錢形平次捕物控
乘合舟
野村胡堂




 八五郎は獨りで、向島へ行つた歸り、まだ陽は高いし、秋日和は快適だし、赤トンボにさそはれるやうな心持で、フラフラと橋場の渡し舟に乘つて居りました。

 懷中ふところはあまり豐かでないが、新鳥越の知合を訪ねて、觀音樣へお詣りして、雷門前で輕く一杯呑んで、おこしか何んか、安くて嵩張かさばるお土産を買つて、明神下の錢形の親分のところへ辿たどり着くと、丁度晩飯時になる──と言つた、まことに都合の良いスケジユールを組んで、舌なめずりをしながら、向う岸の橋場に着くと、船頭の粗相か、客が降り急いで、船を傾けたせゐか、乘合船は思ひも寄らぬ勢ひで、岸から張り出した足場へ、ドシンと突き當つたのです。

「あつ」

 八分通り船を埋めて出た乘合は、先を急ぐともなく總立ちになつたところ、見事なあふりをくらつて、どつと雪崩なだれました。危ふく將棋しやうぎ倒しになるのは免れました。が、

「あれツ」

 端つこに立つて居た八五郎は、側に居た若い女に獅噛しがみつかれて、一とたまりもなく船の外へ、横つ倒しに飛び出してしまつたのです。

「あ、ぷ、ぷ」

 八五郎は少しばかり水を呑んだかも知れません。が、胃のが丈夫な上、その頃の隅田川は、底の小石が讀めるほど水が綺麗だつたので、大した神經を病む必要もなかつたのです。

 川はもう淺くなつて居て、立てば精々膝つきり、命に別條のある筈もなかつたのですが、何分にも双手もろてを懷中に突つ込んで、だらしのない彌造を二つ拵へて居たので、水中の働き思ふに任せず、船頭に襟髮を取つて引揚げられた時は、實に思ひおくところなくヅブ濡れになつて居りました。

「濟みません、親分。飛んだ粗相で」

 相手が惡いと思つたか、船頭は鉢卷を取つて挨拶しました。

『──うぬがどぢのせゐぢやないか』と腹の中では思つたにしても、稼業柄ポンポン言ふことも出來なかつたのです。

「なアに、此方もうつかりして居たんだ。心配することはないよ」

 八五郎は人の好い事を言ひながら、袖やらすそやらを絞つて居ります。

 明る過ぎるほどの晝過ぎの陽を受けて、それは實に慘憺さんたんたる姿でした。困つたことに、人の氣も知らない彌次馬が、近くから遠くから、ヌケヌケとした顏で、或は素知らぬ顏で、燃え付くやうな好奇の眼を光らせて、雷鳴かみなりが鳴つても動きさうもありません。

「親分、飛んだことをしてしまひました。私はまア、何うしませう」

 八五郎の濡れた鼻は、何やらゆかしい匂ひにときめきました。顏を擧げると直ぐ前に、やるせない小腰を曲めて、消えも入り度い風情に、丸い肩を揉んでゐるのは、二十二三の美しい年増──それはまぎれもなく、ツイ今しがた渡船の中で、八五郎に突き當つた、當の相手だつたのです。

「なアに、大したことはありませんよ。逆上のぼせが下がつて、宜い心持で、──ハアクシヨン」

 などと、八五郎は他愛もありません。

 それほど相手は美い女であり、素直な痛々しい態度でもありました。

 ほの温かくて、秋の空氣の中に、溶け入るやうな白い頬の魅惑みわく、おど〳〵した大きい眼、丸ぽちやで、笑くぼが淀んで、阿里道子のえり子のやうな無邪氣な口調くてうなど、フエミニストの八五郎を、有頂天にさせるには充分でした。

「でも、それではお歸りになれません。私の家はツイ其處ですから、汚いところですけれども、一寸お立寄り下さいませんか」

 女は惱ましさうでした。どんな理由があるにしても、男を誘ふ後ろめたさに、すつかりおど〳〵して、顏を擧げる氣力もないほど、打ちひしがれて居るのです。

「さうさせて貰ひませうか、ぢつとして居ると、風邪を引きさうで──」

 八五郎は足踏をして見せました。

「用心なさいよ、親分。そいつは飛んだ命取りだ」

 船頭は何方にも取れるやうなことを言つて、あらかた客で一杯になつた、歸り船のさをを突つ張ります。



「親分、お目に掛け度いくらゐでしたよ。その晩の持てたことといふものは」

 翌る日の朝、八五郎は明神下の平次の家へやつて來ると、前の日の一らつを事細かに披露に及ぶのでした。

「それからどうしたんだ」

 平次も少しばかり好奇心を動かした樣子です。

「その女に案内されて、今戸から花川戸まで歩きましたよ」

「あまり近くはねえな」

「何しろ濡れ鼠でせう。立てつ續けにクシヤミをしながら、道々の話の面白いことといふものは──」

「濡れ鼠の道行なんてのは新しいな。合の手にクシヤミの入る口説くどき洒落しやれて居るぜ」

「それが本當の濡れ事──」

ふざけちやいけねえ、それからどうした」

「花川戸へ辿たどり着いた時は、へそまで冷たくなつて居ましたよ。でも、すぐ浴衣を借りて一と風呂入つて來て、陽の高いうちから酒でせう。風邪の神の方で當てられて、幸ひこの通り無事で戻りましたが」

