錢形平次捕物控
晒し場は招く
野村胡堂
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「親分、日本橋の騷ぎを御存じですかえ」
「知らないよ。晒し物でもあつたのか、──相對死の片割れなんかを、ぼんやり眺めてゐるのは殺生だぜ」
平次は氣のない顏をして、自分の膝つ小僧を抱いたまゝ、縁側から初秋の淺黄色の朝空を眺めて居ります。
八月になつて、少し凉風が立ち初めると、人間共も本心を取戻したか、御用はびつくりするほど暇。その代り質草も粉煙草も、結構な智慧までが盡き果てて、かう毎日天文ばかり見てゐる平次だつたのです。
お勝手では、カタコトと、お仕舞やら三度の食事の支度やら、女房のお靜の氣はひは絶える折もなく、平次の閑居は貧乏臭くはあるにしても、まことに充ち足りた、その日〳〵だつたとも言へるでせう。
其處へ時折子分の八五郎が、旋風のやうに飛び込んで來るのです。持ち込んで來る『大變』は十の一つもモノになれば結構で、大概は粉煙草と澁い茶にありついて、飄々として歸つて行くのが例ですが、どうかするとまた、飛んだ大物を嗅ぎ出して來て、平次に一と汗かゝせることがないでもありません。
「晒し物には違げえねえが、それが大變なんで」
八五郎はネタの出し惜みでもするやうに、長んがい顎を撫で廻します
日本橋の晒し場には、心中の片割れから女犯の僧と言つたやうなものが、諸人への見せしめに晒され、晒される方はまた、それを死ぬより辛い耻としたればこそ、刑の目的も達したわけですが、今の僞惡者達なら、宣傳效果の逞ましさを狙つて、進んで晒され度いと言ふ者が出て來るかもわかりません。
それは兎も角、八五郎の報告は奇つ怪を極めました。
日本橋の東詰の晒し場、この間まで相對死の片割れの、不景氣なお店者を晒してゐた筵圍の中に、五十前後の立派な中老人が、死骸になつて晒されてゐるといふのです。
お上のしたことでない證據は、日本橋の橋番所でも知らず、その上日本橋の晒し物は、近頃殆んど生きた人間に限られ、死骸の晒し物などは幾年もないことで、わけても死骸の傷は、脇腹を深々とゑぐられ、更に止めまで刺されてをり、尚ほ變つて居るのは、その死骸の側に、大鋸が一梃、血まで塗つて置いてあることだつたのです。
鋸引の極刑は今頃──平次が盛んに活躍して居る頃──は絶えてないことですが、古老の昔語りには殘つて居り、主殺し親殺しなどといふ無道の極惡人に對しては、君臣制度や家族制度の保護のために、多分に封建的な政略の意味も含めて、これが實際に行はれて居たことは言ふまでもないことでした。
最初は極刑を受くる者の全身を箱に入れ、或は半身を土中に埋めて、通行人をして、望む者があれば、備付の鋸でその首を引かせ、あらゆる苦痛を與へて、七日にして漸く息を引取つたなどといふ記録が殘つて居ります。
最初は鋸も竹製であつたらしく、後にはそれが金の鋸になり、更に首を引く望み手も少なくなつたものか、單に處刑者の首に傷をつけて、側に置いた鋸に血を塗るだけに止まり、更に下つては、形式的に鋸を側に置くだけになつたと物の本に書いてあります。
切支丹宗徒は磔刑にされ、火を放つた八百長お七は火焙になり、主殺しの直助權兵衞は鋸引にされたといふことは、この時代の世相の反映で、邪宗門と放火と主殺しが、極刑中の極刑を以つて戒しめられるところに、無智なるが故の爲政者の恐怖と、封建性の殼を守り拔かうとする見かけだけの嚴重さがあつたわけです。
「そいつはイヤな惡戲ぢやないか。晒された人の身許がわかつたのか」
八五郎の報告が終るのを待ち兼ねて、平次は訊ねました。
「晒し物を見付けたのは夜の白々明け。四半刻と經たないうちに身許がわかつて、一應お役人立ち會ひの上、引取つて行きましたよ」
「誰だえ」
「誰だと思ひます、親分」
八五郎は自分の話の奇拔さに陶醉して、すつかり持たせ振るのです。
「止せやい、馬鹿々々しい。俺とお前でないことは確かだ。それとも、江戸中の人間の名前を並べて見ようか」
「へツ、それには及びませんがね、江戸一番の無事な人間──殺されさうもない人間が殺されて居るんだから──親分だつて驚きますよ」
「驚くよ、驚きや宜いんだらう」
「通り三丁目の翁屋小左衞門で」
「何? あの一代に江戸で何番といふ身上を拵へた、翁屋の主人が殺された上に日本橋に晒されたといふのか」
「こいつはびつくりするでせう」
「あんな評判の良い人がね。誰が一體そんな事をしたのだ」
「それがわからないから、あつしが錢形の親分のところへ來たぢやありませんか」
「よし、お前に負けた。あの邊は繩張り外だが出かけて見よう」
