錢形平次捕物控
歎きの幽澤
野村胡堂
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「親分、世の中には變な野郎があるもんですね」
八五郎は彌造を二つ拵へたまゝ、フラリと庭へ入つて來ました。
朝のうちから眞珠色の霞がこめて、トロトロと眠くなる四月のある日。
「顎で木戸を開ける野郎だつて、隨分尋常ぢやないぜ」
平次は相變らず貧乏臭い植木の世話を燒き乍ら、氣のない顏を擧げるのでした。
「顎で木戸は開きませんよ」
狹い庭一杯の春の陽の中に、八五郎はキヨトンと立ち竦みます。
「でつかい彌造を二つ拵へて、顎でも使はなきや、木戸の棧を動かせるわけはないぜ」
「膝と肩を使つて開きますよ。錢形の親分の城廓と來た日にや、懷手をしたまゝ、何處からでも入れる」
「氣味の惡い野郎だな、──尤も何が入つて來たところで、盜られる物は何んにもないから安心さ」
「相變らず清々した話で」
「ところで、變な野郎が何處に居るんだ」
八五郎はどうやら妙なものを嗅ぎ出して來たらしいので、平次は手洗鉢でザツと手を洗つて、縁側に八五郎と押し並んだまゝ、煙草盆を引寄せました。
「へツ、その、滅法女の子に惚れた話なんですがね」
八五郎は平掌で頬を叩いて、ペロリと舌を出すのです。
「お前が?」
「あつしぢやありませんよ。あつしなら朝のうちに惚れても、夕方は大概忘れてしまひますがね」
「薄情な野郎だな」
「その代り命にも身上にも別状はありませんよ」
「お前が別状のあるほどの身上を持つたことがあるのか」
「まア、物の譬へで、──その女の子に惚れた野郎といふのは、──日本橋の呉服町に井筒屋といふ老舖の太物屋のあることは親分も御存じですね」
「知つてゐるとも、三軒井筒屋の一軒だらう」
「主人は三郎兵衞と言つて五十そこ〳〵。内儀が二三年前に亡くなつて、一人娘のお喜代といふのは十八。こいつは滅法可愛らしい」
「お前に言はせると、十七八の娘は皆んな可愛らしいから妙さ」
「お喜代ばかりは、その中でもピカピカしてゐますよ。色白で公卿眉で、睫毛が長くて、眼が大きくて、鼻の下が短かくて、心持受け口で──へツ」
「變な聲を出すなよ、八」
「町内だけでも、深草の少將が六七人、毎晩井筒屋のあたりをウロウロするんで氣味が惡くて叶はねえ」
「お前もその六七人のうちの一人ぢやないのか」
「あつしは通ひきれませんよ、向柳原から呉服町ぢや、──それにこの節は自棄に御用繁多と來てやがる」
「罰の當つた野郎だ」
「兎も角も、その六七人の深草の少將のうちでも、取わけ執心なのは、井筒屋の本家筋で、今は沒落した大井筒屋の一と粒種、宗次郎といふ二十五になるイキの惡い若旦那崩れで、佛門に入つて幽澤といふのが、清水寺の清玄ほどの逆上せやうで、野がけ道の糞蠅のやうに追つても叩いても、叱つても離れない」
「お前の言ふことは一々變だな」
「何んだつて頭なんか丸めたのか、色戀沙汰に出家得度は變だと思つて訊くと、成程これには深い仔細があつたさうで」
「深い仔細と來たね、お前の學も追々磨きが掛つて、この節は承け應へに困るやうになつたよ」
「へツ、それほどでもないが、──兎も角、井筒屋といふのは三軒ありましたよ。南傳馬町の大井筒屋は本家で、呉服町の井筒屋はその弟分、左内町の孫井筒屋は一番の末、昔は三人兄弟だつたといふことです。三軒共呉服太物が本業、尤も大井筒屋の先代は山氣があつて、廻船問屋をやつたり、唐物や小間物を扱つたり、内々は拔け荷も捌いたといふことですが、今から十年ほど前から左前になつて、三年前にあせりにあせつて出した船が三杯共歸つて來ず、主人の宗右衞門はそれを苦に病んで首を縊り、家も藏も人手に渡つて、一人息子の宗次郎が、裸一貫で投り出されてしまひました」
「それが深草の少將になつたといふわけだらう」
平次は先を潜りました。
