人がわたくしを東大名誉教授と思い込んでも、これは無理のない次第である。わたくし自身にそういう意図が全然ないにかかわらず、間違って思い込んでいる人がわたくしにそういう肩書きをつけ、それが印刷されて多くの人の眼にふれるとなると、この間違いはますます拡まるばかりである。

 以上の例によって見ると、誤解のもとは案外に少数の人々の勘違いであるかも知れない。しかしそれが内閣とか文部省とか、あるいはわたくしの著書を少なからず出版している岩波書店とかにあるとすれば、名誉教授が何であるかを当然知っていそうな場所で、案外それが知られていないということになる。実際に事務を取っている若い人々は、教授が定年で退職すれば当然名誉教授になるとでも思っているのかも知れない。しかしそうではないのである。

 名誉教授というものは、学術上の功績があったとか、当該大学において功績があったとか、とにかく功績を表彰する意味を含んだものである。ところでその功績を何によって量るかという段になると、なかなか容易なことではない。大学は学問の府であるから、学術上の功績などは精確に量れるであろうと思う人があるかも知れないが、しかし教授たちも人間であって、さまざまの感情に支配されている。客観的に公平な批判をする人もあれば、主観的な傾向の強い人もある。そういう人々が集まって功績を評価することになると、機械でものを量るようなわけには行かない。今はもうないかも知れないが、昔親分子分の関係が濃厚であった学部などでは、勢力のある教授に対する阿付の傾向もなくはなかった。そういう関係が功績の評価のなかに入り込んでくると、公正な評価は到底望めない。そこで、そういう弊害を阻止しようと考えた先輩たちが、機械でものを量るような客観的標準を立てた。それが当該大学における勤続年数によって名誉教授の資格をきめるというやり方である。東京大学などではそれが二十年以上ということにきまっている。助教授の時代の年数は半分に数える。講師や助手の年数も何分の一かに加算されるはずである。このやり方はほかの古い大学でも採用していると思う。

 このやり方だと、一部の教授の我執や感情が入り込む余地はない。その代わり、研究をそっちのけにして内職ばかりやっている教授でも、勤続年数が二十年以上でさえあれば、名誉教授に推薦され得る。これは学術上の功績や大学に対する功績を本来の理由としている名誉教授の制度からいうと、少し困ることになるかも知れないが、それでも前に言ったような弊害に比べれば、害がはるかに少ないのだそうである。こういう事情をわたくしに説明してくれたのは、なくなった今井登志喜君であるが、同君はその意味で固く年数制を支持していた。名誉を表彰するものであったはずの位階勲等が官吏の勤続年数によって自動的に与えられていた時代にあっては、これは当然のことであったかも知れない。

 大学教授の大部分は、このことをちゃんと承知していたのである。位階勲等が勤続年数の表示であるように、名誉教授もまたそうであった。もちろん人によっては、このことを承知しながらも位階勲等の高いことを喜び、それと同じように名誉教授となることを熱望したでもあろう。しかしわたくしの知っている範囲では、そういう人は少数であった。そうしてまたそういう点がその少数の人々の性格的特徴であるように思われていた。

 わたくしは三十歳を超えたころから、東京の私立大学で五年、京都大学で九年、東京大学で十五年、講義生活を送った。このうち国立大学に勤務したのは、教授として十八年、助教授として六年であるから、勤続年数二十年以上という条件にはちょっと合うように見えるが、しかし名誉教授はそれぞれの大学に即したものであって、勤続年数もまたそれぞれの大学だけで勘定するのである。従ってわたくしの場合には、東京大学に転任した時から、名誉教授の資格のないことが確定していた。こういう例はわたくしばかりではない。東北大学から転任して来た宇井伯寿君でも、太田正雄君でも、みな同じである。しかしわたくしたちは一度もそれを問題としたことはなかった。名誉教授が勤続年数を表示する制度である以上、事実は事実なのであって、問題とする余地は全然なかったのである。

 それを今になって問題とせざるを得ないのは、わたくしを不当にも名誉教授と呼ぶ人があるからである。わたくしは決して東京大学の名誉教授ではない。すなわち東京大学に二十年以上勤務したことはない。わたくしの勤続年数は、満十五年に三か月ほど足りない。わたくしの知っている限りでも、勤続年数が十九年何か月とか十八年何か月とかで、もうあとわずかのところだからと言って、特別の取り扱いを学部から要求し、それが通った例はある。しかし十五年未満では全然問題にならないのである。

