錢形平次捕物控
鼬小僧の正体
野村胡堂




「親分、お早うございます」

「あれ、大層行儀がよくなつたぢやないか、八」

 錢形平次は膽をつぶしました。彌造やざうも拔かずに、敷居際に突つ立つて『お早う』などと顎をしやくる八五郎が、今日は何を考へたか、入口から斯う、世間並の挨拶をして入つて來たのです。

 二月もあと一、二日、彼方此方あちこちの花がふくらんだとやらで、江戸の人氣はほろ醉ひ機嫌といふところでした。

「でせう、親分。行儀がよくなつて、親孝行でもすると世間樣の扱ひが違つて來るから不思議で──」

「待つてくれ。親孝行をし度いと言つても、お前には親がないぢやないか、──たつた一人のお袋は、お前のことばかり心配して、五年前に死んだ筈だが」

「親孝行は隣り町の有太郎といふ植木職人の方で──あつしはお行儀の口で行くつもりですよ」

 さう言ひながら八五郎は、キチンと坐り込んで、貧乏搖びんばふゆるぎをして居ります。

「大層なことになるものだな。お前がしびれをきらして居るのを見ると、俺も寢そべつて話を聽いちや、相濟まないやうだな。ところで、どこでそんな結構なことを教はつて來たんだ」

「近所へ越して來たんですよ、──その親孝行とお行儀の先生が」

「親孝行指南所と言つた看板かんばんでも出したのか」

「そんなものは出しやしません。唯の御浪人ですよ、梶原かぢはら源左衞門と言つてね、五十年輩の立派な人だが、ひどく足が惡い」

「それがお前にたき付けたのか」

「お行儀や親孝行をたき付ける奴はありませんよ」

「まア、勘辨しときなよ、俺も親孝行とお行儀は苦手だ」

「その梶原源左衞門先生のところへ、毎日話を聽きに行くことになつたんです」

「お前がかえ」

あつしの外に同じ路地内に住んでゐる鑄掛いかけ屋の幸吉と──親分も知つて居るでせう三十二三の、少し耳の遠い、──それから隣り町の植木屋の職人で有太郎といふ若いの」

「その御浪人のところには、若い内儀か、綺麗な娘が居るんだらう」

「親分はどうしてそれを?」

「そんなをとりでもなきや、八五郎やつんぼの幸吉が、毎日神妙な顏をして、しびれをきらしに通ふものか」

「さすがは親分、天眼通ですね。梶原さんのところにはお歌さんといつて、十八になつたばかりの、新粉でこさへて息を通はせたやうな娘がありますよ」

「まア宜い心掛けだ。止せとは言はないが、俺にまで小笠原流を仕込む氣になるのは勘辨してくれ」

「そんなつもりぢやありませんよ」

「先刻から見て居ると、ひたひつばきを附けたり、足の親指を曲げたり、色々細工をして居るやうだが、行儀をよくするのも樂ぢやないね」

「へエ」

しびれをきらし乍ら、マジマジと娘の顏を眺めて、日向ひなた臭い道話か何んか聽かされる圖は、意氣なもんだな、八」

「冷かさないで下さいよ」

 八五郎は散々の體でした。しびれをきらした足をさすり〳〵、跛犬びつこいぬのやうな格好で逃げて行く後ろ姿を、平次は腹を抱へて笑ひながら見送つて居ります。

「可哀想に、あんなに八さんを冷かして、──當人は大眞面目なんですもの」

 女房のお靜は手を拭き〳〵お勝手から出て來ました。まさに春日閑居の一揷話さうわですが、これが四五日目には大變なことになつてしまつたのです。



 それから五日目、三月の宵のお月樣が少しばかりふとつて、櫻の便りがあちこちから、活溌に傳はつて來る頃、思ひも寄らぬ客が明神下の平次の長屋を驚かしました。

「おや、三輪の親分」

 格子の外に立つて居るのは、三輪の萬七の苦りきつた顏です。この平次の競爭者で、顏の古い御用聞が、一體どんな用事があつて、此處までやつて來たのでせう。

「少しばかりイヤな事を聞かせに來たんだがね、錢形の」

 萬七は六疊の居間に通されると、煙草を五六服、立て續けに部屋中を煙にして、ようやく口をきるのです。

「イヤな事といふと?」

 平次は素直にそれを受けました。

「近頃淺草から下谷中を荒し廻る、いたち小僧といふのを錢形の親分はどう思ふ」

 それは平次も頭を惱まして居る問題でした。輕捷けいせふで圖太くて、風の如く去來する怪盜鼬小僧の跳梁てうりやうは、この春の町方一統、手を燒いて居たのです。

 それは全く不思議な男でした。物持、分限、わけても非道な金貸などを襲つて、丁度隙間から入る風のやうに何處からともなく忍び込み、現金だけをさらつて、煙の如く消えるのです。たまたま見付かつたり、退路を斷たれたりすると何處に忍ばせたか、目潰しの一丸を叩きつけるのです。

