錢形平次捕物控
三つの菓子
野村胡堂
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谷中三崎町に、小大名の下屋敷ほどの構へで、界隈を睥睨してゐる有徳の町人丁子屋善兵衞。日本橋の目貫にあつた、數代傳はる唐物屋の店を賣つて、その金を高利に廻し、贅澤と風流と、女道樂に浮身をやつし、通と洒落と意氣事に、夜を以て日に繼ぐ結構な身分でした。
その丁子屋善兵衞が、下總のさる小藩の御用金を引受け、財政の窮乏を救ふ一助ともなつたといふ理由で、江戸御留守居の相談役を仰せ付けられ、苗字帶刀を許されて、綿鍋善兵衞と名乘ることになり、そのお祝はまた、一家一族は言ふまでもなく、谷中三崎町一圓の潤ひになつたと言はれました。
丁度九月九日重陽の節句の日、善兵衞は御禮言上のため龍の口の上屋敷に參上、留守宅では、殿樣から拜領の菊の御紋のお菓子折を開いて、内儀のお絹中心に、丁子屋の奉公人──手代から下女下男に至るまで、主人善兵衞の福徳を祝ふことになつたのです。
奧の一と間、妾のお小夜の部屋に集まつたのは内儀のお絹と、養ひ娘のお冬の三人。病身の内儀お絹は、萬事控へ目な差圖役に廻つて、家の中の取締りから、仕事萬端は、才智にたけて、實行力のある妾のお小夜が引受け、養女のお冬は、お人形のやうに虔ましく、その饗應を受けさへすればよかつたのです。
「では頂きませうか」
妾のお小夜は、萬事を取り仕きつて、六疊の部屋に、お茶の用意を整へました。青疊に煎茶の道具、廣々とした庭の籬に、紅紫白黄亂れ咲く菊を眺めて、いかにも心憎き處置振り、金と時間とに飽かした、豐かさが隅々までも行き屆きます。
本妻のお絹は三十五、昔は美しくも健康でもあつたでせうが、この三年ばかりは持病の癪の發作がひどく、その上強度のヒステリーで、蒼白く痩せ細つた顏も、針金のやうな手足にも、最早何んの魅力もなく、家の中の實權は、若くて綺麗で才氣走つて、その上押しの強い妾のお小夜に移つて行くのをどうすることも出來なかつたのです。
妾のお小夜は、曾て谷中のいろは茶屋に姿を見せたこともあり、その素姓は甚だ怪しいのですが、山下の小料理屋の女中をして居るうち、その拔群のきりやうを、丁子屋善兵衞に見出され、そのまゝ引つこ拔いて、三崎町の御殿──と土地の人は、憤怒と侮蔑とをなひ交ぜた心持で呼んで居りました、その豪勢な家に引取られ、内儀のお絹の思惑などはてんから無視して、第二妻の權位に据ゑられたのです。
年は二十三と言ひました。脂の乘りきつた非凡の美色で、取廻しの色つぽさと、物言ひの艶めかしさは、まことに天稟と言つてよく、丁子屋善兵衞の鍾愛も思ひやられました。
が、本妻のお絹は、丁子屋の家付きで、病身で意氣地がないやうでも、いざとなると主人の善兵衞にも頭の上がらないところがあり、我儘一杯に振る舞ひながら、お小夜にもこのヒステリーの大年増が、眼の上の瘤だつたことは言ふ迄もありません。
養ひ娘のお冬は、十八になつたばかりの、ポチヤポチヤした可愛らしい娘でした。大して美しいといふ程ではないにしても、その新鮮さは、枝からもぎ立ての桃のやうで、誰の眼にも好感が持てます。行く〳〵は手代の清八と娶合せて、丁子屋の跡取りにもといふ話もありましたが、近頃ハタとその沙汰の止んだのは、清八が女狂ひをするので、この娘に嫌はれたのだと言つたやうな、穿つた噂が飛んで居ります。
それは兎も角、妾お小夜の手で、お茶とお菓子は配られました。お茶はその頃の世界ではこの上もない贅と思はれて居る宇治の玉露、お菓子は殿樣から拜領したといふ、菊形の饀入の打物、白紙を敷いた腰高の菓子器の上に物々しくも供へてあるのです。
「あの御新造樣、旦那樣からお使ひが──」
取次いだのは下女のお若でした。美人と御馳走が何より好物の主人善兵衞は、一季半季の奉公人の選擇にまで審美眼を働かせて、これも、なか〳〵のきりやうでした。
「あいよ、──いづれ、今晩はお歸りが遲いといふお使ひだらう」
お小夜は面倒臭さうに立ち上がりました。
「頂きませうか知ら──」
若いお冬は、見事なお菓子に食慾をそゝられた樣子で、甘えた調子で、義理の母──お絹の顏を見ました。
