錢形平次捕物控
子守唄
野村胡堂
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「親分、笑つちやいけませんよ」
ガラツ八の八五郎が、いきなりゲラゲラ笑ひながら親分の錢形平次の家へ入つて來たのでした。
「馬鹿野郎。頼まれたつて笑つてやるものか、俺は今腹を立ててゐるんだ」
「へエー。何がそんなに腹が立つんで?」
八五郎は漸くその馬鹿笑ひに緩んだ顏の紐を引締めました。
「お前のゲラゲラ笑ふ面を見ると腹が立つよ。虫のせゐだな」
「なんだ、そんな事ですか。あつしはまた可笑しくてたまらないことがあるんで。どうにも彼うにも、へツ、へツ、へツ、へツ」
八五郎の顏にはまた煮えこぼれるやうな他愛もない笑ひが蘇へるのです。
「止さないか。お前の馬鹿笑ひを聞くと、氣が重くなるよ」
「だつて親分、あつしは賭をしたんですよ。錢形の親分はそんなつまらねえ仕事を引受ける筈はないといふと、相手の女は──お銀といふ娘ですがね──その女は、この鑑定ばかりは本阿彌が夫婦連れで來ても埒があかないに決つてゐるから、是が非でも錢形の親分を引つ張つて來て、このガン首を二つ並べて置いて鑑定して貰ひ度い。と斯う言ふんでせう」
「馬鹿だなア」
「それに錢形の親分は若くて愛嬌があつて大層好い男だつて言ふぢやないか。そんな人にマジマジと顏を見られるのは本望だからどうしても連れてお出でよ──とこれはお銀の言ひ草ですがね。到頭私とジヤンケンをやりましたよ。あつしが負けたんで」
話の馬鹿々々しさに錢形平次も默つてしまひました。
「約束は約束だから、兎も角親分の迎へに來て、いきなり格子を開けると、とたんに親分の苦虫を噛みつぶした顏でせう。お銀が──愛嬌があつて好い男だつてね──とぬかしたのを思ひ出したんでへツへツへツ」
「止さないかよ、馬鹿野郎。俺は本當に腹を立てるよ」
錢形平次は全く以ての外の氣色でした。でもこんなトボケたことにつれて兎角引つ込み思案になり勝ちな平次を引つ張り出すガラツ八のいぢらしい工作を知らないわけでもありません。
「でも、あつしの顏を立てて行つて下さるでせうね、親分」
「何處へ俺を連れ出さうといふのだ。餘計な細工をせずに、わけを話して見ろ」
「親分が乘出して下さりや占めたもんだ。斯うですよ、──麻布六本木の庄司伊左衞門──親分も御存じでせう」
「金持だつてネ」
「大地主ですよ。江戸開府前からの家柄で、その當主の伊左衞門がまだ若い時分、奉公人の何んとかいふ下女と出來て女の兒を産ませたが、まだ親がかりで話が面倒になり、下女は手當てをして暇を出し、間に出來た女の兒だけ手許で育てたが、嫁のおもよを貰つてから、折合がむづかしくて、その女の兒も親知らずで里へ出した──これが發端で」
ガラツ八の八五郎は語り始めました。
庄司伊左衞門の新妻のおもよは惡い人間ではなかつたが、まだ夢の多い若い盛りで、さすがに下女の産み棄てた繼子のお藤を育てる氣はなかつたのです。それに十兩の金をつけて調布の百姓に『一生音信不通』の約束でくれてやつたのは、今から十六年前のお藤が三つになつた歳の秋でした。その後庄司家の面倒な老人達は死んで、伊左衞門は主人になり、家業は年と共に榮えるばかりですが、どうした事か内儀のおもよとの間に幾年經つても子が生れません。内儀はすつかり氣が挫けて『私の不心得から繼子を育てなかつたので、罰が當つたのだらう』とそればかりを苦にして居りましたが、昨年の暮──まだ三十臺で頓死、これは間違ひもなく卒中で、お勝手で正月料理の指圖をして居るうち、不意に引つくり返つて、遺言する暇もなく息を引取つてしまつたのです。
内儀のおもよが死ぬと、主人の伊左衞門は今は誰憚る者もなく、十六年前里にやつたお藤を搜し出して、養子の伊三郎に娶合せ、庄司家の跡取を定めて安心しようと思ひ立ち、調布へ人をやつて尋ねさせると、肝腎の娘を預けた仁兵衞といふ百姓は、なにか良からぬことを仕出かして、五年前に土地を賣つて行方不知。里にやつた娘のお藤などは、そのずつと前に何處かへやつてしまつて、今は尋ねる術もないといふ心細い有樣です。
「ところが大變なことになりましたよ」
八五郎は話上手に運んで行きました。
「何が大變なんだ」
「行方不知になつた筈のお藤が、一ぺんに二人も出て來たんで──一人は番頭の金五郎が小田原在で手繰つて行つて、漸く搜し出したお銀といふ娘で、こいつは陽氣で、お轉婆で愛嬌があつて──」
「お前とジヤンケンした娘だらう」
「へエ、その通りで。もう一人は掛り人の若い浪人者、庵平太郎といふ人が八王子まで搜しに行つて見付けて來たお舟といふ娘ですがね。これは上品で、確り者で、口數が少なく──困つたことにどつちも綺麗で、何方にも證據がありますよ。お銀の方には、庄司の下女だつた母親から貰つたといふ銀の簪があるし、お舟の方には迷子札がありますがね、干支と名前を彫つた眞鍮の迷子札で──」
「守袋か何にかないのか」
「親知らずで里へやつた兒だから、守袋は持たせなかつたさうです。名前だつて勝手に變へて、一人はお銀、一人はお舟となつて居るでせう」
「それで何うしようといふのだ」