 大抵の豪傑も、これは一發で參つて了ひました。山椒さんせうの皮を粉末にしたのに、胡椒こせうと石灰と、灰と何やら得體の知れぬ南蠻物らしい藥品を混ぜ、大人おとなの拳固ほどの一丸にして、雁皮がんぴに包んだのを相手の面上に叩き付け、たじろぐところをたくみに姿を隱すのでした。

 この投球は、五間六間の先までもきく上、巧妙極まるピツチングで、必ず相手の面上を襲ひ、暫くは全く武力を封ずるので、どんな捕物の名人でも手の出しやうはありません。それは丁度『鼬の最後つ』といふのに似て居るので、誰が言ふとなく鼬小僧といふ呼名をつけてしまひました。

「その鼬小僧がどうしたのだ、三輪の親分」

 平次は靜かに訊き返しました。

「錢形のめえだが、俺はその鼬小僧を二度までも追ひ込んだのだよ」

「?」

「網を張つて、八方に待ち駒を置くと、首尾よく八門遁甲もんとんかふの陣へ入つて來た。いや面白かつたぞ」

「──」

「黒裝束に手拭で頬冠りをした、小意氣な男だ。懷中には匕首くらゐ呑んでゐるかも知れないが、一度も刄物を出さないところはさすがに鼬小僧だ」

「?」

「いや、感心して居るわけぢやない。俺もあの最後つ屁を一つ喰はされたがこたへたぜ、臭くて辛くて、えごい上に眼つぶしになるから、手に了へねえ──そして逃げ込んだのは何處だと思ふ、錢形の」

「?」

「ざつくばらんに言ふが、鼬小僧が逃げ込んだのは、二度とも向柳原のあの路地の奧だ、──其處には、錢形の子分の八五郎兄哥が住んで居るよ」

「──」

 平次はギヨツとしました。向柳原の路地の奧、八五郎が叔母さんの二階に居候して居るあたりが、三輪の萬七の探索の圈内になつて居る樣子です。

「踏ん込んで調べようと思つたが、──待てよ、八五郎兄哥あにいは錢形の親分の一の子分だ、萬一その兄哥を科人とがにん扱ひにして、後で錢形の親分に文句を言はれちや、十手のよしみがないと世間から言はれるだらう、──念を入れ過ぎるやうで、この上もなく間拔けな話だが、三輪の萬七がわざ〳〵やつて來たのは、その渡りをつけ度い爲さ」

 三輪の萬七は言ひきつて自棄やけ吐月峰はひふきを叩くのです。

「それは丁寧なことで、痛み入つたね。八五郎が萬一──萬一だよ、鼬小僧だつたら、遠慮することはない、首つ玉に繩をつけて、糞垂くそたれ猫のやうに引立ててくれ。宜いとも、少しも遠慮することはない」

 平次は言ひきつて膝に手を置くのです。

 少々はタガも釘も足りない男ですが、正直で生一本でいさゝかノウ天氣な八五郎が、怪盜鼬小僧などであるべき筈もありません。

「さう聽けば、此方もやりやうがあると言ふものだ。馬鹿念を入れるやうだが、あの路地の奧に住んでゐるのはつんぼ同樣の耳の遠い鑄掛と、びつこの浪人者親娘の外には、八五郎兄哥だけさ。奧は行止りで、鼠も鼬ももぐれるほどの穴もない、──それぢや錢形の」

 三輪の萬七は存分なことを言つて、歸つて行くのです。



 平次は直ぐ飛び出しました。萬に一つ八五郎が泥棒などをする筈はないにしても、この儘に放つて置いたら、どんな間違ひが起るかも知れず、一應自分の眼で向柳原の八五郎の家のあたりも見て置き、八五郎にそれとなく注意もして置きたかつたのです。

 賃仕事で暮してゐる八五郎の叔母は、問題の路地の一番奧に住んで居りました。その二階の、天井が勾配こうばいになつた六疊が八五郎の巣で、叔母さんに文句を言はれ乍ら、年中うじを湧かせて居るのでした。

