鑑賞力なくして習字する勿れ
北大路魯山人
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芸術の中でも、絵画は努力次第で一寸楽しめる境地までは漕ぎつけることが出来るものであるが、書道となるとなかなかに至難である。現代人が書と漢字を等閑に付しているのは、要するにわからないからである。しからば、志の徒はいかにして書き練達するかというに、それは神韻ある古法帖に学ぶより外ない。いわゆる習字の先生という人々の指導を受けても、なんらの収穫にはならない。結果は児戯に等しい。由来、職分の書家には名筆が一人として出ていない。
さて、法帖で習字することであるが、ただその形だけを真似たのでは書家の書に堕するまでである。吾人が力説するところの鑑賞力がなくてはならない。字に表現されている本当のものを掴まなくてはならない。すなわち、その天分、その個性が、はっきりと読めなくてはならない。墨汁一滴にでも、その個性が現われているものである。
例えば、筆を以て一個の円を描くとする。その円形がいかに巧妙にまん丸く描かれてあっても、内容が伴わねば芸術上無価値な、生命の空虚なものである。よしや形が歪であっても、その人格が如実に出ていれば、上乗の円窓といわねばならない。円窓の本義は正歪に拠らない、その人であり、その力である。よく墨蹟にある大徳の円相を見ると、いびつは歪そのままながら、円心顕著である。静寂な心境から出発しているから、その風俗が十方無碍に出ているのである。
さて、これを鑑別の方面から論ずると、書道の達識家であるならば、一円相は素より、その円周の一寸乃至五、六分を截り離して見ても、善悪巧拙は釈然たる次第である。それはわずかな断面にでも表現されている内容的な筆力、墨色の滋潤、動かすことの出来ない事実の存在である。即、個性だ。即、人だ。
卑近な例ではあるが、昔時の易者が手法の一であった墨色判断も、これを創始した人物は、おそらく書道観に徹していたものに違いないと思う。墨気、筆勢に人を見る鑑識家であるならば、円相の一断面と同じく判断の正確を得る心理を有するものである。
かつて高島門下の児玉呑象という卜者が、同門の五、六人と共に吾人の門を叩いたことがある。雑談の後に、ほんの座興ではあるが、
「試みに諸氏は毛筆で署名してみませんか」
といって、先ず第一に呑象君が認めた書を見て端的にいった。
「あなたには確固不抜の信念がない。器用を以て易を占っていませんかね。これで毛頭間違っていれば、それは神のせいだという確信の上での易ならば、必ずわかるものだと思う。易経の大原理は妙法の悟りであるから、神明に通じて当るものだ」
と、一々文字の画に従ってその理を指摘したところが、言下に肯定して、
「全く其の通り」
と、承服したことがある。戯談半分ではあるが、すなわち易者にむかって墨色判断を試みた次第である。
これは墨色判断ではなくて、真個の書道の上からである。筆者がもし虚偽で書けば、そのまま字の上に現われ、似せて書けば鋳型によって流れ出ずる活字と同じく、なんら生命なきものになる。そこには毫釐の仮借もなきものである。
至純な、正直なということは、恐ろしいことで、何者にも打ち勝つものである。旨く書こう、なるべく上手にと技巧に囚われている書家の字に価値のないのは、内容のない浅慮の振舞として、衒気、匠気を出すからである。そこへ行くと、一般人には等閑になっているが、古い一流どころの茶人には高僧の如く感心させられる。字が下手なら下手で、先ず正直に自分というものを書いている。よく見せねばならないという嫌味がない。よしや、些少はあっても、作意が俗を超えているから実に立派だ。利休、少庵、宗旦にしろ、遠州、宗和にしろ、書の神髄に徹しているところがある。禅では円鑑国師(春屋宗園)あたりが最も嘆賞すべきである。これ全く茶道精神の功徳である。
要するに純真の力というものの前には、対抗する何者もないことを憶い起こすべきである。
底本:「魯山人書論」中公文庫、中央公論新社
1996(平成8)年9月18日初版発行
2007(平成19)年9月25日3刷発行
底本の親本:「魯山人書論」五月書房
1980(昭和55)年5月
※表題は底本では、「鑑賞力なくして習字する勿れ」となっています。
入力:門田裕志
校正:木下聡
2019年11月24日作成
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