料理の秘訣
北大路魯山人
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美味い料理を拵える秘訣──
美味いものを食う秘訣──
この秘訣を知ることが一番大事なことだ。その秘訣というのは、言ってしまえば手品の種といっしょで、別段なんでもないことだ。つまり、なあんだと言うようなもんだが、それはたびたび申すように、よい材料を用いること、選ぶことだ。大方の人は、大概そんなことだろうと思ってた、と言うだろう。しかし、何事も早合点は軽薄とかあわてものというものだ。まず落ちついて教育することを考えて欲しいと言いたい。
料理の材料が悪くては一人前の美味い料理とはならない。骨ばかり折れて世話甲斐のない結果しか残らない。労して功なしである。
ところで、料理の不味い理由は、大概料理人の材料を選択する際の不明、不注意からくる。選択の道を誤っているか、もしくは良否の判別が出来得ない未熟からだ。
よい材料を得ても、生かして用い得ず、わざわざ本質を殺してしまっているものもある。これはまた賢児を得ながら、教育し善導する道を知らないのと同じである。
みなさんは、いつの場合でも料理の補助味、すなわち、かつおぶしの良否を眼で見て判るだろうか。だし昆布の鑑別ができるだろうか。なんのかのと料理を語る人はあっても、大概この第一歩の答えすら自信を有する者は稀なようだ。
味噌の良否、醤油の良否と種類別、酢のよしあしと色別、香り別、油、塩、砂糖、日頃こういうものを吟味してかかっているか。
こんな話は面白くないなあ、と言うのでは、料理の向上を心掛けることは無理だッ──と私は突放す。
知人の多くは、私に高級料理についてよく聞くけれど、その人々は、まずかつおぶしが薄くきれいに削れる鉋を持たない。持ってはいても、削り方を知らずにやっている。醤油、酢、油など、料理の上に重要な役目をするものにきびしく注意を払っていない。みな出鱈目だ。昆布だしの取り方はもちろん、煮だしの取り方を知らない。だから、用いる分量なども当てずっ法だ。これで料理経済を語るなどは噴飯ものである。
毎朝の味噌汁の拵え方まで、年中、無茶苦茶をやってそれでなんとも思っていない。
そのくせ、からすみは長崎にかぎるの、このわたはどうだのと、臆面もなしに生意気を言う。こんな軽薄な輩では、男にせよ女にせよ、料理の向上なんぞ願っても叶えられない。
元来「料理」とは、理を料るということなのだ。「ものの道理を料る」意であって、割烹を指すのではない。
日本料理屋、西洋料理屋というふうに食物屋と呼ぶけれど、意味をなしていない。料理という字は、割烹のように、煮るとか割くとかいう意味を含んではいない。「料理」すなわち、理を料る、理を考えるのは、とりも直さず、割烹の内容を指すのであろう。料理は国を料理するでもいい、人間を料理するでもいい。だから、割烹店の場合は、さかなを料理する、蔬菜を料理するの意が当てはまる。
要するに、美味いものを拵えることは、調節塩梅に合理が要る。合理的でなければならぬ一手がぜひ入用だ。
こう言うと、大分話がしち面倒になってくるが、実際、料理を美味くすることは、台所に立つ者に趣味がなかったら面倒極まりないことであろう。とにかく、ものの道理から離れることは許されない。浅草のり一枚焼くにしたって、かき餅一枚焼くにしたって、以上の心が欠けていては満足なことはできない。つまり、馬鹿には不向きだ。そのかわり一途に勉めさえすれば、馬鹿でも利口になる。ただし馬鹿のひとつ覚えだ。いや、なにからなにまでと言っておこう。
料理について、まあ、色々と文句は言うけれど、合理合法の第一着手としては、よき材料を得ることだ。魚介、野菜、鳥獣肉、なんであろうと、良材を要する。よい材料と言うと直ぐに高価に違いないと連想されるだろうが、そうとばかりはかぎらない。豆腐一丁は、どの売子から買っても同じ値だ。上手な豆腐屋の豆腐を買った方が美味いだけ得だ。味噌、醤油、酢、おしなべて大した値違いはない。こんな日用のお惣菜でも目の利く、味の分る者は同値でいて、美味いものを食う。塩じゃけひと切れでも、大根一本でも、質のよしあしを知るものは、同じ金でもって美食する。また、ぜいたくで値段の少々高いくらいは、前もって承知の食道楽者にとっては、なおさらのこと、材料の選択が第一課だ。たい一尾買うとして、いかなるたいを買うか、たいそのものが質が悪くては、美味いたい料理ができないのは言うまでもない。ラジオでは、よく「白身ならなんでもよろしい」などと平気で言うが、これは恥しらずの言うことであると思うべきであろう。
また素人は一貫目もあるたいを見ると、大きさに感心して美味いだろうと考えるが、こんな大きなたいは見掛け倒しで、いずれにしても美味いわけにはいかない。また魚市場で生かしてあるたいは、素人目をよろこばせて、生きているよりよいたいはないように思いはするが、必ずしもそうではない。俗に「野じめ」と言って、沖でひと思いに殺し、うまく保存して来た上等のたいのほうが、死んでこそおれ、はるかに生だいより美味い場合が多い。生きているたいは、河岸に上げられるまでに、船底の槽で苦しめられ、河岸に上げられてからは、人造海水で無理矢理小さな溜めの中に生かされる。そのため、たいの味の中の一番大切な脂肪は逃げて、たいは水ぶくれとなり、見た目を偽って、不味いたいとなり終ってしまう。
しかし、中には例外として、上々吉美味い場合もある。一概に考えるものではないが、まあまあそんなもんだとして、生きているからって、一途にとびつくのは考えものなのである。季節で言うと、たいは、三、四、五月くらいがいい。私は五月頃、朝鮮に旅行して、木浦から馬山まで相当長い距離を、海浜に沿って、明石だい以上に美味いたいを、賞味しつづけて歩いたことがある。また、日頃はたいの質の悪い加賀の山代から金沢辺において、平生とは似ても似つかぬ美味いたいを、四、五月頃、何度も賞味したことがある。これは対馬、隠岐辺から来たものらしい。四、五月頃の明石だい(瀬戸内海靹の浦辺で獲れるもの)の質のよいことは論ずるまでもない。大きさで言うと、四百匁、五百匁というところだ。それから上は大味で、美味いもの食いには駄目だ。もっぱら大臣就任祝賀用だ。むしろ、小さいほうに取得がある。たいの背中を指で圧して、グミグミと肉のやわらかいのは、刺身にならない。ゴム毬のように張りのあるものがいい。
痩せたのはよくない。発育の悪い証拠だ。目の色や鱗の色の冴えを失ったのがいけないことは言うまでもない。腹の膨れかえったのにはいろいろのわけがある。卵を貯えて腹の大きいもの、餌を含んでいるもの、空気が入って膨張しているもの。
卵で大きいのはよいけれど、後の二つは注意を要する。たいも、切り身で買うのは面倒はないが、一尾まるごと買い当てるとなると、以上のような鑑定力を要する。
卵が成熟する半月前が美味い。成熟してぼつぼつ卵を海草に生みつけかけたのは、卵袋中で卵と卵との間に空間ができていて、食っても美味くない。白子は雄魚の精液。この白子は、一般には真子ほどによろこばれないが、美味いもの食いは、言い合わしたように白子を美味がる。ふぐの白子などは誰しも天下一品と叫ぶものである。
底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日初版発行
1995(平成7)年6月18日改版発行
2008(平成20)年5月15日改版14刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年5月14日作成
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