「大井筒屋の若旦那の宗次郎と、井筒屋の娘のお喜代は生れない前から許婚だつたさうですよ。ところが大井筒屋が沒落して、主人の宗右衞門が死ぬと、井筒屋の三郎兵衞は、昔の義理なんかけろりと忘れて、本家の若旦那の宗次郎を寄せつけないばかりでなく、孫井筒屋の息子の浪太郎といふのを養子に入れ、浪人者の用心棒まで雇つて、フラフラお喜代に逢ひに來る宗次郎を撲つたり叩いたりする有樣で──」
八五郎は委細構はず語り續けました。
「薄情もそれくらゐキビキビして居ると、相手に未練を殘させなくて宜からう」
「ところが、宗次郎は、一度は何も彼も諦めたつもりで、寺へ飛び込んで頭を丸めてしまつたが、お經を誦んでも、坐禪を組んでも、諦めきれないのが、お喜代のポチヤポチヤした可愛らしさだ──眼の前にチラ付いて、寢ては夢、さめては現」
「下手な戀文の文句見たいだよ」
「到頭寺を飛び出して、墨染の法衣に五分月代、鐘なんか叩いて井筒屋の側を離れない」
「成る程ね」
「撲つたり叩いたり、水を打つ掛けたり、犬を嗾かけたりして見たが、命も見得も棄ててしまつて、お喜代の顏を一と眼見たさに喰ひ下がる、戀の亡者には手の付けやうがない」
「恐ろしく思ひ込んだものだな」
「井筒屋でもすつ心り手を燒いてしまつた。第一日本橋の呉服町の、店の居廻りを、朝から晩まで、小汚ない坊主がウロウロして居ちや商賣にさはります。そこで、いろ〳〵考へた末、根岸の寮──と言つても、小大名の下屋敷ほどの立派なものですが、其處へ娘のお喜代と下女のお竹をやることにしたが、宗次郎の幽澤は何處までも跟いて行つて、清玄の亡靈のやうに娘を惱ますんで」
「養子の浪太郎は一緒に行かないのか」
「まだ祝言前で、一緒に置くわけにも行かなかつたんでせう。その上何んの因果か、娘のお喜代は浪太郎が大嫌ひで、顏を見ただけでも、身顫ひがして胸が惡くなるといふから大變でせう」
「よく〳〵嫌はれたものだな」
「浪太郎は、その癖ちよいと好い男で、少し狐顏ではあるが、才彈けた男ですよ。年は二十二とか言ひました。人の話を半分聽いて呑み込む癖はありますがね」
「で?」
「根岸の寮へやつたものの、化けさうな幽澤坊主が附き纒つちや、放つても置けません。養子の浪太郎をやつて、用心棒の浪人者寺本金之丞をやつて、それでも叶はなくなつて、近頃では主人の三郎兵衞までが根岸泊りだ」
「店は?」
「孫井筒屋の駒吉──養子の浪太郎の親父ですがね、──それが入つて來て、番頭の周吉と一緒に見て居る筈です。尤も孫井筒屋は自分の店もあるから、呉服町と左内町を掛け持ちでせう」
「それつきりか」
「それきりですがね、井筒屋の主人の三郎兵衞は、錢形の親分のやうな、物のわかつた方にお願ひして、娘にダニのやうに喰ひ下がつて居る宗次郎の幽澤坊主を、追つ拂つて貰ふわけには行かないものかと──」
「もう澤山だよ」
「物の道理を言ひ聞かせるなり、繩を打つなり、平次親分ならワケもなく裁いて下さるだらう──と」
「お前そんな事を引受けて來たんぢやあるまいな」
「あつしはイヤだと言ひましたよ。でも井筒屋の主人が、散々御馳走した上、折入つての話で──」
「馬鹿野郎」
「へエ?」
平次の聲は激しく八五郎の話の腰を折りました。
「言ひ聽せてやり度えのは、井筒屋の主人の方だよ。本家が零落したから附き合はねえといふのも不人情だが、そんなに焦れて居る娘の許婚を坊主にまでさせて、撲つの蹴るのとは、何んといふことだ」
「──」
「そんな不人情野郎の御馳走になつた上、俺まで引張り出さうとは、お前も少し不料簡だぞ、八」
「へエ」
「娘が嫌がつて居るなら別だが、養子の浪太郎とやらを嫌つて居るやうぢや、宗次郎坊主にうんと未練があるんだらう。墨染の法衣を脱がせて洗ひ上げた上、見事娘に添はせてやれ──とさう言つて來るが宜い」
「でも、一度坊主になつた宗次郎ですよ」
「坊主頭が何んだえ、三年も經てば附け髷をするくらゐには生へ揃ふよ。馬鹿々々しい」
「驚いたね、どうも」
八五郎はまことに這々の體でした。近頃親分の平次に、こんなに怒鳴られたことはありません。
それから三日經たないうちに、事件は思ひも寄らぬ發展を遂げました。
