胡堂百話
野村胡堂
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やはり、平次誕生から、はじめなければ、ならないかも知れない。
が、それは、あまりにも書きすぎた。いずれは触れることとして、ここではまず、古い友人たちから筆を起こそう。
県立盛岡中学……つい一月ほど前、「わが母校わが故郷」とかいうテレビの番組に登場したので、午後九時絶対就寝の私も、この日ばかりは大いに奮発して、夜の十一時まで、眼をあけていたが、昔は、あんな立派な校舎ではなかった。
木造の、少々よぼよぼした教室から、雨天体操場へ廊下つづきになっている。そのうす黒い羽目板の下を歩いていると、うしろから肩を叩いたやつがある。振り返るとクラスメイトの及川古志郎だ。
及川は、のちに海軍大将になったが、当時は文学青年で、妙に新しがった短歌なんぞをいじくっていた。
その及川が、ニヤリとして、
「野村。お前に、こいつを紹介するよ。石川といって、一年下だが、何か書いているそうだ。見てやってくれないか」
みると、及川の横に、こまっちゃくれた少年がいる。私も、及川も、身体は大きい方だったが、それにくらべると、三分の一もないくらいで、骨組みや腕ッ節になる養分が、ことごとく知恵の方へ回ったという顔をしていた。これが、石川啄木との、初対面だった。
その時、直してやった新体詩は、字句は忘れたが、正直なところ、おそろしく下手くそだな、と思った。後年、あんなに有名になろうとは、もちろん、夢にも考えなかった。
しかし、これが縁で、一緒に校友会雑誌の編集をやったり、家へ遊びに行ったり、来たりした。啄木の父親は、内気のように見えて、不思議に気概のある顔をしており、母親は口数も少く、何時もひかえ目に、すわっていた。
啄木の友人も、年々すくなくなり、今では金田一京助博士をはじめ、片手の指にも足りないだろう。啄木という男は、社会人としては、厄介な人間であった。ほら吹きで、ぜいたくで、大言壮語するくせがあり、まことにつき合いにくかったが、その半面、無類の魅力を持った人間でもあったのである。おしゃれで、気軽で、少し陽気すぎるほどで、そして何よりも美少年であった。異性の友人を吸いよせただけでなく、のちには啄木と絶交した人たちも、一度は彼の不思議な魅力に傾倒していたはずである。
その上、啄木の才能は非凡であった。中学二、三年までは秀才中の秀才であり、その後は文学少年らしい怠け者になってしまったにもかかわらず、英語も相当読みこなすし、ヴァクナーからメレジュコフスキーに入り、さらにクロポトキンへ歩んだことは、彼の遺した大学ノートに明らかである。
私が卒業して東京へ出ると、あとを追うように啄木も上京した。そして二度目の交際がはじまった。彼は歌は作るが俳句は駄目。こっちは俳句に没頭して、歌を相手にしないから、芸術論などたたかわせた覚えはないが、それでも可なり交渉があった証拠には、啄木の書いた手紙が二十四通たまっていた。今では十二、三通しか残っていないが、その中の一通に借金の詫び状がある。啄木が病んで郷里の渋民村に帰る時、三円だか五円だかを貸した時のである。字も立派だし、表装して保存しているが、今となっては、私のあらゆる骨董品よりも尊いものになってしまった。
このごろの芸妓というものが、どういう具合に変ったか、私は全然知らない。年をとると無精になるし、宴会などというものは、大分、以前から一切おことわりしているからである。
だが六十年前の私は、一度は二頭立ての馬車にのって、芸妓買いをしてやろうと、修羅の妄執に燃えていた。それも東京の芸妓ではない。郷里盛岡の芸妓という芸妓を、総あげにしなければ、胸のつかえが、取れないような気持でいた。
私の生れは、岩手県といっても、県庁のある盛岡市から、汽車で五つ目の日詰で下りて、それからさらに一里半の北上川の対岸である。数え年の九つの時、はじめて盛岡へ連れて行かれて、おもちゃ屋で見た幻灯機械が不思議でたまらず、さればといって、買うには高すぎるので、レンズを二枚手に入れて、当分は幻灯機械の手作りに、我を忘れたほどの田舎ッペイだったのである。
その上、当時の中学生といえば、シラミをひねってエラそうなことをいうのが一番豪傑で、いやに小綺麗で、勉強ばかりしているのは「あいつは話せない」と、一蹴された。
そこへ行くと私なんぞは、まことに豪傑きわまる方で、中学五年間、まともな格好をしたことがない。ズボンから猿またが、はみ出し、靴には底がないものときめていた。
郷古潔氏にいわせると、
「野村は盛岡の目抜き通りを、はだしで歩いているのを見た覚えがある」
ということになるのだが、如何になんでも人間である。岩手山の熊の子ではないから、はだしというのは、ひどすぎる。
中でもニガ手は散髪で、これは現在でもそうであるが、床屋へ行くのが、どうも面倒なのである。半年ぶりに盛岡へ出て来た父が、私の頭を見てキモをつぶし、否も応もなく、床屋の強制執行をされたこともあるが、これから話すのは、その少し前である。
盛岡で一番賑かな本町の通りを歩いていると、突如、私の後方で、カン高い笑い声が爆発した。絹糸草の若芽のように、細くて艶っぽいソプラノが、一斉射撃のように襲いかかったのである。
「天下の豪傑に向って何を笑うか」
と、にらみつけてやるつもりで振りかえると、何とそれは、一個小隊ほどもある芸妓の一群だったのである。狭い道幅をいっぱいに不規則な横隊をつくりながら、私を指さして笑いこけているのである。
今になって考えれば、笑う方が当然である。ズボンの尻の破れたのを、カンジヨリで結んでおいたのが、歩いているうちに切れたと見えて、十七歳の少年の肉体が、まる見えになっていたのである。
私は、妙にカーッとなった。前列にいた三人ばかりが、いやに美人に見えたのが、よけい反発心をそそったのかも知れぬ。
「今に見ろ。二頭馬車で、お前たちを買いに来てやるから──」
不倶戴天といった気持で、私は心中に歯噛みをした。しかし、その思いを果たさないうちに、馬車は自動車に駆逐され、今日では皇太子さまのご結婚式でもなければ、馬車などというものはお目にかかれない。それにあの日の彼女たちも、かりに生きていたとしても、私と同様、八十に手のとどく年配になっているだろう。
徳川夢声さんには、話したこともあるのだが、この私が、映画館に通って、ガラにもなく映画のタイトル……いや、活動写真の字幕を翻訳させられた経験がある。
と、いっても学資かせぎのアルバイトなんてものではない。元をただせば、盛岡中学の同窓で、山田敬一というトテツもない男の仕業なのである。
郷古潔、金田一京助、田子一民など、当時の友人が集まると、必ずといってよいほど、山田敬一の話が出る。私たちばかりではない。明治三十年前後に、盛岡中学にいた人間なら、この変り者に影響されなかった者は一人もなかったといってよい。
どういう風に変っていたかというと、つまり、東京の悪徳を、東北の小都市へ配達するために来たようなものである。頭のテッペンから足の爪先まで、東京の中学生の結晶みたいなのが田舎少年のまんなかへ、転校して来たのであるから、コウモリの群れへ、粋な濡れつばめが舞いこんだのと同じである。
父親は、ボンベイの領事をしていたが、本人は、東京生れの東京そだち。それが、どうした事情でか、盛岡師範の先生をしていた叔父に預けられ、中学の私のクラスへ編入されて来たのである。
恐ろしく才気走った少年で、たちまち同級生を引っぱり回し、演説会は、おっぱじめる。回覧雑誌は作る。塾の二階で芝居をやる。回覧雑誌は「咄々」という題で、半紙を五十枚ほど綴じたものへ、一ページに六、七行の大きな文字を並べてあるが、中身は、ことごとく先生への冷やかしである。
これが学校で問題にならぬわけはなく、たちまち三、四カ月の停学になったが、そのころから少々頭がおかしくなり、最初は道を歩く時、鳥居や石碑を拝んでいたが、それが電信柱になり、橋の欄干になり、しまいには自分の寝床や枕を拝んだ。
山田敬一については、書きたいことが山ほどあるが、一足飛びにはしょって、私が中学を卒業し、一高へはいってからのことである。今の後楽園球場の少し先の、壱岐坂下を歩いていると、人力車に乗った山田敬一にあった。
「どうしている?」ときくと、早稲田の文科にいるという。きかれるままに下宿を教えると、三日もたたないうちに「おい、泊めてくれ」とやって来た。私が下宿を引っ越すと、彼も追っかけて同じ下宿へ来た。
そのうちに「ボクは大学をやめて、弁士になろうと思う」といった。弁士というのが、なかなか意気な商売だった頃であるし、いい出したらやめる山田敬一でない。
初舞台は溜池のローヤル館で、やがて浅草の世界館へ出るころは、ひとかどの顔になっていた。早大を二年まで行ったので、説明に英語をはさんだりして、芸名山田夢男といえば、ちょっとばかり売れッ児だった。
ある日私を訪ねてきて、
「実はキミに頼みがあるんだ。英語の字幕は、どうにか分るが、フランスものに困るんだ。ひとつ翻訳してくれよ」
当時、私は仏法科にいた。だから、これも勉強だと、浅草へ通ったわけなのである。むろん、相手が山田敬一……いや、山田夢男では、翻訳料などあてにしないが、それでも、たまに夕飯くらいはおごってくれるかと思っていると、散々働かせたあとで、彼はいったものである。
「ボクの英語もうまくないが、キミのフランス語も下手糞だねえ」
今日まで十年間、このことだけは、筆にも口にも出さないで来たけれど、もう、書いてもよいだろう。それは、皇太子さまに、音楽のお話を申し上げたときのことである。
中学以来の親友、金田一京助博士は何時だったかラジオの対談で「キミは、実に、思う通りの自由な生活をしてきたらしい」と、ほめるのか、非難するのか、分らぬことをいったことがある。謹直無比の金田一君から見れば、私の生活などは、すべてが、驚くべきケタはずれかも知れないが、この時の言葉は、私のレコード収集を指したものらしい。全くの話が、まずしい新聞記者の生活の中で、一万枚のレコードを集めるには、他のあらゆる欲望を犠牲にして、ずいぶんと、無茶苦茶な半生ではあった。
そのために、レコードの重みで我家の床が抜けたとか、いろいろのゴシップも飛ばされたが、半面では、十冊ばかりの著書も出来たし、母校の東京大学……当時の帝国大学で、十年間にわたって講演を続けたのも、それが因縁だったといえる。
最初は昭和九年の春で、山上御殿を会場にしたが、聴衆が多くてはいり切らず、二回目からは、二千人もはいる二十五番教室にした。法学部が中心ということだったが、他の学部からも集まったし、宮沢俊義博士なども常連の一人だったそうで、昭和十八年に軽井沢へ疎開するまで、一カ月に一度ずつ、重いレコードを提げては本郷へ通った。
疎開から帰った昭和二十三年に、再び大学からお座敷がかかったが、もう年をとったことだし、焼け跡の街を、レコードを背負って電車にゆられるのも面倒で、平に平に、と敬遠しているうちに、思いもよらず、東宮仮御所から、お使いがみえた。
十年ほども前だから、皇太子さまは、中等部ご在学のころだったと思う。バイニング夫人が、英語をお教えしたりして、西洋のクラシック音楽についても、一応の興味をお持ちになっていたのであろう。
私は明治生れだから、御進講などというと、なんだか大変なことのように思えて、この野人に、つとまるだろうかと心配すると、東大のことが、お耳にはいっていたものとみえて、大体、あんな調子でよいという。
さて、その日は、ブラームスなど、十枚あまりを選んで参上した。立派な御殿だなあ、と感じたのは、東京中がバラック住いで、私自身も庭の隅ッこの、掘立て小屋みたいなところにいたせいで、今にして思えば、それほどぜいたくな部屋だったわけではない。
皇太子さまをまんなかに、ご学友が五、六人。側近の人たちを合わせて、全部で十人あまりだった。レコードをかけながら、およそ一時間半ばかり、お話し申し上げたのだが、皇太子さまは、終始お行儀がよく、そして大層ご熱心で、いわゆる〝ご誠実〟というのが、そのものズバリの表現だと思う。お話は前後二回、申し上げた。
皇室に関する思い出は、もう一つ、昭憲皇太后さま……当時の、明治天皇の皇后さまの印象がある。これは別に、お召しを受けたわけではない。飯田町の横町から川端の道へ出たトタンに皇后さまの馬車とぶつかってしまった。時のはずみで、眼前三、四尺。皇后さまは、ニコッとお笑いになった。あれほど美しい女性の顔を、私は二度と見たことがない。警衛がきびしくなったのは、大正の末年以来のことで、昔はこんなこともあったのだ。
銭形平次捕物控は……ことに長編銭形には火事の場面が多いですね。
と、いってくれたファンがある。自分ではそうも思わないが、平次主従が閉じこめられて、危く蒸し焼きになりかけるのが、いわれてみれば三つ四つある。
私のうちが丸焼けになったのは、数え年で十歳の時、北上川の水がぬるみそめた四月の十日すぎだった。
「長一ッ。火事だよ」
起こしてくれたのが父だったか、母だったか、覚えがない。ねぼけまなこを、こすりながら、はだしで表へとび出した時、東の空が、しらじらと明けそめていたことだけが印象にある。
火元は裏の物置だった。馬のかいばが、一ぱい積みこんであった物置小屋を一なめにした火は、あっという間に、母屋を包んだ。村の寺と、高さを競うほどの藁屋根が一団の紅蓮となるさまは、まともに見ていられないほどの物すごさだったが、村には、まだ、ポンプというものがなかったので、手をこまねいているほかはなかった。
軽いチフスの後で、まだフラフラしていた二十八歳の母が、一人でタンスを運び出したり、目の悪い祖母が杖と手ランプを持ち出して、後々まで話の種を残したが、父は村人たちに説いて、消防組を組織させ手押しポンプも購入させた。父は、のちには村長をつとめたが、当時は助役だった。
さて、問題は原因である。物置小屋に火の気はない。燃え草としては絶好のよく乾燥したかいばはあるが、馬がマッチをするわけはない。
とにかく雨露をしのがねばならぬから、ちっぽけなバラックを急造し本建築は五月から十一月までかかった。ところで当時、若い作男が住みこんでいた。二十歳すぎで、もちろん独身だったが、建築工事が始まると、いや、もう、働くの働かないの、全く死にものぐるいである。誰も何ともいわないのに、夜を日に継いで働きつづけ、そして建築落成の日に、ふっと姿を消してしまった。北海道へ渡ったとの噂もあったが、それすらも、はっきりとは分らない。
なにしろ、若い男である。ひざッ小僧を抱いて寝てばかりも、いられない。夜風とともに出て行った。夜明け近くに戻ってくると、戸がしまっている。ちょっと一休みと物置小屋へはいり、一服つけている間に、寝込んでしまったのでは……。
誰も見ていたわけでない、彼が白状したわけでもない。だがそう考えることが、一番筋が通るようだ。一体、あの男は、なぜいなくなったんだろうと、子供ごころに私は、ずいぶん考えた。考えて、考えて、考え抜いて、ははあーんと、ナゾをといたおもしろさが、後年、私に捕物小説を書かせる遠因になったというのであれば、これはすこぶるおもしろいが、どうも、それほどの関連はないらしい。
しかし半年間の仮小屋暮しは、いたずら坊主にはたのしかった。大ぜいの大工が、はいって建て前ができ上り、やがて、建具屋や畳屋が来た。この畳屋の親方というのが、頭はうすくなっていたが、すごく記憶のいい人で、昔話を無数に知っていた。のちに佐々木喜善氏が収集した『紫波郡昔話』や『聴耳草紙』にあるような、岩手特有の昔話を、私は毎晩、この親方にせがんだ。物語というものの魅力に、私がとりつかれた動機の一つは、たしかに、この中老の畳屋さんにある。
「昆太利物語」といったところで、今の人たちには、分るまい。第一、昆という字が制限漢字で、新聞社に、活字が、あるやら、ないやら、甚だ心細い。
だが少年の日の私は、この一冊の小説のために、やせ細るほどの思いを続けた。夢中になって、読みふけっている最中に、ひょいッと、取り上げられた口惜しさ、腹立たしさ。私は、その後ほとんど半世紀の間、この一冊を、夢にまで追いかけたものだった。
私の父は、田舎の村長として、その生涯を終ったが、正規の学問をしなかったことが、よほど骨身にこたえたのであろう。本と名のつくものは、手当り次第に買い集め、明治初年に特有の、日本紙に活字で印刷した蔵書の山が、土蔵の二階に一ぱいあった。
無口で、無愛想で、人間ぎらいだった私は、まだ学校へも上がらないころから、土蔵に立てこもるくせがついた。
「長一がいないよ。また土蔵だろう」
母は、私の姿が見えないと、必ず土蔵へ捜しに来た。四書五経から軍記もの。さては絵本太閤記から黒岩涙香の翻訳小説まで。雑然と積み上げられた中で、私は、十になり、十一になった。
心配したのは父親である。雑書の乱読が、てきめんに効いて、尋常小学校で二番の私が高等科では、六十人中の五十七番まで下がったのである。父が一大決心を固めたのも無理はない。
父は、町から古本屋を呼んできた。そして小説や草紙など柔かいものを、全部売ってしまったのである。前年の火災にも焼け残った白壁の土蔵へ、何回も上がったり下りたりして、大風呂敷に包んだ古本屋は、幾度にも分けて、町の方へ運んで行った。私は泣きながら、はだしで追っかけて、北上川の渡し場で、地団駄ふんで、古本屋の袖に武者ぶりついた。
あとには固い本だけが残った。私は、当分、狐つきが落ちたような顔をしていたが、やがて母親から小遣いをせびっては、町の本屋へ行って一冊二冊と買い集めた。おもに翻訳小説だった。岩見重太郎や八犬伝は、すでに卒業していたからでもあるが、翻訳ものの世界の方が、くらべものにならぬほど、おもしろかったからであった。中でも、昆太利物語には、夢中になった。
主人公のコンタリー・フレミング(これを昆太利・布令民と書いてあった)が悪玉たちの計略におちいり、いろいろと艱難辛苦するが、知勇をふるって政敵を倒し、父の大臣を助けて外務次官となり、花のベニスで美しい令嬢と結ばれる。岩窟王などと同類項の冒険痛快小説なのである。
その昆太利が、政敵と、いよいよ対決の場面まで読み進んだ時、この本もまた取り上げられてしまった。古本屋へ売られたわけでないが、二度と私の手に帰って来ない。
さあ、私は、眠られない。昆太利は、果して外務次官になれるだろうか。相思の美女はどうなったか今から思えば、馬鹿な心配だと思うけれど、本当に読書のとりこになった人だけが、この執念は、分ってもらえるだろう。
何十年かたって、東京の古本屋で同じものを見つけた時、一議に及ばず買い取って今も私の本箱にある。奥付を見ると「明治二十三年十一月発行。原著者ビーコンス・フィールド伯。訳述者、福地源一郎」。
人間は、一個の生物としては、弱いものである。トラにかまれて死ぬ人もあれば、ハチに刺されて死んだ子もある。
まさか、ハチなどには……といってはいけない。論より証拠。この私が、何千匹のハチに囲まれ、ほとんど、死にかかったことがある。
私の村から、高等小学校のある町へは、北上川の渡しを越えて一里半ある。堤があり、畑があり、やぶがある。そのやぶの中に、熊ン蜂の大きな巣があった。
何か、悪戯の種はないかと、がやがや、やって来た学童連の中で、大将株の一人が、いきなり、石を投げこんだ。グワーンと、真っ黒に飛び立ってくるのを、一同は素早く逃げ出した中に、私一人が取りのこされて、顔といわず、頭といわず、もしも、人が通り合せて、助けてくれなかったとしたら、確かに生命はなかったろうと思う。
子供たちの世界では、分類すると、ふたいろになる。いじめっ子と、いじめられっ子とである。私なんぞは典型的な、いじめられっ子で、学校への行き帰りは、毎日、泣かされてばかりいた。無口で、ねむそうな顔をして、いささかスローモーションなところが、小さなボス共には、手頃な玩具だったに相違ない。
その中の一人は、のちに顔のよいバクチ打ちになった。一人は憲兵の下士官になり、もう一人は、貸座敷の亭主になった。いずれも、せんだんは双葉より芳しく、強烈な腕ッ節に物をいわせて、いじめっ子の特権を誇示していた。私にとって、苦難時代は、二年か三年つづいた。
ところがである。フトしたことから、私は、この小ボス共を征服し、一躍して、王子様の地位についたのである。それは私が、読みためた物語を話してやるように、なったからである。
最初は、何の話であったか記憶しない。十数人の小学生が、土手の芝に長い影を落して、退屈な道を帰ってくる途中、何気なく、しゃべったのが、きっかけだった。文化に遠い、明治二十五、六年ごろの少年たちが、鉄仮面やモンテ・クリスト伯に、どんなに驚喜したことか。
「野村。明日も話をきかせろ」
「うん。こんな話なら、三年でも、五年でも、種は、あるぞ」
私は、はじめて胸をそらせた。
それからは、来る日も来る日もしゃべりつづけた。真っすぐに帰るのが惜しくなって、一里半の道を二里に歩き、オキナ草の咲く川原にねころんだり、風呂敷を小枝にかけて天幕の代用にしたり、時には、学校をサボってまでも、話に夢中になったものである。何十年か、たって、私を作家生活に追いこんだのは、こんなところに原因があったのかも知れない。
さて、初めに戻って、蜂であるが、顔にも頭にも、一面にぶら下がった蜂の群は、むしっても、むしっても、剥がし切れない。医者へかつぎこまれた時、私の頭は冬瓜のように腫れ上がり、その跡が、今度は逆にへこんでしまった。七十年後の現在でも、頭のてっぺんが、親指で押したほど窪んでいる。つまり脳味噌の容量が何百分の一か縮小してしまったわけで、これがなかったとしたら、私の頭は、もう少し利口になっていたかも知れない。
盛岡市外に高松の池というのがある。昔は上田の堤といった。東京でいえば、不忍池くらいの大きさがある。明治三十三年の中秋に、生意気盛りの中学生が、ここで月見としゃれたのである。
地酒の一瓢をたずさえたかどうか、記憶にないが、船は二十人ばかり乗れるのがあった。私は北上川に育って、棹には自信満々である。池のまんなかまでこぎ出すと、お粗末なお弁当をひろげて、歌と俳句の会を開いた。石川啄木もいて、私はお付合いに、生れてはじめて短歌というものをひねくった。
東京を去ること百三十里。因習の町の盛岡に、中学生の大ストライキという大変なことが、勃発したのは、これから四カ月の後である。平家打倒の鹿ヶ谷の密議を真似て、学校当局糾弾の第一声を、月下の船中にあげたのだ……と、ものの本に書いてあるが、これは、少々、潤色がすぎるようである。
事の起りは、古くからいる先生たちが、保身のために手を結んで、若くて優秀な先生が、東京あたりから新任してくると、奥女中式のやり方で、いびり出してしまう。論より証拠、鈴木先生もやめた。岡本先生もいびり出されたではないか、というのである。
今にして思えば、若い野心的な先生が、盛岡なんぞに長く足をとめるわけがない。機会さえあれば、中央へ出たがるのは当然で、必ずしも中古品の先生の、意地悪だけではなかっただろうが、なにしろ、みんな生一本である。よしッ。やっちまえ……となったのである。
年があけて三学期になった。鷹匠小路の私の下宿に二十人ほどが集まった。五年生は卒業前だから、これは渦中に入れたくない。私たち四年生と、三年生の一部とが主力になる。基本方針は三カ条だ。第一、小姑先生二十人ほどは全部引退してもらう。第二、県当局、父兄、新聞社など、強力に陳情し、説得するが、決して暴力には訴えない。第三、試験は絶対に受ける。試験をごまかすためと思われては恥である。
ここで、再び啄木に触れるが、多くの石川啄木伝が、彼をストライキの号令者のように書いているのは間違いである。主力となった四年生が、三年生の啄木に、引きずられるということはない。ただし、三年生の委員として、クラスでは最も働いた。
さて、一足とびに結論をいうと、生徒側の一方的な大勝利であった。もっとも、生徒の中にも、幾人かはストライキ反対派があって、その代表格の田子一民君と、私は大論戦をやった記憶があるが、つるし上げも、暴力事件も行われず、当局として、処罰の理由も口実もなかったのであろう。全員が無傷で進級し、そして先生側はというと、ほとんど全部が退職か転任になり、あとには若い近代的なのが、主に東京から補充された。これほど完全な勝利は例がないだろう。
ところがである。この事件を境として、人材の輩出が、ぴたりととまってしまったのである。郷古、金田一、田子、及川、板垣、弓館など、盛岡中学の最も豊作といわれたのが、それからあとは、ぴったりである。古い先生たちは気骨があった。新しく来た人たちは、教育技術だけあって、何か一本、背骨が足りなかった、と批評する人もある。
私が生涯にやったことで、盛岡中学のストライキだけは、唯一つの失敗だったのではないかと思っている。
世の中に、迷信も数々あるが、
「小説は誰にでも書けるものだ」
と思うのは、最も重大な迷信の一つだ。小説は決して、誰にでも書けるものでない。
私は俳句を十年やった。中学の三年から始めて、高等学校では、俳句会の幹事までやったが、八十に手のとどきそうな今日、まるきり作れないといってよい。十七文字の短詩形がおそろしくて手が出ないのだ。
和歌の方は、もっと前から、おそろしさを感じたように思う。石川啄木などと親しくしていながら、ついに、手を下す勇気がなかったのである。それでは、小説は、どうだというのか。
またしても、古い話になるが、私の本棚に「文学者となる法」というのがある。明治二十七年発行。定価三十銭。著者は三文字屋金平という人であるが、この本は、なかなかおもしろい。
はじめに色刷りの口絵があって、大ぜいの若者たちが、馬と鹿に乗って、文学の園へ押しかける。「これより文学国」の標柱が立っているが、わきに「ただし、骨あるもの入るべからず」と添え書きがあり「名物骨ぬきだんご」の看板が出ている。
目次を見ると「交友における文学者の心得」とか「出版者の待遇法」など、六十五年も昔の本にしては、出来すぎである。その内容を二、三引用してみると、
「……文学者たるには、まず、次ぎの三カ条を守らざるべからず。
第一、おのれが売れっ子なることを吹聴すべし。甲の書店にゆけば、乙の本屋より原稿を催促されて困るといい、丙の出版者にあえば、丁のものを請合っていると話すべし。
第二、原稿料は十倍にして披露すべし。たとえば、十円のものは百二十円くらいに輪をかけるべし。
第三、なるべく本屋の御機嫌をとりて、他人には、おのれが、その本屋の黒幕宰相であるかの如く物語るべし……」
錯覚を起こさないために念を押しておくが、これは六十五年前である。決して現代の小説手引きではない。読めば読むほど愉快であるが、その終りの方で、文学者の報酬をご丁寧に計算してある。
「……浪六先生の『三日月』は、一冊定価二十銭にて一万二千部発行と見積れば、総計二千四百円。しかして、全巻の字数およそ三万六千字なれば、一字は七銭に当る……」
右のような筆法で、誰先生は四銭。誰先生は一銭五厘。森鴎外氏の『水沫集』に至っては、一厘にも満たない僅か八毛であることを、割り算や掛け算の式によって見せてくれている。
これを今日の数字にくらべてみるとどうなるか。他の人のことは、見当もつかないから、私自身の場合で、胸算用をしてみると、物価は当時の一千倍にもなっているのに、著者の実収は、ものの百倍とは、なっていない。
ということは、小説を書くことのむつかしさ。小説によって衣食することのむつかしさである。決して楽々と書けるものでなく、豊かに暮せる仕事でもない。そうと知りつつ、こうした本を、買いこんでいた私という人間も、あまり利口ではなかったのだろう。
中学時代をいささか書きすぎた。この辺で話題を、ぐっと引き寄せることにしよう。
父親というのは、ありがたいもので、五十幾年もたった今日でも、どうかすると、夢を見る。夢の中の父親は、手のつけようもないほど不機嫌で、
「馬鹿者め、絵描きになりたいなどとは何事だッ」
と、しかるのである。
私の父親は酒はきらいであったが、恐ろしくタバコずきで、まことに機嫌のよい人であった。何時も、いやな顔を見せたことがなく、大きな声で、屈託のない話をするのがすきだった。それが、この時ばかりは声をふるわせて怒ったのである。絵描きになりたいと言った私の言葉が、よほど、カンにさわったのであろう。
私は大人になってから、三年に一度くらい、気が向くと水彩画を描いてきた。いま、あるのは、郷里の家の白壁の土蔵と、軽井沢の緑陰と、二枚だけになってしまったが、これを自分の居間の壁に、広重の五十三次や、マチスのクロッキーと並べて臆面もなくかけている。視力さえ許せば、これからも、まだ描いてみたい。
しかし、五十年前の父親には、絵を生涯の仕事にするなどは、全然、理解の外にあったのであろう。父親の見ているのは、村から村を回って、フスマや掛軸に下手くそな松竹梅などを描き、わずかばかりの紙包みをもらってゆく旅絵師の姿だけだった。音楽、美術、文学、芸能に、子供を無暗と駆り立てる近頃の親とは正反対だったのだ。
父は、私を医者にするつもりだった。どうして、あれほど執着したのか分らない。おそらく当時の農村では、お医者様ほど尊敬される職業はなかったからであろう。何が何でも医者になれと、頭ごなし至上命令なのである。
そのころ石川啄木は、海軍の軍人にあこがれて、兵学校を目ざしていた。彼が首尾よく腰に短剣をつっていたら、日本の歌壇は、どうなっていただろうか。もしも私が、もっと親孝行だったとしたら、銭形平次というものは……。
いや、医者に文筆家は、なかなか多く、本業よりもその方で有名になった実例は、十指にあまるほどあるから、やってみなければ分らないが──
とにかく、私は、医者だけはどうしてもいやだった。絵描きが駄目なら文学だが、文学で飯の食える自信はなかった。
母親はどんな顔をしていたろう……と、思い返してみるのだが、何も言われた記憶がない。半世紀前の女親は、純良な空気みたいな存在だったのだ。
「頼むから医科へ行け」
「文科ならゆきます」
両々、大いに頑張った末、たして二で割る現代の政治家ではないが、法科ということで妥協した。せがれが役人か弁護士になる夢で、父も我慢してくれたのである。
早速、上京して受験勉強である。三月から七月まで(当時は七月が入学試験)本郷の下宿を一歩も動かず机にかじりついたら、別人かと思うほど、やせてしまった。なにしろ、秀才でも優等生でもなかったのだから一高合格ときいた時、中学の先生たちも、
「へえ? 野村のやつが……」
と、きモをつぶしたそうだ。何も自慢をするわけではない。人間は一生に一度くらい、滅茶苦茶の糞勉強をする期間があってもよいと、私は今も信じている。
一高から東大と、平凡に進んで、やがて卒業という時に、父が死んだ。そこで、中退して新聞社にはいったのが、明治が大正と改まる前年である。
はじめは政治部。それから社会部、文芸部と移って人物評論や連載よみものを書き、長編小説も三つ四つ新聞に発表しているうちに昭和六年の春、ふとしたきっかけで、銭形平次を書くことになった。これが、私のライフ・ワークになろうとは、最初は考えも及ばなかったが、ついに、連綿として二十七年間、編数にして、三百八十三という、われながら、大変なことになってしまった。
銭形平次の誕生ばなしは、いくら書いても書き足りないが、その前に、新聞記者時代を、少しばかり書いてみたい。
父に死なれると、私はもう、法律なんぞ、勉強する根気がなくなった。それに、白状すると、もう、その頃は女房があって、子供があった。何とかして、食わせる工夫をしなければならない。
叔父や友人に相談すると「新聞社はよせ」といったが、私には、何か不思議な魅力があった。それに、新聞社なら簡単にはいれそうだった。
口をかけた社は三つ。朝日と中央と報知でいずれも、そのころの一流紙だった。朝日の編集長の佐藤北江氏は、同郷で、よく知っていたが、
「警察回りならあるだろう。渋川玄耳君(社会部長)に話しておく。明日でも、会ってみるがいい」
といってくれた。私は、警察回りというのがいやで、そのまま、すっぽかしてしまい、あとで佐藤氏に、うんと怒られた。警察回りという仕事が、実は新聞記者の表玄関で、決して馬鹿にしたものでないと知ったのは、新聞人になってからのことである。
中央新聞へは、のちの総理大臣、原敬の紹介状を持っていった。原敬も同郷の先輩であるし、そのオイの原達は、盛岡中学で、おれ、きさま、の仲である。
「よし。それなら、伯父に紹介させよう。秘書に書かせればいい」
秘書の高橋光威氏に話して、原敬の名で、中央新聞の横井時雄編集長に紹介状を書いてもらった。
これで大丈夫だ。と、原達君が保証するので、そのうち横井氏を訪ねようと思っているうち、現在の有楽町のそごう百貨店、当時の報知新聞社の角で、これも旧友の安村省三にあった。
「何をしてるんだい?」
「新聞記者になりたいんだ」
「なら、報知へ来いよ」
安村君は、すでに報知にいた。そのまま私を引っぱって、編集長の村上政亮、政治部長の高田知一郎の両氏に引き合わせた。
「キミ、外交がいいか。それとも内勤か」
高田部長は、挨拶も何も抜きで、いきなりこんなことをいう。
「それは、その……」
「そうか。なら、政治部の外交ということでどうだ。今日から入社したまえ」
今日の何百人に一人という競争率から考えると、まるで神代の話である。こっちが、ろくに返事もしないうちに、入社の件は、きまってしまったが、さて、乗りこんでみて、驚いた。
原敬の名前が出たついでに、この郷党の先輩について書いておく。
公人としての原敬は、私も政治部記者として、芝公園の私邸にしばしば訪ねたが、彼がもしも凶刃に倒れず、あと十五年も生きていたら、太平洋戦争は起らずにすんだかも知れない。
「原敬日記」にある通り、参謀本部の廃止まで考えていた彼である。
だが、そんな問題は私が書くまでもなかろう。私の知ってる原敬は、親友原達の伯父さんとしての姿である。
原敬は俳号を一山といったし、達は若人らしく抱琴と号した。オイが伯父にすすめたのか、伯父の方が先だったのか。ともかく、腕前は、比較にならぬほど抱琴がうまかった。それをまた原敬が、目を細くしてほめあげて、法律論でもフランス語でも、碁でも俳句でも、不思議とあいつは、おれよりうまいよ、とニコニコしていたのを思い出す。
鳩山一郎氏も、同じ時代の一高生だから、何かの折りにきいてみた。「原抱琴なら、よく覚えているよ。長生きしたら、原敬以上だったろうな」と、鳩山さんも残念そうだった。自分自身が、あんな具合だったから、大志を抱いて健康にめぐまれぬ若き日の友人が、ひとしお思い出されたのだろう。
抱琴は全く病弱であった。東大へ進んでからも、半分以上は休んでいたくせに、平均九十三点とか九十五点とかの大記録を出したことがある。
はじめは、本郷森川町の紅葉館というのにいて、当時、外語の学生だった大杉栄も出入りしていた。大杉は頭のよさを自負していたが、抱琴にだけは、心から傾倒していたようである。
やがて小石川の下宿に移り、間もなく赤十字病院に入院した。原敬は、その時、内務大臣だった。政友会の実力者、次ぎの政局のホープとして、身体が百あっても足りそうもないのに一週に一度は、必ず病院にやってきた。議場に立てば、白頭鬼と恐れられた剛腹漢と、これが果して同一の人間かと思うほど、やさしく、こまやかに気を使い、入院費用を、だまって、そっと払って行った。
抱琴が死んで初七日に、私たち若い仲間が築地本願寺で追悼会を開いた。
「今日は、まさか来ないだろう」
「議会の開会中だからなあ。相撲の本場所、将棋指しの御前勝負、親の死目にも抜け出せないというやつさ」
私たちは、原敬は来ないものときめこんで順繰りに焼香をすませた時だった。表に車のとまる音がして、あの美しい白頭が、静かにはいって来た。そして、丁寧にお辞儀をして、
「達が、生前は、まことにお世話になりました。今日は、また、このように……」
粛然として、可なりの時間を、私たちと一緒に思い出話に加わった。
「いい伯父さんだなあ。おれにも、こんな伯父がないものかなあ」
後々までも、集まると、その話が出た。この抱琴が、骨を折ってくれた新聞社を、私は結局敬遠したが、そこは、政治色の強い社だったから、もしもそこへ行っていたら、銭形平次を書く代りに、政治評論家になっていたかも知れない。抱琴については、もう一つだけ、書いておきたいことがある。
原抱琴が若くて死んで、私は新聞記者になり、作家になり、銭形平次を何百か書いて、戦争が始まり、戦争が終り、およそ四十五、六年もたった昭和二十七年に、私は、東京のある新聞に、抱琴の思い出を書いた。すると、それから三日目に、思いもよらぬ手紙を受けとった。
手紙の主は「荻窪の一老女」とある。水茎のあともうるわしく、相当の教養を思わせる文章である。すでに六十五、六歳……というのは、読み終えてからわかったことで、手紙から受けた感じは、申し分なく若々しいものだった。
私の書いた一文を読んで、原抱琴を追想し、思いあまって筆をとったことを謝し、手紙の主と抱琴とが、どういう知り合いであったかを、美しい文章で描き出してある。
