永井荷風




 小庭こにわを走る落葉おちばひびき、障子をゆする風の音。

 私は冬の書斎のひる過ぎ。幾年いくねんか昔に恋人とわかれた秋の野の夕暮を思出おもいだすような薄暗い光の窓に、ひとり淋しく火鉢にもたれてツルゲネーフの伝記を読んでいた。

 ツルゲネーフはまだ物心もつかぬ子供の時分に、樹木のおそろしく生茂った父が屋敷の庭をさまよって、る夏の夕方ゆうかたに、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙のいたましく噛み合っている有様ありさまを見て、善悪の判断さえつかない幼心おさなごころに、早くも神の慈悲心を疑った……と読んで行くうちに、私は何時いつとなく理由いわれなく、私の生れた小石川金富町こいしかわかなとみちょうの父が屋敷の、おそろしい古庭のさまを思い浮べた。もう三十年の昔、小日向水道町こびなたすいどうちょうに水道の水が、露草つゆくさあいだを野川の如くに流れていた時分の事である。

 水戸の御家人や旗本の空屋敷あきやしき其処此処そこここ売物うりものとなっていたのをば、維新の革命があって程もなく、新しい時代に乗じた私の父は空屋敷三軒ほどの地所を一まとめに買い占め、古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅やしきを新築した。私の生れた時にはの新しいいえの床柱にも、つやぶきんの色のややさびて来た頃で。されば昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木のかげはいよいよ暗く、その最も暗い木立の片隅の奥深いところには、昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。その中の一ツは出入りの安吉やすきちという植木屋が毎年々々手入ていれの松の枯葉かれは、杉の折枝おれえだ、桜の落葉、あらゆる庭の塵埃ちりあくたを投げ込み、私が生れぬ前から五六年もかかってようやくに埋め得たとう事で。丁度四歳の初冬の或る夕方ゆうかた、私は松や蘇鉄そてつ芭蕉ばしょうなぞに其の年の霜よけをし終えた植木屋のやすが、一面に白く乾いたきのこび着いている井戸側いどがわ取破とりこわしているのを見た。これも恐ろしい数ある記念の一つである。蟻、やすで、むかで、げじげじ、みみず、小蛇こへび地蟲じむし、はさみ蟲、冬の住家すみかに眠って居たさまざまな蟲けらは、朽ちた井戸側のあいだから、ぞろぞろ、ぬるぬる、うごめきいだし、木枯こがらしの寒い風にのたうちまわって、その場に生白なまじろい腹を見せながら斃死くたばってしまうのも多かった。安は連れて来た職人と二人して、なたで割った井戸側へ、その日の落葉枯枝を集めて火をつけ高箒たかぼうきのたうち廻って匍出す蛇、蟲けらを掻寄せてした。パチリバチリ音がする。ほのおはなくて、湿った白いけむりばかりが、何とも云えぬ悪臭を放ちながら、高い老樹のこずえあいだに立昇る。老樹の梢には物すごく鳴る木枯が、驚くばかり早く、庭一帯に暗い吹下ふきおろした。見えない屋敷の方で、遠く消魂けたたましく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引かれて、やっとうちへ帰った事がある。

 安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五月雨さみだれ、夕立、二百十と、大雨たいうの降る時々地面が一尺二尺もくぼむので、其のは縄を引いて人のちかづかぬよう。私は殊更ことさら父母から厳しく云付いいつけられた事を覚えて居る。今一つ残って居る古井戸はこれこそ私が忘れようとしてもわすれられぬ最も恐ろしい当時の記念である。井戸は非常に深いそうで、流石さすがの安も埋めようとは試みなかった。現在は如何いかなる人の邸宅ていたくになって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木おいぎと共に、あの庭の片隅に残って居るであろうと思う。