「八は梶原樣のところへ行つて居ますよ。近頃はそりや大變で、──少し親分から意見でもしてやつて下さい」

 五十年輩の叔母は、早く亭主に死に別れて、賃仕事で小綺麗に暮してゐるだけに、なか〳〵の氣性者でした。可愛いいをひの八五郎が、十手も捕繩も投り出して、近所の浪人者のところに入浸いりびたつてゐるのが氣に入らなかつたのです。

 平次は挨拶もそこ〳〵に、一軒手前の鑄掛屋の隣り、──路地を入るとすぐの、梶原源左衞門の浪宅を訪ねました。

「入らつしやいませ」

 障子を開けて、半身を見せたのは、八五郎が噂をしたお歌とやらいふ娘でせう。平次もハツとしたほどそれは異彩を放つた美しさです。色白の細面ほそおもてで背は高い方、多い毛を高々と島田髷に結つて、大きい眼はかなり表情的なのも氣になりますが、十八といふにしては、如何にも成熟しきつた魅力でした。

「八がお邪魔して居るでせうな、──あつしは平次といふ者ですが、ちよいと呼んで下さいませんか」

「暫くお待ち下さいませ」

 娘は大きい島田髷のおもかげを殘してスーと引込みましたが、代つて顏を出したのは、八五郎ではなくて、中年輩の浪人者でした。

「錢形の親分ださうで、──私は梶原源左衞門、まあ〳〵お通り。丁度宜い折だ、お茶でも上げて、お話がうけたまはり度い、──八五郎殿は來て居ますよ」

 いかにも如才のないその癖見識けんしきは落さぬ武家でした。色の青白い、少し病的ではあるが娘に似た立派な顏立ちで、羊羹色やうかんいろになつた羽織、膝の拔けかゝつたあはせ、疊も唐紙も、淺ましく古びて、貧しさは思ひやられます。

「おや、親分、何んか御用で」

 その後ろから、頓狂な聲を出したのは、當の八五郎のしびれをきらした顏です。

 再三辭退した末、平次は次の間に通されました。其處には先客が二人。

こちらがお隣りの鑄掛いかけ屋の幸吉さんぢや、──錢形の親分を御存じかな」

「──」

 主人源左衞門に紹介され乍ら、三十二三の男は、に落ちないやうな顏をしてお辭儀だけして居ります。多分、主人の話が半分も聞えなかつたのでせう。

「そちらは隣り町の植木屋の有太郎さんだ」

あつしはよく存じて居ります。錢形の親分さんで」

 有太郎は席を滑つて丁寧に挨拶しました。二十四五のこれは良い若い衆です。色の淺黒い、眼鼻立の可愛らしい、何處か子供つぽいところはありますが、物言ひがハキハキして、紺の匂ふ袢纒はんてんにも、きちんと揃へた股引の膝つ小僧にも、何んとなく几帳面さが見えると言つた肌合でした。

「有太郎さんは親孝行でな、界隈かいわいの褒めものぢや」

「飛んでもない、先生、あつしは日本一の親不孝者だと思つて居りますよ。たつた一人の母親に、不自由ばかりさせて居る意氣地いくぢなしで」

 と言つて少し照れるあたりは、女の子の樣な優しさがあります。

 鑄掛屋の幸吉は少し肥つた鈍重な感じの男で、眠いやうな眼、大きい反くり返つた唇など、どう見ても女子供には好かれさうもありません。この二人に八五郎を加へて、源左衞門の娘お歌を張り合ふとしたら、札は間違ひもなく植木屋の有太郎に落ちるでせう。

 暫く無駄話をして居ると、娘のお歌は新しく入れたお茶に、豆ねぢを添へて持つて來ました。しとやかなうちに機轉がきいて、狹い部屋に押し並んだ男客の間を通り乍ら、裾風すそかぜ一つ立てないたしなみです。

 主人梶原源左衞門の話は、すぐ道話めかしくなりましたが、平次は宜い加減にきり上げて八五郎をつれ出し、兎も角叔母さんの家の二階へ向ひました。



「何か急ぎの用事ですか、親分」

 八五郎は部屋一パイに散らばつた物を片付けて、親分の平次の席を作りながら、斯う訊ねました。

「大急ぎの用事さ。少しも知らなかつたが、いたち小僧といふのが、お前のことなんだつてね、八」

「ジヨ、冗談でせう、親分」

 八五郎はきもを潰しました。平次の言葉はそれほど唐突で豫想外で、そして效果的だつたのです。

「三輪の萬七親分がさう言つて來たよ。二度までも鼬小僧を、向柳原の八五郎の住んでゐる路地に追ひ込んだから、今度は遠慮をせずに、縛るかも知れない。その時文句が出ないやうにと、恐ろしく念の入つた挨拶だ」