「そら來た、占め、占めと」
八五郎は平次を引張り出すのが役目だつたのです。
平次と八五郎が、通り三丁目の翁屋に着いたのはもう晝近い時分でした。前代未聞の事件で、騷ぎが大袈裟だつた爲か、遠い親類も近い他人も一ぺんに突つ掛け、店から奧へまこと押すな押すなの混雜です。
かゝる際にも取つて付けたやうなお世辭を言ふ、番頭の市助に案内されて、平次と八五郎はその人混みの中を、奧へと通りました。縁側の端つこに除けたり、障子の蔭へ滑り込んだり、彌次馬か弔問客かわからない人達は好奇の眼を光らせて、この名ある岡つ引を見送るのは、あまり結構なたしなみではありません。
奧の八疊、かなり豪勢な部屋に、主人小左衞門の死骸は、清められたまゝ贅澤過ぎるくらゐな床の上に寢かしてありました。佛の前には俄のことながら一と通りの香華を供へて、主人の妾お春と、主人には義理のある伜の松次郎と、その妹分で、いづれは松次郎と祝言させる筈の貰ひ娘のお袖が、ひどく取逆上た樣子で、憑かれたもののやうに香ばかり燻して居ります。
平次は行脚り寄つて香を捻ると、家族の人達へ一應の挨拶をして、問題の死骸の側に膝を寄せました。死骸は夜露に打たれたせゐか黄色く引締つて、蝋化したやうな感じですが、打ち見たところ榮養も良く、五十とは思へぬ若々しさで、身體全體も何んとなく逞ましい感じがあり、昔は武家であつたといふ噂を思ひ出させます。
傷は左脇腹を、袷の上からひどくゑぐられたもので、何んかの彈みで左手を擧げたときやられたらしく、刀の切つ尖は間違ひもなく心の臟を破つてゐさうです。
「袖は縫はれてゐませんね」
八五郎は側から口を出しました。
「良いところへ氣が付いた、──まるで手を擧げて、此處を刺してくれと言つたやうぢやないか」
平次は珍らしく八五郎を褒めて、斯う註を添へます。腕にも袖にも何んの異状もなく、脇の下へ眞つ直ぐに刀を突つ込むといふことは、餘程の偶然の機會でも掴まなければ出來さうもないことです。尤も外に喉笛に一箇所の突き傷がありますが、これは死んだ後の止めで、あまり血も出て居りません。
「飛んだことでしたな、御新造」
平次は一とわたり死體の調べが濟むと、振り返つて、神妙に控へてゐる、妾のお春に聲を掛けました。妾と言つても、今から五年前小左衞門の先妻──即ち松次郎の母親が亡くなつてから、間もなく翁屋に入つた女で、水商賣などの浮いた女ではなく、もとは武家の出といふ噂があり、近く本妻に直して、親類中へも披露をすることになつてゐるといふ、押しも押されもせぬ翁屋の内儀だつたのです。
年の頃は三十そこ〳〵、美しいといふよりは、確りした女でした。小柄で色白で、中高の顏、大きい眼、何處までも知的で、透明でそしてイヤ味のない女ですが、世馴れた三十女らしく、言葉の端々、身じろぎの節々に、得も言はれぬ魅力──色つぽさとは又違つた高貴な匂ひの漂ふ女でした。
「有難うございました。──私はもう途方に暮れてしまひましたよ、親分」
お春はさう言つて、痛々しいほど萎れるのです。五年もつれ添つた主人に死なれてしまつては、本妻に直して貰ふ望みも斷たれ、やがてはこの儘妾手掛の名で、この家から抛り出される運命でせう。
「ところで御主人が昨夜出かけたのは?」
「まだ薄明るい頃でした。鎌倉町の津々井樣へ、久し振りで碁を打ちに行くと申しまして」
「で?」
「長くなりさうだからと、供をして行つた小僧の留吉を先に歸し、少し醉つて、津々井樣を出たのは、亥刻半(十一時)、子刻(十二時)近かつたと申します」
「それで、昨夜一と晩歸らなかつたので心配したことでせうな」
「子刻(十二時)過ぎになつても歸らないので、心配いたしました。店から久治どんや留吉や、番頭の市助どんまで出て貰ひましたが、一向に行先がわからず、津々井樣を出たのは確かですから、何處かへ廻つたことと思ひ込んで、諦めて今朝まで待つて居りますと、あの騷ぎで──」
お春はその時の驚きを思ひ出したらしく、大きく固唾を呑んで、自分の胸を押へるのでした。
「脇差か何にかを用意はしなかつたんで?」
「紙入止めの脇差を一本差して居りました。もとが武家だつたので、一本でも差さないと腰がきまらないからと申して居りました」
「その脇差は?」
「何處へ行つたか見えません」
「身體は丈夫だつたことでせうな」
「至つて丈夫でしたが、唯、二三年前から輕い中風の氣味で、左の腕と足が重いやうだと申し、氣をつけて見ると、少し跛足を引いて居りました」
妾お春の答へは何んの淀みもなく、申分のないほどハキハキして居ります。
「御主人を怨む者は?」
「そんなものはある筈もございません。御存じの通り、人樣にはよくしてやるのが主人の流儀で──」
