道は次第に狭し
北大路魯山人
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先日、ある雑誌記者来訪、「ものを美味く食うにはどうすればいいか」とたずねた。
世の中には、ずいぶん無造作に愚問を発する輩があるものだ。思うにこういうふうなものの聞き方をする連中は、その実、料理など心から聞きたいわけではないに決っている。お役目で人の話を聞こうとするが、もとより真から聞きたいのではない。そこで私は言下に「空腹にするのが一番だ」と答えてみた。その男は、しばし二の句が継げずにいた。
また、これも似たような話であるが、ある時、一流料理人を求めた際、メンタルテストをして、君の好きなものはなにか? と、質問してみた。すると、ただ漠然と「さかなが好きです」と答えた。
専門の一流料理職人が、こういうことでは困る。得てして料理職人にはこんなのが多い。この男は上方の人間だから、さかなというのはたいを指して言ったものだろう。たしかに関西のさかなは美味い。が、表現に教養がなさすぎる。子どもに向かって、「坊やどこへ行くの」と聞くと、「アッチ」と答えるのと同じである。
もちろん、こんなのは落第させてしまったが、こういう男は自分がなにが好きであるかさえ正直に言えないのみならず、実のところ、美食にまるっきり精通していないのである。好きなものが、はっきり言えないのは嘆かわしい。つまり、味覚に対して無神経であるか、もしくは初めから味覚に対して鈍感なのだ。味の分らないものが、味に興味を持っていないのは当然であって、いくら山海の美味を与えてみたところで、仔細には美味いとも不味いとも感じないだろう。こういう輩には腹を空かせば美味いよと、答えるほかはないのである。
ついでだから余計なことを言うが、味が分らないということは名誉でも不名誉でもない。生まれつきであってみれば、鼻が高いとか低いとかいうことと同じ、別に恥ずかしいことでもない。ただ、そういう人は、美味いものをつくろうとか、料理を覚えようとかするには不向きだ、と言うまでである。杖をなくした老人に似て、人並みの楽しみを減じている気の毒な人だ。
ところが、「人飲食せざるは莫し、能く味を知るもの鮮きなり」などと孔子が言っている通り、人と生まれて食わぬ者はひとりもないが、真に味を解し、心の楽しみとする者は少ない。そこで鈍感な者には、腹を減らせばよかろうと、奥の手で得心させる。これなら間違いはない。
だが、そう言ってしまっては話にならぬ。また、味を解する者はないと言っても、まるっきり味が分らぬということは実際にはないのだから、一応は腹を減らせと言ってみるが、そこにはだんだんと道がある。味が分らねば分らないなりに、やはり、好き嫌いがあり、嗜好があり、まるっきり打ち捨てたものでもない。
先日、ラジオで病人料理というものを放送していた。病人料理などというものは、いわゆる薬食いであるから、本来の意味での料理ではない。だが放送に当って、これがたいへん美味いものだから一般の人にも召し上がれる、という自画自賛の言葉が付け加えられていた。
私には異議がある。
この時の料理は、自然薯をゆで、別に枝豆もゆで、これを摺り潰してまぶし、多少の味をつけたものであった。言わば、自然薯のきんとんの外皮を体裁よろしく枝豆で色どったものである。青味が足りなかったら、菜を少し加えてもよい、というようなお愛嬌も加わっていたが、もちろん、どう考えたところで本格的な料理にはなっていない。それを一般の人が召し上がっても美味いと言う。
なんでも某大学の医学部かなにかの先生の放送だったから、美味いと言った人は、そこのお医者さんか栄養士であろう。いずれにしても低級な、若い話だ。それを原稿にして、そのまま放送したのであろうが、かかる連中は、本格的なものの味を知らないことが分る。こんな手合いの美味いと言うのを、そのまま、全世界に向かって放送することは、僭越である。
だがまあそれはともかくとして、一に病人の食事と言うが、病人にも嗜好がある。その要求する食事をどうしたら病人に害にならずに美味く食べさせるか、それが料理というもののねらいどころだ。ところが下手な料理人となると、それを知らずに、どんなものでも自分なりに、こうと決めてかかるから病人によろこばれぬ。この道理は、相手が病人たると健康人たるとを問わない。