 八五郎は胸をくつろげて、トンと叩いて見せたりするのです。

「相手は何んだえ。圍ひ者か、お師匠ししやうか、それとも小料理屋のをんなか、──どうせ素人しろうとぢやあるめえ」

「ところがヅブの素人で、獨り者と來て居るでせう。住んで居るのは、少し猫又見たいになつた、叔母さんといふ年寄りが一人だけ。こいつは土竈へつゝひの中に首を突つこんだきり、滅多に出て來やしません」

「妙に心得た年寄りだな」

しやくが良いからすつかり醉つてしまつて、日の暮れたのも知らずに居ましたよ」

「着物の乾きが早過ぎて困つたらう」

「へツ、まさに圖星で。親分もこの頃は滅切り意氣になりましたね」

「馬鹿にしちやいけねえ、──ところでその相手の女といふのは何んだ」

「お富さんといふんださうです。見掛けよりは年を取つて居て二十四」

「素姓は?」

「問はず語りに身の上話もしてくれましたよ。何んでも一度大家の若主人に見染められて、釣合はぬを承知の上で嫁入りをしたが、相手は思ひの外の大家だつたので、きりやう好みで無理に貰はれて行つた嫁は、しうとしうとめに氣に入る筈もなく、ろくな身寄もないのまでが馬鹿にされる種になり、到頭猫の子のやうに放り出されて、こんなところに落込み、年を老つた叔母と一緒に、賣り喰ひをして細々と暮して居ります。明日といふ日の望みもない私は、いづれは身でも投げて、死ぬより外には工夫もありません。その時はどうぞ、線香の一本も上げて下さい、──と」

 八五郎の話は少し聲色こわいろになりました。

「ひどくしめつぽくなつたぢやないか」

「それからが大變で、──すつかり醉つてしまつて、お御輿みこしがあがりさうもないが、初會しよけえから居据つちや、こけんかゝはるから、いざ歸らうとなると」

「いざ──と來たか、相變らずおめえの學はうるせえ」

「お富の阿魔が、あつし小尻こじりを押へて泣くぢやありませんか」

「大層なことだな、お前は何時から侍になつたんだ」

「小尻──たつて刀の小尻ぢやありませんよ。懷中へねぢ込まうとした、十手の小尻で。着物を乾すとき、こいつは拔いて膝の側に置きましたよ。たしなみですね」

「良い心掛けだ」

「お富の言ふことには、──親分を泊めて上げ度いは山々だが、追ひ出され嫁の賣り喰ひ嫁の空つ尻嫁では、布團も枕も掻卷かいまきもない、──とさめ〴〵と泣くぢやありませんか」

「──」

「せめて、私が嫁入りする時、無理な工面で拵へた、二た組の布團と、一と通りの道具や着物があつたら、耻かしい思ひをせずに濟んだのに、仲人なかうどのない嫁入りをしたばかりに、こんな目に逢つて──と」

「お前まで泣くには及ばないよ」

「訊くとお富はもと柳橋で藝者をして居たんださうで。その時稼ぎ溜めた金で、精一杯の支度をして、一生に一度の晴の嫁入りをし、女の出世の行止りのやうに思つたのも束の間で、投り出されの、道具も衣裝も卷上げられの、明日の日は死ぬかも知れないといふ破目にち込んで居たんですね」

「で?」

あつしは我慢がなり兼ねましたよ。はゞかりながら、十手は伊達だてに持つちやゐねえ、俺が乘込んで掛合つた上、お前の荷物を返して貰つた上、せめては手切れ金でも取つてやらうと──」

「お前は本當に乘込んだのか」

「乘込みましたよ」

「馬鹿野郎、十手はお上から預つたものだ、そんなところで見せびらかす奴があるものか」

 平次はきつとなりました。十手を振り廻して町人をおどかすのは、錢形平次には何よりイヤな事だつたのです。

「醉つて居たんですもの、勘辨して下さいよ。それにあつしは直ぐ歸つてしまつて、後の事は何んにも知りやしません」



「兎も角、もう少しくはしく話して見ろ。行つた先は何處だ」

 平次はこの話をもう少し檢討して見る氣になる樣子です。

「黒船町の三七の家でしたよ」

「金田屋三七か」

 それはお上のブラツク・リストにも乘つてゐる惡者で、ボスでかれこれ屋で、海賊の三七とも言はれた、拔け荷扱ひの疑ひを持たれて居る、厄介な男だつたのです。

「お富が夜の往來に立停つて、──あの家ですが──と言つた時は、あつしもギヨツとしましたよ。金田屋三七を恐れるわけではありませんが、いかにも相手が惡いと思つたんです」

「で、どうしたのだ」

「思はず立ち淀むと、お富は引返して來て──親分に無理なことはお願ひしない、此處から、默つて歸つて下さい。その代り私の死骸が、大川に浮いたら、せめて線香の一本も──とさめ〴〵と泣くぢやありませんか」