「いえ、あの人を待たなきや惡い──」
本妻のお絹には、お小夜に對する遠慮があるのでせう。
「何をしてゐらつしやるんでせう。隨分、ゆつくりね」
お冬の言葉は、甘えた調子から、ほのかな非難の調子になりました。
「──少し寒くなつたやうね──陽がかげつたせゐか知ら」
お絹は痩せた肩を、寒々と縮めます。病身の中年女には、秋の夕暮の風がこたへるのでせう。
「袢纒を取つて參りませう」
「あ、では、あの薄い方を──氣の毒ね、御馳走をお預けのまゝ」
「あら」
お冬は自分の喰ひ辛棒を冷かされたやうな氣がして、フト顏を赤らめながら立ち上がつて、いそ〳〵と一つ置いて隣りの母親の部屋へ行きました。
その後ろ姿が隱れた頃。
「あ、さう〳〵」
内儀のお絹は、お勝手に大事な紙入を置いて來たことを思ひ出して、少しあわて氣味に立ち上がりました。紙入の中には小判が三枚と、質の良い珊瑚の六分玉が入つて居る筈だつたのです。
間もなく三人の女は、殆んど一緒にもとの座に戻りました。僅かばかりの遲速を言へば、養ひ娘のお冬が一番早くて、妾のお小夜がそれに續き、内儀のお絹が一寸紙入が見えなかつたとやらで、ほんの少し遲れてもとの部屋に歸つたのです。
「旦那樣は、遲くなるかも知れないから、小袖を一枚用意に持たせるやうにとのことでした」
妾のお小夜は、さすがに本妻のお顏を差し措いた取りさばきが後ろめたいか、辯解らしいことを言ふのです。
「さア、それでは頂戴しませう。何處のお菓子も變りはないやうなものだが、それでもお上屋敷のお菓子は、品を吟味するせゐか、一段とおいしいやうで」
お絹はさう言ひながら、先づ自分の前に置いた菓子を取つて、懷紙の中で二つに割りました。その頃漸く一般に用ひられたと言つても、まだ寶玉の屑のやうに貴かつた白砂糖で作つた打物で、中にある饀はねつとりして、良い香氣が食慾をそゝります。
お小夜も、お冬もそれに慣ひました。お茶は少し温くなりましたが、宇治の玉露は、大して味を失つては居りません。
庭は傾く秋の陽に、黄白の菊の花が榮えて、夕風は薄寒くとも、富と榮えとに惠まれた生活は、何んとなくホカホカとしたものを感じさせるのでした。
無言のうちに、暫らく時は經ちました。
「お内儀さん」
「何んだえ、お小夜さん」
妾のお小夜に呼ばれて、お絹は靜かに振り返りました。呼んだお小夜は、ひどく緊迫した樣子をして居りますが、呼ばれたお絹は、いたつて平靜でけゞんな顏でさへありました。
「氣持は、何んともございませんか」
「いえ、今日は珍らしく良い心持ですよ」
「少しも」
「──」
お小夜の調子がひどく變なので、お絹は思はず、この勁敵──自分の夫をぬく〳〵と奪つた上、家の中のあらゆる權力までもむしり奪らうとして居る、美しい惡魔の顏を覗いたのです。
「胸が燒きつくやうで、喉が喝いて──、眩暈がして、頭が割れさうで──そんな心持がしませんか」
「いえ少しも」
答へるお絹の平靜さに比べて、問ふお小夜の顏は物凄まじいものでした。額際からジリジリと脂汗が流れて、宙を見上げる瞳穴が夕立空のやうにかき亂れると見るや、美しい顏が、全身を絞め上げる死の苦惱に痙攣して、見る〳〵蒼黒く、そして紫色に變つて行くのです。
「今に、今に、お内儀さんも、斯うなりますよ、──誰が一體、私に、私に毒を」
わけのわからぬ事をわめくと、お小夜の手は鈎の如く曲つて、十本の指は、喉から胸へと、滅茶々々に掻きむしりながら、耻も外聞もなく、その邊をのた打ち廻るのです。
「どうしたの、お小夜さん」
お絹は近寄りましたが、この女──夫の愛を奪つた妾──の苦惱に絞め上げられる肉體を抱き上げるほど僞善的にもなり兼ねて、たゞおろ〳〵するばかり。
養ひ娘のお冬は、すつかり顛倒して、お勝手へ、店へと、急を告げに飛んだのです。
「あ、苦しい、苦しいツ」
お小夜は七轉八倒するばかり、身體は六疊一パイに轉がつて、揉みに揉んで苦しみ拔きます。が内儀のお絹も、娘のお冬も、──騷ぎを聞いて驅けつけた、下女のお若も、手代の清八も、唯呆然と眺めるばかり、何より先づツイ初音町の醫者へ驅けつけることさへ忘れて居る有樣でした。
