家庭料理の話
北大路魯山人



 世間の人は、自分の身近にある有価値な、美味いものを利用することに無頓着のようだ。

 出盛りのさんまより場違いのたいをご馳走と思い込む、卑しい陋習ろうしゅうから抜けきらないところに原因があるようだ。

「腐ってもたい」などという言葉は、うかうか聞いていると、諺としてはちょっと面白いが、料理の方では大変な邪魔となって害がある。

 また、料理人のつくったものなら、なんでも結構なお料理だなぞと、軽卒に考えるのも大変な考えなしであることを、私は特に言い添えておきたい。

 なんとなれば、料理人は食道楽家ではない。みながみな有名人でもない。好き好んでやっているのでもない。味覚の天才というのも職人にはないようだ。私は多数の料理職人を注意して見て来たが、なんでもない人が多い。だから、料理道という「道」とのかかわりはない。すべて出鱈目だ。思いつきがあっても、低調で話にならない。正しい責任を持たない。鋭い五官などは働いていない。

 第一、料理道楽、食道楽に金を使って知ったという経験を持たない。従って、床柱を背に大尽振った食道楽がない。美食に非ずんば口にしないというような見識を備えていない。

 これでは道理にかなった料理はできないのが当然である。一家の主人も主婦も、この点、くれぐれも心して、料理職人を買い被り過ぎてはいけない。

 職業料理人のみにたより過ぎては、料理の発達は見られない。みずからの見識をもって、世の嘲笑を買わないまでに料理道に目覚め、各人各様の栄養食を深く考え、食によって真の健康を勝ち得てもらいたい。

 かつて畏友大村医博の話に、大倉喜八郎氏の家に料理することの非常にうまい老女中がいて、ご当人もなかなかご自慢で、出入りの来客にも評判がいいということだった。物好きな私は、一体どんな天才か、ひとつテストして見ようと思い、大村君を介して一度ご馳走になったことがあった。

 ところが、失望させられたのである。なんでもない料理屋のする料理であったからだ。たいの活きづくりだとか、そのほか様々な形式のものが出たが、それは要するに、みなお出入りの料理屋から学んだままの料理であった。

 それなら、どうしてそんなに評判になったかと言えば、大倉さんとしての自慢もあろう、大倉さんへのお世辞もあろう、素人にして玄人の真似ができるというだけを感心しての話なのであった。

 これだけのことは自分の家内ではできない、女中ならなおさらできない、料理屋と同じじゃないか、と、この程度のお世辞が、その老女中の名を高からしめ、その料理は美味いということに、下馬評として決められたのである。

 なるほど、素人にはできないことをやるから、ちょっと考えると、料理が上手だというふうに考えられる。しかし、その程度で世人が満足して、それ以上料理を考えてみないとあっては、いつまでたっても、料理道に目が覚めないであろう。

 大倉氏の自慢料理、そんな料理は一流どころの料理屋の板場に五年もいる料理人なら大概できる料理であって、虚飾に終始した、なんでもないものである。

 仔細に観察するならば、別にその老女中に一隻眼があっての仕事ではなく、もとより、その料理が真実の賞賛に価するというものでもなかったのである。

 素人のお婆さんというところに、ハンディキャップがついているのだ。重複するようだが、大倉さんはいわゆる自称美食家であろうから、常々自分の家に各所の料理人を呼んでは料理をつくらせたのであろう。それを見様見真似で、そのお婆さんが、いつか覚えてしまったというに過ぎない。

 この話は、わけもなく毒舌に聞えるかも知れないが、ここで言っておきたいのは、以上のような料理の真似は、華やかな宴会料理としては、一役買うものではあろうが、日常の家庭料理には関係が薄く、のみならず、そこから却って有害を生みつつあるとも見られるのである。

 宴会的な飾る物ではなく、身につく食事、薄っぺらな拵えものではなく、魂のこもった料理、人間一心の親切から成る料理、人間をつくる料理でなければならないと思うのである。

 料理も芸術であると、私が言い続けている理由も、実はここに存するのである。

 良寛様が、料理人のつくった料理、書家の書、歌詠みの歌はいけないと言っておられるが、料理人が自分の庖丁の冴えを忘れて料理をつくるのも、書家が色を忘れてただ墨一色で書くのも、帰するところはひとつである。すべて人間の価値がそこに滲み出て来るのである。要は人間だということになる。

 さらにことばを変えて言えば、日常料理は常に自分の身辺から新しい材料を選び、こみあげて来る真心でつくらなければならない。

 この点、何事もそうであるが、例えば、近頃市場に盛んに出廻っている南氷洋の鯨のべーコンなども、物慣れない人々によって、やれ臭いとか、不味いとか言って毛嫌いされているが、私など昔から鯨の美味を知っているので、好んでこれを入れた味噌汁を毎日賞味して飽きることを知らないくらいだ。しかも、百匁六十円見当という類のない安さである。安くて美味い。近頃こんな結構なことはないではないか。

 要するに、材料の処理方法、料理の仕方を知らないから、宝の山に入りながらという次第で、大変な損失である。これも日常食に対する教養の足りなさに由来するものと言えよう。

(昭和二十二年)

底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社

   1980(昭和55)年410日初版発行

   1995(平成7)年618日改版発行

   2008(平成20)年515日改版14刷発行

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2012年1031日作成

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