夢と文芸
柳田國男
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是は信州北部の山村を見てあるいた友人の手帖に、書留めてあった話である。五月代掻き馬を里の方に貸して居る家で、急にその馬が病気になったという沙汰が来たので、親爺さんが出掛けて行った晩、女房が夢を見たそうである。常日頃可愛がって育てて居た馬だから、そういうことがあったのだろうと謂って居る。これはえらい病気でとても助かるまい。売ってしまおうとうちのとっ様がいうと、馬はむっくりと起き上って、もう斯んなに脚が立つから、どうか売らずに置いてくれと、拝むように頼んで居る夢であった。いやな夢を見たものだと思って、子どもたちにもその話をして居るところへ、やがてとっ様が戻って来て、しかたが無いで馬は売ってしまったと報告した。それを聴いて火ジロのはたで、其日は一日泣いて居たと謂って居る。
鳥獣が物を言ったという夢は、自分などには見た記憶がもう残って居ないが、元来夢というものがこの話のように、後に奇妙に思い当ることでも無いと、忘れてしまうのが普通だから何とも言えない。以前は田舎では夢の話をする人が、今よりも多かったようである。特に心の動揺した場合で無くとも、何かやや変った夢を見ると、其印象のまだ鮮かなうちに、よく誰かに聴かせて置こうとするのである。自分の母などもたしかにその古風な一人であった。斯うすれば事は現実化するから子供にも記憶せられる。そうして其中には、毎度動物の人語した夢があったのである。
この種我々の内部の慣習は、殊に消えやすく改まりやすく、又その崩壊を防止する手段が無い。第一に存在を確めることが簡単でない上に、仮に是から実験をして見ようとしても、既に斯ういう話をしてしまった後では、その新たな影響も割引して見なければならぬ。つまりは我影と同じで、捉えようとすればもう元の姿では無くなってしまうのである。所謂フォクロアの無意識なる伝承に拠って、ただ辛うじて曾て有ったものを、尋ね究めて行くことの出来る問題は、必ずしも夢の場合だけではないのだが、此方面では分けても今までの無関心がひどかった。従って又微々たる村の女性の一言一行までが、思いがけぬ大きな暗示にもなるのである。
少なくとも二つの忘れられかけて居た精神生活の変遷が、ここに幽かなる銀色の筋を引いて、遠い昔の世まで我々を回顧せしめる。其一つは夢を重んずる気風である。孔子が周公を夢に見なくなったことを、心の衰えとして悲しまれたように、夢が何等かの隠れたる原因無しに、起るべき人生の現象でないことを、最も痛切に古人は認めて居た。そうして今とても之を疑い得る者は無いのである。ただ其解釈が国により時代により、又経験の狭さ広さによって、群毎に甚だしく区々であっただけである。我々の親たちは霊の自由を信じて、身がらが無為の境に休息して居る間に、心は外に出て色々の見聞をして来るものと思い、又未知の世界からの音信に接することが、出来るものとも思って居た。従って平凡なる社会の光景に触れても、それは看過し聴きのがして語り伝えようと努めないが、何か思いもうけぬ異常の夢であった場合には、其印象が遙かに我々の受けるよりは強烈であって、通例は是を次に起るべき事件の、予報の如くにも解して居たのである。外部の或力が時あって之に干与するものの如く、信じて居た点が今日とは異なるが、それも亦何れが正しいのか、未だ必ずしも確定はして居ない。人をして夢みしむる不思議の力を、或は枕神と謂って居る土地もある。そうで無くとも日頃の神仏に願を掛けて、進んで夢を念じ夢を待ち、それが応験の有った場合も多かったことは、前期の文芸に親しむ程の人は皆知って居る。それが悉く現代に於ては排斥せられて居るのである。たまたま父祖と同じに夢を見て喜憂する者があろうとも、之を表白して其兆候の適中するか否かを、試みようとする人は殆と無くなった。人生の不安はまだ若干は残って居て、古来之を慰撫して居た有力なる一つの手段は、既に忘却の淵に臨んで居るのである。