「三輪の親分がね。しやくにさはるぢやありませんか、──第一私が泥棒をするかしないか、考へてもわかるぢやありませんか──で、親分は何んと言つてやりました」

 八五郎はムキになつて怒ります。が、平次はまことに拔からぬ調子です。

「返答のしやうがあるものか。泥棒をかばつちや濟まないから、どうぞ御自由に──とな」

「そりや親分」

「まア、怒るな八。お前が鼬小僧でなきや、それで宜からう」

「それはその通りですが」

「三輪の親分の鼻を明かしちや惡いが、此方で先手を打つて、鼬小僧を縛りさへすれば、市が榮えるといふものだ」

「成程ね」

「だから、よく落着いて考へて見ろ。この路地の中に、お前の外に鼬小僧に化けさうな達者な野郎があるかないか」

「ありませんよ。口惜くやしいが」

「そうれ見ろ、俺が追ひ込んでも、お前に眼をつけるかも知れないよ。先づ路地の中の住人を一人づつ洗つて見るが宜い」

「へエ」

 八五郎は漸く氣を落着けました。

「お隣りの鑄掛屋はどうだ」

「あの通りのつんぼで、その上念入りのお人好しですよ。フイゴを背負つて歩く鑄掛屋ですが、道樂のない獨り者だから、少しは溜めてゐる樣子で──さう言へばこの間からあつしの顏を見ると妙にモヂモヂして何んか言ひ度さうですが、水を向けてもなか〳〵打ち開けちやくれません」

「あの聾はにせぢやないのか」

「本當に遠いやうで、──尤もまるきり聽えないわけぢやありません。聲を掛けられたんぢやわからないが、手を叩くと直ぐ氣がつくさうです」

「御方便なものだな──その鑄掛屋も、あのに氣があつて御浪人のところへ繁々しげ〳〵通ふのだらう。聾に道話なんざ洒落しやれにもならねえ」

「──」

「御浪人は跛者びつこのやうだが、あれも本當の跛者か。いつか首からもゝを釣つて僞跛を引いて居るのをつかまへたことがあるが」

「あれは若い時柔術やはらで足を折つて、それがこじれた跛者ださうで」

「娘は?」

「娘のお歌さんは、あの通り綺麗で優しくて悧巧でしとやかで」

「もう澤山、お仲人なかうどに來たわけぢやないからそんなに褒めたつて御利益はないよ、──それよりあの娘に妙な所なんかないのか。女だつて鼬小僧に化けられないことはあるまい」