 井戸のうしろは一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲まわりを見るよう、冬でも夏でも真黒にしずかに立って居る杉の茂りが、一層其のあたりを気味わるくして居た。杉の茂りのうしろ忍返しのびがえしをつけた黒板塀くろいたべいで、外なる一方は人通ひとどおりのない金剛寺坂上こんごうじさかうえの往来、一方はそのうち取払いになってれればと、父が絶えず憎んで居る貧民窟ひんみんくつである。もともと分れ分れの小屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内かまえうちにはなって居るが、古井戸のある一隅いちぐうは、住宅の築かれた地所からは一段坂地さかちで低くなり、家人かじんからは全く忘れられた崖下の空地である。母はなぜ用もない、あんな地面を買ったのかと、よく父に話をして居られた事がある。すると父は崖下へ貸長屋かしながやでも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。買占めて空庭あきにわにして置けば閑静でよいと云って居られた。父にはどうして、風に吠え、雨に泣き、を包む老樹の姿が恐くないのであろう。角張った父の顔が、時としては恐しい松のこぶよりもなお空恐そらおそろしく思われた事があった。

 或る、屋敷へ盗棒どろぼう這入はいって、母の小袖こそで四五点を盗んで行った。翌朝よくちょう出入でいりとびの者や、大工の棟梁とうりょう、警察署からの出張員が来て、父が居間の縁側づたいに土足の跡を検査して行くと、丁度冬の最中もなか、庭一面の霜柱しもばしらを踏み砕いた足痕あしあとで、盗賊は古井戸のうしろの黒板塀から邸内に忍入しのびいったものと判明した。古井戸の前には見るから汚らしい古手拭ふるてぬぐいが落ちて居た。私は昔水戸家みとけへ出入りしたとか云うかしら清五郎せいごろうに手を引かれて、生れて始めて、この古庭の片隅、古井戸のほとりを歩いたのであった。古井戸のそばに一株の柳がある。半ば朽ちたその幹は黒い洞穴ほらあなにうがたれ、枯れた数条の枝の悲しげに垂れ下った有様。それを見ただけでも、私は云われぬ気味悪さに打たれて、うずめたくもうずめられぬと云う深い深い井戸の底を覗いて見ようなぞとは、思いも寄らぬ事であった。

 あえて私のみではない。盗難のあったれ以来、崖下の庭、古井戸の附近ふきんは、父を除いて一家中いっかちゅう異懼いく恐怖の中心点になった。丁度、西南戦争ののち程もなく、世の中は、謀反人むほんにんだの、刺客しかくだの、強盗だのと、殺伐さつばつ残忍ざんにんの話ばかり、少しく門構もんがまえの大きい地位ある人の屋敷や、土蔵のいかめしい商家の縁の下からは、夜陰やいんに主人の寝息を伺って、いつ脅迫暗殺の白刄はくじんが畳をつらぬいてひらめいずるか計られぬと云うような暗澹あんたん極まる疑念が、何処どことなしに時代の空気の中に漂って居た頃で、私のうちでは、父とも母とも、れの発議とも知らず、出入の鳶の者に夜廻よまわりをさせるようにした。乳母の懐に抱かれて寝る大寒のな、私は夜廻の拍子木ひょうしぎの、如何に鋭く、如何に冴えて、寝静った家中かちゅうに遠く、響き渡るのを聞いたであろう。ああ、よるほど恐いもの、厭なものは無い。三時の茶菓子おやつに、安藤坂あんどうざか紅谷べにや最中もなかを食べてから、母上を相手に、飯事ままごとの遊びをするかせぬうち、障子に映るきいろい夕陽の影の見る見る消えて、西風にしかぜの音、樹木に響き、座敷の床間とこのまの黒い壁が、真先に暗くなって行く。母さんお手水ちょうずにと立って障子を明けると、夕闇の庭つづき、崖の下はもう真暗まっくらである。私は屋敷中で一番早くよるになるのは、古井戸のあるの崖下……否、よるは古井戸の其底から湧出わきでるのではないかと云う感じが、久しいのちまで私の心を去らなかった。

