錢形平次捕物控
風呂場の祕密
野村胡堂
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その頃の不忍の池は、月雪花の名所で、江戸の一角の別天地として知られました。池の端に軒を連ねた出逢茶屋は戯作、川柳にその繁昌を傳へる江戸人の情痴の舞臺ですが、池のほとりを少し西へ取つて茅町一丁目、二丁目へかけては一流の大町人、大藩の留守居など、金を石つころほどにも思はぬ人達の寮や妾宅など、不氣味な靜けさと、目に餘る贅澤さで、町家に立ちまじつて五軒十軒と數へられます。
その寮の中でも、湯島寄りに建つてゐるひときは目立つた構へは、横山町の金物問屋鹿野屋文五郎の控家で、そこに主人の文五郎は、女房のお八尾、その弟の駒吉の外に、二人の妾お關、お吉とともに、同じ屋根の下に、豪勢で、不倫で、贅澤で、惧るゝことを知らぬ暮しをしてゐるのでした。
その妾の一人、お關といふのが、自分の部屋、──池に面した二階の六疊で、自分の喉笛を掻き切つて死んでゐたのです。
時は八月十六日の夜、主人の文五郎は、横山町の店へいつてその日は歸らず、若い番頭の源助といふのが、店から主人の言傳を持つて夜遲くやつて來ましたが、丁度、二人の妾お關とお吉の、深刻極まる挘り合ひの仲裁をして、用心棒代りに泊り込んだ晩の出來事だつたのです。
翌る十七日の朝、下女のお兼が、階下の部屋の掃除をして、
「あツ血!」
天井から漏れて、斑々と疊を染めてゐる赤黒い血溜りに膽を潰したのも無理のないことでした。
「何んだ、騷々しいぢやないか」
眞つ先に廊下から顏をだしたのは、内儀の弟の駒吉でした。もう三十に手の屆く立派な男ですが、立派過ぎて世間に通用せず、姉の厄介になつて、良い若い者の癖に、この寮の用心棒代りに飼はれてをります。
といふのは、智慧も辯舌も人並以上にできてをり、顏立もそんなに醜くはありませんが、生れながらの頑固で、酒も呑まず煙草も喫はず、女遊びは言ふまでもなく、物見遊山にも行つたことのないといふ變り者で、朝から晩まで一と間にこもつて、古聖賢の有難い經書史書から、黄表紙、好色本、小唄、淨瑠璃本までを渉りつくし、智慧と理窟が内訌して、滅多に俗人とは口もきかないといふ恐ろしい偏屈人になつてしまつてゐるのでした。
「あつ、二階ぢやないか」
後ろから首を出した、若い番頭の源助は、早くも事情を察して、梯子段を二つづつ踏んで、二階へ飛び上がります。
これは駒吉より三つ四つ年上ですが、商賣で叩き上げてゐるので、理窟よりは行動の方が早く、駒吉が首を捻つてゐる間に、その血の滴り落ちたもと──二階のお關の部屋に事ありと見たのでせう。
「わツ、大變。お關さんが」
唐紙を開けて、敷居際へ突つ立つたまゝ、源助は怒鳴りました。六疊の小意氣な部屋で、寢具の贅も眼を驚かしますが、中はまさに血の海、妾のお關はその中に、自分の布團の上にあふむけに倒れ、あられもない姿でこときれてゐるのです。
騷ぎを聞いて、一と間置いて隣りの部屋にゐるもう一人の妾のお吉と、階下にゐる本妻のお八尾、それに下男の半次まで飛んで來ましたが、お關の死體の凄まじさに近寄り兼ねたものか、それとも、日頃の憎しみがさうさせたのか、一人として進んで介抱する者もなく、しばらくは眞つ蒼な顏を見合せて、默りこくつて、相手の出やうを見るばかりです。
やがて、氣を取直したらしい下女のお兼は、年嵩らしく眞つ先に入つて行つて、床の上に血塗れの死體を抱き起しました。傷は左の喉笛に一ヶ所だけ、血潮に汚れてはをりますが、死顏は思ひのほか穩やかで、身扮は晝のまゝ、あふむけになつて足を投げ出してゐるほかには、大した崩れもありません。
「親分、こいつはたつた一と眼で殺しとわかりましたよ。自害のやうに見せかけてはゐるが、馴れた眼で見ると決して自分でやつたものぢやありません」