その時から、およそ四十五年前(現在から数えれば五十二、三年前)やがて大正になろうというころ、彼女は、本郷のレストランにいた。数え年の十九か二十で、学資のために働いていたのだ。今でいうならパート・タイマーであろう。学校へ行くのが目的なのだから、バーやカフェーはもちろんいやで、まじめな学生街を選んだのだ。そこへ抱琴が、ほとんど毎日のように来た。のちに大使になったという仏法科の友人と二人づれが多く、静かにランチをたべていた……と、手紙はそこから始まっている。
「私は、何かのことでプンプンしていたら、原さまは、ノートのはしに俳句を書いて、私をからかった。その句は今でも覚えているが、きまりが悪くて、ここには書けない」
と書いてある。当時十九の美少女は、真赤になったことであろう。四十五年後に手紙を書きながらも、あるいは、頬を染めているのかも知れない。
「原さまが、風邪をひいて寒がっていたので、私は行李から新しい私のあわせを出して、着せかけてあげた。その縞がらが、今も、目の前にうかんでくる」
「赤十字に入院されたときいて、お手紙を差しあげたところしばらくたって、郷里の盛岡から岩手富士の絵ハガキが来た。その中のフランス語が読めないので、お店に来る商船学校の先生に読んでもらった」
「原さまが、生きていらしたら、どんなに世の中のお役にたったことでしょう。私の名前を申し上げないのは失礼だが、もし、お許しいただけるなら、原さまの命日を、新聞の片隅ででも教えていただけませんでしょうか」
ここで、手紙は終っている。
私は、抱琴と最も仲のよかった元大審院検事柴碩文君に問い合わせて、抱琴の命日を同じ新聞にのせてもらった。手紙の主からは、重ねて何も便りはないが、おそらく読んでくれたのであろう。
明治の末に抱琴が、よく行ったといえば、青木堂か、淀見軒か、あるいはパラダイスか本郷カフェーか。大使になった友人というのは、杉村陽太郎か、堀田正昭あたりであろう。
原抱琴に恋人があったということは、仲間の誰もがきいていない。病弱な彼に、恐らく、それほどの行動力はなく、乙女心のひそかなときめきにすぎなかったかとも思うが、事実は、時に、小説よりも美しく悲しい。
私は、抱琴のために、ページをさきすぎたようだ。急いで新聞記者時代に移ろう。
入社願いも戸籍謄本もあらばこそ、
「では、今日から……」
と、新聞記者になったのはよいが、月給日になって驚いた。一カ月分の給料が、大枚二十円なのである。
今日ならばハガキ四枚である。銭湯には、はいれるが、都電の往復は駄目だ。
当時米が一升いくらしたか記憶にないが、それにしても、いささか見切り品である。新聞界の大元老、松崎天民氏が「百円たらずの月給にしばられ……」と、慨嘆するのか、自慢するのか分らぬことを書いていたし、現に私と前後して、同じ社へはいった本山荻舟君は、私の二倍より多い四十五円だ。
もっとも荻舟君は、よその社にいたのを、引き抜かれて来たのであるが、私同様のニューフェイスが、三十五円だったのには、腹が立った。きいてみると、三十五円也というのは、大学卒業生の相場で、私は中退だから、というのである。一年や半年、法律の本をよけいに噛ったかどうかが、十五円ものひらきになるのは腑に落ちないが、日本の病弊である形式偏重が、新聞社にさえ、すでにはびこっていたのであろう。
「ええい。それなら勝手にしろ。こっちは、こっちで考えがある」
とは、しかし、私は考えなかった。すねてひねくれる代りに、死にものぐるいで働いてみせることにした。それにしても、二十円では困るから、編集局長に談判して、翌月から車代として五円もらった。
これをスタートとして、私は同じ新聞社に三十三年間、籍を置いた。もっとも後半の十幾年は、連載小説をのせるのと、時事川柳の選をするのだけが、お役目で、甚だズボラな存在であったが、新聞を愛することでは、絶対に人後に落ちない。もしも、その社がつぶれなかったら、今でも私は、新聞人の末席にぶら下がっていただろう。
のちに、銭形平次とガラッ八を主人公にして、捕物帳を書きはじめた時、友人たちは口をそろえて、
「あれは、親分と子分じゃないな。むろん、師匠と弟子でもなく、殿様と家来でもない。どこから見ても、社会部長と部員との関係だ」
と、ひやかした。そんなことを意識して書いた覚えは、さらさらないが、言われてみれば、そうかも知れぬ。子供の時から読み溜めた何万冊かの乱読が、タテの糸になっているなら、三十三年の新聞生活が、ヨコの糸を作っているのだろう。
私が、はじめて入社した日。命じられるままに駆け回って、いささかの得意感と共に帰ってくると、社会部の先輩記者の一人が、一升徳利を机にすえて、茶碗でグイグイやりながら、自分で自分の文章に陶酔し、大江山の酒顛童子ほどの勢いで、大原稿を書いていた。なるほど、こういう具合でないと、名文というものは生れないのかと、キモをつぶしたことは、今でも忘れない。その酒顛童子が、誰であったか、覚えているような気もするが、もう一つ、はっきりしないので、ここに書くのは遠慮する。
私の先輩や同僚には豪傑もいた。奇人もいた。いずれも新聞を、こよなく愛した人ばかりだ。思い出すままに書きつらねてみたいと思う。
佐藤垢石君は、釣と雑文で、晩年は大変な人気男になってしまったが、私が社会部長当時、まことに重宝な部員であった。
例の、一風かわった随筆集に、私のことも、たびたび出てくるが、その中で、たった一カ所、ウソがある。彼と私が編集局で、取っくみ合いのケンカをやったと書いてあるが、あれは文章の綾でなければ、フィクションだ。私には、そんな覚えがなく、第一、垢石君は、あの通りのやせっぽちだし、私は、二十三貫あった。もしも、やったとしたところで、ポン! と一発で、きまってしまう。
もっとも、ケンカの花は、相当に咲いた。社の中でも咲いたし、外からも咲かされた。暴力団の親分二人が、記事の腹いせか何かであろう。ギラギラするやつを抜き放して、二階の編集局へあばれこんだのを、サトウハチロー君の厳父、当時の若手記者佐藤紅緑氏がモロに叩き落した。
二人は腰をさすって退散したが、お化けと愚連隊は、消えたあとがこわい。お礼まいりに来るなら来てみろと、覚悟をきめていると、それっきり来ない。あとで調べると、あんまり見幕がすごかったので、敵は戦意を失った。それほど水ぎわ立った武者振りだった……というのは、私が入社する少し前のことである。
出世作「三日月」で、世に出るまでの村上浪六は、浴衣にネジリ鉢巻というベランメエ姿で、校閲部にとぐろを巻いていた。松居松葉は、六人前の仕事をしたが、村井弦斎は十二人分の仕事が出来た。そういう伝統の残っている編集局だった。
私を紹介してくれた安村省三は、列車の便所で名声をあげた。外国からの国賓が、入京する日のことである。東京駅はまだ出来ず、新橋駅へ着くのだが、新聞記者は、中へ入れない。ホームを二つばかり越えた待避線に、空の列車があるのを目につけ、前の晩からその便所にもぐりこんだ。いよいよ到着の光景となって、そっと便所のまどをあけると、隣の客車の便所から、同じように頭が出て、
「やあ、安村君、くさくないかい」
と言ったのが、朝日の杉村楚人冠氏だった。眼でみた到着風景は、むろん、両者だけの特ダネになった。
谷好文という、いい記者がいた。本所に宵強盗があって現場へとんだ。被害者のお婆さんに話をきくと、覆面して侵入した強盗は、ものを言わずに手真似で脅かし、奪った衣類を風呂敷へ包み、ヒョイと左の手を曲げて水平に載っけたというのである。
「娘強盗」……と谷君は書いた。男なら小脇に抱えるか、首ッ玉へ結ぶだろう。二の腕へ載せるのは女のしぐさだというのである。
男か女かを見破る話は、私も幾度か捕物小説に書いた。外国の小説には、ボールをワンバウンドで投げてやると、相手は、ひざを開いて受けとめようとした。男装をしているにかかわらず、何時もスカートをはいている癖が、無意識に働いたというのであるが、谷君も、それに決して劣らない。のちに捕われてみると、果して娘強盗で、横浜刑務所に収容中、自殺してしまったが、今ほど事件のない時だけに、これは、なかなかの大ニュースだった。それだけに、谷君の手柄は、ひときわ光った。
喧嘩の話といえば、田中万逸君を思い出す。のちに政治家になってしまったが、若き記者としての万逸君は、名著『生死の境』を書いたりして、腕っこきの一人であった。この田中君が、小川煙村と喧嘩をおっぱじめた。
何が原因だったかは忘れたが、万逸君は、すごく腹を立てた。腹を立てて、どうするのかと思うと、おもむろに便所にはいった。そして、ゆっくりと用を足しながら、彼我の腕力や運動神経など、あらゆるデータを慎重に比較検討し、「どう考えても、ボクの方が勝つに相違ない」と見当をつけ、さて、それから、煙村をなぐった。熟慮断行のサンプルとして、当時は、好評サクサクだった。決して、これは、フィクションでない。
明治が大正になり、桂太郎が、内大臣から再び首相に返り咲くと、いわゆる憲政擁護の騒ぎが起こった。あの政争は、今から見ると、いろいろと眉ツバの点もあったろうが、宮中府中の別をみだるものとして、尾崎咢堂、犬養木堂の両堂が、真ッ向から肉薄した弾劾演説は、日本の雄弁史に永遠に残るものだ。私は、あれを聞き得ただけで、新聞記者になって貧乏と忙しさに引きずり回されただけの値打ちは、あったと思っている。
羽織姿のスマートな咢堂が、首相の席を指さしながら、
「衮竜の袖にかくれ、玉座を盾として人民を砲撃するもの……」
と、詰めよると、桂太郎は色を失って、わななく案山子のように、見えたものである。
つづいて登壇した木堂が、
「臥榻のかたわら、他人の鼾睡をゆるさず……」
と、今日では活字もないような、激越な漢文口調で追撃すると、さすが太ッ腹の桂首相も、ありありと顔色が変ったのを覚えている。私は生涯に、これほどの雄弁を見たことがない。
藩閥内閣を倒せというデモから暴動に変った群衆は、政府支持の各新聞社に押しよせた。私は、社の同僚と、政友会本部につめていたが、先輩の川口清英君と、辰巳豊吉君は院外団になぐりとばされた。私だけが無事だったのは、逃げ足が早かったためでない。まだ駆け出しの新米だったので、彼らの眼中になかったのであろう。
急いで本社に駆け戻ると、まさに群衆が包囲して、礫の雨を降らせている真ッ最中であった。ケガをしても、つまらぬから、一応、印刷工場へ逃げこんだが、このあとの、勤務評定はユカイであった。
握り太のステッキをつき、大言壮語していたのが、テーブルの下に、はいこんだり、小さな給仕や女の子が、窓ガラスのバリバリこわれるのを「ストライク!」と、おもしろがったり、いざとなった場合の人間心理は、のちに小説を書くようになって、私には、なかなか参考になった。
政治部を卒業してからは、経済、社会、文芸と、あらゆる記事を書きまくり、あらゆる面の編集をした。書かなかったのは、相場欄の記事だけである。私が、もう一度生れ変って、新しく職業を選ぶとしたら、文句なしに新聞記者を選ぶだろう。
さて、私自身であるが、月給二十円也の青年記者が、どんな身なりをしていたか、ともかくも入社がきまると、一生にただ一度の借金を叔父に申しこみ、金五十円也で、とりあえず紋付の羽織と、ピカピカのはかまを新調し、そのころ最新流行の、セルロイドの雪駄を奮発した。
明日になるのを待ちかねて、意気揚々と出社すると、安村省三がニヤニヤして、
「キミ、そのツルツルの雪駄だけは、よせよ。給仕が、たまにはいてるけれど、人間が軽薄にみえて、よくないね」
私は、一ぺんにペシャンコになった。雪駄はよしたが、和服はそのままで、結局三十三年間を押し通した。洋服というものは、六十をすぎてから、国民服で味を覚え、戦後は逆に、和服と全然、手を切った。年よりには、この方が便利でいい。
あらゆる職業の中で、新聞記者ほど、役得のないものはない。と言ったら、驚く人があるかも知れない。現在では、よほど、分って来たけれど、昔は、そんなことをいうと、反語だと思われた。壮士芝居や小便映画のデッち上げた幻影が、よくも、世の中に行きわたったものである。
遊び盛りの若い記者が、社からもらう僅かの車馬賃を、水増ししたりなんぞするのは、むろん、役得の中にはいらぬ。外部との、仕事の上の接触では、各社一緒に、ご馳走になるくらいが関の山で、キャッシュなどを見せられると、ふるえあがったものである。
社会部長をやっていた頃は、盆暮に小包郵便が来たこともあるが、私が帰宅するまでは、家内に決して手を触れさせず、差出人をたしかめてから、一々、返送させたものである。私が小心だったのではない。ほとんどの新聞人がそうだった。良心に忠実なためでもあるが、わずかばかりの物をもらって、一生を棒に振るなんぞは、損得の上から考えても、ソロバンに乗る仕事でない。
その頃、私は目白に住んでいた。女房が、日本女子大学に勤めていた関係で、あの高台にいたのだが、近くに役人の家があった。盆暮になると、小風呂敷を抱えた客で、列を作っているのをみて、キモをつぶしたことがある。
昔から、少しでも自負心のある記者は、劇評を書くにも、招待キップは使わなかった。世の中に、一流新聞の記者ほど役得のないものはなく、名のある新聞の記者ほど清廉なものはない。銭形平次と八五郎を、社会部長と記者のようだという人が、そこまで見ていてくれるなら、これは、まことにありがたい。
新聞と新聞記者が健康的なのは、国のためにも社会のためにも、こんな結構なことはない。と言っても、昔から、世間が、そう思っていたわけでない。今だからはっきりいってもよかろうが、ニックネイムを「井の角」といった政友会の井上角五郎代議士が、何かの会に朝野の名士を招待した時、
「新聞屋は飲ましさえすればよかろう。向うの部屋でせいぜいやりたまえ」
と、正直なことを言っちまって、猛烈なつるし上げを食ったことがある。私も、その時の一人として、グラグラするほど腹の立ったことを覚えている。ちょっとしたことが、何十年たっても忘れられないのは不思議である。
もう少々だけ、新聞社時代を書くことを許してもらいたい。
私が、酒も煙草も女もきらいであったように、佐藤垢石君が書いているが、これは、記憶違いだろう。私が煙草をやめたのは、大正十二年の震災からで、それまでは尻から煙が出るほどのんだ。まさに、銭形平次と同様である。酒量だって、一人前には、あったはずだ。
社会部長会というのがあって、各社の同業とも、つきあったが、朝日は山本松月氏。これは長谷川如是閑氏の兄だ。東日の松内玲羊氏は初代アナウンサー松内則三氏の兄だ。二六新報の水谷竹紫氏が、八重子さんの義兄であることは、いうまでもなかろう。いやに兄貴ばかりを集めたようだが、このほかに、千葉亀雄、土岐善麿、矢部謙次郎、山根真治郎、遅塚麗水の諸氏……遅塚氏は、日露戦争の従軍記者の生き残りだ。
社内では、作家の本山荻舟、同じく矢田揷雲、政治家になった芦田均、田中万逸、保利茂、太田正孝、放送局の初代の部長をつとめた煙山二郎……。
社会党の委員長、鈴木茂三郎君が入社したのも、私の部長時代だった。貧乏くさいくせに小意気で、才気煥発で、誰にも愛される好青年だった。私は、鈴木青年から、恋物語をきかされたような気がしてならない。あるいは夢だったかも知れないし、夢でなかったかも知れない。とにかく、寂しく優しかった先夫人を、私は幾度か見たはずである。
それから三十数年たって、昭和二十四年の秋に、われわれ捕物作家クラブが、浅草の花屋敷に「半七塚」をたてた。除幕式には、当時の総理大臣吉田茂氏や、広川弘禅氏から花輪が来た。捕物帳と政党とは、何の因縁もあるわけはないが、保守党の側ばかりが並んでは、どうも公正を欠くように見える。何とかならないか……と、クラブの幹事から相談があった。
除幕式の日はせまっていた。私は、長い間、交渉のなかった鈴木君に、久しぶりで電話をかけた。
鈴木君は、すぐに電話へ出た。そして、私の言葉が終るか終らないかに、
「ああ。いいとも。ぜひ、僕の花輪もならべてくれ。僕も銭形平次の愛読者の一人だよ」
そういう鈴木君の声は、昔ながらの友情にはずんで、受話器の中から、ピンピンと、はねかえって来た。
私は鈴木委員長(当時は書記長だったかも知れない)が、本当に平次を読んでくれたかどうか知らない。青年時代の印象から言えば政治家よりも文学者になりそうに思えた。銭形平次を読むよりも、シェークスピアか、ツルゲネーフの愛読者だったかも知れない。しかし、深夜の電話口で、すっかり、はずみ切って、「僕も愛読者の一人だよ」といってくれる心根は、まことにうれしいではないか。
この点で、芦田均君は、少々違う。ある席上で彼は言った。
「野村君の銭形平次を、私は一度も読まないが、私の家内は非常に愛読している様子である……」
ウソも方便の、お世辞派がはびこる中にあって、この無技巧の正直は、これは、これで、なかなか結構なものである。
新聞社の一室に、十年あまりも机をならべて、その人柄に感心したのが、将棋の木村名人である。
「あの、幾百篇の銭形平次は、どうやって思いつくのですか」
何かの折りに、名人は、こう言った。
「あんたが、詰め将棋をこさえるようなものさ」
私は、こういって、いっぱし、名人をやりこめたつもりであったが、冷静に考えてみると、これは答えになっていないかも知れない。十年間も、木村君と、鼻をつき合わせていたくせに、駒の動かし方さえも、私は知らないのである。
作品の中の銭形平次は、囲碁は、おっそろしく下手糞で、将棋の方は、やったことがない。自分では、気がつかなかったが、
「やっぱり、作者が出るものですなあ」
と、ある人に指摘されて、なるほどと思ったことがある。私も、若い時は、いくらか、碁石を握ったが、むろん、初段にも、一級にもなれるようなしろものでなく、それに、ある事件が動機となって、中途で、ぴたりとやめてしまった。このことは、別に、また書いてみてもいい。
話を木村名人にもどして、私が、木村義雄という人を、最初に、おや? と、思ったのは、おそろしく行きとどくことなのである。私より、二十歳は若いはずだから、私が四十代だったとして、まだ二十幾歳……いわば、人生の初年兵である。それなのに、給仕だの、小使だの、交換手だのという人に対して、われわれでも、気がつきかねるほど、行きとどくのである。
「これは、大変な人間だ」
と、私は、ひそかに舌をまいたが、その後、だんだんと、木村君の苦労話をきき、日蔭の時代に、ひとから受けたほんのちょっとしたまごころが、どんなに嬉しかったかということを知った。人間には、人生の体験を、人格完成の糧にする人と、その逆をゆく人とがある。棋士としての、棋風には、人それぞれの、ひいきがあるのであろうけど、誰がなんと言おうとも、人間としての木村義雄は、たしかに、近世の名人だと信じている。
そのほかに、特別の印象のある人といえば、一緒に社会部をやっていた徳光衣城君。私のあとをうけて社会部長になった御手洗辰雄君。それから、先にも、ちょっと触れた本山荻舟君と、高田知一郎氏。それに、社主の三木善八氏である。
高田氏は、敗戦を憤慨して、足利市在の天狗山で、自ら生命を断ってしまったほど、バック・ボーンの太くとおった、いわゆる慷慨の士であったけれど、詩人で、そして英文学者で、入社したばかりの私に、いろんな原書を持ってきて、「読め、読め」といった。社内に、原書の読めるのが少なかったので、同じ大学の後輩である私が、特に目についたのかも知れぬ。
社会部長から学芸部長に移った私に、小説をかけとけしかけたのが、高田、三木の両氏で、
「書くからには、沢山書いて有名になった方がいい、他の新聞へ書くのは困るが、雑誌や単行本なら、いくらでも書け」
と、おだて上げた。これは、大へんありがたいことで、せいぜい稼がせてもらおうと思っているところへ、昭和六年の早春である。文芸春秋社の菅忠雄君が訪ねてきた。
大抵の歴史は、さりげないところから始まる。
たかが、一つの捕物小説を、何も僭越至極な表現をする気はないが、この日、菅忠雄君が来なかったら、銭形平次は、こういう形で誕生していなかったかも知れない。
新聞社の二階の応接室……今は、その社屋のあとに、そごう百貨店が建っている……で、菅君は、私と向い合った。
よく知っている仲だから、別に改まった挨拶もない。給仕の汲んで来た出がらしの茶を一口のんでから、
「実は、オール読物という月刊雑誌をはじめることになった」
「で?」
「岡本綺堂先生の半七捕物帳ですね。ああいうものを毎月書いて、もらえないでしょうか」
「ふーむ。捕物帳をねえ」
私は、むろん、半七捕物帳を愛読している。探偵小説としては、どぎついところのあるものでなく、いわば、うすあじの作品と言えるが、江戸の情緒を描き出したあの背景は素晴らしいし、一服の、ほのあたたかい人情味とともに、芸術品としては、高いクラスのものだと信じている。
私は綺堂先生に逢ったことはない。前半生を新聞ですごし、政界、官界、財界の主要な人間とは、大抵逢っており、文壇人も、ほとんどが面識はあるのに、綺堂先生にだけ、一度も逢っていないというのは不思議である。だが、五度や七度、逢ったことのある人よりはその精神に触れているつもりだ。
岡本綺堂先生の半七は、ともかくも、日本の文壇には、大きなエポック・メーキングであった。一部に、多少は、毛ぎらいする人があるにせよ、大衆に愛されて育ってゆくことは間違いない。綺堂先生は、『新皿屋敷』や『修禅寺物語』だけでも、恐らく、不滅であろう。しかし、多くの大衆にとっては、半七捕物帳のない綺堂は考えられないことになってゆくのではなかろうか。
コナン・ドイルはその自叙伝で「もしも私が、シャーロック・ホームズなどを書かなかったら、文壇的には、もっと高い地位をかち得たろう」といっている。コナン・ドイルとしては当然の述懐であろうと思うが、われわれ日本の愛読者にとっては、シャーロック・ホームズを書かないドイルなんぞは、それこそ、縁なき衆生である。
私は、急に愉快になって、菅君にいったものである。
「半七そのままには行かないが、私は、私なりのものを書いてみましょう」
「それで結構です。イミテーションでない方がよろしい」
「しめきりは?」
「一週間では、無理でしょうか。十日でもいいのですが、創刊号のことですから、出来れば、なるべく早く……」
「よろしい。承知しました」
きっぱりと答えたのはいいが、さあ、一週間か十日しかない。もっとも創作というものは、半年かかったって、まずいものはまずいし、出来る時には一日だって出来る。
私が、その時考えたのは、二度も三度もくり返して読んでもらえるものということだった。トリックだけの探偵小説は、一度読んだら捨てられる。それでは、いけないのではないか──
私は当時、鎌倉に住んでいた。今は、もう少し、スピード・アップされただろうが、新橋、鎌倉間が、ざっと一時間と十分ぐらい。それに、新橋─有楽町間と、鎌倉駅から家までの電車と、かれこれ二時間ほどかかるこの時間を構想にあてることにした。
まず主人公は武士にしたくない。町奉行の下に与力や同心がいて、これは、ともかくも食禄を食んでいるが、そういうのは表に出さないで、半七老人と同様に、一介の町の目明しにする。ここまでは、簡単に肚がきまった。
私は、南部領の百姓の子で、三代前の祖先は、百姓一揆に加わっているはずである。道で、二本差した人間に逢うと、たとえ土砂降りの中でも、大地に手をついて……と、いうところまでは、明治生まれの私は体験していないが、それでも被りものをとって、目礼くらいは、捧げる習慣が残っていた。先祖が人を殺した手柄で、三百年の後までも無駄飯をくっている階級が、どうも、私は好きになれないのだ。のちには池田大助や、磯川兵助を書いたが、これだって、いわば、武士らしくない武士である。
だが、ただの御用聞きでは、芸がない。いろいろ考えているうちに、ふと浮かんだのが水滸伝である。北上川の土手づたいに、二年でも三年でも話せるぞと、村童たちに威張ったころから、頭のひき出しの中に、しまってあった百八人の豪傑である。
鉄の錫杖をふりまわす花和尚魯智深、馬上に長刀を操る九紋竜史進。二丁の斧をかるがると揮う黒旋風李逵。いろいろの風貌が浮かんでは消えたが、さて、鉄棒やマサカリは、捕物帳の道具にならない。棒の達人、豹子頭林沖は勇ましいが、江戸の町では、しょっちゅう、六尺捧をかかえて歩かせるわけにはゆかない。
そのとき、没羽箭張清が頭にうかんだ。百八人のそのうちでも、小石を投げる名人で、常に錦の袋に入れて腰にさげ、エイッと投げれば百発百中。三万余騎の大軍をひきいた敵の大将、阿里奇さえ、小石一つで落馬させてしまう。これだ、これだ!
しかし、小石のままでは芸がない。泰平の世に、誰でも何時でも持っているもの、所持することが不自然でないもの……と、なると、銭ということに落ち着かざるを得ない。
普通の一文銭なら軽すぎるが、徳川の中期から出来た四文銭。裏面に波の模様のあるいわゆる波銭ならば、目方といい、手ごたえといい、素人の私が投げてみても、これならば相手の戦闘力を一時的に完封できそうである。
というわけで、一応の構想がまとまったのは、約束どおり、約一週間ののちだったと記憶している。
編集局の二階のまどから、ぼんやりと空を見ていると、春がすみの中に、ビルの鉄骨が組み上がって、その上に、「設計、施工、銭高組」と大きな文字が浮かんでいた。
「あんなところにも、銭という字が書いてある」
と、意識の底で思ったが、それが、銭形平次を考えつく前であったか、あるいは、構想が出来て、ほっとした後で、「そういえば、あそこにも銭という字が……」と、気がついたのだったか。その辺のところは、よく覚えていない。
銭形平次の住まいは……。
神田明神の崖下の、ケチな長屋。現在でいうなら、千代田区神田台所町……昔は、敬称をつけて、お台所町と呼んだ。突き当りに共同井戸があって、ドブ板はすこし腐って路地には白犬がねそべっている。
恋女房のお静は、娘気のうせない、はにかみやで、六畳ふたまに、入口が二畳、それにお勝手というせまい家は、ピカピカに磨き立てられて、かげろうが立ちそうだ。もっとも、お静の世話女房は、たしか第十話あたりからで、最初は、まだ両国の水茶屋の看板娘だったはずだ。
子供はないが、年中ピイピイの暮し向きで、家賃は三つたまっているが、大屋は、人がいいから、あまり文句をいわない。酒量は大したことはないが、煙草は、尻から煙が出るほど吸う。年は、何時までたっても三十一。お静は八つ違いの二十三。平次がウマの年だから、これは、私と同じ。お静は、イヌの年という勘定になる。
ところで、平次は、どうして年を取らないのかと、しばしばきかれる。最初が三十一歳なら、二十七年書いているうちに、五十八歳に、なるはずだというのだ。
何かの座談会だったかで、辰野隆博士にも、むろん、軽いじょうだんだろうが、そういう意味のことをきかれた。投書なんぞは、いくら来たか、数が知れない。
しかし、小説の主人公に年を取らせるくらい愚なものはない。太閤記とか、弘法大師一代記とかいうものは別であるが、シャーロック・ホームズや地下鉄サムが、月日とともに老いこんでゆくなどは、読者にとって幻滅以外の何物でもない。モーリス・ルブランのルパンが、その馬鹿馬鹿しい例を示しているが、幸いにして我国の捕物作家諸氏のかく捕物名人は、いつまでも、若くてスマートだ。平次が八十五にもなって、お静さんと二人で杖をついて、お寺まいりに行くところなんぞは、誰がなんと言っても、私は書かない。ここに大衆文芸の、面白さのコツがあると言ってよい。
平次の住まいを、何故、神田にしたか? これはもう、どうしたって神田である。芝で生れて神田で育ち……というが、言葉の音感からいったって、やはり、芝よりも神田だろう。
ちょうど、そのころ、社僚の本山荻舟君が、あの辺に世帯を持っていた。明神下よりは、もっと池の端へ寄ったあたりだったが、ちんまりと小綺麗に住んでいた。
生れは、岡山の片田舎のくせに、江戸っ子を絵に描いたような荻舟君が、これこそ、まじりッ気なしの、江戸ッ子一本のおみつ夫人と、万事、下町ごのみに暮していたのを、私も幾度か、のぞいた記憶がある。銅壺も、長火鉢も、それこそ、かげろうが立つほど磨かれているのに、感心したり、キモをつぶしたりした。岩手に生れ、東京では山の手ばかりに暮した私が、江戸を書くようになったのは、川柳と、寄席と、浮世絵と、いろいろの影響があるけれど本山荻舟住居の段も、なにがしかのイメージになったかもしれない。
とにかく、大体の腹案が立って、「オール読物」の創刊号……昭和六年四月号から銭形平次は誕生した。むろん、私も菅忠雄君も、半年か一年のつもりだったのだが……。
銭形平次は実在の人物か。
このくらい、人からきかれた問題もない。三十年前もきかれたし、どうかすると、今でもきかれる。
ところで、話は、もう五、六年さかのぼる。私はまだ銭形を書かず新聞社の学芸部長をやっていた。吉川英治氏の『江戸三国志』が映画化され、社の講堂で試写会があった。映画の前に、吉川氏の講演があり、私は部長として挨拶することになっていた。
開会を待つ間、控室で、吉川氏と話していると、氏はこんなことを言い出したものである。
「今夜は一つ、小説というもののタネあかしをして、主人公以下ことごとく、架空の人物だということを話そう」
私は、びっくりして、手を振った。
「それは、いけない。小説の読者というものは、作品の中の人物を、みんな九郎判官義経ほどの実在人物だと思っているのだ。江戸三国志のお蝶も万太郎も、丹頂のお久米も、馬春堂も、読者の胸の中に、はっきりと生きて、共に悲しみ、共に悩んでいるのだ。その幻影をこわしては、いけない」
吉川氏も、すぐにうなずいて、その夜の講演は、適当に、要領よくやってくれたことはいうまでもない。
熱海には、お宮の松があり、逗子には、浪子不動がある。浅草には、われわれ捕物作家クラブが建てた半七塚がある。京都や大阪には、浄瑠璃や小説の主人公の墓が保存されているそうだ。岡本綺堂先生は、不滅の傑作『修禅寺物語』の中で、夜叉王だけは創作した人物だと、はっきり、ことわってあるけれど、夜叉王屋敷の跡が、今では名所の一つになっている。
私たちは、妙な時代に生れ合わして、幾多の銅像や記念碑が、片っぱしから鋳つぶされたのを、いやになるほど見て来ている。陸軍大将とか総理大臣とか、これこそ、明らかに、実在の人物の銅像が、忘却の彼方へ消えてゆく中にあって、半七塚や夜叉の墓が建つというのは、おもしろい。
もっとも、私自身は、この数年来、捕物作家クラブの若い諸君あたりから「銭形塚を建てたら……」と言われ、「少くとも、私の眼の黒い間は、よしてもらいたい」と頑強に拒否し続けているのであるが……。
幾度もいうように、半七も平次も、武鑑に名前の載るような、高位高官ではない。何かの記録の片すみに、小さく書かれていたかも知れないが、明治維新のドサクサでどこのフスマの下張りになってしまっていることやら……。
ありと信ずる人には実在し、ないと観ずる人には、架空の人物と言われたって、仕方がなかろう。
それよりも、平次という名前である。私には、丹次捕物帳、政次捕物帳というのもあるから、「次」の、つく名前が、なんとなく好みに合っているのかも知れない。それにしても、丹次が四編。銀次も、たしか三編くらいで、あとが続かなかったから、平次というのは運のいい名前だったと、いってくれる人もある。作中の主人公の名前にも、運と不運があるという一種の妙なジンクスを私は決して信じないが、語感のよかったことは確かであろう。
名前の話が出たついでに、次回は胡堂というペンネーム由来記を書いてみよう。
いつだったか、村松梢風氏と逢った時、
「おたがいに古風なペンネームを持っているが、こんなのは、もう、はやらないね」
と、村松氏が言った。正に、その通りである。梢風氏は、何時ごろからか知らないが、私のは、大正の初年以来であるから、古いことは、たしかに古い。
当時、私は政治部で、つづきものを書いていた。政閑期には、どこの新聞社でもやる恒例のかこみ記事である。
すると、編集局の悪童どもが、
「これは、署名記事にする方がいい。なにか、雅号をこしらえろ」
と言い出した。まだ、ペンネームとはいわず、雅号と称した頃である。
「めんどうくさいなあ。何か手頃なのを、つけてくれ」
と、あなたまかせにしておくと、
「お前は東北だろう。坂上田村麿に征伐された方だ。蛮人というのはどうだ、強そうでいいぞ」
という。どうせ、まかせたのだから、それでも構わないと思ったが、
「蛮人は、ちょっと、かわいそうだ。人食い人種みたいじゃないか」
と、小声で物言いをつけてみた。もしも、あの時、だまっていたら、銭形平次の野村蛮人ということになっていたかも知れない。すると、編集局には一言居士が多いから、
「そういえば、蛮人というのは、北方の感じじゃあない。南蛮といって、赤道直下の黒ン坊だ」
「南蛮に対して、北狄だが、狄というのは活字があるかい」
「なら、胡というのは、どうだ。胡馬北風にいななくの胡だ。秦を亡ぼすものは胡なり、の胡だ。これなら、貞任、宗任の子孫らしいぞ」
「そして、その下へ堂をつけろ。犬養木堂。尾崎咢堂。清浦圭堂。近ごろは、堂の株があがっているから……」
こうして翌日の紙面から、本人の私の思わくなんぞ無視して、胡堂という署名がはいったわけである。
その後しばらく、部長などという雑用に追いまくられて、せっかくの胡堂も使う機会がなかったが、大正十一年、社会部長をやめて再び筆をとりはじめた時、新しく考えるのもめんどうなので、そのまま使った。思えば、長い間の胡堂である。
さて、私の本名は長一である。長四郎の長男で長一は、あまり知恵のある命名でないが、父親は、これをオサカズと読ませた。郷里の村へ帰れば、オサカズと呼んでくれる老友が今でも幾人かは、残っているはずである。
ところで、この長一という簡単な名前は、世間にザラにありそうで、その実、案外に少い。織田信長の家臣で、美濃の金山の城主、森武蔵守長一というのがある。本能寺で戦死した森蘭丸の兄で、鬼武蔵と呼ばれたが、これは、ナガカズと読ませたらしい。
だが、野村オサカズの方は、何時の間にやら、チョウイチになった。今では誰も、一議に及ばず、そう読むし、私自身も、ふりかなをつけるような場合は、チョウイチと書くことにしている。
胡堂を名乗りはじめた頃である。どこからか電話が、かかって来た。
今では、少年さんというそうだが、当時の編集局では、給仕のことをコドモと呼んだ。
ひどいのになると、
「オーイ。コドモ老!」
などといった。つまり、小僧あつかいを、されていたのだ。
ちょうど、私の前の電話が、ジリジリ……となりはじめたとき、そこにいたコドモ君が、受話器をとったのはいいが、
「ナニ? 野村コゾウ? そんなコゾウは、うちにはいませんよ」
ガチャリと、切ってしまったことがある。
その後、大分たってからのことであるが、野村胡堂と野村長一と、所得税の徴税令書が全く同じものが二つ来たことがある。さっそく出かけて行って、片方は取り消してもらったことは、いうまでもない。
思い出すのは、この二つくらいで、大して取り柄のある名前とも思わぬが、それほど、困ったペンネームとも思っていない。
一体、私のところへ来る手紙は、本名と、胡堂と、あらえびすと、三種類ある。長一と書いてくるのは、キリスト教関係か、銭形平次など読みそうもない人たちである。胡堂は最も普通で、全体の九〇パーセント。あらえびすは、音楽とレコードの関係で、八パーセントくらいだろう。
あらえびすの筆名を使いはじめたのは、大正十三年。すなわち震災の翌年だから、胡堂の名前よりは後だが、銭形は、まだ書きはじめていない。方角の違った音楽のことを書くのに、胡堂はいかにも固くるしいが、さりとて、新しく考えるのもめんどうなので、やわらかく、カナにしたまでである。
「袖荻祭文」という芝居の中で桂中納言に化けて出た安部の貞任が、花道の中ほどで引き抜きになり、「まことは、奥州のあらえびす」と威張るところがある。
語源的にいうならば、「にぎえびす」に対する「あらえびす」で、日本が台湾を領有した当時の言葉でいうならば、熟蕃に対する生蕃である。えびすの中の、飼いならされない種類である。
伝統的のカナ使いでは、「あらゑびす」でなければならないが、読みよいために、最初から「えびす」とした。現在では「ゑ」だの「ゐ」だのというのは、事実上、消滅してしまったが、私は何も、そういう時代を予想して、先見の明をほこるつもりはない。
ほんの一時期だけR・A・B・Cと署名したことがある。これをアラエビスと読ませようとのコンタンだが、いかにもキザなので、じきによした。エビシがエビスになるところは、東北的かも知れないが、横文字と安倍の貞任では、どうにも、調和がとれそうにない。
もう一つ長沢無人というのを、雑文の時だけ使ったことがある。私の生家は小字を長沢尻といい、無人は、傍若無人の無人だ。今は亡き友人の一人が、そのいきさつを知っていて、「長沢尻の親分」と書いたハガキをくれ、私を、閉口させたことがある。
どうも名前は、こりすぎては、よくない。平次。お静。八五郎。平明で、そして、分りやすいのに限る。
小説は、何が書かせるか?
