錢形平次捕物控
妾の貞操
野村胡堂
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「ウーム」
加賀屋勘兵衞は恐ろしい夢から覺めて、思はず唸りました。部屋一パイにこめて居るのは、七味唐辛子をブチ撒けたやうな、凄い煙で、その煙を劈ざいて、稻妻の走ると見たのは、雨戸から障子へ燃え移つた焔です。
「火事だツ」
絶叫した聲は、喉の中で消えました。眼、鼻、口から入る煙のえぐさは、面も擧げられない有樣です。
「親分」
氣が付いて見ると、床を並べて居た若い妾のお關は、煙にさいなまれながらも、死力を盡して這ひ寄りざま、勘兵衞の裾にまつはりついて居るではありませんか。
「裏へ出るんだ」
勘兵衞は夢中になつて絡みつくお關を振りもぎる樣に焔の來る方とは反對の、北向きの腰高窓に飛び付き、障子を開けて雨戸の棧を上げましたが、どうしたことか、雨戸は糊付けになつたやうに敷居に固着して、押しても突いても、叩いてもビクともすることではありません。
幸ひ有明の行燈の灯がまだ消えず、背に迫る焔は、時々紅蓮の舌を吐いて、咄嗟の間ながら、疊の目まで讀めさうです。
「凍つて居る。畜生ツ」
勘兵衞は恐ろしいものを見てしまつたのです。敷居に流し込んだ夥しい水が、二月初旬の珍らしい寒さに凍つて、雨戸はまさに地獄の門のやうに嚴重に閉されて居るのでした。
「親分、どうしませう」
後ろから、おろ〳〵と這ひ寄るお關。肉體的にはこの上もない美しい娘ですが、命がけの危急の場合には、何んの役にも立ちません。
「騷ぐな、──此方へ來い」
唐紙を蹴破つて、飛び込んだのは次の六疊、──勘兵衞お關の寢て居た八疊と、その次の間の六疊、──離屋はこの二た部屋きり、其處も半分は焔で、南側の縁側から障子へ、天井へと、蛇の舌のやうな火焔が、メラメラと這ひ上がるのです。
勘兵衞は、東側の入口、三枚の雨戸の戸袋寄りの一枚に飛び付きました、──が、此處もまた、敷居の溝一パイに溢れる水が、曉近い寒さに凍つてしまつて、叩いても、押しても貧乏搖ぎもすることではありません。
「畜生奴ツ」
勘兵衞はもう一度唸りました。火は離屋半分を包んで西側と南側には寄りつくこともならず、北窓と東の入口の雨戸が凍り付いては、中に居る者は完全に逃げ場を失つて、燒け死ぬのを待つ外はなかつたのです。
だが、加賀屋勘兵衞は剛健で戰鬪的で、力も智慧も人並優れた大親分でした。五十は越して居りますが、これくらゐのことで、諦めて死んで了ふやうなヤハな人間ではありません。
やにはに足を擧げて、東側の雨戸を蹴ると、三度目には大穴があき、五度目には横棧が飛んで、七つ八つ目にはどうやら人間が潜れさうな穴があきました。
「何をまご〳〵して居るんだ、來ないか」
煙に卷かれてウロウロして居る妾のお關の襟髮を取つて引寄せ、穴から押し出してやつて、お尻をポンと蹴ると、續いて自分もその後から、曉近い庭の大氣の中へ大した骨も折らずに飛び出してしまひました。
その頃になつて漸く氣が付いたらしく、
「それツ、火事だ」
「親分はどうした」
母屋からバラバラと驅け付けたのは、若い者の喜次郎、有松、七之助。
「俺は此處に居るよ。何をあわてるんだ」
親分の勘兵衞は、少しは取亂して居りますが、それでも精一杯の落着きを見せて、子分達の前に立つと、後ろには妾のお關が、まだ驚きと恐れが去らないものか、寢卷の裾をかき合せながら、ガタガタ顫へて居る樣子です。
遠くで近くで競ひ打つ、擂番の音。
「お怪我はありませんか、親分」
「飛んだことで」
言ひ捨てて若い三人は、火の方へ飛んで行きます。その頃から町が騷然と湧き立つて、鳶の者も彌次馬も八方から集まるのでした。
この事件は早くも八五郎の耳に入り、一應現場を調べた上、親分の錢形平次に報告されたことは言ふまでもありません。
「親分、世の中には、恐ろしく惡賢こい野郎があるものですね」
感に堪へると八五郎の顎が、もう一寸ほど伸びて見えるのです。
「何處にお前がびつくりするやうな利口な人間が居るんだ」