さう言はれると、平次はまさに一言もありませんでした。翁屋小左衞門は、短かい間に一と身上を築き上げた精悍無比な腕きゝでしたが、五十近くなるとさすがに氣が挫けたらしく、近頃は慈悲善根と言つたやうな、誰でも暮しが樂になると考へつく、後生願ひの投資に一生懸命で、人に彼れこれ言はれるやうなサモしい行ひなどは微塵もなかつたのです。
「武藝のたしなみは?」
「自慢をして居りました。──でも昔二本差したことのある殿方は、どなたも腕自慢を遊ばすやうで」
お春の頬は僅かに綻ろびます。この女の聰明さは、妙なところまで觀察してゐるのでした。
お春の話によると、翁屋小左衞門はもと總州關宿七萬三千石、牧野備後守の家中で、碓氷貞之助と名乘り、中士格ながら羽振りの良い侍でしたが、同僚と爭ふことがあつて永のお暇となり、聊かの知邊を頼つて翁屋に身を寄せ用人棒とも手代ともなく暮して居るうち、その商才の逞ましさを、先代小左衞門に見込まれて番頭に引揚げられ、翁屋内外一切の事を支配しましたが、二十年前先代の小左衞門が急死した時、親類方の勸めで後家お友のところに入聟となり、番頭から主人への早變りをしたのだといふことです。
小左衞門の商才は、翁屋の主人になると益々冴えて、この二十年間に翁屋の身上を、三倍五倍にしたと言はれて居ります。もとは裏廻りのさゝやかな小間物屋でしたが、土地と家作を買ひため、その上廻した金が利子を産んで、何時の間にやら表通りに堂々たる店を張り、昔ながらの小間物屋の暖簾は掛けて居りますが、もとがもとだけに、橋の南きつての良い口きゝになつて居りました。
伜の松次郎は二十四歳、これは先代小左衞門の忘れ形見で、殺された小左衞門とは繼しい仲ですが、小左衞門には本當の子がなかつたので、自分の子のやうに大事に育てて來た──と、これはお春も番頭達も、近所の衆の噂も一致して居ります。
逞しい繼父の小左衞門に似ず、華奢で、ちよいと良い男で、そして遊び好きらしい、にやけたところのある若者、八五郎などの嫌ひな型に屬する若旦那型です。
「若旦那は昨夜何處に居なすつた」
平次はこのニヤケ男に鉾を向けました。
「風邪氣味で、私の部屋に引込んで休んで居りました」
「時刻は?」
「戌刻半(九時)頃でしたが」
「誰も一緒に居た者はなかつたことだらうな」
「へエ、いつも部屋へ引込めば私一人で」
「部屋は?」
「向うの端になつて居りますが」
平次はそれ以上は追及しませんでした。が八五郎に眼配せすると、心得た八五郎は何處かへ飛んで行つたことは言ふまでもありません。
娘のお袖といふのは十八、これは遠縁の親類から貰つた養ひ娘で、行く〳〵は、松次郎と一緒にして、翁屋を繼がせようといふのが小左衞門の腹らしく見えましたが、お袖があまりに若過ぎ、内氣過ぎて、遊び好きの若旦那松次郎の相手は勤まらなかつたらしく、二人は何時までも他人で、若旦那の松次郎は羽を伸ばして遊び呆けてゐる樣子でした。
尤も、お袖は大した美人ではなく、目鼻立が整つて居るといふだけで、媚態とお世辭と戀や遊びの技巧を嘗め盡してゐる松次郎の相手には、喰ひ足らなかつたことは想像されます。紅も白粉も心持だけ、瓜實顏の淺黒い顏の色までが、健康さうで一種の魅力ですが、脂粉の氣に中毒した松次郎には、それは野暮つたく頼りなく、埃臭く見えたことでせう。何を訊いても一向に埒があかず、平次も諦らめて外へ出る外はありませんでした。
縁側へ出ると、若い小意氣な男が庭のあたりをウロウロして居ります。手代の久治と言つて二十八、これは平次の調べの模樣を、よそながら立ち聽くつもりだつたかもわかりません。
「お前は?」
「久治と申します。へエ、奉公人で」
「翁屋の身寄りではあるまいな」
「唯の奉公人で長い間お世話になつて居ります。十五六年になりますが」
長い間のお店者の生活で、強かな魂と、柔順な態度と、そして利害に敏い眼とを養はれたらしい久治は、平次の拔け目のない問ひの前に、自若として愛嬌笑ひを忘れません。
「主人はどんな人だつた」
「良い方でございました。世間の評判通り、慈悲深くて、思ひやりがあつて」
「それほど、わけのわかつた主人が、暖簾をわけてやるでもなく、お前のやうな立派な男を、十五六年も雇つて置いたのはどういふわけだ」
「私は身寄りも何んにもなく、年季が過ぎても進んで此處に奉公して居たのでございます。暖簾でもわけてやらうと言ふお話もありましたが、私の方から辭退して居りました。その邊のことは番頭さんにお訊き下さればよくわかります」
恐らくそれは本當のことでせう。久治の態度には、聊かも惡びれた色はありません。