「餘つ程線香にかれて居るのだな、──それからどうした」

 話を茶にしながらも、平次の熱心さは次第に加はります。

「さう言はれると、──左樣でございますかと引返すわけには行きません。此處まで來たんだから、兎も角も行つて見ようと言ふと、──嬉しい親分──と」

「あゝびつくりするぢやないか。聲色こわいろに身が入り過ぎるよ」

「お富がいきなりあつしの首つ玉に噛りつくんですもの、これくらゐ身を入れて話さなきや──」

 八五郎は長んがいあごを撫でるのでした。

「まア宜い、それからどうした」

「金田屋の子分共が二三人、店先で眼をいて居るから、それに十手を見せて下されば、親分は家の中へ入るに及ばない。萬事は私が掛け合ひをして來るからと、お富は自分の家へでも歸るやうに、サツと金田屋の店へ入つて行くぢやありませんか」

「成程ね」

「店に居て、惡戲わるさ──と言つても、觀世撚くわんぜよりの長いのにけると言つた、安手に賭事をして居た子分共が三人、お富の顏を見ると、あわてて立塞がらうとしましたが、あつしが默つて十手を突き出すと、そのまゝヘタヘタと坐り込んで、『お見それ申しました。相濟みません』と板の間に尻餅をついて、他愛もなくピヨコピヨコするぢやありませんか」

「フーム」

「それから四半刻ばかり、待てどくらせど奧へ入つたお富は出て來る樣子もなく、そのうちあつしも酒の醉はさめるし、馬鹿々々しくはなるし、いづれお富と三七はよりを戻して、デレデレして居るやうな氣がしてならないから、──氣をつけろ、──とか何んとか、捨臺詞すてぜりふを殘して退散してしまひましたが──」

「話はそれつきりか、八」

「それつきり、種も仕掛もありませんよ。そのまゝ向柳原の叔母の家へ歸つて、二階の萬年床に潜り込みましたが──ね」

「困つたことになつたよ八」

 平次は何やら、氣になることがある樣子です。

あつしも困つてしまひました。今朝起き出して見ると、叔母が、今朝白々明しら〴〵あけけに、格子からこれを投げ込んで行つた者があるよ──と見せてくれた紙包はこれですがね」

「──」

「見ると紙に包んで『八五郎親分さま』と書いてあるが、中を開けると小判が五枚。こいつは、何うしたものでせう、親分」

 八五郎は半紙に包んだ五枚の小判を、平次の膝の前に押しやるのでした。

「いづれ、そんな事だらうと思つたよ。八、此方にも大變なことがあつたんだ」

「何んです、そつちの大變は?」

「早耳のお前が、宜い心持で昨夜ゆふべのことを思ひ出して居る頃、──石原の利助親分のところのお品さんの使ひで直ぐ來るやうにと──」

「?」

「昨夜、黒船町の金田屋三七が殺されたといふのだよ」

「えツ」

 八五郎、こんなに驚いたことはありません。

「お前を誘つて、これから出かけようと言ふところへ、當人のお前が飛び込んで來て、長々と惚氣のろけまじりの物語りぢやないか」

「そんな事が、あるでせうか。昨夜、あの後で──」

 八五郎は眼をパチパチさせるだけでした。

「現場は石原の子分衆が何んとか見張つて居るだらうが、兎も角出かけて見よう。お前の岡惚れのお富とかが、何にか變な掛り合ひになつて居るのかも知れない」

「へエ、驚きましたね。それは、どうも」

 八五郎は小首をかしげながら、平次にいて黒船町に向ひました。



 黒船町の金田屋には、石原の子分衆が三四人、家の者を見張つて、貧乏ゆるぎもさせずに平次を待つて居りました。

「錢形の親分、お待ち申して居りました」

 石原の子分達は、救はれたやうな氣持で迎へてくれたことは言ふまでもありません。

「誰も現場へは入れなかつたことだらうな」

「一人も足踏させません。それ宜いあんべえに、金田屋の仲間はすねきず持つ奴ばかりで、斯うなると一人も寄り付きやしません。近所の衆は平常ふだんから附き合つちや居ませんし」

 成程さう言へば、さう云つたものかも知れません。利害で集散する人間が、岡つ引が陣を張つて居るところへ、飛び込んで來る筈もなかつたのです。

 それでもかまえはなか〳〵に堂々たるものでした。あらゆる惡事の問屋のやうに思はれて居る金田屋は、一面には拔荷ぬけに(密貿易)も扱つてゐたといふ噂に違はず、家具調度の中にも妙な異國的な匂ひのするものが多かつたのです。

「子分達は?」

「熊吉、成太郎、酉藏とりざうの三人が居りました。店にひかへて居ります」

 見ると若い成太郎、中年者の熊吉、年輩の酉藏の三人。寒々と素袷すあはせの襟をかき合せ、膝小僧を揃へて神妙らしく控へて居るのでした。

 平次はそれを見渡して一寸躊躇しましたが、三人の男が、一緒に來た八五郎の顏を見て、變な眼付きで點頭うなづき合ふのを見て取ると、その儘默つて奧へ通つてしまひました。

 中は場所柄にしては廣く、主人三七の部屋へ通るには、暫らく廊下を幾曲りかしなければなりません。

「此處ですよ」

 石原の子分は、廊下に立つて薄暗い部屋を教へてくれました。

 障子を開けると、中は贅澤な八疊で、絹夜具の中に、主人の三七の死骸は寢かされてあり、側には後にめかけのおべんと云つた、二十一二の若い女が打ちしをれて坐つて居ります。

 骨細で華奢な癖に、妙に肉感的な女で、その病的な纖弱ひよわさが、金田屋三七などといふ惡黨の異常な好みに投じたものでせう。

 主人の三七は三十七八の逞しい男で、青黒い惡血質らしい色艶や、白い齒を剥いた黒い齒ぐき、曲つた鼻筋、三角な金壺眼かなつぼまなこ、凄まじい青ひげなど、見るから恐ろしい相好です。