「親分、八五郎親分の手紙ですが──」
お山の熊吉といふ、ノツソリした下つ引が、蚯蚓をのたくらせた、八五郎の假名文字の手紙を持つて來たのです。
「八の手紙を辨慶讀みにして居た日にや、急ぎの用事は間に合はないよ。何にか口上はないのか」
平次はこの假名で書いた耶馬臺の詩のやうな八五郎の手紙を開いたまゝ、まさに途方に暮れて居るのでした。
「根岸の井筒屋の寮に殺しがあつたんです」
「誰が殺されたんだ」
「主人の三郎兵衞が、縁側で絞め殺されて居りました」
「そいつは」
錢形平次も驚きました。ツイこの間八五郎が、妙な匂ひを嗅ぎ出して來た井筒屋に、早くも殺しがあらうとは思ひも寄らなかつたのです。
平次は熊吉を案内に、根岸に向ひました。御隱殿裏の百姓地で、この上もなく閑靜なところですが、寮はなか〳〵の構へで、町人の住居にしては、少し僭上らしく見えます。尤も建物は相當豪勢でも、廣い庭は大方掘り起して、菜つ葉や芋を育て、眺めよりは世帶のことを考へる主人の好みも、なまじお茶がらない良さはあります。
「親分、あつしの手紙を讀みましたか」
縁側から顏を出したのは八五郎でした。
「お前の手紙は苦手だよ。明神下から此處まで來る間、どうにか斯うにか辨慶讀みにしたが、不思議なことに少しも解らねえ」
「驚いたね」
「俺の方が驚くよ。幸ひ熊吉が來てくれたから、此處まで辿り着いたやうなものだが」
「あ、親分、その足跡を踏んぢやいけません。畑を眞つ直ぐに突つきつて逃げたんだ、そいつは曲者の足跡ですぜ」
八五郎は縁側から、南縁の下まで掘り起した畑の上を指さして居るのでした。
何やら物の芽は出て居りますが、二三日前の雨で畑の土はよく均され、その上へ眞一文字に附いた草鞋の跡は、點々として描いたやうに鮮明です。
「こいつが、何うして曲者の足跡とわかつたんだ」
平次は念入りに足跡を調べて、漸く腰をのばしました。
「曲者は多分宵のうちから忍び込んで軒下に身をひそめ、主人が夜半に手洗に起きて、雨戸を開けたところへ飛びかゝつて絞め殺し、畠を眞つ直ぐに拔けて、裏木戸から逃げたに違ひありません」
八五郎の説明はまことに行き屆きます。
「其處まで判れば、俺が來るまでもないぢやないか。何が不足で明神下まで蚯蚓をのたくらせたんだ」
「三輪の萬七親分が、宗次郎の幽澤坊主を縛つて行きましたよ」
「恐ろしく早手廻しだね」
「すると──あんな汚ない坊主の何處が良いか知らないが、お孃さんのお喜代さんが、泣きの涙で錢形の親分を呼んでくれといふんです。あつしぢやどうも不足らしいんで──」
「お前の方が不足らしいぢやないか」
「お孃さんを呼んで來ませうか」
「いや、一と通り見てからのことだ」
平次は縁側から入りました。
「主人の死骸は此處にあつたんださうです。雨戸一枚は開いたまゝで」
八五郎は戸袋の側、よく苔の付いた御影石の洒落れた手洗を指さすのでした。
「柄杓は?」
「縁側に投ふつてあつたさうで」
「昨夜は月があつたな」
「十三夜ですよ」
「その月の良い晩に、前から曲者が飛び付いて首を絞めるのを待つてゐる筈はないな、八」
「さうでせうね」
「すると曲者は、主人の後ろから飛び付いて絞めたか、でなければ──」
「?」
「外の場所で絞め殺して、縁側へ持つて來たことになるわけだが」
平次は腕を拱ぬきました。深沈たる瞳は何を考へて居るでせう。
「へエ、錢形の親分さんで、飛んだ御手數をかけます」
丁寧なやうな、その癖横柄なやうな調子で、孫井筒屋の駒吉が顏を出しました。その後に續いたのは、番頭の周吉。駒吉の頑丈で色が黒くて、眼鼻立ちの立派なのと對照して、周吉は萎びて小さくて、一と握ほどの中老人です。歳はどちらも五十前後、親類頭で支配人格で、萬事駒吉の方がリードして居る樣子でした。
「飛んだことだね。ところで、佛樣は?」
「こちらでございますが」
案内されたのは、直ぐ障子の中、まだ入棺の運びにもいたらず、床の上に寢かして、香華だけ供へてあります。
