錢形平次捕物控
猿蟹合戰
野村胡堂
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「日本一の面白い話があるんですが、親分」
ガラツ八の八五郎、こみ上げる笑ひを噛みしめながら、ニヤリニヤリと入つて來るのです。
六月になつたばかり、明神樣の森がからりと晴れて、久し振りの好い天氣。平次は襷がけにはたきを持つて、梅雨中閉ぢ込めた家の中の濕氣と埃を、威勢よく掃き出して居りました。
「顏の紐のゆるんだのが、路地を入つて來ると思ふと、それが外ならぬ八五郎さ。成程そんな面白い相好で歩く人間は、日本中にも滅多にはねえ筈だ」
「あつしのことぢやありませんよ。親分」
「まだ外に、ニタニタ笑ひながら歩く人間があるのか」
「弱るなア、──笑ひながら歩く話ぢやありませんよ。火傷をした話なんで」
「火傷をね」
「只の火傷ぢやありませんよ。眞夏に股火鉢かなんかやつて、男の急所に大火傷を拵へたと聽いたら、親分だつて、それね、可笑しくなるでせう」
「フ、フ、フ、妙なことを嗅ぎ出して來るんだね、お前といふ人間は。金を燒いた話なら町方は筋違ひさ。そいつは金座役人の係りだ。御勘定奉行へ訴へるのが順當ぢやないか」
「落し話ぢやありませんよ、親分」
平次と八五郎は、何時でもこんな調子で筋を運ぶのです。
「一體何處の誰がそんな間拔けな怪我をしたんだ」
「間拔けどころか、相手は江戸一番と言つても、二番とは下らない鹽つ辛い人間なんだからお話の種になるでせう」
「へエー、その昔噺は面白さうだね」
平次は襷を外して、火のない長火鉢の前へ來ると、煙管の雁首を延ばして、遙か彼方の挽物細工の貧乏臭い煙草入を引寄せるのでした。
「親分でも掃除なんかするんですか。襷なんか綾取つて、まるで敵でも討ちさうな恰好ですぜ」
「忙しい時は、掃除も手傳へば、飯も炊くよ。よく見習つて置くが宜い。お前も何時までも獨身ぢやあるめえ、あんまり女房に骨を折らせるばかりが、男の見得ぢやないよ」
「へツ、相濟みません」
首を縮めた彈みに、八五郎はペロリと舌を出すのです。
「ところで、お前の話は何んだつけ」
「忘れちやいけませんよ、男の急所を燒い話──ウフ」
「さう〳〵」
「春木町の浪人、金貸しでは江戸中にも何人と言はれた、綱田屋五郎次郎を親分も御存じでせう」
「知つてるとも、武家相手に高利の金を貸して、一代にびつくりするほどの身上を拵へた男だ。札差にまで見放されたお武家が、綱田屋へ頼みに行くと、二つ返事で貸してくれるつてね。その代り返さなきや組頭かお取締りの若年寄に訴へ出る。否も應もない、まご〳〵すると家名に拘はるか、こぢれると腹切道具になるから、女房や娘を抵當にしても返すといふぢやないか」
その頃江戸中に横行した、惡質な高利貸の一人で、武家崩れの綱田屋五郎次郎は、人間が穩かで上品で、上役人にも通りがよく、一應話のわかる男でしたが、それだけに奸佞邪智で、一と筋繩では行かない人間として平次に記憶されて居ります。
「その綱田屋が變な火傷をしたんだから、好い氣味見たいなもので」
「人の災難を笑つちやいけない」
「でも、あの男は茶の湯なんかやるんですつてね。高利の金で儲けちや、恐ろしく高い道具を集めて、青黄粉のガボガボでせう」
「青黄粉とは違ふよ」
「だから綱田屋の主人の部屋には爐が切つてある、──尤もあの五郎次郎といふのは、若い時の道樂が祟つてひどい疝氣ださうで、夏でも時々は股火鉢で温める。奉公人は多勢居るが、口の惡いのは蔭へ廻ると、主人とも旦那とも言やしません──夏火鉢──で通るんださうで」