よく晴れた二月の晝下り、今朝の寒さは忘れてしまつたやうな、南縁の陽溜りに煙草盆を持出して、甲羅を温ためながら、浮世草紙などを讀んでゐる、太平無事の平次の表情でした。
「本所番場町の加賀屋勘兵衞──親分も御存じですね」
「知つてるとも。評判のよくねえ男だが。あれでも人入稼業の大親分だ。小大名の二三軒は持つてゐるといふことだな」
「その加賀屋勘兵衞の妾といふのは、大した女で──」
「それが惡く賢こくて、さすがの勘兵衞も海月見たいにされて居るといふ話だらう」
平次は無法作に先を潜ります。
「大違ひで。惡く賢いのは誰だかわかりませんが、兎も角、離室に寢て居る勘兵衞と妾のお關を燒き殺さうとした奴があるから大變でせう」
「フーム」
「妾のお關といふのは、中の郷の小間物問屋半兵衞の娘で、可愛らしくて親孝行で、本所中の評判者でしたが、去年の秋無理無體に加賀屋へ奉公に出され、それつきり好き者の勘兵衞の妾にされてしまつたといふ話で──」
「加賀屋勘兵衞には女房がないのか」
「ありますよ。少し氣が變で、化け損ねた雌猫のやうなのがね──勘兵衞は五十を越して居る癖に女道樂が強く、金づく力づくで、取替へ引替へ妾をつれ込んで來るんですから、女房はあつたところで置物同樣で」
「それで何うしたといふのだ」
「昨夜──と言つても今朝方ですがね、勘兵衞と妾のお關が寢て居る離室へ、外から火を付けた野郎があるんです」
「確かに外から付けた火だらうな。過ち火ぢやあるめえな」
「南側に積んで干してあつた、冬圍ひの藁に火をつけたらしいと言ふんですよ。中に寢て居る勘兵衞が氣が付いた時は、南側から西側へ火が廻つて、手の付けやうはない。北側の窓へ飛び付いたが、此處は凍り付いて開かず、東側の雨戸も恐ろしく頑固に凍り付いて居たが、勘兵衞はそれを叩き破つて、おろ〳〵するお關を蹴飛ばすやうに、自分も漸く這ひ出して、危ふい命を助かつたといふ話なんで──」
「昨夜は二月には珍らしい寒さだつたが、この十日ばかり雨も雪も降らないのに、雨戸が凍り付くのは變ぢやないか」
平次の鋭い勘は早くもこの矛盾に氣が付いたのです。
「そこが曲者の惡賢こいところで」
「フーム?」
「行燈の灯と、縁側から背後へ燃えて來た火でよく見ると、敷居に水を流し込んだ奴があるらしく、どの雨戸も曉方の寒さで、カンカンに凍り付いて居たといふから恐ろしいぢやありませんか」
「成程、それは恐ろしい新手だ。雨戸を釘付けにして火をつけるといふ話はよく聽くが、中に休んでゐる者に知れないやうに、雨戸に釘を打込めるわけはない。──寒い晩を選つて、外から敷居に水を流し込み、一方から火をつけると、これは釘付けよりも確かなわけだ」
「ね、惡く賢こい野郎ぢやありませんか」
「そんな細工をした火つけ野郎がわかつてゐるか」
「わからないから困つてゐるんで」
「心當りくらゐはあるだらう」
「あり過ぎるんですよ」
「誰と誰だ」
「第一番に勘兵衞の女房のお角。これは妾のお關を怨んでゐるわけだが、三十年近くもつれ添つた亭主の性惡を知り拔いてゐるし、今までも取替へ引替へ同じ屋根の下につれ込んだ妾が三人や五人ぢやなく、諦らめきつてゐる樣子で、毛程も嫉妬らしい顏をしない女ださうですよ。──尤もこの女は掃除氣違ひで、朝から晩まで箒と雜巾を離さないといふ變り者で、男を汚ながつて、自分の亭主も側へ寄せつけないといふから怖いでせう」
「それから」
世の中にはさう言つたヒステリー性の潔癖から、男を寄せつけない女のあることを、平次も幾つか知つて居りました。
「第二番目は、お關の許婚で、雪五郎といふ彫物師。腕はなまくらで、ろくな物も彫れないが、そんな野郎に限つて、ちよいと好い男で、生木を割かれて勘兵衞をうんと怨んで、一度は加賀屋のあたりをウロウロして若い者に袋叩きにされて居ますが、宜いあんべえに、親方の月齋と一緒に江の島の辨天樣の欄間の修復に行つて、十日も江戸へ歸つて來ませんよ」
「それから」
「外に加賀屋には喜次郎、有松、七之助といふ三人の若い者が居ますが、揃ひも揃つて一人者で、皆んなお關に惚れてゐる」
「親分の妾にかえ」