煙草だという人もあるだろう。
酒が書かせる人もあるに違いない。
私の場合はレコードが書かしてくれる。明るい陽ざしの下で、レコードをかきならしながら、時には鼻うたをうたって書いてきた。
銭形を書き出して間のないころだったから、二十幾年の昔になるだろう。ある雑誌社の座談会で、直木三十五、佐々木味津三の両君が、
「いやで、いやで、たまらないけど、やむを得ず小説を書いている」
といった。私は、すぐに、
「ぼくは、書くことの楽しさに引きずられて書いている」
と、いった。
すると、年齢だけは、確かに私より下であったはずの二人が、
「それは、キミが、まだ若いからだ。そのうち、だんだんと、書くのがいやになるだろうよ」
といった。
いやいやながら小説を書いた二人は若くて死んでしまったが、それより十歳くらい年上のはずの私が、今でも、のんきに生きている。たのしんで小説を書くというのは、長寿法の一つかも知れない。
この時の座談会の記事は、ちゃんと雑誌に載ったから、おぼえている人も多いと見えてそれから十数年もたったころ、横溝正史君の家で、小説を書くのも楽ではないと私がいったら、
「うそだろう。キミは、おもしろくてたまらないといったはずだ」
と素っぱぬいたのは、その席にいた水谷準君である。水谷君は、そのころ、瓢庵先生の捕物小説を書きはじめていた。
それからのちに、作家の某氏が私を訪ねて、
「鼻うたまじりで書くというのは、何と、大したものではないか」
と、まじめに、ほめ上げてくれたのには、キモをつぶした。
私が、鼻うたといったのは、つまり心境をいったのであって、どこの世界に、鼻うたまじりで書ける化けものがいるだろう。調べる苦心。筋立ての苦心。トリック算出の苦心。起承転結に一分のすきもなくまとめる苦心。それらは、いわなくとも分っている。鼻うたといったのは、無暗に芸術ぶる人や、名匠苦心談を、必要以上に売りものにする人への、私のささやかな皮肉なのだ。
名匠苦心談というものが、私は何よりもきらいである。満足に三度のものに、ありついて、一つの芸事を仕上げるのに、仇やおろそかの心掛けは、ないはずである。あえて芸術とはいわないが、一つの芸を仕上げるのに、おれだけが、彫心鏤骨の苦心をしているとうぬぼれるのは、自分だけが熱烈な恋愛をしていると思いこむのと同様な低能である。
捕物小説を職人芸だといった人がある。いった方では、痛烈無比の罵倒のつもりであったのだろうが、私は、むしろありがたくきいた。芸術家を特別の人種であるかのように誤信して、世間さまを睥睨するよりも、広重であり、バッハであり、益子焼であり、モーツァルトでありたい。しかめッ面をして、中学生のひとりごとのようなものを書くばかりが小説ではない。
私の一高時代の恩師に農学博士で、法学博士で、そして文学博士の新渡戸稲造先生がある。ゲーテとカアライルの講義のおもしろかったこと。今でも、はっきりと、口調まで覚えている。
この謹厳な新渡戸博士が、芸妓の出る宴会に列したことがある。老妓の一人が、三味線をとって、
「さいた桜になぜ駒つなぐ。駒がいさめば花が散る」
とうたうと、博士は、うーむと感心して、
「日本にも、こんな素晴らしい詩があったのか。一体、これは誰の作だ」
といった。芸妓の方が、今度は、びっくりして、
「こんなのなら、いくらでもありますよ。どなたの作かは知りませんけれど……」
「そうか。もっと、いいのがあるのか。では、是非きかせてくれ」
「はい、はい。いくらでもうたいますよ」
そこで、いくつも、都々逸をきかせた。けれど、博士は首を横に振って、
「みんな駄目だ。咲いた桜……に及ぶものは一つもないじゃないか」
と、読み人知らずの、咲いた桜を、いつまでも、いつまでも、ほめていた。
作者の伝わらないのは、都々逸ばかりではない。寛政以前の浮世絵画家は、その世界的の作品に、サインさえしていない。自分の見栄のためでなく、庶民の慰楽と、生活の糧のために描いたのだ。ウソも、掛け値も、ケレンもなく、すぐれた熟練工として、自分の仕事と、真っ正面にとり組んだのだ。
音楽畑でいうならば、ヨハン・セバスチャン・バッハは、自分の所属する教会と合唱隊のために、毎週一曲ずつ、実に三百曲近いカンタータ(交声曲)を作り捨てた。その中には、一曲で数百ページにのぼるものがあり、連続演奏五日間にわたる長大な曲もあった。バッハは神を賛美するため、教会の合唱隊を指揮する職責のため、文字通り、それを作り捨てたのである。もしもバッハ夫人が、写譜して残してくれなければ、暗から暗へ永遠に失われたかも知れないのだ。
古石器時代の人が、何万年後のわれわれのために、洞窟に赤牛を描いたのでなく、鳥仏師が、国宝にするために、仏像を彫んだのではあるまい。ものものしいポーズと理屈をつけても、つけなくても、残るものは残り、残らないものは残らない。
一立斎広重は、六十余年の生涯のうちに、あの美しい風景画を、四千枚……あるいは六千枚も描いたろう。一枚わずか一朱。十六枚で金一両という画料では、女房のお徳さんを相手に、ささやかな晩酌をたのしむためにも描いて描いて、描きまくる必要があったのだろう。
二百年前の江戸の庶民たちは、歌麿の美人画を壁にかけ、広重や国貞の絵ウチワで、夕涼みをたのしんだことであろう。それが、今日何万円も、何十万円もしようとは、誰も考えはしなかった。
捕物帳を職人芸だという人は、おそらくは職人にさえもなれなくて、名前ばかりの芸術家先生として、一生、なんにもせずに暮すだろう。
この意味で、私は広重について語りたいのだが、いや、その前に、現今の原稿料というものを考えてみたい。
「原稿料は、だれでも、かれでも、みんな、均一にしてしまえ」
私は、いつだか、こういう意味のことをいった覚えがある。
さすがに、面とむかっては、誰も、なんとも言わなかったが、陰では、バカだとか、気ちがいだとか、野村胡堂も耄碌したとか、いろいろ言われたようである。
だが、私は、一時の思いつきでもなければ、共産主義にかぶれたわけでもない。本当に均一制がよいと思っている。
この世の中で、トップクラスと下積みとの間に、百倍以上のひらきがあるのは、野球選手と映画女優と、そして小説家くらいのものだろう。一枚一万円の原稿と、同じく百円の原稿とが厳然として、併存しているのだ。時には一万円以上もあるし、百円以下だって、あると聞いている。
大学教授と小学校の先生とが、正確に、いくら違うか知らないが、役所だって会社だって、最高と最低とが、十倍とは、ひらかないはずである。ひとり、小説書きだけが、勝手に値段札を貼って、Aは二万円だ、Bは百五十円だなどと、セリ市場のマグロなみに扱うのは、いささか、人間侮辱ではないかと思っている。
捕物作家クラブでは、オミコシをかついで、馬鹿馬鹿しいお祭さわざもやったけれど、それについての、特集雑誌などを出す時に、私は、強硬に主張して、
「執筆した会員は、みんな、同じ単価にしろ」
と言ったものだ。
そして、それが取りあげられて、たしか、二度や三度は、全員均一制が、実現したことがあるはずだ。惜しむらくは、これが、我国の大勢を制して、出版界全体をひきずるまでには至らなかったが、たとえ、僅かの試みにもせよ、これは、自慢していいことだと思っている。
かりに原稿料が同じでも、いいものを書けば、たくさん売れるから、印税の収入は、自然に違ってくる。一挙に均一というのが、行きすぎならば、せめて、最高と最低が、一対三くらいにならないものか。野球の選手でさえ、何らかの規制が、問題になっているご時世だ。
原稿料とともに、もう一つ、署名ということを全廃したら、どんなものだろう。読者が読むのは小説であって、署名ではない、いや、近ごろは、署名だけを読む読者がふえたということだが、これを本来の正道にもどす。新聞記事は、署名がないけれど、読まれる記事は誰にでも読まれ、読むに価しない記事は誰も読まない。
署名がなければ、ポスターバリューに物を言わせて、ベラボウな原稿料をとる大家もなくなり、編集者も気骨が折れず、読者としても、作品そのものの値打ちを、あるがままに味えるというものだ。
こうなれば、戦々兢々と、古い名声にかじりついている大家たちも、気楽に新しいものが書けるかも知れず、新進無名もいじけることなしに全力が発揮できるだろう。そして、批判は一切、読者まかせとしたら、世の中が何と明るくなることか。
横町の隠居ではないが、今回は理屈をこねすぎた。益子焼の梅干壺のように、広重の五十三次のように、理屈のない尊さをたたえたいのであった。では、次ぎは広重について──。
昭和七年の晩春。私は、老妻と二人で、東海道五十三次を、ドライブの旅にのぼった。
今でこそ、こんなことを、業々しくいいふらすのは、おかしいようなものであるが、二十七年前には、誰も、そんなことを考えてもみず、第一、京都まで自動車でゆけるものかどうか、分らない。事実、途中の二カ所だけは、どうしても、車が通らず、ひと丁場ずつ、汽車に乗った。
話は変るが、どうかすると近ごろでも、若い人がやって来て、小説作法の秘伝を教えろということがある。甲州流や柳生流ではあるまいし、小説には、一子相伝の巻物もなければ、他人に見せない秘術書もない。
「別に、なんにもありませんよ」
と、ことわると、
「そんなことはないでしょう。それは、まあ、教えて下さいというのが、無理かも知れませんけれど……」
まるで、手品師が、トランプの仕掛けを公開しては商売にならないかのように、自分勝手に、のみこんでいる。先方が、何とかんぐろうとも、別に痛くも、かゆくもないが、この年になって、出し惜しみをするように思われるのも残念だから、長編小説『三万両五十三次』の場合を一つの例として、創作の出来てゆく手順を書いてみよう。
当時、私は、新聞社の第一線は卒業して、毎月、月給はもらっているが、責任といえば、川柳の選をするのと、時々、小説を書くことだけだった。
「今度は一つ、大長編を書いてみませんか」
と、いわれて、まず、考えたのは、主題を何にするかということだった。
その時、映画「三文オペラ」が我国へ来た。クルト・ヴァイルの音楽で、評判になった名画であるが、私はこれを見ながら、
「そうだ。巨盗を主人公にしよう」
と、思い立った。ことわっておくが、私の書いた牛若の金五郎と、三文オペラのメッキーとは、単に怪盗であるということのほかは性格も筋も全く違う。
その以前から、私は「東海道五十三次」という言葉に魅力を感じていた。海道筋を舞台にした規模雄大な長編を、一度は書いてみたいと念願していた。
「よし、五十三次をあばれまわる巨盗だ」
私のハラは、きまった。
そうなると、歴史上の事実として、安政元年正月に、小判三万両を携えて、京都へ上った堀田備中守正睦の、あつらえ向きの事件がある。攘夷派の公卿たちを買収するために、三万両を極秘で輸送した。その機密に参画した川路聖謨の旅日記を読むに及んで、私の構想は、ほとんど、出来上がったといってよい。
折りも折り、神田の古本屋を漁っていて、紙屑あつかいされていたゴミの中から、一冊の「道中袖日記」をひろい出した。半紙を横綴じしたものへ、矢立の墨で書いたらしい粗末な旅行メモである。署名は「下総・馬場」とある。
この一冊は、私の構想の上に、正に画竜点睛であった。同時に私は、東海道を見たくなった。袖日記の主が歩いた道をこの足で踏み、彼が見た松並木を私のこの眼で見たくなった。編集局長に談判して、なにがしかの費用を承知させ、ドライブの旅に乗り出したのである。
お江戸日本橋七ツ立ち……。
あの、なつかしいメロディーに乗って、三度笠に、紺のキャハンで、日本橋をスタートするのが、本格であることは、私も知っている。
もしも私がもう少し若く、そしてもう少し、ひまがあったら疑いもなく、そうしていただろう。しかし自動車で通ってさえ東海道は大変な値打ちがあった。
この旅行の収穫は、第一に『三万両五十三次』五百十回を書かせてくれた。原稿紙にして二千枚を、最後まで、張り切って書いたのは、自分のこの目で確実に見てきた五十三次の風物のたまものと言ってよい。続いて『花吹雪東海道』『腕くらべ道中双六』『磯川兵助道中記』『恋文道中記』と、数多くの長編小説が、このドライブの中から生まれた。作家を志す若い人たちは、汽車の旅でもなんでもよいから、暇があったら歩いておくがよい。
「道中袖日記」を遺した下総馬場は、むろん、お江戸日本橋から、品川、川崎と歩いているが、私は、学生時代に小田原まで歩いたことがあり、その後も、幾回かドライブしているので、この区間は、カンニングをすることにして、小田急の電車に乗った。一面の菜の花の中を小田原へ着いて、ここで、最初の自動車をひろった。
はじめに立てた方針として、自動車は、なるべく、短距離で乗りかえる。土地の運転手の方が沿道のことを、よく知っているからである。
車の中へ持ちこんだのは、下総馬場の道中日記を主役として、五万分の一の地図と、昔の名所図絵。そして、広重の五十三次である。もちろん、ほんものはもったいないし、そのころの私は、ほんものを持っていなかった。安っぽい、色刷りの複製品である。
車を走らせながら、まず、袖日記を読みかえす。
「箱根、湯元。
さんまい橋。まんじゅう名物也。福住九歳上宿也。もし湯元へ泊り候えば半道の回りなり。それより段々。九丁ばかり登りて忍びの滝……」
運転手は、田道を通るのを、いやがった。それを、ようやく、頼みこんで、三枚橋から一杯水、いざり勝五郎の初花の滝と、あちこち見物して、元箱根町で中食する。アユのフライが、馬鹿にうまかったことを今でも覚えている。老妻の手控えによると、小田原からの自動車賃が十一円。中食代が一人二円。女中へのチップが大枚五十銭也。
ここで、自動車を乗りかえる。県境を越えると、急に道路の具合が変った。工事のやり方が違うのだろう。自動車にのっていて、それが分るのだから、日本の割拠主義は、大したものだ。そんなことを感じながら、峠を下って三島へはいる。日本総鎮守。三島明神の鳥居の前まで来て、はっと思った。
何故はっと思ったかというと、これは、確かに初対面の風景ではないのである。何度も何度も見たことのある非常に心安い景色なのである。なつかしい郷里の伯母さんにでも、会ったような感じなのだ。
何べんもいう通り、私は東海道は初めてである。汽車以外で通ったことは一度もない。それが、何故、こうなのであろうか、私は、しかし、すぐに分った。
「広重だ。広重の絵がここに生きているのだ」
東海道のドライブが、私と広重との、馴れ染めになったことを、私は今でも後悔しない。本当に、心の底から、感嘆したのである。広重の描いた三島の朝景色は、霧の流れが美しいし、私の訪れたのは午後であった。時代にしても、約百年のへだたりがある。それにもかかわらず広重の描いた風物がそのまま私の眼の前にあった。
静岡に一泊して、翌朝早く、安倍川を渡った。橋のたもとに「元祖あべ川餅」の、のれんを見て、川の向うをながめると、二つ並んだ山の姿──
「あ、見たことのある山だ」
と、思わず口走ったが、これも保永堂版五十三次の「安倍川」で馴染みの図柄である。
三島と安倍川ばかりでない。宇津の谷峠も、桑名の城も、鈴鹿峠も天竜川も、ことごとく広重の絵であった。むろん、木橋はコンクリートになり、山は乱伐ではげており、無粋な電柱が立っている。しかも、そこにあるものは絶対に広重なのである。写真帳や絵ハガキも用意していたが、写真と実景とは、何の交流もない、私は、広重ばかり見て、車を走らせた。
今と違って、トラックなども、ほとんど通らず、宇津の谷峠などは、今にも追剥ぎが出そうな気がした。天竜川では橋銭を取られ、御油の町では、キャラメルを買おうとしたが、どこにもなく、鉄砲玉を十銭買って間に合わせた。
名古屋の旅館は、新聞社から口をきいてあったせいだろう。大変に歓待された代りに、金六円の宿賃に対して、茶代を十円奮発した。伊勢の亀山で、鈴鹿越えのタクシーを頼むと、宿の女将が眼を丸くして「もったいないことを、なさるもんじゃ、ありませんよ。十五円も出して自動車に乗らないでも、バスなら四十銭ですよ」
と、まごころこめて忠告された。僅か二十七年前が、まるで、夢のようであるが、そんなことは、どうでもいい。京都の三条大橋へ着くまでに、私は、完全に、広重のとりこになってしまったのだ。
帰りは汽車で東京駅へ着くと、私は、その足で、浮世絵を売る店へ駈けつけた。形だけを見る複製品でなく、広重の夢と魂のこもった本物を手にしたくなったからである。
考えてみると、私は、どうも、せっかちである。そして一とたびスタートすると、たちまちにして、病い膏肓に入ってしまう。レコードの場合もそうであったが、広重の時も例外ではなかった。
基礎知識の方は後回しにして、何はともあれ、浮世絵屋へ行った。そうして、ショーウィンドに飾ってあった中から、手頃なのを一枚、選り出した。
「これ、本物だろうね」
と、番頭に念を押すと、
「もちろんでございます」
と、もみ手をした。値段をきくと金二円也である。私は、さっそく買い取った。
その晩は、帝国ホテルに会合があった。浮世絵と音楽では、大先輩格の牛山充氏が来ていたので、私は、手に入れたばかりの広重を見せた。
すると、牛山氏はニヤリとした。本当は、大声あげて、吹き出したいのであっただろうが、さすがに、たしなみ深いから、ニヤリとしただけで、私に話しかけた──
古いたとえだが、めくらは蛇をこわがらない。私は大枚二円也で、はじめて手に入れた広重を、その道の先輩、牛山充氏に見せた。
牛山氏はニヤッとして、
「広重が、好きになったとは大変結構なことですな」
と言った。そしてもう一度、ニヤリとして、「ですが、せっかく好きになったのなら、もう少し、よいものをお買いなさいよ」と、親切な言葉である。
あとになって分ったが、私がこの時買ったのは、広重の生涯の駄作……あれだけは広重も描かなければよかったと言われる六十余州の半端物であった。
この絵は、今は、手元にない。誰かに、やってしまったが、私は、あの時のことを思い出すと、今でも、おかしさがこみ上げてきて、たまらない。
私は、まず、文献による広重研究に没頭した。浮世絵雑誌のバック・ナンバーは、力の及ぶ限り集め、日本はもちろん、外国の図録、カタログ、研究書の類を無茶苦茶に、かき集めた。私は決して学者でないし、そんなポーズは大嫌いだが、実際にコレクションする上に必要な知識は、十年の間に、どうやら吸収したつもりである。
私が、物を買う時の癖は、決して値切らないことである。高いと思えば、買わないだけのことである。それが分れば、商人は、案外正直なものである。太平洋戦争の初期に急死した浮世絵商の松本喜八郎氏など、名品が出れば、一度は必ず見せに来てくれた。長い間には、一人や二人は、信頼を裏切った商人もあるが、一度そういうことがあれば、二度と相手にしないだけである。
金二円也から出発した私の広重は、やがて二十円になり、二百円になり、戦後は一枚が数十万円の高値を呼んで、到底、日本人の手におえなくなった。ボストン博物館などは、質も量も大したもので、保存方法も完備しているそうだ。後世に伝えるためには、それも、かえっていいかも知れぬ。
ところで、私の収集は、版画だけであって、肉筆は含まない。風景画に限ることにして、美人画には手を出さない。
浮世絵における美人画は、ほとんどがプロの女性である。私は、必ずしも、お女郎を軽蔑するものでなく、近頃の汚職議員や無能官吏より、はるかに高尚であったとさえ思うのであるが、それにしても、あの不健康な絵姿を書斎や客間に、かける気には、なれない……。
と、いうことを、家に来た、ある浮世絵商に話したことがある。しばらくたって、彼は再びやって来たが、
「あッはッはッ。世の中には、おかしな人もありますよ。浮世絵収集家のくせに、お女郎の絵は絶対買わんという頑固な人もありますからね。はッはッはッ」
と、私の前で、大口あいて笑った。私は世の中には、健忘症の男もあるものだと思ったが、それほどに、美人画を締め出すことは、珍しいのかも知れない。
ヨネ野口は、英国のある邸宅で、暖炉の上にかけてあった北斎の「赤富士」について質問され、答えることの出来なかったのが口惜しくて、浮世絵研究をはじめたというが、私の東海道ドライブと、牛山氏に笑われたのも、それと同じだと言えるかも知れない。
「八五郎には、モデルがあるのか」
これも、たびたびきかれる。さすがに銭形平次と違って、実在かどうかを、きく人は少い。
最初は、半年か一年のつもりだった銭形が、延々として三百八十三編に達したのが半分以上は、八五郎の力だということは多くの人が認めてくれる。コナン・ドイルの成功は、助手のワトソンの発見であり、平次とお静と、与力の笹野新三郎だけでは、ものの百回とは、もたなかったかも知れない。
向柳原の叔母さんの家の二階借りで、ノッポで、アゴが長くて、糞力があって、体重は十六貫。顔全体が間のびして、どこか釘が一本たりない。長年、揷絵をつき合ってくれた清水三重三氏に言わせると、アゴの長い顔は、年寄りに見える。アゴがつん出て、しかも若い顔というのは、絵描き泣かせだということだが、平次より一つ下だから、数え年の三十である。
死んだ父親は指物師だったが、無器用だから、あとを継ぐ見込みはないし、一年おくれて、母親もあとを追い、天涯孤独となった八五郎は、藤沢の遊行寺へ遺骨を納めにゆく途中、とんでもないめぐり合わせから銭形平次の乾分になったいきさつは、折りにふれて書いてあるはずだ。
ところで、誰もが、いう通り、あれは親分乾分でなくて、社会部長と部員との間柄に違いない。そうだとすれば、歴としたモデルがあるだろうというのである。
私が部長だった頃の社会部は、強いていうなら、みんながガラッ八だったとも言える。朝、出社してみると、部員の姿が一人も見えない。気をもんでいるところへ、北の方から、風の便りが届いて、見返り柳の向うの方で、全員がカン詰になっているらしい。仕方がないから、会計から金を借り出して、部員たちを受け出しに行った憶えも、何べんかある。
受け出しの手続きが済む間、渋茶をすすって待っていると、その家のおいらんが現われて、手紙を代筆してくれという。馴染みの客に出す手紙で、なるべくたくさんお金を持って、至急やってくるように、上手に書いてくれという。
ドギモを抜かれて、黙って頭をかいていると、どうして知っていたのやら、
「あなたは、小説の先生なんでしょう。あの人が、直ぐにも飛んで来るような、殺し文句を書いて下さいよ」
このいきさつは、佐藤垢石だったかが、おもしろく書いているが、垢石氏のはフィクションが多いから、あんまり、信用してはいけない。
こんなわけで、もしも、モデル代を払うとすれば、当時のみんなに、いくらかずつ払わなければなるまいが、その中で、最も立派なガラッ八といえば……。
そうだ。いた、いた、純情で、だらしがなくて、フェミストで、そのくせ喧嘩早くてスタイリストでもあるが、どこかネジが抜けている。例の娘強盗を風呂敷包みの持ち方で見破った、敏腕な青年記者の谷好文だ。
特派員なんぞで出張すると、汽車へ一回乗るごとに、必ず一人はガールフレンドをひろって来た。八五郎ほどに、アゴが長くはなかったが……。
八五郎は、毎朝、明神下へ顔を出す。谷好文は、時々、私の家へやってきた。
私はそのころ、目白台に住んでいたが、朝早く戸をたたくのは、大抵、谷好文の八五郎である。
「なんだ。また喧嘩したのか」
「はい、昨夜も、やっちゃいました。今度こそクビになりそうです」
「仕様がないな。まあ、待っていろ」
私は、それから社へ出かけて、彼のために首をつないで来てやらなければならない。しかし、仕事はよくやった。
大正七年十一月、第一次大戦は終りをつげた。わが国からは、西園寺侯が、全権としてベルサイユへ出かけた。公爵になったのは、この会議から帰ったあとで、出発の時は、まだ侯爵であったけれど、あの有名なお花さんや、専属の料理番として大阪の灘万の主人など、家の子郎党を、ワンサと引き具して、堂々たる大名旅行である。
大正時代というのは、一般に平穏無事であったから、全権の出発などは、夕刊の全面を埋めるビッグ・ニュースである。東京駅を鹿島立ったのが、たしか、翌八年の一月十三日だったと覚えている。私は、谷好文にこの記事を書かせることにした。
谷君は、素晴らしく張り切っていたが、さて、当日は、見事に朝寝坊をしてしまい、東京駅へかけつけた時は、とっくに汽車は出て煙も残っていない。
だが、そんなことで、へこたれるような八五郎でない。すぐに人力車をとばして、東京中の新聞社をかけ回り、出発の光景を目撃した記者から、順々に話をきいて歩き、急いで社へもどってくると、実に豪華けんらんの大文章を書き上げた。これが東京各紙のうち群を抜いた出来ばえで、新聞人の仲間で大評判になった。
しかし、部長である私は、そんな仕掛けは、ちっとも知らない。全く別の方面から、八五郎大手柄の真相をきいたのは、ずっと後になってからである。
私が学芸部へ移ると、谷好文は社をやめた。喧嘩をしても、かばってくれる人がなくなったのである。その後は、鶴見祐輔氏の秘書をしていたが、若くて死んだ。
西園寺公には、私自身も幾度か会っている。第一次西園寺内閣の当時、駿河台の私邸へ文士を呼び集め、「雨声会」と号して、文学談を交わしたことは、世間周知であるが、その頃、私は新聞記者であって、まだ小説は書いていなかった。
政友会総裁としての西園寺公は、新聞記者と、あまり話をしなかった。文士と風流談は交わしても、新聞記者は下賤だから、近づけないというのだったかも知れぬ。しかし、逢えば、機嫌は悪くなく、能面と評された例の無表情な顔で、春風駘蕩たるものだった。
これと同じに、新聞記者を歯牙にもかけないといった風なのが、山本権兵衛大将だった。私は、何かの席で、そばへ寄って、ある政治問題について問いかけたのだが、
「わッはッはッはッ」
と、びっくりするほど大声で、豪傑笑いに笑い飛ばされてしまった記憶がある。
首相クラスで、腹を割って話してくれるようになったのは原敬、高橋是清から以後であろう。しかし、話すにせよ、話さぬにせよ、数多くの人間に会ったということは、後に、小説を書くようになって、なにがしかのプラスにはなったと思う。
近ごろは、あまり来なくなったが、ファン・レターというのは、ありがたいものである。今月号のは、まずかったぞ、やめちまえ! などというのは困るが、中には、作品を分析して、作者自身も気がつかぬようなデーターを教えてくれるのがある。
銭形平次第一話「金色の処女」から、第六十話「蝉丸の香炉」までの間に、女が七十何人か登場する。平次とお静と八五郎は変らないが、犯人や被害者は、毎回変る。その登場人物の名前が、人が違えば、名前も違う。お町、お糸、お紺、お喜佐……と、ほんの二、三の例外を除いて、同じ名前が、二度とは出ない。ということを、指摘してくれたのも、親切な愛読者の一人である。
名前なんぞはどうでもよいが、性格は、一人一人書き分けなければいけないと思う。シェークスピアの偉大さは、一人で、百人分のキャラクターを兼ね備えていたところにあるという。どうしたら、百人百様の人間像を書き分けられるようになるか。
私は、幸いにして、いろいろな、人間のタイプを見てくることが出来た。まだかけ出しの新聞記者時代に「楯の半面」という続き物で、各界の名士百三十人と対談した。それが縁で、長く知遇を得た人もあり、その場かぎりの人もあったが、百三十人のうち、現存しているのは、たった二人だ。
原敬や横綱大錦あたりになると、覚えている人も多いだろうが、豊川良平、岩崎小弥太、加藤弘之、黒田清輝、徳川家達、野口小蘋となると、ラジオのクイズ番組でも、歴史上の人物という分類にはいるかも知れない。
会っておいて、ためになったかといえば、軍人と政治家は、大体において、つまらなかった。原敬、高橋是清、米内光政、今村均というような人は、人間として一級品であるが、その他は、大抵、くだらなかった。それに対して、文学関係は、みなおもしろかった。みなというと、語弊があるが、文芸畑では、つまらんやつの方が例外であり、政治家や軍人では、つまらなくない方が例外であった。
名前をあげると、この間なくなられた永井荷風氏と、半七捕物帳の岡本綺堂氏と、この二人には面識がない。縁がありそうに思えて、その実、不思議に会っていない。しかし、古いところでは、紅葉、露伴をはじめとして、坪内逍遙、夏目漱石、内藤鳴雪、大町桂月、森鴎外、泉鏡花、田山花袋、児玉花外、巌谷小波、江見水蔭……みんな、会っておいて、よかったと思う人ばかりだ。
泉鏡花氏に、はじめて逢ったのは逗子の海岸通りの避暑先だった。
駅へ降りて、交番できくと、ドイツ皇帝みたいなヒゲの警官がいて、鏡花氏の家は、すぐ分った。あの道を、右へ曲って突き当って……と、教えてくれておいてから、もう一度、ヒゲの先をひねり上げて、
「ときに、泉という人は、何を商売にする人ですか」
「有名な小説家ですよ」
「ははあ、そうですか。どうも職業が分らなかったものですから……」
と、避暑客名簿をひろげて、ちび筆の穂をかみながら、書き入れをはじめた。
泉鏡花といえば、すでに立派な一流であった。しかし、有名なのは、文学愛好家の間だけであって、おまわりさんにも、駅員さんにも、というわけではなかった。大衆文学という名前は、まだ生れていなかった。
逗子に避暑した泉鏡花氏は、二階を仕事場にあてていた。寺小屋式の机には、九谷焼の一輪ざしと、水晶のウサギと、万年筆が載っていた。
棒縞のゆかたをくつろげた胸に紐がななめに見えていたのは、何かのお守袋だろう。粋な中形に洗い髪の夫人が傍から団扇の風を送ってくれる。
番町の家は暑いから、急に思い立って、ここへ来た。山があって、海があって、小説の舞台には、ちょうどいい。というような話から、つい、食べ物のことになる。
「逗子は、魚がうまいから……」
と、私がいうと、
「ウナギは大すきだが、三度三度ウナギめしというわけに、ゆかないね」
鏡花式の舌鋒が、ようやく鋭い回転をはじめる。強度の近眼鏡をかけた細面。きざんだような高い鼻に、眉は遠山の霞とでも言おうか。そのくせ、銀キセルだけは、いささか、持ち重りのしそうなのを、吐月峰にたくましい音を立てる。
「小説で飯が食えるようになるまでは、一通りや二通りでは、ありませんよ」
と、いうことから、指にはめた銀指輪(その頃は、男も指輪をはめた)まで、金十五銭也で売りとばしたが、母のかたみの水晶のウサギだけは、石にかじりついても、と、守り通したという話。
文学の問題は、もちろん話したが、実をいうと私は、ある一時期は、すっかり、鏡花に傾倒し、その後、逆に反発を感じて、鏡花の影響から、何とかして抜け出そうと骨を折っていた。従って、あんまり、身を入れて聞かなかった。きちょうめんな割り膝で、そのくせ、勇ましく腕まくりして、爽快に語る風貌だけが、記憶の底に生々しい。
鏡花氏とは反対に、語り口は訥々としていても、あふれるような含蓄のあったのが、酒仙といわれた大町桂月氏である。
「書斎兼客間兼居間」と自称する南向きの八畳は、壁にも、襖にも地図が一面に貼ってある。
「さすがに、旅行ずきだけありますな」
と、おだてると、
「はッはッはッ」
と、豪傑笑いして、
「これは、からかみの破れたのを、隠すためです」
それにしても、あんまり、地図が多いのには、キモをつぶした。
やがて酒の話になると、
「ボクは(桂月氏は何時でもボクといった)十二の年から叔父の厄介になりました。叔父は、軍人で、酒呑みで、毎晩、五、六人の酒客がある。ボクも相手をさせられる。酒も飲め。ケンカもしろ。しかし、勉強もしろ。というわけで、こういう具合に、脛押しをやらされる。どんなに痛くても、痛いといってはいかん……」
「豪傑教育ですね」
「うん。豪傑教育です」
床の間に、一ぱい積み上げてあるヒョウタンの中から、自分で二つ持ち出してきて、
「ヒョウタンには、酒の味のよくなるのと、悪くなるやつとがある。表面のツヤのいいやつは、実は大抵駄目なので、こういう風に、見掛けの悪いのが、いいんです。ビードロで燗をするような、近ごろの連中には、分らんじゃろうが……」
桂月氏には、教えられたところが多い。
東条英機大将に逢ったのは、彼が総理大臣になった後である。勝子夫人と私の家内とは、女子大の同窓関係で知り合っていたようだが、私は若い頃の英機大将を知らない。その代り、父親の東条英教中将には、いろいろな思い出がある。
むかしの南部藩。今の岩手県出身者で南部同郷会というのがあった。鹿島建設社長、鹿島守之助氏の先代、精一氏あたりが力こぶを入れて、年に二回くらい集まった。若い会員の学生は、安い会費で鱈腹呑めるし、古い連中は懐旧談がたのしめるので、毎回、大入り満員であった。
私が東大在学中だから、明治四十二年だと思う。会場は、神田の三河屋……と記憶しているが、あるいは、違ったかも知れない。とにかく、当時の最新流行である牛肉屋の二階だったことは間違いない。
お国なまりの大演説が幾つか続いて、田中館愛橘博士が立ち上がった。
東大教授、学士院会員として、最も油の乗り切ったところ。アゴヒゲも、鼻ヒゲも房々として五十三か四であったろう。
コペンハーゲンに万国測地学協会の総会があり、そのついでに、欧米各国を視察して、帰国したばかりのところである。軽気球の話かなんかを一席やって、イギリスの公衆道徳に話題を転じた。
「……英国では、汽車旅行して、手荷物をあずけても、チッキなどというものはない。到着駅で、私の荷物はこれだ、といえば、黙って渡してくれる。チッキを信じるのでなくて、人間を信用する。さすがに先進国であって、日本は、はるかに及ばない……」
みんな、神妙にきいていた。
すると、突然、大きな声を出した者がある。
「その説には絶対反対だッ」
見ると、東条英教中将である。
「何が反対ですか」
博士も、話の腰を折られてムッとした。
「田中館氏はチッキのない方が、高度の文明だと言われるが、人間には思い違いもあり、忘れることもある。書いたものを信用する方が、ずっと高級だ」
「いや、その考えは……」
「おかしいというのですか。では、人間は、何のために文字を発明し、紙を考案したのです? 野蛮人は口で約束し、文明人は契約書を作る」
「人間としての品性の問題ですぞ」
「だから、悪意はないとしても、人間には、過失や錯覚がある」
「それは、あなた方、軍人などは錯覚もあるだろうけれど……」
「何をッ、生意気な!」
売り言葉に買い言葉。いい年をした帝大教授と陸軍中将が、満座の中で、今にも、つかみ合いをはじめる形勢だ。
鹿島精一氏らの世話役が、しきりに気をもむのだが、どうにもならない。山雨、まさに至らんとみて、風、楼に満つ。
私は、とっさに立ち上がった。そして、一世一代の大演説をぶった。自分たちの子供みたいな若僧に、仲裁演説をぶたれて、御両所とも冷静にもどったのである。喧嘩の花は、うまく、しぼんでくれた。私は、これが縁で田中館博士にかわいがられた。
東条英機大将が、どんなことにもメモを取り、何よりもメモを信頼したというが、どうも、あれは、親ゆずりではなかったかと、私は、ひそかに考えている。
私が、はじめて夏目漱石氏の書斎を訪ねた時、漱石邸には猫はいなかった。
「あの猫から三代目のが、つい、この間までおりましたっけ」
という話。
惜しいことをした。もう一と月も早かったら「吾輩は猫」の孫に逢うことが出来たのだったのに……。
「どうも、すっかり有名になっちまいましてね。猫の名づけ親になってくれとか、ついこの間は、猫の骸骨を送って来た人がありました。どういうつもりか知りませんがね」
さすがに、薄気味悪い顔だった。
「で、四代目は、飼わないのですか」
「それなのです。私は、実は、好きじゃあないのです。世間では、よっぽど猫好きのように思っているが、犬の方が、ずっと、好きです」
猫好きなのは、夫人の方だという。漱石研究の本にも、いろいろと書かれているようだが、私は、はっきりと、この耳で聞いた。好きでないから、冷静に観察が出来たのかも知れない。
黒く、つやつやした髪をキチンと分けて、鼻下の短く刈りこんだヒゲが、わずかに胡麻塩になっていた。江戸ッ子らしい機才と、西欧流のユーモアと、それに深い学殖とが、三位一体となっていて、ちょっと形容の出来ない複雑な風格である。
「健康は、もう、すっかりいいのですか」
と、きいてみたら、
「デリケートな時計のぜんまいみたいなもので、こう見えても、すぐ狂います」