 私は小学校へ行くほどの年齢になっても、伝通院でんずういん縁日えんにちで、からくりの画看板えかんばんに見る皿屋敷のおきくころし、乳母が読んで居る四谷怪談よつやかいだん絵草紙えぞうしなぞに、古井戸ばかりか、丁度其のそばにある朽ちかけた柳の老木おいきが、深い自然の約束となって、夢にまで私をおびえさせた事が幾度だか知れなかった。恐いものは見たい。恐る恐る訊く私が知識の若芽わかめを乳母はいろいろな迷信のはさみ切摘きりつまんだ。父親は云う事を聴かないと、うちを追出して古井戸の柳へ縛りつけるぞと怒鳴どなって、爛熳らんまんたる児童の天真てんしんを損う事をばかえりみなかった。ああ、恐しい幼少の記念。十歳を越えてなお夜中やちゅう一人で、かわやに行く事の出来なかったのは、その時代に育てられた人のの、敢て私ばかりと云うではあるまい。

 父は内閣を「太政官だじょうかん」大臣を「きょう」と称した頃の官吏かんり一人いちにんであった。一時いちじしきりと馬術に熱心して居られたが、それも何時しか中止になって、のち四五年、ふと大弓だいきゅうを初められた。毎朝まいちょう役所へ出勤する前、崖の中腹ちゅうふくに的を置いて古井戸の柳を脊にして、凉しい夏の朝風あさかぜ弓弦ゆみづるならすを例としたがもなく秋が来て、朝寒あささむある日、片肌脱かたはだぬぎの父は弓を手にしたまま、あわただしく崖の小道を馳上かけあがって来て、皺枯しわがれた大声に、

田崎たざき々々! 庭に狐が居る。早く来い。」と、どなられた。

 田崎と云うのは、父と同郷のよしみで、つい此のあいだから学僕がくぼくに住込んだ十六七の少年である。しかし、私には、如何にも強そうなその体格と、肩を怒らして大声に話す漢語交りの物云いとで、立派な大人のように思われた。

「先生、何の御用で御座います。」

しからん、庭に狐が居る、乃公わしが弓を引いた響に、崖の熊笹くまざさの中から驚いて飛出した。あのへんに穴があるに違いない。」

 田崎と抱車夫かかえしゃふ喜助きすけと父との三人。崖を下りて生茂った熊笹のあいだを捜したが、早くも出勤の刻限になった。

「田崎、貴様、よく捜して置いてれ。」

「はあ、承知しました。」

 玄関に平伏した田崎は、父の車が砂利をきしって表門を出るや否や、小倉袴こくらばかま股立ももだち高く取って、天秤棒てんびんぼうを手に庭へと出た。其の時分の書生のさまなぞ、今から考えると、幕府の当時と同様、可笑おかしい程主従しゅじゅうの差別のついて居た事が、一挙一動いっきょいちどう思出される。

 何事にもく砕けて、優しい母上は田崎の様子を見て、

「あぶないよ、お前。喰いつかれでもするといけないから、おしなさい。」

「奥様、堂々たる男子が狐一匹。知れたものです。先生のお帰りまでに、きっと撲殺うちころしてお目にかけます。」

 田崎は例の如く肩をいからして力味返った。此の人は其後そのご陸軍士官となり日清戦争の時、血気けっきの戦死をげた位であったから、殺戮さつりくには天性てんせいの興味を持って居たのであろう。日頃田崎と仲のよくない御飯焚ごはんたきのおえつは、田舎出の迷信家で、顔の色を変えてまで、お狐さまを殺すはおいえめに不吉である事を説き、田崎は主命しゅめいの尊さ、御飯焚風情のくちばしを入れるところでないと一言いちごんもとに排斥して仕舞しまった。お悦は真赤な頬をふくらし乳母も共々、私に向って、狐つき、狐の祟り、狐の人をばかす事、伝通院でんつういん裏の沢蔵稲荷たくぞういなり霊験れいげんなぞ、こまごまと話して聞かせるので、私は其頃よく人の云うこっくり様の占いなぞ思合せて、なかばは田崎のゆうくみして、一緒に狐退治に行きたいようにも思い、半ばは世にそう云う神秘もあるのか知らと疑いもしたのであった。