「冗談で、親分。あんな優しい娘が──」

「優しくたつてあてになるものか、お前なんかも講中の一人だから、娘の身體から後光が射すやうに見えるんだらう」

「驚いたな、どうも、──でもいたち小僧は黒裝束で股引を穿いて、手拭で頬冠りをして居るさうですよ。娘のでつかい島田髷に頬冠りは變ぢやありませんか」

「それから有太郎とかいふ植木屋はどうだ」

「道話が好きで〳〵たまらないと言ふ癖に、お歌さんの方ばかり見て居る男で──尤もお歌さんもあの男には氣があるかも知れませんよ」

くな〳〵、男の嫉妬やきもちは見つともないぜ」

「尤も親孝行は本當で、人間も素直だし、近所の褒め者ですがね」

「お前には面白くないことがあるんだらう」

 平次はこれ以上八五郎から聽き出せさうもないと思つたか、一應の注意だけして歸ることにしました。



 路地の口を出ようとすると、丁度梶原源左衞門の浪宅から出て來た、植木屋の有太郎と、けもかはしもならず顏を合せてしまつたのです。

「もうお歸りで、錢形の親分」

 有太郎には物言ひ度げな樣子が見えます。

「これから少し寄り道をするんでね、──尤も八五郎のところにねばつて居ても、大した御馳走があるわけぢやない」

 平次は輕い氣持で冗談などを言ひました。

「親分、ご冗談で」

「ところでお前ももう歸るのか、お歌さんとやらが、殘り惜しさうにして居たぜ」

「からかつちやいけません、──おたなの用事で、これから龜戸まで行かなきやなりません。歸りが遲くなりますから」

 かたむきかけた夕陽をまぶしさうに眺め乍ら、有太郎は言ふのです。

「それは兎も角、俺に何にか言ひ度いことがあるのぢやないか」

「少しばかり、氣の付いたことがありますが、──でも、私の口から申上げては、妙に取られます。いづれまた」

 有太郎は半分言ひかけて、何にかにおびえたやうに、あわてたお辭儀をして、サツと表通りへ出てしまつたのです。

「冗談ぢやないぜ、人じらしな」

 平次はそれを追ひました。この氣の弱さうな若い男は鼬小僧一件に關係くわんけいのあることを知つて居さうでならなかつたのです。

 表通りへ出るとグルリと大廻りに、有太郎の家は丁度八五郎の住んで居る路地の裏になつて居ります。

「あ、錢形の親分」

 有太郎はフト振り返つて、其處まで追つて來た錢形平次の顏を見ると、ひどくあわてました。

「言ひかけた事を聽かなきや歸られないよ。氣の毒だが」

 平次は日頃になく執拗しつあうからむのです。

「親分、勘辨して下さい。私はもう」

 有太郎が自分の家へ入るのを、付け入るやうに、平次は續きました。

「おや、有太郎お歸りかえ」

 迎へたのは六十年輩の母親でした。日手間ひでまを取つて居る植木屋の母親にしては、不相應なほど良い身扮みなりで、家の中の調度も思ひの外に整つて居ります。

「お母さん錢形の親分さんだよ」

「まア、當時高名の錢形の親分さんかえ。ではお奉行樣にお傳言ことづてを願ひますよ」

 母親のお七──名前だけは若い六十恰好の老婆は、うとさうな眼を擧げました。

「そいつは聽き物だね、お奉行樣への傳言といふのは何んだえ」

「うちの伜に親孝行の御褒美を下さらないのは、お奉行樣のお手落ちぢやないかと、私は思ひますがね」

 老婆お七はマジマジと拔からぬ顏をするのです。色の白い、しわの多い、胡麻ごま鹽頭の老婆ですが言ふことはなか〳〵に皮肉です。

「そいつは一本參つたな、──ところで、先刻さつきの續きだが、あれは一體どんな事を言はうとしたんだ」

 平次はもう一度有太郎に絡むのでした。

「錢形の親分、申上げてしまひませう。斯うなつちや、私も隱しきれません」

「──」

「實は──鑄掛いかけ屋の幸吉さんのつんぼといふのは嘘で、あの耳が、大して遠くないといふことを申上げようと思つたんです、──現にあの人の耳には何時でも綿を詰めてわざと聽えないやうにしてあります。それに昨日の朝、幸吉さんの家の前でこんなものを拾つたんですが」

 有太郎が取り出したのは、灰のやうな物を雁皮紙がんぴしに包んだ、子供の拳固ほどの球でした。



 その晩三輪の萬七は、子分のお神樂かぐらの清吉始め、多勢の下つ引を狩り出して怪盜いたち小僧を、向柳原の一角に追ひ込んでしまつたのです。

「サア、今度こそは雪隱詰せつちんづめだぞ。鼬小僧のつらの皮をひん剥いて、二度とこの娑婆しやばへ出ないやうにしてやらなきや、俺の腹の虫が癒えねえ」

 三輪の萬七に取つては、それはまことに一世一代の捕物陣でした。錢形平次に對する、多年の功名あらそひも、この晩の大捕物で全部片附きさうな氣がして、斯う言ふうちにも異常な興奮が五體に脈打ちます。

 怪盜鼬小僧は、その晩佐久間町の大川屋忠兵衞の家に押入り、三百兩といふ大金を奪つて、三輪の萬七の張りめぐらしたわなに、完全にちてしまつたのです。

 向柳原の路地の入口に、三輪の萬七がその戰鬪的な四角な顏を現はしたのは、やがて子刻ねのこく近い刻限でした。

「今度こそはにがしつこはねえ。路地の中を一軒殘らず洗つて行くのだ」

 三輪の萬七は全く容赦を知らぬ男でした。

 最初に叩き起されたのは、浪人梶原源左衞門の家。

「いや、御苦勞々々々」

 大跛者ちんばの主人の顏と、それをたすける美しいお歌の顏を見ると、三輪の萬七の子分達も、手の下しやうはありません。足萎あしなえと十八娘では、凡そ鼬小僧には縁がありません。

 續いてお隣りの鑄掛屋幸吉の家。

「あ、大變ツ」

 先陣を承つた下つ引の一人は、耻も外聞もなく張り上げてしまひました。

「何んだ〳〵」

 三輪の萬七大張りきりで飛び込みましたが、あまりのことに立竦んでしまつたのも無理はありません。八方から振りかざした御用の提灯の光の中に、獨り者の鑄掛屋幸吉は文字通り紅に染んで入口の土間に倒れて居たのです。

