芸美革新
北大路魯山人
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今後に望まれる工芸作陶界は、まずそれに相応しい可能の許す限りの高き教養を基礎に、自由思想を育成し、真の自由人と思想家の出現に努め、この作陶人をして思い切った自由を作陶の上に振舞わしめざるを得ない。切羽詰っての恵まれた時代がやって来たようである。それには、この際を期して、斯界に一大革新運動を起こしてかかる要が必死の間題であろうと私は思っている。
わが国現在の美的陶磁器という製品は、一般にどのような息づかいをなしいるものであろうかを、私は十年虫を殺して、埒の外から凝っと見詰め通して来た一人であるが、さてその光景や如何にと今それを語らんとするに当って、今更の如く遺憾を感ぜざるを得ない。それは悉く哀しむべき報告をもたらさねばならないからである。私は今、現代製陶の価値を批判せんとするに当って、固よりその全責任を身に感じつつ現然見る所の破滅的な実況を紹介し、諸士の注意を惹かんとするものであるが、率直に言って、今の作家という人々の大部分が作りつつある作品の価値は、過般催された上野における綜合美術展出品を観覧して一目それとわかるように、一人一人の作品が実に不思議な位、作品に決定的に必要である自由を全然失い、虚脱状態に在ることである。作心に聊かの自由さえ持ち能わざる作人の個性無き作品、それは全く死物に等しき物であって、観者はその作品から何の魅力も感じ得ないのは当然であろう。たわいなき作家の夢もまた空しく画餅に帰し、浅慮の工夫が、ひそかに低級な人々の眼を、良? 不良? の間に迷わしめて居るに過ぎない。結局、労して効無き結果を見せつけるばかりなのである。
本来作者と言う立場は、その仕事に向っては徹頭徹尾、飽くまで自由であらねばならぬ。旧い慣習に捉われ、誤謬に身動きを失うようでは、創意創作などは思いもよらぬことである。過去の仕来りから一歩も外出し得られないようでは、新知識の獲得は到底望み難い。しからばと言ってなんら学ぶ所無き者のとりちがえた自由は、実は出鱈目を指すものであって、真の自由ではない。言うまでもなく作家として立つ限り、美の教養を可能の限度に高く学び、自由による創意創作の表現からのみ得られる満足を味わうことこそ作家の生命なのである。自由の精霊は付焼刃を許すものではない。付焼刃には常に虚妄と脆弱が伴うからである。無理は元々嘘の上に成りたつものであるからである。無知な努力に至っては、曾ての軍の仕事に似通うもので労して効はない。
人間の生涯には間々行詰りが生じ、どう仕様もない境地に立ち至ることあるは大なり小なり各人の体験する所であるが、それは何かに捉われた人生であり、陋習であったはずである。誤った先入主に捉われていては前進の可能性はない。捉われない生活、前進を阻まれない生活、自由にして拘束を受けない生活、作家はこれあるを悟らねばならない。作家の動脈硬化ということは、現然たる事実として、今の作品の多くがまざまざ示して余りある。いずれにしても、今後は、豊かな作品が出て欲しいものである。豊かな作品は豊かな時代と豊かな人の心に生まれる。強靭なる作品、品位高き作品、それは脱俗的に強く生き抜く人によってのみ生まれる。調和の美に不都合ある作品は、作家の教養に徹底せざるものあるを物語るものと言えよう。無知の工夫、それは恐ろしさを知らぬ行為である。美の世界をうららかに知る喜びは、天の理法を識り悟ることであって、人間の力量中最も難しいことの一つである。しかし、曲直の素直に見えるまでに至った人格者は、いつも天理を知っているようである。素直に度量が大きく動いた古美術を観るときに、いつもその観を深くする。
日本の過去が生んだ美術にあっても、遠く桃山期以前ともなると年代を遡るにつれすこぶる真に、何がな魅力に富み、観る人の心を打たずにはいない。何を観ても、皆大きく生きている。ひるがえって、現代の美術界を観るに、それは余りの小ささを示し、悪相をさえただよわしているからである。全く我々の眼に映ずる過去日本の古美術は、先進文化を誇る世界美術の前に決して遠慮すべき体のものではない。不遠慮に大手を振って展示すべきものであろう。今の作家にして強く大きく美の世界に生き抜かんとする心映えの有りとせば、何を何としても桃山期以前の古美術の一つ一つの生命に注目を払うことである。思い知ることのいかに多きか、一驚するはずである。
それにしても、百尺竿頭一歩を進めて、是が非でもゆめ怠ってはならぬことは、大自然に天然美を学ぶことである。天に偽りなきが今更の如く感ぜられ、深く心にそれが刻みつけられ、美神の顕現を心眼に見るであろう。かくてこそ美に生きんとする者の生甲斐はあると言えよう。
世俗の見方、世俗の了見、この世俗を断って作心は孤立せねばならない。卑怯の世俗から脱出するの他はない。貿易の振興に名をかりて最悪最低のイミテーションを作るが如き、あるいは得態の知れざる怪奇に近い海外向き劣品を製出する如き、しかもそれが個人的高の知れた利潤に狙いがあるとあっては、日本人の見識が地に堕ちた不甲斐なさを惜しまれるではないか。日本陶界の精神的無能さが恥ずかしく、まことに慙愧に堪えない。また一方斯様な醜悪なる劣品を海外に持去る者の名誉でもないのである。古来日本には日本の有する固有美の存在があるのである。典雅、優麗、稚拙、精美の数々は中国朝鮮のそれに見るが如き、知性と脆弱のみに成る血統ではないのである。作家の面々が今日の如く卑屈に陥っては、日本民族先人の出色的光彩は聊かも眼に映るものではない。しかも歴史の現実は生きて光っている。日本人である限りこれを知る所なくすませる体のものではあるまい。日本人みずからが過去の生んだ美製品を能く知悉し、感銘し、この美しさをこそ海外に発展誇示すべきである。かくして日本今後の工芸美術は自ら水準を高め、聊かの恥ずる所無く堂々たる見識をもって世界の大道に進出、美の国日本の確たる栄誉を獲得するであろう。また彼の国に美の日本を知らしむべき寄与に至っては、全く小さなものではない。日本の再建には言うまでもなく、固より立派な一役を勤め果すものであろう。それにはこの際是非とも、現在作家たる者の責任として、まず物の考え方及びその在り方に覚醒し、この時この際とばかり旧慣習を根本的に是正してかからねばならない。立直るに都合のいい秋が将に今来ているのである。奮然眼孔を光らして立上がるのは、即ち今だと言い切れよう。絶好の機会に恵まれたぞと悟って間違いないと私は信ずる。多くの作家が心機一転、心境変化すと成って来れば作家としての生甲斐は期せずしてそこに生まれよう。総ての考えにも一大改革を発見するであろう。あらゆる工風に大変革も起ころう。かくて作家は必ず活生活の偉大を感じ、この上なき欣びに身をふるわすであろう。
以上の如く一製陶面の革新に対し、試みに一指を屈するだけの一事でさえ既に多々問題を生み、次々と課題を呈するに至るのである。吾人の勇躍奮起、事に当らざるを得ない事情にあることは何人も諒とせらるるであろう。
底本:「魯山人陶説」中公文庫、中央公論新社
1992(平成4)年5月10日初版発行
2008(平成20)年11月25日12刷発行
底本の親本:「魯山人陶説」東京書房社
1975(昭和50)年3月刊行
入力:門田裕志
校正:木下聡
2018年11月24日作成
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