「お前の話を聽いて居ると、俺は横つ腹が痛くなるよ。よくもそんな馬鹿な話ばかり仕入れて來たものだ」
「これからが話の本筋ですよ、親分、──昨日はまた妙に薄寒かつたでせう、梅雨明けには、よくあんな天氣があるんですつてね。あつしのやうな達者な人間でさへ冷々したくらゐだから、疝氣持ちの綱田屋五郎次郎、下つ腹がキリキリ痛んで叶はない、茶を入れるから──とか何んとか、體裁の良いことを言つて、爐に火を入れさして、早速の股火鉢だ。少しばかり良い心持になつて、眠氣がさして來ると、いきなりドカンと來た」
「何んだえ、それは?」
「爐の隅に、地雷火が仕掛けてあつたんですよ。程よいところで口火に火が廻ると、五徳も鐵瓶も、灰も爐もハネ飛ばして、グワラグワラドシンと來た。いやその凄かつたことと言つたら」
八五郎の話には身振り手振りが入るのでした。
「爐の中に地雷火なんか潜り込むわけはないぢやないか、癇癪玉か何んかだらう、──尤も兩端へ節の付いた竹筒を埋めて置いても、それくらゐの業はやるぜ」
「そんな生やさしい物ぢやありませんよ。綱田屋の主人が、爐の眞上に居たら、天井へ叩き付けられたかも知れないといふくらゐで」
「で?」
「綱田屋主人、命は無事だつたが、股から上の火傷だ、──惡戲者は家の中に居るに違げえねえ、引つ捉へて八つ裂きにしてやる──といふ腹の立てやうだが、見渡したところ、娘も伜も居候も、多勢の奉公人も皆んな良い子ばかり。そんな大それた惡戯をしさうな顏もないから、耻を忍んであつしに來てくれといふわけで」
「お前は行つて見たのか」
「行つて來ましたよ。出入りの者から叔母さんへ頼みに來たんで」
「で、どういふ鑑定だ」
「一向わかりませんよ。家の者には違げえねえが」
「心細い野郎だな」
「念のために部屋の灰と埃を掃き寄せた中から、形のあるものを少し拾ひ集めて來ましたがね」
八五郎はさう言ひながら、懷中を搜つて何やら取出すのです。
「何んだえ、それは」
「部屋の片付けも濟まないところへ行つて、兎も角これだけは集めて來ましたがネ」
鼻紙をひろげると、中から出て來たのは、灰と埃と炭の屑と、そして少しばかりの糊で固めた反古紙と、竹の片と、串のやうなものと、そして堅く捻つた紐の一片だつたのです。
「これは大したものだよ、八。良いものを持つて來てくれた」
平次はすつかり夢中になつて、その懷ろ紙の中の、得體の知れない雜物を選りわけて居ります。
「でせう、──これが錢形流のやり口なんで、へツ」
平次に褒められると、八五郎の低い鼻は蠢きます。
「これは、お前、花火ぢやないか」
「へエ」
「兩國の川開きなどで使ふ、打ち揚げ花火だよ。爐の中でこいつに爆ねられてたまるものぢやない、──多分三寸玉くちゐ──いやもつと小さい、早打ちの小玉だらう」
「へエ、大變なものを仕込んだものですね」
爐の中の花火玉、それは實に奇想天外の惡戯です。
「斯んなものを拵へるのは、江戸では兩國の鍵屋一軒だ。お前はちよいと行つて調べて見るが宜い。花火玉が紛れて外へ出るやうなことはないか、それだけのことだ」
「親分は?」
「俺は外に仕事があるよ。それくらゐのことならお前一人で澤山だ。手に了へなかつたらさう言つて來るが宜い、惡戲者は直ぐわかるよ」
平次は至つて手輕に考へました。が、それは大變な間違ひで、思ひも寄らぬ大きな事件に發展しやうとは、さすがの平次も全く豫想しなかつたのです。