「だらうと思ふんですがね。親分の勘兵衞は五十二で、鰐口に丁髷を結はせたやうな醜男だが、妾のお關は二十一、搗き立ての餅のやうに柔かくて色白で、たまらねえ愛嬌のある女だ。それが蔭へ廻つて、時々シクシク泣いてゐるのを見ちや、同じ屋根の下に住んでゐる、若い男三人、天道樣のせゐにしちや居られないわけでせう」
「そのうち誰が一番臭いんだ」
「喜次郎は三十五で、三人のうちでは兄分ですが、こいつは人間が甘いから、有松かな。無法者で力自慢だが、敷居へ水を流して、凍らせる智慧がありさうもない──となると二十三の七之助、いやにニヤニヤした、鼻の先に猿智慧がブラ下がつて居るやうな野郎かも知れませんね」
八五郎の鑑定は甚だあやふやで、この三人の誰が怪しいか見當もつきません。
「それだけの事では、乘込んで行つても手の付けやうはあるまい。暫くお前が見張つて居るが宜い」
斯うして事件の發展を眺める外はなかつたのです。
加賀屋の離屋は燒けて、主人の勘兵衞も妾のお關も、少しづつの怪我はしましたが、それも少しの手當で癒つてしまひ、後には大きな不安と怒り──心に受けた傷とも言ふべきものが生々しくも殘りました。
雨戸の敷居に水を流して、二月初旬の大寒空に、釘付けにしたよりも嚴重に凍り付かせるといふ手段は、人間離れのした恐ろしい企らみで、それを實行に移す惡魔の心の持主は、勘兵衞にも心當りはなく、八五郎と話し合つた上、命に賭けてお關と勘兵衞を怨んでゐさうな、雪五郎の動靜を調べるために、江の島まで人をやりましたが、雪五郎は師匠月齋と共に、岩本院に籠つて、島から一歩も外へ出ないとわかり、これは全く疑ひの外に置かれました。
若い者三人、喜次郎、有松、七之助は、互に疑ひ合ひ牽制し合つて、面白くない日を送つて居る樣子ですが、これも取立てて怪しい素振りがあるわけでなく、不得要領のまゝ二月の月は經つてしまひました。
諸方の櫻の蕾がふくらんで、何んとなく春めかしくなつた三月の一日、離屋の火事以來母屋に移つた勘兵衞は奧の六疊──納戸の隣りの置き忘れたやうな部屋に御輿を据ゑて、其處でお關と一緒に三度の食事も攝つて居るのでした。
下女のお榮が膳を運んで來ると、縁側の障子を一パイに開けさせて、早春を胸一杯に吸ひながら、遲い朝飯の箸を取つた勘兵衞。
「あツ、待つて下さい。そのお汁は少し變なやうです」
お關は膳越しに飛び付いて、勘兵衞の味噌汁の椀を持つ手を押へました。
「何うしたといふのだ」
勘兵衞はお關の態度の物々しさに、少し腹を立てて居ります。
「私、一と口呑みましたが、そのお味噌汁の味が、そりや變なんです」
お關は胸が惡さうな、自分の襟もとのあたりを押へました。
「何が變なんだ」
勘兵衞は味噌汁の湯氣などを嗅いだりしましたが、お關が騷ぐほどの、變つたことがあらうとも思はれません。
が、さうして居るうちに、お關の容體が次第に惡くなりました。猛烈な吐き氣に襲はれて、可愛らしい顏が石のやうに引緊まると、額口から油汗がタラタラと流れるのです。
直ぐ樣、町内の本道が呼ばれて應急の手當をしました。呑んだ味噌汁がたつた一と口だつたのと、宜い鹽梅に吐いてしまつたらしいので、大したこともなく、晝頃にはもう元氣になつて居りました。
後で調べると、主人の椀にも、お關の椀にも、味噌汁の中に、馬でも殺せるほどの毒藥──石見銀山鼠捕りといふ、砒石劑が入つて居り、お關が一と口で氣が付いて主人の椀を取り上げたのは、全く命拾ひといふ外はありません。
これほどの騷ぎを起した石見銀山鼠捕りは、何處から何うして二人の味噌汁へ入つたか、これも解くことの出來ない謎でした。
味噌汁は下女のお榮が作つて、主人の部屋へ運んだのもお榮ですが、この女は三十五六の出戻りで、加賀屋には七年も奉公をして居り、少し愚かしくはあるが、正直一途で何んの企らみのあの人間でもなく、それに主人とお關の味噌汁の外には、何んの異状もなく、早起きの若衆達は、半刻も前に朝飯を濟ませて、鼻唄交りに格子を洗つて居ります。