ちょっとした一言にも、打てば打ちかえす機鋒が現れる。それから、文芸の話になって
「近ごろ、急にはやりはじめたアナトール・フランスやオスカー・ワイルドは、むろん結構なものではあるが、あちらで、新しく全集が出来て、出版元の商略から、外国雑誌に紹介記事が氾濫した。日本人は、それを真に受けたのですね。日本自身の出版界も、やがて、そんな時代になるかも知れませんよ」
五十年もたった今日、この言葉は、つくづく卓見だったと思っている。
書斎は、木造洋館の、二た間つづきの畳敷きで、どこからどこまで、本がぎっしり積み上げてあった。その間に、洋画の静物が三、四点……。
夏目漱石個人展覧会が開かれると、どこからともなく噂が飛んでいた頃で、
「うそですよ。私の個展なんて、噂にしても、ふざけている。もっとも、欧米の油絵にしたって、ローヤル・アカデミーなんぞ、ずいぶん下手糞な絵が並べてありますからなあ」
真顔になって打ち消しながらも、峻烈な皮肉をとばしていたのを、今も、まざまざと思い出す。
新傾向から新傾向へと、文学の流行が猫の目のように変るのを、
「あれは、内閣が変るのと同じようなもので、そんなことに気を散らさず、自分は自分で、しっかりした考えを持っておればよい」
この教訓は、きもに銘じた。私は、ひょっとしたはずみで、猫の孫にも逢わず、漱石門下にも加わらなかったが、あの風格は、忘れ難いものがある。「漱石」と記さず「夏目金之助」とだけ書いたあの黒ずんだ標札と共に……。
上村彦之丞海軍大将に叱られたのは、鎌倉の材木座の私邸だった。
日本海の聖雄、東郷元帥にくらべて、戦争運が悪かったというか、第二艦隊を率いて、ロシアのウラジオ艦隊と対抗したが、速力と濃霧の関係で、なかなか捕まえられず、逆に常陸丸を撃沈されたりして、留守宅に石を投げこまれた、あの上村提督である。
戦争の運は悪くても、海軍部内で有名な豪傑だ。六尺豊かの偉躯に、白地のゆかたを裾短かに着て、未練気のない一分刈りの頭。挨拶が済むか済まないのに、
「近ごろの新聞は、なっちょらんぞ。あんなことを書くのは、よしたまえ」
初夏の風の吹き通る十二畳の日本間。水盤に、河鹿が二匹飼ってあった。
「では、何を書いたら、よいのです」
「忠臣孝子の事蹟を書きたまえ」
「忠臣孝子?」
「そうじゃ。昔からたくさんあるではないか」
どうも調子がおかしい。わざわざ鎌倉まで怒鳴りつけられるために来たわけではない。だが、話しているうちに、だんだん分った。提督は、「帝範臣軌」を読んだばかりのところなのだ。誰からか、帝範臣軌の話をきいて、東京中の古本屋を四日間捜し回って、やっと見つけて通読した。そして大いに感激したところへ、私が行ったというわけである。
話が分れば晴風光月である。
「新聞記者は、なかなか偉い」
急に百八十度の転回をしたから、今度は、薄気味悪くなった。提督は、私のおもわくなんぞは歯牙にもかけず、
「いや、全くえらいものじゃ。新聞記者も日本人じゃ。今日は、その話をしてやろう」
話は、明治三十七年の早春にさかのぼる。日露の国交急迫をつげて、日本は起つのか、起たぬのか。強大国ロシアを敵として戦う決意があるのか、ないのか。
佐世保に集結した連合艦隊は、士気を鼓舞するためとあって、乗組み将士の大運動会を催した。
「佐世保のうしろに高い山がある。なんという山だったかな。あれへ、五人一組になって駈け上がる競走をやったのだ」
山頂には、東郷大将以下の首脳部と記者団の一行が待っている。
「一着は広瀬少佐の率いる戦艦朝日の組じゃった」
「のちの軍神?」
「そうじゃ。あの広瀬じゃ」
とにかく大変な意気込みだった。記者団一行は、その壮烈さに胸を打たれ、金三百円を醵出して、せんべいでも買ってくれと言ったが、これは、丁重に謝絶された。
ところで問題は報道である。上村中将(まだ大将になっていなかった)は、記者団全員を集めて言った。
「これが、佐世保以外に洩れたら、戦争は負けですぞ。どうか、秘密を守ってもらいたい」
むろん、記者団も協力を誓った。
しかし、これほどのニュースである。一社や二社は抜けがけをするかも知れんと、電報局その他へ、秘かに手配をしておいたが、ついに一人の違反もなかった。
「わしは本当に新聞記者を見直したぞ」
天井板が吹き飛ぶかとばかり、豪快に笑った風貌を、あの時代の軍人の、一つのタイプとして、印象が深い。
銭形平次は、あまり旅に出ない。
箱根を舞台にしたのが幾編かあり、昭和二十五年に書いた「無間の鐘」で、小夜の中山まで行ったのが、たった一つの例外といえる。北の方は、せいぜい川越どまりである。
与力や同心の供をする御用旅というのがあったと聞いているが、一般に江戸の岡ッ引きは遠っ走りしないのが原則であろう。それに、本当のことをいうと、私は関西をあまり知らない。五十三次はドライブしたが、京都や大阪は、そんなにくわしく知らないから、尻尾を出すのがこわい。
小説の舞台は、やはり、よく知った土地の方が便利である。もとより、殺人の経験も泥棒を縛ったこともないくせに、見て来たようなことを書くのだから、体験第一主義などとは、いえた義理でないけれど、知らないよりは、知ってる方がいい。殿様の生活を書くにしても、本物の殿様に逢っているということは、なにがしかのプラスにはなる。
明治の末から大正にかけて、殿様生活の生き残りといえば、芸州広島四十二万石の浅野長勲公と、いわゆる十六代様、徳川家達公がいた。家達公は、東京では、なかなか逢わなかったけれど、別荘へ行けば、案外、のんきで、気さくな将軍様だった。
逗子駅から葉山へ抜ける左手の、あれは何という山だろうか。見上げるばかりの崖の上である。私は、最初に行った時、崖下の門の前で人力車を降り、あえぎ、あえぎ、登って行った。肥った十六代様が、これを登るのは大変だろうと思ったが、あとで聞けば何のことだ。別に裏山づたいの搦手があって、これならば、車が玄関まで行ける。
七里ガ浜や江の島が、一目に見える日本間で、ぴたりと坐った十六代様は、両手を角帯のところへ内八文字に揃えたまま、
「ええ。夏場所も済みましたし、東京は何かとうるさいので……」
と、のんびりといった。
公爵、衆族院議長というよりも、国技館の定連として有名で、たまに姿が見えないと「徳川関休場」などと、雑観記事の見出しになった。
「公爵は、ヒイキ力士がありませんね」
何十年も見ているくせに、誰がヒイキというのは聞いたことがない。あんなことで、何がおもしろいのかと、きいてみたら、
「そう見えますか?」
とたんに、歯切れのいい反問だ。
「は?」
「私といえども人間です。長い間、見ていると、そこは人情で、誰が勝てばよいなあと、思わないことはありません。口に出さないだけです」
片肌脱ぎで立ち上がって、ワーカーノハーナーと、塩辛声を張り上げるようなわけには参らぬとみえる。
「口に出しても、いかんとは、今は誰もいわぬでしょう。しかし小さい時からの習慣があるものですから……」
「なるほど」
「家来や側近の者たちに、差別的な顔を見せてはならぬ。かりに、心の中で、好き嫌いがあったとしても、絶対に色に現わしてはならない。こういう習慣で育ってきたのです」
家達公のこの話は、のちに、小説の中で、殿様の心理を書くような場合に、大変、役に立った。
十六代将軍の場合と遣って、これは、殿様ではないが、維新の元勲、土方久元伯も愉快だった。
七卿落ちに従って長州へ下り、高杉晋作や桂小五郎と共に、薩長連合に暗躍し、明治天皇に信任されて宮内大臣となる。
「生きたる勤皇討幕史」として、大正年間には八十歳をはるかに越えていた。
小石川の林町の邸は、明治調のサンプルというのであろう。皇太子殿下ご結婚式の、お馬車や馭者の、あの色調である。緋おどしの大鎧と並んで、ルーベンスかと思われる天使を描いた大油絵。窓かけは、ぼってりと重い真紅の色である。
それらは、別に驚きもしなかったが、キモをつぶしたのはロウソクである。玄関にも客間にも、電灯というものは一つもなく、昔ながらの百目ロウソクが、見事な燭台に林の如く立てつらねてある。
明治の初年なら、いざ知らず、大正年間のロウソクは、偉観であった。半白の髪を、きちょうめんに分けた老伯は、ロウソクの光を背にして言った。
「人間は、丈夫が第一だ、生きているとしても、耄碌しては駄目だ。維新の同志が、みんな死んでしまった中に、私一人が達者でいるのは、鍛練をおこたらないからだ。それを話してあげてもよいが、今の者には、真似が出来まいな」
皮肉な微笑で、こちらを見る。
「朝は、まず、五時に起きる。それからすぐに、どんな寒中でも、風呂場へ行って水をかぶる。肩から胸へ、五杯か六杯、ザブリと浴びて、それが済むと一時間の散歩だ」
間食は一切しない。お酒は、晩酌を、きっかり一合、そのあとで、また散歩。夜は、どんなことがあっても十時に寝る。
「夜の宴会は、出席しない。やむを得ず出かけても、十時までには帰って寝る。これが出来れば、私の年くらいまでは、必ず生きる。どうだ。諸君にも出来るかな」
この最後の一句。キミにも真似が出来るかな? と言われたのが、こっちは、いささか、コチン! ときた。
別に、土方伯爵に、意地を張ったわけではないが、私は大分、以前から、夜の会合には出ない。朝も早く起きる。冷水浴だけは、やらないが、その代り、土方伯の十時に対して、私は必ず九時に寝る。
あえて小説家とは限らないが、原稿を職業にする人には、深夜型と、早朝型とがある。私は、原則として、夜は書かない。もちろん、徹夜なんかしない。ある時期には、月刊雑誌だけで、九つくらい書いていたが、それでも、夜業はやらなかった。
「あれだけ書いていて、よくも深夜業なしに済まされるものだ」
と、ほめるのだか、馬鹿にするのだか分らぬようなことをいう者があったが、私としては、別にむずかしいことではない。
日数と、時間と、仕事の量を、計画的に配分するだけのことである。出来ないものは、約束しない。引き受けたからには、その時間までに書く。情熱がわくとか、わかぬとか言っている夢想的な文学青年ではないのだ。
私も、おいおい、土方伯の年齢に近づくが、伯の言葉が本当ならば、まだ、五年や十年は生きられる計算である。目が悪くなったのは、これは、老伯と、私との、読書の量の差異なのであろう。
赤坂表町から急坂を下りて、新坂町の三宅雪嶺邸へは、よく行った。
門をあけると、大きな鈴が、ガラン、ガランと大声を立てる仕掛けになっていて、夫人の花圃女史がまず顔を出す。
雪嶺先生の勉強時間を、なるべくさまたげないためで、この安宅の関を首尾よく越えると、応接間である。
やがて、奥の書斎から、夏なら団扇、冬なら京焼の手あぶりを自分で提げて、先生が、トコトコと出てくる。
「訥弁の雄弁」として一世に宣伝された通り、座談も決して、なめらかでない。講演の場合と同様に、ポツリ、ポツリと、ウサギの糞を思わせる。それが、実に、大変なおもしろさなのだ。たとえば、こんな風である。
「私の国では謡曲が盛んです。しかし、私は、文句を覚えるのが厄介だから、やりません」
節がむずかしいから、という人には、いくらも逢った。文句を覚えるのが、面倒だといったのは、先生だけだ。
「記憶の乱費はやりたくない。余計なことを覚えてはいかん。そう思いながら、つい覚えてしまう」
そうかと思うと、こんなことを言った。
「若いうちは覚えるがよい。浪花節でも、ヘボ碁でも何でも研究するがよい。サン・シモンがそう言っている」
そこで、再び元へ戻って、
「この年になると、脇目をふるのが、もったいない。先が短いから、自分の仕事だけで一ぱいだ」
謡曲などは、以てのほかだ。絵も描きたいが、時間をつぶす。書は、人に揮毫を頼まれるのが時間を食う。
「一ばんの大敵は碁だ。若い時は、盛んにやったが、半日くらい、すぐにつぶれる。これは、いかん、と思ったから、途中でやめた。あれは、キミ、中年以後は、やるものでないよ」
当時、私が、ヘボ碁をたしなんでいたことを、知っていったのかどうか分らぬ。もしも、私が雪嶺先生のいうことを守って、この時かぎり、碁石を捨てていたら、私の生涯の読書量は、もう少し増えていたに違いない。しかし、私はまだそれほどに切実でなかった。私がヘボ碁と縁を切ったのは、もう少し、あとになってからである。
盛岡中学から、東京での大学時代にかけて、原抱琴、岩動炎天、岩動露子、柴浅茅、あるいは石川啄木などがいたことは、前にも書いた。この中で露子と抱琴とが碁が強かった。
露子(俳号である。ロシと読む。ツユコではない)は外語を出て、フランス語の教授になった。抱琴は、虚弱のために一高を中退して外語に転じ、のちに試験を受けて東大へはいった。
外語時代の二人は、碁でも好敵手であったし、フランス語でもトップを争った。私はフランス語の杉田博士にどっちが出来るかをきいてみた。
博士の答は、学問的には抱琴が上だし、実用語学は露子がうまい、いずれにしても、日本有数のフランス語学者が生れるに違いないと太鼓判を押した。
果して露子は、陸軍教授としてフランス語の権威になった。そこで、問題は、露子と囲碁との関係になるのであるが……。
今日のこの回は、日本棋院や、下手の横好き連中から、多分、しかられるだろうと思う。だが、私の二人の畏友。生きていたら間違いもなく日本有数の人材になったと思われる原抱琴と岩動露子(本名は孝久)のためにやはり一度は書いておきたい。
「おい、野村ッ。このごろは、郵便碁を打っているんだぜ。おもしろいよ」
私が見舞いにゆくと、露子はこんなことを言った。
「郵便碁?」
「そうだ。相手は抱琴だ。ハガキ代は馬鹿にならないが、これは本当の碁の醍醐味だ。今に、猛烈に、はやりはじめるぞ」
抱琴は、すでに胸が相当わるく、郷里の岩手へ帰っていた。露子の方も、本職のフランス語教授が、大分、休講が多くなりはじめていた。
俳句で争い、語学で競争し、頭のよさを自慢し合った両秀才は、最後まで「あいつに、負けるものか」と、はりあっていたのだろう。
郵便碁の勝負を重ねているうちに、抱琴は一足先に死んで、やがて露子も、北上川畔の生家へ帰った。初期の『ホトトギス』には、彼の句が、可なり載っているはずである。
ある日、私が新聞社にいると、露子から手紙が来た。すごく厚い手紙である。
「……子規は、行きどまりの塀につかえたといっているが、今の私もそれである。もはや余命いくばくもないが、最後の精力をあげて最高の文学を読んでみたい。日本語よりも、フランス語の方が楽に読めるから、何か送ってくれないか」
私は、さっそく、神田へ出かけた。そのころフランスの本を扱っていた三才社と仏蘭西書院を漁って、露子が、まだ読んでいないと思われる小説の類をかき集め、三回、四回と送ってやった。モウパッサンやドオデイを読んでいたのは知っているから、もっぱら、ロシア物のフランス訳を集めた。
彼は、熱心に読んだらしい。当時はまだ日本語訳のなかった「カラマゾフ兄弟」などはひどく気に入ったようだった。
やがて、最後の手紙が来た。
「世の中に、こんな結構なものがあるのを知らず、碁ばかり打っていたのが、今となっては、口惜しくてならぬ。せめて、もう、十年も早く気がついたら、どれほど沢山のものが読めたことか──」
この手紙を、私は、大切にしまっていたが、鎌倉へ引越す時に、なくしてしまった。露子は、それから間もなく死んだ。枕元には、三分の二ほど読み終えた仏文の「ジャン・クリストフ」がひろげてあった。
この時から、私は、一切のカケと勝負事に興味を失ってしまった。四十二歳を限りとして、碁石は一度も握らない。たとえ一生かかっても、初段にも一級にもなれそうもないザル碁から、私が足を洗ったのは、露子の悲痛な手紙からである。
露子の弟の岩動炎天は、この間も、遊びに来たが、碁の下手糞だった炎天と私だけが今も生きている。あのまま、私が打ち続けていたら、銭形平次三百八十三編は、二百編でとまったかも知れず、あるいは百編で終ったかも知れない。
八五郎を相手に、平次にヘボ碁を打たすのは、私のささやかな郷愁とでもいうのだろうか──。
明治三十三年の夏である。今では、時代劇の大部屋ででもなければ見られない糸ダテというものを着て、高慢ちきな中学生五人が、盛岡の町をあとに、秋田県下を四週間にわたって俳句行脚した。
奥羽線も、花輪線もない時代だから、一日十里を、テクテク歩いて能代から秋田、それから八郎潟を舟で縦断したのだが、能代の浜で大変な騒ぎにぶつかってしまった。
一行は岩動炎天、同じく露子、猪狩五山、猪川箕人、それに私の合計五人。五山はのちに、無産運動の勃興期に、社会主義医者という異名で、知ってる人も多いだろう。
俳句が、何時のころから、老人の玩具になってしまったのだろうか。明治中期の俳句といえば、最も先端的な思想運動で、それに参加したのは、ハイティーンから、せいぜい三十歳どまり。しかも、東大、一高を中心とする進歩的インテリの進軍の譜だったのだ。
ホトトギスの発刊が、明治三十年で、子規も若く、虚子も若く、これに対抗する秋声会も、尾崎紅薬、巌谷小波、戸川残花、みんな、生きのいい青年だった。写生ということが重んじられ、盛んに俳句行脚をやった。その風潮が、東北の小都会の、生意気盛りの中学生にまで、伝染病のごとく、感染して来たのだった。
奥羽山脈を横断して、四日目に能代へたどりつくと、地方の俳壇で鳴らしていた島田五工の家へころがりこんだ。北上川で、河舟はこいでいるが、日本海の風光は、また珍しい。さっそく、浜辺へ地引網の見物に出かけた。
あの辺は、一体に、女性が、たくましくて、勇ましいところである。男鹿半島あたりでは、男が沖へ出たあとを、女ばかりの消防団まで出来ている。
私たちが、能代の浜へ行った頃は、もちろん、そんな組織はない。その代りに、たくましいことは、もっと、たくましかったのであろう。網が手繰り寄せられれば、飛びついて行って手つだうために、漁師のおかみさんたちが、砂浜一ぱいに待機している。
私たちが、近よってゆくと、妙な眼をして、からかいはじめた。五人の中では、猪狩五山が一番の美少年だった。それに五山は、どういう料簡か、盛岡を出発する時から、墨染の法衣を着ていた。どこの寺から借り出したものか、青く剃った頭によく似合った。それが、おかみさんたちのイカモノ趣味を、そそったのだろう。半世紀前の漁村には、駒込吉祥寺の寺小姓くらいに、見えたのかも知れない。
「よウ。もっと、こっちへ寄って、一緒に、引っ張りましょうよウ」
むろん、こんな標準語ではないが、中でも最も勇敢なのが、太い腕をのばして直接行動に出た。すると、わたしも負けるものかとばかり、わあッと大ぜいが飛びついて、昭和の暴力女給の如く、手取り足取り……。
落花狼藉という言葉は、旅の娘が、箱根の山で雲助に取りかこまれたりする時に、使うものだと思っていたが、能代では、話が正に逆だった。
それから秋田へ出て、八郎潟では船賃が足りず、川尻の俳人、佐々木北涯氏の家へ、私が使者になって、金一円也を借りに行った。この一円はついに返さなかったような気がして、私は今でも気になっている。
こういう名吟を見ると、巌谷小波も、なかなかの俳人だったと思う。正岡子規を盟主とする根岸派(日本派)に対して、秋声会の隠然たる驍将であった。
しかし、今の人たちは、お伽話の小波だけしか知らないだろう。文章の多少の古めかしささえ我慢すれば、あの童話の数々は、いつまでも生命を失わない。
だが、私の覚えている小波先生は、馬のおもちゃの小波である。高輪南町の千馬閣。おそらくは、お伽話の印税で出来たのであろうと思われるハイカラな二階建の洋館は、隅から隅まで、馬、馬、馬で、最初は全くキモをつぶした。
玄関をはいってゆくと、見上げるような木馬があり、棚には、豆粒ほどの馬が、古今東西、至るところの郷土玩具をそろえてある。
「集めた動機は?」
「むろん、ウマ年だからです」
中年までは、ピンとはねたドイツ式のヒゲだったのが、のちには、先を刈りこんで、ヒゲまで円熟味を見せていた。
「牛飲馬食といいますがね、食べ物には趣味はありません。食い道楽というのは、つまり胃の腑が弱いから、よりごのみをするわけで、尾崎紅葉君なんぞ、食い道楽から、とうとう、病気になってしまった」
この点は、同じウマ年の私も、大いに共鳴した。私だって大抵のものは、物怖じしないで、いくらでも馬食する。
「あなたは、引越しはきらいですか」
突然、そんなことをきかれた覚えがある。私が返事をしかねていると、
「私は、十年間に、ちょうど十回、引越しましたよ。こうして、自分の家を持つと、引越しする権利がなくなった。仕方がないから、家の中で、引越しをしています」
引越しを、権利だというのも、おもしろいが、家の中の引越しは、一層おもしろい。机と椅子と本箱を持って、今月は向うの部屋、来月は二階の座敷と、しょっちゅう引越して歩くんだという。
そのうち、自慢そうに持ち出したのは、ササラバサラと馬糞石だ。馬が、食べものと一緒に毛をのみこむと、胃の中で、胃液に練り固められたのがササラバサラで、別名を馬化玉という。椿の実くらいの格好である。馬糞石は、馬の腹で固まった石灰質の玉、直径四寸ほどあった。
明治天皇の乗馬の蹄鉄やら、ビルマで発掘した千年前の馬上の仏像やら、一つ一つに能書がつくのだが、名題の話術の名人だから、新講談をきくくらいには退屈しない。
「この間都築馨六さん(枢密顧問官)にあいましてね。キミは馬を集めているそうだが、どのくらい持ってるかというから、さよう、五、六百はあるでしょうと、答えたら、都築さんびっくりしましてね。そんなに沢山、どこへ飼っておくのだ。ボクは、せいぜい五頭か六頭だと思っていた……」
これには、大笑いしたが、小波氏は明治三年生れだから、私よりは、一回り上だ。
「あなたも、馬を集めなさいよ。今から始めれば、私よりも、もっと集まる」
さんざん、すすめられたが、私も、そして銭形平次も、ついに、玩具集めはしなかった。帰りがけに気がついたのだが、小波邸の靴脱ぎには、大きな「下馬札」が、デンとばかり建っていた。
銭形平次は犯人をつかまえない。約半数は、知って見逃してしまうのだ。
「いいか、おれの眼の、とどかぬところへ、行ってしまうんだぞ」
と、わざと縄をかけないで、
「なあに、笹野の旦那には、おれが叱られればそれで済む」
笹野新三郎は、平次の直属上官の、八丁堀の与力である。笹野も、それを知っているから、口で叱って、心でほめて、
「平次。また、しくじったな」
と、すがすがしい顔をする。しまいには、「しくじり平次」の異名までつくが、あの思想は、どこから出たのかと、きかれることが、しばしばある。
私は、それに答える前に、花井卓蔵博士のことを書いてみたい。衆議院副議長、法学博士というよりも、刑事事件の花形弁護士として、野口男三郎をはじめ、明治、大正のセンセーショナルな事件には、常に、暖かい弁護で知られた花井さんである。
花井さんと話したのは、大抵、神田錦町の法律事務所であったが、本箱と、書画がきちんと並んで、事務所というより、ホテルのサロンという味だ。
「法律は、西洋から来たものだと、思いますか」
錆びのある落ちついた口調で、花井さんはそんな風に反問した。こういう大家と議論したって始まらないから黙っていると、
「法律思想というものは、昔から東洋にもありました。たとえば、執行猶予という考えですね。唐の太宗は、死刑囚三百九十人を家に帰らせ、来年の秋に、刑を行うから、それまでに戻って来い。といったというのです」
「戻って来ましたか」
「一人残らず戻って来ました。太宗、即ち、これを許す。と書いてあります。善に立ち返った者は罰しないという思想です」
「なるほど」
「シナでは、存留養親といって、罪を犯した者に、老いたる親があれば、親を養うために、その子を許すという思想があった。これは少々、行きすぎですが、犯罪そのものを直視するほかに、もう一つ別の要素をも加味するというのはおもしろい」
「行為だけを見ないのですね」
「古い本を調べますとね、乞食の犯罪、貧乏人の犯罪などは、あまり罰されていない。高位高官の者の汚職の罪。こういうのは、死刑を課したものでした、西洋から来た今の法律は、行為を罰して動機を罰しないが、殺した方が善人で、殺された方が悪人だという殺人事件だってあるはずです」
「レミゼラブル」のジャン・バルジャンのように、やむにやまれず、罪に触れたという場合が、世の中にはいくらもあるはずだ。花井博士は、それを強調するのだった。
それから十七、八年たって、私は銭形を書きはじめた。人によっては、銭形平次を、勧善懲悪だと批評する。しかし、この批評はありがたいようで実はありがたくない。勧善懲悪というのは、滝沢馬琴流の忠孝仁義のにおいがするからだ。
平次が追及するのは、人間としての善意の有無である。事件の動機に立ち入って、偽善者と不義を罰し、善意の下手人は逃がしてやる。
「法のユートピア」といってもよい。こんな理想境は、マゲモノの世界の中に、打ち立てるよりほかはない。
「時代小説の筆者なら、刀剣類は、いいものをお持ちでしょうな。若い時には、剣道なども……」
と、見当違いの質問を受けることもある。雑誌の口絵に載せるのだから、刀を抜いて、眺めているところを写真にとりたいといって来たこともある。
舞台の国定忠治なら、小松五郎の一刀を、月にかざして見栄も切ろうが、私のうちには、あいにくとナイフさえない。刃物と名のつくものは、鉛筆けずりでも、きらいなのだ。
一体、世の中には、チャンバラと捕物とを一緒くたにするあわて者が、あるようだ。銭形平次も八五郎も、四文銭と十手のほかに、刀も脇差も持っちゃあ、いない。捕物作家クラブの会員章のアルミニュームの十手ならあるけれど、私のうちに刀がないのは、むしろ当然ではないか。
剣道のことも、一通りは調べているけれど、名人達人を相手に決死の立合いをやった経験はない。それよりも、案外な人から、剣の話をきいたことがある。
一人は、岩崎小弥太男爵である。大金持ちの二代目三代目というと、風に柳のヒョロヒョロ型を連想するけれど、三菱財閥の総帥は、二十三貫のこの私が、圧倒されるような恰幅で、眉毛はピンと上がっていた。
「高輪の邸で、学校出の若い社員と、今でも竹刀を握ります。ゴルフもこの頃、はじめたが、とても撃剣のようには行きません」
剣道といわず、撃剣といったのも、時代が分るが、芝居や映画で、富豪といえば、型の如くニヤケたのが出てくるのは、あれは、おかしい。たまには、剣豪長者なども登場させるわけには行くまいか。
もう一人は、警視総監の西久保弘道氏だ。体重二十八貫。制服を脱がせたら、どう見ても西塔の武蔵坊弁慶である。
「総監は何流で?」
と、きくと、
「山岡鉄舟先生の無刀流の精神を学びました」
二十何年間、一日も竹刀を廃さないという隆々たる双腕を叩いてみせる。
「二十年もやっていたら、若い者では、歯が立ちますまい。相手に困りは、しませんか」
「いや。三人でも五人でも、束になってかからせばよい」
こうなると、正に、昔の剣客である。
「われわれ役人の仲間にも、夜更かしをして、牛飲馬食する連中と、朝早く起きて、運動をやる連中とがある。この両方を一人で、やれる体力でないと駄目だ。私は、海へゆくと、雨でも風でも構わずに泳ぐ。ひとは、気違いだというけれど、せっかく、海岸へ行って、少々、天気が悪いからと、陸でぶらぶらしている方が、よっぽど、気違いだ」
ちょうど大正天皇の即位式を目前にしたころで、
「御大典には馬に乗らねばならぬから、三日前から稽古をはじめたが、何をやっても、呼吸は同じだ。武芸十八般というけれど、根本は、気力と体力の養成だよ」
役人ばかりではない。小説を書くのも、気力と体力で、月に百枚や二百枚で、ふうふういうようなのは、流行作家にも、警視総監にもなれるはずがない……と、しみじみ悟ったのは、もう少し後になってからのことである。
かりに、もう一度生れかわって、新しく職業につくとしたら、私は何を選ぶだろうか。
その場合、私は少しのためらいもなく、新聞記者を選ぶだろうということを幾度か筆にも口にも、公言してきた。
今はどうだか知らないが、私の知る限りの新聞記者は、威勢がよくて、楽しくて、そして多忙で貧乏だった。
新米記者のころ、私は時計が買えなかった。月給二十円からスタートしたのでは、その後いくらか上がったとはいえ、そこまで手が回りかねるのは無理もなかろう。
「野村君は、時計、ないのか」
「ああ、ないよ」
「そんなものは持たぬという主義なのか」
「無茶を言ってはいけない。時間を気にしない新聞記者があるものか」
「それでは、ボクがやろう」
「くれる?」
「あははは、そんな妙な顔をするな」
そう言ったのは、海軍省の記者クラブで、懇意になった国民新聞のF君である。
「今日は、持っていないから、明日、持ってきてあげる」
さて、明日になると、F君は、私に、妙な札をくれた。時計だと思ったら、変な紙キレだったので、ちょっと驚いたが、それが、質屋の質札だとは、私にも見当がついた。
「ボクの兄貴がねえ、アメリカ土産に、素晴らしいやつをくれたんだ。持つべきものは、気前のいい兄貴さ。ところで、今までのやつはこの通り、お蔵にはいっている。流しちまってもいいんだが、安く入れてあるから、もったいない。キミ、出して来て使いたまえ」
そこで、私は、質札をたよりに、本郷の質屋を捜して行った。根津の通りから、ちょっと、はいったところだった。
請け出してみると、金側の……むろん、純金ではないが、立派な舶来品だった。質屋へは、大枚十九円也。それに一円二十銭の利息を加えて、二十円二十銭也を支払った。ピカピカ光るやつを帯にはさんで、社へもどって来ると号外が出た。野村が金時計を持ったという号外ではない。明治天皇のご病気か何かだった。
それから実に四十年。私は、この質請けの時計を愛用した。戦後になって、別の新しいのを買ったけれど、ネジをまけば、今でもこの時計は動いている。
そのころ、社主は、三木善八老だった。わが国新聞発達史の一ページを占めるこの老人は、そろばん一挺を座右から離さず、すべて数字から割り出して新聞を作った。社員が煙草の吸いさしを床に捨てると、じっと見ていて、人に拾わせ、原稿紙で鼻をかむと、容赦なく面責した。物を大事にせよ、というのが持論であった。
それから大分たって、私は一生に一度の大患いをした。健康保険もない時代であるし、六十円の月給では、病院のベッドに寝ていても、全く生きた空はなかった。ところが、週末になると、知らぬ間に誰かが払ってくれている。毎週毎週、その通りである。あとになって、それが三木さんのポケット・マネーから出ていたと聞いて、手を合わせたい気持になった。三十三年間も、一つ社へ籍を置いたのは、こういうことが、心にしみたためだったに違いない。
ペンで書く作家。ボールペンの人。鉛筆でないと書けない人。私は、小説を書くようになってから、ずっと万年筆である。
新聞社へはいったころは、巻紙に毛筆という人が、半分くらい残っていた。若き政治部記者、尾崎咢堂が、五ツ紋の瀟洒な姿で、巻紙の端ッこを床の上に流して、二間でも三間でも書き続けたという壮観は、すでに思い出話になっていたが、第二の尾崎、第三の咢堂は、編集局にうようよといた。
ロール半紙を原稿紙風に桝目を刷って、それを長くつないだものが、この人たちの表道具だった。それに対して、学校出の若い連中は、四角いザラ紙に鉛筆だった。私は、最初からザラ紙党に属していた。
小説に専念するようになってからは、もっぱら、パーカーの万年筆である。戦時中から戦後にかけては、新しく補充がきかないから、虎の子の三本ほどを、肌身はなさず大切にした。
軽井沢へも持って行ったし、伊東で仕事をするにも、この万年筆だった。汽車はすごく混んでいたし、手には大きなバッグを提げ、革のカバンを肩からななめに吊っていた。
熱海で乗りかえの時、誰かが触ったような気もしたが、伊東線に乗って気がつくと、カバンのかぶせぶたが、パクパクになっている。
「しまった!」
手をやってみると、案の定、万年筆がない。革のケースにはいっていたので、スリは、財布だと思ったのだろう。
専務車掌にとどけると、車掌は、私の顔を見てニヤリと笑った。
ちょうど帝銀事件の直後で、新聞は、連日、大きな見出しが続いていた。こういうような世の中に、たかが万年筆の二本や三本。わざわざ届けるのは、そりゃあ、おかしいかも知れませんよ。しかし、専務車掌ともあるものが、客に向かって笑わなくとも、いいじゃないですか。
だから、私は言ってやった。
「盗まれた品物は、むろん、大したものじゃありません。しかし、私にとっては、かけがえのないものでして……」
すると、車掌は、もう一度、ニヤリとした。何も被害の額によって、笑ったわけではないことを、無言の中に、弁解しながら、急に人なつっこい声になって、
「銭形の親分さんともあるものが、スリにやられるとは、不覚でしたね」
と、いった。
私は、なんとも言葉が出なくて、無暗にペコペコ、お辞儀をした。傍では、老妻が、大声をあげて笑い出した。仕方がないから、私も結局、笑ってしまった。
死んだ菊池寛氏は、
「うっかり、銀座を歩けないのが不自由だ」
と、こぼしていた。私は、菊池寛氏ほど一目瞭然の顔ではないし、大抵は大丈夫と思っていたが、案外のところに、ファンが、いるものだ。そして、その案外が、どこにあるか分らないから、おちおち、物を食べにも行かれない。
映画女優や野球選手は、全く大変だろうと思う。だから、私は、あまり外出しない。それさえ、眼を悪くしてからは、できなくなった。やはり、自分の家の中が、大きな顔をしていられて、一番いい。
この文章も五十回になった。五十というのは、人によっては、魔の五十回などという。長編小説で、五十回目あたりが、一番、息の切れる難所というわけである。
正直のところ、銭形平次三百八十三編も、第五十話あたりが、最も骨が折れた。百二百となれば、あとは、ずいぶん、勢いに乗ることも出来る。
昔から、長い小説は、いくらもある。源氏物語、アラビアン・ナイト、八犬伝、戦争と平和、大菩薩峠。
だが、その多くは、一つの筋の発展であって、幾多の短編の集積というのは、昔は、あまりなかった形式だ。探偵小説には、フランスの「ファントマ」や、イギリスの「セキストン・ブレイク」があるが、あれは一人の作者でない。捕物作家クラブ同人が、協力して書いている黒門町伝七捕物帳と、むしろ、似たようなものである。
あんまりいうと自慢にきこえるが、新記録というのは、なかなか楽しいものである。ビルからビルへ針金を渡して綱渡りするのも、一度に何升かの大飯を食べてみせるのも、私が三百何十編を書いたのも、あまり変らぬ優越感であろう。『大菩薩峠』の作者に逢うと、いつも、その長さについての自慢をきかされたが、考えてみると、私も同類項らしい。モリソバを、背丈けだけ食べたと威張るあんちゃんと、大して変らぬ無邪気さである。
昭和六年から始めて、最初のころは、節操堅固に、一つの月刊雑誌だけへ発表した。従って一年に十二編である。
七、八年たって、C社から出版の話が来た。C社のいうには、
「今後、まだまだ、どれだけ書くのか分らぬから、銭形全集とはいえませんね。銭形百話とつけたいが、百編ありますか」
「そうですね。百くらいは、たまっているでしょう」
そこで、勘定してみると、全部で八十七編である。十三編だけ不足なのだ。
「それだけ、たまるのを待っていては、もう一年ほどかかる。直ぐ出版したいから、十三編書いて下さい」
「よろしい、書きましょう」
二つ返事で承知はしたが、出版社では、直ぐに広告を出したいから、まず、題名をきめてくれという。題名を目次に組みこんでおいて、それから構想にかかるという仕掛けである。
「明日までに、きめましょう」
私は、一晩で、十三の題名を考えた。銭形作品年譜でいうと、第八十七から、第百話までの「金の茶釜」「許婚の死」「百四十四夜」などというのがそれである。
楽屋話を披露すると、なるべく融通のきくように、なんとでもなる題名を選んだつもりだ。それでも、十三の中の一つだけは、それに当てはまるような構想が立たず、ひどく苦しんだことを覚えている。
こうしたことが、いいか、悪いか、分らない。しかし、短歌や俳句では、題を与えて作るのは、極めて普通のことである。啄木の有名な「東海の小島の磯の……」の歌だって、カニという題が、まず出来て、それに合わせて作られたものだという。小説の場合だって、たまには、こんなことも、差支えないと思うのだが……。
銭形平次は翻案ではないのか?