僅かに庭から顏を出した下男の友吉が、若いのによく氣が付いて、一と走り本道の石齋先生をつれて來た時は、萬事はもう手おくれで、妖艶無比の女──毒のある花のやうなお小夜は、猛毒と鬪つた苦惱のために、さながら夜叉の面のやうに變貌して、全くこときれて居りました。
ガラツ八の八五郎が、明神下の錢形平次のところへ、それを報告に來たのは、翌る日の朝でした。
「驚いたの驚かねえの」
相變らず髷節で調子を取りながり、シンコペエトな足取りで路地一パイに踊りながら來る八五郎です。
「驚くのは勝手だが、人の履物の上へ、泥だらけな草履を脱ぐのだけは勘辨してくれ」
平次は鼠の尻尾ほどの懸崖の菊を、眼を細くして眺めて居りました。丁子屋の菊籬の豪勢さに比べて、それは何んといふ情けない道樂でせう。
「親分も菊見ですかえ。イヤになるぢやありませんか、谷中の丁子屋ぢやそれが因で人が殺されるし」
「變なことを言ふぢやないか。菊見と人殺しと、どんな引つ掛りがあるといふんだ」
平次は起き上がりました。谷中の丁子屋と言へば、金があつて男がよくて、物がわかつて遊びが上手で、先づ江戸中に響いた名前です。
「殿樣から頂いた、菊見の菓子を、女三人でたべて──本妻と妾と娘ですがね、──その中でも一番綺麗で一番ピチピチして居る、妾のお小夜といふのが、七轉八倒の苦しみで死んでしまひましたよ。一緒に菓子をたべた本妻と養ひ娘は、ケロリとして居るんだから、これは毒害と思はなきやなりません」
「成る程ね、その菓子は一人つづ別の物に入れてたべたことだらうな」
「一と口ぢや頬張りきれさうもない、菊形の打物で、一人に一つづつ腰高の菓子臺に載せて配つたさうですよ」
「そんな世話は誰が燒いたんだ」
「不思議なことに、死んだお小夜だから變ぢやありませんか」
「毒は?」
「色も匂ひも味もないところを見ると、砒石だらうと言ふことで、喰べ殘しの小さい片らを、本道の石齋が持つて行きましたが」
「鼠捕りだな」
「兎も角も、ちよいと御輿をあげて下さいよ、親分」
「それくらゐのことなら、お前でも裁けるだらう。──綺麗で我儘で身勝手な妾を殺すのは誰か──くらゐのことは、直ぐわかるぢやないか」
平次はなか〳〵動きさうもありません。
「ところが、さう手輕には行きませんよ。昨夜小耳に挾んで、飛んで行くともう黒門町の庄太の野郎が來て、散々掻き廻したあとでしたがね」
「何にか、證據でも掴んだのか」
「掴み過ぎるほど掴みましたよ。──殺された妾のお小夜が、池の端で石見銀山鼠捕りを編笠を冠つた流しの藥賣から買つて居るところを見た者があるし、裏の下水の縁には、石見銀山らしい白い粉が捨ててあつたし」
「それつきりか」
「それつきりぢや證據になりませんが、もう一つ、──下女のお若が、その日の晝頃、妾の小夜が床の間に三方に載せて飾つてあつた、拜領ものの菊型のお菓子の一つを、自分の膝の上に半紙を敷いて、何やら細工をして居るのを見た──といふんだから動きは取れないでせう」
「細工?」
「菓子は、饀この入つた大きい打物ですよ。その裏に穴でもあけて、石見銀山を仕込んだひにや、ちよいとわかりませんよ、親分」
「その菓子に細工をしたお小夜とやらが死んだんだらう」
「その通りですよ」
「本妻か娘か、どつちかに食はせるつもりで仕掛けをした菓子を、うつかり間違へて自分がやつたんぢやないのか」
「そんな間拔けな女ぢやありませんよ。眼から鼻へ拔けて、とんぼ返りをやり兼ねない女ですよ。いろは茶屋に居るときから、あつしも口くらゐきいたことがありますが」
「フーム」
「毒の入つて居る菓子には、何か目印がついてゐたに違げえねえと思ふんだが」
「そんな事だらうな。──よし、行つて見よう」
「有難てえ、それであつしの顏も立つといふものだ」
八五郎は額を叩くのです。
「又誰か──女の子にでも頼まれたんだらう」
「圖星、さすがは親分で」
「新造か、年増か」
「あの娘つ子のお冬が拜むんですよ。──黒門町の庄太が、お母さんを縛りさうだから、錢形の親分さんをつれて來て下さい。後生だから──つて。大したきりやうぢやないが、心立ての優しい、良い娘ですよ」
「そんな事だらうと思つた」