それから五六日、梅雨晴れの爽やかな日は續きました。町の木立に蝉の聲が繁くなつて、心太と甘酒の屋臺が、明神下の木蔭に陣を布く頃、八五郎はフラリとやつて來たのです。
「どうした、八。氣のない顏をして居るぢやないか」
「親分の前だが、花火なんてえものは、厄介なものですね」
縁側へドカリと腰をおろすと、青葉の風に襟をくつろげて、首筋の汗をやけに拭きます。
「花火玉の見當はつかないのか」
「驚きましたよ、──花火といふものは、公儀のお許しを受けて、焔硝を使ふ商賣だ。どんな小さい玉一つだつて、外へ紛れ出て、それで濟むといふものぢやない、──と、鍵屋の親爺はカン〳〵になつて居ましたよ」
「成程ね」
「その上──丹精をこめ工夫を凝らして拵へた花火玉は、こちとらに取つては我が子も同樣だ。揚げた花火が頭の上で炸けた時、自分の身體で、大事な花火玉に火の移るのを防いだといふ話もあるくらゐだ。饅頭や團子ぢやあるめえし、人樣にポンポン呉れてやつてたまるものか──といやもう、大した勢ひでしたよ」
さう聽けばさう言つたものらしく、
「では、どういふことになるのだ」
平次も思はず腕を組んでしまつたのです。丁度そんな話をして居る時でした。
「親分、此處でしたか」
元吉といふ日當りのよくない男、八五郎が顎で使つて居る下つ引で、まだ二十四五の若僧が、格子の外から見通しの二人に聲を掛けるのです。
「何んだえ、用事は?」
八五郎は兄哥らしく鷹揚に首をネヂ向けました。
「春木町の綱田屋から火急の使ひで、錢形の親分を誘つて直ぐ來て下さるやうにとの口上ですよ。使ひは朝のうちに來ましたが、親分が居ないので、いや搜したの何んのつて──」
元吉は少し大袈裟に自分の胸などを叩いて見せるのです。動悸がして叶はないといふ恰好です。
「何があつたんだ」
八五郎は上がり框に立ちました。
「相手は綱田屋だ、こちとらには話しちやくれませんよ」
「よし、行つて見よう、八」
平次はもう支度をして立ち上がつて居ります。
八五郎と元吉をつれて、春木町の綱田屋──浪人者の金貸のくせに、門構への屋敷に住んでゐる僭上らしい家──へ行つたのは、やがて晝近い時分。中はひつそりとして、店には人つ子一人影も見せません。
「變に物々しいぢやないか、裏へ廻つて見よう」
庭木戸を押し開けて入ると、中は小大名の下屋敷ほどの豪勢さ、泉石の佇まひも尋常でなく、縁側の隅、座敷の隈に、二人三人の男女が、額を鳩めて何やらコソコソと話して居るのです。
「おや、親分さん方」
最初に見付けたのは、番頭の仲左衞門でした。五十前後の恰幅の良い男で、これも昔は二本差したことがあり、用心棒から出世して算盤が取れるので、支配人にまで成上がつたといふことは後でわかりました。
昔は威張つて暮したらしい眞四角な苦りきつた顏、話の一とくさり毎に、拵へたやうな愛嬌笑ひを絞り出すのですが、これが何んとなく無氣味に見えるほど、この男の顏には、冷酷さがコビリ着いて居るのです。
「何にか變つたことがあつたさうだね」
平次はもう沓脱から縁側へ、無遠慮に上がつて居りました。
「主人は飛んだ怪我をしました、──お待ちして居ります。どうぞ」
先に立つて仲左衞門、廊下を幾曲り、主人の部屋に案内してくれます。
平次と八五郎は互に顏を見合せて、綱田屋の暮し向きの豪勢さに驚きながら、奧の一と間に通されました。
「何? 錢形の親分が來てくれた、それは有難い」
次の間付きの八疊、それは申分のない贅を盡した寢間でした。絹行燈を部屋の隅に、青磁の香爐が、名香の餘薫を殘して、ギヤーマンの水呑が、括り枕の側の盆に載せてあります。