番頭の市助は四十五六の物の汚點のやうな男でした。平次が久治と別れて、家を一と廻りすると、物言ひ度氣に、その後から跟いて來て、木戸を開けてやつたり、小石を拾つて退けたり、うるさく世話を燒いて居ります。
「若旦那の部屋といふのは?」
「此處でございます」
突き出したやうに建て増した、新しい四疊半を市助は指します。
「此處へ獨りで休んで居ると、勝手な時、夜でも夜中でも外へ出られるわけだな」
「──」
市助は默つてしまひました。平次の問ひに含まれた重大な意味に怯えた樣子です。
「あれは?」
平次は氣を變へて、翁屋の裏に建て連ねた五六軒の長屋を指しました。
「亡くなつた旦那の御親切で、古いお知合でお困りの方をお入れ申して居ります」
「それは奇特なことだな──どんな人が入つて居るんだ」
翁屋小左衞門が慈悲人情を辨へるといふ話は、斯んなところから生れて來たのでせう。長屋はほんの八坪前後、まことに見る影もないものではあるにしても、唯で人を住ませる爲に建てるといふことは、容易のことではありません。
「大抵は町内の困つた方々でございますが、中には昔主人がお侍だつた頃の朋輩衆の身寄りの方もあります」
「例へば?」
「麻井大七郎樣の御子樣方で、幸之進樣に、お加奈樣など」
「その方にちよいと會つて行かう」
平次は木戸を開けて裏の路地へ出ると、早速その突き當りの長屋の前に立つて居りました。
「御免下さい」
「──」
美しい娘の姿がチラと見えましたが、平次を見ると少しあわて氣味に、バタバタと次の間へ入つて、入れ代つて、二十三四の若い男が立ちはだかるやうに入口に立ちました。
「何にか御用かな」
若い男の肩は少し聳えます。相手を岡つ引と知つて居る樣子で、その露骨な反感に、妙にわざとらしさがあります。
「麻井幸之進樣でせうな」
相手は尾羽打枯らして居りますが、明かに武家とわかつて居るので、平次は少し丁寧になりました。
「左樣」
「翁小左衞門樣とは昔からの御眤懇で?」
「關宿で、父が同役であつたよ」
「御親父樣は?」
「二十年前人手にかゝつて相果てたといふことだ。──その場に居合せて、早速の敵を討つてくれたのが、碓氷貞之助殿──即ち翁屋小左衞門殿だ」
平次は默つてその先を促しました。
「そのため、碓氷殿は、朋輩を刄傷したかどで永の暇。麻井家には何んの御とがめもなく當時五歳の拙者は叔父の後見で跡目を相續することになつた。併しそれも一時、拙者元服すると間もなく、十何年前の爭ひが卷き起された」
「──」
「亡父の怨みの相手、石崎一族の讒言で、拙者も家を追はれ、妹と二人、江戸へ參つて艱難して居るところを、フトした事から碓氷氏に見出され、仕官の道の開けるまで、この長屋に住んで居るといふわけだ」
「ところで、仕官の御心當りは?」
「幸ひ、申分のない口があつた。西國のさる大々名の御見出しだ。九月にでもなれば御目見得の運びになる筈」
「それはお目出度いことで」
平次は一應のお祝ひを言ふのでした。
「もうそれで宜いのか」
と麻井幸之進。
「麻井樣、御妹樣から一寸お話を承り度いのですが」
「左樣か。これよ、加奈」
「ハイ」
妹の加奈は逃げも隱れもならず、恐る〳〵顏を出しました。丸ぽちやの、お品の良い二十歳くらゐの娘です。
「お孃樣、變なことを伺ひますが隱さずに仰しやつて下さい」
「ハイ」
「あのお兄樣は、昨夜、一と晩何處へもお出掛けはなかつたでせうな」
「ハイ」
お加奈は膝に兩手を置いて、顏を眞つ直ぐに、何んの躊躇もなく答へるのでした。
「どうも有難うございました。飛んだお邪魔で」
平次はもう、この上訊くこともありません。
「親分いろ〳〵面白い事がわかりましたよ」
八五郎はフオツクス・トロツトの足取りで戻つて來ました。非常に得意になつて居る證據です。
「先づ妾のお春の評判はどうだ」
「申分なし。日本一の貞女で、江戸一番の賢い女で、女の癖にケチでなくて」
「女の癖にケチでないはひどからう」
「親分ところの姐さんは別ですが」
「言譯には及ばないよ」
「あんな町内受けの良い妾は神武以來ですね」
「言ふことが大袈裟だな」
「權現樣御入國以來と言つても宜い」
「それから?」
「それに比べて、若旦那の松次郎は、──あれは大變な野郎ですよ。おしやれで高慢で、道樂が強くて親不孝で」
「まるで八五郎見てえだ」
「冗談ぢやありませんよ」
「殺された義理の父親小左衞門との仲は?」
「犬と猿だつたさうで。あんな結構な旦那を殺したのは、あのニキビ野郎に違げえねえと專ら近所の噂ですよ。ちよいと脅かして見ませうか、ペラペラと親殺しの始末をしやべつちまひさうですぜ」