「ちよいと親分──六本木まで行つて、鑑定してやつて下さい。ガン首を二つ並べて、お銀の言ひ草ぢやないが、そりや綺麗な娘ですよ」
「馬鹿」
「へエー」
「そんな間拔けなことが出來ると思ふか、女衒や人買ひぢやあるめえし」
「へエー」
「金持の跡取なんか、どうなつたつて宜いぢやないか。どうしても判らなかつたら、ジヤンケンか籤引で決めるが宜い」
「駄目ですかね、親分。どうしても」
「くどいよ、女の鑑定は俺の柄ぢやねえ。お前が引受けたんだから、お前がやるが宜い。鼻の下を長くして、マジマジと娘の顏を見比べる圖なんざ、八五郎にうつてつけだよ」
錢形平次は斯う言つた調子でした。
それから、四五日經ちました。江戸の街々がすつかり夏姿になつて、苗賣りの聲が薫風に送られて何處からともなく響いて來る頃。
「さア、大變。だから言はないこつちやありませんよ、親分」
ガラツ八は髷節を先におつ立てて飛んで來たのです。
「何が大變なんだ。お前に文句を持込まれる覺えなんかないぜ」
平次は相變らず庭へ降りて、土の冷たさを素足になつかしみながら、物の芽などをいつくしんでゐるのでした。
「親分があの時行つて下されば、斯んなことにならずに濟んだかも知れないぢやありませんか。六本木の庄司の主人──伊左衞門が殺されましたよ」
「えツ」
「だから親分が」
「まア小言をいふなよ八。いかに俺がまめでも、江戸中の人間を一々見張つてゐるわけにも行くめえ。六本木は留五郎親分の繩張りだが、兎も角行つて見るとしようか」
「その留五郎親分は、錢形の親分を連れて來るやうにつていひましたよ」
「よし〳〵わかつたよ。お前はまた誰かにうんと智慧をつけられて飛んで來たんだらう」
平次はそんな事をいひながら、手早く支度をして八五郎を案内に六本木へ急ぎました。
六本木へ着いたのは晝過ぎ、庄司の家は古風な大きい構へで、何んとなく祕密の影の濃い、薄暗い生活ですが、平次の一行を迎へてくれた養子の伊三郎、番頭の金五郎の顏には謹み深い嗜みはあるにしても、さして欝陶しい悲歎の色もありません。
主人伊左衞門の遺骸は離屋のやうになつた奧の八疊に寢かしたまゝ、其處には掛り人の若い浪人庵平太郎を始め、二人の娘──お銀のお藤と、お舟のお藤が、それでも神妙に控へて居りました。
一摘みの香を捻つた平次は、死骸の顏を一と眼、何も彼もわかつたやうな氣がします。慣れた者の眼で見ると、間違ひもなくその苦悶に變つた顏や、皮膚の樣子などから『石見銀山の鼠捕り』と言はれた砒石劑を呑まされたものに違ひありません。
「──」
平次は遺骸をもとの通りにすると、座に還つて默つて其處に居並ぶ五人の顏を見渡しました。
「親分私から申し上げませうか」
平次の意を迎へるやうに、番頭の金五郎は口を開きました。四十七八の分別者で、何んとなく『叩き上げた』と言つた強靱な性格を思はせる男です。
「──」
平次は默つてうなづきました。
「昨夜旦那は酉刻(六時)少し過ぎにこの部屋へ膳を運ばせて、お一人で召上りました、──給仕をして上げたのは、小間使の糸と申す者でございます。その時は何んのお變りもなく大層御機嫌だつたさうですが、お休みになる前亥刻(十時)近くでございました。いつものやうにざつと一と風呂お温まりになつて、御酒を一合ほどつけ──」
「風呂場は何處だ」
「此處から母屋へ行く途中の左手でございます。──お氣の毒なことに主人は、お内儀さんが亡くなつてから氣が昂ぶつてよく寢付けないと仰しやつて、夜分お休みの前に一と風呂温まつて、ほんの一合だけ寢酒を召上がるのが癖でございました」
金五郎の説明は、平次の問ひに誘はれて微に入り細を穿ちます。
「その寢酒は誰が用意するのだ」
「宵の中にお糸が用意をして置きますが、おかんをつけるのも召上がるのも主人が御自分でなさいます──それを召上がつてお床に入ると間もなくひどいお苦しみで、家中の者が駈付けて町内の本道(内科醫)を二人迄呼びましたが間に合ひませんでした。眼を落しなすつたのは曉方で」
「この部屋は母屋から離れてゐるのだな」
「へエ──廊下で續いて居ります」
「主人の身の廻りの用事は」
「その小間使の糸と申すのがいたして居ります」
いろ〳〵の疑ひがこの小間使のお糸といふのに集中されてゐるのを平次は感じました。
「ところで醫者は何と言ふのだ」
「吐いたものを見まして、石見銀山の鼠捕りの中毒だらうと申します」
「鼠捕りを使つたことがあるのかな」
「飛んでもない。主人がやかましくてそんな物騷なものは使はせなかつたのでございます。鼠がどんなに荒れても人間の命までは取らないから──と申しまして」
そんな話をしてゐるところへ六本木の留五郎が勢ひ込んで入つて來ました。
「錢形の親分、飛んだ御苦勞だつたね。神田からわざ〳〵來て貰つたがそれにも及ばなかつたよ。宜い鹽梅に下手人の目星が付いてな」
四十男の働き者らしい留五郎は、すつかり上機嫌でやゝ光つて來た額を撫で上げるのでした。この土地で賣込んだ御用聞で智慧の方は兎も角、腕つ節だけは確かな男です。
「そいつは宜かつた。その下手人の目星といふのは誰だえ」
錢形平次は穩やかに下手に出ました。