麻の夏夜具を半分ハネさして、主人の五郎次郎は顏をねぢ向けました。
「何處か怪我をなすつたやうで、──飛んだことでしたな」
平次は、この増上慢が片腹痛いと思ひながらも、職業意識でツイ折入つた態度になるのです。
「肩を縫はれましたよ。もう少し狙ひが確かだと、間違ひもなく喉笛をやられるところだ──番頭さん、その刄物を」
主人五郎次郎は顎を動かします。精々四十五六、小肥りに脂の乘つた身體、少し張れつぼつたい顏で、細いが底光りのする眼、唇の色の惡い、鼻の高い──なか〳〵の立派な男振りです。
「これが窓の外から飛んで來ましたよ」
番頭が取り出したのは、鋒先を手拭に包んだ刄渡り五寸ほど込が一尺以上もある物凄い槍の穗、成程これは、喉を狙へば生命を取ります。
「窓の外といふと?」
平次は西窓を見やりました。其處には一間ほどの腰高窓があつて、夏場は風を通すやうになつて居るのです。
「窓に凭れて、風に吹かれて居ると、亥刻半(十一時)過ぎでもあつたか、不意にこれが飛んで來ましたよ。私は良い心持になつてウツラウツラして居たかも知れない、ハツと氣が付くと、肩先が火の付いたやうに痛くなつて押へた手にベツトリ血がついた」
五郎次郎は説明して行くのです。手傷と言つても、單衣の上からで大したものでなく、この生活力の旺盛な男の元氣には、さしたる變りもありません。
「外には?」
平次は靜かに口を挾みました。
「言ふまでもなく、直ぐ窓の外を見て──誰だ──と一應は怒鳴つたが、應へる者もなく外は眞つ暗だ。五日月はもう沈んで、一寸先も見えない」
それを聽きながら、平次は立つて窓の外を見ました。
表の方の庭の廣さに比べて、此處はまた僅かに三間ほどの空地で、その先は嚴重に板塀があり、外には春木町の往來が走つて居ります。
「よく乾いてゐるから、足跡もない、──」
平次はもとの座に戻りました。
「親分、これは、武藝のたしなみのある者の仕業に違ひあるまいな」
「いや、さうとも限りませんよ」
「それはどういふわけだ、親分」
「槍の穗が五寸か六寸、中子が一尺以上、なか〳〵重い、──これを投げれば、武藝の心得のないものでも、隨分相手に怪我くらゐはさせられるでせう」
「?」
「それに、武藝の達人なら、居睡りしてゐる相手を、二間や三間のところから槍を飛ばして、萬に一つも仕損じるやうなことはあるまいと思ひますが」
「いかにも」
五郎次郎も承服しました。もとは武家の出だけに、多少の心得はあるらしく、武藝のこととなると、案外話がわかりさうです。
「それからこの槍の穗を御存じありませんか」
「それは、見覺えのない品だ。が、無銘ながら餘程の名作らしい」
「物盜りや惡戲では、そんな名槍を投げ込む筈はないでせうな」
「左樣」
五郎次郎は一寸苦い顏をしました。曲者が相當以上の名槍を投げ込んで、自分を害めやうとしたとなると、これは容易ならぬことです。
「もう一つ、この間の御怪我は?」
平次の話は『男の急所』にも觸れるのです。
「いやはや、話にもならぬて、──親分が花火玉と鑑定したさうだが、全くそれに相違あるまい。爐の中にあんな物を仕込まれては、氣をゆるして茶も飮めない有樣だ」
五郎次郎が苦りきるのも無理のないことでした。
「お怪我は?」
「それは大したこともなく、外科の手當で三四日で大方は治つた。が、この次がどんな術で來るか、惡戲者を捉まへぬうちは、氣が氣でない。頼みますぞ、錢形の親分。費用やお禮には絲目はつけぬつもりだが──」