事件の面白さうなのに釣られて、錢形平次もツイ出動する氣になりました。
谷中三崎町の丁子屋御殿は、笠森稻荷と共に、土地の名物になつて居た頃のことです。その頃はまだ、鈴木春信によつて描かれた、一代の美女お仙は現はれて居りませんが、そのお仙に先驅して、いろは茶屋の名物女だつたお小夜が、玉の輿から眞つ逆樣に落ちて、無慘な毒死を遂げたといふことは、早くも土地の噂を白熱させて、井戸端も床屋も、そして町風呂の二階も、その話で持ちきりだつたのです。
「八、裏から入らう」
門や破風や玄關はさすがに憚つて、町人の住居らしい格子造りですが、何んとなく幅つたくてピカピカして、僅かに庇に覗かせた銅瓦の贅も、意地の惡い役人に引つ掛つたら、忽ち僭上沙汰でおとがめの口實になるでせう。
裏木戸を開けて入ると、二十五六のむくつけき男が、表の騷ぎも知らぬ顏に、悠々として庭などを掃いて居ります。淺葱の股引に木綿布子、藁しべで髮を結つた、非凡の無頓着さで、江戸の中でこんなのを見るのは──場所が場所だけに、錢形平次にも異樣な感じです。
「お前は?」
平次はその前に立ちました。
「へエ、友吉と申しますだ」
下男友吉人別を調べるまでもなく、相州足柄山で熊の子と角力を取つて育つたやうな男、まだ二十六の若い感じで、鹽原多助のやうな心持で江戸へ出て來たのを、兩國でポン引きにしてやられ、褌の三つに隱した大事の路用まで拔かれて、泣くに泣かれず、『俺アどうすべえ』と途方に暮れてゐるところを、丁子屋の主人善兵衞に助けられ、そのまゝ請人もなしの、年三兩の給金で働いて居るといふ男です。
「お前の知つてゐることを、皆んな話してくれないか──此家には人一人殺して、ヌクヌクと納まつてる人間があるに違ひない」
「へエ、へエ、よく解りますだよ。お前樣は錢形の親分さんでせう」
友吉の無遠慮さと、物の掛け引を知らないらしい純粹さは、平次に取つては申分のない手掛りの提供者でした。
「先づ、この家で、新造のお小夜を一番憎がつて居るのは誰だ」
「皆んなでがすよ。内儀さんも、お孃さんも、女中のお若どんも──可愛がつてゐるのは旦那樣で、惚れて居るのは清八どんくらゐのもので」
この山男は思ひの外の辛辣な舌の持主でした。
「清八といふのは手代だらう」
「へヱ、──一度はお孃さんの聟になるつもりでゐた人でがすよ」
「それが主人のお妾のお小夜とどうかしたといふのか」
「其處まではわからねえが、──近頃清八どんは、ひどくお孃さんに嫌はれて居るやうだから、御新造に乘換へたんぢやあるめえか」
愚直さうな友吉は、自己中心に物を考へないだけに、案外鋭い洞察力を持つて居さうでもありました。
だが併し、錢形平次は斯んな一方的な觀察で、物事を決めて了ふやうな、氣樂な人間ではなかつたのです。
「お前の考へぢや、御新造のお小夜さんを殺しさうなのは誰だと思ふ」
平次は一歩突つ込みました。
「そんな事を言へるわけはねえだよ。──尤もおらでねえことだけは確かだ。お孃さんのお冬さんでもあるめえよ。あの人は神樣のやうな人だ」
友吉の言ふのは、ひどくはつきりしてをります。
お勝手から平次と八五郎は滑り込むやうに丁子屋の屋根の下へ入つて居りました。大袈裟で、白痴おどかしな正面から入るよりは、搦手から攻めた方が、この城は樂に落せるやうな氣がしたのです。
「お前は?」
平次は立ち淀みました。鼻の先に關所を据ゑたのは、二十一二の良い女、それが下女のお若と知つたのは、八五郎に注意されてからのことでした。
「錢形の親分さんでせう。──よく知つて居ますよ、江戸開府以來の智慧者なんですつてね。怖いわ、私」
と言つた調子で、おちよぼ口を、水仕事で荒れた掌に塞ぐのです。
「怖いことがあるものか。さア、──誰がお小夜を殺したか、話してくれ。お前は知らない筈はないと思ふんだが──」
平次は斯う言つた調子でした。相手のお若は、多血質で氣性者で、ちよいと可愛らしくて、相當以上に智慧走ると見て取つたのです。
「あの人は、自分で間違へたんですよ。お内儀さんを殺さうとして、自分で仕掛けた毒の菓子を、目印の赤い菓子種が落ちてしまつたので、見當がつかなくなつて、自分で喰べてしまつたに違ひありません」
