紫式部
──忙しき目覚めに
長谷川時雨
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八月九日、今日も雨。
紫式部をもととした随筆の催促が、昨日もあったことを思って、戸をあけてから、蚊帳のなかでそんなことを考える。
水色の蚊帳ばかりではない、暁闇ばかりではない。連日の雨に暮れて、雨に明ける日の、空が暗いのだ。それが、簀戸を透して、よけいに、ものの隈が濃い。
濡れた蝉の声、蛙も鳴いている。
今年は萩の花がおそく、芒はしげっているのに、雁来紅は色あざやかだがばかに短く細くて、雁来紅本来のあの雄大な立派さがない。
ふと、紫の一本が咲いているのが目につく。野菊ではない。友禅菊という、葉や、咲きかたや色の今めかしい品のない花だが、芒のかげに一叢になっているのは、邪魔にもならないのでそのままにしてあるが、初元結にはとてもおよばない。
初元結といえば、ずっと前に、もう物故ってしまった朱絃舎浜子が、これが、初元結だといって、一束の菊の苗をもってきてくれた。可愛がって育てると、葉は紫苑のさきの方に似て稍強く、スッとして花は単弁で野菊に似て稍大きかった。
その葉の色の青さ、その花の色の紫、それこそ春の山吹とともに、王朝時代の色をもった花だと見た。
その、初元結は、浜子のうちのも、あたくしのうちのも震災でどうなったかわからなくなってしまった。
浜子は源氏物語愛好者、娘時代から去年果てるまで、繰返し愛読していた。それも、ただ読流すのではなく、研究的に読んでいた。
けれど、わたしは、いつも忙しく暮しているので、年更けてから、用のほかはゆっくり話あった日がすくないので、どんな風に、あの物語につき、紫女について考えているかを聞洩してしまった。
初元結をもって来てくれた時分のこと、あたくしは彼女のことを、いかにも明石の上に似ているといったことを、書いたこともある。
それは、朱絃舎浜子の爪音が、ちょっと、今の世に、類のない筝の妙音であること、それは、古から今にいたるまでも、数少ないものであろうと思っていたし、性格やその他、明石の上にたぐえる人だったので、白粉ぎらいな彼女のことを、この明石の上はお色が少々黒いといったらば、上も浜育ちでしたろうと彼女は笑った。
明石の上も明石の浜育ち、自分も横浜の浜育ちという諧謔であったのだ。
彼女は、あたくしが、まだ唐人髷に結っていた十幾歳かの、乏しいお小遣いで、親に内密で買った湖月抄の第二巻門石の巻の一綴りに、何やかや、竹柏園先生のお講義も書き入れてあるのを、自分の参考にもっていったまま、ずっと手許においてあったが、これも、震災で焼けてしまった。どうしたことかその一冊だけが、おさない手ずさびの記念のように、榛原の千代紙で上被いがしてあるのであった。白い地に柳やら桜やらの細かい細かい模様であったが──
あたくしの昨今は、トウチカの中に暮しているように、自分というものがすこしもないので、夜中でも真昼でも、寸分のくつろぎがない日を送っている。目を覚ませば昨日のしのこしたこと、今日のこと、明日のこと、仕事と家事のほかは、病む人の神経が、操りのようにあたくしの神経の全部に走り、それを意識して意識しないふうに、甚だ無神経な奴になっていなければ、病人も家のものもみんな顰めッ面になってしまう。
で、あたくしが、すこしでも考えこんでいるということは、それが、庭などを、何気なく眺めていることでも、間違われやすく、何か苦慮しているかととられる。
紫式部のことも、以前、あれこれと考えたことはあったが、すべてが浅々しかったと思うので、古いことは思い出さないことにして、さて、何を、この中でまとめられるものではない。今も、雨の朝の紫色の小菊を見た一瞬、そうだっけ随筆の題がなるべく紫式部をというのだったがと、思いはしても、どうして、そんな、チョロッケに書けるものではないと打消す下には、さまざまな、仕事の腹案や、雑務のおくれがちなのが、あれもこれも胸を突いてきて、蒸暑い室のなかの、古い書籍や紙の匂いが──悪い印刷インキの香は堪らない。
かつてわたしは、紫式部が、いろいろな女性を書いて来た後に、手習の君──浮舟を書いたことに、なんとなく心をひかれていた。