ガラツ八の八五郎が、明神下の錢形平次の家へ、かう報告して來たのはまだ朝のうちでした。
「どうして自害でないとわかつたんだ。後學のためにそいつを聽かしてくれ」
平次は緩々として、相變らず粉煙草に親しんでをります。
「第一ですよ、若い女が──と言つてもお關は二十五の年増だが、ともかく人の妾でもしようといふ色氣のある女が、いかに死んで行く者の、耻も外聞もないと言つたつて、床の上に大の字になつて出來のいゝ大根のやうな足を二本、自分の枕の上に載つけて息を引取るといふことがあるでせうか」
「大分當てられたやうだな」
「さうでもありませんがね」
八五郎は長ンがい顎をブルンと振つて、手の甲で額を叩くのです。
「それから、第二てえのを聽かうぢやないか」
平次は先を促しました。
「その第二が大變なんで──死んだお關は、血染の匕首を左の手に持つてゐたとしたらどんなものです」
「左利きぢやなかつたのか」
「飛んでもない。左にお椀を持つのが精一杯──右手に箸を持つから仕方がないと言つた女で」
「それつきりか」
「第三がありますよ、──前の晩もう一人の妾お吉と、大喧嘩をしてゐますよ。挘る、引つ掻く、撲つ、蹴るの大騷ぎだつたさうで」
「取逆上て自害するといふこともありさうだぜ」
「それも考へましたが、お吉の部屋の唐紙の引手にほんの少し血が着いてゐて、二階に寢るのは、お關とお吉だけといふのは面白いぢやありませんか」
「梯子段は?」
「たつた一つ」
「それで、どうしたのだ。あとの始末は」
「お吉の身柄を町役人に預けて、兎も角も親分に知らせに飛んで來ましたよ。──お吉を擧げようと思ひましたが、面が綺麗なくせにピンシヤンして始末にいけません。殺された方のお關は、武家出のくせに弱氣でおとなしい方だつたが、お吉は商賣人あがりで、人を喰つてゐるから、手におへませんよ」
ガラツ八の勇猛さでも、この雌豹のやうな美しい駻婦にはかなり手古摺つたやうです。
「行つて見よう。お前を甘く見るわけぢやないが、どうも氣になつてならねえことがあるよ」
「へエ?」
「例へばだよ八、──そいつは自害でなくて殺しで、死んでから、下手人が死體に匕首を握らせたとお前は言ふつもりだらう」
「それに違ひありませんよ」
「下手人はお吉だとも言つたね」
「その通りですよ」
「女が右と左を間違へるだらうか、死骸に匕首を握らせるのも、三月の雛人形に、扇や銚子を持たせるのも同じことだ。下手人が男なら兎も角、女はそんな間拔けな間違ひはしない筈と思ふがどうだい、八」
「──でせうか」
「行つて見る外はない。檢屍前に一と眼見て置けば、飛んだ役に立つだらう」
平次はたうとうこの怪奇な事件に首を突つ込むことになつてしまひました。
池の端へいつて見ると、ツイ今檢屍が濟んだばかり、役人は引取つて、葬ひの支度を始めるところでした。
店口にぼんやりしてゐるのは、内儀の弟の駒吉、八五郎の報告で偏屈人とは聞きましたが、無愛想ではあるにしても見たところいかにも恰幅のいゝ、柔和な顏の男です。
「お吉は?」
「お係りのお役人が番所へ連れて行きました」
八五郎の問ひに答へる調子は、それをひどく氣にしてゐるやうにも取れます。
中へ入ると、主人の文五郎が迎へてくれました。
「飛んだお騷がせをいたしますが」
五十年輩のでつぷり肥つた脂ぎつた男、金も智慧もふんだんにあつて、江戸の何大通とやらの一人にも數へられやうといふ、先づ押しも押されもせぬ人柄です。
「店の方は伜に任せきりで、私は滅多に横山町には泊らないのですが、たつた一と晩こゝをあけたばかりに、飛んだことになりました。尤も、二人は日頃仲が惡うございましたよ。同じ屋根の下に住まはせて置くと、面白くないことばかりなので、近いうちに一人はどこかへ移さうと思つてをりましたが──」