尤も勘兵衞とお關の朝飯が始まるまで、お榮はお勝手に頑張つて居たわけではなく、曲者はお榮が部屋の掃除でもして居る間に、そつと忍び込んで、仕掛けた味噌汁の鍋の中に、毒藥を抛り込む隙は充分にある筈です。
この報告を八五郎から聽いた平次は、
「そいつはいよ〳〵厄介になりさうだな、──何より、お關の許婚の雪五郎は、まだ江戸へ歸つて居ないか、それを調べてくれ」
「それならわかつて居ますよ。江の島の修復は、まだ十日くらゐはかゝるさうで、月齋と雪五郎が、江戸へ引揚げて來るのは、この十五日か十六日になる筈です」
「それぢやお前氣の毒だが、加賀屋へ十日ばかり泊り込んでくれないか」
「へエ?」
「雪五郎が歸つたとわかればその惡戯も納まるだらう」
「變な話ですね、曲者は雪五郎に疑ひを被せ度いに極まつて居さうなものですが」
「いや、そんな淺墓な企みぢやあるまいよ。──ところで、内儀はどうして居るんだ」
「相變らず、朝から晩までの掃除で、尻を端折つて雜巾と相撲を取つて居ますよ。掃除をして居ない時には、手を洗つて居る時で」
「變つて居るな」
「自分の食べ物でも膳拵へでも、お仕舞まで別にして、他の者には手もつけさせません。それに男を汚ながることは無類で、男便所の前は鼻をつまんで通るくらゐですから、男のきり端にも觸れるこつちやありません」
「そんな女は時々あるといふことだよ。亭主運の惡い女や、後家などに珍らしくないやうだが」
「矢つ張り、内儀が變ぢやありませんか。あつしが行つても、ろくに顏も見せませんが」
「もう少し調べなきやわかるまいよ。──ところで、これも大事なことだが、加賀屋勘兵衞ともあらう者が、奉公人や若い衆の食ひ荒した味噌汁を、そのまゝ温ため直して食ふといふことはあるまい。別鍋に仕立ててお勝手に置いたことと思ふが、それもよく調べてくれ」
「へエ」
「もう一つ。燒けた離屋には、南側か西側の雨戸に、臆病窓がきつてあつたと思ふ。それも訊いて置き度い」
「まだあるんですか」
「三人の若い衆のうち、誰が一番お關に逆上て居るか、お關と口をきゝ度がるのは誰か。そつと聽き出してくれ」
「そんな事ならわけはありません」
「頼むよ、八。大事なのはあと十日だ。俺は外に手掛けた仕事があつて當分行つちや居られない」
「大丈夫ですよ。加賀屋へ泊り込んで居さへすれば、變なワザなんかさせるこつちやありません」
八五郎は張りきつて、ドンと胸を叩いたりするのでした。
加賀屋の上に押し冠さつた不氣味な呪ひはこれで終つたわけではなく、寧ろこれをきつかけに、恐ろしい破局まで、噛み合ふ死の齒車のやうに、避けもかはしもならず押し進んで行きました。
それは三月十日の夜のこと、晩酌の後を曳いて、思はず過した勘兵衞は、お關を側に引付けたまゝ、口を割るやうにして二た猪口三猪口呑ませて、良い心持さうに何やら唸つて居りました。
胸毛をのぞかせた湯上がりの丹前姿、頬から首へ、胸へと、朱を塗つたやうに色付いて、『樂しみは後ろに柱前に酒』片手に女で片手に盃の滿悦境を、とろけるほど味はつて居たのです。
「もう御飯になすつたら?」
女房振りのお關は、斯う言つて立上がらうとするところを、手首を取つてギユツと引戻されました。
「待ちなよ。お前の顏を見ながら、もう一本」
グイと引くと、女は咲き過ぎた牡丹のやうに、ぞろりと崩折れて、
「あれツ」
などと勘兵衞の懷に飛び込むのです。
と、それはどんな彈みであつたか、お關の手か足が觸つたらしく、安定の良い筈の行燈がバタリと倒れて、五六本打ち込んであつた燈心の灯が、一度にぱつたと消えたのでした。
「あ、怖い」
お關は思はず勘兵衞に獅噛みつきました。
「灯、灯を持つて來い」
眞つ暗な中で張り上げる勘兵衞、その聲が合圖だつたのか、何處からともなく突き出された刄物、勘兵衞の脇腹をかすめ、その膝の上に居る、お關の袖を縫つて前へ貫けた樣子です。
母屋でも一番奧になつて居るのと、間に納戸を挾んで居るので、容易に勘兵衞の聲が聽えなかつたのか、暫くは誰も來る樣子はなく、
「灯だ、灯を早く」
わめき立てる勘兵衞の聲に應じたのは、
「附木は見つかりました。待つて下さい」