美女、才女、ありとある、一節ずつある女性を書いたあとで、浮舟や女三宮の現れたのを、よく読んで見たいと思った。今でもそう思っている。
その後、また、ふと、夕貌の宿の仮寝の夜の、あの、源氏の君の頭もとに来て鳴いている蟋蟀のことから、源氏ほどの人を、あの市井の中に連れて来て、賤の生活の物音を近間にきかせた手腕に驚いて、そういう意味で、も一度も二度も読み直そうと考えた。
そのいずれをも果していない。
何か、最近の感想で、紫式部に関したことはなかったかと、心の頁を繰返して見ると、あった。
それは、つい先日、一葉全集評釈の筆をとっているときに、一葉女史の小説のなかに、源氏物語がどんなに浸みていることかと驚いた。それで、一葉女史の後期──二十八年後半期の作の二、三を除いたらば、殆どといってよいほど源氏物語の影響下にある。
そのくせ、一葉女史その人は、日記のなかや、感想文などでは清少納言の方を挙げている、好きでもあるようだ。一葉女史の性格も、どっちかといえば清原のおもとのようで藤式部のおもとのようではない。
あたくしは影響の下という言葉をつかったが、それは取り下げるとしてみても、その引例の多いことは、ちょっと考えると、「たけくらべ」などは、浅草吉原裏の廓にちかい、大音寺前という、細かい生活や、特殊な町の少年少女たちのことを書いたものだが、その中にすら、みどりという娘の周囲を、若紫のそれに──もっともこの件は、源氏物語と柳亭種彦の「偽紫田舎源氏」とが、ないまぜに出ているが──結びつけ形容している。
そこで、傑作「たけくらべ」は別として、全集中で、あんまり源氏や、その他の古歌によりすぎている作は、一葉の小説としては未熟の方に属すと、忌憚なくいえばいえる。
なぜだろうかと、首をひねったが、一葉女史ほどの人でも、あの大きな「源氏物語」という小説から、小説を書こうと思いたった時、逃れられなかったのだ。
明治新文学の時代が早く、すべてが若かった時なので、時の人の作もよく読み研究したであろうが、紫式部という偉大なる女性作家が、王朝の昔に、あまり大きな影を投げているので、ともすればその着想行文が目の前に現われて来たのだと思う。
一葉女史は、もとより和歌の畑から出て、和文を多く読んだのであるから、よく、源氏物語の妙味に通じていたと思って差支えはなかろうし、それなればこそ、ともすると引きごとに源氏物語の人物、風景を出すことによって、自分が、その景情に、いうにいわれぬ雰囲気と、醸しいだす情緒の満足を感じたのではなかろうか。
清少納言の感覚の新鮮さ、鋭さ。
あの鋭さが、紫式部にないといえようか。しかし、ああいうふうに出したらば、あの大いなる作品は残せない。
だが、あたくしは随処に、底に秘めた鋭いものを感じる。柏木右衛門督が、源氏の君の、見るとしもない一瞥を、心の底にまで感じて神経衰弱になって死んでしまう気の咎め──
いとあはれに眺めたまふと、しとしとと書いてあってもどれもこれも、なかなか、ゆったりと太い男女のいる世界に、あの、柏木の督を書いた彼女は、どっしりとしていて鋭敏なものを蔵していると思える。
紫式部はポットリと白く肥っていはしなかっただろうか、ヒステリックでないことはたしかだ。
酒を一盞と、盃を手にした姿も想像する。
なんにしても、大きく、珍しいほど豊な女性であることは、好き不好きでなく、有がたい人が居てくれたものと、ふと、現代の作家に見渡すと、なんとなく岡本かの子さんに、新らしい時代の新らしい感覚、学問、知識の紫式部を何処となく見出す。
底本:「長谷川時雨作品集」藤原書店
2009(平成21)年11月30日初版第1刷発行
底本の親本:「働くをんな」実業之日本社
1942(昭和17)年5月
初出:「日本文学」
1938(昭和13)年9月1日
入力:kompass
校正:Juki
2013年7月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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