「家中の者の手廻りの荷物を調べたんだ。すると使ひ殘りの石見銀山を隱してゐた者があつたとしたらどんなものだらう」
「それは本當か」
「本當も嘘もないよ、紙へ包んで行李の底へ入れて置いたんだから間違ひはあるめえ」
「誰です。誰の荷物にあつたんです」
養子の伊三郎は少し氣色ばみました。二十一二の、これは好い男です。色の淺黒い少し苦味走つた、何んとなく爽かな感じのする男で、店へ坐らせるよりは、太陽の下に引き出して、もつと男らしい仕事をさせて見たいやうな健康の持主でした。
「今下つ引がくゝつて來ますよ」
留五郎が指さした方を見ると、下つ引の宗吉といふのが、一人の若い娘の襟髮を掴んで引つ立てるやうに此方へ來るではありませんか。
「あ、お糸、──あれはそんな事をする筈はありません、親分」
立ち上がつたのは養子の伊三郎でした。番頭の金五郎、掛り人の平太郎を始め、二人のお藤は互に顏を見合せて、唯まじ〳〵と睨み合つて居るだけです。
宗吉に引立てられて來たお糸といふのは、亡くなつた内儀のおもよがひどく目を掛けてゐた下女で、まだ精々十七か八でせう、江戸の水で洗ひ上げられた娘達のやうに、垢拔けのした美しさはありませんが、天道樣が小麥色に色付けをして、一番無造作に拵へ上げたともいつた何んともいへない可愛らしさのある娘でした。
「私は何んにも知らないんだよ。痛いやな、何をするんだ。離しておくれよ」
相手の懷中に十手があるとも知らずに、言ひ度いだけのことをツケツケと言つてのけるといつた何んとなく途方もないところがあります。
「えツ神妙にしろ、お前の行李の中にこんなものが入つてゐたんだ。知るも知らないもあるものか」
宗吉の左手には、紙に包んだ鼠捕りが無氣味なものでも扱ふやうに、遠くの方でヒラヒラさせてゐるのでした。
「錢形の親分、お糸はそんな大それたことをする娘ぢやございません。何んとか取りなして下さいませんか、可哀想で──」
默つて見てゐる平次の袖を、そつと引くのは養子の伊三郎でした。
「正直者らしいが、證據があつちや、六本木の親分も一應調べて見なきや氣が濟まないだらう。尤も、下手人が毒藥の使ひ殘りを自分の行李の底に殘して置くといふのは少しをかしいが──」
平次もツイそんな事をいつて見る氣になりました。
「錢形の親分の前だが、昨夜主人の給仕をしたのも、寢酒の支度をしたのもこの女なんだぜ。家中の者が皆んなで食べたお勝手の食物には毒なんざ入つちやゐない──お勝手からこの室へ運ぶ間に食物の中へ毒が入つたとすると、こいつは誰の仕業かわかるだらう」
留五郎は少しいきり立ちました。
「だつて六本木の親分、自分で運んだ膳へ毒を入れちや──」
横合から嘴を容れる八五郎を、
「默つて居ろ、八。お前などの口を出す場合ぢやねえ」
「へエ」
ひどく平次に叱り飛ばされて、八五郎は不服さうに口を緘みました。
その間に留五郎は下つ引の宗吉を促して、腰繩を打つたまゝのお糸を、それでもさすがに表には憚つて裏からつれ出します。
「それぢや錢形の、この娘にきつと泥を吐かせるから待つて居て貰はうか。飛んだ可愛いらしい顏をしてゐるが、太え阿魔だ。さア歩けツ」
叱咜の聲が木戸の外へ消えるのを、一座の七人が七人、全く違つた心持で見送つて居ります。
「ちよいと可哀想ねエ」
一番先に口をきつたのは、お銀のお藤でした。少し肥り肉で、色白で、豊滿さに助けられて妙に艶めかしく見えますが、容貌はガラツ八が吹聽したほどのものではなく、たゞ陽氣でガラガラして、臆面もなくて取廻しの色つぽいところが身上です。
「──」
もう一人のお舟のお藤は、眉を垂れて默つて見送りました。これは恐ろしく華奢な娘で、子供々々した小さい身體や、細つそりした肉付など、掌の上に躍つて支那の皇帝に寵愛されたといふ、昔の傳説の美人に似て、この上もなく憐れ深い姿ですが、眼の凉しさ、唇の紅さなど、さすがに年頃らしい魅力がピチピチと躍ります。
このお舟を搜し出して來たといふ庵平太郎は、三十前後の浪人者で、二本差にしては少し甘口に出來た人間ですが、一寸見たところは、なか〳〵の好い男振りで、人との應對などにも、妙に角のとれた、町人らしい圓滑なところがあります。
「親分癪ぢやありませんか」
お糸を追ひ立てて行く留五郎の後を見送つて、八五郎は親分の平次に囁やくのでした。
「癪? そんな物騷なものは片付けて置いて、少し俺に手傳ふが宜い。まだ調べることがうんとあるんだから」
「へエ」
平次は立上がつて部屋の外廻りを一と通り調べました。八疊と六疊と二間續きで、母家から短い廊下で續いて居りますが、此處へ來るためには幾つかの人目の關所があつて、特別に許されたものでなければ滅多に通れないやうになつて居ります。
「主人の世話をするのはお糸といふ娘だけか」
平次は後ろへ跟いて來た養子の伊三郎を振り返りました。
「へエ、父は氣むづかしい方で、夜分などは私かお糸でなければ寄せ付けませんでした。ことに娘のお藤だと言つて名乘つて出た二人の女などには、少しも油斷をしなかつた樣子です」
伊三郎の聲は四方に憚つて小さくなります。
「昨夜晩飯の後で、大層機嫌がよかつたといふが──」
