鮎ははらわた
北大路魯山人
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鮎の美味いのは大きさから言うと、一寸五分ぐらいから四、五寸ぐらいまでのものである。それ以上に大きく育ったものは、第一香気が失われ、大味で不味い。卵を持ち始めると、そのほうへ精分を取られるためか、香気を失うばかりでなく、肉が粗野になり、すべてに下品になる。
鮎のどの部分が一番美味かと言えば、はらわたを持った部分である。もちろん、新鮮でなくてはいけない。頭も特殊な味はあるが、四、五寸にもなると、ガブッと快く骨ごと食うわけにはいかないから、まず食わない人が多い(もっとも、食通は頭から食いつき、味わった後、カスを吐き出すが)。また尻尾の方、排泄口のある下のほうは美味くもないから、鮎食いは問題にしない。そこで、頭と尻尾の部分を除いた中間部、そこがなんと言っても一番美味い。
鮎は背の上部、ことに頭に近いほど、多くの脂肪を持っている。そして、この脂肪の下側がはらわたで、脂肪とわたとの両側を備えたこの部分が、一番美味とする所なのだ。
もちろん、生きているかの如きものでないと最上とはいかぬが、しかし、生かしてあったからと言って、必ずしも美味とは言えぬ。鮎は年魚と言われているとおり、一年間にめだかの大きさから七、八寸にも育つ成長力の非常に旺盛な魚である。それだけに、一日餌を食わないとゲッソリ痩せてしまう。餌のない水の中に、人工的に水勢を与えて生かして置いても、わずか一日か二日の間に自身の脂肪を消耗し尽して、脂肪分の多い肝心のはらわたはなくなってしまう。
私はかつて、東京でこんな経験をした。
最高の食品のみを扱う日本橋山城屋主人自慢の生鮎を頭からガブッとひと口に食った。ところが、腹の中がポッカリ空洞になっている。オヤ、この鮎はどうしたんだ、わたがないぞ。わたのない鮎なんてあるはずがないから、てっきり皿の下にでも落としたのかなと、あたりを見廻したが見当らない。それでは自分の口へでもすでに入ってしまったのかと、そのつもりで噛んでみたが、わたの味がない。てんで、わたらしいものは感じられない。それからいよいよふしぎになって、残りの一尾を今度は用心しいしい丁寧に試食してみたが、やはり、わたがない。全くのガラン洞なのだ。そこで初めて鮎のようなやつは、人工的に水道の水なぞで生かしておくと、はらわたまで、ほとんどなくなってしまうものだということを知った。
よくよく考えてみれば、これはふしぎに思う方がどうかしているのだ。わずかな時に急激な成長を遂げる鮎であってみれば、餌のない水の中に、激しい水勢だけを与えられて泳ぎ廻っていたのでは、脂肪に富むはらわたを持続できるはずがないのである。
その点、なんと言っても、自然の流れに生簀を拵え、そこに鮎を生かしておく料理屋へ行って、一日ぐらい生簀に飼われたものを食うのを上等としなければならない。この頃、東京でも生かして食わせる所もあるにはあるが、せっかくながら、ほんとうの鮎の味は味わえない。まあ生きていたものを、東京の町中で食ったという単なる気分だけのものである。
底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日初版発行
1995(平成7)年6月18日改版発行
2008(平成20)年5月15日改版14刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年8月20日作成
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