死骸になつた主人の三郎兵衞は、これも五十前後の見事な恰幅でした。少し因業らしくはあるが、顏の道具なども立派で、先づは大店の主人としての貫祿も申分なく、身扮──と言つても寢卷のまゝですが、それが思ひの外に贅を極めて居ります。
むくんだ顏や、首のあたりの繩の跡、喉佛の皮下出血など、これは一と眼で絞殺とわかり、しかも荒々しい細引が、首に卷き付いて居たさうで、その細引を後で見せて貰ひましたが、何處から持出されたか見當もつきません。
「これを見付けたのは?」
平次は顏を擧げて、二人の中老人を見ました。
「私でございます」
應へたのはその後ろからそつと顏を出してゐる三十五六の醜い女でした、下女のお竹といふのです。
「後前のことを詳しく話してくれ」
「孫井筒屋さんが、急の御用があると仰しやつて、番頭さんと御一緒に入らつしやいましたので、旦那樣を起しに參りますと──」
「時刻は?」
「亥刻(十時)近かつたと思ひます、──縁側の雨戸が一枚開いて、お月樣が射し込んで居るぢやございませんか。ハツとして見ると、其處に旦那樣が──」
お竹はその時の恐ろしい有樣を思ひ出したらしく、大きく固唾を呑みました。
「それから」
「多分私は大きい聲を出したことでせう、皆んな一緒に飛んで來ました」
「誰と誰だ、順序を知つてるだらう」
「寺本樣と、若旦那樣と、それから孫井筒屋さんと、番頭さんと、お孃さんも見えたやうです」
「主人の身體に觸つて見たか」
「私と孫井筒屋さんと二人で、抱き上げてお部屋へ入れましたが、その時はもう、少し冷たくなりかけて居たやうで」
「冷たくなりかけて?──主人はそんなに早く休むのか」
「晩酌を二本くらゐやると、直ぐお休みになりますが、小用の近い方で、宵に一度は必ず手洗に起きます」
番頭の周吉は説明してくれます。
「昨夜休んだのは?」
「戌刻(八時)前だつたと思ひます」
お竹が代りました。
「戌刻に休んで──半刻も經たないうちに手洗に起きたことになるわけだな。亥刻(十時)に見付けた時、死骸が冷たくなりかけて居たとすると──」
平次の胸には、又新しい疑ひが芽を出しました。
「ところで、昨夜そんなに遲くなつてから、日本橋の店から根岸まで來たのはよく〳〵急ぎの用事でもあつたのか」
平次は重ねて問ひました。
「左樣でございます。井筒屋一家で出した船が、三年前に難破いたしましたが、それが天竺の方まで流されて、三年目で長崎へ入つたといふ知らせが一と月ほど前にありましたが、昨日になつて、その船が無事で清水港に着いたといふ知らせが參りましたので、なほ念のために新堀の廻船問屋と、濱町の荷主のところへ私と周吉どんと手わけをして參り、いろ〳〵打ち合せた上、上野山下の知り合の家で落ち合つて、今では井筒屋の總本家になつて居る此處の主人に知らせに參つたやうなわけでございます」
孫井筒の駒吉は、斯う筋を通して説明してくれるのでした。
「すると主人はその知らせを聽かなかつたのだな」
「折角の吉報ですが、──殘念なことに私共二人が參り、表戸を叩いて開けさせ、下女のお竹に取次がせますと、──あの有樣で──」
駒吉の聲は濕ります。
二人の中老人と下女のお竹を退けて、少し經つたら來るやうにと、娘のお喜代を呼びにやりましたが、その間に平次は、忙しく四方を見廻しました。
部屋の中は少しの取亂した樣子もなく、雨戸も明かに内から開けたもので、敷居にも棧にも、何んの傷もありません。縁側から眺めると、畑の柔かい土の上に、足跡は木戸まで續い居りますが、不思議なことにその足跡は、醉つ拂ひが歩いたやうに、少しばかりよろけて居り、ひどく小刻みなのもそぐはないものを感じさせます。
縁の下も軒の下も何んの異状もなく、踏み固められたその邊には、もとより足跡もありません。其處から表に廻るためには、跨いでも越せさうな、低い竹の木戸があるだけ、曲者は其方へ逃げずに、わざ〳〵畑を通つて、足跡を殘したのもどうかして居ります。
庭下駄を穿いて外へ出ると、
「八、この足跡は柔かい畑の土へ、判こで捺したやうにメリ込んで居るが、よく見ると足袋を穿いて居るやうだね」