 傷は左寄りの胸板を、斜上から鐵砲彈で射拔いたもの、恰度柱にもたれて、妾お辨の酌で、酒を呑んでゐるところをやられたもので、床側とこわきの唐木の柱には、彈のめり込んだ跡さへも、はつきり殘つて居るのでした。

「何んなことがあつたんだ。昨夜のことをくはしく話して見るが宜い」

 平次はおびえきつて居る相手──お辨の前に、靜かに膝をおろしました。

「お富さんが歸つた後でした、──近頃癖になつて居る寢酒をやるからと──」

「お富さんといふのは誰だえ」

主人あるじの二度目の配偶つれあひで──もとのお内儀さんでした──それは、憎らしい程綺麗な人」

「二人は時々會つて居るのか」

「いえ、滅多に來たことはありません。昨夜は久し振りでやつて來て、主人と何んか内證ないしよ話をして居ましたが」

「どんな話だ」

「私は、二人の話が始まると追つ拂はれて何んにも聽きやしません」

「お前のやうな女は、追つ拂はれて素直に引つ込むのかな」

「まア」

 平次の聲は小さかつたのですが、お辨は早くも聞きとがめて、クワツとした樣子です。

「まア宜い──それからどうした」

 平次は追究しようともせず、話の次をうながしました。

「私はお勝手へ行つて、お酒の支度をして居ましたよ──嘘だと思ふなら、下女のお鐵に訊いて下さい。彌之助さんも知つて居る筈です。お富さんが來ると、主人は私達を側へ寄せ付けはしません」

「で?」

「お富さんが歸つた後で、お酒を持つて行くと、主人はヒドク不機嫌で、口小言をいひながら呑んで居ましたが、二本目からようやく機嫌が直つて、冗談などが出るやうになつた頃──」

「どんな冗談だ」

「お前なんかより、お富と一緒になつて居る方がよかつた──なんて、ひどいぢやありませんか、主人は酒が廻ると、いつでもそんな事を言ふんです。そして──あの女は働きがあるからお前のやうなお人形首の穀潰ごくつぶしとは違ふ──つて」

 お辨は、それが今でも口惜くやしさうです。

「──」

 平次は默つて、このおろかしき女の舌の動きを見て居ります。

「と、酒が始まつてから四半刻(三十分)も經つた頃でした。いきなり恐ろしい音がして、主人はもたれて居た柱の根に崩れてしまつたんです。見ると主人の胸から血が噴いて、口からも、タラタラと──」

 お辨はぞつと身を顫はせます。

彈丸たまは何處から來たか、見當くらゐはつくだらう」

「空から來たやうでもあり、庭から來たやうでもあり、見當なんか付きやしません」

「障子は締めて居たのか」

「薄寒いのに、開けつ放しで呑むのが癖でした」

「誰か主人を怨む者はあつたことだらう」

「それはもう、怨む者だらけで、良く言ふ者なんか、江戸中に一人もありやしません」

 妾の口からう言ふのです。鐵砲で打たれた佛樣も、浮ぶ瀬はありません。



 主人の弟分彌之助といふのは、二十三四の若い男ですが、青瓢箪べうたんでヒヨロ長くて、ちよいと好い男ではあるにしても、皮肉で、高慢で、虚無的で、メフイスト風で、まことに扱ひにくい男でした。

「主人は何を稼業にして居たんだ」

「へエ、良からぬ事ばかりやつて居ましたよ、──尤も泥棒の上前ははねたが、自分では泥棒をやらなかつたやうで」

「お前もその仲間か」

「飛んでもない。私は死んだ最初の配偶つれあひの弟で、居候をして居るだけの事ですよ」

「お富といふ女は、ありや何んだ」

「兄貴の二度目の配偶で──二年くらゐ一緒に居ました。良い女でしたが、悧口過ぎて兄貴ではあつかひきれず、たうとう半歳ほど前に追ひ出してしまひました。その後へ入つたのが、あの妾のお辨で、これは面は綺麗だが、至極お目出度い方で、氣性の激しい兄貴は時々お富さんのことを思ひ出すやうでしたが、惚れ拔いて居る癖に、あの女にはこはいところがあるとやらで、近頃は子分共に言ひつけて、訪ねて來ても追つ拂ふやうにして居ました」

「お富の荷物がまだ殘つて居るのか」

「ガラクタが少しくらゐ殘つて居るかも知れませんが、大した物はない筈で」

「お富と別れるとき手切金と言つたやうなまとまつたものを出したことだらうな」

「やつたかも知れませんが、ケチな兄貴のことで、大したことはなかつたでせう。お富を追ひ出すとすぐ、外に圍つて居たお辨を、待つてましたと引摺り込んだくらゐですから」

「ところで、これから先金田屋はどうなるんだ」

「其處までは考へちや居ません。惡い事をして積んだ金が、死んだ後まで殘る筈はありません。勘定をして見たら、借金の方が多かつたといふことになりませんか」

 ヌケヌケと彌之助は言ふのでした。それはおかみが何にかを洗ひ立てて、家財沒收ぼつしうと出たら、飛んだ手數だふれになりはしないかと言つた謎めいた意味もあつたことでせう。