「それにもワケが御座います。お銀とお舟の身許をもつとよく調べるために、今日は朝早く小田原と八王子へ人をやることになつて居りました。さわぎが始まつて、そのまゝ沙汰止みになりましたが」
「誰と誰だ」
「お舟は庵さんが八王子から搜し出して來ましたので、其方へは番頭の金五郎をやつて調べさせ、金五郎がお銀をつれて來た小田原の方へは、手代の千助をやることになつて居りました」
「そいつは騷ぎに構はずやるとよかつた──まア宜い。後で下つ引を一人づつ附けてやることにしよう」
平次はそんなことを言ひながら、グルリと外廻りを一巡りしました。庭はいくらか乾いて居りますが、庇の下は、陽に疎く、降り續いた春の名殘りの雨で、ひどく土が柔かくなつて居りますが、人間の足跡など一つもなく、たゞ東向きの雨戸の外のあたり、柔かい土の上に、幅一尺に長さ三尺ほどの板のやうなものを置いた跡が一ヶ所、はつきり見えるのが眼を引きます。
「雨戸は閉まつて居たと言つたね」
平次は誰へともなく言ひました。
「皆んな棧がおりて、よく閉つて居りました」
伊三郎は應へます。
「雨戸の上の欄間をもぐる術はありませんか」
八五郎は庇の下を見上げます。其處には六寸ほどの幅の障子が閉まつて居りますが、これは開けたところで人間がもぐる筈もなく、もぐるにしても、雨戸の外に梯子を掛けなければ屆かないわけですが、柔かい土の上にもその跡もありません。
「子供でも潜れないよ。それに下からでは飛び付く工夫もあるまい──だが念のために縁側から踏臺をして欄間の敷居を見てくれ。一ヶ所埃の摺れて居るところはないか──」
言葉の了らぬうちに、八五郎は家の中へ飛び込み、踏臺をして一々欄間を覗きましたが、
「恐ろしく掃除が屆いてゐますよ。こんなところまで、埃一つない」
さう言つて降りて來ました。
「父は掃除がやかましくて、障子の棧や、長押の上を一々指で撫でて見る人でした。現に昨日もその欄間をよく掃除させたばかりで」
伊三郎はさう説明してくれるのです。
平次は家へ入ると、廊下傳ひに、風呂場から店の方へ廻り、奉公人達や伊三郎の部屋、お銀とお舟の部屋を覗いて、お勝手へ來ると、
「昨夜主人が飮んだ酒の殘りはないのか。徳利は、猪口は?」
と一と通り詮索して見ましたが、酒は雫も殘さなかつたさうで、徳利や猪口は勿論綺麗に洗つて何んの手掛りも殘つては居ません。
「ところで、あの二人の女の何方が眞物かわかれば、自然主人を毒害した下手人もわかるだらう、──お前は何方が僞物だと思ふ?」
家の中を一と廻りした後、平次は廊下に立佇つて伊三郎の氣を引いて見ました。
「さア、それは私には判りませんが」
伊三郎もこの疑問に惱まされてゐたのです。
「何んとなく好きだとか嫌ひだとか、それくらゐのことなら言へるだらう」
「正直のところを申上げますと、私は何方も好きぢやございません」
「フーム」
「それよりお糸が可哀想でございます。あれは唯の奉公人ですが、亡くなつた母が不愍がりまして、自分の生んだ娘のやうに眼をかけて居りました」
「主人の方は」
「父は母が生きてゐる頃はさうでもございませんでしたが、母が亡くなつてからはお糸一人を頼りにして、何をしても外の奉公人では氣に入らない樣子でございました」
さう言ふ伊三郎も、あの縛られて行つたお糸──大した綺麗ではない代り、健康さうで忠實らしいお糸に、並々ならぬ好意を寄せてゐる樣子です。
「ところで、その里へやつたお藤といふ娘は、母親がなくて此家で三つになるまで育つたわけだが、乳母のやうなものを置かなかつたのかな」
「私もその頃はまだこの家へ參つて居りませんので、よくは存じませんが、何んでも目黒あたりの百姓家から、乳の澤山ある女を雇つて居たといふ話でございます」
「八、その乳母を搜してつれて來てくれ。──出入りの口入れへ訊いたら受人が判るだらう」
と平次。
「そんな事ならわけはありませんよ。二日もあれば首根つこへ繩をつけて引つ張つて來ますよ」
「それから、八王子と小田原へ行く手代へ下つ引を一人づつ付けてやるやうに、お前が手配するんだ。宜いか、八」
「へエ」
「言ふまでもないことだが、お銀とお舟の身許を洗ひざらひ調べ拔くやうに」
平次の布陣は水ももらさぬ緻密さです。
平次は念の爲に番頭の金五郎を呼んで、お銀を搜し出した手順を訊くと、
「調布の仁兵衞といふ百姓──これは三つになるお孃さんを、十六年前に預けた家ですが、その仁兵衞を尋ねると、五年前に惡い事をして村を逃げ出し、それつきり行方が判らないさうでハタと當惑いたしました。尤も里に預けたお孃樣は、そのまた七八年前──今から十三年も前に小田原の商人にくれてやつたといふ、御近所衆の噂を聞きまして、私は小田原まで延しました。が、小田原と申しても大久保樣の御城下で、思つたよりは廣うございます。家主や町役人を門並訊ねて廻つて漸く相模屋といふ旅籠屋に居るお銀さんといふ娘が、十二三年前に調布から惡者にさらはれて來た人だと聽いて、漸く尋ね當てたやうなわけでございます」
さういつた筋道を、かなり詳しく説明してくれます。もう一つ念のためお銀を呼んで訊くと、
「親分さん、私は小田原名物の飯盛さ。ホヽ、隨分苦勞したわよ。庄司の跡取りになつて少しは存分に暮らさなきや合はないでせう」