平次は默つて聽いてをりました。この浪費と漁色を大した惡いことと思はないばかりか、當り前のことのやうにヌケヌケと話してゐる通人の生活が、決して愉快なものではないにしても、十手を持つた平次が、それを彼れこれ言ふ筋合はなかつたのです。
部屋の中の血は一應拭き清めてはありますが、檢屍が濟んだばかりで、死體はそのまゝになつてをります。
奉公人達は遠慮して寄りつかず、内儀のお八尾が、弟の駒吉を手傳はせて、この仇敵と言つてもいゝ妾のお關の死體を懇ろに世話をしてゐるのは、何んとなく涙を誘ふ風情です。
「──」
默禮して死體の側から退いたお八尾は、四十二三の淋しい女で、愼しみ深さうなのも、化粧に縁のない顏も、放埒な夫の愛を失つて、忍從と諦らめで靜かに生きてゆく典型的な内儀型でした。
平次は死體の側に寄つて、先づそれを今朝發見した時の位置に戻させました。お八尾も駒吉も氣の進まない樣子でしたが、平次の強い意志に引ずられて、番頭の源助を呼んで手傳はせながら、あられもない姿に復原させます。
血溜りの中にあふむいて、踏みはだけたやうな姿、枕に乘せた脚の不行儀さなど、平次は細かに見てをりましたがやがて、
「八、お前は、この死體は死んでから動かして、布團の上の血溜りに引つくり返したものと思はないか」
「へエ?」
平次の第一の疑問は、早くもこの死體の不自然な姿に向けられたのです。
「それから、──この人は武家の出だと言つたね」
「へエ、その通りで、父親は御家人でしたが、頑固過ぎて役目を縮尻り、浪人をして苦勞をしたとお關は申してをりました」
文五郎は代つて答へました。
「武家の出で、頑固な父親を持つた娘なら、自害の方式くらゐは教はつた筈だ」
「──」
「この通り、キチンと坐つて、扱帶かなんかで兩膝を崩れないやうに縛つた跡がある。喉笛を突いた血が膝をひたして、多分その扱帶を染めたことだらう。──誰がその扱帶を解いたのだ」
「誰も解きはいたしません。今朝見付けた時は、この通りでございました」
番頭の源助は四方を見廻しながら言ひきりました。駒吉もお八尾もそれに異はありません。
「すると、この膝の上──股の中程、二寸くらゐの幅で、血に塗れないところのあるのはどういふわけだ」
「──」
「若い女が自害して、こんな恰好になるといふのは嗜みがないにも程がある」
平次の言葉は、いかにも苦々しく響くのです。死體の冒涜に對する憤怒でもあるのでせう。
「でも、殺されたものなら仕方がないぢやありませんか、親分」
「いや、殺されたのではない、外にもまだ證據がある」
八五郎の抗議を、平次は手輕にはね飛ばしました。
「へエ?」
「匕首を左に持換へさせたのは、──恐ろしい惡智慧だ。自害したのを殺しと見せるためだ、持換へさせたに違ひないことは、この右手の指と爪を見るがいゝ」
「──」
「爪がひどく痛んでゐるし、指も折れてゐるかも知れない。匕首を握り緊めてゐるのを無理にコジ開けたのだ。それに左手は匕首を持たせてはあるが、確り握つてゐるわけでない」
死後硬直を起した死骸の右手から、無理に匕首を取つた形跡は、八五郎にもよく呑込めます。
「──」
「おや、左の手の掌に、かなりの傷があるやうだが、昨夜お吉とやらと喧嘩をしたとき、血は流さなかつたのか」
「引つ掻きくらゐは拵へたでせうが、血を流すほどのことはなかつたやうです」
番頭の源助は應へました。
「そいつは、殺した相手と揉み合つた證據ぢやありませんか」
八五郎は横から口を容れます。
「匕首を持つた手の掌に傷がある──これはむづかしい判じ物だよ。お前が考へたやうにも取れるが、自分で自分の喉笛を兩手に持つた匕首で掻き切る時、手が滑つて左の掌をきることもあるだらう。いざ死なうといふ時だ、それくらゐの粗相は氣もつくまい」