 午飯ひるめしが出来たと人から呼ばれる頃まで、庭中の熊笹、竹藪のあいだを歩き廻って居た田崎は、空しく向脛むこうずねをば笹やいばらで血だらけに掻割かきさき、頭から顔中をくもの巣だらけにしたばかりで、狐の穴らしいものさえ見付け得ずに帰って来た。夕方ゆうかた、父親につづいて、淀井よどいと云う爺さんがやって来た。それは殆ど毎日のよう、父には晩酌ばんしゃく囲碁のお相手、私には其頃出来た鉄道馬車の絵なぞをかき、母には又、海老蔵えびぞう田之助たのすけの話をして、更渡ふけわたるまでの長尻ながしりに下女を泣かした父が役所の下役、内證ないしょう金貸かねかしをもして居る属官ぞっかんである。父はこの淀井を伴い、田崎が先に提灯ちょうちんをつけて、蟲のの雨かと疑われる夜更よふけの庭をば、二度まで巡回された。私は秋のの、如何に冷かに、如何に清く、如何にあおいものかを知ったのも、生れて此のが初めてであった。

 母上は其の夜半よなか、夢ではなく、確かにこんこんと云うき声を聞いたとの話。下女は日が暮れたと云ったら、どんな用事があっても、うちの外へは一歩ひとあしも踏出さなくなった。忠義一図ちゅうぎいちずの御飯焚お悦は、おいえに不吉のあるきざしと信じて夜明に井戸の水を浴びて、不動様を念じた為めに風邪を引いた。田崎が事の次第を聞付けて父に密告したので、お悦は可哀かあいそうに、馬鹿をするにも程があるとて、厳しいお小言こごと頂戴ちょうだいした始末。私の乳母は母上と相談して、当らず触らず、出入りの魚屋「いろは」から犬を貰って飼い、なお時々は油揚をば、崖の熊笹の中へ捨てて置いた。

 父親は例の如くに毎朝早く、日に増す寒さをもいとわず、裏庭の古井戸に出て、大弓を引いて居られたが、もう二度と狐を見る機会がなかった。何処から迷込まいこんだとも知れぬ痩せた野良犬の、油揚を食って居る処を、うちの飼犬がはげしく噛み付いて、其の耳を喰切った事がある。一家中いっかじゅう、何時とはなく、狐は何処へか逃げてしまった。狐ではなく、あれも矢張やっぱり野良犬であったのかも知れぬと、自然に安堵の色を見せるようになった。もう冬である。