「いや、まだ證據はない──尤もあの若旦那の部屋から、夜は何處へでも人知れず拔け出せることは確かだ」
「新右衞門町の小唄の師匠お里榮のところへ毎晩入り浸つてゐるさうですよ、──ところで親分」
「何んだえ、ひどく改まつて」
「あの翁屋の裏の長屋に居る、若い浪人者兄妹に會ひましたか」
「會つたよ。それがどうしたんだ」
「あの兄の方の幸之進とか言ふのが、翁屋の主人には海山の恩を受けて居るから、下手人がわかつたら、繩を打たせる前に、きつと斬つてやる、──と言つてゐるさうですよ」
「成程、そいつは厄介だな。外に聽き込んだことはないか」
「まアそんなところですね」
「手代久治の身持はどうだ」
「大箆棒で」
「何んだえ、その大箆棒といふのは」
「ちよいと良い男でせう。翁屋の手代だ、金廻りだつて惡くない筈でさ。それがまるつきり遊ばないんですつて」
「言ふことが變だな。遊ばない人間が大箆棒なら、俺だつて大箆棒だぜ」
「お靜姐さんといふものが付いてまさあ、江戸一番の貞女だ」
「止さないか、人聽きの惡い。ところで遊ばないのが大箆棒なら遊ぶのは何んだ」
「大馬鹿野郎で」
「どつちにしても助からねえな、──お前なんざどつちの口なんだ」
「癪にさはるが何方でもありませんよ。大馬鹿野郎になりきるほどの金は無し、大箆棒になるにしては、少し浮氣つぽい」
「自分でさう極めて居るんだから世話アねえ。ところでその大箆棒の話だが、久治は何にか大望でもあるのか」
「白雲頭の頃から翁屋に奉公して、親爺は間違ひもなく中氣で死んでゐるから、親の敵を狙つてゐる筈はありませんよ。それに二十歳頃までは、なか〳〵よく遊んださうで」
「大箆棒と大馬鹿野郎と一人で兼ねて居るとして、番頭の市助はどうだ」
平次は話題を變へました。
「あれは大間拔けですよ。──尤も取り込むことは名人で、若旦那が道樂をしようが、手代の久治が皮肉を言はうが、一向お構ひなしでせつせと自分の懷中へ、主人の金を取り込んでゐるさうですよ」
「それぢや、大間拔けでもあるめえ」
「その金を内々で八分に融通してゐるが、半分は踏み倒されるといふから、あまり利口な人間ぢやありませんね。せつせと稼いで溜めた金は、三文無くしても惜しいわけだが」
「博奕打や相場師や──大きく儲ける人間は金づかひが綺麗で、バラ撒くことを何んとも思つちや居ない、──市助が金にこだはらないのは、ワケがありさうだな」
「主人の金を取り込めば、氣も大きくなりますよ」
八五郎と一かど哲學らしいことを言ふのでした。
「親分、これから先は何をやらかしや宜いんで」
「サア」
「もう打つだけの手を打つてしまつたやうですね。歸りませうか」
八五郎はもう諦らめた事を言ふのです。
「いや、出來るだけの證據を集めて置き度い。差當り新右衞門町の小唄の師匠のところへ行つて見ようか」
「あの師匠が何んか知つて居るでせうか」
「若旦那の松次郎が、昨夜師匠のところへ行つたか行かないか、それを訊き度いのだよ」
「行つたといふにきまつて居るぢやありませんか。本當に行つたのなら、誰だつて行つたと言ふし、行かないにしても、若旦那に言ひ含められて、行つたことにするに違ひありません。二人はもう大變な深間だといふから」
八五郎は心得たことを言ふのです。が、直ぐ鼻の先の新右衞門町の、小唄の師匠お里榮の家の、御神燈の下に立つた平次と八五郎は、見事にこの豫想を裏切られてしまつたのです。
「若旦那は──昨夜、口惜しいけれどいらつしやいませんよ。──内弟子も下女も居るしお隣りも近いことだから、訊いて見て下さい。──どうかしたら若旦那は、近頃あの許婚のお袖さんがよくなつたんぢやないか知ら。氣が揉めるわねえ」
そんな事を言つて、洗ひ髮の衣紋をグイと拔く、凄い年増のお里榮だつたのです。
平次は師匠のうちを飛び出すと、
「どうだえ、八。變なことになつたぢやないか」
「何が變で? 親分」
「あの女は若旦那を庇つてやることさへ忘れてゐるんだ。若旦那の松次郎は、親殺しの下手人にされかけて居るのに」
「すると、矢つ張り若旦那が下手人でせうか」
「いや、あの若旦那は、本當に風邪を引いて昨夜は宵寢をして居たかも知れないよ。親殺しでもしようといふ惡黨が、下手人の疑ひを受けた時の逃げ路くらゐは拵へて居るのが當り前だ」
「そんなもんですかね」
「もう一度翁屋へ引返さう。段々面白くなつて來る樣子だ」
平次はひどく張りきつて居ります。
「翁屋で何を搜すんです?」
「まだ會つてねえ人間が一人二人居るだらう」
「下女のお鐵に、小僧の留吉くらゐのものですね」
「それその通り二人も居るぢやないか」
平次と八五郎が翁屋のお勝手から顏を出すと、其處には下女のお鐵が、店から奧への騷ぎも知らぬ顏に、せつせと晝のお仕舞などをして居りました。