「そんなもんですかね」
「股を縛つた扱帶を搜せ。それから遺書くらゐはあつたかも知れない、──不忍の池が眼の前にあるんだ、石でも縛つて投り込まれた日にはちよいとすぐ見付けるわけにも行くまい」
「──」
「見るがいゝ、硯には墨を磨つた跡が乾ききらずに殘つてゐるぢやないか」
平次はなほも調べを續けましたが、内儀のお八尾は愼しみ深くて何んにも言はず。二人まで妾を飼つて、同じ屋根の下に屈辱的な生活をしてゐることさへも、當り前のやうに考へてゐる樣子です。
その弟の駒吉は、さすがに堅い文字も讀み物の道理も辨へてゐるだけに、
「あれは雌と雌ですよ。本妻の姉さんはお婆さんで相手にもならないが、お關とお吉は若くて達者で奧女中よりもしつこく、こと〴〵に啀み合ひです。いつかはこんなことになるだらうと思つてはゐましたがね」
こんな遠慮のないことを言つてのけるのです。そして姉の夫の文五郎に對して、かなりの根強い反感を持つてゐることを隱さうともしません。
番頭の源助はひどく要領の良い男で、
「へツ、へツ、旦那を一人占めしようと思つて、喧嘩の絶え間はありませんでしたよ。昨夜も旦那の言傳を持つて來て直ぐ歸らうと思ひましたが、若い女が二人で挘り合つてゐるのを見ると、放つて置くわけにもまゐりません。何しろお關さんは弱氣でも武士の娘で、お吉さんは貧乏人の子でも、恐ろしく強氣と來てゐるでせう。──それに、これは内證ですが、近頃は旦那も若いお吉さんの方が好きになつたやうで、お關さんはひどくヤキモキしてゐましたよ。へツ〳〵、うるさいことで」
すべてを茶にしたやうな態度です。
下男の半次は五十がらみの無口な男、何を訊いてもらちがあかず、下女のお兼は、出戻りの四十女で、
「お關さんは萎れ返つてゐましたよ、──何時旦那に捨てられるかもしれないつて、──昨夜の喧嘩だつて、おとなしいお關さんの方から仕掛けたやうなものです。でも喧嘩となると勝負は決つてゐました。勝は何時でもお吉さんの方ですよ、三倍も早く舌が動くし、チヨツカイだつて恐ろしく早いんですもの」
これが平次の聽いた全部です。
戸締りは嚴重で、素より外から曲者の入つた形跡はなく、お吉が殺したのでなければ、自害といふことに違ひもありません。
平次は歸りに湯島の番所に廻つて、お吉にも會つて見ました。
これは二十一といふ咲きこぼれさうな妖艶な女です。
「あら錢形の親分さん、どうかして下さいよ。私は何が面白くて、あんな薄汚い婆アのお關などを殺すものですか、あの人はもうお佛箱になる筈だつたんですもの。殺されゝば私の方ですよ。こんな馬鹿々々しいことがあるものですか」
と言つた調子で、四方の空氣も、人の見る眼もかまはずに錢形平次に滿身の媚を投げかけるのでした。
「八、お係に申上げて、この女を返すがよい。お關は間違ひもなく自害だよ。それに變な細工をして殺しと見せかけ、お吉をからかつた人間があるだけのことだ。いゝか」
平次は背を見せました。
「あ、錢形の親分。さすがは親分ねえ、お禮を申上げますわ。身に覺えがなくたつて、縛られて面白いわけぢやない」
お吉はその後ろから、際限もなくお世辭と媚のあやかしの糸を投げかけるのです。平次はそれを聽き流して、ぼんのくぼがむづがゆく歸つて行くのです。
それから十日ばかり、お關の初七日も過ぎて、平次はツイこの不思議な詭計のからんだ事件を忘れかけてゐると、
「さ、大變ツ、親分」
ガラツ八の八五郎、足も空に飛んできたのです。
「今日あたりは、お前の大變がきさうな空合だと思つたよ」
平次は夕立模樣の空を眺めて、こんな呑氣なことを言ふのです。
「へツ、そんな呑氣な話ぢやありませんよ。御存じの池の端の鹿野屋の寮──」