案外落着いたお關の聲でした。
やがて倒れた行燈を起して、火打から移した硫黄附木の灯を入れると、
「あツ、これは」
驚く可き光景が、厭も應もなく眼に沁みるのです。
それは勘兵衞の凭れて居た柱の傍、唐紙を突き拔けてギラギラする笹穗を出して居るのは、紛れもなく、隣りの納戸の長押に掛けてある筈の手槍ではありませんか。
「野郎ツ」
爭氣滿々たる勘兵衞、當てもなく隣りの部屋に飛び込みましたが、其處は長四疊の大納戸で、ガラクタの堆積の中に、沓臺に乘せて、唐紙へ二尺ばかり突つ立てた槍があるだけ、見ると突き當りの窓格子は外されて、此處から逃げましたと言はぬばかりの十日月の光が、朧に納戸の中へ射し込んで居るのでした。
「親分、傷の手當をなさらなきや、──ひどい血ですが」
もとの部屋へ歸ると、お關がおろ〳〵して居るのも無理のないことでした。唐紙越しに突かれた槍の穗にかすられたらしく、左脇腹の乳の下のあたり、一寸ばかりきり割かれて、丹前から座布團へ、疊へ、ひどい血が流れて居るではありませんか。
お關は漸く氣を持直すと、店の方へ飛んで行つて、家中の者を呼び集めました。若い衆三人──喜次郎、有松、七之助を始め、この間から用心棒に泊り込んで居る八五郎も飛んで來ました。
「何うしたんで、何が始まつたんだ」
「八五郎親分、又やられましたよ。隣りの部屋から、唐紙越しの田樂刺だ。もう一寸左へ寄つて居ると、命のないところさ」
勘兵衞はひどく苦々しい樣子です。
「何んといふことをしやがるんだらう」
八五郎の器量の惡さ。
「お關に怪我はなかつたのか」
「私は袂を縫はれただけで無事でした。でもこの通り」
右の手を擧げると、銘仙の袂は無殘にも裂かれて、襦袢の袖の紅が、チラチラと艶めきます。
醫者を呼ぶ間、八五郎は手燭を借りて隣りの納戸に入りました。鼻の先に唐紙を突き貫いた六尺柄の手槍、それを踏臺の上へ載せて、水平に突き出したのは、多分狙ひを定める爲でもあつたのでせう。
「──」
それよりも八五郎を驚かしたのは、その踏臺の傍に無造作に抛り出してあつた、巨大な掛矢でした。この木造の大槌は建築か杭打ちでもなければ滅多に使ふものでなく、少し泥などの附いたまゝ、納戸にあるのは、甚しい不調和です。
「こいつは平常納戸に置くのか」
後ろから跟いて來た、喜次郎に訊いて見ました。
「飛んでもない、そいつは物置の中にあつた筈ですよ。曲者が窓格子でも叩き破るつもりで持込んだんぢやありませんか」
喜次郎の説明は常識的ですが、何やら八五郎の腑に落ちないものがあります。尤も腰高の窓格子は、框ごと外されて、掛矢との因果關係を物語り顏ですが、此處は道具がなくても樂に外れるやうに出來て居り、掛矢の用途はさう簡單には讀切されさうもありません。
「親分、こんなわけだ。あつしでは手に了へさうもありませんよ」
八五郎は到頭兜を脱いで、錢形平次のところへ事件を持込んで來たのです。
「面白いな、お前の腕で、そいつを調べ上げて見るが宜い。大した手柄になるぜ」
平次は自若として動きさうもなかつたのです。
「でも、下手人の見當もつきませんよ。雪五郎は江の島へ行つたきり歸らず、内儀は掃除に夢中で、自分の配偶が殺されかけても驚く樣子はないし、三人の若い衆は、お互に見張つてゐて、勝手なことは出來さうもありませんぜ」
八五郎はこの事件のむづかしさに押し負かされて、すつかり、投げてゐる樣子でした。
「でも、この間俺が頼んだことくらゐは調べてくれたことだらうな」
「調べましたよ。燒けた離屋の南側の雨戸は、親分が考へた通り、一尺四方程の臆病窓がきつてあつたさうだし、それから加賀屋の主人勘兵衞は食ひ道樂で、煮直した味噌汁なんか喰はず、自分と妾のお關の分は、別鍋に仕立てさせるといふことで──」
「それから?」
「若い衆が三人、お互に見張つてゐるが、三人共お關に夢中なのは同じことで」
「ところで外に變つたことはなかつたのか」
「口惜しいけれど、それつきりですよ。窓の外には足跡もないし、三人の若い衆は店で何んかやつて居た樣だし、内儀は自分の部屋に籠つて獨り言をいつて居た──とこれは下女のお榮が隣りの部屋で見張つてゐるから、間違ひはありません」