 あわてて抱き起しましたが、最早虫の息もなく、匕首あひくちか何にかで喉笛を一とゑぐりされて、聲も立てずに死んだことでせう。

「たつた今やられたに違げえねえ。曲者は遠くは行かない筈だ」

 三輪の萬七は血眼ちまなこでした。小さい路地の内外を鐵とうの如く堅めて、さて路地の一番奧の家、八五郎の宿へ向つたのです。

「親分叩き起しませうか」

「うん、こんな騷ぎを知らない筈はない。まだ出て來ねえところを見ると──」

 萬七はもう八五郎を曲者ときめてしまつた樣子でした。

 二人の下つ引は四つの拳固で戸を叩きました。路地の中は、まさに割れさうな騷ぎです。

「まア、どうしたといふのでせう。雨戸が割れてしまひますよ」

 四つの拳固の中へ、ヌツと顏を出したのは氣の強さうな八五郎の叔母さんでした。

「八兄哥あにいはどうした。この騷ぎの中へ顏を見せないといふ法はあるめえ」

 三輪の萬七は煮えこぼれるやうな怒りを叩きつけました。

 この騷ぎを聽いて、二階から靜かに階子はしごを降りて來るのは、八五郎でなくて誰であるべき筈もありません。

「野郎ツ、今度は逃さねえぞ」

 飛び付かうとする三輪の萬七の前へ、

「いや、御苦勞々々々。飛んだことになつたね、三輪の親分」

 落着き拂つた顏を出したのは、八五郎と思ひきや、何時の間に入れ變つたか、それは親分の錢形平次の顏だつたのです。

「や、お前は錢形の。何うして此處に?」

 萬七は立ちすくみました。月はもう落ちて、路地の中は眞つ暗ですが、捕物陣の振りかざす提灯のあかりが、何時の間にやらこの一角に集まつて、平次はまさに舞臺の脚光を浴びて立つた姿でした。

いたち小僧にされちや八五郎が可哀想だから、今夜は俺が身代りになつて二階棧敷さじきから見物して居たといふわけさ」

「八五郎は?」

「他の場所に張り込ませてあるから、いづれは顏を持つて來るだらう」

「すると鼬小僧は誰だ、今度は人まであやめて居るぜ。この路地の中へ追ひ込まれてから、鑄掛屋の幸吉を殺して何處かへ潜り込んだに違げえねえ」

「ちよいと待つてくれ。そいつはに落ちないことがあるんだ」

 平次は草履を突つかけて外に出ると、眞つ直ぐに鑄掛屋の家へ入つたことは言ふまでもありません。

 後からゾロゾロといて行つたのは、提灯行列ほどの御用の提灯。

「三輪の親分、──鼬小僧がこの路地の中へ追ひ込まれたのはツイ今しがたと言つたね」

 平次は入口の土間に崩折れた幸吉の死體を、念入りに調べながら言ふのでした。

「さうだ、ほんの煙草二三服も經つちやゐねえだらう」

「ところが鑄掛屋の幸吉はもう冷たくなりかけて居るぜ」

「何?」

「その上、こんなにひどく血が出て居るが、その血だつて固まりかけて居るぢやないか」

「するとどういふことになるんだ」

 三輪の萬七は到頭かぶとを脱いでしまひました。

「三輪の親分がこの路地の中へ追ひ込んだ鼬小僧とやらは、幸吉殺しの下手人ぢやないといふことさ」

「えツ」

 三輪の萬七の困惑した顏は、提灯の光りの洪水の中にまことに見事でした。



 何時の間にやら、捕物陣の多勢は、平次を取卷いて、その話に耳をかたむけて居たのです。

「多分、誰かが、鼬小僧がこの路地に追ひ込まれる前に、此處へ忍び込んで鑄掛屋の幸吉を殺したことだらう。入口へ呼出してしたところを見ると、間違ひもなく知合ひの中だ、──あの騷ぎの始まる前に、何處かで二つ三つ手拍子が聽えたが、それは多分幸吉を呼出す合圖だつたと思ふ、幸吉は耳がひどく遠くて人の聲はなか〳〵聽えないが、手拍子ならよく聽えるさうだ。この界隈かいわいではそれは誰でも知つて居ることで、鍋鑄掛の幸吉が通ると、つくろひ物でもある家では手を叩いて呼ぶことになつて居る」

「──」

「曲者は幸吉を殺した、何にか仔細しさいのあることだらう──俺にはその仔細もわかつて居るが、兎も角仕事が濟んで逃げ出さうとして居るところへ、三輪の親分の一隊が鼬小僧を追ひ込んで、路地の口からドツと雪崩なだれ込んで來た。逃げ場を失つた曲者は、どんなに驚いたことか」