「お化けでも出るのか」
「お化けくらゐは三杯酢で喰ひさうな、あの達者な妾のお吉が、裸體で不忍の池に飛び込んで死んでゐるから驚くぢやありませんか」
「昨夜は眞つ暗で暑かつたぜ。泳ぎに入つて、溺れたのぢやないか」
「あの邊は淺過ぎて死ねませんよ。人足を入れて、佛樣を引揚げるとき見ると、臍を越すのが精々で」
「さてはお關の幽靈に引き込まれたか」
「冗談ぢやありませんよ──腹一杯の水を呑んでゐるから溺れて死んだに間違ひはねえが、いかに暗い晩でも、若い女が裸になつて、不忍の池に飛び込むのは變ぢやありませんか。その上中腰になつてうんと水を呑んで溺れるなんてのは色氣がなさ過ぎますよ」
「着物はどこに置いてあつたんだ」
「質の値を氣にしたやうに、岸の枳殼垣に引つ掛けてありましたよ、──何しろ池の端一番といふ、あの綺麗なのが素つ裸で池の中に浮んだんだから、こいつは年代記ものだと、本郷から下谷へかけて、大變な騷ぎですよ」
「では、俺も行つて見るとしようか」
「へツ、へツ、飛んだ眼の保養で」
「馬鹿なことを言ふな」
平次は八五郎の冒涜的な言葉を戒めて、池の端に立ち向ひました。
お吉の死體は鹿野屋の寮に引取つて、池の端にはもう彌次馬の影もまばらです。
「あ、錢形の親分、重ね〴〵の災難で面目ないが──」
主人の文五郎は小鬢を掻きながら迎へてくれます。
「御主人は昨夜も横山町のお店の方だらう」
「その通りで」
平次は先づ、豫想が的中しました。
「あれからお吉の樣子に變つたことがなかつたのかな」
「變つたと申せば、妙にふさぎ込んだり、さうかと思へば急にはしやぎ廻つたり少々取りとめもない風でしたが、まさか、死ぬ氣になつてゐたとは思ひません」
美しい妾、少々は駻馬で、持て餘され氣味ではあつたにしても、若くて脂が乘りきつて、申分なく媚態的で、豐滿でさへあつたお吉の死は、老醜の文五郎に取つては諦らめきれない未練のやうです。
鹿野屋の寮の中は、さすが打ちしめつてをりました。お吉の死體は手輕に檢屍が濟んで、階下の六疊に寢かしてありますが、さすがに手が廻り兼ねて、まだ入棺してゐないのは、幸せでした。
佛樣の前を飾つて、まめ〳〵しく供養してゐるのは、相變らず淋しさうな本妻のお八尾です。二人の愛妾が續けざまに死んで、自分だけ取殘されたことが、この内儀に取つて、嬉しいことなのか、それとも悲しいことなのか、お能の面のやうな顏には、少しの感情の動きもありません。
平次は一と眼死體のゆがみを見て、ハツと息を呑みました。淺い池の中に飛び込んで、中腰になつて死んだせゐかどうか知りませんが、身體全體に、何んとも言へない不思議なゆがみがあるばかりでなく、第一その顏に現はれた苦惱の表情は、容易のものではありません。
普通の水死人の、いやにむくんだ顏は、稼業柄平次はあき〳〵するほど見てをりますが、こんな噛みつきさうな惡意と、無殘な苦惱をむき出しにした顏を、まだ見たことがありません。それは女が良いだけに、死の破壞が一層強調されたせゐもあるでせう、全く二た眼と見られぬ異樣な物凄さです。
平次は女の胸から水落ちのあたりを見て行きました。明らかに水は呑んでをります。胃のあたりのふくらみは、殺されてから水に放り込まれたものでないことをあまりにも明かに示してゐるのです。
「八、あれをどう思ふ」
「──」
平次は女の髮の毛の異樣な亂れと、もう一つ、鼻の頭から、額、前髮のあたりへかけて、ひどく皮膚を摺り剥いた跡のあるのを指さしました。
「水の中の石か何んかでやられたんぢやありませんか」
八五郎は一向のんきに片付けてをります。
「兎に角腑に落ちないことが多いやうだ、昨夜の樣子を、もう少し調べて見よう」
平次は家中の者に逢つて、昨夜の樣子を訊ねて見ることにしました。最初は下女のお兼、