と言つた調子です。
「調布に居た頃のことを知つてゐるだらうな」
「知つてますとも、その頃は名前も『藤』と言ひましたよ。親の仁兵衞はわからない人でねエ」
「三つになる時まで、此家で育つた筈だが、その頃のことはどうだ」
「何んにも覺えちやゐませんよ。親分さんだつて、二つや三つの時のことを覺えちやゐないでせう、──知つてゐると言ひ度いが、私はそんな拵へ事や嘘は大嫌ひさ」
お銀はさう言ひながら、平次へ變な眼付をしたり、しな垂れかゝりさうにしたり、惱ましい限りの素振りを見せるのでした。
續いて庵平太郎にも會つて見ましたが、
「平次親分、──金五郎の言ふことなどは當てにならんよ。あの男の身持と店の帳尻を見たら、あの男がどれほど出鱈目な人間かわかるだらう。調布の仁兵衞が行方不明になつたことも、お藤といふ娘が十二三年前に人に賣られたことも本當さ。だが、それは小田原の商人ぢやなくて、旅から旅へ廻つて歩く香具師だつたんだ。奇天齋と言つてね、俺はその足取りを突き止めるのに三月もかゝつたが、漸く八王子に小屋掛けしてゐるのを見付けて、あのお舟といふ看板娘をつれて來たのさ。金で五十兩、それだけではウンと言はなくて、イヤな事だが兩刀まで捻くり廻して見せたよ──奇天齋は何處に居るかつて? 江戸へ入つたといふ話もあるが、そいつは判らないよ。噂に聽けば、何んでも俺をうんと怨んでゐるさうだ。米櫃を取られたんだから、それも無理はあるまい。ハツハツハツ、だが、落ち果てても庵平太郎武士の端くれだ。まだ奇天齋風情の脅かしには驚かねえ」
庵平太郎はさう言つて見得を切るのです。甘口なやうでも、二本差らしい虚榮心はあるのです。
平次は尚ほお舟にもいろ〳〵訊ねましたが、これは華奢な身體をなよ〳〵とくねらせるだけで、平太郎が説明した以上のことは何んにも言はず、調布の仁兵衞のところで育つた頃のこともお銀と大同小異です。
尚ほ二人の持つてゐる證據の品を見せて貰ひましたが、お銀のは手打の銀簪で、笹龍膽を彫つた珍らしいもの、これは生みの母親──つまり庄司伊左衞門が手を付けた女中から貰つたものだと言ひますが、誰もそんなものを知つてはをらず、何んの言ひ傳へもないので證據と言つてもあまり大した値打はありません。
お舟の持つてゐるのは、充分に古びを帶びた上、青錆まで浮いた眞鍮の迷子札で、小判形に『江戸麻布六本木庄司伊左衞門娘お藤、壬寅三月十七日生』と四行に彫つたものでした。
八方に手を打つた平次は、この邊でひと先づ引揚げる外はありません。
それから三日經ちました。小田原へ行つた手代の千助も、八王子へ行つた番頭の金五郎も歸つて來ず、庄司の家は手不足で轉手古舞をしながらも、何うにかかうにか主人の葬ひを濟ませ、養子の伊三郎と、浪人者の庵平太郎と、二人お藤のお銀とお舟が、睨み合つたまゝ憂鬱な日が過ぎたのです。
「親分、今歸りましたよ。いや、驚いたの驚かないの──」
目黒へ行つた八五郎が、神田の平次のところへ歸つて來たのは四日目の晝過ぎでした。
「何をそんなに物騷ぎをするんだ」
「十六年前、六本木の庄司の家に奉公してゐた乳母のお元を見付けました」
「それは宜い鹽梅ぢやないか、自分が手鹽にかけて育てたお藤といふ娘に覺えがあるだらう」
「それが大變なんで。目黒から本所へ越して、潮來へ流れて行つたのを、漸く搜し當てたは宜いが、まだ四十六だといふのに、恐ろしい呆けやうで、自分の名前もろくに覺えちやゐませんよ」
「健忘症か」
「健棒症だか擂粉木だか知らないが、あれぢや何んの役にも立ちませんよ。兎に角六本木の庄司へ送り屆けて來ましたが、お銀を見せても、お舟を見せても、ケロリとして悲しいとも懷かしいとも言やしません。お仕舞にはこんな人を知らないと言ひ出したんで」
「それは困つたな」
「大困りですよ。あんな呆けなすを搜すのに四日もかゝつたと思ふと──」
「まア、何んかの役に立つこともあるだらう。腹を立てるな」
「へエ──」
平次も八五郎を慰めるのが精一杯です。
が、事件はその日を境にして又急展開しました。翌る日の朝、六本木の庄司から使ひの小僧が飛んで來て、
「──御浪人の庵平太郎さんが殺されました。親分さんに直ぐお出で下さるやうに──」
と養子の伊三郎の口上を傳へたのです。
「八、大變なことになつたぞ」
「直ぐ行くんでせう」
「うん、來るか、お前も」
二人は宙を飛びました。六本木へ着くと、
「あ、親分さん方、困つたことになりました」
伊三郎はイソイソと迎へてくれます。
挨拶もそこ〳〵店の裏の方に建て増した庵平太郎の部屋へ行つて見ると、
「フーム、これは」
平次が驚いたのも無理はありません。なまくらでも何んでも浪人者の平太郎『武士の端くれ』と自分でも威張つた男が、床の上でたつた一と突き、自分の脇差で心臟のあたりを刺されて死んでゐるではありませんか。
大きく見張つた眼にも、妙に笑ひを含んだやうな表情にも、左して苦惱の痕のないのは、聲を立てる隙もなく息が絶えた爲でせう。
疊の上には斑々と土足の跡が殘つて、同じやうに踏み荒された縁側、其處には雨戸が一枚、外から鑿でコジ明けたまゝの口を開けて、眞晝の陽がカンカンに入つて居るのです。