「その曲者は何處へ逃げたのだ」

「俺も八五郎の二階に居なきや、そこまでは氣が付かなかつたかも知れない。が、曲者がこの路地の奧へ飛び込んだ物音だけは確かに聽いた。五日月はもう屋根へ沈んで、何んと言つても眞つ暗で、何が何やらわからなかつたが──多分この邊だと思ふ、提灯を貸してくれ」

 平次は下つ引の一人から御用の提灯を借りると、路地の突き當りの、板塀などを照して居りましたが、

「──あつた。この通り板塀の上に血が附いて居るだらう」

 平次は懷ろ紙を出して、塀の上をスーツと撫でると、紙の上には、明かに乾きかけた血漿けつしやうが、僅かばかり附いて來るのです。

「この通りだ、明日になつて乾いてしまへばわからなかつたかも知れない、──返り血を浴びた曲者は、塀へ飛び付くと、それを足掛りに隣りの屋根の上に飛び上がり、二つ三つ屋根を渡つて、向う側の路地に飛び降りて逃げたに違ひない──屋根までは一間も離れて居る、間にヒヨロヒヨロのしゐの木が一本あつて、足掛りにはなつて居るが、餘つ程身輕な者でなきやあの藝當は出來ない」

 平次の説明は星を指すやうで、最早寸毫すんがうの疑ひもありません。

「その下手人は誰だ。何處の野郎だ」

 三輪の萬七は照れ隱しらしく力瘤ちからこぶを入れます。

「今にわかるよ。八五郎が連れて來る筈だ」

 平次の言葉が終らぬうちに、八五郎は一人の若い男を引立てて、路地の外から大騷ぎで乘込んで來たのです。

「親分、矢つ張りこの野郎ですよ。變なところから出て來てコソコソと自分の家へ入るから、聲をかけると、いきなり逃げ出すぢやありませんか、それを追つ驅けて、いや骨を折らせたの何んの」

 さう言ふ八五郎は、さすがに息をきつて居りました。

「見てくれ、三輪の親分。その男の胸のあたりに返り血を浴びて居る筈だ」

 おびたゞしい提灯の光の中に、八五郎に襟髮を掴まれた、植木屋の有太郎の、おびえきつた顏が浮んだのです。

「野郎ツ」

 三輪の萬七はその大きくたくましい手を有太郎の肩に掛けました。

「三輪の親分繩を打つが宜い。この獲物は親分の手柄だ」

 平次はこの儘身を引くつもりでせう。

「鑄掛屋殺しは擧げたが、いたち小僧は何處へ逃げたんだ。この路地に逃げ込んだことは確かだが──」

 三輪の萬七は諦め兼ねた樣子でした。

「もう此處には居ないよ、三輪の」

「矢つ張りあの塀を越して、屋根傳ひに逃げたんぢやあるまいね」

「いや、植木屋の有太郎は稼業柄だからそれが出來たんだ。鼬小僧も身輕ではあるが、そこまでは──」

「では何處へ逃げたんだ。大地へ潜るはないぜ錢形の」

「三輪の親分が、八五郎を縛る氣で、叔母さんの家を叩かせた時、路地に居た人數は皆んなあの邊に固まつてしまつた筈だ。その時鼬小僧親娘は、路地の口を飛び出して町の闇の中に隱れてしまつた樣子だ」

 平次の指さすのは極めて明瞭です。其處まで聽くと三輪の萬七は、

「それぢや、あの梶原親娘おやこが──」

 疾風はやての如く梶原源左衞門の浪宅へ飛び込みましたが、この時はもう平次の言つた通り、肝腎かんじんの鼬小僧は逃げ出した後で空つぽ。ろくな家具もない家の中は、寒々として三輪の萬七の間拔けさを笑つて居る樣です。

「あれは何んだ」

 その空つぽの六疊、主人の源左衞門が、有難さうな道話を説いたところに、人を馬鹿にしたやうに轉がつて居るのは、有太郎が平次に見せた眼潰めつぶし球と同じものが一つと、外に大一番の島田の附けまげ、──お歌はこれを頭の上に載つけて、鼬小僧から娘に、娘から鼬小僧と早變りして居たのでせう。

        ×      ×      ×

溜飮りういんが下がりましたぜ、親分、鼬小僧の逃げるのを承知しながら三輪の萬七親分に縛らせなかつたのは、錢形の親分一世一代の皮肉だ」

 一件が濟んでから、ガラツ八の八五郎は、面白さうにかう言ふのでした。鼬小僧親娘は、それつきり行方がわからず、三輪の萬七懸命の搜索も、近頃はくたびれて放り出した樣子です。