「ところでもう一つ、金田屋は拔け荷を扱つて居ると、もつぱら世上の噂だ。此家こゝ南蠻なんばん物の鐵砲などはありやしないか」

「あまり見た事はありませんが、火繩筒がどうかすると、二梃や三梃は轉げて居ましたが」

 火器の所持は徳川時代には非常にやかましく、入鐵砲出女といふ、關所の取締りがあつたくらゐで、無屆で鐵砲を所有することは、謀叛むほんに準ずる罪と思はれて居たのです。

 しかし、その一面、外樣とざまの大名達などは、無限に鐵砲を欲しがり、それが黄金何十枚何百枚といふ高價で賣買された事も事實で、從つて拔け荷を扱ふ奸商共かんしやうどもには、これが何よりの餌でもあつたのです。

昨夜ゆふべの鐵砲は、柱に當つた彈丸たまの樣子から見ると、屋根の上か、庭の松の木の上か、廊下の向うにある、納戸の二階からつたとしか思はれないが」

「──」

「その頃、火繩の匂ひはしなかつたのか」

「いえ、家の中でそんな匂ひがすると、氣がつかない筈はありません。が、誰もそんなことを言つた者もありません」

 火繩の燒ける匂ひを嗅げば、猛獸も逃げると言はれるくらゐで、家の中であんなものが燒けるのを住んで居る者が知らない筈もありません。

 次に平次が會つた下女のお鐵は、三十前後のハキハキした女でした。給料の多いのが望みで、んな家に我慢して居ると言つた、食へないところはありますが、その代り主人が死んだ今となつては、隱し立てなどをする、しをらしい女ではなかつたのです。

「お富は舅姑しうととの折合が惡くて追ひ出されたといふ噂もあるが本當か」

「飛んでもない、私は此處へ奉公に來て三年になりますが、舅や姑のなかつたことは、私が一番よく知つて居ますよ」

「すると?」

「唯の夫婦喧嘩ですよ、──尤もお富といふ人は大した女でして、綺麗で悧口で、腹が出來て居て、今のお辨さんなんか、それに比べると少しよく出來た泥人形のやうなものですね」

 手當が惡いせゐか、妾お辨の評判は散々です。

「お富には、外に男がなかつたのか」

「あの人は悧口者で、藝者上がりでもしんに堅いところがありました。尤も彌之助さんはお富さんに夢中で、變な眼付をして見詰めて居たり、手紙を書いたり、隨分眼に餘りましたよ。昨夜なんかも、お富さんの姿を見付けると、眼の色を變へて追ひ廻して居ましたが」

「お辨の方は?」

「お辨さんと來ては──主人の眼を忍んで子分の成太郎さんと手を握つたり、内證話をしたり、見ちや居られませんでしたよ。妾奉公する身だつて、女には違ひないでせう。女には女のつゝしみといふものがなきや──ね、親分」

「──」

 お鐵は默りこくつて居る平次にまで、賛成を強ひるのです。

「尤も、畜生の眞似をするのも無理はありませんよ。あのお辨さんといふ人は、面は綺麗だが、もとをたゞせば秩父ちゝぶ山中で育つた娘で、親は獵師だつたさうですよ──親の因果いんぐわが子にむくいといふぢやありませんか」

 お鐵の舌の辛辣しんらつさは、錢形平次を辟易へきえきさせるに充分でした。

「それで、成太郎をけしかけて、主人を殺させたとでも言ふのか」

 斯うでも言つてとゞめを刺す外はありません。

「飛んでもない。松の木に這ひ上がつて、部屋の中で酒を飮んで居る主人を、鐵砲で狙ひうちにするなんて、そんな大膽なことが、あの成太郎といふ人に出來るものですか」

「お富は昨夜、何んの用で此處へ來たか、お前は知つてるだらうな」

「どうせ金のことですよ」

「いくらか持つて行つた樣子かえ」

「其處まではわかりませんが」

「それつきりか」

「何んか、自分の荷物の中から持つて行く物があるとか言つて、納戸の二階へ入つて暫らくゴトゴトやつて居ました」

「其處からは?」

「主人の部屋は見通しですよ。お辨さんがデレデレして居るのを、散々見せられたことでせう」

 お鐵は如何にもお辨が憎くてたまらない樣子です。

「ところで、主人殺しの下手人を、お前は誰だと思ふ」

 平次は最後の問ひを持出しました。

「そんな事わかりやしません。でも、三人の子分達は、店で互に見張つて居たし、主人と一緒に居たのは、お辨さんだけぢやありませんか。お辨さんから訊いたらわかるでせう」

「彌之助は?」

「あの人は物の汚點しみ家守やもり見たいな人で、何處に居るかわかりやしません。鐵砲は撃てさうもないが、下手人の姿くらゐは見て居るでせうよ」

 お鐵の口の惡さのうちには、いろ〳〵の暗示がありさうです。

 店に居る三人の子分は、何を訊かれても、知らぬ存ぜぬの一點張りでした。

「昨夜は宵から店で、無駄話をして居りました。八五郎親分がもとのお神さんのお富さんと一緒に來たときは、隨分驚きましたが、親分から『お富を家の中へ入れちやならねえ』とやかましく言はれて居たにしても、八五郎親分に十手を見せられちや、嫌も應もありません。四半刻ほどすると八五郎親分が歸つて、それから少し經つと、お富さんも、歸りました。いつもの調子で、機嫌よく愛嬌を振りきながら、三人へ一分づつはずんで行きましたよ。屆く人ですね」

