金歯
小川未明
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「絵を描きたくたって、絵の具がないんだからな。」
あまり欠乏しているのが、なんだか自分ながら、滑稽に感じたので、令二は笑いました。
「いくらあったら、その絵の具が買えます。」
「さあ、ホワイトはなかった、それにグリーンもないと、まあ三円はいりますね。」
「もし、それくらいでいいのなら、私が、どうかして、こしらえてあげますよ。」
母親は、年のせいか、日の光が恋しいので、縁側の方に、小さな背中を向けて、答えました。
「なに、いますぐ描かなくたっていいんです。」
令二は、気の弱い母をいじめて、すまなかったと、淋しい気がしました。
そばで、一心にセーターを編んでいた、姉のさき子は、
「そんなこと口に出さなければ、いいじゃないか。」と、弟を上目でにらみました。
「描きたいから、描きたいといったのだ。」
こんどは弟が、口をとがらして姉をにらんだ。
「なんだ、そのかばのような顔は?」
「なんだ、乾しいわしのような目をして。」
二人が、言い争うと、母は、
「もう、けんかはよしておくれ、明日にでもお金をこしらえてきて絵の具を買ってあげますから。」といいました。
「お母さん、令二にそんなお金をおやりなさるなら、私にも毛糸を買ってちょうだいよ。」
「おまえたちは、お母さんに、どうしてそんなお金があると思えるの。」
「お母さん、僕はいりませんよ。なに、デッサンさえ、やっていれば、金なんか、かかりませんから。」
「私、とれた金歯を売ってこようかと思っているのです。新聞の広告を見ると、金ならなんでも高く買うと書いてありますから。」
これを聞くと、二人は、さすがにひどく打たれたように顔を見合ったが、さき子は、そのまま下を向いて、編み物の棒を動かしていました。独り、令二が、
「お母さん、そんなことをせんで、歯医者へいって、とれたのをつけてもらっていらっしゃいよ。」といいました。
「いえ、私は、このあいだから、そう思っていたのです。それに、あれのないほうがかえって、ものが食べいいのですよ。ただ売ることなどしつけないのに、どんな店がいいだろうか、正直なところへいきたいと思っていたのです。そして、あれを売ったら、なにかおまえたちの喜びそうなものを買ってあげようと、独りで楽しみにしていました。」
このごろは、まったく砂漠のように、灰色にしか目に映らない家の中にも、小さいながらさんらんとした、金の塊が、隠されているということは、令二にとって、不思議というよりか、むしろ、人生には、つねにこうした矛盾があって、楽しいのだという感じのほうを強からしめたのであるが、これが母の大事な歯であるだけに、あまり朗らかな気持ちにはなれなかったのです。
「歯のないのが、かえってかみいいなんて、そういうことはありませんよ。」
母の道理に合わない言葉を、令二は、指摘しました。
「いえ、おかしな話だが、あまり金をば惜しげなく使っているので、重くて大きすぎるのです。」
「どうして、またそんなにたくさん金を使ったのだろうな。」
「まだ、金の値が上がらなかったときで、それに造った歯医者が、学校を出たばかりで細工がうまくなかったのですね。」
「そんなことが、いまの私の家のしあわせになるんですかねえ。」
「しあわせって、なんだ?」
このとき、姉は、また弟をにらみました。しかし、令二は相手にしなかった。
「お母さんは、長い間、そんなものを入れて、不自由を我慢していたんですか。」
「歯を入れた、はじめのうちは、みんなこうしたもので、なれれば具合がよくなると思っていたのです。そのうちに、不自由になれてしまって、つい不自由ということがわからなくなったのです。こんど、とれてから、はじめて、堅いものでもほかの歯でかめるので、入れ歯の不できであったことがわかったのでした。」
「じゃ、なければないで、自然がいちばんいいということになりますね。それなら、その金歯を売っちまいましょう。」と、令二は、いいました。
「ばか、おまえは、お母さんから、そのお金をもらう気なの?」と、姉は、弟の方へ体をゆすりました。
「ああ、くださればもらうよ。」
「さっき、デッサンだけでいいといったじゃないか。」
「たまには、色のついている風景も描きたいんだ。」
「おまえの絵が、なにになるというのだ。」
「そういう姉さんはなにになるのか?」
「私は、さっさと街へ出て働くわよ。そして、おまえの絵は、お金になるの。」