一代に巨萬の富を積んだ人間は、二本差であつたにしても、天下の事悉く金づくで解決すると思つて居る樣子です。
平次はそこ〳〵に外へ出ました。たつた一足しかない庭下駄を突つかけて庭へ降りると後に殘つた八五郎は、置いてけ堀を喰つて、縁側を右へ行つたり、左へ行つたり、漸く自分の履物を見付けて、親分の側へやつて來るのです。
「俺は歸るよ、八」
平次の調子は靜かですが、長い間の經驗で八五郎には一種の不安さを感じさせます。
「どうしたんです、親分」
「費用やお禮には絲目をつけないとよ。良い稼ぎになるぜ八」
「?」
「お前は後に殘つて、狸の睾丸に火傷を拵へた下手人を搜すが宜い」
「又腹を立てたんですか、親分は」
「當り前よ、──俺は金貸の用心棒ぢやねえ」
「弱つたなア、世間の御用聞は、そんなものぢやありませんよ」
その頃の岡つ引の生活は、町の旦那方の用心棒で、ボスの上前をハネて暮して居たことは、文献の引合せを俟つまでもなく明らかなことで、お上のお手當だけで暮す平次などは、まさに千百人中の一人と言つても宜かつたのです。
「それぢや、八。世間並の岡つ引を頼めとでも言つてくれ」
背を見せる平次の後ろから、
「どうしても歸るんですか、親分。だから親分は何時まで經つても貧乏するぢやありませんか」
八五郎は追ひすがります。
「馬鹿野郎、俺は道樂で貧乏して居るんだ、──金が欲しきや、十手捕繩を返上して、とうの昔に金貨でも始めて居るよ」
平次はもう妥協する心持もありませんでした。踵を返してサツと庭木戸の方へ行くと、左手に圓窓、コトリと開いて、
「あの、もし親分さん」
をのゝく聲が、絶え入るやうに平次を呼留めるではありませんか。
振り返ると、障子の蔭から、そつと顏を出したのは、十八九の幼々しい娘、──平次はハツと息を呑んだほどの、それは拔群の美しさです。
大きい眼が少しうるんで、赤い唇に動く欷歔、白い頬がほの暗い物の蔭に匂つて、何十方尺の間まことに比類もない雰圍氣を作ると言つた、世にもたふとい處女の姿でした。
「あれは何んだえ、八」
木戸のところまで追ひすがつて來た八五郎に、平次はさり氣なく訊きました。
「娘ですよ、鳶鷹ですよ、──鬼の五郎次郎に、菩薩の玉枝──つてね、本郷中で知らない者はありやしません。あんな娘の親に、あんな慾の深い人間があると思ふと、こいつは神樣の惡戲としか思へませんね」
八五郎ひとかどのことを言ふのです。
「──」
「あの娘は泣いて居ましたぜ。どんな非道な親でも、娘から見れば──矢つ張り親だ」
「もう宜いよ八。お前に講釋を聽かうとは思はない、──俺はもう一度思ひ直して、狸の睾丸を燒いた下手人を調べて見よう」
「本當ですか、親分」
八五郎が雀躍りする間に、平次はもうスタスタと庭へ引返して居ります。
「錢形の親分さんが、何にか腹を立ててお歸りになるんぢやないかと、家の者が申しますので、びつくりしましたが──」
番頭の仲左衞門は少し息をきつて飛んで來ました。武家出が鼻について、妙に慇懃無禮なところのある男です。
「歸らうと思つたが、八五郎に引止められて踏み留まりましたよ」
「有難うございます。今歸られちや、私が主人に叱られます」
「いや、もう大丈夫だ。追つ拂つても歸る氣遣はないが、──第一に訊き度いのは戸締りだ。この家は恐ろしく嚴重さうに見えるが、外から入つて來て、花火玉を爐に仕込む隙があるのかな」
「飛んでもない、親分。戸締りはやかましい上、人の目が多いから、外からノコノコ入つて來て、そんな細工の出來るわけはありません」