「すると鎌鼬かな」
錢形平次は斯んな事を言つてけろりとしてゐるのです。
「冗談ぢやありませんよ。鎌鼬が石見銀山や手槍を使つてたまるものですか」
八五郎は少しムキになりました。
「だがな八、よく考へて見るが宜い。槍といふものは、捻りながら突くものだよ。踏臺の上に置いて、掛矢で石突を叩いて繰り出すといふ術は、どんな流儀にもないことだ」
「あつしもさう思ひましたがね」
「その納戸の窓寄りに、ムキ出しの梁が一本通つて居ると思ふが、どうだ」
「その通りですよ親分。何時の間に親分は加賀屋へ行つたんですか」
「行きやしないが、物の理窟を考へただけのことだよ──それから、納戸の中に丈夫な細引があつた筈だ」
「さア、それは氣が付きませんが、これから直ぐ引返して搜して見ませう」
「もう隱してしまつたよ。想手は容易ならぬ曲者」
「だから親分、ちよいと御輿をあげて下さい。この上ワザをされちや、あつしの顏は丸潰れだ。さうでなくてさへ加賀屋勘兵衞隨分イヤな事を言ひますよ」
「言はして置くが宜い。──俺は今手が離せないことがあるし、せめてこれだけでもお前の手柄にさしてやりたい」
「あつしの手柄なんかにしたかありませんよ」
八五郎は散々ねばりましたが、何を考へたか、平次は頑として腰をあげなかつたのです。
「それぢや、もう一つだけ念入りに調べて貰ひ度いことがあるが──」
「何んです、親分」
「妾のお關は心の中から仕合せだと思つて居る樣子か、許婚の雪五郎と、全く手がきれて居るか、それを突つ込んで調べるが宜い」
「それくらゐのことなら、念には念を入れて調べてありますよ。憚り乍ら。情事調べとなると、錢形の親分より、あつしの方が得手で。へツ、へツ」
「いやな笑ひやうだな。ではどうなんだ」
「抑もですね、親分」
「抑もと來やがつたか、どうもお前といふ人間は學が邪魔をしていけねえ」
「相濟みません」
「その抑もが何うしたんだ」
「加賀屋の勘兵衞といふのは惡い男で、中の郷の半兵衞の娘お關に眼をつけると、少しばかりの金を貸して、その抵當に娘を卷きあげ、膽のつぶれるやうな高い利息をつけて、拂へないやうに仕向けた上、到頭お關を手籠同樣に妾にしてしまつたのださうです」
「──」
「お關の親の半兵衞が、腹に据ゑ兼ねて文句をつけに行くと、加賀屋に、ゴロゴロして居る若い者が、袋叩きにして、追ひ歸してしまつた。──それから半兵衞は腰拔けになつて、寢たり起きたりの半病人だ」
「火をつけたり、槍を突つ込んだりしたのは、半兵衞ではないわけだな」
「お關の許婚の雪五郎も、あまりの事に毎日加賀屋のあたりをブラブラしたが、たかが彫物職人で、金づくにも腕づくにも、お關を奪ひ返す力はなく、そのうち加賀屋の若い衆に見付けられて、引摺り込まれて散々に毆られたのは、ツイ二た月ほど前のことですよ。雪五郎は若いから、毆られたくらゐでは病氣にもならず、師匠の月齋が息拔きのつもりで江の島の仕事につれて行つたといふわけで」
「お關はそれを默つて見て居るのか」
「あの女の心持ばかりはわかりませんが、諦らめて居るんでせうね。ヂヤラヂヤラもしない代り、あまり悲しさうな顏もしませんよ。尤も以前は時々一人で泣いて居たと言ひますが」
「よし〳〵、そんな事で大概わかるよ」
「そこで親分はちよいと加賀屋を覗いて下さるでせう」
「いや、俺は止さう」
平次はまだ腰をあげさうもなかつたのです。
それから四日目、詳しく言へば三月十四日の晩、事件は到頭最後の破局まで落ち込んでしまひました。
「親分、大變ツ」
八五郎が明神下の平次の家へ飛び込んで來たのは、その翌る日──三月十五日の晝近い時分でした。
「さア、到頭來やがつた。お前の大變が來さうな空合だと思つたよ」
悠然と煙草の烟を輪に吹き乍ら、平次の調子だけは何にかを待ち構へて居た樣子です。
「到頭、やられましたよ」
「加賀屋勘兵衞が殺されたんだらう」
「親分は、どうしてそれを」
「さう來なくちやテニヲハの合はないことがあるんだ」