「お鐵さんと言つたね。──忙しいことだらう」
平次はさり氣ない調子で聲を掛けました。二十七八、どうかしたらもう少しとつて居るかも知れません。蒼黒い顏をした醜い女で、その醜さを意識して居るだけに、邪推深くて氣が變り易くて、そのくせ涙もろくて、誰にでも自分を訴へずには居られないと言つたタイプの女です。
「何んか御用ですかね、親分さん」
お鐵は濡れた手を拭き〳〵お勝手口へ顏を出しました。
「つまらない事を一つ二つ訊き度いのさ。お前なら知つてる筈なんだが」
「へエ?」
「番頭の市助どんが、何百兩といふ金を廻して居る樣子だ。大店の支配人だから、大金を持つて居たところで不思議はないやうなものだが、それを踏み倒されても、驚く樣子もないのは唯事ぢやない。翁屋の奉公人は、そんなに大金が轉げ込むのかえ」
「飛んでもない親分さん。私は年に二兩こつきりで」
「だから──」
「あれは御新造さんから、そつともらつて居るんですよ」
「御新造のお春さんからか、──番頭さんとは年が違ひ過ぎるぜ」
「あら、そんな色つぽい話ぢやありませんよ。口留め料ですよ」
「口留め料?」
「何んか、動きの取れない證據をつかんで居る樣子ですよ」
「證據?」
「時々御新造に喰ひ下がつて居るところを見ますよ。──尤も、その強請の種がわかりさへすれば、私だつて年に二兩で我慢はして居ないでせうが」
お鐵は慾の深いことを言ふのでした。
「それから、もう一つ訊き度いが、殺された主人と、一番仲の惡かつたのは誰だ」
「若旦那樣ですよ」
お鐵の答へは至つて簡明です。
「主人と仲の好かつたのは?」
「さア、お孃さんか知ら、──それとも、お長屋の麻井幸之進樣か知ら、──麻井樣とは親子のやうでしたよ。旦那樣が左足が少し惡かつたので、縁側から降りる時なんか、御新造樣かお孃さんか、でなければ、麻井樣が肩をお貸ししてあげることになつて居りました。──番頭さんや久治どんでは、抛り出されさうで氣味が惡いと仰しやつて」
お鐵の話はなか〳〵に行屆きます。
「有難う、お蔭でいろ〳〵の事がわかつたよ。それからもう一つ、これでお仕舞だが、昨夜主人が歸らなくて心配した時、皆んな外へ出て見たことだらうな」
「え、私と若旦那の外は、皆んな一度づつ外へ出ました。番頭さんと久治どんは、鎌倉町の津々井樣まで二度も行きましたし、留吉どんとお隣りの麻井樣は、日本橋からお濠端へ出て、江戸橋の方まで廻つて見たと言つて居ました」
「御新造は?」
「一番心配して、遲くまで外に居たやうです」
それはさもありさうなことでした。
「サアわからねえ。これはどう言ふことになるんです、親分」
八五郎はたうとう音をあげました。
「だん〳〵わかつて來るぢやないか。それ見ろ、誰か飛んで來るぜ」
平次は早くも、土地の下つ引が二人、此方へ飛んで來るのを見付けました。
「親分、血だらけの脇差が見付かりましたよ」
「何處にあつたんだ?」
「一石橋の下へ抛り込んだのが、運よく石垣に引つ掛つて、わけもなく見付かつたんで」
「誰の差料だ」
「殺された主人が昨夜差して居た脇差に間違ひありません」
「鞘はなかつたのか」
「鞘は見えませんが、何處か下水へでも抛り込んだことでせう──それからもう一つ」
「──」
「晒し場に置いてあつた鋸は、此家の物置から持出したものとわかりました」
「目印でもあつたのか」
「番頭さんが來てさう言ふんだから間違ひないでせう」
報告がをはると、二人の下つ引は日本橋へ引揚げて行きます。
「聽いたか、八」
「聽いた筈ですがね? それがどういふことになるんです」
「下手人の正體が段々わかつて來るといふことさ。──ところでもう一と働き」
「何をやるんです」
「西御丸下の牧野備後守樣御上屋敷だ」
平次や八五郎に取つては、大名屋敷はこの上もない厄介な場所でしたが、藩主備後守は幸ひ總州關宿に在國で、江戸屋敷は、わけのわかつた、小意氣な御留守居金山主膳が承つて居て、話は思ひの外簡單に埒が明きました。
今から二十年前、關宿藩から追はれた、碓氷貞之助(翁屋小左衞門)のことを訊ねると、
「いや、あれは氣の毒なことであつた。御城下で家中の士三人の果し合があり、麻井大七郎なる者は、石崎求馬なる者に討たれて、碓氷貞之助一人生き殘つたが、善惡邪正は兎も角、爭ひの基は婦人とわかつて、生き殘つた碓氷貞之助殿も、有無を言はせず永の暇と相成つたのぢや」
「碓氷貞之助樣は、石崎求馬樣と麻井大七郎樣を討つたのでせうか、それとも、どちらか一人だけ討つたのでせうか」
平次は押して訊ねました。