「旦那樣が横山町のお店に泊るとわかつたのは日が暮れて風呂を立ててからでした」
「使ひでも來たのか」
「今度は小僧の佐吉どんでした。暗くなりかけてからお店へ歸りましたが」
「寢たのは?」
「眞つ先にお吉さんが風呂に入つて、──いつもさうですけれど、お内儀さんは頭痛がすると仰しやつて早く休んでしまひ、それから駒吉さんが入つて、半次どんと私が入つて、順々に寢てしまひました。火を落してから、一度寢た筈のお吉さんが、あんまり汗がひどいから、もう一度流してくると言つて、風呂場へ行つたやうですが、晝の疲れで私もそれつきり眠つてしまひました」
お兼の言ふことはなか〳〵行き屆きますが、その語氣のうちにも、死んだお吉の驕慢な態度に對する非難がこもります。
「それは何刻だ」
「亥刻(十時)過ぎ、亥刻半(十一時)近かつたと思ひます」
平次はさらに本妻のお八尾、その弟の駒吉にも訊きましたが、下女のお兼の言葉と大同小異で、お八尾はお吉が湯へ入つたのも、風呂場から出て來て、二階へ行つたのも知つてゐるが、家を脱け出して、不忍の池へいつたのは知らないと言ひ、駒吉は、お吉が風呂場へ行つたのさへ知らないと言つてをります。
「その代りお吉が裏の戸を開けて外へ出たのは夢心地に知つてをります。──子刻(十二時)過ぎだつたと思ひますが」
「今朝店の戸は?」
「開いてゐました。變なことがあるものだと思つて外を覗くとあの騷ぎです」
と、駒吉は首を振るのでした。
もう一つ念のために今朝枳殼垣の上にあつたといふ、お吉の着物を見せてもらひましたが、それはお妾らしい派手な長襦袢で、燃え立つやうな緋縮緬の扱帶までも添へてあるのです。
それからお吉の遺品も調べましたが、あんな女にしては思ひの外金を持つてゐたことが異樣に思はれましたが、遺書一つあるわけでなく、押入も手文庫も亂雜で不潔で、この女のだらしのなさを念入りに暴露してをります。
「親分、妙に氣になることばかりですね」
「お前もさう思ふか、──いかに女の無分別でも、腰きりの水の中へ裸體で飛び込んで、しやがんで死ぬのは少し變だな」
「何んか良い智慧はありませんか」
八五郎は腰の十手などを拔いて、妙に四方を物色してをります。
「ないな、一度歸つて考へるとしようよ。お前は氣の毒だがこゝへ殘つて、船を出して池の中を搜さしてくれ。鰻掻きのコツでこの邊一帶に掻き廻したら、何にか面白いものが出て來るかも知れない」
平次はそれつきり明神下へ引揚げてしまつたのです。
その日の夕刻、八五郎の『大變』がもう一度平次の住居を驚かしました。
「何んだ八、全くお前と言ふ人間は附き合ひきれないよ」
いま〳〵しさうに言ふ癖に、平次に取つては、この八五郎の忠實さが嬉しくてたまらない樣子です。
「でもこいつは驚かずにはゐられませんよ。三輪の萬七親分が乘り出して來て、鹿野屋の内儀──あの淋しさうなお八尾を縛つて行きましたよ」
「それは本當か」
「池の端の枳殼垣の中──あのお吉の長襦袢を脱ぎ捨ててあつたあたりに女の櫛が落ちてゐたんで」
「誰のだ」
「金で蒔繪の入つた、べつ甲の櫛、そいつは紛れもなく内儀のお八尾の品ぢやありませんか、──あわてた野郎がそれを拾つて、ウロウロ池の端をあさつてゐる萬七親分に見せたからたまりません。妾を二人殺したのは、本妻の仕業に違げえねえと、萬七親分は鬼の首でも取つたつもりで、あの女を縛つて行きましたよ」
八五郎の報告には泡も飛べば埃も立ちます。
「そいつは恐ろしい見當違げえだ。あの女一人の力で、若くてイキの良いお吉を擔ぎ出し、不忍の池へ投り込めるわけはねえ。お吉は間違ひもなく水を呑んでゐるから、池へ投り込まれる前は生きてゐた筈だ」