「奇天齋は?」
八五郎がさう言つたのも無理はありません。
「その奇天齋が何處に居るか、大急ぎで手配してくれ。香具師仲間か組頭に訊いたらわかるだらう」
と平次。
「へエ」
飛び出さうとする八五郎は、外から入つて來た留五郎に押し戻されました。
「八兄哥、その手配ならもう濟んだよ。手一杯に人を出してやつたから、奇天齋が江戸に居さへすれば、明日と言はず、今日の暮れまでには埒があくだらう」
「お、六本木の親分か、そいつは有難い、──が、その手配も大した役に立たないかも知れないぜ、──氣休めにはなるが」
「はてね」
「奇天齋は江戸に居ないだらうよ」
平次は妙なことを言ふのです。
「江戸に居なきや、何處に居るんだ」
留五郎ツイ向つ腹を立てた樣子ですが、
「氣に障つたら勘辨してくれ。俺は惡氣で言つたんぢやねえ。なア、六本木の親分。この通り床の上に仰向きになつて居るのを、音も立てさせずに殺したのは恐ろしい手際だが、雨戸をあんなに亂暴にコジ開ける迄、侍たるものが知らずに居るのも變だし、縁側や疊の上を、こんなに汚すのも手際が惡過ぎるとは思はないのかえ」
「成程そんな事も言へるだらうな」
留五郎も少しばかり折れました。
「俺はこの下手人は、奇天齋なんて化物染みた小父さんぢやないと思ふよ。聞けば奇天齋といふのは香具師仲間の古顏で、六十を越した年寄りだつていふぢやないか」
「──」
平次の論理に承服したものか、留五郎は默つてしまひました。
「ところで六本木の親分。あのお糸といふ娘は何うしたえ」
「まだ止めてあるが、矢つ張り何んにも知らなかつたらしいから、今日あたりは歸さうと思ふよ」
「それは有難い。この家でも手がなくて困つて居るやうだから」
平次に云はれると、留五郎は一人の下つ引を走らせました。お糸を歸す潮時を待つて居たのでせう。
それから養子の伊三郎に會つて見ましたが、さすがに落着いた顏をしてゐても、内心の動搖は隱しやうもありません。庵平太郎が殺されたことに就ては何んの心當りもなく、今朝小僧の梅吉が見付けて大騷動になつたといふだけのことです。
「庵さんは、亡くなつた父の碁友達で、あまり評判の良い方では御座いませんが、用心棒のやうにして、三年越し私共に居ります。家も身寄りも何んにもないやうで」
といふだけのことです。小僧の梅吉は、
「驚きましたよ。雨戸を開けようと思つて行くと、あの通りでせう」
十三の少年には、この驚きの表現が精一杯の説明です。
「近頃庵さんに變つたことはなかつたのか」
「妙に腹立ちつぽくなつてゐましたよ」
「それから」
「さア──」
「外に變つたことがなかつたのか、家の中に」
「お銀さんも無暗に腹を立ててゐましたよ。あの愛嬌のいゝ人が、朝から晩まで不機嫌な顏をして──」
「それから?」
「はしやいでゐるのはお舟さんだけで、──尤も若旦那が側に居る時だけでしたが。へツ、どうかしてゐますよ、あの人は」
恐ろしくこまちやくれた小僧です。
平次は一わたり調べが濟むと、一と間にお銀とお舟を呼び入れました。
「──」
默つて睨み合ふ二人、肥つたのと痩たのと、賑やかなのと淋しいのと、口數の多いのと無口なのと、負けず劣らず綺麗なくせに、意地つ張りでは一歩も引きさうもないのが二人──太夫と三味線ひきのやうに、斯う斜に相對したところは、一寸想像も出來ない面白い圖です。
其處へ、不意に唐紙を開けて入つて來たのは、昨日ガラツ八が潮來からつれて來た乳母のお元でした。四十六といふにしては恐ろしく老けて、胡麻鹽頭を振りながら、口をポカリと開いて、何んの反應もなく二人の美女を眺めて居ります。
「まア、婆や。お前はまだ私を思ひ出してはくれないのかえ」
「──」
眞つ先に飛び付いたのはお銀でした。皺だらけの手を取つて無理に振ると、お元は迷惑さうにその手を引つ込めて、胡散臭くお銀の顏を上眼使ひに見上げるのでした。
「──」
其處へ、靜かに入つて來たのは、許されて歸つた小間使のお糸でした。お銀とお舟を主人扱ひするやうに言ひ含められてゐるのでせう。敷居際に手を突いて、
「──」
何やら口の中で言つて、つい上げた瞳が、乳母のお元の瞳と宙に會ひました。
「あ、お前樣は?」
お元は不意に、ツツ放したやうな調子で物を言ひましたが、自分の態度が恥かしいと思つたか、胡麻鹽頭を小刻みに振つて、何やらブツブツ言ひながら顏を反けてしまひました。
この小さい情景が、平次の注意を外れる筈もありません。平次は何を考へたか、その儘八五郎を歸して、自分一人だけ庄司の家に踏留り、暫らく情勢の推移を見る決心をしました。
その日は無事に暮れて、翌る日もそのまた翌る日も何事もなく過ぎました。兎も角も庵平太郎の葬ひを出し、騷ぎが一段落になつて、家の中は久し振りに靜かになつた、四日目の夕方のことでした。
初夏の陽は高臺の屋敷町の木立に落ちて、美しい夕映が次第に消えると、大空には凉しい星が一つ二つ瞬き始めます。
縁側に出てこの靜かな景色を眺めてゐた乳母のお元は、柱に凭れた肩を搖りながら、ツイホロホロと歌ひ出しました。それは江戸の街では聞くことの出來ないやうな、古風な、そして鄙びた子守唄で、