何がこの消えたるものの代りとして、未来の空隙を盈そうとして居るのかを、我々は痛切に知りたいと念じて居る。夢の神秘の最も究め難い部分は、一家一門の同じ悩みを抱いた人々が、時と処を異にして同じ夢を見、それを語り合って愈〻其信仰を固めるという場合である。是は近世に入って一段と稀有の例になり、僅かに文筆の間に稍〻おぼつかない記録を留むるのみであるが、現実には却って之に似た遭遇が多い。自分は夙くから是を共同幻覚と呼んで居る。たとえば荒海の船の中で、又は深山の小屋に宿して、起きて数人の者が同じ音楽や笑い声を聴き、又はあやかしの火を視ることがある。それを目耳の迷いだと言おうとしても、我も人も共にだから容易にはそうかなァと言わない。似よった境涯に生きて居ると、同じような心の動きが起るものか。もしくは甲の印象は鮮明で強く、乙丙は弱くして漠然たる、稍〻近い感じを受けて居るに過ぎぬ場合でも、一人が言い出すと自然に其気になり、又段々にそう思うようになるのか、是は遠からず実験をして見る人があるであろう。夢が文芸に移って行く経路を考えると、或は後の方の想像が当って居るのではないかと思われる。
夢は語って置かぬと見た人もやがて忘れる。好い夢は人に語るなという戒めは古くからあって、昔話の「夢見小僧」はそれを誰にも語らなかった為に、親の家から追出されて難儀したけれども、しまいには其夢の通りに千万長者になったと言われて居るが、是は寧ろ一家のうちでは、夢も本来は共有の物であったことを意味するかと思う。夢を見る役と夢を語る役とに任ずべきものが、以前は定まって居たのではなかったろうか。主翁も年を取り激労せぬようになると夢を見るが、やはり一家の最大の関心をもつ者が、自然に此任務に当って居たようである。女房は小さな事に気をつけ、文字の利用せられぬ時代には帳面の代りもして居たのだから、家の中ではどうしても口を利くことが多い。少なくとも夢を談る役には、主婦以上の適任者は無かったのである。
人々が夢を重んじ、夢の指導の力を信じて居た世の中では、無論割引もせず又おまけも添えず、それを一族限りの大きな事実として、解釈し又判断をして居たことと思うが、其間の消息は小説ぐらいにしかもう伝わって居ない。ただ若い者が蔭を向いて、舌を出すような時節になって後まで、老女の夢を説こうとする癖が、なお田園には残留して居るだけである。
斯ういう小さなことを穿鑿して居る者を、非難する気風ばかり今日は盛んになって来たが、私たちに言わすれば、それだから国民に夢が乏しくなったのである。それだから夢よりももっと頼りない、何の礎石も無い独り言が、人の耳を引張って聴かせ、人の額を押さえてうなずかせる迄に、出しゃばって来たのである。少なくとも斯うなって来た経路だけは、久しきを誇る国ならば明かにして置かねばならぬ。
つまり我々の共同の夢は発達したのである。そうして世と共に変遷し、又不純にならざるを得なかったのである。一族一門の大きさは加わっても、之を組立てて居る個々の小家にも力が出来て、到底或一人の主婦の夢解きを以て、利害を統一することが六つかしくなって来たのである。彼女等の夢みる能わざる人事世事が、段々に増加して来たのである。それ故に地方の最も能く夢み、又最も美しく夢を語り得る者を推薦して、公衆の為にその見る所を叙説せしめ、更にそういう人も無力になって来ると、旅の職業の女性が聘せられて遠くから渡って来た。彼等は万人の覚めて眼を円くして居る中に囲まれて、独り自在に夢の国を歩むことが出来た。其代りには言うことがあまり適切で無く、又時々は有り来りの語辞をおまけに添えた。うそだから悪いという良心までが共に睡って居た。この夢語りには又報酬があり、自身も捲き込まれるような憂いと悲しみはなかった。だから取越苦労の主婦の夢のような、淋しい薄墨色の陰影は無かったのである。文芸の芽ばえは常に紅色を帯び、又は浅緑の晴々とした色をして居た。昔あったという神に恵まれた若者、又は清麗玉の如き少女の、少しは苦しみつつも末めでたく長者となるという類の、遠い祖先の事などが例に引かれ、我等は其子孫だという喜びを以て、現世の不安を追払わせる物語が多くなった。其空想は繁り又栄えて、末には之を信ぜずともよいばかりか、うそで休息しようという新たなる趣味を、養い立てることにもなったのである。