「行つてそれを教へてやりませう。お關とお吉が死んだ時、神妙に線香でも上げてやつたのは、あの内儀だけぢやありませんか」
「よし〳〵、俺もそれを考へてゐたよ」
平次はもう一度、眞夏の夕方の街を明神下から池の端へ飛んだのです。
丁度池の端の、鹿野屋の前のあたりまで行くと、平次が八五郎に言ひ付けて出した小船の一隻が、鳶口の先に長い巾を引つかけて、何やら池の中から引出してゐるところでした。
「おや? 大きな石を二つ縛つてあるぜ、容易には上がらねえわけだ」
人足の男がようやくそれを船の中に引揚げたところへ、折よく平次と八五郎は顏を出したのです。
「親分、變なものがありましたよ」
岸へ漕ぎ寄せて、枳殼垣へ引つ掛けたのを見ると、紛れもなくそれは、緋縮緬の扱帶で、斑々として絞り染のやうに薄黒くなつてゐるのは、泥に交つた古い血の凝固だつたのです。
「これだよ、八、お關が自分の膝を縛つたのは。武家出の若い女は、死んでから取亂さないやうに、それくらゐの嗜はある筈だと思つたよ──お關の死んだ後で、あの部屋へ入つた人間が、この扱帶を解いてわざと死骸を引つくり返し、匕首を左手に持ち換へさせて、人に殺されたやうに拵へたのだ」
「なんだつてそんなことをしたんでせう」
「お吉の部屋の入口の引手に血まで塗つたところを見ると、お吉を下手人にしたかつたのだらう」
「へエ」
「これほどお吉が怨まれてゐるとわかると、話は段々むづかしくなるぢやないか」
「?」
八五郎には何が何やらわかりませんが、平次はグングン鹿野屋に入つて行くと、店にゐる番頭の源助をつかまへていきなり言ふのです。
「風呂場へ案内してくれないか」
「昨夜のまゝ、まだ湯も拔かずにあると思ひますが、何しろこの取込みで」
「その昨夜のまゝが見たいのだ」
平次は追つ立てるやうに、店中の環視の中を、まつ直ぐに風呂場に案内させました。
さすが大町人の寮の風呂場で、それは贅澤を極めたものですが、さすがにたそがれて、窓から入る夕あかりでは隅々までは眼が屆きません。
「灯」
と平次が聲をかけると、默つて廊下に用意してある手燭に灯を入れて、風呂場に持つて來たものがあります。緊張して少し青い顏をしてをりますが、案外落着いた内儀の弟の駒吉です。
「俺は大變な間違ひをしてゐたんだ、──お吉の死骸の額にひどい摺り剥きがあつた、あれは多分、池の中で石か何んかでやられたことと早合點してゐたが、今考へると、そいつは恐ろしい見當違ひさ」
「──」
「見るがいゝ、この鐵砲風呂には水が八分目入つてゐる。人間がこれへ入つて身體を沈めると、水は丁度縁まですれ〳〵になるだらう。その時誰か風呂場へ入つて來て、不意に蓋をして上から押へたら、風呂の中に入つてゐる人間は、首をあふむけにしてもがくに違ひない、──すると摺り剥き傷は頭の上ではなくて鼻から額へつくわけだ、──ところで、上から押へる力が強くてたうとう溺れ死んだ時、下手人はそつと死體を風呂場から擔ぎ出し、誰も氣が付かぬやうに外へ持出して、すぐそこの池の中へ滑り込ませることは何んでもない、──着物はあとで持つて行つて、枳殼垣の上へ投り出せばいゝ」
平次はさう言ひながら、風呂の蓋を取つて、僅かににじむ血の痕を見せるのです。
「誰ですそれは?」
八五郎は十手を拔いて、又あたりを物色し始めました。風呂場の中には源助と駒吉、入口には文五郎と平次とお兼の顏が覗いてをります。
「お關の膝の扱帶を解いて、匕首を左へ持ち換へさせた奴だ」
「?」
「女ではない、力のある男だ。お吉ほどの丈夫さうな女が、死物狂ひになつても、下から風呂の蓋を撥ね上げられないほどの力のある人間だ」
「内儀のお八尾は?」
「内儀ではない。内儀はそんな力がない」
「枳殼垣に落ちてゐた櫛は」