足跡を覗き乍ら八五郎に聲を掛けます。
「あつしもそれに氣がついて居ましたよ」
「ところでお前は、今朝幽澤とか言ふ坊主の縛られるところを見て居たのか」
「見ましたとも、竹垣の外でウロウロして居るのを、萬七親分が飛び付くやうに襟首を取つて引つ立てましたよ」
「何を穿いて居た」
「素足にひどく長刀になつた草鞋でしたよ」
「その幽澤は何處に居るんだ」
「金杉新田の庵室に居ますよ、まるで浮世清玄で」
家をグルリと一と廻りして、平次はもとの縁側から入ると、娘のお喜代は、しよんぼりと其處に待つて居りました。
少し眼を泣き腫らしては居りますが、八五郎が前觸れした通り、これはまことに拔群のきりやうです。十八といふにしては成熟しきつた身體も見事に、薄紅を含んだ温かい凝脂、公卿眉に柔かい鼻筋、唇が濡れて、時々せぐり上げる歔欷も、痛々しく可愛らしい限りです。
「俺は平次だが──、お孃さんは何にか八五郎に頼んださうだな」
平次は側へ寄つて、その肩を叩いてやり度い心持でしたが、丸く肉付いた處女の肩の、色つぽい線を見ると、ハツと驚いてその冒涜的な手を宙に留めました。
「錢形の親分。私は、私は」
お喜代は飛び付きさうにして、これも立ち竦みました。平次の若さと、思ひも寄らぬ澁い男振りに、フト氣がさしたのでせう。
「遠慮をせずに言ふが宜い、何が一體」
「私は、父さんを殺した人を知つてゐるやうな氣がするんです」
「それは誰だ」
「でも、でも言へない。證據は一つもないんですもの」
「この場限りに聞棄てるとして、そつとあつしに教へてくれないかお孃さん」
「私は言へない、どうしても──でもあの人ぢやありません。宗次郎さんはそんな人ぢやない、可哀想に」
お喜代はまたせぐり上げました。處女の睫毛を溢れて、涙が頬へ、襟へと落ちるのを、赤い袂で無造作に押へるのです。
「ところで、平常お父さんを怨んでゐる者はなかつたのか」
「──」
お喜代は袂に顏を埋めたまゝ、默つて頭を振りました。
「盜られたものは?」
「何んにも」
「お孃さんは、宗次郎と内々で約束でもあつたのか」
お喜代は激しく首を振りました。忍び泣く聲が痛々しく袂を洩れます。
これ以上何を訊いても、恐らく滿足な應へは望めないことでせう。娘心の奧の奧、とき色の八重の帳の中を、フト覗いたやうな氣がして、平次はその儘歸してやる外はなかつたのです。
養子の浪太郎は、父親の駒吉に似ぬ華奢立ちで、見やうによつては、なか〳〵の好い男振でした。少し狐面で、才走つては居りますが、斯んなのが案外若い娘達に騷がれるのかもわかりません。
「昨夜のことを詳しく聽き度いが──」
と言ふと、
「晩飯は酉刻(六時)少し過ぎ、それから寺本さんと碁が始まつて、父親が自分の部屋引取つたのも、お竹が茶を入れてくれたのも、何んにも知らず夢中になつて居りました。するとあの騷ぎでせう、いやもう、驚いたの何んのつて」
「勝負は?」
「二た刻の間に三番打ちましたが、三番共負けましたよ」
浪太郎は子供つぽく笑つて、ポリポリと小鬢などを掻くのです。
「主人が死んでしまへば、井筒屋の跡は、お前が繼ぐことになるわけだね」
平次はズバリと言ひました。まさに大きな伏兵と言つた感じです。
「と、飛んでもない。養子と言つても名前ばかりで、私はまだお喜代さんと祝言したわけでもなし」
浪太郎はひどくヘドモドするのでした。
寺本金之丞といふのは、三十五六の浪人者で、大町人などがよく飼つて置く、用人棒にしては、あまり強さうにも見えません。
「錢形の親分、──宗次郎の幽澤は、萬七親分に縛られて行つたぜ。あとはもう、何んにも搜すことはあるまい」
肉の薄い顏に皮肉な微笑を浮べて、斯んな事を言ひきる男です。
背の高い、青髯の凄まじい、何んとなく人好きはしません。
「寺本さんは何時頃から井筒屋に居らつしやいます」
「丁度一年前からだ、──あの宗次郎がうるさいし、何を仕出來すかわからないといふので、主人にたつて頼まれたのだよ。用人棒などといふものは、あまり武士のほまれにはならぬが、これも世過ぎの爲だ」