 名誉教授をそういうものと知らなかったから、間違えるのも無理はないだろう、という人があるかも知れない。それではそういう人は名誉教授をどういうものと考えているのであろうか。名誉教授はおおやけに任命され、指定された大学の一人の成員となるのであるから、社会的な身分を現わすことにはなるかも知れぬ。宿帳などには、無職と書く代わりに何々大学名誉教授と書くことができるかも知れない。しかしこれが一つの職業であるというのは嘘である。名誉教授はその大学において公的なことは何もしない、あるいはしてはならないからこそ名誉教授なのである。大学に定年制のできたおもな理由は、老教授の発言権を封じ、新進に道を開くためであった。名誉教授も入学式とか卒業式とかのような式典にはたぶん招かれるのであろうと思う。しかしそれだけで一つの職業が成り立つというわけには行かない。学部によると、名誉教授室を設けて研究の便宜を計っているところもあるらしい。しかしそういうところでも、名誉教授には便宜を計るが、名誉教授に任ぜられなかった前教授に対してはそれを拒むというのではないであろう。余裕さえあれば、名誉教授にも非名誉教授にも等しく便宜を計っているであろう。そういう意図を明示するために、名誉教授室を前教授室と改称した学部もある。大学がかつての教授の研究に対して便宜を計ってくれるのは、学者としての個人に対する情誼であって、名誉教授に対する義務なのではない。室が足りなくなれば、名誉教授室などはどしどし撤回してしまうであろう。そのように名誉教授は、大学において何の権利も義務もないのである。

 と思っていたところが、敗戦後教職追放の問題が起こり、各学部に審査委員会が設けられたとき、驚いたことには、名誉教授もまたその審査対象となったのであった。名誉教授は、その地位から追放すべきか否かを慎重審議すべきであるような、れっきとした「教職」なのであった。それなら宿帳に、無職とかく代わりに名誉教授と書き込んでよいはずである。わたくしはこの時になるほどと思った。欧米の社会のように社交の盛んなところ、従って教授などが学問の世界とはまるで違った方面の人々に接する機会の多いところでは、名誉教授という肩書きがなるほど物をいうであろう。人を呼ぶのにプロフェッサー何々と肩書きをつけて呼ぶ習慣のあるところで、大学を退職して急にプロフェッサーでなくなれば、ちょっと困るであろう。ゆえあるかなとわたくしは思ったのである。

 しかしそうなると、社交界というもののあまりはっきり存在していない日本でも、肩書きの効用は相当にあるではないかということになる。その証拠には、肩書き付きの名刺を持っている人が日本には非常に多い。ということは、自分の名を自分の地位や身分と不可分なものとして相手に印象しようという意図が、一般的に存しているということの証拠である。これは一般に日本人が、未知の人を一個の人格として取り扱うとか、その人品骨柄に目をつけるとかいうことをしないで、ただその肩書きに応じて取り扱うという習性を持っているせいであろう。そうなると何々大学名誉教授などという肩書きも、毎日その効用を発揮し得るかも知れない。

 こういう肩書きの効用を眼中に置いて、わたくしに東大名誉教授という肩書きをつけてくれたのであるとすると、その好意に対してはわたくしは感謝すべきであるかも知れぬ。しかしわたくしの動いている社会では、名誉教授も相当にいるにはいるが、それを名刺の肩書きにしている人はどうもいないように思う。わたくしどもは肩書きの効用などにあずかりたくないのである。そのため時には横柄な態度で迎えられることもあるであろうが、しかし肩書きを見て急に横柄な態度を改めるような人たちから、どれほど強い敬意を表せられたところで、それを喜ばしく受け容れるわけには行かない。未知の人に対しても、一個の人格として、相当の敬意や親切をもって接するような人が、おのずからに表明する敬意こそ、われわれもまた等しい敬意をもって、喜ばしく受け容れることができるのである。横柄な態度はいわゆるインフェリオリティー・コンプレックスの現われで、むしろ憐れむべきものである。それに対抗するために肩書きを用いるなどは、同じくインフェリオリティー・コンプレックスの現われであるかも知れない。

(昭和二十七年十月『心』)

底本:「和辻哲郎全集 第二十巻」岩波書店

   1963(昭和38)年614日発行

初出:「心」

   1952(昭和27)年10

入力:岩澤秀紀

校正:植松健伍

2019年222日作成

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