「寒くなってから火鉢ひばちの掃除する奴があるか。気のきかん者ばかり居る。」と或朝、父の小言が、一家中いっかちゅうに響き渡った。

 がたんがたんと、戸、障子、欄間らんま張紙はりがみが動く。縁先の植込みに、淋しい風の音が、水でもちあけるように、突然聞えて突然にえる。学校へ行く時、母上が襟巻えりまきをなさいとて、箪笥たんす曳出ひきだしを引開けた。冷えた広い座敷の空気に、樟脳しょうのうにおいが身に浸渡るように匂った。けれども午過ひるすぎには日の光があたたかく、私は乳母や母上と共に縁側の日向ひなたに出て見た時、狐捜きつねさがしの大騒ぎのあった時分とは、庭の様子が別世界のように変って居るのをば、不思議な程に心付こころついた。梅の樹、碧梧あおぎりこずえが枝ばかりになり、芙蓉ふようはぎ雞頭けいとうや、秋草あきぐさの茂りはすっかり枯れしおれてしまったので、庭中はパッとあかるく日が一ぱいに当って居て、かつて、小蛇蟲けらを焼殺やきころした埋井戸うもれいどのあたりまで、又恐しい崖下の真黒な杉の木立のいただきまでが、枯れた梢のあいだから見通される。崖の下り口に立つ松のあいだの、かえでは、その紅葉が今では汚い枯葉になって、紛々として飛び散る。縁先の敷石の上に置いた盆栽のはぜには一二枚の葉が血のように紅葉したまま残って居た。父が書斎の丸窓まるまどそと外に、八手やつでの葉は墨より黒く、玉の様な其の花は蒼白あおしろく輝き、南天の実のまだ青い手水鉢ちょうずばちのほとりに藪鶯やぶうぐいす笹啼ささなき絶間たえまなく聞えて屋根、のき、窓、ひさし、庭一面にすずめさえずりはかしましい程である。

 私は初冬の庭をば、悲しいとも、淋しいとも思わなかった。少くとも秋の薄曇りの日よりも恐しいとは思わなかった。散り敷く落葉を踏み砕き、踏み響かせて馳せ廻るのが、かえって愉快であった。然し、植木屋の安が、例年の通り、うち定紋じょうもんを染出した印半纒しるしばんてんをきて、職人と二人、松と芭蕉ばしょうしもよけをしにとやって来た頃から、もなく初霜はつしもひる過ぎから解け出して、庭へはもう、一足も踏み出されぬようになった。



 うちの飼犬が知らぬ何処どこへか行ってしまった。犬殺いぬころしにやられたのだとも云うし、又、いい犬だったから、人が盗んで連れて行ったのだとも、議論はまちまちであった。私は是非とも、あらたに二度目の飼犬を置くように主張したが、父は犬を置くと、さかりの時分、他処よその犬までが来て生垣いけがきを破り、庭をあらすからとて、其れなり、家中うちじゅうには犬一匹も置かぬ事となった。尤も私は、その以前から、台所前の井戸端いどばたに、ささやかな養雞所ようけいじょが出来て毎日学校から帰るとにわとりをやる事をば、非常に面白く思って居た処から、其の上にもと、無理なこねる必要もなかったのである。如何に幸福な平和な冬籠ふゆごもり時節じせつであったろう。気味悪い狐の事は、下女はじめ一家中いっかちゅうの空想から消去きえさって、よるおそく行く人の足音に、消魂しく吠え出す飼犬の声もなく、木枯の風が庭の大樹だいじゅをゆする響に、伝通院でんつういんの鐘の音はかすれて遠く聞える。しめやかなランプの光の下に、私は母と乳母とを相手に、暖い炬燵こたつにあたりながら絵草紙えぞうし錦絵にしきえを繰りひろげて遊ぶ。父は出入りの下役したやく淀井よどいの老人を相手に奥の広間、引廻ひきまわ六枚屏風ろくまいびょうぶの陰でパチリパチリ碁を打つ。折々は手を叩いて、銚子ちょうしのつけようが悪いと怒鳴る。母親は下女まかせには出来ないとて、寒いを台所へと立って行かれる。自分は幼心おさなごころに父の無情をにくく思った。