「寺本さんはやつとうの方はお強いでせうな」
「いやもう、カラだらしがないよ。強いのは碁の方さ、劍道が自慢なら主取りをして居るよ。──尤も下手だと言つても、一と通りの心得はある。まさか細引で人を絞め殺すやうな、不體裁なことはしないつもりだ」
こんな事を言つてニヤリニヤリとする男です。
「ところで、宗次郎の外に、主人を怨む者の心當りはありませんか」
平次は押して訊ねました。
「ないよ、──宗次郎は大井筒屋を沒落させたのは、井筒屋と孫井筒屋のせゐだと思ひ込んで居るし、お喜代との間を割かれてゐるぢやないか。あの男が下手人でなきや、主人三郎兵衞は自分で自分の首を絞めたことになるぜ」
「ですがね、寺本さん。主人を殺したのは、その幽澤坊主の宗次郎ぢやありませんよ」
平次はツイ言はいでものことを言つてしまひました。寺本金之丞の面があまりにも憎かつたのです。
「宗次郎ぢやない、──では誰だ、聽かうぢやないか。宗次郎の外に、主人を殺す者があるわけはない、──第一あの畑の中の足跡が證據ぢやないか」
寺本金之丞は畑の中に點々として殘る足跡を指さしました。
「ところが、あの足跡は足袋を穿いた新しい草鞋ですが、宗次郎は足袋を穿かないし、草鞋もきれかゝつて長刀になつて居たといふことですよ」
「足袋は穿いても脱げるぜ。草鞋だつて自由に穿き換へられるぢやないか」
「御尤もですがね、寺本さん。あの畑の中の足跡は、逃げて行つたのぢやなくて、後ろ向きになつて入つて來た足跡ですよ」
「何んだと?」
寺本金之丞はきつとなりました。
「逃げ出した足跡なら、爪先に力が入つて深くめり込んで居る筈なのに、あの足跡は爪先が輕くて踵の方が深くめり込んで居ますよ。それに、小刻によろけるやうに歩いて居るのは、後ろ向きになつて垣から縁のところまで歩いて來た證據ぢやありませんか」
「──」
「それから、主人はあの通り恰幅もよく力もありさうだし、宗次郎はヒヨロヒヨロの腹の減つた乞食坊主でせう。十三夜で月が良いとなると、縁の下からその乞食坊主が飛び付いて首を締めるのを、主人が默つて任せて居るでせうか」
「──」
「まだ足りなきや、主人の夜具の裏を見て下さい。町人には贅澤な絹夜具の裾裏が、何を引つかけたか鈎裂きになつて居るでせう。首を締められる苦し紛れに、主人が暴れたのでなきや、あんな具合にはなりませんよ」
「──」
「まだありますよ。戌刻(八時)に寢た主人が小用に起きて殺されて、亥刻(十時)には冷たくなりかけて居たといふのは、どう考へても時刻が合はないことになりやしませんか、──下手人は間違ひもなく家の中の者ですよ。晩酌に醉つて寢込んだ主人の寢入ばなを、そつと忍び込んで締め殺し、雨戸を開けて畑に足跡をつけ──」
平次はフト口を緘みました。それならば足跡は眞直ぐに垣の方へついて居るべき筈なのに、逆に後ろ向きに外から縁の方へ歩いてつけたのは、平次の叡智を以てしても、咄嗟の間には、判斷のつかない謎だつたのです。
が、これだけでも寺本金之丞の毒舌を封ずるには充分でした。
「家の者といふと、拙者と浪太郎殿と、下女のお竹の外には居なかつたのだぞ」
などと言ふのが精一杯です。
「いづれ、その三人のうちでせうよ」
平次も負けては居ません。
「拙者と浪太郎殿は碁を打つて居たのだ──お竹もそれを見て居る」
「相談づくなら獨碁を打つて、一人が拔け出すといふ術もありますよ」
「何? 拙者と浪太郎殿が怪しいといふのか、もう一度言つて見ろ」
寺本金之丞は我慢のなり兼ねた樣子で、一刀を引寄せるのです。
「さうは申しませんが、──兎も角下手人が宗次郎でないとわかれば結構で──おい、八」
「へエ」
八五郎は拔からぬ顏で、平次の後ろへノソリと立ちました。
「俺は少し外を調べ度い──お前は此處へ殘つて見張つてくれ。それから昨夜番頭さんと孫井筒屋さんの廻つた先と落合つた場所を訊くのだ、──それぢや、寺本さん。まア御立腹なさらずに、よく見て置いて下さい。あつしは決して、寺本さんを疑つて居るわけぢやございません」