「一杯飮んで──。宜い心持で寢たところを、匕首で喉笛をやられたんで、側に寢て居たお關が騷ぎ出した時は、曲者は縁側から庭へ飛びおりて雲を霞だ──」
「足跡を見たか」
「足跡は見ませんが、お關が言ふんだから確かでせう」
「匕首の持主は?」
「皮肉なことに、殺された勘兵衞のもので、何時でも枕の下に入れて寢て居る品なんださうで、──曲者は宵のうちから忍び込んでゐて、二人が寢鎭まるのを待つて部屋の中へ入り勘兵衞の枕の下から匕首を取つて、喉笛を刺して逃げたんですね」
「時刻は」
「お關が騷ぎ出したのは、亥刻半(十一時)過ぎでした」
「雨戸を締めたのは」
「下女のお榮が戸締りをしたのは酉刻(六時)丁度。勘兵衞の寢酒に附き合つて寢たのは戌刻半(九時)だつたと、これはお關が言ひます」
「曲者はそれから亥刻半までの間に忍び込んだ樣子はないのか」
「戸締りには何んの變りもなく、店では三人の若い者が手弄みをして騷いで居りました」
「それで下手人の見當は付いたのか」
「少しもわかりませんよ。ところが、三輪の萬七親分が乘込んで來て、滅茶々々に掻き廻した末、中の郷の彫物師雪五郎を、師匠の月齋の家から縛つて行きましたよ」
「雪五郎は今日江の島から歸る筈だつたぢやないか」
「三月十五日といふ日限でやつた仕事が、思ひの外早く三月十三日に出來上がつたので、昨日の十四日の朝江の島を發つて昨夜遲くなつてから、中の郷の師匠の家へ、師匠の月齋と一緒に着いて居ますよ」
「それから雪五郎は外へ出たのか」
「本人も師匠の月齋も、江の島から十何里の道を歩いて來て、綿のやうに疲れて寢込んでしまつたと言つて居りますが、──それを拵へ事に違ひないと言つて、三輪の親分が繩を打つたわけで」
「心配するな、雪五郎は下手人ぢやないよ。直ぐ言ひわけが立つて歸されるだらう。十五日か十六日に江の島から歸る筈のが、一日早く十四日に江戸へ歸つたから、飛んだ行き違ひが起つたのだ」
平次は妙に呑み込んだことを言ふのでした。
「下手人は誰でせう、親分」
「俺にわかるものか、俺は現場を一と目も見ちや居ないんだよ」
「では、ちよいと行つて見て下さい」
「止さうよ」
平次は相變らず御輿をあげる樣子もありません。
それから一と月くらゐ經ちました。江戸の春がまさに爛漫といふ頃ですが、八五郎の胸には妙にこだはりがあつて、いつものやうには樂しみきれません。
「親分、加賀屋の勘兵衞を殺したのは、一體誰だつたでせうね。あつしはそれが氣になつてならないんだが──」
「わかつて居るぢやないか。離屋の火事の時から變だとは思つて居たが、石見銀山鼠捕りの時、俺ははつきり曲者の正體を見せられたやうな氣がしたよ」
「なんだつて、それを縛らなかつたんで?」
「俺は縛り度くなかつたのさ、──ところで、雪五郎はどうした」
「直ぐ許されて歸りましたよ。江の島から江戸へ入つたのは夕方、中の郷の師匠の家へ着いたのは戌刻(八時)過ぎで、疑ひやうはありません」
「加賀屋はどうなつた」
「勘當されて居た筈の勘次郎が歸つて來て、あの半氣違ひの母親と暮して居ますよ」
「お關は?」
「自分の家へ、身一つで歸つて行きました。慾のない女ですね、手切も手當も辭退したさうで──尤もその代り雪五郎とヨリを戻して、近いうちに改めて祝言するさうですから。本人は反つて本望でせうよ」
「それで宜い」
「ところで下手人は誰でせう、親分」
八五郎は執拗に喰ひ下がりました。
「誰にも言はなきや教へてやらう」
「言やしませんよ」
「驚くなよ八」
「驚くもんですか。このあつしが下手人だと言はれたつて驚きやしません」
「お關だよ」
「えツ」
八五郎は自分の耳を疑つて居りました。
「妾のお關だよ、──お關は雪五郎との間を割かれて、鬼瓦のやうな勘兵衞の儘になり、つくづくこの世の中がイヤになつて、憎い勘兵衞と一緒に死ぬ氣になつたんだ」
「──」
「二月始めの寒い晩。北窓と東側の雨戸の敷居に水を流して凍らせ、南側の雨戸の臆病窓から手を出して、外に干してあつた冬がこひの藁に火を附けたんだ」
「へツ、成程ね」