しかも我々の姉妹の多数は、今以て芝居で泣き小説で泣き、明かに是は作りごとだと知って居ながらも、なお何等かの生活の手本を、其中から得なければ損だと思って居る。夢という至ってまじめなものの代りを、文芸に勤めさせようとして居た因習の痕跡では無いかと思う。川上は遠く霞んで居るけれども、この洋々たる文芸の流れには、かつて埴生の小屋の背戸をおとずれた、数限りも無いせせらぎの水がまじって居るのである。そうして衆と共にする文芸の楽しみが、次第に我々各自の夢を、粗末にさせることにもなったのである。
此話にあまり深入すると、折角言おうと思った次の問題が御留守になる。信州の老女が見たという馬の夢は、更に第二の昔人の考え方を思い起させる。以前九州の田舎をがた馬車で走らせて居た時に、御老が小ひどく鞭を打つのを見て、あんな語りのならぬ者に惨いことをすると謂ったのが、十六七の同車の貧しげな小娘であった。そうして此娘も売られて行くところであった。人は泣いたりわめいたりするからよいが、獣はただそれだけが出来ないと、思って居るらしい言葉を聴いて、始めて自分はこの人たちの生活観に触れたような気がした。それから気をつけて居ると、同じ形容句は多くの人が用いて居る。中には口癖で意味も無しにそう謂う者もあろうが、家畜がまじまじと人を見る眼つきには、もし言われるなら何か言うだろうと、思うような場合が屡〻あった。耳は形が全く人とは似ないのだが、それですら確かに聴いて居ると、信ぜずには居られぬ様子をすることが多い。他に聴き手が得られないような場合に、もしくは彼等に向って感情が動く場合に、話をしたくなるのは塩原多助のみでは無かったと思う。古人は必ずしも今日の漫画のように、すべての動物がむだ話までするものと、信じて居たわけではよもや無かったろう。ただ何ぞの止むに止まれぬ場合に、殊に其中の資格を備えた者だけが、日本語を用いて我々に話しかけることを予期して居たのであろう。草木も言問うという上代の記録が、何等の限定の辞をも添えなかった故に、或はもしもし亀よ亀さんよの如く、又はルナールの物語の如く、彼等にも人がましい社交があったという空想は新たに生れ又拡張したのである。そうして動物が人語する機会又は条件の、次第に退縮したことに心付かしめなかったのである。
当りまえのことを言うようだが、鳥獣が現実白昼に物を言ったということは、確かな記録には殆と見えて居ない。しかも夢に現われて物を言ったということは、此通り今でも稀ながら有るのである。世間話の一つとしてよく知られて居るのは、猫がお嬢様の傍を寸刻も去らないので、気味を悪がって棄てようかと相談して居ると、早速夢に現われてどうか棄てずに置いて下さい。実は長虫が附け狙って居ます。私が居なくなれば危難が忽ちだからと言った話。或は猫が悪者で害を主人に加えようとするのを、雞が知って居て色々と警戒するが人にはわからず、あべこべに自分が山に棄てられる。そこで愈〻夢の中に出て来て、旅の六部に願末を語り、援助を求めたというような話。此類のものなら耳からでも書物からでも、まだ何程も集められるのだが、是を実際にあった事として、耳を傾ける者はもう無くなった。しかし如何して斯んな単純な趣向の話が、是だけ有名になって居るかの元を考えると、たとえ話する者は受売であり又捏造であろうとも、聴いてさもありなんと思う者が一方に居なかったら、それこそ話にもならなかった筈である。乃ち多くの文芸は民衆に許容せられて、僅かに其声名を高うするを得たことは、昔も今日と変るところが無いのである。
夢の統一は国民としては大きな事業であったが、其代りにはどこへ行っても通用しそうな種ばかりを選む故に、話の単調に陥るのを防ぐことが出来ない。殊に中世の代表者は無能であって、且つそれぞれの人の悩みの為に、新たに空想してやるだけの親切も無かった。一度群衆の好みに投じて、深い感動を与えた経験のある物語は、弟子から弟子に伝えて後生大事に持ち廻って居る。著聞集以来の有名な発心譚、夢に鴛鴦の雌が上﨟の姿で現われて、あわれな歌を吟じて泣いたという話などは、今でも気の毒なほど多くの村の人が、附近に似よった名の古沼さえあれば、皆自分の土地に昔有った事実のように伝えて居る。是ほど美しい夢を愛する人々に、斯ういう有りふれた古いものを抱かせて置いて、それでも悦んで居るのだからいいじゃないかと、澄まして見て居るのは私は罪だと思う。