さう言ひ捨てて、平次は立上がりました。後ろの方からそつと、手を合せて居る娘のあることを、眼の早い平次は知らない筈もありませんが、それには眼もくれず、縁側から滑るやうに、外へ出てしまひました。
その晩の亥刻(十時)過ぎ、八五郎が暴れ馬のやうに飛び込んで來ました。
「サア大變。親分、直ぐ根岸まで行つて下さい」
「何んだえ、八。大變國から飛脚が來たやうぢやないか」
「宗次郎の幽澤坊主が刺されましたよ。井筒屋の寮の後ろで、家の中を覗いて居るところを──」
「成程、そいつは厄介だ、──三輪の萬七親分は?」
「幽澤坊主が、昨夜托鉢に行つて──」
「あんな色坊主でも托鉢に出るのか」
「一箇寺の住職ぢやないから、食ふためには托鉢もやるでせう。深川の遠い親類に泊つたとわかつちや、三輪の親分でも縛つて置くわけに行きませんよ。飛んだ面の皮で」
「面の皮だけは餘計だよ」
そんな事を言ひ乍ら、夜更けの街を根岸へ飛びました。
井筒屋の寮では、主人が死んでしまへば今は憚る人もなく、娘のお喜代が無理を言つて、傷ついた幽澤の宗次郎を擔ぎ込み、遠くから外科まで呼んで介抱して居りました。
「驚いて氣を喪つたらしい。傷は大したことぢやない。狙が外れて脇腹をかすられただけのことで、膿さへ持たなきや、二た週りもすると癒るだらう」
外科は一應の手當をして歸つたところへ、平次と八五郎が驅けつけたのです。
幽澤の宗次郎といふのは二十五六の、汚なづくりではあるが好い男でした。細面の陽に焦けた顏は、五分月代ほどに伸びた頭と共に、淺ましくも荒れ果てて居りますが、キリリとして、情熱家らしくて、自分のために斯うまでなつたと思ふお喜代に取つては、金にも生命にも換へ難い、いとしい心中の男に見えるのでせう。
枕許にはお喜代の外に、番頭の周吉と孫井筒屋の駒吉がついて、なか〳〵によく世話をして居りますが、傷ついた宗次郎は、薄汚ない身に恥ぢたか、さすがに居心地が惡さうです。
「どうしたことだ、後前のことを聽かしてくれ」
平次の問ひに、
「井筒屋の主人が殺されたと聽いて、三輪の親分に繩を解かれると、直ぐ此處へ驅けつけました。お喜代さんの身の上が心配だつたんです。惡者はどうかすると、お喜代さんを狙はないとも限らないと思つたからです」
「?」
平次は默つて先を促しました。
「表から入るわけにも行かず、裏の竹垣の外から覗いて居ると、いきなり誰やらが來て、逃げようとするところを、後ろから脇腹を刺されました。私は大きな聲を出したかも知れませんが、氣が遠くなつて暫くは何が何んだかわかりませんでした、──氣がつくと多勢の人達が、私を抱き上げて此處へ入れてくれましたが──」
「曲者の顏を見なかつたのか」
「月は雲に隱れて居りました。ハツとしたときはもう刺されて居たんです」
「何にか氣の付いたことがあるだらう」
平次にさう言はれて、宗次郎の幽澤は、便りない首を動かしましたが、
「さう言へば、プーンと煙草の匂ひがしたやうで」
さう言ふのが精一杯のところです。
「この中で煙草の好きなのは?」
平次は四方を見廻しました。
「拙者と駒吉殿だ」
寺本金之丞が應じます。
「申兼ねますが、寺本さん、お腰の物を拜見出來ませんか」
「何? 拙者の腰の物?」
寺本金之丞はサツと顏色を變へましたが、思ひ直した樣子で、
「サア、よく見てくれ」
引寄せた一刀を、鞘ごと平次に突き出しました。
「拜見いたします」
平次は一應その鞘を調べ上げた上、柄絲に僅かばかり血の着いて居るのを、默つて寺本金之丞に見せた上、靜かに一刀を引拔きます。
「あツ」
中味は斑々たる血、一同の眼は思はずその血刀と寺本金之丞の顏に釘付けになります。
「寺本さん、驚きなすつたでせうが、これで疑ひが晴れましたよ」
「一體これはどうしたといふことだ」
「柄絲に血が着いて居るので、お腰の物を拜見しましたが、刀に着いた血は、人を刺した爲でなくて寺本さんに罪を被せるために、後で手拭か何んかに濕した血を、ベタベタと塗つたものとわかりました、この通り」
