高橋箒庵氏の書道観
北大路魯山人



 私はかつて『星岡』誌上に高橋箒庵たかはしそうあん氏の千慮の一失ともいうべき、音羽護国寺境内における名燈籠写し物に属する碑文を見て、その撰もその書も実は高橋義雄氏のものに非ざるを不可として、どうしてそんな偽り事をやられるものかを高橋氏に質すところあった。ところが高橋氏はこれを一大過誤とし、直ちに碑文を自書自撰の上、改造すると誓われた。

 私は当時、その速かなる箒庵氏の改悟を見て、意外にも美しき態度とした。そうして数カ月を経た今日、左記の一書を私に寄せられた。


秋冷相催候処ますます御清祥奉賀上候。さて先般御注意被下候護国寺境内石燈燈碑文此の程やうやく改彫を終り候間御序の節御高覧奉希上候。先は右御報まで如此に御座候
頓首
九月十八日
箒庵
北大路老台
侍曹


 氏の約束は、いわゆる世の鰻香に終る事なくして遂に実現された事は、氏の将来のために幸福であり、すこぶる欣快な思いをした。氏も定めし一安心せられて安楽な思いをされたであろう。

 しかしながら、この碑の改造は、全く私の物議により問題となり、改造とまで進んだ事であるから、これが改造に当っては如才のないところ私まで一応の御相談があってしかるべきであった。

 今改造された碑を見るに、前に某書家によって書かれたものは、新しく石工に削り取られ、石面は前の石面より約二分余りも磨り下されて一段低くなって見えた。

 その上に改刻されたのがこんどの碑面である。観れば小生のとがめだてを容れられて、別項の様に漢文を和文体とせられ、何人にも読み得られる便宜を計られた。時代錯誤であり、茶道慣例に非ざる漢文を廃せられた事は、まず一進歩と見てよかろう。

 ところが終りに臨んでは前例となんら変わるところなく、やはり「高橋義雄撰并書」と漢文体で題された。これは惜しいことであった。元来こういう場合は高橋義雄と簡単に書いて置くのがほんとうのことで、撰并書とは、余計な文字であった。小生が御相談あってしかるべきであったといったのは、こういうこともその一つであった。

 次に上の年月日がもとの建設当時になっていることは改作を説明していない。これもなんとか工夫があるべきであった。

 とがめだてされて改刻されたことは、しばらく別としても、旧の漢文体を不便として、昭和七年九月に和文体に改造したと説明してなんの不都合もないのではないか。そこでもう一遍問題にしたいのは碑文の書である。前の漢文体が某書家の手になったものを高橋氏が自分の書なりとして、公表されたために物議の種となり、今回の改作を見たのであることはいうまでもない。しかるに今回の書も高橋氏の果して書なるや否やはすこぶる疑問とせざるを得ないのである。

 またまたこんども他人の書なりとは固よりあり得べからざることではあるが、大体においてこんどの書は、阪正臣ばんまさおみ系か、あるいは鵞堂がどう系の書風である。一見、書家の書体であり、版下書きの書体である。高橋氏が我々に日頃投ぜられるところの書とは全然異なるところのものなりと見て決して間違いはないものである。かような不思議なことがまたまた問題となることは、誠に遺憾なことではあるが、事実はなんとも致し難い。

 そこで私の案ずるところ、今回の書もやはり何人か和風系の書家に代筆を命ぜられ、それを下敷として、その上に薄紙を置き、氏がこれを敷き写されたものではないかと考えるのである。なぜこういうことをいうかというと、大体が書家風の体を具えているにも係らず、ところどころに用草の稚拙があるからである。そこで小生は何人かの書いた書の上から氏が写し取って自己にしているなと感じたのである。元来、高橋氏は小生の見るところ、従来から書に対しては、失礼ながら、誠に不見識の人である。僭越ないい分ではあるが、高橋氏の書道観は落第である。今度でももし前の碑文であったところの書家の書を非として自覚的に否定する力があるならば、今尚碑の裏面に残る所の前筆者の書を、ことのついでをもって今度のような機会に改刻するはずであった。その他にも茶席の存在する「仲麿堂」の額がある。これも高橋義雄氏の書のように落款らっかんされてあるが、実は某書家の筆に成る物ではないか。小生は碑のほか、更にこのことあるをしばしば暗示した。今日、改造碑を見るの序をもって「仲麿堂」を見るに、「仲麿堂」木彫額は、依然として旧体のままである。ここにおいて小生は氏の良心の有無を疑わざるを得ないのである。