この疑いを、私は何べん、受けたことだろう。殊に最初の頃はひどかった。奥村五十嵐などはその代表といってよい。
だが、奥村君は、まもなく捕物小説を書くようになり、
「いや、済まなかった。捕物小説が翻案では絶対に書けないことが、自分でやってみて、よくわかった」
と、率直にわびてくれた。
同君以外にも、しつこく疑う人は、多かった。私はとうとう癇癪を起こして、
「翻案だというのなら、その原典を見せてくれ。原本のない翻案があって、たまるものか」
と、開き直った。さしもの疑念も、これで、きっぱりと、解消した。
銭形は断じて翻案でないけれど、一般に翻訳や翻案が、我国の文学を刺激した功績はすこぶる大きい。
ついこの間、生誕百年祭が行われた坪内逍遙博士とは、翻訳についてしばしば話し合ったことを思い出す。
大久保の余丁町。現在は新宿区と呼ばれるが、抜弁天を左へ抜けて、坪内先生のお宅へゆくと、女中が、きまってきいたものだ。
「あのう、若先生の方でございますか」
逍遙先生が老先生で、士行氏が若先生というわけだ。当時の私の年齢からみて、士行氏の客と見たのは、当然だったかも知れぬ。
「いや、老先生に、です」
そのころ、すでに老先生は、短い髪も、長いヒゲも、白いのの方が多かった。
「近ごろの翻訳は、滅茶滅茶ですなあ」
錆びのある声でズバリといって、
「日本ほど、翻訳の多い国はありません。大抵のものは、原語を知らなくても、読める。その代り、うっかり信用すると、とんだことになる。間違いの方が、間違わない部分より多いのもありますからな」
と、声をあげて笑った。
大学在学中から、シェークスピアと取り組み、ついに一生を、翻訳と、芝居とに打ちこんだ博士にしてみれば、いい加減な翻訳の横行が、眼にあまるものがあったのであろう。
それから、芝居に関しては、
「いわゆる、新派は、過渡的なものでしょうな。その点、歌舞伎は見込みがある。あれを純な形で保存すれば、能と同じに、千年ののちまで残るだろうが、生半可ないじり方をすると、必ず亡んでしまいますね」
私も、若い頃は芝居に凝って、新聞社へはいる時も「劇評も書ける」ということが、一つの触れこみになっていたくらいだから、この点では、大いに博士と共鳴した。劇壇に新風を吹きこむのは、結局は劇作家の質だという話になって、
「立派な劇作家が一向に現われないというけれど、そんなら、政界や学界や思想界はどうですか。五十歩百歩じゃ、ないですか」
皮肉でなしに、はっきりと言い切って、からからと笑った。晴れた夏空のような、すがすがしさだった。戦後の翻訳界を博士に見せたら何というだろうかと、このごろ、ひそかに考えている。
都知事選挙も東氏の当選で一段落となったが、歴代の東京市長の中で、私が特に思い出すのは、名市長といわれた奥田義人氏と、名物市長の田尻稲次郎氏とである。
奥田市長は、豆腐がすきで、膳の上は何から何まで、しかも三度三度、豆腐でなければ気が済まぬというのと、夏になれば童心に返って、モチ竿を振り回してセミ捕りをするのと、そのくらいしか覚えていないが、田尻市長の方は、もっとおもしろかった。
小石川の金富坂を上がって、貧弱な素木の門をはいると、玄関までの十数間が両側に丸太で棚を組んで、頭の上まで、南瓜がぶらさがっている。西洋式の庭園では、バラの花のトンネルを作るが、ちょうど、あれと同じ具合で、黄色い花が一面に咲き、かすかに肥料のにおいがただよう。
やっと、玄関にたどりつくと、三尺ばかりの厚い板が、鎖で、ぶらりと吊ってあり、古雅な字体で「田牛」と彫ってある。その脇には別行で「音声経済」と、これは楷書で入れてある。
柱には、松の枝が、かけてある。古い松の木には、枝にコブが出来ることがあるが、あれをそのまま利用して、太鼓のバチの形に仕立てたのだ。
これを振り上げて「田牛」の板を引っぱたくと、僧堂の木魚のような音がする。とたんに女中さんが顔を出すという仕掛けである。
何時も通されるのが書斎兼応接間の洋室で、椅子が三つ。テーブルが二つ。その向うに簡単な寝台がある。客がなければ本を読み、疲れれば、そのまま横になるという簡単明瞭な生活なのだ。
「号を北雷と称するのは、キタナリと読ませるのだそうですね」
「そうだ。着たなりだ。この詰襟服一着を、一年中、着たなりだ」
私も、盛岡中学以来、その方では後に引かないが、田尻北雷博士だけには、これは、絶対に段違いだ! とキモをつぶした。
法学博士、学士院会員、会計検査院長、勅選議員、子爵という肩書にもかかわらず、着たなりの小倉服は、たてよこにすり切れて、別の布で切り貼りしたのがまた穴があいている。中学時代の私が芸者の卵たちに笑われたのより、もっとひどい。
年がら年中、床屋に行かない。のびすぎれば、自分でチョキンとやる。というのは、こっちも同格だから驚かない。
謹厳そのものの顔で私を見て、
「田牛の読み方は、ご存知でしょうね」
「タノモウですね。最初は、びっくりしましたよ」
「頼もう……などと、気取った声を出さなくとも、あれがあれば、済みますからね。金や物ばかりでない。声だって、出さずに済むものは、その方がいいです」
「同感です」
「日本人が、そこまで始末する気になれば、貧乏日本も、五年間で立ち直るが、学生までが、巻煙草をスパスパやる有様では、とても、とても、だ」
市長になって、市政の上にも、北雷式を押し通そうとしたが、結局は、奇人市長だけに終って、名市長とまではいわれなかった。七十四歳で、自邸の二階から落ちて死んだが、ともかくも、あんなにおもしろい先生は、なかった。
谷中の五重の塔も焼けてしまった。
幸田露伴の名作『五重塔』を、少年の日の私は、どれほどの感激をもって読んだことか。
私が逢った頃の露伴博士は、『風流仏』や『一口剣』の創作旺盛時代から自然を愛する年配になり、碩学としての存在になっていた。
向島の堤から、雲水の横をはいってゆくと、伊勢物語にでもありそうな、閑雅な門にぶつかる。そこから玄関までが、飛び石づたいで、左右には、秋の七草。萩に、ススキに、芙蓉が咲いて、昼の虫が、絶え絶えに鳴く。いわゆる造庭の法則を無視して、しかも無限の味わいがあった。
『五重塔』の十兵衛を、いささか小づくりにしたように、たっぷりと厚味のある身体。和服の胸からのぞく肌の血色が鮮かで、ヒゲの先は、だらりと、天神様になっていた。
「京都や奈良の古社寺風景は、出来上がりすぎていて、つまらない。そこへ行くと関東は、千葉県から、埼玉、茨城あたり、思わぬところに妙な寺などが残っている。絵にも、詩にもならないが、小説になるのは、この方だ」
おだやかな口調でそんな話をした。国宝にもならず、周囲は、墓石ばかりという谷中の塔は、つまりその代表だったのであろう。
「関東の平原はいいですね。暁のもやに包まれた杉木立。夕べの雨の田圃道。火のような赤トンボが飛ぶ秋の空……」
博士は、ゆっくりと指を折って、
「こういうものから、庶民の文学が生れます。天下に一つというような、奇巌怪石は、いけません」
博士のこの教えを、私は、のちに小説を書くようになってから、何度、味わい返しただろう。
それから余技の話になって、
「やっぱり鉄砲は長つづきしませんでした。釣の方が飽きません。魚が、食おうが食うまいが、無心に坐っているというのは、釣だけに許された有難味です。鳥や獣がいようがいまいが、鉄砲を持って原ッぱの真中に突っ立っていては、気違いと間違えられます」
歴史の話、思想の話、それぞれの国による人情風俗の話。中でも中国の研究は、博士の独壇場であるだけに、かしこまって謹聴していたら、突如として、中国の昔の好色本の話になったのでびっくりした。
「文化が、深く、根強くなってゆくと、どうしても、そういう方面が発達するものですな。ローマもそうだ。フランスも、そうでした。しかし、歴史が長いだけに、何といっても、中国に及ぶものはないでしょうな。その上、文字の国だけに、同じことを描くにしても、精密で、繊細で、ファンタスティックです。たとえば……」
そういって博士は、幾つも、幾つも、本の名前をあげた。そして、それぞれの場面や、文章の洗練さについて、膝も崩さずに語るのだった。
今から思えば、あの艶本談義を、くわしく心にとめておいたら……と悔まれてならないが、三十代の若僧に、古今の大学者の相手は無理であった。もっと、話を引っぱり出して、ノートでも取ることが出来ていたなら、と、千秋の恨事のような気がしてならない。
毒ゼリというものの恐ろしさを、私は、軽井沢で、まざまざと見た。あんなに恐ろしい毒草が、案外の身近にあるかと思うと、慄然とする。
私は戦前から、軽井沢に山小屋があって、夏の三カ月間は、サッサと東京をあとにする。借家ずまいの身で、まず、別荘を持ったのは、まことに主客顛倒であるし、新聞社に籍がありながら、原稿だけを送って、涼しい顔をしていたのは、私のいた新聞社が、不思議な寛大さを持っていたためである。
戦争中は、家をあげて山荘にこもり、林をひらいて、南瓜と馬鈴薯を作った。隣人に、文芸や、音楽を論ずるT画伯があり、夜は、灯火管制の空の下に、のちの文相前田多門、宮内庁長官田島道治氏らの疎開仲間と、T氏の美術論に聞き入ったものである。
T氏は、そのまま住みついて、今も浅間の噴煙と、高山植物の美しさとを描きつづけているが、まだ戦争の終らなかった昭和十八年七月、このT氏の夫人が、間違って毒ゼリを食べたのだ。
毒ゼリは、別名を玉ゼリともいって、植物図鑑によると、
「人家付近の沢地に自生し、葉はセリに似ている。全草、ことに根茎にシクトキシンなる猛毒を有し、誤って食すれば死に至る。曙水仙、花ワサビ、水竹蘭、延命竹などとも称される」
生れながらの田舎育ちなら、知っていたかも知れないが、ちょっと見ては、セリにそっくりである。延命竹というとあるが、延命どころか、大変な劇毒である。
変をきいて、私たちが駆けつけた時は、もう、手を施すべきすべがなかった。
「強直性のケイレン、よだれ、脈搏の極度の不斉」
と、図鑑に書いてある通り、全く正視に堪えなかった。私は、今までに、これほど、凄惨な死に方を見たことがない。
これからのち、私は捕物小説に、しばしば毒ゼリを登場させることにした。
捕物帳では、ピストルも、自動車も、青酸カリも使えない。道具立てが少いだけに、人間の心と心との触れ合いが主になって、それだけに内面的だとも言えるのであるが、怨恨から人を殺そうとする場合、何時も何時も、丑の刻まいりというわけにもゆかない。
石見銀山のネズミ捕りという手があるが、あれは、そう簡単に死ねるものでないし、それほどの劇薬ならば、市販を許すはずもない。ケシの実はアヘンだから、眠らせるのには、よかろうが、一服でコロリという具合には参らぬ。
苦しまざれに、南蛮渡来の秘薬というのが使われる。長崎あたりで密造されたというのであるが、化学方程式のない毒薬は、現代の読者を納得させる力が弱い。それに、なんとかの一つ覚えではあるまいし、時代小説といえば、すぐに南蛮渡来というのも知恵がない。
トリカブト(鳥兜)も、たまに使った。北海道産の大トリカブトは、アイヌ民族が矢に塗ったというもので、内地に自生するヤマトリカブトも、かなりの猛毒を持っている。
アセビ(馬酔木)も時々使ったが、それほどの毒はないと、植物学者にきいて、がっかりした。アセビをなめて、馬がヒョロヒョロになる図などはおもしろいが、実際は、そんなわけにはゆかぬらしい。
作家が太夫なら、揷絵は三味線。運動会ならば、二人三脚みたいなものである。
銭形平次の揷絵を受持ってもらったのは、鈴木朱雀、清水三重三、野口昂明、神保朋世、鴨下晁湖などの人々がある。みんな練達のベテランで、そして勉強家であることに大いに敬意を払っている。これから書こうとすることは、こういう一流の人たちのことではない。
捕物帳の揷絵のむずかしさは、描きすぎていけず、描き足りなくても、いけないという点であろう。
たとえば、この前、谷好文君が、風呂敷包みの持ち方で、娘強盗を見破った話がある。あれを小説にするとして、揷絵は、どこまで描いたらいいか。一目で女とわかる姿を、絵にしてしまっては、これは、いけない。
むかし「身代り紋三」を新聞に連載した時のことである。絵描きさんが、やって来て、
「例の、覆面の人物ですね。あれは、本当は誰なのですか。私だけには、教えて、おいて下さい」
「それは困る。あれが何者であるかということが、この小説の背景なのだから、それを暴露してしまうと、何もかも、台なしになる」
「分っています。決して、口外致しません。ただ、揷絵を描く上の心得として……」
「では、いいましょう。実はあれは女なのだ。それだけ言えば、見当がつくでしょう。ほら、あの女……」
その日は、それで帰って行った。むろん誰にも、しゃべりはしなかったと思う。だが、次の日、新聞を見て、私は、
「しまった!」
と、叫んだ。
謎の人物の絵姿が、すっかり女になっているのだ。黒装束には変りはないが、忍びこむ手の線、足の形、誰が見ても女なのだ。その小説には、女は、二、三人しか登場していないから、これでは、すっかり、見当がついてしまう。
「困るねえ。この小説は、これから、まだ百回も続くのだ。この辺で、タネを割ったら、誰も読まなくなるではないか」
私としては珍しく、いささか、怒気を含んで言った。
すると、そのまた翌日からは、筋骨すこぶるたくましく、鬼をもひしぎそうな絵になった。私は、またしても、憂鬱になった。
一回読み切りの雑誌の場合でも、犯人らしいのが何人かいて、あれや、これやと騒いだ末に、最後にドンデン返しになって、正直なアンマと思ったのが、意外にも下手人だったとする。それが揷絵で、平次がアンマを縛るところを書いたとすれば、読者は、パラパラと、めくっただけで、何も、最後まで読むことはない。
ところが、再び新聞にもどって、絵描きさんが、全然、犯人を知らないと、最後まで画面に出て来ないことがある、これも、実は困るのだ。犯人とさとらせてはいけないけれど、登場することは、ふんだんに登場していなければならない。
岡ッ引きと、下ッ引きと、股引の色がどう違うとか、十手のカギは、どちらを向けて握るとか、故事来歴も知っているに越したことはないけれど、まず第一は、捕物小説のツボを心得ていることだ。銭形の揷絵が、気心の分った何人かの人に、定着してしまったのも、そのせいである。
書斎は、広いがいいか。狭いがいいか。私は、雑司ヶ谷に住んだころ、たった二畳敷の納戸を書斎にしたことがある。気が散らなくていいが、参考書を置けないのに困った。今の書斎は八畳だが、これも少々せますぎる。
今までに見た中で最も理想的なのは柳田国男先生のであろう。およそ三十坪。四辺ことごとく本箱で、その上、図書館の書庫のように、中央にも本棚があり、その一隅に仕事の机がある。これなら、夜中、隣の部屋まで参考書を取りにゆく世話はない。
書庫と書斎を別に作るのは、すこぶる合理的のようだが、冬の夜などは、つい面倒になって無精をする。手を抜いた仕事は、どうも、ロクなことはない。
もっとも、柳田先生を、最初にお訪ねした頃は、貴族院の書記官長で、内幸町に官舎があった。やはり、そこいらじゅう本箱だったが、今より、ずっと生きがよかった先生は、書斎の話より旅行の話ばかりした。
「紀行文でおもしろいのは、古川古松軒の東遊雑記と西遊雑記。それから、蜀山人と貝原益軒もいいが、外国のものでは、チャーム・オブ・ロードですね。これは、たのしい本です」
気軽に立って、本箱から出して来る。イギリスの一夫婦が、片田舎から片田舎へと、自動車で歩き回った紀行文で、田舎道の趣味を説いた本である。
「目的地をきめて、ツーと行って、ツーと帰るのは、旅行というよりビジネスですね。東京弁を使って、食べものの味を気にするようでは、東京の生活が移動しただけです。名高い名所を見物しても、岩と水と、松が五、六本あるだけです。本当の旅行趣味といえば、何もない普通の道を、この山を越えたら何があるか。この森の向うは、どうなっているか。那須の奥から、南会津へ抜けたのなどは、最も興味がありました」
それ以来の長いおつきあいで、戦時中に訪ねた時は、例の三十坪の書斎に、小さな手あぶりを持ちこんで、
「燃料が不足だと、広いのは寒くていけません」
と、あきらめたような顔をされたが、原則的には、やはり広い方がいい。
洋間がいいか。日本間がいいか。
これは、銘々の好みにまかせるほかはないが、私自身は椅子でないと仕事ができない。現在の書斎は、南と東のまどに、日本風の障子をはめてみたが、こいつは大成功だった。紙を通して来る光線は、なんともいえないやわらかみがあって、洋間に紙障子というのは、今に世界的の流行になるのではないかと思う。
もっとも、こんなぜいたくがいえるのは、ここ十数年来のことであって、銭形を書きはじめた頃までは、借家ずまいの上に、子供は勉強ざかりであったから、親父の私には居間一つしか自由にならない。食事の時には食堂になるし女房は縫いものをひろげにかかる。
「この中で、よく書けるねえ」
と、訪ねて来た友人が、びっくりしたが、新聞社の編集局のことを思えば、ものの数でない。
要するに、書斎がどうのこうのというのはいいわけでなければ、見栄っぱりだ。書ける時には、どこにいても書ける。書けなくなればどこにいても書けない。
風変りな書斎の話といえば、江見水蔭氏が、やはり、そうだ。硯友社の最後をかざる豪放な作家で、胸のすくような快男児であった。はじめて会ったのが大正の初めで、それから、ずうっと、氏が亡くなるまで、交渉が続いた。
品川の町はずれ。小倉山の稲荷さまのうしろを回って、門を一足はいると、石器土器の山だった。
書斎には、石斧、ハニワ、石鏃、首飾りなど、弥生式もあれば、縄文式もある。こういう書斎は、ほかに類がない。
「相変らず集めてますな」
と、水を向けると、骨太の手で、頬のあたりを、さすりながら、
「忙しいので遠出は駄目です。一日か二日で行かれる近郊ばかり……」
大きな頭。くぼんだ眼。広い額に知性を見せて、気のおけない笑いをとばす。
「はじめは、執筆に疲れると、息抜きとして出かけたのですが、今では、かえって疲れます。下ばかり見て歩くので、スリみたいな眼つきになって……」
それにしても五十年前の東京は、近郊に、いくらも石器がころがっていた。
「田舎の人が、だんだん、こすっからくなって、何でも金にしようとするので困ります」
それから、発掘の苦心談になり、香炉型の土偶の首を持ち出して、
「これですよ。日本唯一つという珍品は。円長寺の和尚が遺言をして、私に送り返して来たのです」
大田区雪ヶ谷の円長寺の住職が、同じ石器マニヤなので、一緒に多摩川べりへ発掘に行った。珍品を掘り当てて喜んでいると、村民たちが集まって来て、形勢すこぶるおだやかでない。すると和尚が割ってはいり、
「これは尊い仏さまじゃ。お前さんたちの手を触れるものでない。わしが持って帰って有難いお経をあげてやる」
うまうまと、横合いから、さらってしまったという、いわれの品だ。
もう一つ、水蔭氏の相撲マニヤは、これは、いうだけ野暮なこと。庭のまんなかに土俵を築いて、
「ええ、毎日やるんです。夕方になると、町の常連が、学生も職人も集まってきます。横浜へ汽船がはいると、大ぜいかたまって他流試合に来たりします」
「そういうのは強いでしょうね」
「ですから、最初に代稽古を出します。腕前を見た上で、私が出ます」
「代稽古が、みんな、やられたら?」
「そういう時は、私は出ない。腹が急に痛くなったり、風邪を引いたり。講談にある昔の道場と同じですな。はッはッはッ」
のちに、平凡社の大衆文学全集で、四千何百円かの印税がはいると、町の若い衆に、揃いのユカタを作り、土俵を新しく築き直して、盛大な素人角力大会を催し、一生一度の大収入を煙の如く費い果してしまった。
「宵越しの銭を持たぬ」と威張る江戸ッ子は、幾人も知っているけれど、こんなに見事に実行して見せた人は、はかに知らない。
もっとも、水蔭氏は土佐の生まれであるが、江戸ッ子以上の江戸ッ子ぶりであった。こんな胸のすく作家は、その後、二人と出ないようだ。
私が社会部長のころ、新入社員の鈴木茂三郎君に、ある人のインタビューを取ってくるように命令した。
デスクと第一線の感覚のズレか、あるいは情報判断の食い違いか、若き鈴木君にしてみれば、あんな人間を訪問したって、仕方がないと考えたらしい。
しかし、純情な鈴木青年は、部長に言いかえすこともせず、不承不承に、社の玄関を出た。
一足おくれて出て来たのが御手洗辰雄君で、
「何を、ふくれっ面をしている?」
「実は、これこれだ」
「そうか。それは、キミのいう通りだ。あんなやつの談をのせる手はないよ。構わないから一時間ばかり、日比谷公園で昼寝して、訪ねたけれど留守だったといえばいい」
知恵も、血の気も、当時から、はち切れるばかりだった御手洗君は、そういって、大いにケシかけた。鈴木君も、むろんその忠告に従った……。
というのは、鈴木君(後、社会党委員長)の直話であるが、私には、全然、記憶がない。それほど、部長としては、ぼんやりだったという証明にもなるが、それはそれとして、私自身にも、全く同じような体験がある。
明治天皇がなくなられて、その大葬の行列が、青山葬場殿をあとに、京都桃山へ向った時、乃木大将夫妻が自刃した。
この自刃に対しては、賛否の論がまき起り、新聞社もにわかに忙しいことになった。二十世紀の現代に殉死などとは、如何にもアナクロニズムであるが、乃木大将の場合に限り、西南戦役以来の事情もあって、美しい武士道の発露と見なす。これが、一応の帰結であった。
しかし、中には、純理論的に、あくまで、殉死否定をいう人もないではなかった。
「菊池大麓博士が、そういう意見を、もらしたそうだ。行って、確かめて来るように」
新米記者の私には、荷の勝ちすぎた命令である。東京帝大の総長で、明治の最初の留学生で、平面幾何の祖述者で、一門には、学界の逸材が多く、さながら、明治の学壇の大御所であった。
私はすぐに、小石川の邸を訪ねると、夜がおそいのに、博士は、こころよく応接間へ通してくれた。
「深夜まで、ご苦労のことですな」
胡麻塩頭の、でっぷりと肥った、如何にも英国風の紳士であった。いささかも、新聞記者にこびるというのでなく、それでいて、芯から温かい思いやりが、じーと、胸に、しみ通った。
恐縮している私を前に、明治天皇の思い出から、東大の話。学問の話。少しもたかぶらない口調である。
私は「乃木大将の殉死に反対だというのは事実ですか」という質問をついに、口に出しかねた。気おくれがしたというのではない。慈父のようなこの学者を、困らせるに忍びなかったのである。
私は、腹をきめて、そのまま、社へ帰り、殉死問題には触れず、明治天皇に関する思い出話だけを書いて、お茶をにごしてしまった。
新米記者として、まことに思い切った横着さであったが、このささやかな技巧を、私は今でも後悔しない。
尾崎紅葉と正岡子規は、共に葬式の模様を覚えている。
紅葉の場合は、鼻眼鏡の石橋思案が、弔詞を読んだ姿だけが妙に印象に残っているが、正岡子規の死んだ時は本当に泣きたい気持で、駆けつけたものである。
盛岡の中学では杜陵吟社と称して行脚までやったり、一高に入ってからは、俳句会の幹事も勤めたほどだから、私の俳句熱も、生涯で最高潮の頃だったのだろう。
根岸庵へ駆けつけると、世話人の手が少かったのか、私のような学生までが、受付係りを仰せつかった。見知り越しの三、四人と一緒に、玄関へ立っていると、新婚間もない久保猪之吉博士が、織江夫人と並んで、清らかな姿を見せたのが印象的だった。
谷中の大覚寺への葬列は、秋の陽の下を、俳人、文壇人の総ざらいであった。柩を埋めて、その上に置いた銅板に「子規居士」と鋳抜いた素朴な墓碑銘が、今もありありと眼の底に浮かぶ。
私は、子規の筆蹟を、手に入る限り集めたが、珍しいのは、夏目漱石から、子規にあてた手紙がある。
子規が大学がいやになって、大宮市の宿屋で、ふてくさっているのに、漱石が心配して出したものだ。教授たちに話をつけて、九月に追試験を受けられるようにしたから、是非帰って来いとすすめたものだ。
それにもかかわらず、子規は中退してしまったが、同じく大学を半途でやめた私は、この手紙が身につまされてならぬのだ。辰野博士にこの話をしたら、
「それはおもしろい。子々孫々に伝えて、家宝にしろ」
と、いってくれた。
子規は、まあ、これくらいにして、田山花袋氏に逢ったのは、それより大分、のちである。出世作「蒲団」を書いたのが、明治四十年であるから、すでに文名嘖々たるものがあるのに、代々木山谷の家を訪ねるのに、花袋では分らず、本名の田山録弥さんときいて、やっと分った。作家に対する世間の関心が、今とは、よほど違っていたのだ。
「あぐらにしましょう。あなたもどうぞ」
着物の裾をぐいと引いて、たくましい足をかかえこむ。そうして、得意のイギリス文学罵倒がはじまる。
「ショウは、皮肉すぎますよ。オスカー・ワイルドも評判ほどでない。イプセンは、テーマに振り回されて冷たすぎる。大体、西洋には、大したやつはいませんが、中でも、イギリスは気に食わないですよ」
これは、花袋氏の自信力の現われでもあるが、一つには、自然主義を契機とする日本文学の勃興期で、すべての作家の胸の中に、欧米文学なにするものぞの覇気がみなぎっていたのであろう。
「我国の文学界が行きつまったというけれど、そんなことがあるものですか。これから若い人がうんと出て、盛んに競争して行けば、ドイツも、フランスもあんなものはあなた……」
言ってることは勇ましいが、口調はすこぶる愛嬌があって赤ン坊のように、たどたどしい。前歯が欠けてるせいであろう。
そうして、言葉の一区切りごとに、足首をぐいと、かかえこんであぐらを組み直す。肥りすぎているせいかと思ったが、あとで聞くと、当時の花袋氏は、長いこと、脚気に苦しんでいたのだった。
近ごろは「江戸のよさ」ということが、忘れられているようだ。
むろん、表立っていえば、悪い時代だったに違いない。封建的で、階級的でそして迷信横行で、始末におえない世相であった。だが、その半面に、こんな呑気な時代は、なかったともいえる。
「ネコのノミ……取りましょう……」
ねむいような昼下がりを、街から街へ、呼んで歩くと、猫に眼のない内儀さんや、お妾さんが、
「チョイト。ノミ取り屋さん」
気取った声で呼びこんで、タマちゃんや、ミイちゃんのために、ノミを取らせる。特殊の技能と、ちょっとした道具を持っているわけだが、こんな商売が成り立つのは、世界の、どの時代にもあまり類がない。石川啄木は、明治の末年に、
「三十円ないと月が越せない」
といって、世の中が世智からくなったことをなげいているが、江戸時代には、居候の名人というのがあって、一生涯、居候をして楽に暮せたという話がある。
古い江戸図をひろげると、道路の黄色と、町家の薄ネズミ色と、そして、青い濠の水とが、広重の版画と同じ郷愁を見る人の胸にしみ通らせてくれる。
いわゆる三十六見附は、高い石垣の桝形があって、槍や鉄砲や梯子の類は通さない。物干し竿なんぞも、本当は、いけないのであるが、先へ、ひょいと風呂敷を引っかけて、
「へい、風呂敷包みでございます」
といえば、役人は、ニヤリと笑って通したという。明治も三十年代になってからであるが、桜田門の桝形に、甘酒屋が出ていたのを私は知っている。
指で、絵図面をたどりながら、平次はこの道を、こう歩かせる。八五郎の住居は、向柳原だから、浅草見附(浅草橋)を、こっちへ渡る。柳原の土手は、辻斬の名所で、そしてまた、辻君(パンパン)のホームグラウンドでもある。明治以後は、古着屋の本場になって、私は一高へ入学すると、ここで、吊るしんぼの制服を買った。川岸の柳に紐を渡して、広重や国芳や国周が、一枚一銭から五銭くらいで売られていた。
浅草橋の高札場を、私は幾度も小説に書いた。町々には、木戸があり、自身番があり、真夜中でも手をあげればタクシーが集まってくる現代とは、わけが違う。芝居の八百屋お七は、火の見やぐらの半鐘で、ようやく、町木戸をあけさせたのである。
両国の川開きは、広重が三十枚近くも描き残しているし、橋のたもとは見世物小屋だ。平次の恋女房のお静がいたのも、ここの水茶屋だったのである。
「江戸に生れないで、どうして、江戸が書けるのですか」
真ッ向から、こう、私にきく人がある。
「それは、わけはありません。ちゃんと、手品のタネがあります」
「手品?」
「そんな顔をしないでよろしい。岩手に生れた私に、多少でも、江戸の息吹きが書けているとしたら……」
そのタネ明かしは、ほかでもない。江戸の古川柳である。「柳樽」をはじめとする川柳を読んだおかげである。私は、時代小説を志す若い人たちに何時も言う。
「悪いことはいいません。まず『柳樽』を、少くとも五回くらいは、読み返すことですねえ」
東大で、フランス語の時間である。
いくらか、巻き舌の、流暢なフランス語で原書の講義をやっていた外人教師が、不意に私の方をみて、
「や? 何をしてる?」
という顔をした。見つかるはずはないんだがつい、眼についてしまったのだ。多分私が、顔の紐をゆるめて、ニヤニヤしたからに違いない。
これが、小学校の一年坊主かなんかであったら、さっそく呼び上げられて、教壇の端ッこに立たされるところであるが、まさか、大学で、そんなことはない。
つかつかと下りてきた外人教師は、私が、二枚折り屏風のように立てているフランス法律書の中をのぞきこんで、早口で、何かいっている。脇から見たら、正しくカンニングを発見された図であるが、今日は、何も試験日ではない。
だから、外人教師にしても、本気で怒るというよりも、何が、私を、それほど夢中にさせていたのか。厚いフランス語の本に抱かせて、ひそかに読みふけっていたのが、どういう種類の本なのか。そのことに、興味をそそられたのだろう。
正直に白状すれば、それは色刷りの人情本でもなければ、そのころ、爆弾のように危険視された社会主義のパンフレットでもない。
江戸川柳のバイブルと称される「柳樽」の活字本だったのである。
「柳樽というのは、花川戸助六の芝居で、三浦屋の見世先に積み上げてある、あの樽ですか」
と、樽と手桶を間違えたあわて者も、あった。いうまでもなく「柳樽」は、初代川柳翁が、花屋久治郎の昌運堂と協力して、明和二年に刊行して以来、天保八年までの七十二年間に第百六十六編まで続刊された江戸川柳の無二の至宝……と、何も、知ったかぶりをすることもあるまい。
当時、私たちの手に入る「柳樽」の活字本といえば、四六判、サラサ表紙の橋南堂版だけだったと思う。国書刊行会本の出たのは大正三年で、日本名著全集本は、さらにおくれて昭和二年である。
その橋南堂版をバラバラにほぐして、私は法律書の間にはさみ、フランス語の時間といえば、川柳ばかり読んでいたのだ。
五番目は同じ作でも江戸生れ
雷を真似て腹掛けやっとさせ
この二句にはじまる江戸の風物詩百六十六編が、どんなに、私を夢中にさせたことか。
それほどまでに読みたいならば、何も教室へ出ることはない。下宿へ帰って、心ゆくまで読んだらよかろう。というのは、学生の心理を知らない言い分である。試験というものがある以上、片方の耳では、講義も聞いておかなければならず、それに、人に知られず読みふけるところに、つまみ食いのたのしさに似た不思議な魅力があったのかもしれない。
その後、大正四年に大患いで入院したときも川柳ずきの友人にたのんで、昔なつかしいサラサ表紙を買ってきてもらい、高熱にうなされながら、一日に数ページずつ読んで行った。現在までに「柳樽」の全巻を、少くとも、六回や七回は読み返したはずである。
中年から小説を書き始めた私が、舞台を江戸に取り得たのは、全く川柳のおかげである。フランス語の法律では飯が食えなかったが、外人教師に叱られた川柳は、生涯私を助けてくれたのである。
大正六年だったと思う。私は、新聞社の社会部長だった。
ちょうど、新聞社の販売競争が、火に油をそそぎはじめたころで、どこの社でも新しい企画に知恵をしぼり合っていた。
「何か変った企画はないものだろうか」
そこで、私は、言下に答えた。
「川柳欄をつくったらどうだ」
「川柳?」
編集の幹部たちは、妙な顔をした。あんな、古くさいもので、読者がついてくるだろうか、というのである。しかし、私は、自信があったから、
「決して、川柳は古くない。新しい人が、新しいセンスで作りはじめたら、これは、大きな流行になる」
「しかし、差し当り、どうなのだ。欄を作った。一句も集まらない。というのでは、恥さらしになる」
「そんな心配は、絶対にない」
「誰が、選をする?」
「むろん、私が引受ける」
「賞品は?」
「いくらか出してもらいたい。賞品よりも賞金がよかろう」
賞金は、天、地、人、の三席で、天が五十銭、地が三十銭、人が二十銭、この定価表はその後、ずっと後年まで、据え置きだったはずである。
「題を出すのか」
「題なんぞない。時事川柳ということにする。今日の朝刊、あるいは夕刊に出た事件を、すぐに作って投稿してもらう。これでなければ新聞にのせる意味はないし、これは一つの新しいジャンルになるぞ」
そこで、社告を出してみると、たちまち百通以上も集まった。
「そうれ、みろ」
私は内心、得意だった。
そのうちに、揷絵を入れたら、という声が出て、谷脇素文氏を起用した。これが、なかなか好評で、谷脇氏としてもその後大いに売り出して「川柳の絵は谷脇素文」という一時代を生み出したことは、記憶にある読者も多いと思う。
大枚五十銭というが、一カ月に五回も載れば二円五十銭になる。これは、米が一斗以上も買える。むろん、賞金だけが目当てではないが、次第に定連がふえて来た。
「すね三」「一松」「夕顔」なんぞという人は、ほとんど毎日、投稿した。作品のレベルも、ぐんぐん上がった。
見方によれば、三越の宣伝みたいでもあるが、近代的デパートの黎明期で、広い、畳敷きの店内を、客に、ずかずかと通らせた。上がり口には下足番がいて、洋服の客には、靴カバーというズックで出来た馬のワラジみたいなものをはかせた。大正初期の和洋折衷の不思議な文化が、あますところなく描かれている。
さて、大正十二年の大震災で、古い東京は灰になった。見渡す限り、焼野が原である。
私は文句なしに天位にした。建ち並ぶ高楼が煙と消えて、その昔、広重が描いた通りの富士山が、日本橋から丸見えになった。作者は一松だったと思う。これなどは、不朽の名作といってもよかろう。それから二十幾年たって、再び焼野が原になろうとは、むろん、その時は思わなかったが……。
時事川柳は、その新聞社がつぶれるまで、前後二十七年間つづいた。途中でほんの一時だけ、社僚の青木武雄君に、代選をやってもらったほかは、終始、私が選をした。
ある朝、受付の給仕が顔色を変えて走りこんで来た。
「大変です。変なやつが来ました。川柳欄の責任者に会わせろと、大変な見幕です」
「どんなやつだ」
「暴力団みたいなのです」
新聞社へ、暴力団が因縁をつけに来るようになったのは、満州事変の前後からだと覚えている。国家主義が勢いを得るにつれて、天皇の尊厳は犯すべからざるものとされ、新聞社でも大いに気を配って、宮廷関係の原稿は特別に「要注意」のハンコを押し、三校、四校まで取るようにしたが、それでも、ちょっとしたエラーがあると、どうして嗅ぎつけるのか、わっとばかり押しかけて来る。
「大勢、来たのか?」
「いいえ、一人です。応接室で威張っています」
のちには、新聞社でも馴れっこになって、給仕なんかも平チャラだったが、まだ、そのころは初期である。ある一流の出版社で、明治大帝の大の字に、点が一つ付いたばかりに、いわゆる「犬帝事件」を起こして、危く社がつぶれそうになった時代である。川柳欄にも、何か誤植でもあったのだろうか……。
逃げかくれするわけにも行かぬから、度胸をきめて出てゆくと、型の如く、紋付を着て、肩をいからせている。
「キミが、時事川柳の係りか」
「そうだ」
「そうだとは何だ。そんな大きな顔をするな。キミは、それでも日本人か」
ヤブから棒に、日本人かときかれても、今さら、返事のしようがないから黙っていると、男は、今日の新聞を、ばんばんと叩きながら突き出して、
「ここを見ろ。この川柳を読んでみろ」
「は?」
「こんな川柳を、作るやつも作るやつだが、載せるやつは、もっと、けしからん。不敬罪だ。非国民だ」
私は心当りがないから、どの句だろうと首を伸ばすと、
「しらばっくれるのも、いい加減にしろ」
と、男が指で示したのは「なんとかの気もしらずに女房またはらみ」という一句である。
最初の五字は忘れたが、下の五字は、たしかに「またはらみ」であった。
当時、今の皇后様は、何回もお目出度があったが、みんな内親王ばかりで、なかなか皇太子御誕生がない。せっかく全国民がお待ちしているのに、ああ、また、内親王さまか……と。
この句は、それを皮肉ったのだというのである。
冗談じゃない。冷静に読めばわかる通り、これは人口問題を詠んだのだ。政府や学者が、人口問題を心配するのに、その気も知らずに、うちの女房……だか、隣の女房だかが、またはらみという句意なのだ。