 年上の酉藏とりざうは、心付けを貰つた義理があるせゐか、お富を褒めちぎります。

「それから?」

あつしは呼ばれて親分の部屋へ行きました。親分はお辨さんの酌で寢酒を始めたところで、──明日川崎へ行く用事を頼まれて引取りましたが、その後で熊吉と成太郎が小用に立つたやうで、それから暫らくすると、あの鐵砲の音でせう、お辨さんの悲鳴に驚いて飛んで行くと何も彼もお仕舞ひでしたよ」

「その時店に三人共顏が揃つて居たのだな」

「それは間違ひありません」

「外からこの中庭へ、人が忍び込めると思ふか」

 平次は窓を開けて、狹い中庭を見廻しました。建物の袖が一パイに突つ張つて居る上、へいの忍び返しが嚴重で、外からは容易のことでは忍び込めさうもありません。

「野良犬一匹入ることはありません」

 弱い尻を持つものの悲しさで、戸閉りだけは法外に嚴重を極めます。

 平次は一應家の中から外廻り、中庭の樣子など、念入りに調べましたが、外から曲者の入ることなどは、先づ想像されないことです。唯一つ、主人の部屋と廊下をへだてて相對して居る納戸の二階で、半分ほど燃えて消えた線香を拾つたのが、ひどく平次を考へ込ませました。



 平次と八五郎は、その足で直ぐお富の隱れ住んでゐる花川戸に向ひました。

「此處ですよ親分」

 八五郎が教へてくれたのは、成程ありふれた小さい二軒長屋。

「遠慮することはない、お前が先に立つて名乘りをあげるのだ」

 平次に後から押されて、八五郎ひどくはにかみながら、格子を叩きましたが、中はひつそりとして、物の氣はひもありません。

「變ですよ、親分。鍵も掛けずに何處かへ出かけたのかな」

「お隣りなら居ませんよ。今朝夜が明けると追つ立てられるやうに引つ越して行きましたが」

 隣りの達者さうなお神さんが、八五郎の前に腰をばすのです。

「今朝? 何處へ引つ越したか、知りませんか」

「何んかわけがあるんでせう、言つてくれないんですもの。何んでも嫌な野郎がウロウロして怖いから大急ぎで引つ越すんだとか、あの叔母さんが言つて居ましたよ」

「へエ? いやな野郎がねエ」

 八五郎の顏は見事に伸びます。

 平次はお神さんに十手を見せて、家の中へ入りました。

「こいつは、大變だぜ、八」

 中の凄じさは言語に絶します。八五郎が呑んだといふ酒の道具は言ふ迄もなく、七輪も鍋釜なべかまも、庖丁も俎板まないたも、凡そ金になりさうもない物は、所狹きまで取散らばし、まさに足の踏みどころもない有樣ですが、さすがに女の夜逃げで、衣類髮飾かみかざりがたつた一つも殘つてゐないのは天晴れです。

「搜したつて、ろくな形見はありやしないよ。行かうぜ、八」

「何處へ行くんです」

 未練らしくその邊を眺めて居る八五郎をうながして、平次は外へ出ました。其處にはまだ物好きさうな隣りのお神さんが、口を開いて待つて居たのです。

「何んか見當がつきましたか」

「いや、まるで夜逃げだ。この樣子では、さぞ諸方へ不義理をしたことだらうな」

「飛んでもない。女世帶のくせに、酒屋の一番のお得意で、そりや勘定はきれいでしたよ。尤もお客の多いせゐもあつたやうですが」

「お客?」

「え、時々妙なお客が來ましたよ、──濡れ鼠のお客樣がね」

 平次と八五郎は顏を見合せました。その濡れ鼠の客の一人が、此處に苦い顏をして居るのです。

「妙な客があるんだね」

「土左衞門でも拾つて來るんぢやありませんか知ら」

「その薄れ鼠の客は二度と重ねて來るのかえ」

「そんな事まではわかりませんが」

 隣のお神さんの觀察も其處までは屆かない樣子です。

「面白くなつたぜ、八」

「これから何處へ行くんです」

「橋場の渡しだよ。船頭が飛んだ面白いことを知つて居るかも知れない」

「さうでせうか」

 昨日八五郎が濡れ鼠で辿たどつた道を逆に、二人は橋場の渡し場に着きました。

「この男を知つてるかえ」

 年輩の船頭をつかまへた平次は、八五郎を指しながら訊くと、

「へエ、あの女に川へ落された人でせう」

「あの女──といふと親方知つて居るかえ」

「知つて居ますとも、仲間であれを知らない奴はありやしません。──船虫ふなむしのお富と言つてね、懷中ふところが重くて、人間の甘さうなのをつて、船が岸へ着いた時、よろける振りをして水の中に突き落し、散々詫びを言ひながら自分の家へつれ込むんです」

「──」

「昨日の親分は双手もろてを懷中へ入れて居たから、横倒しになつて、全身濡れ鼠になつたが、大抵は膝から下で濟みますよ、──まア〳〵濡れ鼠になつても、命が無事で目出度いことでした」