まさに平次の言ふ通りでした。刀の上に着いた血は、刀身にベタベタと塗つたもので、肝腎の切尖には、殆んど血の跡もなかつたのです。
「さすがに錢形の親分だ、お禮を言ふぞ」
血刀に拭ひをかけて鞘に納めた上、寺本金之丞は心持頭を下げました。この皮肉で剛情な浪人者も、平次の叡智に舌を捲いたのでせう。
「おだてちやいけません、──併し、曲者は大した智慧者ですよ」
平次の言葉に、一座は思はずシーンとしました。
八五郎に後を任せて、根岸の寮を飛び出した平次は、それが何處をどう廻つたか、翌る日の晝頃にはヘトヘトになりながら、威勢よく根岸に歸つて來て、井筒屋に關係した男女全部を主人の棺の前に集めました。
「八、お前は其處で見張つて、一人でも逃げ出す者があつたら縛るんだ。宜いか」
「大丈夫、暴れ馬だつて逃しやしませんよ」
八五郎は縁側に頑張つて肩肘を張ります。
「では、佛の前で話さう、──大井筒屋が三年前に沒落したのは、船が何杯も難破した爲と言はれて居るが、そのうちの一艘が、天竺まで流されて行つて、積荷を捌いた上、大した金目のものを積んで、清水港まで來て居るのだ。──曲者はこれに眼をつけ、井筒屋の主人を殺し、その次には、大井筒屋の跡取りの宗次郎を殺さうとした──と言つたら、曲者はもうわかるだらう。畑の泥の着いた足袋を風呂敷に包んで、山下の小料理屋に預けていつた奴、昨夜足袋を穿いて居なかつた奴──煙草を好きな奴」
「野郎ツ」
そつと座敷から滑り出さうとした曲者は、縁側に網を張つて居た八五郎に、ガツキと組付かれました。どちらもなか〳〵の腕前で、組んだまゝ庭へ轉がり落ちたのを、縛り上げる迄には、平次も手を貸さなければならなかつたのは大したことです。
「骨を折らせやがる──お前が下手人だつたのか」
襟首を取つて上げられた無念の顏は、それは孫井筒屋の主人、浪太郎の父親の駒吉だつたのです。
× × ×
事件は落着しました。駒吉は獄門になり、それを手引して、雨戸を開けてやつた伜の浪太郎は、薄々事情を知つて居たにも拘らず、知らぬ存ぜぬで押し通して遠島で濟みました。
清水港から江戸へ入つた大井筒屋の船には南蠻物の夥しい品物の外に、金銀珠玉が積んであり、宗次郎は還俗してこの莫大な富を承け繼ぎ、お喜代と一緒になつたのは、それから後の話です。
八五郎にせがまれた錢形平次は、
「あとで考へるとつまらない事さ。番頭の周吉と一緒に出た駒吉は、濱町の荷主のところへ廻つて一と足先に根岸へ着き、草鞋を穿いて後ろ向きに縁側にたどりつき、前から打合せのあつた伜の浪太郎に合圖をして、小用に立つたと見せて雨戸をあけさせ、そつと忍び込んで晩酌に醉つてよく寢て居る三郎兵衞を絞め殺したのだ。それから竹垣を跨いで表へ逃げ、上野山下の小料理屋で周吉と落合ひ、泥足袋を風呂敷に包んで、小料理屋に預けたまゝ素知らぬ顏で根岸まで引返したのさ」
「何んだつて又後ろ向きに歩いたのでせう」
「家の中に居る伜に疑ひをきせ度くなかつたのと、一つは宗次郎を罪に陷さうとしたのだ」
「隨分惡い野郎ですね」
「宗次郎を刺した刀は、隱す隙がなかつたと見えて、田圃の泥の中に突つ込んであつたよ、──泥足袋を捨て兼ねたケチな根性が、身の破滅になつたわけだ」
「でも宗次郎とお喜代は幸せさうで良いあんべえですね──あつしは世の中にあれ程惚れ合つた人間を見たことはありませんよ」
さう言ふ八五郎は少しばかり羨ましさうでもあります。
底本:「錢形平次捕物全集第二十七卷 猿蟹合戰」同光社
1954(昭和29)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1950(昭和25)年5月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年4月18日作成
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