およそ誠実と親切心とがあるならば、その人その人の嗜好を考慮に入れて、これを合理的に処理するのでなければならない。よろこんで食べてくれぬ食物は、いかになんでも薬や栄養になるわけがない。例えば相手が幼児か成年か老年か、富者か貧者か、まず過去の生活を知ってかかるべきである。
さて、話を前に戻して、いかに味が分らない人と言っても、まったく分らぬわけではないから、その人なりの嗜好を尊重することが、ものを美味く食わせる第一課である。
ところで、世の中には、自分は味覚の通人である、と自任しながら、その実、なにも分っていない人々がいる。こういう人々は、第一義の誠実と親切心だけでは了解できかねる、いわゆる、半可通に属する連中であって、なにか賢い話を付け加えて押しつけなければ、美味いものも美味いとは言わない。
そこでこれらの手合いには、トリックを用いるのが一番よい。言わば、なんらかの手をもって得心させるのである。例えばここにある種の大根がある。こんな時、正直に名もない大根ですと言わずに、これは尾張の大根です、と言ってすすめる。すると彼は、尾張の大根は美味いという先入観念があるから、これは美味いと自分だけの能書つきで美味く食うのである。というのは、この種の手合いは概していずれもお国自慢であり、自分の知っているものだけが美味いと思っている。つまり、彼らは、どこそこのてんぷらが美味いとか、いずこのうなぎ、何々のすしと、そういうふうに美味いものの言い草をたくさん持っていて、それに合うものは美味く、それに合わないものは不味いとあらかじめ決めている。物知りの物知らずという連中であるが、その中には学者もいれば、料理専門家もいるが、これでは正しい食味評論家とは言えない。そんなわけで、もともと自分の舌で正しく美味不美味を判断するのでもなく、深い経験者でもないから、人の悪い話だが、これにはどうしても、トリックを用いて、食わせるよりほかはない。これもひとつの料理法である。
料理は誠実さと親切さえあれば、と、いくら真面目に行動してみても、半可通の気焔にかかっては、とんと利き目がない。しかし、彼らの腹の底を見抜いてしまえば、なんのことはない。いくらでもよろこばせることができる。
次は味の分る人だ。味の分る人に、どうしたらものを美味く食べさせることができるか。それは少なくとも、自分に相手と同じだけの実力がなければ、不可能と言えよう。
およそ、ものを食べて味が分ると言うことも、絵を鑑賞してその美を礼賛することも、根本は同じことである。
相手以上に自分に味の自信がなければ、美味く食べさせられないのは事実である。絵画の場合も同じだ。すべて自分が尺度である。自分に五の力があれば、五だけの味は表現できるものである。
自分の実力が相手より上であれば、相手の実力が手にとるように分って、おのずと余裕が生まれてくる。絵で言うなら、自分の鑑賞力が高ければ、いかなる名画といえども、自分だけの価値を見出すことができる。しかし、絵が自分の鑑賞力より数等上であれば、その美の全部を味わうことはできない。反対に自分の力がより上であれば、こんどは相手の絵が不足になってあらゆる欠点が発見される。
かくの如く、鑑賞力なり味覚なりは、分る者には分るし、分らぬ者にはどうしても分らない。とは言うものの、先にも述べたように味の全く分らぬ者はまずなかろう。誰しもいくらか分るのであるが、ただ程度が違う。その人の教養によって、ある程度までは味覚を高めることもできるのである。
ふだん、美味いものを食っているからと言って、必ずしも味が分るとは言えない。待合のお内儀さんたち、あるいは三井、岩崎など、日常美味いものを食う機会に恵まれていても、生涯味が分ることもないのは、そのよい例であろう。それは味を身につけていないからである。味を身につけるには、客からのご馳走でなく、板前からの宛てがい扶持でなく、身銭を切って食ってみること。本気でそれを繰り返してこそ、初めて味が身につき、おのずと分って、真から得心がいくのである。