こんな事件はあったけれど、まずまず順当に二十七年間つづいた。初代川柳翁の「柳樽」に比肩する気は、さらさらないが、時事川柳という一つのジャンルを切りひらいたのは、私のささやかな自慢でもある。そのくせ、私自身は、ついに一句も作らなかったが──。
観光バスのウグイス娘コンクールも、ラジオで聞くのはたのしいが、私には、二つの思い出がある。
一つは戦争前である。ビクターの連中を、主にして音楽関係の十人ばかりと、箱根から熱海まで行ったことがある。私の本名と、時々まちがえられることのある野村光一君や、堀内敬三君、菅原明朗君なんぞも一緒だったと思う。
まだ、素人ノド自慢などという番組はなかったが、地方のウグイス芸妓なんぞが、何かの拍子に発見されて、一躍、人気歌手になったりすると、玉の輿ほど、さわがれていたものである。その日もバスの車掌に向って、
「キミはいい声だね」
と、最初に誰かが無責任な口をきいた。
「これはモノになるかも知れない。唄ってみたまえ。テストしてあげよう」
すぐに、もう一人が尻馬にのった。
別に名刺を出した覚えはないが、われわれが、どんな人種であるか、大体の見当はついていたのであろう。女車掌は、ちょっと、はにかんでみせたが、決然として面をあげると、なかなかの美声で唄い出した。
「ほほう。相当なもんだ」
「声量もあるね」
どうせ、退屈しのぎである。悪童連中、いい加減な相の手を入れていると、そうとは知らぬ女車掌は、本当に決死の形相である。山を越え、森を越え、熱海へ着くまで、八里の道を、唄って唄って、唄い通した。
唄が何だったかは忘れたが、あの純真な車掌さんは、今にもレコード会社から迎えが来るかと、幾夜、眠らずに待ったことだろう。悪童たちの気まぐれとは知らず、ことによると、今でも待ちつづけているのかも知れない。
もう一つは戦後である。熱川から逆に箱根までバスに乗った。
客は至って少なく、私は老妻を伴って、前の方の席にいた。最初のうちは何事もなく、登るにつれて見晴らしもよく、天気もまずは上々であったが、少しゆくと若い娘が乗って来た。
娘は、運転手と見知り越しらしい。あるいは、非番の車掌さんかも知れぬ。キップも買わずに運転手の横へペタリとすわった。
聞くともなしに聞いていると、どうも運転手君の方が、この娘を好きらしい。何かとご機嫌をとっているうちに、娘がとんでもないことをいい出した。
「お前さん、もっと勇気があるのかと思っていたら、案外臆病なのね。もっと、とばすわけにゆかないの?」
「なにお!」
と、運転手は腹の中で答えたようである。今まで慎重すぎるほど慎重だったのが、急に大変なことになった。私と老妻とは、座席にしがみついて、頭が天井にたたきつけられるのを、ひたすら防ぐほかはなかった。
普通は何時間とかの道を、たった三十分で元箱根へ着いた。私と老妻とは生命びろいした思いで下車したが、それから十日とたたぬうちに、十国峠で二回もバスの転覆があり、十何人かが死傷した。
私は、その月の銭形平次に、若い娘の一言から、とんでもない大事件が起る話を書いた。昔も今も、美しい娘の、ちょっとした言葉が、天下を覆すことだってある。
東条英教中将と田中館博士が大喧嘩をやった南部同郷会の時代とは、肌合いも色合いも変ったが、郷里の学生の集まりは、戦後も続いているようだ。
大分前のことであるが、私はその会へ出て、
「これからは何といっても、言論と文章の時代である。テレビもラジオも講演も、田舎なまりでは話にならない。諸君は、自分の力を精いっぱいに使うには、まず、なまりを退治しなければならない」
私としては珍しく、長広舌をふるい、いい気持になって降壇した。そこへ、一足おくれて郷古潔君がやって来た。すぐに壇上へ立たされて、
「今日は、国なまりの諸君と逢えて、大いにうれしい。なまりは郷土の誇りである。笑うやつには笑わせておけ。ズウズウ弁まことに結構である。東北弁を表看板にして、大いに世間を押し通ろうではないか」
郷古君としては、私が何をしゃべったのか知らなかったのであろうが、学生たちは、二人の顔を見くらべて、鳩が豆鉄砲をくらったような顔だった。
それよりも前だったか後だったか、金田一京助博士と野球の弓館小鰐君と、私との三人が、ラジオで鼎談会をやったことがある。数学者で、『零の発見』の著者である吉田洋一教授がそれをきいて、「三人三様の東北弁がおもしろかった」と批評した。
三人が盛岡中学で机をならべたのは、五、六十年も前である。今では三人とも、国のなまりとは縁を切ったつもりでいるのに、生ッ粋の江戸ッ子、吉田教授の耳によれば、お里が知れるばかりでなく、同じ岩手県の中でも、それぞれの差異が、発見されたというのである。こういう人にあっては、かなわない。
芝居でも、ラジオでも、寄席の高座でも、田舎者をからかうにはかならず東北弁を持ってくる。今では、それを売り物にする役者さえある。みんなが笑うから、私も、人なみにおかしいような顔をしているが、腹の中はすこぶる面白くないのである。私と同じ郷里の人は、みんな同様だろうと思う。高座や舞台で、ズウズウ弁をもてあそぶタレントは日本人の三分の二を笑わせるとともに三分の一のファンを失っていることに気がつかないのだろうか。
なまりは封建制度の余弊で、大きな藩ほど根強かった。盛岡は、東北六県の中では、色がさめやすい方だというが、とにかく私は、新聞記者から小説家と、田舎なまりでは適用しにくい仕事をして、どれほど、人の知らない苦労をなめたことだろう。勉強によって、江戸の知識は仕入れることが出来るが、江戸言葉となると容易ではない。
そこで、最初の、郷古君との対立であるが、あのくらいの人物になれば、それでもよかろう。郷古君のほかには、新渡戸稲造博士がそうであったし、田中館愛橘先生も別に治そうとは、しなかった。若い代議士なんぞは、自分でも、しきりに気にするが、大物といわれるようになると、わざわざ国なまりを丸出しにする。アナウンサーでは、いま売出しの高橋圭三君が、はじめは内緒にしていたらしいが今では平気で岩手県生れだという。ズウズウ国に生れても、この通りでございますと、不抜の自信力が出来上がっているからであろう。
戦争中の思い出は、誰だって、ロクなことはないが、たまには、こんな話もある。
戦局が、だんだん落ち目になって、ラバウルの大要塞も、進攻するアメリカ軍の後方に置いてきぼりを食いそうになった頃である。
ある日、参謀本部から、使いの将校が私の家へ来た。私としては、憲兵隊へ引っぱられるような覚えもないし、おほめにあずかるほどの心当たりもない。とにかく、応接間へ通ってもらうと、
「実は、ラバウルの司令官今村均大将が、陣中で読みたいから内村鑑三全集を送れと言って来ました。さっそく発行所の岩波書店に連絡したが一冊もない。神田、本郷の本屋街を、軒並み探したが駄目である。この上は、誰か蔵書家に頼むほかはないといっているところへ、金子少将が来合わせて、野村胡堂氏が持ってるはずだということでした」
金子少将が、私の書架に内村鑑三全集のあることを、どうして知っていたのか。それは分らない。私がしばらく考えていると、
「如何でしょう。まげておゆずりを願いたい」
さすがに、軍の命令だと高飛車なことは言わなかった。
私としては、お安い御用と言いたかったが、実はこの全集は私の所有であって、私の所有でない。昭和九年に、東大在学中に病死したひとり息子の一彦が、死の直前まで愛読した遺品である。ページのところどころには、鉛筆で彼の書入れがある。子供を死なせたことのある父親なら、私の気持は、分ってもらえると思う。
一両日、考えさせてもらうことにして、夕刻、外出先から帰った家内に相談すると、
「それは、差し上げた方がいいでしょう。一彦も、いやとは申しますまい」
という。それでは、と、翌日すぐに参謀本部へ電話をかけた。間もなく、全集は、参謀副長が携えて、南太平洋をラバウルへ飛んだ。
やがて、終戦となり、今村大将は、一たん内地へ護送されたが、部下を残して、自分ひとり日本へ帰るに忍びないと、自ら進んで、再び南方へ虜囚として戻って行ったという話をきいた。
その後、再び日本へ送られ、巣鴨拘置所へ入った大将は、思いがけない手紙を私によこした。
「……内村鑑三全集を寄贈していただいたことを知りました。飛行機が海に落ち、参謀副長も戦死して、ついに自分の手に入らなかったことは残念であるが、御芳志は、幾重にも御礼を申上げる……」
やがて、巣鴨を出た今村氏は、当時珍しいウィスキーを手土産に私の家を訪ねて来られた。私は、そのウィスキーを飲んでしまうのが惜しくて、何時までも固く栓をしたまま置いてある。
ラバウル十万の将兵を無謀な玉砕に追いやることなく、地下に潜って百年持久の計を樹て、貴重な生命を救い得たのは、戦陣の中に、内村鑑三全集を読みたいと考えたその魂であったと思う。玉砕の名は美しいが、忍びがたきを忍んで、十万の生命を助けたのと、今から考えて、いずれが本当の勇気であったか。私は、南の海に呑まれたせがれの愛読書を、必ずしも、惜しむものではない。
作家仲間のアマチュア芝居が、不思議な人気を集めて年中行事になっているようだ。
私は捕物作家クラブの第何回だかの捕物まつりに、たった一回、カツラというものを、頭に載せられたことがあるだけで、もっぱら見物の方へ回っているが、芝居道楽は何も、戦後に限らない。明治三十八、九年から四十年にかけて、馬鹿馬鹿しいほど、はやったことがある。
大天狗小天狗のその中で、一番、熱度の高かったのは、岡鬼太郎、杉贋阿弥、土肥春曙らの劇評家で、当時、東京随一といわれた下谷二長町の市村座で、花々しく幕をあけた。それも、余技とか、道楽とかいうのでない。
「……近ごろの劇壇の、なっていないことといったら、どうしたものじゃ。われわれ劇評の筆をとるものは、黙ってみているわけにゆかぬ。ひとつ、われわれ自身が、身をもって模範を示し、舞台とは、かくあるべしという範を垂れようではないか……」
この趣意書をみて、世間は、びっくりしてしまった。一体、いかなる範を垂れるのかと、私も、期待をもって見ていると、幕があがって、杉贋阿弥氏の斎藤実盛が長ばかまをはいて登場した。
一体、贋阿弥という人は、背がすこぶる高くない。それが、長ばかまというのであるから、足がどこにあるやら分らず、握って構えた両の拳が、袖から半分も顔を出さない。どうにも我慢がならなくて、高く朗かな笑い声を、私のうしろで立てた人がある。ふりむいてみると六代目菊五郎である。
贋阿弥氏には、申訳ないが、ここで氏の名前を持ち出したのは、何も、特別に下手糞だったというわけでない。それどころか、この一座では、抜群の名優だったのである。つまり、どうにか格好のついたのは、贋阿弥氏だけといってもよく、その他の先生方に至っては、これはもう、お察しを願うほかはない。
中村吉右衛門は、あの通りの人柄だから、六代目みたいに大っぴらに笑わぬ代り、まことに苦り切った顔で、笑いを噛み殺すのに骨を折っている。坂東三津五郎は、なんとつかずにニヤニヤしているし、守田勘弥は、つつましく下を向いて、口を押さえていた。あの人々の、くるしそうな格好は、五十年後の今日でも、ありありと眼に残っている。同じ道楽でも、あれほど、人様をなやますのは後生がよくあるまい。
だが、そうした「なやまし芝居」は、燎原の火のように、ひろがっていった。美術学校の学生たちは、上野の池の端のしるこ屋「氷月」あたりを定席にして、私が見た時は、幸田露伴の『附け焼刃』を、大車輪で熱演した。
外国語学校が、フランス語劇をやった時は、私は頼まれて背景を描いた。それが評判になったものか、次ぎは、目白の日本女子大から注文が来た。英語劇『アドリアの海』の背景ということで、頼み手は、のちに田子一民氏の夫人となった福岡易之助君の姉さんである。福岡君は、駿河台の白水社の主人となって、フランス文学書を専門に出版したことは知る人も多かろう。
さて、二間半に一間半の背景は、福岡君と二人でかついで行ったが、厳重な男子禁制なので、校門の前で、福岡君の姉さんに渡し、その後はどうなったか、知るすべがない。ただし、その劇と背景は、そういえば、確かに覚えがあると、当時女子大の下級生だった老妻が、はるか後になって思い出した。
「与謝野鉄幹はじめ新詩社の同人総出演で、新しい芝居をやってみせる」
と知らせてくれたのは、石川啄木ではなかったかと思う。劇評家が芝居に凝り、学生たちもカツラをかぶる新興の文学運動のメッカ、新詩社といえども、じっとしていられなかったのは、当然である。
ステージは、両国の大きな貸席「伊勢平」を借り切って、何日も前から、大した準備であった。むろん、入場料なしの弁当つきで、文学青年や、その卵たちにとっては、胸をときめかせるものだったのであろう。
うまいと思ったのは、彫刻家の伊上凡骨だけで、盟主の鉄幹は、のちの伊庭孝に似て、実に堂々たる押出しだった。しかし、口を開くと全然駄目で、だから、セリフもほとんどなく、ヌーッと出て、ヌーッと引っこむだけだった。
筋は忘れたが、なんでも、宴会の場面があった。主役のつかない大勢が、お膳を前に居流れていた。石川啄木もその一人であった。やがて、下手から芸妓たちが現われて、
「コンバンワ。アリイ……」
と、型の如く手を突くと、啄木以下のお客様たちは、一斉に、ぴたりと両手をついて、深々と最敬礼をしてしまったので、見物席は、いや、もう、キャッキャッという大騒ぎ。
ここで、キャッキャッという形容詞を使ったのは、私の隣から後方にかけて、女性のための観客席で、与謝野晶子を筆頭に、長谷川時雨、岡田八千代、茅野雅子、森真如など、美しいミスたちが、金魚のように押し並んでいた。
やわ肌に燃ゆる血汐の晶子女史を、私は、その日、はじめて見た。決して美人とは言えないにしても、知的で、健康で、新鮮で、だれの眼にも好感が持てた。小山内薫氏の令妹である岡田八千代(当時は、まだ小山内八千代)さんは、文句なしに美しかったし、まだ茅野雅子にならない前の増田雅子さんも、フレッシュで、そして聡明だった。岡田八千代さんに逢うと、この日の話が出るのだが、当年のつぼみの花たちも、それぞれに、咲いて、しぼんで、今では、話相手は八千代さんくらいしかいない。
話が少々、前に飛ぶが、九代目団十郎と五代目菊五郎の舞台姿を、私は忘れない。五代目尾上菊五郎が、最後の弁天小僧を演じたのは、明治三十五年で、今から思えば、せがれの六代目ほど、芸の奥行は無かったかも知れないが、舞台の魅力は大変なもので、揚幕から出てくると、あの、だだっ広い歌舞伎座の三階から平土間まで、クワッと灯がともったように感じたものである。
近代の名ピアニスト、かつてはポーランドの大統領であったパデレフスキーも、ステージに姿を見せただけで、聴衆を夢中にさせたというが、こうなると、もう、うまいとかまずいとかいう以上のものである。
名優ということからいったら団十郎が上かも知れないが、私は菊五郎の方が、はるかに印象が強烈である。その菊五郎が、明治三十六年の早春に倒れ、先代梅幸と六代目菊五郎が曽我兄弟の五郎十郎で追善興行を営んだ時は、観客はみんな声を出して泣いた。しかも、同じ年の九月には、団十郎も没し、芝居道も、終りかと思われた。
あとに残ったのは、ロクなのは、いやしない。だから我々が模範を……と、劇評家たちが娑婆ッ気を起すことになり、それが文士劇に発展したのは、前に書いた通りである。
私が舞台に立ったのは、捕物まつりの余興に、唯の一回だけ……といったのは、厳密にいえばウソである。東京へ出て、社会に立ってからは、確かに一回だけであるが、郷里の盛岡中学となると話は別だ。
盛岡名物の猪川塾漢学の猪川静雄老先生のところに、私はあずけられていた。私塾でもあり、小型の寄宿寮でもあり、県下から出て来た中学生は、大抵、こういう塾に起居していた。そこの二階で、こともあろうに芝居ごっこが、おっぱじまったのだから、大変である。
火つけ役は、のちに活動の弁士になった山田敬一だったことは、間違いない。東京の中学生生活の、あらゆる悪徳と積極性を身につけて、転校して来た愉快な小悪魔は、メフィストフェレスのような声で、盛んに啓蒙をはじめたものである。
「東京では、誰だってやっているよ。なあに、先生には言わなければいい。芝居というのは、見るものでなくて、やるものだよ。おもしろいぞう」
旗あげ興行のだしものは、たしか、寺子屋と岩見重太郎だった。顔に塗るのは水彩画の絵具で、衣装は風呂敷や羽織で工夫し、頭には、黒いきれを器用に結んだ。刀だけは、本ものの、ピカピカするのが、どこの家にも五本や十本あったから、借り集めるのに苦労はいらない。
郷古潔もいた。及川古志郎もいた。久留米大学の学長になった小野寺直助もいたと思う。岩手県立図書館長伊東圭一郎氏の著『人間啄木』によると、山田敬一と私が、座長で主役で主唱者だったように書いてあるが、山田敬一はとにかくとして、私は、それほど器用だったとは思わない。
「誰か、女形にならないか。男ばかりの芝居というのはなかろう。野村なんぞ、やってみたらどうだ」
見物席の郷古あたりが、そんなことをいって、けしかけるのだが、この猪川塾劇団には、ついに一人の女形も現われなかった。甘いセリフや、しとやかな裾さばきは、とても、手に負えなかったのだろう。
敵役は、赤ッ面でなければならないということは知っていた。そこで、赤インキを筆につけて、勇ましく塗りまくったのはいいが、インキというのは、乾いてしまうと、剥げるものでない。拭いても、こすっても、どうにもならない。当時は貴重品だった石鹸を、大量に投入してみたが駄目である。
翌日は、学校へゆくことが出来ない。食事に階下へおりることも出来ない。布団をかぶって寝ていると、心配した猪川老夫人が、無理に布団をひっぺがして、キモをつぶして大声を立てた。
この赤インキが、私だったという説があるが、実は、級友のMである。私は、松崎大尉だか原田十吉だかになった時、血糊のかわりに赤インキで、真白いシャツをべっとりと染めて、あとで母親に大変叱られた。
岩見重太郎から日清戦争へと、外題と共に劇団員の腕も上達したはずだが、最後は猪川先生の一喝でオジャンになった。そして私は東京へ出て、もっぱら、見る方へ、精を出した。
大学を中退した私が、新聞社へ自分を売りこむ時「劇評も書ける」というのを一つの特技にした。だが、これは私と前後して、本山荻舟君が入社したため、そっちへお株を取られてしまった。荻舟君については、もう一つだけいうことがある。
本山荻舟というのは、世にも不思議な人物である。死の一週間前に脱稿した畢世の大作『食物辞典』は、荻舟の名を不朽にするであろうが、私にとっての本山君はもっと重宝な存在であった。
私は宴会などで、本山君の姿を見ると必ず、その傍へ寄っていった。別に挨拶を交すためではない。彼と並んで、席を占めるためである。
何が故に、彼の隣へすわるのか。それは、追々に料理が運ばれて来ると判明する。たとえば、最初にアユが出たとする。彼は、アゴを、ぐいッと引いて、一眺めして、
「うん。このアユは狩野川だな。いや、待て待て。狩野川にしては、歯がこまかいぞ。一体、ドブ釣りのアユと、友釣りのアユは……」
独特の、手の振り方を交えながら、三十分でも一時間でも、ウンチクを傾ける。それはよいとして、肝心のアユそのものには、ついに一箸もつけないのだ。
続いてビフテキが出たとする。
「キミ。肉の焼き方というものはだねえ」
また、小一時間の講義であるが、これも、結局、一口もたべない。盃の方は、いくらでも動くが、右手の箸は飾りものである。仕方がないから、友人としての職責上、私が処分しなければならない。彼と並ぶということは、必然的に、二人前の料理を腹に納めざるを得ないのである。
どうも、話が、さもしいことになってしまったが、要するに私は、昔から食欲においては、決して人後に落ちないのである。好きでたまらないというほどのものもないが、特にきらいというものもない。何でもいいから、沢山たべる方に賛成なのである。木村義雄名人と三十年も机を並べて、ついに駒の歩みも覚えなかった私は、荻舟と五十年間親しくして、結局、食通になれなかったのである。
あれは、一高の二年生の時だったと思う。どうした風の吹き回しか、例月よりは、いくらか余分に、お小遣いが来たことがある。私は、この時とばかり、東大正門前の果物屋(今もあるだろうか)へ飛んで行った。
恥かしい話だが、私はバナナというものを東京へ来て、はじめて知った。嘘もいつわりもなく、世の中にこんな美味いものが、またとあるだろうかと思った。
だが、貧しい学生のふところでは、思う存分バナナをたべることなどは、西王母の桃を腹一ぱい食うよりも、もっと、はかない望みだった。三本一山の黒ずんだやつでなく、店の突き当たりに、王者の如くかざられた真珠色の大きな房を、どんなに恨めしく思ったことだろう。
その大望が、ついに達成する日が来たのである。果物屋へ行った私は、一貫目ほどもあるやつを、古新聞の袋に入れてもらって、腕に、ずしりとこたえるのを、どんなに嬉しく感じたことか。そして友人のMと二人。校庭の草の上に寝ころんで食った! 食った! 心おきなく食った。
さて、その夜である。下腹が、グルグルグルッと鳴ったと思うと、もういけません。これほど猛烈きわまる下痢を、私は一生のうち二度と経験したことがない。寮の摂生室の橋本節斎先生に、実はこれこれと申告すると、これまた猛烈に叱られた。
今では、バナナは、むしろきらいな果物で、めったなことでは手を出さない。
アユとマツタケと、そして鰻は、だれでも自分の郷里が日本一だと思っている。盛岡の鰻も、正直なところ、東京以上とは申しかねるが、それほど番付が下だとは思わない。
中学時代の金田一京助博士が、花明と号して短歌のリーダーだったことは、前にも書いたが、お城下の鰻屋で、花明をかこむ会を開いたことがある。その返礼に金田一君は、自分の姉さんの経営する旅館に、われわれを招いて歌会を開いた。全部で六人か七人で、石川啄木もその中にいた。
歌の選評も一段落となって、皿に盛った食事が出た。中をのぞくと、黄色いドロドロしたものが、かけてある。目白のエサみたいな気がして、薄気味悪かったけれど、サジでかき回して口に入れると、意外な珍味なのでキモをつぶした。
啄木も、生れてはじめての経験だったに違いない。どんな顔をするかと見ていると、彼は、うまいともまずいとも言わず、ちょっと首を傾けただけで、黙々として口を動かしている。さては、歌を考えているのだろうと思ったが、啄木に、カレーライスの歌というのがあったかどうか、私は知らない。
それよりも、盛岡で忘れられないのは馬肉である。天下に名高い南部駒の産地であるから、その肉も定めし美味だろうと考えるのは、事情を知らぬ他府県の人で、実は非合法の隠れ食いなのだ。
その頃の岩手県では、馬肉を食べるのを厳禁していた。馬産地だから食べてはならぬというのである。食べないのが可愛がることになるのか、大いに食べる方が産馬奨励になるのか、ここの理屈は、今でも、よく分らないのだが、とにかく、表向きは禁止令が出されていた。
猪川塾の中学生たちは、みんな食欲の権化であるが、一カ月二円七十銭也の食費では、ロクなおかずの付くはずはない。相談の上、会費を集めると、勇敢な突撃隊員が、市外一里のヤミ肉屋まで、雪の夜道を、駈けつけるのだ。
油障子に、ほだ火のあかりがゆらゆら揺れる田舎路沿いの馬肉屋は、空想的な少年の眼には、冒険小説に出てくる大魔窟ほどに怪奇だった。しかし十銭玉一枚で、血のしたたる鮮肉が、五、六斤も来るというのは馬肉のほかにない。
塾の二階では、砂糖と醤油と、ネギと豆腐が密輸入される。鍋と庖丁は、階下のお勝手から、音を立てぬように持ってくる。本箱の蓋を裏返しにすればマナイタだ。
泡立つ鍋を四方から囲んで、最後の一滴までなめてしまって、十分、たんのうした顔で、その夜は明けて朝になる。
「なんだ。お前のその顔は」
たがいに、相手の、あごのあたりを指差している。おたふく風邪ではあるまいし、なんとなく、下あごがはれているのだ。
人に言われるまでもなく、歯ぐきと、あごが変テコで、自分でも持てあましているのである。昨夜の馬肉が、水出しも煮出しもせず、肉の切り方を知らない連中が、タテに切ったものだから、噛めども噛めども噛み切れない。あごの力が労働過重だったのだ。
時代小説では、街道筋の馬肉屋なんぞが、よく使われる。吉原土手のサクラ肉屋も舞台になる。そういう時に私はなんということなく、雪の盛岡郊外の、ゆれるあかりを思い出す。
私が陸上選手になって、オリンピックへ出るといったら、誰だって腹をかかえて笑うだろう。しかし、もう少しのことで、一高を代表する中距離選手になっていたかも知れないのである。いや全く笑いごとではない。
当時の学習院には三島選手がいたし、一高には長浜哲三郎君がいた。黎明期の野球が、そうであったように、陸上競技も、一高と学習院とが対立し、それは、三島、長浜の対立でもあった。
三島選手は、のちに高等師範の金栗選手と共にストックホルムに派遣され、我国最初のオリンピック選手たる栄誉をになったけれど、長浜選手も、決してそれに劣るものでない。学習院を破るために、涙ぐましい精進をつづけると共に、学校内では後継者の養成に真剣な努力をはらっていた。
しかし、後継者といっても、組織的に、中等学校からスカウトしてくるというようなわけにはゆかない。新入学生の中から、足腰の強そうなのを物色して、
「どうだ。お前、駆けっこの選手になってみないか」
と、仲間に入れるほかはない。そのお眼鏡にかなったのが、寮の隣室にいた三宅正太郎(のちの名裁判官)と、山本寛太郎君(正金銀行)と、そして私の三人だった。
「ボクは、とても駄目ですよ」
と、三人とも尻ごみするのを、
「まあ、とにかく走ってみよう」
無理矢理に、シャツ一枚にさせられて、夕空の下へとび出した。
まず足馴らしに校庭を一周して、弥生町から池の端へ出た。不忍池を一めぐりして、学校へ帰ってくるというのである。
走りはじめると、おたがいに、「ナニ糞ッ。負けるものか」という気が出て、最初は威勢がよかったが不忍池を半分も回ると、もういけない。目の前がミルク色にかすんでしまって、学校の裏門へたどりついた時分は、まるで水の中を泳ぐような恰好だ。
「ご苦労、ご苦労。最初だからなあ。まあ、そんなものだろう」
長浜君は、鶏卵を、籠に一ぱい持ってきた。同君のポケットマネーなのか、競技部の部費というようなものがあったのか、そんなことさえ考えるひまはなく、ガツガツする思いで、割っては、すすった。鶏卵というものが、こんなに美味いと思ったことはなく、これほど沢山たべたこともない。何個だか、何十個だか、数も分らない。相当の大籠に、真珠色に光って、山盛りになっていたことだけを覚えている。
卵は、うまかったが、走るのは、一ぺんでこりた。長浜先輩が何といおうと、再びランニングシャツは着なかった。結局卵の暴れ食いだけが、食いにげみたいなことになって、今でも何か申訳なく思っている。
池の端といえば、蓮玉庵のモリを、八枚平げるのは、大した記録でなかった。江知勝の牛肉なら五人前。どこかの上品な牛肉屋をご馳走されて、十一人前の大記録を作った覚えがある。たしか、赤坂の三河屋ではなかったかと思う。
大正の末まで残っていた本郷の淀見軒は、内容豊富が一高生の人気の的だった。パラダイスは、給仕が女の子だからと、頑固党は寄りつかず、梅月の栗まんじゅうは三十幾つがレコードだった。それから、あの、根津権現のシイタケ飯。そうだ、あのシイタケ飯について、少しく語らなければなるまい。
焼けた根津権現は、立派に再建されたそうだが、あのシイタケ飯を売る店が、今もあるかどうか知らない。天井の低い、すすぼけた感じの茶店だったが、一高の俳句会は、いつもそこで開かれた。
小泉百午のあとを受けて私が幹事になったのは正岡子規が死んで二、三年目だった。新しい俳句熱が、青年の仲間に火の如く燃え、子規の生きている間は、首をすくめていた門下の連中も、急に手綱を放たれた如く、めいめい勝手に、生きのいいところを見せはじめた。
大学からは、のちの文学博士野上豊一郎君や、大審院検事の柴碩文君が定連だったし、荻原井泉水、高浜虚子、河東碧梧桐、三井甲之、内藤鳴雪なんぞの顔も、大抵見えた。
の碧梧桐と、
の虚子と、子規門下の両星として、共に写生第一を唱えながら、その個性の相違を作風の上に見せて、どちらも下風に立つのを好まなかったのであろう。ことさらに黙々として、沈吟する姿が印象的であった。
内藤鳴雪は、そこへゆくと、少々違う。年も子規よりは二十ほど上で、俳句の道では子規門下であるが、漢学の大家として、子規も生前から内藤先生と呼んでいた。シイタケ飯屋の会へ来ても、半白の山羊ヒゲを右手でしごきながら、正宗の三オンス瓶を前において、仙人のような風格だった。
人間万事成行きにまかせるべきだというところから、鳴雪という号を選んだ。メイセツ・実はナリユキと読んでもらうつもりだったらしい。瓢箪も携えず、徳利も用いず、何時でも、ガラスの三オンス瓶である。
「先生の三オンスは、天下に有名になりましたね」
と、水を向けると、
「は、は、は。これが私の定量でしてね。写生第一よりも健康第一です」
いささかの屈託もなく笑って見せる。ほんのりとご機嫌になってくると、得意の芝居絵の筆を、色紙にサラサラと走らせて、
「どうです。絵は絵そらごとと言いましてな。真実でないところが、値打ちですぞ。芝居がやはり、それと同じで、女の役を男がやるからおもしろい。事実を事実の通りにやるなら、何も芝居である必要はない。あんた。そう思いませんかね」
この漢学の大家にかかっては、女形は永久に女形でないと困るのである。あとで考えるとおかしいと思うが、白い山羊ヒゲの口から聞いている間は、それもそうか、と思いこまされるから妙である。
流れ木のだぶりだぶりと春の川
午睡覚めて尻に夕日の暑さかな
などという呑気な句は、鳴雪翁の、あの脱俗の風貌を知っていないと、おもしろ味が半分になる。
さて、互選も一段落となったところで、お待ちかねのシイタケ飯である。御飯にシイタケをたきこんで、うすく味をつけただけの、あんなものが、どうして、あれほど美味しかったのだろう。今もあるならば、万難を排しても食べにゆきたいと思うが、果して、昔のように舌鼓が打てるかどうか。
いや、今回もまた、食べものの話になってしまった。
去年から、半年あまり臥床していた時、
「ようし。今度全快したら、東京中のうまいものを食べ歩いてやる」
と、見舞の人に言ったそうである。よくは記憶していないが、あるいはそんな気持があったのかも知れない。しかし、いくらかでも動けるようになってみると、まさか、食べ物行脚というわけにもゆかない。
私の生れ故郷は、海から三十里も引っこんでいた。魚は馬の背で運ばれるが、イワシの目は赤いものと心得ており、マグロやカツオの刺身はピリリとして、少し余計にたべると、酒に酔ったように、ふらふらする。そんな時は、桃の葉をすりつぶして呑むのがよろしい。単なるマジナイではなくて、杏仁か葉緑素か、何かの成分があったのだろう。不思議に、コロリと効いた。
中学を卒業する年に、金田一京助君に招かれて、初めてカレーライスを食べた話は、この前に書いたが、あれから四十年ほどたって、金田一博士の還暦祝賀が開かれた時、私は立ってその話をすると、席にいた辰野隆博士が腹をかかえて、おもしろがった。江戸ッ子の辰野博士にしてみれば、よっぽど不思議な話だったに違いないが、私は別に、はずかしいとも思わない。
私は、自分の一生を通じて、たった一つ、自慢できることがある。銭形平次を三百八十幾つ書いたことでもなく、長篇小説二十二本を作り上げたことでもない。新聞社に籍のあった三十三年間、アルミニュームの弁当箱を毎日持っていったことだ。これだけは、ささやかな私の自慢だと思っている。
「野村胡堂って、ケチな野郎だな」
「女房の手料理に、それほど敬意を表さなければならないのだろうか」
ありとあらゆる陰口が、ささやかれているのは、知っていた。今でも古い友達は、私の顔を見ると、無粋な弁当箱を、すぐに連想するかも知れない。
最初はもちろん、乏しい新聞記者の財政上の必要が、それをさせたのだ。だが、習慣がついてみると、街の食堂で売っているランチなどは、不潔で、不衛生で、そのわりに美味くもなく、こんなことをいっては、食堂業者にしかられるかも知れないが、皿を洗うかわりに犬になめさせるようなことが、かりにあったとしたところで、われわれには、分りはしないのだ。
そういう潔癖さと、一種の無精さが、ついに私を三十余年間の腰弁生活にさせた。ただし、ケチで、そうしているのではない証拠には、毎朝、銀座の千疋屋へ寄って、季節にかかわらず、飛切り上等のリンゴを一個だけ買った。新聞紙の包みをガサガサとあけて、食後にたべる一個のリンゴが、諸君たちのランチより三倍も高いのを知って、編集局の同人たちはキモをつぶした。私の、ささやかなレジスタンスである。
私は、たべものは原地主義がよく、料理は原料主義を理想と心得ている。温室のメロンより、背戸の真桑瓜がよく、舶来のドリアンより玉川から小母さんの背負ってくる長十郎の方が口に合う。
戦国の昔。都に討ち入った織田信長や木曽義仲は、味覚の野蛮さを、大宮人に笑われたが、私はむしろ、義仲や信長に好感を持つ。有能な人材を作るには、頭よりも胃をよくすることだ。うんと食って長生きすると、人の三倍、仕事が出来る。
親の自慢と女房の自慢と、そして子供の自慢をするのを、天下の三馬鹿というそうだ。今日は、あえて三馬鹿の一人になってみよう。
私は子供運がよかったとは言えない。若い人の言葉でいえば、ワン・ストライク。スリーボール。つまり男一人女三人の子持ちであった。それが今では、ワン・ボールしか残っていない。上から順に、淳子、一彦、瓊子、稔子である。まことにむずかしい名前ばかりつけたもので、今ならば、区役所で、出生届けを突き返されてばかりいなければならない。
淳子は、明治の末に生まれた。私自身が父親に死なれて、大学を中退したり、新聞記者になったり、まごまごしていた頃の子供だが、どこか器用なところがあって、手工では、いつも学校でほめられた。印象派の巨匠ゴヤの絵を、貼り絵で模写した時などは、
「先生がびっくりしたと言ったわ。学校中の評判なのですって……」
めったに自慢しない子なのだが、この時はニコニコして帰ってきた。それをまた、その三倍もニコニコして、
「そうか。そうか。それはよかった」
と、ほくほくするのが、つまり三馬鹿の筆頭なのである、この子は女学校在学中に、十七歳で世を早くした。
一彦は、不思議に音楽の才能があった。早く死ぬような子は、みんな、秀でたところを持っている。というと、今生き残っているワン・ボールに、
「どうせそうでしょうよ。雑草だけが残るんでしょうよ」
と、ムクレられても困るけれど、とにかく、あの面倒なベートーヴェンの第九シンフォニーの楽譜を、九つくらいで、すらすらと読んだ。その楽譜は、当時、日本へはいったばかりのもので、来合わせたレコード会社の人たちが、お世辞抜きで、キモをつぶした。東大では美学を専攻、登山なども好きだったが、卒業も見ないで病に取りつかれた。私が鎌倉の山の上の、遠く三浦三崎の灯台までも見えようという青嵐の中に引っ越したのは、一彦の健康が、一番大きな理由であった。
ちょうど銭形平次を書きはじめた頃で、雑誌が出るのを待ち構えて読んだ。
「お父さん。今月はうまいな」
「先月のは、トリックは、いいけど、余韻がないな」
銭形の最大の愛読者は、自分のせがれではなかったかと今でも思う。
一体、女房というものは、亭主の作品を読まないものだ。女房が熱心に読みはじめるのは、亭主の浮気を勘づいた時で、作品の中から、何か尻尾をつかもうとするためだというが、うちの家内は、その必要もなかったろうし、それに、現代モノと違って、捕物帳には尻尾も出せまい。
その点、一彦は、よく読んでくれた。自分の子供に読まれて困るものは書くな。というのが私の主張である。もちろん、娯楽読物であるから、修身の教科書みたいなわけには行かないが、銭形に対して、多少なりとも健康な読物という批評があるとすれば、それは、一彦という監視者があったせいかも知れない。東大の二年生。二十二歳で、一彦は死んだ。
天下の三馬鹿のつづきを、もう少し書く。長女を亡くし、長男をうしなって、次ぎは三人目の瓊子である。
大正五年に生れたこの子は、私が銭形を書きはじめた頃、十七、八になっていた。門前の小僧習わぬ経をよむというか、女の子だから小僧はおかしい。とにかく、一生懸命に何かしら書いていた。
それが、つもりつもって『七つの蕾』『サランの歌』など、九冊の本になった。
「お父さまなど、私の年には、一冊の著書もなかったんでしょう。お父さまの年まで生きたら、三倍も五倍も書いてあげる」
と、さすがに私にはいわないが、母親なんぞには、そんな意味のこともいったらしい。
妙なもので、あちらこちらに愛読者もあったと見え、近ごろになっても、