お若の言葉は斷定的で、どんな人にも寸毫の疑ひも挾ませなかつたのです。
「赤い菓子種といふのは何だえ?」
平次は訊き返しました。
「あの人は、一つのお菓子の裏へ穴をあけて、何やら白い粉を詰めて居りました。この隣りの部屋ですもの、當人は誰も見てないつもりでも、年がら年中お勝手に居る私には、戸棚の隙間からでもよく見えますよ──贅澤に育つた人達は、同じ惡いことをするんでも、何處か甘いところがあるんですね」
お若の練達さから見れば、賢いやうでもお小夜などには、何處か隙だらけのところがあつたのでせう。
「あの人は、お菓子の尻へせつせと穴をあけて、白い藥を詰めて居ました。それが濟むとお菓子の穴を塞いで、目印しに赤い菓子種をお菓子の眞ん中──丁度菊の花の中程にまぶして、他の菓子と見わけのつくやうにしたんです」
「──」
「それほど骨を折つて拵へた毒菓子、──赤い目印の菓子種が落ちて、毒菓子の拵へ主のお小夜さんがそれを食べて死なうとは、人間業ではどうすることも出來ない、神佛の罰ぢやありませんか」
「よし〳〵、お前がそれ程に言ふなら、お小夜は自分で拵へた毒菓子を、間違つて自分で食べて死んだといふことにして置かう。──ところで、お内儀さんと、お孃さんとの仲は好かつたのかな」
平次は唐突な問ひを持出しました。
「それはもう、──お孃樣のお冬さんは本當によく出來た方ですよ。世間で何んと言はうと、あんなやさしいお孃さんは、江戸中にも二人とはないでせう」
お若はでつかい牡丹餅判を捺すのです。
「お内儀さんは?」
「お氣の毒なことに病身で、毎日お妾風情の御機嫌を取つて居るのを見ると、奉公人の私でさへ齋痒いと思ひます。丁子屋家付きの娘で、旦那は小糠三合の入聟ですもの、あんなに小さくなつて居なくたつて宜いやうなものですが──」
お若は自分のことのやうに憤慨するのでした。
「妾のお小夜は評判が惡かつたやうだな」
「綺麗に生れついたのが一徳で、丁子屋を儘にする氣になつたのが間違ひですよ。面は人並外れに綺麗だつたところで、あれぢや長い榮はありません。高慢で強情で、我儘で淫亂で、男の顏を見ると、ニタニタして精一杯の愛嬌を振りまくんですもの。清八どんでなくたつて、大概の男は夢中になりますよ」
「清八はそんなにお小夜に夢中だつたのか」
「お孃さんに嫌はれた腹癒せですよ。──お孃さんは生一本で眞面目だから、あんな浮氣野郎と連れ添ふ氣なんかありやしません」
お若の長廣舌は際限なく發展します。
主人の善兵衞は、四十八といふにしては、恐ろしく若い男でした。世帶の苦勞のないのと、女道樂の激しいせゐでせう。
「錢形の親分、飛んだ手數を掛けて濟まないな。何分、私は忙がしいので、家を見張つてばかりも居られない。現に昨夜も、龍の口の御上屋敷に呼出されて、いやもう、深夜までの殿樣の相手ぢや、──町人の私でなければ、夜も日も明けないといふ、大層な御執心でな」
斯う言つた調子です。この男──丁子屋善兵衞に取つては、出世と漁色に忙しくて、非凡のお小夜も、たま〳〵よく出來た、玩具の人形に過ぎなかつたのでせう。
手代の清八は、三十前後の、これはちよいと好い男でした。痩せすぎで、眼が吊り上がつて、面長で、女のやうな皮膚と、子供のやうな舌つ足らずの口調が、特色でもあり愛嬌でもあります。
「私は──店に居りました。へヱ、たつた一人で、店を空けるわけには參りません。──商賣柄女のお客樣方は參りませんが、男の方はよく見えました」
「昨日の客は」
「よく覺えて居ります。晝前に相良樣御用人、晝頃稻葉佐仲樣、晝過ぎに田熊丹後樣」
「奧は覗いて見なかつたのか」
「飛んでもない。そんな事をしたら、主人にひどく叱られます」
「お前は此處に住み込んで居るのか」
「へエ、店二階に寢泊りして居ります。奧とは全くの別世界で」
「昨日の樣子、少しは知つて居るだらう」
「何んにも存じません。お若の聲で、膽をつぶして飛んで行つたやうなわけで」
「お小夜と大層仲が良かつたさうぢやないか」
「ブルブルブル、そんな事を言はれると、私は主人の前へ顏が出せなくなります。それに此家へ養子になることに、大方話が纒まつてゐる私でございます」