 氏が書に対する不明は、今その顕著なる物を求めていえば、彼の畢生ひっせいになるところの『大正名器鑑』の表紙である。『大正名器鑑』は彼の畢生の大事業であって大著述であった。その内容は大正年間尚存するところの茶事に係る名器を蒐めたものである。その名器はいうまでもなく、美術的名器のみをもって充たされたものである。しかして、この本の価格も今日古本といえども七八百円の市価をよぶところの豪華なものである。しかるに、かくの如き美術書である『大正名器鑑』に題する表紙の書である。それは坊間ざらに見る、僅かに数銭を投げうてば、たちどころに揮毫するところの版下書きの書ではないか。これが美術価値に乏しきはいうまでもないことで、すこぶる愧体を極むるところの書である。

 もしれ高橋氏にして、多少でも書道に造詣があり、書を審美的に鑑賞し得る具眼の士であるならば、こんな失態はなかったはずであろう。前後十年の苦心の末、彼生涯の茶道感をひっさげ、彼の栄誉を一挙にかち得んとした『大正名器鑑』ではないか。この大著成るに及んで、最後の大切な表紙の題書を坊間の版下書きの書をもって満足するとはなにごとである。『大正名器鑑』を手にするとき、一番にこの本を傷つくる者は、表紙の拙い書である。かく高橋氏の書道観は盲目であるのである。

 この際、高橋氏は書に対して無精心であるといいたいことであるが、事と次第によっては巨金を投じて代筆せしむることもあるのであるから、必ずしも無精心とはいい難い。それが即今茶道の識者であり、権威なるかの如く、その日常を粧うところの茶老箒庵氏であるがために、この書道の盲目は等閑に付し難いのである。古来茶道において、書は最も大切なものとされ、それが証拠として、数次の大茶人は書道においても、いずれが達人ならざるといいたいのである。

 今高橋氏の真の書を見るに、小林一三氏に与えられた「弦月庵」の書の如き、決して能書とはいい難いが、彼もさるものとはいうべき程度にして、やや茶人らしい決して恥ずかしからぬ書になっているのである。私をしていわしむれば、一旦筆を持てば、この程度に書ける者である氏がなにを苦しんで、巨礼をおしまず、ひそかに自己の代書を敢えてせしむるかを不思議とせざるを得ないのである。また、『名器鑑』のような大著の上になんとしても考えもなく低級な版下書きの書を用いしや。不思議に堪えないのである。しかして、この不思議は結局高橋氏の書道盲目に因を運ぶの外いたし方ないのである。ここに高橋氏の千慮の一失が生まれたのであろう。

 私は高橋氏が決心するところあって改刻した今回の改造碑については書に対する自己の技能の巧拙を全く度外視し、正純なる態度を以て書かるべきであったことを思い、遺憾に堪えないものがある。

(昭和七年)


改刻れる高橋氏の碑文


 神齢山護国寺は皇城の乾位を占めて新義真言宗の道場たり。予曩に前室の物故に遭ひて墓域を此地に定む。其後護国寺維持財団の設定せらるゝや選はれて理事長となる。乃ち宿縁の浅からざるを思ひ南都附近著名の石燈二十基を模造し之を観音堂の東南に駢地して記念を他日に留めんとす。惟ふに石燈は久きに耐へて色を増し除闇能く真言の教理と符号し且その上代名匠の典型は観音をして自ら矜式する所あらしむに足る。是れ予の敢て此挙ある所以なり。因て碑を建て事由を録して後人に告ぐ。

国まもる寺のゆくすゑ照さなむ万代ふへきこれのともし火
大正十一年歳次壬戌十一日
箒庵 高橋義雄撰并書

底本:「魯山人書論」中公文庫、中央公論新社

   1996(平成8)年918日初版発行

   2007(平成19)年925日3刷発行

底本の親本:「魯山人書論」五月書房

   1980(昭和55)年5

入力:門田裕志

校正:木下聡

2019年730日作成

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