 船頭の話を聽いた、八五郎の顏といふものは──。

「それを知つて居ながら、默つて居るのか」

 平次は少しきつとなりました。

「相濟みません。でも、あの女には怖い後ろだてが附いて居ますし、──人の稼業の邪魔をしちや惡いと思ひましてね、へエ」

 船頭は薄笑つて相手にもしなかつたのです。全く八五郎などは例外中の例外で、大抵の旦那衆は、足を濡らすくらゐが精一杯だつたのでせう。

「八、ひどい事になるものだなア」

 渡し場を離れると、平次はつく〴〵言ふのでした。

「相濟みません、──でも、あつしは餘つ程持つて居ると思はれたんですね」

 まだんな事を言つて居る八五郎です。

 念のため、竹町の渡し場へも行つて見ましたが、此處も同じことで、御厩河岸おんまやがしの渡場にも、お富の出沒は明かです。

 更に御厩河岸の渡し場の若い船頭は、

「こいつは内々ですがね、川へ突き落して、自分の家へ喰へ込んだ相手が、懷中が輕いと、一と晩で突き出してしまひ、懷中が重いと、ひねつて殺した上、もとの川へ投り込むといふ話もありますがね、誰もその死骸を見た者がないから、こいつはあんまり當てになりませんよ」

 そんな事まで言つてくれるのでした。



 渡し場を三つ歩いてゐるうちに、どうやら暮近くなりました。

「八、ちよいとその邊で腹を拵へようか」

「有難てえ、實はそいつを待つて居たんで」

 駒形堂の近く、とある繩暖簾なはのれんへ入つて、平次と八五郎は、間に合せの煮締にしめなんかで、一合かたむけた上、これから飯にしようといふ時でした。

 何心なく雀色すゞめいろになつた往來を眺めて居た平次は、いきなり、

「八、あれを見ろ」

 と指さすのです。

「あ、金田屋の弟の、彌之助ぢやありませんか」

そつと後をけて行け、宙を踏むやうな足取りだ。女のところへ行くに違げえねえ」

「女?」

「お富のところだよ」

「でも、もう飯が來ますぜ」

「安心しろ、お前の分も俺が食つてやる」

「へツ、情けねえことになるものだな」

 八五郎は心を殘して飛び出す外はありません。

「居所をつき留めたら、下つ引を狩り集めて、眼を離しちやならねえよ」

「合點」

 それでも八五郎はき腹を抱へて、一目散に飛んで行きました。その後で平次は、二人前の飯を食ふどころの沙汰ではありません。二人前の勘定を拂ふと、これも空き腹を抱へたまゝ、もとの黒船町の金田屋へ──。

 事件はまさに緊張して來たのです。

 それから四半刻の後、平次は八五郎の報告を金田屋で受取りました。

「親分、さすがに見通しだ。彌之助は矢つ張り、お富の巣へもぐり込みましたよ」

「場所は何處だ」

「ツイ其處、三間町の路地の奧で」

「見張つて居るだらうな」

ありの這ひ出る隙間もねえくらゐで」

「よし〳〵、それぢや石原の子分衆にも手傳つて貰つて、此處へ連れて來い。お富と彌之助とあの叔母と」

「縛るんでせう」

「いや、手荒なことをしちやならねえ。逃げ出さうとしたらその時は縛つても宜い」

「それぢや親分」

 八五郎は石原の子分二人をつれて飛んで行きましたが、やがて半刻も經たないうちに、男女三人を追つ立てて、黒船町の金田屋へ引返して來たのです。

「あれ、八五郎親分。そんなにひどい事をしなくたつて宜いぢやありませんか」

 お富は繩を打たれないばかり、八五郎に無手むずと腕を押へられて、ツイ艶めかしい悲鳴をあげるのです。

「何を言やがる、昨夜ゆうべ隅田川の水まで呑ませやがつて、腕が痛いくらゐが何んだ」

 などと、人立ちがするのも氣に止めないほど、八五郎は興奮して居りました。

「あ、錢形の親分」

 家へ入つて、あかりの下に引据ゑられると、お富はさすがに驚いたらしい樣子ですが、さすがに觀念したものか、もうジタバタする樣子もありません。

「お富、俺にはもう、何も彼もわかつたつもりだが、念のためお前を連れて來て、聽いて貰ひたかつたのさ。八、家中の者を皆んな集めてくれ」

「へエ」

 やがて主人三七の死骸の前に、家中の者はこと〴〵く揃ひ、縁側にはそれを見取つて、八五郎始め石原の子分衆が陣を張りました。

「さて、お富は、三つの渡しをかせぎ場にして乘合客を水に突き落しては、自分の家へ引入れて、飛んだ金儲けをして居たが、八五郎の懷中に、重い十手の突つ張つて居るのを、重い財布とでも間違へ、突き飛ばして濡れたのを家へつれて歸り、それが十手とわかつてさぞがつかりしたことだらうが、お富は轉んでも唯は起きなかつた」

「──」

 一座はシーンとしました。平次は一體何を言はうとするのでせう。

「十手を持つた八五郎に案内させて、近頃自分を寄せつけない金田屋に行き、主人の三七に、散々怨みを言つた上、納戸から自分の荷物を取出すと見せて、かね此家こゝに居る頃、三七を殺すつもりで仕掛けて置いた、はりの上の鐵砲の火皿に、火をつけた線香を立てて、素知らぬ顏をして歸つた」