 年の暮がちかづいて、崖下の貧民窟で、提灯の骨けずりをして居た御維新前ごいしんぜんのお籠同心かごどうしんが、首をくくった。遠からぬ安藤坂上あんどうざかうえの質屋へ五人連の強盗が這入って、十六になる娘を殺して行った。伝通院地内でんつういんちない末寺まつじ盗棒どろぼう放火つけびをした。水戸様時分に繁昌はんじょうした富坂上とみざかうえの何とか云う料理屋が、いよいよ身代限しんだいかぎりをした。こんな事をば、出入の按摩あんま久斎きゅうさいだの、魚屋さかなやきちだの、鳶の清五郎だのが、台所へ来てはかわがわる話をして行ったが、然し、私にはほとん何等なんらの感想をも与えない。私は唯だ来春らいはる、正月でなければ遊びに来ない、父が役所の小使こづかい勘三郎かんざぶろうの爺やと、九紋龍くもんりゅうの二枚半へうなりを付けて上げたいものだ。お正月に風が吹けばよいと、そんな事ばかり思って居た。けれども、出入りの八百屋の御用聞ごようき春公はるこうと、うち仲働なかばたらきたまと云うのが何時いつか知ら密通みっつうして居て、或夜あるよ、衣類を脊負せおい、男女手を取って、裏門の板塀いたべいを越して馳落かけおちしようとした処を、書生の田崎が見付けて取押とりおさえたので、お玉は住吉町すみよしちょうの親元へ帰されると云う大騒ぎだけは、何の事かわからずなりに、然し私は大変な事だと感じた。お玉が泣きながら、白髪しらがの母親に手を引かれ、裏門をくぐって行く後姿うしろすがたは、何となく私の目にも哀れであった。此れ以来、私には何だか田崎と云う書生が、恐いような、憎いような気がして、あれはお父さんのお気に入りで、僕等だの、お母さんなどには悪い事をする奴であるように感じられてならなかった。

 正月一ぱい、私は紙鳶たこを上げてばかり遊び暮した。学校のない日曜日には、殊更に朝早く起出おきいでて、冬の日の長からぬ事を恨んだが、二月になって或る日曜日の朝は、そのかいもなく雪であった。そして、ついぞ父親の行かれた事のない勝手口の方に、父の太い皺枯れた声がする。田崎が何か頻りに饒舌しゃべり立てて居る。毎朝近所から通って来る車夫喜助きすけの声もする。私は乳母が衣服きもの着換きかえさせようとするのも聞かず、人々の声する方に馳け付けたが、上框あがりがまち懐手ふところでして後向うしろむきに立って居られる母親の姿を見ると、私は何がなしに悲しい、嬉しい気がして、やわらかい其の袖にしがみつきながら泣いた。

「泣蟲ッ、朝腹あさっぱらからんだ。」と父は鋭い叱咜しったの一声。然し、母上は懐の片手を抜いて、静に私のかしらを撫で、

「また、狐が出て来ました。宗ちゃんの大好きなとりを喰べてしまったんですって。恐いじゃありませんか。おとなしくなさい。」

 雪は紛々ふんぷんとして勝手口から吹き込む。人達の下駄の歯についた雪の塊がなかば解けて、土間の上は早くも泥濘どろになって居た。御飯焚のお悦、新しく来た仲働、小間使、私の乳母、一同は、殿様が時ならぬ勝手口にお出での事とて戦々恟々せんせんきょうきょうとして、寒さにふるえながら、台所の板のに造り付けたように坐って居た。

 父は田崎が揃えて出す足駄あしだをはき、車夫喜助の差翳さしかざ唐傘からかさを取り、勝手口の外、井戸端のそばなる雞小屋とりごや巡見じゅんけんにと出掛ける。

「母さん。私も行きたい。」

「風邪引くといけません。およしなさい。」

 折から、裏門のくぐりを開けて、「どうも、わりいものが降りやした。」と鳶の頭清五郎がさしこの頭巾ずきん半纒はんてん手甲てっこうがけの火事装束かじしょうぞくで、町内を廻る第一番の雪見舞いにとやって来た。

「へえッ、飛んでもねえ。狐がお屋敷のとりをとったんでげすって。御維新此方このかたア、物騒でげすよ。お稲荷様も御扶持放ごふちばなれで、油揚のにおい一つかげねえもんだから、お屋敷へ迷込んだげす。わけわせん。手前達でしめっちまいやしょう。」