〽ねんねんころころ ねんころり
ころころ轉げて夢の國
夢の國には花が咲く──
それは細々とした良い聲でした。そして肥つて呆けて、見る影もなく年をとつた乳母の喉から出るものにしては、思ひも寄らぬ哀れ深く美しい歌だつたのです。
多分お元はこの初夏の夕暮れの美しさに魅せられて、呆けた頭に十六年前の記憶を喚び起したのでせう。
〽赤く咲いたのは何んの花
白く咲いたのは何んの花
星より綺麗な花の數
第二節目を歌ふ頃から、乳母の聲よりもつと〳〵若くて美しい聲が、覺束ない歌詞を辿るやうに、乳母の歌に跟いて行くのです。
〽星よりきれいな花の數
泣くとお花が萎むぞえ
泣かずにねん〳〵おしなされ
この古風な歌を歌ひ終ると、乳母の呆けた頬には、甘い涙の糸が流れました。
乳母に跟いて、覺束なくもこの子守歌の節を歌つたのは、忙がしく夕飯の支度を手傳つてゐる、お小間使のお糸ではありませんか。
物陰にこの哀れ深い情景を見てゐた平次は、默つて其處を立ち去つたことは言ふ迄もありません。
その晩平次は、養子の伊三郎と相談して、乳母のお元の心持の動きを試しました。そして、これは世に言ふ健忘症などではなく、重なる苦勞と貧乏のために、精も根も摺り減して、何んとなく呆けて居るのだと解ると、いろ〳〵古いことなど問ひ試みて、これだけのことがわかりました。
お藤を産んだ下女の名はお篠と言つたこと、──お篠は笹龍膽の銀簪を持つてゐたこと、──そしてお藤のために眞鍮の迷子札を作つて、そつと守り袋へ入れてやつた覺えのあること──などでした。
一と晩がかりで、いろ〳〵根ほり葉ほり訊ねた末、もう一つ、お元は面白いことを思ひ出してくれました。それは、お藤を里にやる時、持ちきれなくて殘して行つた玩具と着物を、これも暇を出されたお元が、黒塗りの箱へ入れて──形見のつもりで藏の隅へそつと隱して置いたといふのです。
平次と伊三郎は直ぐ樣土藏へ行つて、お元の案内でその箱を見付けました。開いて中を見ると、十六年前にお元が入れたといふ品々が、そつくりそのまゝ、大して損じもせずに保存されてあつたのです。
平次はそれを母屋へ持つて來ると、主人の伊左衞門が住んでゐた奧の八疊に移し、家中の者を集めて『この箱の中にお藤が三つになる迄身近く置いた玩具と着物が入つてゐる。明日はそれをお銀とお舟に言ひ當てさせて何方が本當のお藤かをきめるつもりだ』と言ひ渡したのでした。
直ぐその場で言ひ當てさせずに、どうして明日にするのか、その意味は誰にもわかりませんが、錢形平次ほどの者のする事には、それに相應した理由のあることだらうと、──家中の者はそんな風に考へた樣子です。
翌る日の朝もう一度家中の者が奧の八疊に集まりました。
「この箱の中にある品は、今から十六年前、お藤が三つの時、里にやられる前の日まで身につけて居た物だ。たつた三歳の子供では皆んな覺えてゐるのはむづかしからうが、一生に一度の悲しい日のことだから、この黒い箱にお元が封じ込んだ品のうち、せめて一つくらゐは覺えてゐるだらう。お銀もお舟も思ひ出しただけの品をこの紙へ書いて、俺のところへよこしてくれ。宜いか」
平次が渡した一枚づつの懷ろ紙へ、お銀もお舟も、突き詰めたやうな顏で、何やら一生懸命に考へながら──それでも大した苦勞もなく書いて、平次の手許に渡しました。
「ところでもう一人、お糸にも書いて貰ひたいと思ふ。これは自分からお藤と名乘つたわけではないが、少しばかり思ひ當ることがあるから──」
平次はさう言つてもう一枚の懷ろ紙をお糸に渡したのです。
「いえ、私は何んにも存じません。私は」
お糸は物に脅えたやうに尻込みするばかり。
「でも物は試しといふことがある。例へば、お前はこんな黒い箱に覺えはないか」
「何んかずつと昔に見たことがあるやうな──」
「それ御覽。そんな事があるから物は試しだ」
「──」
「この黒い箱に何が入つてゐる。いや、お前は子供の時どんな玩具を一番好きだつた」
「毬、──赤や青や紫や黄色の糸でかゞつた大きい毬でした」
「それから着物は?」
「赤い帶を黒い箱へ入れたことも知つて居ります」
「それつきりか」
「え」
平次の問ひ上手に誘はれてこれだけの事を言ふのがお糸には精一杯だつたのです。
「それでは先づお銀のを讀まう。えーと、紫の矢絣の着物を着た姉樣人形と、麻の葉を絞つた赤いおちやんちやん──かうだ」
皆んなは顏を見合せました。
「それからお舟の書いたのは──姉樣人形、紫の矢絣の着物をきてゐたと思ふ。もう一つは赤い袖無し、麻の葉絞り──とある」
「──」
「それでは箱を開けるよ。宜いか」
平次は床の間から黒い箱を取り出して、手品師が魔法の箱でも開けるやうに勿體らしい手付きでサツと蓋を取ると、中から現はれたのは何んと、紫矢絣の振袖を着た姉樣人形と、麻の葉を絞つた赤いちやん〳〵に間違ひもなかつたのです。
「──」
無言のざわめきが小波のやうに人々の間を渡りました。が、次の瞬間、
お舟はそれを羨ましいもののやうに見やりながらそつと涙を拭きました。何んにも言ひませんが、思ひは千萬無量と言つた姿です。