必死の場合、清八はそんな事まで言つて、身の潔白を證據立てようとするのでした。
その次に平次が會つたのは、丁子屋の養ひ娘のお冬でした。桃の實のやうな娘と先に紹介しましたが、銘仙の不斷着、髮形も一向に平凡ですが、側に寄ると野の花のやうな、野生的な魅力があつて、その上本當に野の花のやうな、甘美で爽やかな體臭を感じさせる娘でした。
「お孃さん、お小夜が殺されたことは間違ひもないことですが、何にか、氣の付いたことはありませんか」
平次は定石通りのことを訊いて、靜かにこの娘の表情の動きを見詰めました。
「私は何んにも知らないんですもの──でも本當に怖いと思ひました」
まだ心のをのゝきが止まらぬらしく、人の顏を避けて、娘は縁側の柱によつたまゝ、靜かに秋の庭を眺めて居るのでした。
「お小夜といふのは、どんな女でした」
「氣前の良い、働きものでした。──でもお母さんを押しのけるのだけは──」
惡いとは言ひきりませんが、遠慮勝ちな處女の心にも、義理の母を押しのけて、我意を揮ふ妾のお小夜が憎く映つたのでせう。
「お内儀さんはそれを何んにも言はなかつたのですね」
「え、お身體が弱いんですもの──でもその病氣だつて、お母さんのせゐとばかりは言へません」
お冬の口調には、義理の父善兵衞の亂行と、妾お小夜の我儘に對する非難が潜む樣子です。
「下女のお若は?」
「あんな良い人はありません。蔭になり日向になり、私を庇つてくれます」
「下男の友吉は?」
「氣の知れない人です。──でも、それは私のせゐでせう」
むくつけき足柄男と、江戸の町家の祕藏娘では、いかにも互の理解はむづかしさうです。
「清八は?」
「怖い人」
「お孃さんと娶合せて、丁子屋の後を繼がせるといふ話ですが」
「そんな事になれば、私は此家から出てしまひます。──私の本當の兩親もまだ達者ですし」
お冬の決心は容易ならぬものがありさうです。
「どんなところが怖いんで?」
「店二階に休んでゐる人が、何處をどう通るのか、お小夜さんの隣りの私の部屋へ、夜でも晝でも、ヒヨイと顏を出したり、障子の蔭から覗いて居たりするんですもの。私はもう、あの人の顏を見ると、氣味が惡くて御飯もたべられなくなつてしまひます」
「そんな事を、誰かに話しましたか」
「言つても、本當に聽いてくれるのは、お母さんくらゐのものです」
「その清八が、近頃お小夜と仲がよいといふことだが──」
「さア私は──」
娘はさすがに其處までは答へ兼ねました。袂の先をいぢつて、モヂモヂして居ります。
「八、面白くなつたな、──手代の清八が、店二階から、誰にも姿を見せずに、奧の娘の部屋へ通ふ道があるに違ひない。搜して見ようぢやないか」
「やつて見ませう」
平次と八五郎は、一たん店二階へ行つて、其處から念入りに通ひ路を調べ始めました。
「あれだ、八」
「へヱ?」
「窓から出て、庇の上の踏板を、物干場へ出るのだ。其處から先へ降りると、女中部屋の先、──奧へ通ふ北側の廊下へ出るぢやないか」
平次と八五郎は、泥棒猫のやうに、庇を渡つて物干場から、潜りを開けて北側の廊下へ出ました。
「潜戸の棧が馬鹿になつて居るのを、誰も氣がつかなかつたのでせうか」
「清八だけは氣が付いたのさ」
「へツ、違げえねえ」
廊下を進むと、最初は主人善兵衞の部屋、その次は妾のお小夜の部屋、そして一番奧が娘のお冬の部屋になつて居り、内儀のお絹の部屋だけは、病身といふのを口實に、主人とお小夜の部屋から遠く、店寄りの女中部屋の隣りになつて居る樣子です。
三つの部屋は南縁の外に、北に廊下が通つて、明るく使ひよく出來て居りますが、細かに調べて行くと、北側の廊下に面した、小窓の障子が、それ〴〵少しづつ紙が剥がされて居り、内からは氣がつかなくとも、廊下からはその三角に剥がされた紙を捲つて、部屋の中の樣子を、悉く見られるやうになつて居るのでした。
「イヤな野郎だな。斯んな細工をして、娘やお妾の樣子を覗いて見て居たんだ」
「あの野郎、江戸つ子の風上にも置けねえ畜生ぢやありませんか」
「おや、赤いものが落ちて居るぢやないか」
「?」
「小窓の敷居に、赤い菓子種が落ちて居るよ。ほんの少しばかりだが、菓子種に間違ひあるめえ、チヨイと舐めて見よう」