 鳶の清五郎は雞小屋の傍まで、私を脊負おぶって行ってれた。

 今朝方、あかつきかけて、津々しんしんと降り積った雪の上を忍び寄り、狐は竹垣の下のを掘って潜込くぐりこんだものと見え、雪と砂とを前足で掻乱かきみだした狼藉ろうぜきの有様。竹構たけがまえの中は殊更に、吹込む雪の上を無惨に飛散とびちとりの羽ばかりが、一点二点、真赤な血のしたたりさえ認められた。

御前ごぜん、訳ア御わせん。雪の上に足痕あしあとがついて居やす。足痕をつけて行きゃア、篠田しのだの森ア、直ぐと突止つきとめまさあ。去年中から、へーえ、お庭の崖に居たんでげすか。」

 清五郎の云う通り、足痕は庭から崖を下り、松の根元で消えて居る事を発見した。父を初め、一同、「しめた」と覚えず勝利の声を上げる。田崎と車夫喜助が鋤鍬すきくわで、雪をかきけて見ると、去年中きょねんじゅうあれほど捜索しても分らなかった狐の穴は、冬も茂る熊笹くまささかげにありあり見えすいて居る。いよいよ狐退治の評議ひょうぎが開かれる。

 喜助は、唐辛とうがらしでえぶせば、やっこさん、我慢が出来ずにこんこん云いながら出て来る。出て来た処を取ッちめるがいいと云う。田崎は万一逃げられると残念だから、穴の口元へ罠か其れでなくば火薬を仕掛しかけろ。ところが、鳶の清五郎が、組んで居た腕をほどいて、かしげる首と共に、難題を持出した。

「全体、狐ッて奴は、穴一つじゃねえ。きつと何処にか抜穴ねけあなを付けとくって云うぜ。一方口いっぽうぐちばかしかためたって、知らねえうちに、裏口からおさらばをきめられちゃ、いい面の皮だ。」

 一同、成程と思案に暮れたが、此の裏穴を捜出す事は、大雪の今、差当さしあたり、非常に困難なばかりか寧ろ出来ない相談である。一同は遂にがたがた寒さに顫出す程、長評定ながひょうじょうこらした結果、止むを得ないから、見付出した一方口を硫黄でえぶし、田崎はうちにある鉄砲を準備し、父は大弓だいきゅうに矢をつがい、喜助は天秤棒てんびんぼう、鳶の清五郎は鳶口とびぐち、折から、すこしおくれて、例年の雪掻きにと、植木屋の安が来たので、此れまた、天秤棒に加わる事となった。

 父は洋服に着換る為め、一先ひとまず屋敷へ這入る。田崎は伝通院前でんずういんまえ生薬屋きぐすりや硫黄いおう烟硝えんしょうを買いに行く。残りのものは一升樽いっしょうだるを茶碗飲みにして、準備の出来るのを待って居る騒ぎ。かく暇取ひまどって、いよいよ穴の口元をえぶし出したのは、もう午近くなった頃である。私は一同に加って狐退治の現状を目撃したいと云ったけれど、厳しく母上に止められて、母上と乳母の三人で、例の如く座敷の炬燵に絵草紙を繰拡くりひろげはしたものの、立ったり坐ったり、気も気では無い。鉄砲の響と云えば、十二時の「どん」しか聞いた事がない。あれは遠い丸の内、それでも天気のいい時には吃驚びっくりするほど座敷の障子をゆすぶる事さえある、されば、すぐ崖下に狐を打殺うちころす銃声は、如何に強く耳を貫くであろう。家中いえじゅうの女共も同じ事、れか狐に喰いつかれはしまいか。お狐様はうちの中まであばれ込んで来はしまいか。お念仏をとなえるもの、おふだを頂くものさえあったが、母上は出入のもの一同に、振舞酒ふるまいざけの用意をするようにと、こまこま云付けて居られた。