「ところで驚いてはいけないよ、──この黒い箱へ、昨日まで入つてゐたのは、この二た品ではないのだよ」
平次の言葉は水のやうに一座を冷りとさせました。
「私と錢形の親分とで相談をして、昨夜中味を入れ換へて置いたのだ。十六年間この黒い箱の中に入つてゐたのは此方の二た品だよ」
伊三郎はさう言ひながら、側に置いた風呂敷包を解きました。中から現はれたのは、お糸の言つた通り、『五色の糸でかゞつた古いまりと、赤い色が橙色に褪めた子供の帶が一と筋』ではありませんか。
「お銀とお舟は昨夜この部屋へ入つて、中味を入換へたのも知らずに、箱の中の品を見て行つたのだらう。いや、それに相違はあるまい。三つになる子供が、麻の葉を絞つたちやんちやんや、紫矢絣の着物などと細かい事など覺えて居る筈はない」
「──」
平次の論告は峻烈を極めました。
「もう二人共尻尾を出してもよからう、──俺の調べたところでは、お銀は小田原在の百姓の娘で調布の仁兵衞の養ひ娘ではない。笹龍膽の銀簪は金五郎の細工だ、──いや金五郎はもう恐れ入つて白状して居るよ」
「──」
「お舟は奇天齋一座の娘輕業師だ。奇天齋は川越へ行つて居るが──おかげで庵平太郎を殺したのは奇天齋でないとわかつたやうなものだ。その代り、これを調べるのに三日も四日もかゝつたよ」
「──」
「奇天齋がお舟を貰つたのは十五年も前だ。お藤が調布の仁兵衞の手を離れたのは十三年前だ」
「──」
「それからもう一つ、お舟は奇天齋のところで繩拔けの術を十八番にして居た。その細つそりした身體で繩拔けといふ藝があれば、欄間をくゞつて主人の部屋に忍び込み、主人が風呂へ入つて居る隙に、寢酒の徳利に石見銀山の鼠取りを入れるのは何んでもないことだ、──庭に足跡のないのは板を敷いてその上に庵平太郎が立ち、平太郎の肩を傳はつてお舟が欄間へ飛び込んだのだ」
「迷子札」
お舟は追ひ詰められながらも最後の救ひに噛り付きました。
「迷子札などは何時でも拵へられるよ。眞鍮を梅酢に漬けて置けば、青錆も出るよ。あの錆具合が少し念入り過ぎるのを、俺が氣が付かずに居ると思ふか」
「──」
「自分の素姓が見露はされさうになつて主人を殺したお舟は、今度はこの家の娘になり濟して伊三郎と夫婦になるのには庵平太郎が邪魔になつた。その上、惡事の合棒の平太郎さへなければ天下太平だと思ひ込んで、到頭平太郎を殺す氣になつた。それもお銀に疑ひを向けるやうに仕組んでは却つて自分が疑はれると思つて、最初はお糸に疑ひを向けさせ、庵平太郎を殺したときは、奇天齋に疑ひをもつて行くやうに企らんだ。が、平太郎を殺したのは家の中にゐる女──それも平太郎に油斷させ拔いた女の仕業に間違ひもない」
平次の論告は一言々々、お舟の假裝を剥ぎ取つて、寸毫の假借もありません。
「口惜しいツ」
お舟は立ち上がりました。上品でこの上もなくおとなしやかなのが、サツと惡魔的な表情に變ると見るや、輕捷無比な身體を利用してバラバラと驅けて行くのを、どつこい、
「神妙にせい」
行く手に立塞がつたのは、何時の間にやら其處に來て居たガラツ八の八五郎だつたのです。
× × ×
お舟は處刑され、お銀は阿呆拂ひにされて、間もなくお糸は伊三郎と娶合せられました。
お糸の耳に『調布の仁兵衞』といふ名さへ早く聽かせる者があれば、こんな手數はせずに濟んだことでせう。お糸は六つになるまで調布で育つたのですから、噂を聞けば、早くも自分の身の上に氣が付いた筈です。四方の者が皆んな遠慮して内證事をお糸の耳に入れなかつたばかりに、飛んだ贋物が二人迄現れることになつたのでした。
「亡くなつて内儀のおもよが、年が經つにつれて氣が挫け、子迄産んだ女中を追ひ出した罪亡ぼしのつもりで、お藤のお糸を搜し出して手許に育ててゐたが、主人に打ち明ける術もなく頓死し、到頭お銀お舟などといふ妖物が飛び出すことになつたのさ。女のこんな細かい心づかひは、俺達男にはわからないよ」
事件が一段落になつた時、平次は八五郎にせがまれて、かう經緯を説明しました。
「──お銀は金五郎の拵へ物で、お舟は庵平太郎の情婦さ。お銀は唯の女だが、お舟は恐ろしい毒婦だ。伊三郎を見てゐるうちに庵平太郎が嫌になり、到頭その口を塞ぐ氣になつたのだらう。床にゐる人にとがめられずに、一と突きにやつた手際はどうせ關係のある女の仕業だ。それから、雨戸を外したのは先づいゝとして、疊の上の泥は細工過ぎたよ。奇天齋が江戸にゐないとわかれば、下手人は間違ひもなくあの女だ」
「へエ──惡い女ですね」
「だがな八、世の中にはお舟のやうな女は滅多にゐるわけぢやないよ。それにお糸のやうな可愛らしい娘もゐることだし、獨り者は氣を落すことはないぜ。ハツハツハツ」
一と仕事濟むと、平次は肩の重荷をおろしたやうに、カラカラと明るく笑ふのでした。
底本:「錢形平次捕物全集第二十八卷 遠眼鏡の殿樣」同光社
1954(昭和29)年6月25日発行
初出:「西日本新聞」
1947(昭和22)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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