「内儀は悧巧な女だ、お吉を誰が殺したか知つてゐるのはあの内儀だけだ。いつかはお吉が身投げではなくて、殺されたのだと分るかも知れない。その時下手人を縛らせるのが氣の毒だから、萬一の時俺達を迷はせるために自分の櫛を垣の中へ投り込んで置いたのだ、──あの内儀はさう言つた女だ」
「お内儀が庇つたのは誰です、親分」
八五郎はます〳〵せき込みます。
「八、後ろを見るがいゝ、自首して出る氣だ。繩にも及ぶものか」
八五郎はハツと後ろを振り返ると、流しの板敷の上に、手燭を持つた駒吉が、崩折れたやうにしやがんでゐるではありませんか。
「恐れ入りました。錢形の親分、姉が縛られた時、名乘つて出なかつたのは、未練なやうですが、私は三輪の親分の手柄にしたくなかつたんです」
駒吉は流しに手を突いたまゝ言ふのです。
「お前は四角な字も讀めるといふことだ。なんだつてこんな無分別なことをしたんだ」
平次はその前にしやがみました。弟に意見でもしてゐる調子です。
「姉が可哀想でした、──同じ屋根の下に妾二人と一緒に暮して、燒餅らしい顏もしてはならないやうに馴らされた、姉が氣の毒でなりませんでした。──それに、あのお吉といふ女は唯の女ぢやありません。お關もたうとう、あの女にさいなまれて自害をする氣になりました。放つて置くと今度は、姉がやられるに決つてをります。血を分けた弟の私には、あんなに取濟まして靜かにしてゐる姉の胸のうちが火のやうに燃えてゐるのがよくわかります」
駒吉は觀念しきつた態度で、何も彼もブチまけるのです。
「お前はお吉を殺す氣でこの風呂場へ入つて來たのか」
「飛んでもない、──私は凡夫でございます。憎い〳〵と思ひつゞけながら、あのお吉の妖しい美しさに引かれました。お吉はまたそれが面白くてたまらなかつたのです。私はフラフラと來て、憑かれたやうに風呂場の戸を開けてしまひました。すると、風呂桶に入つて美しい半身を見せて突つ立つてゐたお吉は──」
「──」
「驚きもすることか、につこり笑つて、──からかひ面に流し眼をくれたまゝ、後ろ向に風呂の中へ身體を沈めたのです」
「──」
「私は三十のこの歳まで、女遊び一つしたことのない人間です。私は學問と理窟で自分をさいなみ續けて來ましたが、昨夜といふ昨夜は、たうとうお吉の阿魔に負けてしまひました。私は前後の考へもなく、夢中で風呂の蓋を取つて、あの女の頭の上に冠せてしまつたのです。──私はあの女を殺してしまひました。──でなければ私は、何をやり出したかわからなかつたのです。姉が私を庇はうと思つて餘計なことをしてくれなければ、私は知らん顏をしてゐたかも知れません、──風呂の中からニツコリしたあの女の美しい顏に取憑かれながら、──」
駒吉は言ひをはつて崩折れてしまつたのです。
「よし、よく言つた。俺はお吉を殺したお前より、金のあるに任せて、妾を二人も飼ひ、女房と同じ家に住まはせて、通人氣取りで脂下つてゐる猅々のやうな小汚い野郎を縛りたいが、さうも行かないのが十手を預かる悲しさだ。本來なら三輪の親分の手柄にして、俺は澄まして引揚げたいところだが、それぢやお前も浮ばれめえ。今度はお奉行所までもついて行つて、俺の手柄に代へてもお前の命乞ひをしてやる。サア」
「立てツ」
八五郎は怒鳴りましたが、その聲は妙に濡れてをりました。
文五郎はコソコソと姿を隱した樣子。夏の夜の池の端には、彌次馬が一パイ犇めきます。
底本:「錢形平次捕物全集第三十卷 色若衆」同光社
1954(昭和29)年8月5日発行
初出:「読物時事」
1949(昭和24)年9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年9月24日作成
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