料理の妙味
北大路魯山人
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美味い料理をしようと思ったら、その根本は食品材料を生かせばよい、それだけのことである。材料を生かすということは、死んださかなを再び水に泳がすというふうな、そんな無理なことを言うのではない。くだいて言えば、「美味いものは宵に食え」と言う、これを実行すればよいのである。せっかく宵に食えば美味いものを、そうしないで、翌日に残して味を殺す。これが料理法の根本義に背くものだと知ればよいのである。牛肉など新しいのはかたくていけないが、これなど例外で、大体は新鮮が美味いと決っている。たいの刺身のように獲りたてもよし、一日ぐらい手当したのもよし、というようなものもあるが、小魚に至っては、なんとしても水切りに近いものをよしとする。蔬菜はなおさらのことであると知らねばならぬ。
土を離れて時の経つにつれ、味がよくなるなどという蔬菜は、まずあるまい。これだけ知っても、美味い料理はできるはずである。
次に心得べきことは、すべてのものはみな各自独特の味、持ち前の味をもっている。これを生かすということである。少なくとも、これを損じてはいけない。われわれが日常食う魚類は大体決っているようであるが、それでも一年を通じて数えたら、何百何千と多種類に上るであろう。山から、畑から採る蔬菜の種類も魚類に劣らぬ数であろう。この何百種類のものは、ひとつひとつに異なった特有の持ち味を身につけて生まれているのである。この特有の持ち味に着眼することが肝心なのである。そうして、これを失わないよう心づかいをするのが料理人の根本精神であらねばならぬ。
なぜと言って、その特有の持ち味は、人為人工のつくり得るような生やさしい味ではないからである。塩、醤油、酒、味醂、砂糖、味の素、かつおぶし、昆布、煮干しなどは、味付料としていずれもよき味の持ち主ではあるが、これはどこまでも補助材料であって、これらの味付けでなにかを美味く食うものと考えてはまちがいである。調味料は以上列記したものを数えてみても、十種にはならないかぎられた少数である。ところが山海の幾千、幾百種の食物は、そのひとつひとつが特有の味を持ち、しかも、それは人為人工の企て及ばぬ特色を有しているのである。この特色ある天然の持ち味を軽視して、濫りに人為を施し、味のカクテルをつくって得たりとするがごときは、けだし、自然の味を冒涜するものであるとせねばならぬ。
補助味も、塩だけがよいものは塩だけ、酒だけがよいものは酒だけ、かつおぶしだけがよいとするものはかつおぶしだけ、昆布だけがよいものは昆布だけというふうに、調味を知って考えをくださねばならぬ。もちろん、甲と乙と、あるいは甲と乙と丙を合体して補助する場合もある。しかし、要は補助味を賞味するのではなく、本体のさかな、鳥、蔬菜を、その持ち味で賞味させるのが目的であるのだから、それに適合する補助味でなくてはならないのである。この呼吸を飲み込むには、相当な経験というものがなくてはならないから、一朝一夕というわけにはいかないが、不断の注意力により、いつとはなしに肯かれるものである。これが肯かれて来るようでなくては、料理は面倒が先に立って、進み難いのである。
ものさえ分って来ると、おのずから、趣味は出来て来るものである。趣味が出来て来ると、面白くなって来る。面白くなって来ると、否応なしに手も足も軽く動くものである。頭のエンジンまで軽快に働きかけて、頓智頓才も続発し、独創の料理が自然と生まれて来るものである。合理合法に拠る独創には魅力が伴うものである。魅力あるものに非ざれば、作品の躍動しないことも決っていることである。躍動の作品、それは魅力と握手し合体した作品である。
料理屋の料理の巧緻を、無条件に是として真似んとするお体裁料理は、真の料理の極意を識ってのことであるとは、なんとしても言えないのである。
底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日初版発行
1995(平成7)年6月18日改版発行
2008(平成20)年5月15日改版14刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年5月14日作成
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