「あ、親分。その中には毒が混じつて居やしませんか」
「大丈夫さ、毒は菓子の饀の中だ。これは菓子の上へ目印につけた菓子種だもの」
平次はその赤いのを舐めて見て、何やらうなづいて居ります。
その隣りのお妾のお小夜の部屋へ入つて見ると、佛樣はもう入棺が濟んで、型通りに飾つた机の前に、内儀のお絹は首うな垂れたまゝ肅然と控へて居るのでした。
病身らしい蒼白い顏が、一段と打ち萎れて、肩を落した寒々とした姿や、數珠を掛けた細い手首を見ると、富貴の中にひたりきつた、世にも不幸な人と言つた感じです。
「内儀さん、お邪魔をしますよ」
「あ、錢形の親分さん」
下女のお若から聽いて、これが錢形の平次と知つて居るのでせう。
「八、棺を開けて見るが、手傳つてくれ」
「へエ」
二人は後ろへ廻つて、まだ釘を打つてない棺を開けました。八五郎が差出す佛前の蝋燭、その灯に照らし出された、妾お小夜の死の顏の凄まじさ。──
「あ、これはひどい。どんなに苦しんだことか、罪は深いな」
どんな罪業の深い女でも、斯うまで恐ろしい死に樣をするといふのは、容易のことではありません。曾て上野から下谷へかけて、一代の嬌名を馳せた美女が、さながら藍隈を取つた鬼女の姿に變貌して居るのです。
二人は靜かに棺を閉ぢて、心持だけの線香を上げました。
「あの、錢形の親分さん」
「?」
内儀は顏を擧げて、靜かに聲を掛けました。
「どうぞ、私を縛つて下さい。お小夜さんを殺したのは、この私のやうな氣がしてなりません」
「それはどういふわけです。お内儀さん」
細々とした手を後ろに廻して、覺悟をきめた内儀の姿を見て、平次にも腑に落ちないことばかりでした。
「私は、あのお菓子を替へました」
「──」
「私の前の菓子にだけ、赤い菓子種が附いてゐたので、お小夜さんが立つた後で、フト取上げて見ると、お菓子の下の方に穴があいて、打物が出し崩れて居りました」
「──」
「私は、何んとなく氣味が惡くなつて、お隣りのお小夜さんの前にあつた菓子と、そつと取替へたのでございます。──もとより、その中に、あんな恐ろしい毒があらうとは、夢にも思ひません」
内儀のお絹は、その菓子に毒を仕込んだ者が誰であつたかも忘れて、ひたむきに、菓子を取替へた自分が、お小夜の命を縮めたやうに思ひ込んでゐるのでせう。
「お内儀さん、その心配は尤もだが、菓子に毒を仕込んだのは誰の仕業か、お内儀さんは知つて居なさるだらうな」
「いえ、其處までは」
「お前さんには罪がない。──よく出來たやうでも内儀さんは、腹の中で不斷お小夜を憎み續けて居るから、お菓子を替へたために、お小夜を殺したやうに思ふだらうが、そいつは苦勞性過ぎますぜ」
平次はさう言つて慰める外はなかつたのです。恐らく、日頃お小夜の行状が目に餘つて、本妻のお絹は、時々は殺し度いと思つたことがあるのかも知れません。それが潜在意識になつて、お小夜の殘酷な毒死の姿を見ると、自分が殺したやうに思ひ込んだのでせう。
「さうでせうか、親分さん」
「まア、心配しなさんな。ところでお内儀さん、お前さんが菓子を替へる時は、確かに菓子の上に、赤い飾りの菓子種が載つて居たことでせうね」
「間違ひもなく、あとの二つは何んにもないのに、その菓子だけ、まん中に赤い菓子種が附いて居りました」
「ところで、その後で、三人揃つて、その菓子をたべた時、お小夜の菓子の上に、赤い菓子種は附いて居ましたか」
「よく覺えて居ります。──不思議な事に、お小夜さんがたべる時は、赤い菓子種などはなかつたのでございます。──でもそれを食べると直ぐ、お小夜さんはあの苦しみで──」
それは驚くべき發見でした。平次の頭は恐ろしいスピードで動いて、
「八、あの野郎だ。──店から清八をしよつ引いて來い」
「よしツ」
八五郎は飛んで行きます。
「親分、私ぢやない。私は何んにも知らない」
わめき散らしながら清八は、八五郎に襟髮を掴んで引つ立てられて來ました。
「野郎、ジタバタするか」
平次の前に引据ゑて、八五郎は手に唾などをつけて居ります。
「清八、證據は皆んな擧つたぞ。二階から庇を渡つて此處へ來て、小窓から入つて菓子に細工をしたらう」