「馬鹿、人聽きの惡いことを言ふな、──あのお歌といふ娘が鼬小僧だらうとは見當をつけたが、まさか三輪の親分がお前を縛る氣で乘込んだ隙に逃げ出さうとは思はなかつたよ。あの時俺は三輪の親分と掛け合ひの眞つ最中でうつかり氣がれて居ただけの事さ」

 平次は以ての外の樣子です。

「あの娘が鼬小僧とは驚きましたね全く」

「梶原源左衞門は浪人と言つて居るが、當てになつたものぢやない。昔は矢つ張り名ある泥棒だつたかも知れないよ。足を斬られたかどうかして片輪になり、それから娘を仕込んで世過ぎの小泥棒を働かせて居たが、近頃圖に乘つて大きくやり過ぎたのだらう」

「へエ、驚きましたね」

「その娘がまた綺麗で、八五郎まで夢中になつたんだから大笑ひさ。御用聞のお前が道話なんか聽いて有難がつて居るすきに、あの娘が仕事をして居たんだらう」

「有難い仕合せで」

「でも、決して人をあやめなかつたのは、女らしくて宜い──とお前は言ふだらう」

「孝行者の有太郎が何んだつて鑄掛屋を殺したんです」

「あの孝行はにせの孝行さ。有太郎が縛られると、命乞ひでもすることか、有金をさらつてあの母親は姿を隱してしまつたぢやないか、どうせ本當の母親ぢやあるまい。馴合ひで孝行ごつこをやり、世間の評判を取る魂膽こんたんだつたに違げえねえ。あの暮し向きの贅澤なのを見て、母親が無暗に伜を褒めるのを聽いた時俺は嫌な心持になつたよ」

あきれた野郎ですね」

 腰に半身の人形をくゝり附けて、伜におんぶして居る恰好になり、『親孝行で御座い』といふ物貰ひの歩いた時代です。孝行の贋物にせものがあつたところで何んの不思議もありません。

「俺も最初はあの植木屋がいたち小僧かと思つたよ。が、お歌に夢中な樣子を見た上、俺をつかまへて『幸吉はつんぼでない』と言つた時、ハツと思つたよ。幸吉の聾は誰でも知つて居ることで、これは僞でも何んでもない。僞聾になつて不自由な思ひまでして、商賣をする物好きはなからう」

「──」

「僞聾か本當の聾かは、醫者が調べさへすれば直ぐわかることだ。有太郎はあんな事を言つて、幸吉を疑はせるやうに仕向けたのは、お歌をかばふつもりだつたに違ひない。お歌のところから持つて來たらしい、眼潰しの球まで見せたのは、細工過ぎてかへつて俺に疑はれるもとになつてしまつた」

「?」

「そんな事をするところを見ると、有太郎はお歌と約束があつたのかも知れない、──八五郎よりは餘つ程良い男つ振りだ」

「へツ」

「ところで、鑄掛屋の幸吉は、何にかのはずみで鼬小僧の本性を見破つてしまつた。お歌が鼬小僧とわかると、凡夫の悲しさで、一人呑んでは居られない。訴人そにんするにしては、幸吉もお歌にはポーツと來て居るし、お前に何にか言ひ度さうにしたのもそんな事だらう。兎も角、鞘當筋さやあてすぢの有太郎に、お歌はあんな綺麗な顏をして居るが、實は大泥棒の鼬小僧だ。その證據はこれ〳〵と吹込んで、有太郎を諦めさせようとしたことだらう」

「へエ」

「有太郎はもうお歌と出來て居た。諦める代りに、あべこべに幸吉の口をふさぐ氣になつた。訴人されてはかなはないと思つたんだらう、──幸吉が鼬小僧らしいと俺に告口したのも考へて見ると餘計な細工で、幸吉の口を塞がなきや危ないと氣が付いたのだらう」

「成程」

「ところで、八。お前も飛んだ命拾ひをしたかも知れないよ。萬七親分の繩目は、俺がどうにでもしてやるが、有太郎の匕首あひくちは防ぎやうがないぜ」

「冗談で」

「兎も角、お歌も何時までも無事ぢや濟むまいよ。あんな綺麗なのを縛るのは、俺は御免を蒙り度いが──」

あつしも御免で」

「お前はしびれをきらしながら、面白くもない道話を聞く方が嬉しからう」

 平次は面白さうに笑ふのでした。

底本:「錢形平次捕物全集第二十七卷 猿蟹合戰」同光社

   1954(昭和29)年610日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1950(昭和25)年2月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2017年311日作成

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