「勘兵衞は五十過ぎても力もあり氣も付く男だ。眼を覺まして火事と見ると、愚圖々々するお關をさらひ、雨戸を蹴破つて飛び出してしまつた。死ぬ氣で細工をしたお關は助かつてしまつたが、この術で勘兵衞を殺せば誰も自分の仕業と氣のつく者はないといふことを覺えてしまつた」
「──」
「二度目のは味噌汁の石見銀山鼠捕りだ。此處で勘兵衞を殺せば、別鍋に味噌汁を仕掛けて居ることだし、自分だけ助かつては、自身が疑はれるにきまつて居る。と言つて勘兵衞と一緒に死ぬのもイヤになり、急に氣が變つて味噌汁を一と口呑んで、變な味だと言ひ出した、──誰が考へても勘兵衞とお關を一緒に殺さうとする者の仕業と思ふだらう」
「──」
「ところがだよ、八。石見銀山鼠捕りは、砒石が入つて居るが、砒石といふものは、恐ろしい毒で、色も味も臭ひもないものだといふことだ。味噌汁に仕込んでゐる砒石を、たつた一と口啜つたくらゐのことでは、素人のお關にわかる道理はない、──この話を聽いた時俺は、ハハアお關が臭いなと思つた」
「槍は」
「あれもお關の細工だ。隣りの納戸から、自分と勘兵衞と一緒に居るところへ槍を突つ込んだのは、恐ろしい企みだ──が、考へて見ろ、槍は捻つて抉るやうに突くものだ。踏臺の上へ置いて、石突を掛矢で叩くものぢやない。俺は納戸の窓寄りに梁があるだらうと言つた筈だ」
「へエ」
「その梁へ掛け矢を吊し、窓の方へ一パイに引つ張つて置いて、細い絲を格子にくゞらせて、自分達の居る部屋まで引つ張り、勘兵衞に知れないやうに、柱にでも結んで置いたことだらう」
「──」
「勘兵衞が醉つた頃を見はからつて、お關は行燈を引つくり返しながら勘兵衞の懷に飛び込みざま、その絲をきつた。納戸の梁に吊つた掛矢は、えらい勢ひで飛んで來て、踏臺の上に置いた槍の石突を叩いたことだらう。狙ひは僅かに外れて、勘兵衞は脇腹を少し怪我しただけで濟んだが、お關に取つては、それで宜かつたのだ。何時でも勘兵衞とお關と二人一緒に居る時狙はれると思はせさへすれば、自分へ疑ひの來る心配はないわけだ──掛矢を吊つた細引は、お關が店へ人を呼びに行く時外して何處かへ隱したことだらう。が、重い掛矢は始末する隙がなかつた」
「──」
八五郎は肩を竦めて、ヒヨイと鼻面を撫でました。薄寒くなつた樣子です。
「雪五郎は十五日か十六日に、江戸へ歸ると思ひ込んで居たお關は、十四日の晩は、どうしても勘兵衞を殺して、その手から逃れる工夫をしなければならない。雪五郎に萬が一つの疑ひでも掛け度くなかつた──お關はたうとう勘兵衞の枕の下から匕首を拔き出してやつてしまつた。この恐ろしい鬼の手から脱出すには、他に手段はなかつたのだらう」
「──」
「ところが、江の島の仕事は思ひの外早く片付いて、十四日の晩雪五郎は江戸へ歸つて來てしまつた。下手人の疑ひは眞つ直ぐに雪五郎の方へ行つたのも無理はないが、師匠の月齋と一緒だから、大丈夫許されるだらうと俺は多寡をくゝつて居た。──誰もお關を疑ふ者はない。お關は手當も何も放り出して、裸一貫で親の家へ歸り、續いて許婚の雪五郎の懷ろへ飛込むだらう。雪五郎だつて手籠同樣に妾にされたお關を許してやることだらうし、八五郎だつて、お關を縛つてつまらない手柄を立てるなどとは言はないだらう」
「親分は?」
「俺は、此處を動かなかつたよ。何を知るものか」
「へエ、驚いたね」
「だが、誰にも言ふな。お關は自分を踏みにじつた上、父親を片輪にし、雪五郎をひどい目に逢はせた鬼の勘兵衞と、二度までも三度までも一緒に死ぬ氣になつて居たんだぜ」
斯んな事を言ふ平次でした。
底本:「錢形平次捕物全集第二十七卷 猿蟹合戰」同光社
1954(昭和29)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1950(昭和25)年3月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年3月11日作成
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