平次は靜かに問ひ詰めました。
「その通りに違ひありません。が、私はお小夜さんを殺した覺えはない。お小夜さんは私と固い約束をして居りました。此處から逃げ出して、私と知らぬ他國で世帶を持たう──と」
「馬鹿野郎ツ、惚氣どころぢやねえぞ」
八五郎はその生つ白い頬桁を一つくらはせました。
「でも、私は、お小夜さんとお孃さんの菓子を、そつと入れ替へただけなんです──お孃さんのお菓子に、毒が入つて居やうなどとは夢にも思ひません」
「お前はあの佛樣のやうなお孃さんを殺す氣だつたのか」
清八はたうとう語るに落ちました。
「親分、そんな。そんなつもりぢや」
「いや、それに違ひない。赤い飾り種の附いてるのが、毒を仕込んだ菓子と知つて、お孃さんとお小夜の菓子を入れ換へ、お孃さんを毒害する氣だつたに違ひあるまい」
「飛んでもない、親分」
「證據は、赤い菓子種が、お前一人しか通らない、小窓の敷居の上に落ちて居たとは氣がつくまい」
「えつ」
「お前は、毒菓子から目印の赤い飾り種を削り取り、懷ろ紙か何かに包んで持つて來る途中、小窓を跨ぐとき敷居にこぼしたことだらう。──その毒菓子から目印を削り取つたのを、お孃さんに喰べさせる氣でやつた仕事だ。太てえ野郎だ」
「でも死んだのは、お小夜さんですよ、親分」
清八は必死と爭ひ續けるのです。が、
「それは、神樣のなさつたことだ。最初菓子に毒を仕込んで、内儀を殺さうとしたのはお小夜だ。その毒菓子が何んにも知らないお孃さんの前にあるのを、神樣は放つては置きなさらない」
「──」
清八も、お絹も、縁側から覗く善兵衞も、娘のお冬も、庭に突つ立つて居る下男の友吉も、嚴肅なものに衝たれて默つてしまひました。
「さア、八。その野郎を引つ立てろ」
「立てツ」
腰繩を打たれた清八は、最早抗ひやうもなく、八五郎に引立てられます。
× × ×
「親分わからねえことばかりですぜ。丁子屋の一件」
その翌る日、平次のところへ顏を出した八五郎は、相變らず貧弱な懸崖に恍惚として居る平次に繪解きをせがみました。
「よくわかるぢやないか、何が一體わからないんだ」
「神樣ですよ、──お孃さんの前の毒菓子と、お小夜の前の菓子を入れ替へた神樣といふのは、一體誰です」
八五郎は鼻の穴をふくらませます。
「あ、その事は、あの大詰の幕へ顏を出さないのが、お小夜とお冬の菓子を入れ替へた曲者さ」
「へエ、神樣が曲者になりましたね。えーと、皆んな顏が揃つて居た筈だが」
「下女のお若だよ」
「あ、成程」
「お若は、お小夜が毒菓子を拵へるところから見て居たんだ。──氣になることがあつて、奧へ行つて南縁からそつと覗いたことだらう、──清八が毒菓子の目印の赤い飾り種を削つて、お孃さんのところへ置くのを見ると、矢も楯もたまらず、その毒菓子を、もう一度お小夜のところへ返したのだ」
「──」
「目印がないから、もう誰にもわからない。お小夜は自分の拵へた毒菓子を喰べて、死んでしまつたといふわけさ」
「へエ、恐ろしいことですね」
「お小夜は自業自得だ、──手代の清八は、お孃さんにひどく嫌はれて、殺す氣になつたのはひどい野郎だ。が、一番惡いのは主人の善兵衞さ。金があつて男がよくて、一寸才智があると、ツイ同じ屋根の下に妾などを飼つて、あんな淺ましい騷ぎを起すのだ。そのためにひどい目に逢はされる善人共は氣の毒だ。内儀のお絹さん、娘のお冬──下女のお若、皆んな良い人達だ」
平次はつく〴〵さう言ふのでした、鼠の尻尾のやうな懸崖の小菊の前で。──
底本:「錢形平次捕物全集第二十八卷 遠眼鏡の殿樣」同光社
1954(昭和29)年6月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1950(昭和25)年11月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「ヘヱ」と「ヘエ」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年4月18日作成
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