味というものは変なもので、その時々の気持で主観的に動かされ、変ってくる。味はもともとその人にとっては絶対であるべきで、事情で動かされるようでは大した食通ではない。しかし、なかなかそうはいかない。味が素直に判断できるようになるのには、まず多年の経験が必要だ。卑俗であれば、やはり、経済的な観念が伴うのがふつうで、価格が支配することも否めない。
結局、味を覚えることも、美術の鑑賞力を養うのと同じで、その先その先と、ものの深奥を極める努力によって向上するものらしい。
最後に、相手が美食の通であるような人に無理を言われた場合は、その人には自分で自分の料理をつくってみなさいと言うことだ。なにか悟るところがあろう。
富士山には頂上があるが、味や美の道には頂上というようなものはまずあるまい。仮りにあったとしても、それを極めた通人などというものがあり得るかどうか。おそらくはないだろう。
ただ世間で言うところの通人にとっては、その道が広い原を通り抜けて、非常に狭くなっている。それだけに、ある意味では不自由であると言えるが、また微妙なものが分って来て、通人でなければ味わえぬ新発見の味感がある。
しかし、世間には語るに足る相手が稀なために、結局は当人と材料と二者だけの世界に入ってしまう。これを三昧の境地とでも言うのだろう。
ともかく、そこまで行かぬと、人を指導することはできない。いつも言うことであるが、相手をこなすというのは、こっちが上にいるからで、同等なところにいては、相手をこなすことはできない。味の世界で、どんな人の境地をも分っていなければならないからである。道は果てしない。ただただ前進あるのみである。それには不断の努力と精力が要る。敢えて努力と言わぬまでも、不断の精力的注意があってこそ、道は進むのである。
夏場の刺身として、例えばすずきやかれいの洗いがある。私は長いこと、ああいうものについて考えていた。ふつうの料理屋のものは、肉が紙のように薄い。ああ薄く切ってこともなげに洗うから、まるで刺身の命抜きになって、食っても一向に美味くない。これは薄くないと、涼し気にちりちりと行かぬからであるが、あれではエキス抜きで美味くない。そこで、私はふつうの刺身ほど厚くは切らぬが、極端に薄くしないで、よく洗うと、なるほど晒しくじらのようにちりちりとはならないが、体よくちりちりとなる。こうすることによって中身はエキス抜きにならないから、噛むと魚の好味が出て、歯ごたえもあり、至極美味い。それに、どうもああ薄いのは、ケチクサイというようなひがみも手伝っていることに気がつく。世間並みに捉われて、長い間、私はこの料理法をやって来た。しかし、このごろ、別の考えが起こって来ている。
それはどういうことかと言うと、近ごろ薄い作りでやってみると、必ずしも悪くない。なるほど薄いのは中身が足らず物足りない。味がないと言えば味がない。けれども酷暑の刺身として、チビリチビリ酒でも飲む者には、ちょっと摘まむには、いかにもさらっとして涼味がある。極薄な味のないところが、却ってよいのではないか。中から味が出るとか出ないとか言うには及ばない。ただ、さらっとした涼味だけでよいのではないか。そういう考えが起こって来ている。
長年やってみての上で、ようやくそんな気もしてきたというわけだ。こんなことが体験数十年もたった今ようやく分ってきた。むずかしいものである。ちょっとやそっと料理屋のものなど食ったからと言って、軽々しく断定できないものだと気が付く。
この場合にしても考えようによっては、一種のケチなひがみがあったらしい。薄くては味がなくていかんとか、いかにもケチだとか感じることがそれだ。それが完全に離脱できないと、味の妙は分らないようだ。また、そういうことも、味の上に作用することを知っていなければ、すべての人をけなすわけにはいかぬ。味の世界も年齢の差異とともに一様にはいかぬのである。
底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日初版発行
1995(平成7)年6月18日改版発行
2008(平成20)年5月15日改版14刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年5月14日作成
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