最近の犯罪の傾向に就て
野村胡堂



 支那の詐偽、及び犯罪に関するいろいろな徴候を見ると、非常に緻密な組織になっている。

 日本でも、徳川時代に詐偽のものを書いたものがあるが面白い。

 近頃の日本の犯罪は、無技巧な野蛮な感じを窺える。国民性の粗雑な、むき出しの気持を暴露したものでうとましい。これは徳川時代にも辻斬りなどというものがあり、相手に対し怨みも何も無いものを犠牲にして、首をチョン切るというようなことをした。日本人の持つかくれた野性の現れで、どんな人であろうが構わない。何の同情もない自分の腕の冴えを試すという。丁度昔の弁慶がやった千人斬──嘘でしょうが──と同様で、これが英雄的なもののように取扱とりあつかわれたばかりでなく、一般からは讃美されるべきことのように思われて来た。日本では古くから行われて来たことであるが、それは日本人の歪められた英雄的な考え方である。

 それが敗戦の直後で、毒性の暴露を加味して来て、さながら徳川時代の辻斬強盗や武士に習うというようなモラルのないものが結びついて、日本的なもののように思われて来た。こういうものをめるには、一つには国民の教養を高める他はないし、また経済的生活の保証を与えること、宗教をさかんにすること等である。孔子の言葉をりて云うと、忍びざるの心自分の身に比べて見る、そういう気持を養成してゆくことである。犯罪者は結果を考えないから情操を養うと云うことが大切である。

 犯罪でも、動機がよければ同情する場合もある。探偵作家だって犯罪そのものには同情を持たないし、そういうものも書いていない。動機では犯罪は書かない。それは探偵小説のよい動機にならない。動機に人間的なものが絡んで犯罪を構成して行く。犯罪の中でも多少許し得るものもある。趣味が違うところから起るとか、恋愛とか、そういうものから起ることは絶えないと思う。人間の本能に関する犯罪は、何時いつになっても亡びないと思う。

 経済犯罪でも、許し得る犯罪と許し得ないものとある。一番悪いのは法網をくぐってやる犯罪、あてのない多数の人を犠牲にするというような、例えばメチール・アルコールを売って、あてのない誰が被害を受けるか解らないというような犯罪、これは刑法上の悪性と称すべきもので、こういうものに対しては、警察当局がもっと処罰を厳重にやって貰いたいと思っている。

 日本人の持つ封建的な考え、人の命を粗末にする、人をきずつけるということを何とも思わない、そういうことが大変悪いと気付けば本当である。

底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社

   2007(平成19)年415日第1刷発行

底本の親本:「月刊実話」

   1948(昭和23)年3

初出:「月刊実話」

   1948(昭和23)年3

入力:ばっちゃん

校正:阿部哲也

2014年12日作成

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