料理は道理を料るもの
北大路魯山人



 日本料理の革新を叫んで星岡を始めたころ、私が板場へ降りて仕事をしだすと、料理材料のゴミが三分の一しか出ないと、ある料理人から言われた。料理材料の不用分を私が処理すると、捨てるところが減少してしまうからである。私は今でもそれを誇りにしてよいと思っている。ある時、板場へ降りて行ってみると、ふろ吹き大根をつくるというので、勇敢に大根の皮をいている。皮だから捨ててしまえばそれまで、糠味噌へ入れれば漬けものになるし、そのほか、工夫次第でなんにでも重宝に使える。

 こんなことを廃物利用と人は呼んでいるが、大根の皮の部分というものは、元来、廃物ではない。廃物だと言うのは、料理知らずのたわごとである。皮の部分にこそ、大根の特別な味もあり栄養もある。だから、元々、皮を剥いて料理すべきものではない。皮を剥く場合は、お客料理としての体裁か、また、大根が古くて皮が無価値になっている場合とかにかぎるのである。そこのところが分らない料理人は、なんでも皮を剥いてしまう。私は鎌倉で、大根を食う場合は、いつでも畑から抜きたてのものを用いる。もちろん、そういう新鮮な大根は、皮などもったいなくて剥けるものではない。

 その道理の分らない無教養な料理人は、鎌倉で抜きたての大根をあてがっても、皮を剥いてしまう。食う相手が私である場合には、そんなもったいないことをしてはいけないと言って、いつも教えてやるのだが、もちろん、相手にもよる。半可通のお客が来ていれば、そのお客に合わして皮を剥くのも、ときには必要となろう。だが、大根の皮は、貴重なものであるということを、初めから呑み込んでいるのでなければ、ほんとうの料理人とは言えない。料理の憲法を学ばない輩は困ったものだ。単に大根にかぎらない。例えば、わさびの軸である。あれをみな捨てているが、わさびの軸の色は青々として清々しく、シャキシャキして歯当りの感触もよし、味もちょっと辛くて、使いようによっては、皮肉にもまたよいものである。箸洗いなどに配してもシャキシャキして活きる。他の何物をもってしても、わさびの軸に優るものはざらにない。

 私がこういう話をしだすと、至らない若者の中には、ケチで言うかのように考えるものもあるが、ケチであるかないかはほかのことを見れば分る。私がそうせずにおられないのは、料理し得るものを料理しないということは、料理人として冥利がつき、権威にもかかわると思うからだ。

 料理材料というものが何万何千あるか知らないが、ひとつとして、それ独自の持ち味を有しないものはない。どんなものにも、ほかのものでは代用し得ない持ち味があるものだ。天がつくり地がつくった自然の力がものを言っているからである。料理が材料の持ち味を活かすことにあるとすれば、利用し得るものすべてを利用してこそ、初めて料理という名に価し、料理人たるの資格があると言い得る。それこそ料理の心と言うものである。

(昭和十年)

底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社

   1980(昭和55)年410日初版発行

   1995(平成7)年618日改版発行

   2008(平成20)年515日改版14刷発行

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2013年75日作成

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