「もう一度読んでみたいが、あの本は、残っておりませんか」
と、問い合せて来る人があったりする。だが、この瓊子も、二十五歳で世を辞した。すでに、二十年近くの昔である。
最後に残ったのが、末ッ子の稔子である。アツモノにこりて、ナマスを吹くという古いことわざがあるが、親の気持ちとして見れば、三度までもアツモノで唇を焼いたあとだけに、冷たいナマスも、吹き放題に吹いてやりたくなる。
「勉強なんぞ、どうでもいい。うんと食べろ。運動をやれ。陽のあたるところで、ピチピチはね回れ」
この教育方針が、大いに功を奏しすぎて、タテにも、ヨコにも、ぐんぐん生長し、夫(東大教授松田智雄)とならぶともう少しで、背の高さを追い越しそうだ。
「主人と一緒に歩く時、ハイヒールをはけないから困るわ」
と、こぼしているが、なあに、気にすることはない。前に、食物の話を書いた時、人間は、頭よりも胃の腑が大事だ。モリモリ食べて長生きすれば、青白き秀才の三倍は仕事が出来るといったのは、私にとって、心底からの実感である。
稔子には、男一人、女一人の子供がある。つまり現在の私は、老妻と、娘夫婦と、孫が二人というわけである。ウジャウジャするほどの孫や曽孫に取りかこまれている人たちにくらべて、さびしいといえばさびしいが、世の中には、たった一人の肉親さえなくて、広野の一本杉のように生きている人さえ、少なくないのだ。
私は現在、東京でも有名な養老院と、道一筋の隣に住んでいる。身寄りのない老人たちの日常を、朝な夕なにながめている。
二、三年前の秋のことだった。その老人の一人が私の家へ来て、和歌の選評をしてくれという。老人たちの間に、短歌のグループが出来ているのだ。
私は、遠く盛岡時代に金田一君たちから、無理矢理、作らされた覚えはある。月下の高松池で歌会を開いたり、石川啄木と歌を論じたりしたことはある。だが、それは六十年の昔であって、今さら、歌の指導が出来るとは思わない。
私は、極力、辞退したが、何としても許してくれない。仕方がないから、私個人の感想を述べるということで詠草をあずかった。そして、好きな歌に、しるしをつけてお返しした。すると、三、四日して、お礼に来た。そのお礼が、実に心あたたまるものであった。どういうお礼を下さったかというと……。
養老院にはいるのは、どういう種類の人たちだろうか。私の隣の養老院は、設備のよいことで有名であるが、昔、鳴らした政治家の未亡人や、元首相の身寄りの人も、はいっている。若いころ、新聞記者だったという人も相当いるということである。
私に和歌の選評を頼みに来た人も、教養のある立派な人だった。私が、とうとう断り切れず、私なりの素人評をすると、間もなくお礼に来てくれた。
ちょうど、秋の盛りであった。その人は、両手に抱え切れないほどの、見事な菊の花束を持っていた。
「養老院の中で、花ずきの連中が、許可を受けて作っています。今年は、特に立派に咲きました。その中の一番綺麗なのを、お礼に差し上げたいと皆が申します」
それは、本当に立派な菊であった。黄菊と白菊と取りまぜて、持ち重りするほどの大きな束を、私は、抱くように受け取って、あやうく、涙がこぼれそうになった。この時のお礼ほど嬉しいものは、後にも先にも、いただいたことがない。
養老院にいる老人は、こういう心がけの人が少なくない。昔はよい境遇だった人、損ばかりしてきた正直な人、気が弱くて義理固い人、そういうタイプの人が最も多い。
詩人で児玉花外、画家で長谷川利行、作曲では原田潤。その作品が後世に残るほどの芸術家が、私の知っているだけでも、何人かは養老院で死んでいる。
宝塚歌劇の初期の花やかな時代に上演された原田潤氏の数多くのオペレッタを、オールド・ファンは忘れないであろう。あの中の幾つかは、いま、再演されたとしても、相当の拍手を浴びるものだと思っている。
死期の近づいた原田氏を、養老院の、せまい病室に見舞った時、元気だけは、ちっとも衰えないで、
「おれは養老院で死ぬよ。だが、少しも恥とは思わない。日本という国は、世渡りの下手な芸術家が、住みにくいように出来ているんだ。おれは、もう垂れ流しだ。しかし、ここでは、よく世話をしてくれる」
すずやかな目をかがやかせ、何百首かの病中吟を見せて、昂然と威張っていたのを覚えている。
かつては多くの青年の夢をかき立てた児玉花外の詩も、長谷川利行の情熱的な絵も、その作者が養老院で世を終えたことによって、少しも値打ちを減じるものでない。
原田潤氏の告別式が、養老院の大室で行われた時、そこに住む老人たちは、みんな焼香に集まってきた。どの顔も、至って人のいい顔をしていたが、笑いを持たぬ顔ばかりであった。たまに、つつましく笑っても、それは寂しい笑いであった。
姑に泣かされる嫁は少なくなったが、嫁地獄に泣いている老人は、私の旧知の間にも、いくらもいる。嫁に追い出された母親もあり、あまりにもひどい嫁を刺し殺そうとして、辛くも思いとどまったという老人も知っている。七十、八十になったら、何の心配もなく、好きな文学でもやらせておいてくれる国立の養老施設が、もっと沢山できないものか。
文化勲章や芸術院会員や、直木賞や芥川賞が、養老院からどんどん出るように、ならなければウソである。
「なんだって、あんなに沢山、気ちがいみたいにレコードを集めたんだ」
と、きかれることが、しばしばある。
年代にして四十年、枚数にして一万数千。その重量で根太が抜けて、家がひっくり返ったというのは、かなり行き渡ったデマであるが、とにかく、そのために特別の物置きを新築、十冊あまりの著書も書き、戦後はベラボウな財産税とやらを取られた。まことに思いおくところなき溺れようである。
蓄音機というものを、はじめて聞いたのは、郷里の小学生の頃である。蝋管式というやつで、長いくだの先を、耳にはさんできいたのである。
それはただ、子供の好奇心を満たしてくれたにすぎなかったが、本気でレコードと取り組んだのは、新聞社へはいって以後である。
一体、コレクション・マニヤなどに、昔からあまり大人物はいないらしい。歴史に残る英雄豪傑は、無駄な道草に心を使わない。千社札や、マッチのペーパーや、サイダーの王冠集めなどに、半生を打ちこんでいるようでは、大臣にも芸術院会員にも、銀行の総裁にもなれるはずがない。
それと知りながら、私という人間は、一体どうしたことだろう。幼にして郵便切手を集め、長ずるに及んで雑書を集め、尊敬する人の筆蹟を集め、やがて武鑑から川柳書に及び、さらに広重と北斎を集めた。その中で、一番多く、一番熱心だったのが、レコードだったということになる。
なんのために? ときかれると、答は簡単明瞭である。この耳で、よい音楽をききたいためだったのである。
一日中ラジオが鳴りつづけ、毎晩のようにどこかで音楽会の開かれる今の世の中からは信じられないことであるが、大正十二年の関東大震災以前までは、ナマの西洋音楽は、容易なことでは聞けるものではなかった。上野の音楽学校の土曜コンサートか、たまに軍楽隊の公開演奏があるくらいのもので、ワグナーやベートーヴェンをきく機会さえ滅多になく、ドビュッシー、ストラヴィンスキー以後の近代音楽に至っては、ほとんど夢のような望みだったのである。
クライスラーが日本へ来た時、私は身体をこわしていたが、医者と喧嘩してまで帝劇へ聞きにゆき、とうとう一生一度の大患いをしてしまった。そうした西洋音楽への渇望がレコードに活路を求めたのである。
最初に買ったレコードが、何であったか、正直のところ記憶していない。マッコウマックであったようにも思い、メルバかカルーソーかと思う。あるいは三、四枚一ぺんに買ったのかも知れない。ともかくも、隣り近所へ気兼ねしながら、夜も昼もかき鳴らした。大震災の直後には、針がなくて妻楊枝を削ってとがらせてみたこともある。
一たん手をつけると、前後の見さかいもなくなるのが私の癖で、新聞社の給料を、毎月残らず、レコード屋へ運んだ。日蔭町で買った中古品のマントを着て、七円五十銭の家に住み、酒も煙草もやめてしまった。待望のレコードが入荷した月などは、月給の全額よりもレコード屋の払いが多くなる。
家計は全然、家内の収入に、おんぶした。四人の子供を育てながら、女学校の教師をして、十幾年の間、よくもまあ、バックアップしてくれたものである。
道楽とは、道を楽しむこともあるが道に落ちこむことでもある。どうしても、独り合点になってくる。
友人のひとり息子が、女道楽にこりはじめて、その父親が私に相談に来たことがある。私は言下に、
「それは、良い道楽を知らないからだ。差し当り、レコードの趣味でも覚えさせたらよいだろう」
ご苦労さまにも、その父親を案内して、十字屋あたりへレコードを漁りに出かけたものだ。しかし、せがれはそんなものに見向きもせず、女遊びは、そのために少しもやまなかった。
落ちついて考えると、これは私の独断であったので、かりに私に麻雀のパイや、競輪の入場券をくれる人があったとしても、私は、一顧もしないであろう。趣味は、ひとりひとりのものである。
しかし、何といっても同好の士とは語り合いたいものである。私は、レコードを背負って、北海道から九州まで、講演にとび回るようになった。
最初は、関東震災の直後で、世間に娯楽設備のない時だった。隣組の衆におだてられて、私の家でやったのを皮切りに、太平洋戦争の砲声が、真珠湾に轟くまで、ざっと二十年つづいたのである。
講演の内容は、今から思えば冷汗ものであるが、持って歩いたレコードが、日本では、まだ珍しいものでもあった。ベートーヴェンのシンフォニーなどは、世界中に手を回して、九つのうち八つまでは集めたが、どう工面しても「第九」の合唱シンフォニーをきく方法がなく、スペインのレコードに、その合唱の部分だけはいっているときいて、スペインから取りよせる計画までしたものである。
ヘンデルの「救世主」をイギリスから取りよせて、東大できかせた時などは、ある学生は感激のあまり、本郷から淀橋の自宅まで歩いて帰ったといって手紙をくれた。その学生は、のちに官吏になり、戦後病没したが、その最後の日までメシアの感激を追想していたと、未亡人から手紙が来たのは、それから二十年の後である。
この「救世主」は、実は私の長男のために取りよせてやったものだった。音楽ずきの長男一彦は、そのころすでに病床にあって「救世主」の総譜を抱きながら、その全曲を聞きたがった。私は英国のコロムビア本社へ注文し、数カ月たって着荷した時は、一彦はもう十八枚の全曲をきく気力もなく、あの「ハレルヤ・コーラス」のあたりを二、三枚、母親にかけさせて「ああ、よかった」と眼を輝かせたが、それから三日たって死んだ。「救世主」の総譜は冷たい手に抱かせて棺に納めたが、十八枚のレコードは、初七日の夜、親しかった人たちに集まってもらって、初めて全曲をかけた。
それから間もなく、一彦の母校東大で、十八枚のレコードをかけて、ヘンデルと「救世主」の話をした。二十五番教室に、三千人の学生が集まり、私自身も激情をもって話した。淀橋まで歩いて帰った学生の話は、その時のことだったのである。
二十年間の講演は、思わぬところに実を結んで、何かの席で逢った会社の重役が、昔の聴講生であったり、満員電車の中で、ふと立ち上がって席をゆずってくれた人が、
「むかし、レコードの話をききました」
と、言ってくれたこともある。
映画は芝居でなく、写真は本人でない。レコードなどというものは……という人は、西洋音楽の黎明期の、殉教者のような、ひたむきな気持ちを知らないのだ。
ベートーヴェンの第五も第九も、あるいは「荘厳ミサ」も、レコードがあればこそ聞くことができたのだ。
久邇宮邸へは、毎週一度ぐらいずつ呼び出された。当時の皇族、朝融王殿下は三十年にわたるファンでもあり、一流のレコード蒐集家でもあった。私の家へ訪ねてきて、
「割に、立派な家なんだね」
と、びっくりされたこともある、宮様などというものは、平民はみんな、六畳二た間くらいのものと、思っていられたのかもしれない。
大隈、徳川、鍋島、前田、三井、岩崎など、当時の華族の御曹司も、なかなか熱心なファンぞろいで、私の茅屋へ自動車を乗りつけて、近所のおかみさんを、びっくりさせる人もあった。若い情熱の赴くままに、夜が更けるまでもレコードをかこんだ。
三井十一家のうちの室町家の当主、三井高大さんが私のうちへ来て、夜がおそくなり、私の家内に向って、
「おばさん、二十銭貸して下さい。電車賃が足りないのです」
といった。家内はすっかり喜んで、
「ええ、お貸ししますとも。その代り、最初におことわりしておきますが、決して、返して下さってはいけませんよ」
それは、そのはずである。
金二十銭也のことで、天下の三井財閥にお金を貸してあると、未来永劫威張ることが出来るとしたら、これは、返してもらわない方がよっぽどありがたい。しかし、誠に遺憾なことには、この二十銭は、たしかに返済されてしまった。
こうした人たちと反対に、貧しい学生諸君も多かった。昼飯を抜いてレコード代にあて、インクを水でうすめて食い延ばしをして、月に一枚のレコードを買うという人もあった。
「いくらレコードが好きでも、身体には代えられないではないか」
そういう意見めいたことをいう私自身も、月給の全額、あるいは月給以上の額を、レコード屋に運んでしまって、女房の働きで暮していたのである。
新聞社の月給というものは、なかなか、上らないもので、私が七十円で足踏みしているうちに、女房は六十九円になった。まごまごして追い越されると、男児の面目が立たぬから、一喝して、女房をやめさせてしまった。
というのはウソで、実はその頃から、私の小説が金になりはじめ、女房に片棒かつがせなくても、ようやく成算が立つようになったのである。
それに日本のレコード会社が、母型を輸入して日本プレスを始めるようになり、見本にテスト盤を寄贈してくれるところが増えた。私の財布は俄然ラクになった。
女房が勤めをやめたので、多年住みなれた目白界隈を離れ、静かな鎌倉へ引越した。国内のレコード熱は急ピッチで上昇し、専門雑誌が三つも生れた。「あらえびす」の名で原稿の注文も来るようになった。東大の講演だけでなく、九州からも北海道からも、お座敷がかかった。重いレコードを背負っての旅は、決してラクでなかったけれど、私には、生涯で最も楽しい時代であった。
うちでは「チェロさん」などと心易く呼んでいるが、佐藤良雄君が、チェロの大家であることは、改めて紹介するまでもあるまい。死んだ長男の一彦がチェロをいじっていた関係から懇意に願っているのである。その佐藤君がピレネー山中に、パブロ・カサルスを訪ねたことがある。
南フランスの偉大な楽人。チェロの王者のカサルスは、私よりも、五つか六つ年上のはずである。辰野隆博士の言葉をかりれば、「先々代の名人小さんのような人」ということである。アメリカの興行家が、巨万の小切手を眼の前に置いても、山裾の町から決して出ようとせず、素朴な農民たちと、膝を交えて暮している。そのくせ、町の小さな寺院で、彼がバッハ祭を開けば、世界一流の楽人が、手弁当で馳せ参ずるというカサルスである。
佐藤君はカサルスに逢って「日本へ来ませんか」といったそうである。
「行きたいけれど、少々ばかり遠すぎる。それに、アメリカ行きを蹴飛ばして、日本へだけ行くのも義理が悪い」
と、いうような返事だったということである。それから佐藤君は、私の噂をしたそうである。東洋の一作家が、何万枚かのレコードを溜めこんでいるという話は、カサルスをすっかり面白がらせたらしい。
「一度もあったことのない男、恐らくは生涯あうことのないその作家に、これを持っていってやってくれ」
と、カサルスは、自分の写真に署名して、佐藤君に託してよこした。私は、佐藤君から、それを受けとると、返礼に小さな絵を贈った。寺崎広業筆の海棠の花である。
私は、ひとの肖像を自分の部屋へ掲げることは、好きでない。たった二つの例外は、このカサルスと、もう一つは、バッハの写真である。バッハは、外遊中の前田陽一博士が、向うから送ってくれたものである。
私のレコード蒐集も、カサルスに褒められたのは本望だが、しかし当事者になってみれば、一万何千枚を無傷に保存することは、ハタで見るほど楽ではない。錆びたり、虫が食ったりするものではないが、仕舞いっ放しでは、駄目になる。
戦後、久しぶりで手入れを思い立ったのは、二十七年の十二月だった。老妻と、姪と、ほかに四人のお手伝いがあって、合計六人で着手したが、テーブルの上にビニールの風呂敷を敷いて、一枚一枚、ビロードの布でふくのである。やってみると一日に一人が三十枚。画数にして六十面がせい一杯である。急いでやって、痛めてしまっては何にもならぬし、結局、十二月から四月の末まで、満五カ月の大事業になった。
こんな苦労をした一万枚を、二、三年前に、そっくり寄付してしまったのは、何も、嫌気がさしたわけではない。どうせ寄付するなら、十年前に手放せば、財産税を取られなくて済んだのに……と、愚痴るつもりもさらさらない。はっきりいえばLP盤(長時間レコード)が発明されて、一枚一枚掛けかえる繁雑さは、無用のものになったからだ。
コレクションがすきだといっても道具屋まかせに骨董品を買い集めて、一生涯、ろくに使いもしないで土蔵へ仕舞いこむような金持趣味を私は好まない。元来が、音楽をたのしみたいために集めたレコードである。近頃の私は、そろそろ一千枚に近くなったLP盤を、手放しで静かに聞いている。
同じ音楽評論家で、私の本名と一字違いのため、しばしば間違われる野村光一氏から長距離電話がかかって来たことがある。三十年も昔のことだ。
「私のところへね。レコード・ファンの人が訪ねてきたのだ。本をよんで、その著者に逢いたいとおっしゃるのだが、話の様子が、私でなくて、あんたらしいんだ。そちらへ回すから、逢ってやってくれませんか」
光一氏は鎌倉に、私は豊島区の雑司ヶ谷に住んでいた。その後、私も鎌倉へ越して、二人の野村は、ますます、こんがらかることになるのだが、この時は、まだ東京にいた。
やがて私のところへ来たのは、私よりも、十五、六も年上だろう。すごく、真面目な風采である。
「私は、中学で漢文の教師をしています。本職は漢文ですけれど、音楽の話をするのがすきで、教室に蓄音機を持ちこみます。孔子や老子の話と一緒に、バッハの話、ベートーヴェンの話をします。生徒も喜んで、レコードを聞きます」
名前は永瀬豊八郎。兵庫県の御影中学校だと名乗った。私のレコード講演を何かで読んで、顔を見たいと思ったのが、光一と長一と、一字違いで混線してしまったのである。戦後、便りをきかないが、健在ならば、九十歳を越えたかと思う。
「蓄友」というと、何を貯蓄する友達かときかれそうだが、蓄音機を通じての友人は、四十年間に、ずいぶん出来た。江馬修氏、南部修太郎氏、長田秀雄氏なども、それぞれ熱心なファンだったが、その中で終始変らなかったのは、上司小剣氏が一番であろう。
上司氏は、私と違って、レコードよりも、蓄音機を大事にした。何かの雑誌から随筆をたのまれて、書きも書いたり、思い切って書いた。
「うちの子供が、はね回っていて、蓄音機にぶつかって倒れたとします。私は子供の頭のコブを気にする前に、蓄音機の傷を心配するに違いない」
さあ、大変である。何々女史というような、うるさ型のおばさんが、束になって文句をつけに、来た。こんなことをいってもらっては、世道人心に害があるというのである。
むろん、これは上司氏の洒落であり、偽悪的な誇張でもある。しかし、蓄音機を大事にするのも徹底していて、
「レコードというものは、蓄音機の性能をテストするための付属品さ」
と、放言していた。
「キミは、レコードばかり大事にするからいかんよ」
と、私なんぞは、幾度しかられたか分らない。
電蓄が大きらいで「あんな、けしからんものはない」と、口癖のように罵倒していた。これには、私として、大いに異論があったのだが、喧嘩することもないから、黙っていた。
上司氏の愛用機は、ブランスウィックのテーブル型で、マドリットという手巻き式だった。それを六畳の日本間にすえ、薄茶一服をたしなみながら、心静かに聞き入る姿は、なかなかに閑寂なものであった。レコード・ファンというと、妙な新しがり屋ばかりと思われがちだが、上司小剣氏は、その中にあって、すこぶる印象的だった。
上司小剣氏について、もう一回書く。
私は腹を立てていうわけではないが、昨年以来、半年あまりも寝込んでいた。そうした病床生活の間でさえ、金を貸せといってくる人がある。
どうせ、貸すほどの持ち合せはないから、来たって無駄なわけであるが、私にわからないのは、ひとに金を借りに来るのに、玄関までタクシーを乗りつける。甚だしいのは、その自動車を待たせておく。こういう神経は私には理解出来ない。
上司小剣氏は、玄関まで自動車できたことがない。昭和初年の円タク洪水の時代でも、必ず半町手前で下りる。むろん、借金の話などではない。気のおけない友人の家を訪ねるのにも、半町手前で下りて歩いた。帰りもまた、自宅の前まで乗らないで、一町ほども手前で下りて、そっと歩いて我家へはいった。
大正以前なら人力車だが、それを相手の門前まで乗りつけないという人は、私の知人にも幾人かあった。だが、上司氏のは、帰りにも自宅の直前までは乗らない。隣り近所への、エチケットだというのである。
この驚くべきつつましさは、上司氏の両親から受けついだものらしい。氏のお母さんという人は、玄関の障子を新しく張った時、わざと二、三カ所、穴をあけ、そのところを切り張りにした。これ見よがしの真新しい障子は、来訪者への儀礼でないというのである。明治の末までは、こういう婦人が日本には、沢山いたのだ。
さて、蓄音機の話に戻るが、私は数だけは相当に持っている。戦後、間もないころ、新聞の随筆に「我家の自慢」として蓄音機が二十もあると書いたら、さっそく税務署ににらまれて、三十万円也と評価された。レコードの課税もひどいと思ったが、これには、もっとびっくりした。
なるほど、数は二十もある。しかし、使えそうなのは、戦争中に、やってしまい、残るのは蝋管だの、手回しだの、ビクター零号などという博物館的の記念品ばかりで、物の役に立つのは二台しかなかった。
レコードが原稿を書かしてくれるというが、私の場合、音楽が仕事の伴奏になるのは、思想がよどみなく流れる時。つまり筆が快調に進んでいる時である。案が一向にまとまらず、頭がイライラしている時は、音楽は、かえって邪魔になる。
だから筋立てが一応出来て、筆と頭脳がスタートした時、私は、愛用のレコードをかける。静かに、静かにスイッチを入れる。
私が世田谷に住んでいたときである。三年越し隣に住んでいたSさんが、ある日新聞を見ておどろいて、
「あなたが、レコードのあらえびすさんですか」
と、とびこんで来たことがある。音楽評論が商売ならば、今までに、少しは、音波がもれて来そうなものだというのである。
私は、自分の流儀として、夜分、雨戸をしめた後でない限り、気をゆるした音量には、決してしない。蓄音機のふたをしめ、ソフト・トーンの毛針で、しんみりと聞いていたからである。
都会では、自分一人が住んでいるのでない。犬を飼うには、飼うためのエチケットがあり、蓄音機を鳴らすには、そのための儀礼がある。隣へきかせてやる了見で、窓をあけっ放す度胸は、私にはない。
芸術院会員としての小説家上司小剣は、別に論じる人があるだろう。『神巫殺し』から、三部作『東京』を経て『石合戦』『伴林光平』に至るまでの多彩な業績は、必ずや再び研究される時が来ると思う。内省的で、孤高で、そしていくらか反逆的で、同じ時代の自然派のジメジメした作品の中で、ひとり、背骨がシャンとしていた。
戦争が長びきはじめたころ、
「日本もいよいよ負けるんだ。われわれはみんな裸にされるだろう」
などと、ズケズケいっていた。よくも、あれで、特高にも、憲兵隊にもつかまらなかったものだと思う。
私が、軽井沢へ逃げ出すと決めた時は、ひどく心細がって、わざわざ高井戸まで、やってきた。
「キミに逢うのも、これが最後かも知れないね」
私の顔を見つめて、中学生みたいなことをいっているうちに、空襲警報が出て、井の頭線の電車がとまった。薄暗くなった秋空の下を、リュック姿で、何べんも振り返りながら国電荻窪駅の方へ歩いて行った。
「年をとると、友達が少くなる。キミとボクだけは、何時までも付き合おうよ」
そんな子供っぽい手紙を軽井沢へ、何回もよこした。そのくせ、自分は東京を離れようとしない。
終戦になって、東京へ戻った私は、いの一番に上司氏を訪ねた。上司氏は、大作『東京』の第四部の筆を起すのだといって、その構想を熱心に話した。
やがて昭和二十二年四月。氏は芸術院会員に推された。さっそくお祝いをいってやると折り返し、ハガキで返事が来た。
「辞退するほどのものでもないから、人さわがせをせずに黙って頂戴した」
と、書いてあった。
往年幸田露伴氏が、文学博士に推挙された時、
「辞退するほどの値打ちがあるものでもない」
といったのは有名な話であるが、上司氏もなかなか、味なことをいうものだと思った。
「博士になんか、なってやるものか」
という漱石流のタンカも、大向うには受けるだろうが、私はむしろ「辞退するほどのこともない」といった上司小剣の、淡々たる心境をおもしろいと思う。
話は、ずっとさかのぼるが、藤原義江君が外国から帰り、以前の戸山英二郎時代とは、心機一転して、楽壇にデビューした時のことである。
世話ずきの伊庭孝君が、その音楽会の招待券を持って上司氏のところへ行き、
「よろしく後援してあげて下さい。昔の戸山英二郎が、生まれ変ってスタートしたのだから」
といった。すると上司氏は、その招待券を押し戻して、
「藤原義江のことは新聞で読んだ。音楽会には必ず行くが、キップは僕が買ってはいる。招待券で行ったのでは、後援したことにならないから」
と、いったというのだ。この話を私は、伊庭孝君から、じかにきいた。
上司小剣氏について、私が特に書きたいのは、こういった、つつましい人柄についてである。
渡辺芳助……といったって、そんな男を誰も覚えていやあしない。寄席がすきで、芝居がすきで、娘義太夫のドウスル連で、むろん遊びも大好きで、そこらあたりに一ぱいいた道楽息子の一人にすぎない。こんなのと友達になったところで、三文の得もありはしないが、今になって思うと、どうやら、私の恩人だったにちがいない。
私が東京に出てきたばかりで、飯田町の下宿にいる頃だった。一目で東京そだちと知れる青年が、私の部屋へ、
「ごめんなすって……」
と、はいって来た。
押売りでもなし、借金取りでもなし、一体なんの用事だろうと、納得のゆかない顔をしていると、相手は遠慮なくドカリとすわって、
「野村さんとおっしゃるんだそうですね。ご一緒にどこかへ出かけませんか」
と、三十年も前から兄弟分のような顔をした。のちに、銭形平次を書くようになって、ガラッ八の八五郎が、誰とでも、すぐに仲よしになって、いろんな噂を嗅ぎ出してくる。私は、そのたびに渡辺芳助を思い出す。
話が、ずっとさかのぼるが、私が盛岡中学へ入学して、郷里の村から、はじめて盛岡へ出てきた日である。とりあえず、先輩の吉田直次郎君を訪ねると、西陽のさすまどに腰をかけて、足をぶらぶら泳がせながら、吉田君としゃべっていた青年が、
「そうか。下宿がきまっていないのか。猪川塾はどうだろう。吉田君、連れて行ってやり給え」
これが、原敬のオイで、不世出の秀才、原抱琴との初対面だった。その後、大学を卒業して世に出るまでの間、私はこの不思議な秀才の影響から、どうしても、抜け出ることが出来なかった。
私は、運命論者ではないが、人間の一生はいろいろなものから影響され支配されるものだと思っている。独立独歩、自分の意思のままに歩いて来たという人があったら、それは誇大妄想でなければ、バカである。
ところで渡辺芳助であるが、これは、どう見てもヨシスケであった。ヨシスケ氏でもなければヨシスケ君でもない。年は、向うの方が三つ四つ上だと覚えているが、老妻にいわせると、
「いいえ、そんなことございません。一つか二つ、下だったはずです」
と、すこぶる強硬である。口のきき方や物ごしが、年のわりにませていて、私の記憶を混乱させたのかも知れない。
家は本郷で、信陽館という下宿屋のむすこだった。私のいる下宿屋と、女将同士が、イトコとか姉妹とかいうことで「おばさん、おばさん」と、始終、入りびたっているのだった。それが何かの拍子に、私のことをきいたとみえて、
「へーえ。江戸研究に凝ってる書生さんがいるんだって? 江戸のことなら、おれっちくらいくわしい者は、あんまりいないと思うんだがな」
由来、おせっかいは、江戸っ子の通有性である。「江戸名所図会」の実地踏査に、指南番を買って出ようというわけで、
「ねえ。毎日、出かけようじゃありませんか。あっし、どこだって知ってやすぜ」
私は、自分の流儀として、何をやっても、文献から、はいる。広重でも音楽でも、専門雑誌のバック・ナンバーを出来るだけ集め、とにかく読むのだ。当然、頭デッカチになって体当りの方が後になる。
「江戸砂子」「江戸名所図会」からはじまって、手当り次第に乱読していたところへ、渡辺芳助の出現は、渡りに舟だった。
「古本屋の入札じゃあるまいし、すわりこんでいちゃあ、江戸は分りませんや」
芳助はひとりで呑みこんで、いやおうなしに私を引っ張り回しはじめたのである。
手はじめは、回向院のネズミ小僧の墓だったと思う。イキな姐さんや、勇ましいあんちゃんたちの参詣で、四十七士の墓よりも、もっと、香煙もうもうとして、そして、見事に、ぶち欠かれていた。墓石のカケラをふところに忍ばせていれば、勝負事に絶対勝つという迷信から、柵も金網も乗り越えて、ドンドン欠いて行ってしまう。ロウソクのようにやせ細った墓石の前で、
「どうだ。大したものだろう」
と、芳助は、自分のことのように威張った。
亀戸の天神桜の太鼓橋は、今より、ずっと急だったし、萩寺には、萩が若芽をそよがせていた。向島で言問団子をたべて、白鬚神社から、梅若塚までテクテク歩いた。一体、芳助は、どうしてあんなに物知りだったのだろう。
三囲から、竹屋の渡しを渡って、待乳山、馬道、富士神社と来ると、鉛色の空に、十二階のシルエットが浮いている。このあたりまで来ると、芳助は、なんとなくソワソワして「以前、うちの女中をしていた女が、この辺にいるんだ。ちょっと、顔を見てこよう」。
しゃくり上げるような眼付きで、私の方を振り向いた。どういう、いわくの女だか、そんなことは構わないが一体、あのころ私たちは、どのくらいの小遣いを持っていただろう。私の下宿が、三食で一カ月三円也。六畳の部屋代が一円五十銭。布団は、郷里の妹が手織りで作ったのを送って来たが、机は夜店で一閑張りを買った。言い値が八十銭か八十五銭だったのを、大分ねばって六十銭で買って帰ると、いい買物だと下宿の女将にほめられた。
だから、十二階下をうろついたって、大した金額ではないのだが、金高よりも何よりも、私は無暗にこわかった。なんとなく立ちすくんでいるうちに、芳助はトントンと上って行ってしまった。いよいよ心細くなって、引き返そうとした時に、
「チョイと、チョイと。兄さんてば……」
白い手が、するすると延びて、私の襟元にからみついた。
「おいッ」
と、私は芳助を呼んだつもりなのだが、とっくの昔に消えていた。女は委細かまわず、私を引っぱり上げようとする。頬骨のとんがった昼ぎつねのような顔だった。
「よしてくれ」
私は、てのひらで押し戻した。郷里での私の常識によれば、女性とは、腕力には、ノータッチのはずであった。だが、この女は、押しのけた私の腕を逆に掴んで、武者ぶりついて来ようとした。
私は、びっくりして横っとびに逃げ出した。とたんに下駄を踏みちがえて、ガクンとなった拍子に、溝の中へ落ちた。
おはぐろ色のどぶどろの中へ、ふくらはぎまで突っこんだまま、私は、つくづく東京の女はこわいと思った。
吉原だの、十二階下だのは、一ぺんで閉口してしまったが、芝居と寄席は、いつまでも続いた。
円朝は、口惜しいことに聞いていない。円朝の死んだのは、明治三十三年だから、わずかのことで、かけ違って「円朝はうまかったなあ」という溜め息だけが残っていた。
たった今、お銚子がからっぽになったところへ、顔を出した酒客のようなもので、いっそう、残念さが身にしみたが、円朝四天王の円馬、円生、円橘、円喬。それに、円右、円左。鼻の円遊なんぞもいて、正に、百花爛漫であった。
なにしろ、東京中に、百六十何軒の寄席があった時代である。映画館も、現代式の漫才もなく、その代りに高座の名人が雲の如くいた。
岡本綺堂先生の半七捕物帳のよさは、筋をはこんでいる中に、桜さく御殿山や、二十三夜の湯島台が、ありありと、まぶたに浮かんで来る。明治の寄席の名人たちが、正にそれと同様で、藍をぼかした江戸の空や、一人一人の人間像を、見事に浮彫りして見せてくれる。
たとえば、円馬の十八番の「富八」である。千両の富くじに当って、家に帰って女房に「おい。千両だぞ」というような言い方はしない。
最初にまず、当ったことだけを小出しに話す。女房が浮き浮きして「三十両かい。うれしいねえ。それだけあれば大きな顔して年が越せる」と喜ぶのを、
「三十両ばかりじゃ、ねえやい」と叱る。
「あら、じゃあ、五十両? ありがたいねえ、五十両ありゃあ、私は……」
「ちがう、違う。もっと上だ」
「じゃ、百両かい。運が向いてきたんだねえ。本当に」
「ちがうってば。百両じゃないんだよ。もっと、もっと、お前……」
と、ここまでは息もつがずに盛り上げてきて、さて女房が「なにをいうんだよ。その上は千両じゃないか。千両富なんぞが、私たち風情のところへ……」と、相手にしないで、そっぽを向く。
「ば、ばかッ。そ、その、千両。本当に千両なんだぞ……」
活字で書けば、味もそっけもなくなるが、裏店住まいの貧乏暮らしで、女房相手に、一段一段と盛り上がってゆく心の動き。なるほど、心理描写とは、こういうものかと、後に小説を書くようになって、どれだけ、助けになったか知れない。
講釈では、松鯉。伯山。先代馬琴なんぞが活躍していたが、若いファンのあこがれは、何といっても娘義太夫である。戦後のジャズやロカビリー。大正中期の浅草オペラも、若人を熱狂させたけれど、夢中になった程度では、娘義太夫は、段違いであった。
京子。綾之助。小土佐から、朝重。昇之助などの名前は、まるで女王様であった。黄色い声を張って伸び上がると、花かんざしがバサリと落ちる。
「ドウスル、ドウスル……」
ファンは、ここぞとばかり親不孝声を振りしぼって、下足の札で伴奏を入れる。
一席終って、次ぎの席亭へと人力車を飛ばすのを、何十人のファンが真っ黒にかたまって、ワッショ、ワッショと、おみこしのように……。
むろん、わが芳助は、いつも先頭を切って走った。
何の道でも、そうであるが、うまいから人気があるとは限らない。私のきいた娘義太夫では、京子はさすがにうまかった。声もよかったし、なまめかしさがあった。それにくらべて昇之助などは、芸はそれほどと思わないが、それで不思議に人気があった。
人気といえば、女流落語家で燕嬢というのがいた。戦後、たしか昭和二十三、四年ごろに女の落語家が現れて、新聞などが女性の第一号だと書き立てたが、本当は明治三十五年ごろの燕嬢である。いや、もっと以前にもいたかも知れないが、私のきいた範囲では、燕嬢が元祖だと威張っていた。
りゅうとした黒紋付で、頭は当時の最新流行、夜会巻きというやつだった。もう一人、高座の変り種に、ブラックというイギリス人の真打格がいて、異色編の両大関を張っていた。落語は、お世辞にもうまいとは言えないが、なにしろ珍しいので、うけていた。
ところで、この燕嬢師匠。実は私の友人の細君だったのである。千葉秀輔といって、ちょっと有名なドイツ語学者だが、私と同じ新聞社に、しばらく籍を置いていた。
女髪結の亭主というのは、三日やるとやめられないそうだが、この秀輔先生は、せっかく、燕嬢の亭主でありながら、どうせ亭主商売をやるなら、もっと売れッこの亭主になった方がいい……と考えたかどうか知らないが、今度は三浦環のあとを猛烈に追っかけはじめた。
環がまだミスで、柴田環といって、ザルコ・リーなんかと、帝劇で唄っていた時分である。どこで、どうして見染めたのか、秀輔先生、実に大変な熱の入れ方で、夢中になって追い回した。
あんまり、しつこく追い回されて、さすがの環も根負けしたのであろう。人気の上から、もっと独身でいるつもりだったのが、あわてて三浦博士と結婚してしまったという評判だったが、それは、まあ、それとして、この燕嬢先生は、前身が幼稚園の先生だった。
かわいい園児を相手にして、ムカシ、ムカシ、サルトカニガ……とやっているうちに、話をすることに興味と自信が出来て、とうとう本職になってしまったのだ。先生としては、すこぶるユカイな、いい先生だった……と、これも新聞社の後輩で、幼稚園時代、燕嬢の教え子だった青年からきいた。