「美しいということが、わからない人間ではしかたがないのだ。」
母親は、子供たちの話をば、じっとして、よく聞いているとも、また、よく聞いていないとも、どちらにもとられそうなようすで、だまっていました。
「ねえ、お母さん、なぜ令二を芸術家なんかにしたんです?」
せいた調子で、さき子は、おびやかすように、問いかけると、母は、
「その責任なら、死なれたお父さんにあるのだよ、家のことは、なんでもお父さんの意見できめたのだからね。ある日、お湯屋で、三助が、青い顔の坊ちゃんだが、どこかわるくはないんですか、子供のうちは、勉強などよりも体がいちばん大事ですぜといった、言葉にたいそう感心なさって、学校をやめさせてしまいなされたのだよ。」
「お父さんの罪だわ。」と、さき子がいいました。
「お父さんの悪口なんかいったら、僕は、承知しない。もし、学校へいって、試験勉強ばかりしていたら、僕は、ほんとうの自然というものを、永久にわからずにしまったろうな。」
「ふん、おまえは、わかっているのか?」
「わからなくて、絵が描けるか。」
さき子は、たちまち、しんみりとした調子になって、
「令ちゃんは、これから先、どうして食っていくつもり。」と、ききました。
「絵を描いてさ、それよりほかに道がないだろう。」
令二は、さびしい笑いを顔に浮かべた。そして、なにか、遠くのものを考えるような、目つきをしました。
「令ちゃん、芸術家で、食っていかれる?」
「人をばかにするな。」
「心配だから、聞くんだわ。」
令二は、怒った感情をあらわすときは、いつも、口をとがらすのでした。
「人間が、まったく美を愛しなくなったら、その国は滅びてしまうだろう。人間に美を愛する本能がなかったら、芸術というものは、はじめから存在しないのだから。」
このとき、母親は立って、たんすの小ひきだしから、紙に包んでしまっておいた、金歯を持ってきました。
「これは、金の無垢だよ。これを見て思い出したが、お父さんが、夜おそく帰ってらしって、歯医者の家の前をお通りになると、往来に面した窓に、あかりがついていて、コツ、コツと金づちをつかっている、小さな音がきこえたので、おまえの歯は、明日はいるそうだが、いま造っているのが、それだなと、音を聞きながら、歩いてきたとおっしゃったのを覚えている。ちょうど秋の末のことで、翌朝、歯医者へいくとき、寺の前を通って、黄色な、いちょうの落ち葉がたくさん敷石の上にたまっているのを見ました。」
さき子と令二は、母の話よりは、金歯のほうに多く気を取られていたらしかったのです。
「なるほど、重みがありますね、これは、一匁以下ということはありません。」
「いくらになるでしょう。」と、さき子もこれを掌の上に載せて、心のうちで重さをはかりながら、そんなことを思っていたが、また、これが、ある時代のお母さんの歯であったかと、おのずと涙が目の中にわいてきました。
「お母さん、これをお売りになったら、いいげたをお買いなさるといいわ。」
「いいえ、私は、いま、べつになにも欲しくないけれど。」
「お母さん、新聞に出ている相場は、純金をばいうのでしょう、それでなくとも、持っていけば、きっと安いことをいいますよ。」と、令二が、いいました。
「まあ、そんなことだろうね。」
さき子は、慨然として、
「ああ、お母さんは気の毒だ。私、早く口を見つけて働くわ。令二には、ちっともそんな気がないのだから、にくらしい!」
「そんなことをいうもんじゃありません。令二だって、考えていますよ。」
「おまえ、考えているのか?」
「僕は、絵かきだから、美しい絵を描くことしか考えていない。それが、いちばん正しく、また生きる道だと思っている。それよりほかのことは僕にはわからない。」
「ああ、どうしたら、そんなことがいえるだろう。私もそんな美しい夢が欲しいわ。お米がなくなってもかまわない、自分かってな気持ちになりたいものだ。」
日が傾くと、外よりは、家の内から、だんだん肌寒くなりました。母親とさき子は、いつしか茶の間を去って、夕飯の支度にかかり、令二だけが、まだ縁側に残っていました。
「令ちゃん、お母さんに心配かけちゃ、だめよ、すこし感心なさるようにしてあげなくちゃ。」
「姉さんは僕の顔を見ると、すぐいじめるのだな。僕にだって、すこしは認めてくれていい素質があるのだぜ。」
「このあいだ、東京駅へ叔母さんを見送りにいったとき、どうしたの? 聡さんがあいさつなさるのに、帽子も脱らずに頭を下げたって、お母さんは、顔を赤くしたと、おっしゃってよ。」