「──」

 それは實に恐る可き殺人方法でした。あまりの事に、物を言ふ者もなく、恐れ入つてうな垂れたお富の顏を見るばかりです。

「主人の三七は薄情で亂暴で、追ひ出した女房のお富に、怨まれるだけのワケがあつたことだらう。佛樣の前で惡口を言つちや濟まないが、これは世間で皆んな言つてることだ。──お富は投り出された上、自分の持つて居る物も金も取上げられた怨みを晴らすために、何時かは三七に思ひ知らせるつもりで、廊下の先の納戸のはりに、──柱にもたれて酒を呑むくせのある──主人の三七の胸のあたりに覗ひを定めて、彈丸たまをこめた鐵砲を縛りつけ、線香一本で、何時でも三七を殺せるやうな仕掛けをしたが、その前にこの家から追ひ出されて、望みを果すことは出來なかつた。丁度其處へ飛び込んだ八五郎を使つて、此家へ入り込み、昔仕掛けて置いた鐵砲を使つて、怨み重なる主人の三七を殺さうとした」

「──」

 それを聞かされる八五郎の面目なさ。

「八、あれを持つて來るが宜い」

 平次は灯を擧げて、廊下をへだてた納戸の二階を指さしました。其處の鐵砲型に組み上げた梁の上には、眞物ほんものの鐵砲が一梃縛つてあり、その鐵砲には古簾ふるすだれなどを卷きつけて、巧みにカモフラージユしてあつたのです。

 やがて八五郎は、梁に縛つた鐵砲を取りおろして持つて來ました。

「これだ、覺えがないとは言ふまい──どうだお富」

 平次の聲に應じて、

「恐れ入りました。親分、私にも言ひ分はありますが、鐵砲を仕掛けたのも私、その火皿に線香を立てたのも私に違ひありません」

 お富は兩手を後ろに廻して、平次の前ににじり寄るのでした。

「待て〳〵お富、話はまだ皆んな濟んで居ないのだよ」

「?」

「お前は船から突き落した客をつれ込んで懷中の重いのは殺して金を奪つたといふ噂があるが、それは本當か」

「そんな、そんな非道なことはした覺えはありません。どうせ命のない私、今更隱し立てはしません。──それに私は色仕掛で金を取つた事もなく、お客の有金を皆んなさらつたわけではありません。──男の間拔けなのが面白く、ついやつた惡戲いたづらです。それや暮しに困れば少しはお金も貰ひましたが──」

 それは恐らく本音でせう、どうせ處刑おしおき臺に乘る身で今更非を飾るお富でもなささうです。

「よし〳〵、それが本當なら、お前を助けてやらう」

「?」

 お富はその清麗な顏を擧げました。平次の言葉はあまりにも豫想外です。

「お前が、鐵砲の火皿に立てて行つた線香は、中程がしめつて居て、鐵砲の彈丸が飛び出す前に途中で消えてしまつたのだよ、──何よりの證據は納戸の鐵砲の下に落ちて居たのを俺が拾つてある」

「えツ」

「それを、一から十まで見て居た者が二人あつたのだ。一人は主人の弟の彌之助、それを種にお前を強請ゆすつて、お前の身體を儘にしようとした」

「──」

 彌之助はハツと首を下げました。

「もう一人は──暫らく名は言ふまい──そつと不發の鐵砲をはりから取りおろし、主人の三七が醉つて居眠りして居るうちに、火繩をかけて、縁側に持出し、踏臺をして欄間らんまから主人の胸板をねらつて撃つたのだ」

「?」

「證據は澤山ある。欄間の障子は少しげて居るし、火鉢には揉み消した短かい火繩が埋めてあつた──主人の胸の傷跡きずあとや、柱の彈丸たまの跡は、納戸のはりから撃つたにしては、勾配こうばいが少し違ふ」

「誰です、それは?」

 八五郎はいきり立ちました。

「主人の三七とたつた二人でこの部屋に殘つて居た者、──秩父ちゝぶ山中に育つた獵師の娘」

 言葉の下から、脱兎だつとのやうに飛び出した女、それは八五郎と石原の子分衆に苦もなく取押へられたことは言ふ迄もありません。

 下手人のお辨を、石原の子分衆に任せて、八五郎と一緒に歸る平次は、

「お富も惡戲が過ぎたし、主人の命を狙つたのは許し難いが、あの女には妙に憎めないところがあるよ」

あつしもさう思ひますよ」

「隅田川へ投り込まれてもか」

「へエ、飛んだ逆上のぼせ引下げで、──あの後の酒のうまかつたことは」

あきれた野郎だ、──尤もお富にくらべると、お辨はたちが惡いな」

「あの女には、愛嬌も惡戲つ氣も可愛氣もない。あるものは、滿々たる慾と色氣だけ──成太郎と一緒になりたさに、主人三七を殺したのはひどい女ですね。それに比べるとお富は──」

「まア、その氣で精々水へ突き落されることだ、──尤もお富もひどく氣の毒がつては居たがね」

「でもあんな女は、友達には面白いが、女房には御免ですね。三七の言ひ草ぢやないが、何んとなく凄いでせう」

 さう言ふうちに二人は、明神下の平次の家──戀女房お靜が淋しく待つて居るあかりに近づいて居るのでした。

底本:「錢形平次捕物全集第二十八卷 遠眼鏡の殿樣」同光社

   1954(昭和29)年625日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1950(昭和25)年10月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2017年315日作成

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