さて、私の指南番だった渡辺芳助は、胸を悪くして若くて死んだ。その代りには、安村省三が、相棒として現れた。新渡戸稲造博士のオイで、のちに同じ新聞社へはいり、新橋駅で、列車便所へもぐりこんだ、あの安村省三である。
私と安村省三とは、性こりもなく東京中を、足にまかせて歩き回った。文明開化になったとはいえ、江戸の匂いは、至るところに帰っていた。日本橋の魚河岸の近くでは、頭にチョンマゲを載っけている、すごく威勢のいい、お爺さんに懇意になった。
このお爺さんからは、いろいろと話をきいたが、それよりも、生ッ粋の江戸ッ子弁が見事であった。絵にかいたような、巻き舌でポンポンポンとタンカを切るのが聞きたくて、私は、毎日のように日本橋へ通った。今日、私がいくらかでも江戸が描けるとしたら、それは、こうした人たちの賜物である。
大正の中ごろから、いわゆる大衆文学が勃興した。私もヨチヨチと小説らしきものを書きはじめた。
そのころ、ほとんど毎月のように匿名批評で取りあげて「野村胡堂と吉川英治に注目する」と書いてくれる人があった。それが、一度も顔を合わせたことのない、若き日の直木三十五氏であったのだ。
直木氏に逢ったのは、それから、よっぽど後である。何かのはずみで、氏の家を訪ねた。立派な家だが、家具なんかなくて、何か、ガランとしていた。すごく豪勢な刀を持ち出して、障子にもたれたまま、
「この刀、この間、買ったんだぜ」
と、威張っていた。ロクな茶碗もないくせに、素晴らしい刀に千金を投じたり、どこかちぐはぐな面白さが、直木氏の身上だった。
続いての恩人は、銭形平次を書く端緒を開いてくれた菅忠雄氏であるが、このことは、すでに書いた。
小説は書きはじめたものの、まだ大して売れず、レコードには注ぎこまなければならないし、四苦八苦していた時に「少年世界」に口をきいて、連載を書くようにしてくれたのは吉川英治氏であった。
雑誌「譚海」を主宰して、継続しながら九年間、私の作品を載せてくれ、ともすれば男の子ばかりになりたがる私の作品を、
「もっと、女の子を出して下さいよ。メールヘンだって、王子と姫君とが出てくるじゃありませんか」
と、忠告してくれたのが、当時の井口長二氏。すなわち、今日の山手樹一郎氏だ。
それより前。四十六歳の私が、最初の作品を発表した時に、
「こんな人も、小説を書きはじめた」
と、個人雑誌「騒人」に、すこぶるユーモアな筆で、しかも好意たっぷりに書いてくれたのは、村松梢風氏であった。
すべての人がそうであるように、どうにか食えるようになるまでには、無数の嘲笑と、悪罵と、陥穽の中をくぐり抜けなければならなかった。その中にあって、心からの好意というものは、それが、どんなにささやかなことでも、忘れがたいものである。
谷崎潤一郎氏は、一高で、私のすぐ下の級だった。寄宿舎は、たしかに私の隣室だったと記憶するが、御当人は覚えがないという。
一年上級の安倍能成氏も、学生時代の私を記憶しないというから、その頃の私は、野次馬、なまけ者で、秀才連中の眼中に、なかったらしい。逆に、久米正雄氏は、高等学校で、何度も逢ったようなことを話していたが、これは、私の方で記憶がない。
中年から作家生活にはいった私は、徹宵、肩を組んで呑み歩くといった友達は少い。あっても、それは、学校関係か、新聞社時代の友人で、それも、年々、故人になってゆく。
ただ、新聞社の学芸部長として、原稿を依頼する立場から、懇意になった人は多い。私は、社の会計と喧嘩しても、原稿料はなるべく高く支払う方針をとり、白井喬二氏に一枚七円という、当時としては破天荒な金額を払った時は、
「そんなに出すから、何時までたっても、筆者が完結させないじゃないか」
と、会計係から叱られた。
社僚、矢田揷雲君が「今度、こういうものを書こうと思う」といった時「江戸から東京へ」と題をつけたのは私である。
旅は、きらいでない。健康さえ許せば、今でもやりたい。
昔の人は、旅を、おっくうがったように思うが、案外そうではなかったらしい。私の生家でも、古くから、道中差しはタンスの中に用意してあり、小型のツヅラと矢立て。佐倉宗五郎の着るような雪合羽。それに道中の費用として、小粒や小判の一、二枚は、いつでも仕舞ってあったはずである。その小判は、私にまきあげられるのを心配してか、母は、とうとう見せてくれなかったが、私の弟は、たしかに見ている。
これだけの用意があると、不意に伊勢参宮にさそわれても、恥をかかずに済むわけで、私の父なども可なり出かけたようである。
広重の絵を見ると、赤や緑の鮮かな合羽姿が描かれている。実際、昔の武士の旅合羽は美しいもので、目のさめるようなエメラルド・グリーンの実物を見て、なるほど広重はウソを描かないと感心したことがある。地質は呉絽という毛織で、明治になっては風呂のアカ摺りに、名残りをとどめた。
だが、私の子供ごころの思い出は、そうした武士の姿でなくて、ものかなしいラッパを鳴らす郵便馬車から始まる。もっとも、荷物はすべて馬の背で運んだ。
盛岡中学へ入学して、たった一人で、この城下町へ行った時、布団や本箱は、別に馬の背で送ってもらい、盛岡の目貫きの、肴町の四ツ角で落ち合って、馬と一緒に、下宿の猪川塾へ行ったものである。
ほんとうの独り旅は、十四の年に平泉の中尊寺へ行った。父も母も、危ながって旅費を出してくれなかったから、妹のおこづかいを五十銭借りて、そっと出かけてしまったのである。
そのころの中尊寺は、寂しくて、そして美しかった。金色堂は修理中だったけれど、物売る店もなく、うるさくつきまとう案内人もなく、義経や弁慶の幻想を追いながら、私は杉木立の下を歩き回った。
平泉から、黒沢尻へ回り、さて帰りのキップを買おうとすると、お金が足りない。厳密にプランを立てていたつもりなのが、どこかで計算違いをしたのであろう。駅の、キップを売るまどの前で、料金表と自分のガマグチの中身とを、何べん比較検討して見ても、お金の方が僅かばかり不足なのである。そのうちにも、汽車の時刻は刻々にせまる。十四歳の少年に、いくら考えてもよい知恵の出るわけはない。
私は、自分の村よりも一つ手前の石鳥谷までキップを買った。
石鳥谷駅で下りた時、すでに、とっぷり暮れていた、我家までは二里ではきかない。ホタルの飛び交う田圃道を、私は、うつむいたまま夢中で歩いて、家についたのは十一時を回っていた。母は、なんにもいわないで、熱いうどんを、ザルに一ぱい煮てくれた。
さて、それから五十何年たった昭和二十年のことである。平泉へ行った私のオイが「中尊寺で叔父さんの落書きを見つけましたよ」と、いうのである。
悪いことは出来ないものだ。中学生などがよくやるように「明治何年何月何日。野村長一」というようなことを、白壁のすみにでも書いたとみえる。私は、すぐさま飛んで行って、その落書きを消したいと思ったが、その後、いまだに平泉へゆく機会がない。
大分、前のことだが「話の泉」のゲストに出ると、私をからかうかのように「箱根八里というが正確には何里何町か」という問題が出た。
江戸の方から行って、のぼり四里。下りは三里となにがしと記憶していたので、七里強と答えると、強は強でも、七里三十町あるというので、これは鐘だ。
里数では、見事に失敗したが、箱根は相当調べたつもりで、関所にまつわる小説だけで、十種以上は書いている。
昭和の初年、まだ長男が生きていたころである。子供たちを、ひと夏、箱根で自炊生活をやらせ、私も、しばらく行っていた間に、関所破りの研究をやった。
「そんなことを調べると、昔なら、ハリツケものだぜ」
と、ひやかされながら、せがれまで助手にして、土地の古老にきいて歩いた。
箱根に関所が出来たのは、二代将軍の元和四年で、これは、うっかりすると、もっと古くからあったように錯覚しがちである。「入り鉄砲に出女」といって、女の通行は、殊にやかましかった。旧道にある「お玉ヶ池」は、お玉という女が、ハリツケになった跡だというが、こういう極刑は、めったに行なったものではない。
ひと口に、関所破りというが、偽手形を使う知能犯と、間道を抜ける潜行式と、暴力で押し通る無法型とがある。暴力型が用いられたのは、幕府の権威が地に落ちた幕末の混乱期だけのことであって、普通、最も多いのは、抜け道を通る方法であろう。私の研究も、主として、これを調べた。
関所の跡は、箱根町と元箱根の間に、今も桝形が残っているが、これを避けて姥子へ回ると、湖尻の手前に、もう一つ、小型の関所があった。舟で渡るには、湖水全体で、たった二隻の舟しかなく、それも厳重に監視されていた。佐倉宗五郎の甚兵衛の渡しのような具合には、とても参らぬ仕組みになっていた。
一般に考えられるのは、小田原の方から旧街道を登って、畑宿あたりから谷底へ下りる。そして、須雲川の渓谷づたいに、大観山の裾を回って、太閤道から街道へ出るコースである。
太閤道というのは、秀吉が小田原攻めの時に通った道で、三島の方から、関所の手前を右へそれて、山ひだの間を石垣山へ抜けるのである。須雲川の谷底をつたって、うまくこの道へ出られればこれが一番、可能性がある。
もう一つは、甘酒茶屋のあたりから、野馬ヶ池を接待茶屋へ抜けるコースが考えられるが、ここは有名な箱根笹の密生地帯で、ウサギが迷いこんで出られなくなり、笹にはさまれて死んでいることがあると、土地の人にきいた。
結局、私は『三万両五十三次』でも、その他の作品の場合でも、主に太閤道のコースを使うことにしている。これだって、実際には、他国者の通れる道ではなかったと思うが、いくらかでも可能性がありそうなのは、これしかない。
地形などは気にするな。どうせ、小説なのだから、山でも谷でも、エイッと飛び越しちまえばいい。という議論もあるが、私は、どうも、そういうことが出来ない。身体さえいうことをきけば、今でも、あの旧道を、もう一度登ってみたいと思うのだが……。
七月にはいって、急に暑い日が続いている。ちょうど、こういうような、烈日の下を新聞記者になったばかりの私は、東大教授の某博士を訪ねてテクテクとあるいた。五十数年の昔である。
実はそれまでに、三度訪ねて三度、玄関払いを食っている。四度目の今日は、いくら何でも逢ってくれるだろうと、玄関に立って、取次ぎを頼むと、
「なんだ。また新聞屋か。うるさいやつだ。いないと言え」
大きな声で怒鳴るのが、奥の部屋から筒抜けなのである。私は我慢がなりかねて、クビになっても構わぬ気で、「二度と来るものか」とばかり、砂を蹴立てて帰ってきた。この博士は、学者としては頭が悪く、とっぴな奇行によって、学生の人気をわずかにつないでいた人といえば、おおよその見当は、つくだろう。
それとは違うが、文壇の流行児たちが、無限に押しかける訪問客を撃退するために、「面会謝絶」の札を玄関へ貼ったり、あの手、この手と奇策を弄していることは、これは、ゴシップ欄などに、しばしば伝えられている。
私は、前半を新聞記者として、後半を作家として、訪問する方と、される方と、両方の立場を味わってきた。せっかく行ったのに、逢ってくれないいらだたしさと、仕事の油が乗ったところを中断されるやるせなさとを、いやというほど体験している。
ひとのことはともかくとして、私自身は一生涯、「面会謝絶」などという傲慢無礼な貼り札は、ついに一度もかけなかった。自分自身を大切にするとともに、ひとをも、大切にしたいからである。
渋民村からはじめて東京へ出て来た当座の石川啄木は、有名人を訪問するのが趣味で、片っぱしから門をたたいた。しかし、親切に引見してくれたのは、森鴎外、与謝野鉄幹、尾崎咢堂など三、四人にすぎず、ことに小説家の連中は、ほとんどが玄関払いを食わせたと、啄木は憤慨して語っていた。しかし、半世紀をへだてた今日になってみると、啄木を黙殺した、当年の作家先生たちは、その大多数が、啄木の百分の一も、名前を残してはいないのだ。
シーザーが暗殺されたのは、その朝、受け取った手紙に目を通さなかったためだといわれ、文部大臣森有礼が刺されたのは、この暗殺計画をひそかに教えてくれるはずの客に面会謝絶を食わせたためだときいている。
両氏の場合は、本当に忙しかったのであろうが、自分の勝手な時に酒をのみ、麻雀で徹夜し、競馬に有頂天になる時間があって、なおかつ、人を追い返すというのは増上慢である。客に逢ったため、そのあと、仕事が出来ないなどというのは、わがままでなければ、気力の弱さであり、そんなヤワな神経で、ロクなものの書けるわけがない。
私は、どんな忙しい最中でも、古い友人のためには、喜んで一時間を割いてきた。そのため、眠る時間が、一時間おそくなったとしても、それは、いとうところでない。ただし、この二、三年来は、健康がいうことをきかなくなって、不本意ながら御無礼することのあるのは残念だ。
また、物もらい。押し売り。押し借りは、客の数にはいらない。これは、大いに撃退して、よろしい。
中学生の頃、盛岡の町のある旧家へ、半年ばかり間借りしたことがある。この家の主は、南部二十万石の藩主の一門とかいうことで、南部なにがしと称する上品なお婆さんだった。
「若い頃は、奥に仕えておりました」
というこの人は、山村座事件の絵島でもなく、先代萩の政岡でもなく、むしろ、安政大獄の老女姉小路を思わせる端麗で物静かな面差しをしていた。
障子の桟に、ほこりもとどめず、庭には涼しく打ち水をして、三度の食前には、しずかにお茶をたしなんでいた。お茶といっても、茶碗の底をかき回して、蛙の眼玉を製造するあの面倒な抹茶ではない。極く上等の玉露かなんかを、ひとり、音もなく、たのしむのである。
「お茶というものは、大した功徳のあるものですよ。これを用いていれば、一生、大病もせず、長生きします」
栄西禅師の『喫茶養生記』にあるようなことを、芝居の老女のセリフみたいに、おちょぼ口で、訓戒してくれた。
しかし、こっちは、生意気ざかりの中学生である。「なにを言ってやがんだい」くらいに思っていたが、人間的な感化というのは恐ろしいものである。いつの間にやら味を覚えて、一生の間、お茶のとりこになってしまった。酒をのまず、煙草を廃し、紅茶もコーヒーもほしいとは思わぬが、お茶だけは一種の中毒状態で、六十年後の今日でも、お茶がないと、頭が、ぼーっとしてしまうのである。
戦争で、物が不自由なころ、軽井沢へ出かける前に、苦心して手に入れた上等のお茶を、カバンに詰めてチッキで送ったところ、どうしたわけか、これが着かない。駅で紛失してしまったのである。
私は、完全にぼんやりしてしまった。盗られたのが口惜しいのではない。一日でも、二日でもお茶が切れると、頭が真空みたいになって、原稿どころではないのである。さっそく池田園に電報を打って、送ってもらう手筈をうけた。
ところで、日本の宿屋のお茶というものは、これはまた、何とまずいものであろう。私は、思い切って濃いのが好きで煎茶の急須へ、抹茶の粉をたたきこむことさえあるのだが、宿屋のお茶は、まるで色のついた湯にすぎない。「茶代」というものを取りながら、あれでは、ただの湯の方が、まだしも、ましなくらいである。私は旅行する時に、何はなくともお茶だけは自分で持って歩く。
煙草は、可なり骨を折ってよした。自分は意思が強固だから、何の苦もなく、ズバリとよした、などとは決して申さない。悪戦苦闘の末によしたのだが、よして三十年たったいま、本当によいことをしたと思っている。
やめた理由はいろいろあるが、私は、自分の流儀として、やるからには、第一流のものでないと気がすまない。安煙草を半分にちぎったり、火鉢の中の吸いかけを捜すくらいなら、いっそ、全廃するに限る。私が吸っていた当時は、少くともウェストミンスターかMCC、時には、それ以上のものを常用した。月給が百円にもならないのに、煙草代が四十円を越えた。これには、家内が悲鳴をあげたし、自分でも閉口した。その後、煙草代に困らないようになっても、再びヨリを戻そうとしなかったのは、大変よかったと思っている。
故人の筆蹟を集めるなら手紙に限る。文筆家なら原稿もおもしろい。色紙や短冊は、よそゆきの字だから、大したことはない。
石川啄木の手紙がお茶の水の古書展で、二万四千円の正札がついていたのは十年ほども前のことだ。今ではどのくらいするものか。私自身は、二十七本持っていたが、全部、私宛てのものである。
買ったり、もらったりしたコレクションには、小泉八雲、樋口一葉、夏目漱石、尾崎紅葉、正岡子規、島崎藤村、高浜虚子、巌谷小波などというのが主なものだ。
紅葉の手紙は七、八通持っているが、その中に、素晴らしいのが一通ある。巌谷小波にあてたもので、
「……昨夜、某所に泊ってしまったが、それが分ってはまずいから、キミのところに泊ったことにしておいてもらいたい。夜更けまで一緒にのんで、そのままつぶれてしまったということにでもしておいてくれ」
という意味の文面である。硯友社の大御所、紅葉先生。小波氏の家に泊ったことにして、さてその一夜を、本当は、どこにいたのであろうか。いろいろと想像させてくれる手紙である。
一葉は一通だけある。門司の閨秀作家田中みの子にあてたもので、表向きは上品な文句が並べてあるが、その底に小意地の悪さが浸みこんでいておもしろい。この両女史はかなり激しい競争相手であったのだろう。
この手紙は、実は、買ったものである。そのころの値段で三千円くらいだったろうか。高いなあ、とは思ったが、思い切って買ってしまった。そうするとしばらくたって、同じ人が、
「今度は、原稿が出たのですが、ついでに、これも買いませんか」
と、持ってきた。それが何と、『たけくらべ』の原稿で、むろん正真正銘の真筆であった。
「高いんだろう!」
と、いうと、
「エヘヘ、まあ、ね」
と、顔色を見た。もう一声、こちらが乗り気になってみせたら、五万といったか、十万といったか知らないが、これは、ついに手を出す勇気がなかった。
その後、関西の金持の手にはいったとか、外国へ流出したとか、風の便りに噂は聞いたが、今なら何百万円のものか……。
釣り落した魚は、いつまでたっても恨みの種だが、それと反対に、幸便に手に入ったのは、原敬の書である。
私は政治家としての原敬も尊敬するが、畏友原抱琴の叔父さんとして、原敬の書がほしかった。手紙は三通持っているが、部屋に掲げる額がほしい。
しかし原敬の書は非常に少い。伊藤博文などのように下手だから書かないのでなく、うまいくせに滅多に書いていないのだ。私は、やっと本物を小泉三申氏の邸で見つけた。
筆太に「汲古」と書いた横額で、大正七年、原内閣成立の時である。
「総裁は珍しくご機嫌で、気軽に書いてくれたのです」
と、三申氏は自慢した。私が強引に懇望すると「惜しいなあ、惜しいなあ」といいながら譲ってくれた。現在、居間に掲げてあるのがそれである。
「笑い茸」というのがある。別名を踊り茸ともいう。毒きのこの一種には違いないけれど、ただの毒きのこと毒きのこが違う。これをたべると、興奮し、ゲラゲラ笑ったり、乱舞したり、あられもない気違い状態になる。くわしくは、植物図鑑なり、百科事典なりを見るがよい。
私が、突然、笑い茸の話を持ち出したのは、今までに、しばしば、きかれたことがあるからである。笑い茸について、きかれたのではない。捕物小説の出来る順序についてである。筋が先か、トリックが先か。どういう具合に、建築設計を進めるのか、その種あかしをせよというのである。
そこで、笑い茸であるが、銭形平次捕物控に「笑い茸」という作品がある。例の「銭形百話」の時に、数の不足を埋めるために、題を先に考えて、あとから作品を書き上げた中の一つである。これを例にとってみる。
何かの本を読んでいるとか、図鑑を調べているとかして、笑い茸というのを思いついたとする。これは、面白いな、と思うが、単に笑い茸をたべたというだけでは、トリックにならない。
そこで、トリックを考える。大ぜいの人がみんな、これをたべてゲラゲラ笑った。ところが、その中に、実は、たべていないやつがいる。たべた人間もいるが、たべていない人間もいる。それが、たべたような顔をして、一緒になって、ゲラゲラ笑ってみせる。こうなれば、これは一つのトリックである。
だが、トリックだけでは小説は生れない。そこで登場人物の性格を考えてゆかねばならない。非常にずるい弟がいるとする。これが兄貴の財産を自分のものにしたい。笑い茸をみんなに食べさせて、その中で、兄貴だけが死ねるような工夫を考える。それがその通り行かないで、思いのほか手違いが出来る。それには弟の方と兄の方と、それぞれに女がからんでくる……。
大体からいうと、主になるトリックを考えつくと、副になるトリックは、自然に生まれてくる場合が多い。その筋立てを追ってゆくのに、前にも一度書いたように、鼻唄まじりで楽しくやってゆくか、深刻無比な顔をして髪をかきむしって、書いてゆくかである。ただし、トリックの巧拙は、これはその人の天分にあるようだ。
私は、自慢ではないが、子供の時から、数学だけは、ほめられて来た。決して秀才でも優等生でもなかったのが、一高の入学試験にパス出来て、みんながキモをつぶしたというのも、数学がほとんど満点だったせいではないかと思う。威張っているように取られては困るが、数学で零点をとるような頭では、捕物小説は、書いてもらいたくないと思っている。
さて、捕物帳のむずかしさは、むしろ性格の設定の方である。トリックは、同じトリックを二度使うわけにゆかないし、誰だって、二度使おうとは思わないだろう。ところが、登場人物の方は、よほど自分にいいきかせないと、似たような性格が何回でも出てくる恐れがある。もちろん、平次とお静と八五郎は如何なる場合でも顔を出す。それだけに、事件をひき起こす側の人間は、百回書けば、百回違うのが理想である。シェークスピアは百のキャラクターを書き分けたということの偉大さが、改めて思い起こされるわけである。
ほかの文体が書けないのかと思われるのもシャクだから、雑文は普通の文章で書いているが、銭形平次をはじめとして、小説はみんな自己流の「あります調」で書いてきた。
「困りますね。当り前の文章にして下さいよ」
と、はじめのうちは、何回となく剣突くを食った。そのうちに、編集者諸氏も、サジを投げたのか、馴れッ子になったのか、何も言わないようになった。
話が、またしても、古くなるが、明治十年頃の新聞を見ると、「日本橋区××町に、××という米屋さんがござります。その米屋さんに昨日の朝……」といった調子で、社会面のニュースが書いてある。話す言葉と書く言葉の、これこそ完全な一致である。
ところがその後、山田美妙斎あたりが音頭を取って、言文一致運動が起こり、いわゆる口語体が生まれた。この口語体というのは、名前は言文一致でも、その実、日常の会話と異なり、口語体という一つの文章体なのだ。論より証拠、本当に話す口調で書いているのは、漫画の本か、童話くらいしかないではないか。
私の書く「あります調」は、こうした「言文不一致」への、ひそかなレジスタンスでもあるが、個人的な動機からいえば、泉鏡花氏の影響を振り捨てるための手段でもあった。
白状すれば、中学時代の私は、すっかり鏡花に傾倒して、世の中に、これほどの名文がまたとあるだろうかと感心した。明治三十年から、三十二、三年にかけて「辰巳巷談」「湯島詣」「高野聖」などは、ほとんど暗誦するほどに読んだし、鏡花ばりで作文を書いたり、新聞に載った短文までも切り抜いた。それが三十七、八年の「風流線」のあたりから、癖の強い文章と思想に疑問を生じ、どうやって鏡花の影響から脱出しようかと、そのことばかりに骨を折った。絢爛をきわめた鏡花調に対抗をするための、あります調といえないこともない。
それと、今一つ。私は出来るだけ会話で筋をはこぶことを考えて、実行して来たつもりである。地の文を多くすることは、作者の独断や、ひとりよがりがはいって面白くない。
会話をふやすことによって、実際の話し言葉に、ますます近づくことが出来ると思うのだ。
あるアメリカの学者から、直接きいたことであるが、日本語で一番、閉口するのは、書く言葉と話す言葉の違っていることだそうである。外国語にも、幾分の違いはあるだろうが、日本語ほどに、ひどくはない。
漢字制限も、現代カナづかいも、音訓表もいいけれど、私は、この問題の方が先決でなければならぬと思う。口語体という名前の文章形式で、ものを書き、日常の生活では、それと違った口調で、ひとと話している。私のあります調は、誰も同調してくれないけれど、私一代は、なんといわれても、これでやり通すことにした。
「銭形の文章が、どうも、おかしいという人があるが、あれが、本当の口語体ではないか。キミは、その方の専門家だが、言語学の方からどう思うか」
と、旧友の金田一博士に議論を吹っかけたら、ろくに聞いてもくれないで、
「うん。その通り、その通り」
と、面倒くさそうに合槌を打った。
戦後のことである。
元の大名華族の某氏が来て、武鑑を見せてほしいという。何にするのかときいたら、戦災で系図を失った。それをもう一度、作るのだという。
私の二千冊足らずのコレクションから、どの程度に権威のある系図が再製されたかは知らないが、戦後は武鑑というものが非常に、手に入りにくくなった。私の三十年間の収集も、今では、可なり、自慢に価するものではないかと思っている。
最初は、仕事の必要から集めた。しかし、集めはじめると、夢中になるのが私の癖である。コレクションというものは、盲目的の恋愛か、あるいは熱病の一種だと思う。何が何でも、完全な収集を作りたいと願ったが、結局望みの半分にも達しない。元禄以前のものになると、これはもう、容易なことではそろわない。
武鑑のコレクションでは、森鴎外博士のものが有名で、これはたしか、東大図書館に納まっているはずだ。
博士が、武鑑を集めているうちに「渋江」という蔵書印のあるものを発見し、それに興味を持って、渋江家のことを調べ、あの名作『渋江抽斎』が書かれたことは有名である。
蔵書印といえば、私は今までに四個をつくらせた。ほかに、ひとさまから戴いたのもあるが、いただきものは、ともかくとして、自分で作ったのは、どれも気に入らない。相当に考えて作ったにもかかわらず、物さびた美しい和本などには、どうしても捺す気になれないのだ。大いに考えて、凝りに凝ったものほど、出来上ってみると、どうも落ちつかない。
ところが、ある年、北上川畔の生家へ行った時、土蔵の二階の古い用ダンスをかき回していると、亡き父親の蔵書印を見つけたのである。それは、黄楊の一寸角ほどの、何の奇もない武骨なものだが、彫ってある文句がおもしろい。
「この本、何方へ御用立て候とも、御用済の上は、左記名宛に御返戻あらんことを乞う。紫波郡大巻村野村長四郎」
事務的といえば、事務的だが、草書体の文字は、なかなかの達筆で、彫りも深くて美しい。
私が、物ごころつくかつかないかのころ、土蔵の二階へ立てこもって、夢中で読んだ太閤記や水滸伝に、思えばこの印が捺してあったのだ。
私が、あんまり読みすぎて、学校の勉強をしないものだから、父親は、ついに決心してやわらかい本を残らず処分してしまった。大風呂敷にごっそり包んで、背中へ載せた古本屋を、私は、はだしで追いかけて、北上川の渡船場で、地団太踏んで泣きわめいた。あの日、川霧の向うへ消えて行った数々の本にもこの蔵書印が捺してあったに違いない。
私は、東京へ持って帰って、今も机の二番目の引出しにある。書体も文句もこの通り真似て、名前だけ変えたのを作らせようとも思ったが、父親があの世から叱りそうなのでやめた。
結局、印よりも自分自身である。どんな貴重な本にでも、淡々として蔵書印が捺せるのは、人間的の生長を待つほかはない。印材や書体はその上でのことだ。
二十世紀のはじめごろ、ドイツ楽壇の女王といえば、ジェラルディン・ファーラーがいた。若くて美しいこの人気歌手は、時の皇太子(のちのカイゼル)と浮名が立った。やがて、うわさも下火になったころ新聞記者団との会見で、「本当はどうだったのか」と問いつめられて、
「ふ、ふ、ふ。とにかく、宣伝には、なったわね」
と、答えたという。これは、有名な話である。
私は、銭形平次捕物控を、時の首相の吉田さんが、本当に読んでくれたかどうか知らない。しかし、ファーラーと同じ感謝を、吉田さんに捧げては、いけないだろうか。
吉田さんとしても、文学青年的なむずかしい本の名前をあげたとしたら、青白きインテリは喜んだかも知れないが、捕物帳だよと答えたほどに、大衆の人気は沸かなかったに違いない。迷惑であったかも知れないが、結果においてマイナスではなかったと思う。
そのことがあってしばらくして、ある会の席で、吉田さんに逢った。
「お逢いするまでは、もっと、こわい方かと思っておりました」
と、家内が遠慮のないことをいうと、
「ほら、この通り、ちっともこわくないでしょう」
と、人なつっこく笑ってみせた。そして、例のまるまっちい声で、
「野村さんのものは、私も、読んでいますよ」
といった。「野村さんのもの」といって、あえて銭形とは言わなかったから、何を読んでいるのかは知らない。私は、新聞記者として、明治大正の一流人物には大抵、逢ってきたが、少々ばかり皮肉っぽいのを別にすれば、首相としても、外交官としても、吉田さんは、やはり一級品だと思う。
吉田さんが、ますます元気なのは目出度いが、私がこの随想を書きはじめて以来、芦田均氏が死んだ。金森徳次郎氏が死んだ。その少し前には、輸銀総裁川上弘一氏が死んだ。みんな一高での友人である。
私たちが一高へはいった時、一番は、若くて死んだ仏文学者の福岡易之助君(白水社主)だったが、やがて、芦田、川上の両者が、グングン追いこんで、鼻の差くらいで、終始トップを争ったと記憶している。
芦田君は、腕力は私より弱かったが、妙にすばしっこいところがあった。何かのことで、私をからかったから、つかまえて、ギュウギュウいわしてやろうと、運動場を隅から隅まで、六、七遍も追い回したが、ついにつかまえかねて、息を切らしてしまった。芦田君の訃報をきいて、あの夕映えの運動場を、まず思い浮かべた。
金森君は一級下だが、そのころから、妙にウマが合った。国会図書館長として、アメリカの図書館を視察に行った時、帰国早々、逢って話した。
「アメリカでは、何を調べて来たのだね?」
「むこうの国会図書館へ行って、代議士さんたちは、何を読むのかきいてみた」
「すると?」
「係り員が話してくれたよ。大抵は、探偵小説を借り出すそうだ」
私は、なるほど、と思った。この話は、アメリカの代議士の知性の低さを示すものでは、決してない。コナン・ドイルが本当に読めて、あの味の分る人が増えてきたら、日本の国会だって、もう少しは、知性的になるだろうと思う。
滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』を書いたのが、前後二十七年間かかっている。奇しくも、私の銭形平次と同じである。
里見家の姫君、伏姫の腹から生れた八犬士が、えにしの糸に結ばれて、いよいよ大団円に近づこうというところで、筆者の馬琴は眼が見えなくなった。多年の読書と執筆で、視力を使いすぎたためもあろうが、現代医学の分類でいえば白内障にかかったのである。
私の場合も、銭形を書いて二十五、六年目から、視力がだんだん薄くなった。東大の医学部でみてもらうと、やはり白内障ということにきまった。
馬琴が、次第に明を失っていった心境は、彼自身が克明に書き残している。薬を買い、医者を変え、高価な水晶の眼鏡まで求めたが、一たん失った視力は、再び元に戻らない。
「われもまた、めしいては、生甲斐なければ……」
と、あの強情な馬琴が、ついに、弱音をはいているのだ。
しかも、八犬伝を完成しなければ、という異常な粘着力は、若き嫁女に口述して、百十七回の中ごろからは、嫁女に筆記をさせたのだ。
だが、そのころの町家の嫁が、むずかしい漢字を知っているはずがなく、かなづかいから、ヘンやツクリまで、一字一字、手を取って教え、教える者も教えられる者も、泣きの涙の連続であった。
「嫁女は夢路をたどる心地して、困じはてては、うち泣くめり」
と、書いている。
私自身を考えて、もしも、このまま、永久に光明と隔絶されて、果たして、先人のような仕事が出来るであろうか。一日ごとに薄れてゆく視力で、書架の上段にずらりとならぶ「群書類従」の背文字を、全く拝みたい気持になった。
外国の楽壇に例をとれば、バッハとヘンデルが、それである。バッハは視力を失ってからも、子供たちに守られて、精神的には幸福な晩年を送ったが、勝気で独身のヘンデルは、そういう具合にゆかなかった。一七五一年、最後の作品『エフタ』の作曲中、次第に明を失って畢世の努力で辛くも完成した時は、全くの盲目になっていた。
「夜の昼につぐごとく、わが悲しみは喜びにつぐ……」
と書いて、最後のペンを投じたのは、彼が、六十六歳の時であった。
私は、こういう話の数々を、本当にひとごとでなく思いつづけた。お琴の宮城道雄氏の、あの気魄のある生き方を、何度思い起こしたか分らない。
幸いにして馬琴と私とは、百二、三十年の違いがあった。医学の格段の進歩があった。東大分院の名医たちが、ベストを尽くしてくれた結果、右眼が、わずかに物の役に立つ間に、先ず左眼の手術をすませ、つぎには、その左眼をたよりにして、残る右眼を手術した。元より、如何な名医でも、青春二十歳のように、蟻の這うのまで見えるというわけには参らない。しかし、凸レンズの力を借りれば、日常生活には、どうにか困らない。
馬琴の視力が続いたら、八犬伝以上のものを書いたかどうか知らないが、バッハやヘンデルは、さらに幾多の名作を残したことは疑いない。医学はどこまでも進歩してもらいたい。
私は、英雄豪傑を書かない。歴史は、歴史家にまかせるべし。小説家は、小説を書けばよい。
銭形平次や磯川兵助は、ある意味のスーパー・マンかも知れないが、決して歴史上の有名人物ではない。
バクチ打ちを書かず、お女郎を書かず、英雄の伝記を書かなかった。もっとも、お女郎は、終戦後、放し飼いにされた娼婦が眼にあまるので、こんなことなら、昔の方が街は清潔だったのではないか──と、反語的な意味で二つ三つ書いた。
偉人や英雄は書かなかったが、影響を受けた人はある。心の底から「先生!」と呼ばずにいられないほど、人生の上で、教えられるところのあったのは、田中館愛橘、新渡戸稲造の両博士である。新渡戸先生は、一高の校長であったし、講義もきいた。田中館先生は、教室で教わったことはないが、いろいろな面で感化を受け、私が中学を終えて東京へ出た時、ワラジを脱いだのも、五番町の田中館邸の書生部屋だった。
田中館先生の逸話は、無数に知っている。風呂に浸って、数学の問題を考えているうち、
「あッ、とけた。バンザイだ」
素ッ裸のまま飛び出して、おどり回ったという話は最も有名だ。
次ぎは、少々、きたないが、便所で考えていて問題がとけて、便所のまどから首を出し、
「オーイ。問題がとけたんだ。あけて、くれッ」
と怒鳴った話。
当時、日本にいくらもなかった最新流行の自転車を買い入れ、意気揚々と大学へ通ったのはいいが、ベルも、ブザーもつけていない。途中で巡査につかまって、
「なに? 警報器? そんなものは、いらないよ。人間には、口という便利なものがある。ほら、チリン、チリン、チリン……」
大声で怒鳴って行っちまったという話。
私は田中館先生から、精神力の集中ということを学んだ。数学を解くためには、裸であることなど考えないのだ。才能というものは、集中力の別名であることを教えられたのである。
これに対して、新渡戸先生は、物わかりのよいことは無類であった。田中館先生が大学でも持てあましたほどのガンコであったのに反して、よい意味の良識の見本であった。
南部藩の家老の家に生れ、少年の頃から、秀才の名をほしいままにした。留学中に結婚し、当時は珍しい外人の奥さんを連れて帰ってくるというので、どんな女性かと待っていたら、すごく美人なので、郷党はキモをつぶしたというが、私は、ついに一度も夫人に逢っていない。
武士道とキリスト教。日本精神と泰西文化の見事な結合を、私は新渡戸先生の上に見た。ベートーヴェンを聞きながら、銭形平次を書いているところを、一度、新渡戸先生に見てもらいたかった。
新渡戸先生のオイの安村省三は、若き日の私の遊び仲間であり、田中館先生の養子の下斗米秀之進は、盛岡中学の同級であった。その関係で、特に目をかけられたのでもあるが、両先生は、私には人生の指針であった。この随筆を終るに当って、特に両先生を追慕するゆえんである。
底本:「胡堂百話」中公文庫、中央公論社
1981(昭和56)年6月10日発行
底本の親本:「胡堂百話」角川書店
1959(昭和34)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の「田中館」は「田中舘」とも表示されますが、底本通りです。
入力:kompass
校正:仙酔ゑびす
2014年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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