「ちょっと、だれだかわからなかったのだ。」
「あまり、非常識だわ。従兄の顔を忘れるなんて、まぬけだわ。」
「セパードみたいな顔つきをしているので、だれかと思ったのさ。」
「聡さんは、来年から大学で、秀才という話じゃないの。」
「学校へいって、あんまり機械的に訓練されると、人間もセパードみたいな顔つきになるものかしらん。」
「そんなことばかりしか、考えていないのでしょう。お母さんは、どんな学校でもいいから、骨のおれないところへ、おまえを入れておけばよかったとおっしゃっていらしたわ。しかし、令ちゃんは、詩人よ。詩人は、書物からでなく、自然から学ぶという話よ」
「僕、今度かいている絵は、なかなかいいぜ。」
「そう。」
「原色だけを使って描いてみたが、純粋で、明るい、好きな感じが出せた。」
「令ちゃんは、いったい、単純なものが好きね。」
「ああ、なんでも単純に限る。単純で、素朴なものは、清らかだ。ちょうど、文明人より、原始人のほうが、誠実で、感覚的で、能動的で、より人間らしいのと同じだ。近世になってから、人間は堕落した。だんだんほんとうの美というものがわからなくなった。そこへいくと、まだ自然界は、原始時代からのままだ。木にしろ、草にしろ、鳥にしろ、虫にしろ、本質を変えていない。正直で、明朗だ。あの澄みきった子供の目のようなものさ。」
二階のガラス戸から、あさぎ色の空が、遠い記憶のようにのぞいていました。晩秋の日の光が、桜のこずえに残った、わずかばかりの葉を透して、花よりもきれいに見せています。
子供が、青竹を切って、造った管笛を吹くように、ピイ、ピイ、鳥がなくので、広い、隣の庭先を見下ろすと、ひよどりが、青木の枝にきて赤い実を争っているのでした。
さき子と、令二は、窓から、頭を出してこれをながめていました。
「思いがけない、いいものを見つけたといって喜んでいるのよ。」
「ほんとうかな。」
「この赤い実を食べてもいいのかといって、聞いているんだわ。」
「そうかしらん。」
「お天気がいいので、へぼ絵かきが、こっちを見て笑っているといっているのだわ。」
「ああ、そうだ、それと並んで、乾しいわしのようなヒステリーの女がといって……。」
令二は、姉の頭の髪をつかみました。
「お母さん、きてくださあい。」という、さけび声がしたのであります。
「ねえ、お母さんは、令ちゃんをどうお思いなさるの。」
「なぜ、また、そんなことを聞くのかい。」
「昨日のことよ、どこかの人が、たいへん精巧な空気銃を提げて歩いていたのですって。そして、片手にたくさん打ったすずめもぶらさげて。そこへ令ちゃんが通りかかると、ちょうど、高い木のこずえに、すずめが二、三羽止まってないているのを、その男の人が見つけて、すぐにねらったのですって。そのとき、令ちゃんはどうかして、あのすずめが助けられないものかと思ったから、暗くなって、盲目の鳥を打つのは、だれだってできるなと、そばの子供たちに向かって、大きな声で、いったそうです。すると、その男は、ねらいを中止して、そんなら君打てるかといって、令ちゃんをにらんだそうよ。」
母親は、この話に、深い興味を覚えたらしく、笑って、
「それから、どうしたでしょう。」といいました。
「僕は殺生はきらいだ。もし、おじさんが、ほんとうに名人なら、このおかめどんぐりを打ってお見せよ。そうしたら、僕は、敬服するがなあといって、令ちゃんは、一人の子供が手に持っているどんぐりを一つもらって、道の遠くへ置いてきたのですって。」
「まあ、そうして……。」
「すると、その男の人は、どんぐりをねらって、うまく当てたのですって、どんぐりが破れて弾丸が、石にあたって、火が出たそうよ。みんなが、びっくりして声を上げているうちに、すずめは、どこかへいってしまって、令ちゃんの思うとおりになったというのよ。こんな話をきくと、ただばからしいとだけは思えないわ。」
母親は、火鉢によりかかるようにして、娘の顔を見ました。
「そういうふうに、おまえがあの子を半分疑ってみるのも道理だけれど、ばかというものじゃない、ただ異っているだけだ。あの子には、学問、学問といわぬほうがいいよ。どちらかといえば、私は、学問より人情のあるほうを取りますからね。先だってであったか、令二が、お母さんには、空へ突き出ている木の枝が、金色には見えませんか。僕は、このごろの風景が、みんな光って見えますがねというから、それは、おまえが、お母さんの金歯を売ったお金で、絵の具を買ったからでしょうというと、お母さんは、さすがに偉いな、よく僕の心の底の見えないところまでわかっている。こんど描いている絵は、傑作と思いますから、もし評判にでもなって、いい値で売れたときには、なんでもお母さんのお好きなものを買ってあげますよというのです。私はなにもほしいとは思わないが、ただおまえの絵が、世の中に認められれば、それで満足です、なによりもそれがうれしいといったのですよ。」と、母親は、笑いました。