「それも最初はわかり兼ねた。碓氷貞之助が二人を討つたとも言はれ、麻井大七郎を討つたとも言はれたが、後に二人の傷を調べた上果し合ひを密かに見て居た者もあつて、麻井大七郎が石崎求馬に討たれ、碓氷貞之助がその石崎求馬を討つて、親友麻井大七郎の敵を討つたものと相わかつた」
「それは確かでせうか、一つ間違ふと大變なことになりますが」
「間違ひはない。碓氷貞之助は手槍を持つて居たし、兩刀には血の跡もなかつた。──ところで討たれた二人の内、麻井大七郎は刀で斬られて居り、石崎求馬は槍で突かれて死んでゐた」
「どうしてそれを?」
「碓氷貞之助殿は、氣の毒なことに殿の御覺えが目出度過ぎて、嫉まれたのぢや。長い間その事を打ち明ける者もなかつたが、年が經つにつれて、正しい方が勝ち、後には生き證人まで現はれたが、今更眞實を知らせるのは殿御英明を傷つけるやうで、そのまゝ伏せてしまつたのぢや。──あれからざつと二十年、もう打ち明けて話しても差支はあるまい」
武家の體面に歪められた、馬鹿々々しい事件の眞相を聽いて、平次も呆れ返つて言葉もありません。
「さア大急ぎだ。──來い八」
「何處へ行くんです」
「翁屋へ引返すのだよ。──くたびれたか」
「疲れたわけぢやありませんが、下手人の見當でも付かなきや、腹が減るばかりで」
「下手人はわかつて居るのだよ。後でうんと喰はせてやる、來い」
「さう言はれるとシヤンとなるから不思議ですね」
無駄を言ひながら、通り三丁目の裏へ入つたのは、もう夕暮近い頃でした。
平次は翁屋を横に見て、その裏の長屋に、麻井幸之進の家を叩きました。
「誰だ。あ、平次親分か。又來たのか」
内職をして居たらしい麻井幸之進は、あわてて取片付けると、無愛想な調子で平次を迎へたのです。
「折入つてのお話がありますが──」
「よし、承らう。これ加奈、暫らく翁屋へ手傳ひにでも行くが宜い」
妹が邪魔になると思つたのか、お加奈を外へ出してやると、幸之進は改めて平次に對しました。
世辭も愛嬌もありませんが、腕は相當にあるらしく、如何にも良い青年武士です。但しこんなのは、思ひの外思慮が淺く、一徹なことをして大間違ひをするのではないか、──平次はフトそんな事を考へて居る樣子です。
やがて二人の座が定まると、平次は靜かに話し出しました。關宿の城下に起つた、二十年前の三人侍の果し合ひの一埒。
「──」
それを聽く麻井幸之進の顏色が、次第に眞つ蒼に變つて、額に脂汗の浮くのを平次は見遁す筈もありません。
「これは牧野備後守樣江戸御留守居、金山主膳樣の打ちあけ話で、一厘一毫の掛け引も御座りません。これが本當とすると、翁屋小左衞門の碓氷貞之助樣は、貴方樣の爲には、親の敵を即座に討つてくれた大恩人」
「──」
「その大恩人を殺した下手人を、御存じならば、打ち明けて下さるのが、二十年前に亡くなられた御父上への大孝。昨夜人手に掛つて死んだ、翁屋小左衞門樣へも、何よりの報恩と思ひますが、如何でせう」
平次は詰め寄るのでした。
「──」
麻井幸之進は、深々とうな垂れてしまひました。脂汗は益々繁く、無念の唇はキリリと血の出るほど噛みしめられます。
「打ち明けて下さらなければ、萬已むを得ません。私は私の役目柄、繩打つて引立てることになりますが──」
「待つた、待つてくれ平次殿。如何にも打ち明けよう。いや、翁屋小左衞門殿を害めた下手人、間違ひもなく引渡さうが──牧野樣江戸御留守居の金山樣にお目にかゝり、この耳でもう一度、二十年前の果し合ひのことが確かめ度い──」
「──」
「たつた一と晩待つてくれぬか平次殿。麻井幸之進、命を投げ出してのお頼みだ」
麻井幸之進は、兩刀を遙かの方に投げやると、疊に額を埋めて平次を拜むのです。
「拜んぢやいけません。麻井樣、──御尤もな御頼みではありますが、それでは?」
「いや、萬一の間違ひに備へて、一と晩、人質として妹加奈をお預けしよう」
「飛んでもない、そんな事」
平次は手を振つてそれを拒みましたが、結局は麻井幸之進の熱意に打ち負かされて、八五郎を促しながら、一應引揚げる外はなかつたのです。
「サア、大變ツ、親分」
翌る日の朝、八五郎が持込んで來た大變は近頃珍らしく猛烈なものでした。
「何んだ、八」
「何んだぢやありませんよ。大變も大變、古渡りの大變、江戸中の大騷ぎですよ」
「わかつて居るよ。あの若い浪人者の麻井幸之進といふ人が、腹でも切つたんだらう」
「あツ、親分はそれを知つて居たんですか」
「知つて居たわけぢやないが、生きて居れば今日は縛らなきやならないのさ」
平次はそんな事まで考へて居たのです。
「たゞ腹を切つただけぢやありませんよ。昨日の朝翁屋小左衞門の死骸を晒してあつた、あの日本橋の晒し場へ入つて、見事に腹を切つて死んでるとしたら、どんなもんです」