 私は時々縁側に出て見たが、崖下には人一人いちにんも居ないように寂として居て、それかと思うけぶりも見えず、近くの植込のあいだから、積った雪の滑り落ちる響が、淋し気に聞えるばかり。暗澹あんたんたる空は低く垂れ、立木の梢は雲のようにかすみ渡って居ながら、紛々として降る雪、満々として積る雪に、庭一面は朦朧もうろうとして薄暮たそがれよりも明かった。母と二人、午飯ひるはんを済まして、一時も過ぎ、少しく待ちあぐんで、心疲れのして来た時、何とも云えぬ悲惨な叫声さけびごえ。どっと一度に、大勢の人の凱歌がいかを上げる声。家中かちゅうの者皆障子を蹴倒けたおして縁側へけ出た。あとで聞けば、硫黄でえぶし立てられた獣物けものの、恐る恐る穴の口元へ首を出した処をば、清五郎が待構えて一打ちに打下うちおろす鳶口、それがまぐれ当りに運好くも、狐の眉間へと、ぐっさり突刺って、奴さん、ころりと文句も云わず、悲鳴と共にくたばって仕舞ったとの事。大弓をげた偉大の父を真先に、田崎と喜助が二人して、さかさまに獲物を吊した天秤棒をかつぎ、其のあとに清五郎と安が引続き、積った雪を踏みしだき、隊伍たいご正しく崖の上に立現われた時には、私はふいと、絵本で見る忠臣蔵ちゅうしんぐらの行列を思出し、ああ勇しいと感じた。然し真近まぢかく進んで、書生の田崎が、例の漢語交りで、「坊ちゃん此の通りです。天網恢々てんもうかいかいにして漏らさず。」と差付ける狐を見ると、鳶口で打割られた頭蓋とうがいと、喰いしばった牙のあいだから、どろどろした生血なまちの雪に滴る有様。私は覚えず柔い母親の小袖のかげにその顔をおおいかくした。

 さて、午過ぎからは、家中いえじゅう大酒盛おおさかもりをやる事になったが、生憎あいにくとこの大雪で、魚屋は河岸かしの仕出しが出来なかったと云う処から、父はうちとりを殺して、出入の者共を饗応きょうおうする事にした。一同喜び、狐の忍入った雞小屋から二羽のとりを捕えて潰した。黒いのと、白いぶちある牝鶏めんどり二羽。それは去年の秋の頃、綿のような黄金色こがねいろなす羽に包まれ、ピヨピヨ鳴いていたのをば、私は毎日学校の行帰ゆきかえり、を投げをやりして可愛がったが、今では立派にふとった母鶏ははどりになったのを。ああ、二羽が二羽とも、同じ一声の悲鳴と共に、田崎の手に首をねじられ、喜助の手に毛をむしられ、安の手に腹を割かれ、わたを引出されてしまった。夜更けまで、舌なめずりしながら、酒を飲んで居る人達の真赤な顔が、私には絵草紙で見る鬼の通りに見えた。

 眠りながら、その私は思った。あの人達はどうして、あんなに、狐を憎くんだのであろう。とりを殺したとて、狐を殺した人々は、狐を殺したとて、更に又、にわとりを二羽まで殺したのだ。

 ああ、ツルゲネーフは、蛇と蛙の争いから、幼心に神の慈悲心をうたぐった。私はすこしく書物を読むようになるが早いか、世に裁判と云い、懲罰と云うものの意味を疑うようになったのも、あるいは遠い昔の狐退治。其等それらの記念が知らず知らずの原因になって居たのかも知れない。

底本:「荷風全集 第六巻」岩波書店

   1992(平成4)年68日発行

底本の親本:「歓楽」易風社

   1909(明治42)年920

初出:「中学世界 第十二巻第一号」博文館

   1909(明治42)年11日発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

※底本は総ルビですが、読みやすさを考慮して振り仮名の一部を省きました。

※「パチリバチリ」の底本における表記は、「パチリ〴〵」です。

入力:渡辺哲史

校正:米田

2012年52日作成

青空文庫作成ファイル:

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