「だって、お母さんは、よく、私みたいな不幸なものはない、芝居なんか、もう何年見たことがないと、おっしゃるじゃありませんか?」と、さき子はいいました。
「つい愚痴をいってしまって、後から、すまないと気がつくのです。私なんかは、どうでも、これから世の中へ出かけなければならぬ、おまえたちのことを考えると、そんな、もったいないことはいえないのですからね。」
「お母さん、私が、働いてお金が取れるようになったら、きっと、お母さんのすきな、お芝居を見せてあげますわ。」
「ほんとうに、芝居なんか、見たくありません。おまえも、令二も、そうやさしくいってくれます。それだけで、私は、もう、幸福なんです。」
母親は、娘がそれを見て、心でお母さんの癖がはじまったと思っているのも知らずに、火ばしの先で、火鉢の灰の上に、点々をつけていました。
このとき、思い出したように、木枯らしが、叫びを静かな空に上げました。それは、忘れていた令二を、二人の胸の中に、呼びもどしたのでした。
「令ちゃんは、おそいが、どうしたんでしょう。」と、さき子が、いいました。
「今日は、たぶん描き上げるだろうから、おそくなるかもしれないといっていました。」と、母親は、答えたが、鋭いあらしの音に、耳を澄ましていたようです。
そのうちに、くぐり門の戸が開くと、ぼろぐつを、玄関口の敷石に突っかけるようにして、引きずりながら、勝手の方へまわった音がしました。
「あ、帰ってきた。」
そういった、母の言葉の調子には、一種の安堵があらわれていました。さき子は、立って、木枯らしの中を歩いてきた弟を出迎えました。
「外は、寒かったでしょう。」
「なんだか、ものすごい空になってきた。」
「令二、絵は描き上がりましたか。」と、母親が、ききました。
「やっと描き上げました。」
「そう、見せてくれない?」と、姉は、両手を差し出して、弟の手から、二枚重ね合わせたカンバスを受け取ろうとした。
「いや、見てはいけない!」
令二は、強く拒否しました。
「私たちにも、よくできているか、そうでないかくらいはわかりますよ。だれに見せようと思って、一所懸命描いたの。見せるための絵なら、真心をもって、見てわからぬはずはありません。おまえのことをいちばん真剣に考えているのが、私とさき子でないか。」と、母親がいいました。
「そうよ、お母さんの金歯まで売って……。」と、姉がいいかけたのを、令二は、怖ろしい顔をして、威嚇しながら、
「だまっておいでよ。」と、押さえつけて、母の方に顔を向けると、訴えるように、
「ねえ、お母さん、僕は、とにかく、新しい色を発見したんです。それがどれほどの貴い性質のものか、いまは自分にもわからないし、あるいは、僕がこの色を出すために生まれてきたような気もするので、すぐに、いいとか、わるいとかきめてしまうことが怖ろしいんです。」
「H先生にも、見せないつもり?」と、さき子がききました。
「三月までは、僕も見ないから。」
「お母さんは、おまえのいうことを、正直に信じて、楽しみにして待っていますよ。」と、母親がいいました。
「毎夜、一人の女を殺した、暴虐なペルシアの王さまに、おもしろい話をしてきかせて、千夜一夜の間、地獄から人命を救ったという、美しい娘の芸術で、将来僕の絵がありたいものだな。」
令二は、つぶやいて、なにか、深く考え込んでいました。
底本:「定本小川未明童話全集 11」講談社
1977(昭和52)年9月10日
1983(昭和58)年1月19日第5刷
底本の親本:「未明童話 お話の木」竹村書房
1938(昭和13)年4月
初出:「文芸」
1935(昭和10)年3月
※表題は底本では、「金歯」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2016年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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