しかし一方では又その御蔭に、よくも時代と折合わない古風な考え方が、まだ幾つと無く我々の間には残って居て、歴史の乏しさを補ってくれて居る。是がもし次々に人の利害に適切な、新らしい夢を見て居たのだったら、それらは下積みになってもう手軽には発掘し得られなかったろう。色々引きたい例も有るのだが、今はうっかりとしたことは言われぬ世の中だ。寧ろ動物が物を言ったという話の続きをした方がよい。西洋の動物説話はイソップ以来、既に半分以上は諷刺に化して居る。事実その様な狼狐が居たというよりも、どこかの人間の所業を獣の名に托して、あてこすって居るのだと覚られる話ばかり多い。是に反して我々の田舎では、その今一つ以前の状態が窺われるのである。殊に鳥類が軒端を過ぎ、又は庭前の木にとまってくりかえし鳴く言葉を、彼等自らの身の上を訴えるもののように、聴いて同情した昔話は多いのである。時鳥は昔誤った恨みで弟を殺した男が、罪を悔いて「庖丁かけた」と歎くのだと謂ったり、郭公や青葉ずくは一人子を失って、いつ迄も其子の名を喚ぶのだと謂ったり、不孝な鳶や鳩は親が死んだ後に、墓を川原に作ったことを後悔して、雨が降りそうになると悲しんで鳴くという類の言い伝えは、児童の頭に沁み込んで段々にその鳴く声が、人間の言葉にさえ聴えて来る。従って話はまだ活きて居るのである。あの世を空の向うに在るものと思って居た時代から、人の魂が羽翼あるものの姿を借りて、屡〻故郷の村に訪い寄るという信仰があったものと思われる。それが仏法の教理に蔽われてしまって後まで、なお斯ういう切れ切れの記憶によって、昔の交通を維持して来たのである。
鳥の声の聴きなしは土地によってちがい、又明白に新しく始まったものである。たとえば山鳩は「爰へ鉄砲」と啼くと言われると、成るほど聴いて居るうちには、そうとしか解せられなくなる。ところが東北では或飢饉の年に、炒粉を山畠に働いて居る父の処へ持って行く児が、中途で路草を食って居たので父は餓死してしまった。それを悲しんで此鳥になり、テデェコォケェ(父よ粉を食え)と啼いて居るのだという地方もある。乃ち或一つの考え方が元になって、話は次々に作られて行くのである。斯ういう文芸は多くは他地方へは通用しない。乃ち作者は凡人であり自家用である場合にでも、我々の空想は是だけまで自由であった。曾ては日本に此種の文芸の盈ち溢れて居た時代もあったのである。それが限りある専門作者の才能を過信したばかりに、人は次第に夢見る力を失い、我と我身に近いまぼろしを振棄ててしまった。殊にこの込入った学びにくい文字を通してで無いと、そういう凡俗な文芸にすらも接し得ぬことになっては、子供や女たちは全く手があいて、頭をからっぽにして日を送らなければならぬ。彼等の生活を寂寞にして置くということは、国の未来の為にうれしいことで無いにきまって居る。
但し是をもう一度、以前の状態に戻せというような、出来ない相談を始めても益が無い。自分の望んで居ることはたった二つ、もう少し世の中が斯うなって来た原因を、はっきり突留めようとして貰いたいこと、次には書物を見てもそんな歴史は書いてないから、翻って今も不用意に、少しの古風を保存して居る村々の生活を、軽しめ賤しめずにじっと見ることである。村々の同胞は、いなか者という名がふさわしくない程に、精緻なる情操と、機敏な感覚とを夙くからもって居た。それが又中央統一の新しい文化の波に揺蕩せられて、行き着くところに迷って居る原因でもあった。今日はたしかに正しく信ずべきものが指導して居るのであろうが、もしも万々一それが悪かったらどうしよう、という懸念は常に有るのである。彼等をして自ら将来の最も好ましい姿を、胸に画かしめるようにしたところで、現在の日本でならば、決して再び割拠分立の世に復るようなことはあるまい。だからもし許さるるならば、私の第三の希望は此点に置きたいのである。
底本:「日本の名随筆14 夢」作品社
1984(昭和59)年1月25日第1刷発行
1998(平成10)年1月30日第19刷発行
底本の親本:「定本柳田國男集 第六巻」筑摩書房
1963(昭和38)年10月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2012年12月26日作成
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