「そいつは念入りだな。翁屋小左衞門を、親の敵と思ひ込んで斬つたお詫だらう」
「その上、まだ驚くことがありますよ」
「何んだえ」
「腹を切つた麻井幸之進は、自分の前へ生首を一つ据ゑてあつたんです」
「えツ」
「こいつは親分も目が屆かないでせう」
「誰の生首だ」
「翁屋の妾──あの綺麗で利口で、評判の良いお春の生首ですよ」
「あつ、矢つ張り、さうか」
平次も唸る外はありません、──それだけこの事件は、平次の想像を飛躍して、奧の深いものだつたのです。
× × ×
女の生首を前に置いて、腹を切つた若い武家の噂は、八方に飛んでその前日、同じ日本橋の晒し場に、鋸と一緒に死骸を晒された、大町人翁屋小左衞門の噂と共に、暫らくは江戸中を騷がせました。
事件が漸く落着して、ほとぼりもさめかけた頃、平次は八五郎のために、相變らずこの事件の繪解きをしてやつたことは言ふ迄もありません。
「妾のお春は惡い女さ。手代の久治と仲がよくなつたが、二人共恐ろしく利口だから、用心に用心をして誰にも氣取られなかつた。が、たつた一人、二人の仲の臭いことを嗅ぎつけ、動かぬ證據を握つて居る番頭の市助の口は、慾が深いから金をやつて封じ、不義の快樂に耽つて居たが、何にかの彈みでそれが主人の小左衞門に嗅ぎつけられ、急に殺す氣になつたのだらう」
「太え女ですね」
「だが、小左衞門はもと武家の出で、少し中風の氣味でも、お春や久治には殺せさうもない。そこで、二十年前の關宿の三人果し合ひの事を聞き噛つて居るお春は、思慮の淺い麻井幸之進に取入り、何にか證據のやうなものを拵へて、幸之進の父親麻井大七郎を殺したのは、碓氷貞之助の翁屋小左衞門だと吹込んだことだらう。──さう思ひ込ませたのはお春の利口さと凄い腕だ」
「──」
「幸之進は前後の考へもなく、當の敵の妾の言ふことだから、そのまゝ信用して小左衞門を討つ氣になつたが、丁度その時、長い間の望みが叶つて仕官の道が開けて居るので、今頃敵討騷ぎを起しても、相手が強いから萬一返り討ちになつてはつまらないし、もう一つは仕官の口がフイになるのも恐ろしかつたので、鎌倉町から歸るところを待ち受け、親切らしく持ちかけて、足の不自由な小左衞門の左の腕を自分の肩に掛けさせ、邪魔になる小左衞門の脇差を預ることにして、その脇差を拔いて脇腹へ突つ込んだ」
「──」
「一とたまりもあるわけはない。──小左衞門の死骸の袖にも腕にも刄物の跡のなかつたのはその爲だ」
「鋸は? 親分」
「場所は日本橋近かつたので、幸之進は死骸を晒し場に抛り込んだ。萬人に見せて怨みを晴すつもりだつたらう。──それを主人の迎へに行つた妾のお春が、途中で幸之進から聽いて引返し、自分の家の物置から鋸を持出して、死骸の側へ置いたに違ひあるまい。鋸引は主殺しの處刑だ。翁屋小左衞門が、二十年前の主人だつた、先代の翁屋小左衞門を殺したやうに匂はせ、先代小左衞門の實の伜の松次郎が、本當の親の敵──義理の父親を討つたといふ具合に見せたかつたのだらう」
「へエ、恐ろしく考へたものですね」
「お春といふ女は恐ろしい女だよ、──だがあんまり細工過ぎたのと、あの晩松次郎は間違ひもなく風邪の氣味で自分の部屋に籠つて居たとわかつて、俺は幸之進に疑ひを向けた」
「へエ、どんなわけで」
「翁屋小左衞門が、安心して脇差を預けた上、左手で相手の肩に凭れるのは、麻井幸之進の外にはない」
「成程ね」
「お春に騙されたとわかると、幸之進は矢も楯もたまらなかつた。小左衞門へ詫びる心持でお春を殺して自分も腹を切つたのは、──氣の毒だが思慮の足りなさから起つたことさ」
「あの妹娘のお加奈はどうなつたでせう」
「翁屋の養ひ娘、お袖とは仲よしだから、いづれ引取られることだらう。翁屋は番頭も手代も阿呆拂ひになり、伜の松次郎も眼が覺めて、帳場へ坐るやうになつたさうだから、いづれは評判を持ち直すことだらう」
平次は言ひ了つて、靜かに煙草をすふのでした。これはさすがの錢形平次にも、全部へは眼の屆き兼ねるほどの事件だつたのです。
底本:「錢形平次捕物全集第二十八卷 遠眼鏡の殿樣」同光社
1954(昭和29)年6月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1950(昭和25)年9月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年3月11日作成
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