「すると曲者は家の中に住んで好い兒になつてゐるわけだね。一人々々、家中の者の顏だけでも見て置き度いが」
「どうぞ御自由に──連れて參りませうか」
「いや、放つて置いて貰ひ度い。斯う歩いてるうちに、家中の者に出つ逢すことになるだらう、──その代り何處へでも、自由に行つて宜いといふことにして貰ひ度いな、番頭さん」
「それはもう、親分の御自由に」
「それで宜からう。八、お前はいつもの通り」
「へエ」
八五郎は平次の顏色を讀むと、何んにも聽かずに飛び出してしまひました。斯んな時は、近所の噂を掻き集めて來いと言ふにきまつて居るのです。
「お孃さんですね?」
平次は八五郎や番頭の仲左衞門に別れるともう一度引返して、丸窓の前に立つて居りました。
思ひも寄らぬ平次の顏が、窓の前へピタリと留まると、今まで平次の樣子ばかり眺めて居たくせに、娘はハツと驚いて顏を引込めさうにしましたが、それより早く、平次の方から、退引ならぬ聲を掛けてしまつたのです。
「あの、玉枝と申しますが──」
振り仰ぐと公卿眉が霞んで、パステルで描いた顏のやうに、額から頬へかけての、清らかな白さが、ポーツと四方の空氣の中に溶け込むやうです。
聲は少しうるんだ甘さで、身扮は綱田屋の愛娘といふにしては、清楚に過ぎるくらゐ。窓框に掛けた手──眞珠色の小さい指で、──ほのかに顫へるのもいぢらしくもありました。
「いろ〳〵訊き度いことがあるが──」
「お願ひいたします。親分さん、あのまゝにして置くと、父は殺されさうで」
玉枝は、いぢらしくも固唾を呑むのです。
「誰か、ひどく親御を怨んでゐる者でもありませんか」
「怨んでゐる者ばかりでございます。安心の出來るのは家の者だけ、門の外へ一と足でも出ると、町内の人達まで、變な眼で見て居ります」
一生懸命さがさせるのでせう、玉枝の口は思ひの外滑らかに動いて、必死と平次を引止めようとするのです。
「そのうちでも一番怨んでゐるのは」
「さア、私にはよくわかりませんが」
娘心を脅やかすのは、まことに頼りない恐怖、──物の影のやうな呪ひだつたのでせう。
「お孃さんに縁談はあるでせうな」
「──」
「許婚──と言つたやうな」
「秋月勘三郎樣──お隣りに住んでゐらつしやいます。でも」
「でも?」
「近頃は父と仲違ひのやうで」
それも一つの疑惑の種でせう。玉枝は斯う言ひきるのが、精一杯と言つた樣子です。
「仲違ひのわけは?」
「私にはわかり兼ねますが」
玉枝はひどく恐縮してしまひました。うつかり餘計なことを言つてしまつた悔が、處女心をさいなんで居る樣子です。
平次はそれ以上に追及する氣を失ひました。惱み拔いて居る樣子は、感情を隱すことの技巧をさへ知らない娘の顏に、雲の如く去來して、聲のない嗚咽が、後から〳〵と、處女の頬を洗ふ涙になつて居るのです。この娘に取つては、父の命を救ふことも大事なら、家中の者から、父の命を狙つて居ると思はれて居る、許婚の秋月勘三郎の冤を雪いで貰ふことも、更に大事だつたに違ひありません。
平次は玉枝に別れて、庭傳ひにグルリと屋敷を廻りました。
丁度主人五郎次郎が投げ槍でやられたあたりへ來ると、急に庭が狹くなつて、窓と塀の間は僅か三間ばかり、眞向うに一つの切戸があつて、久しく人の出入りもなかつたらしく頑固な錠前は錆付いたまゝになつて居ります。
此處からは久しく人の出入りのなかつたことは確かですが、何心なく見上げた平次の眼に恐ろしい疑惑を呼び起したものが一つあつたのです。
それは木戸の丁度眞上あたり、忍び返しが損じて、手をやつて動かして見るとグラグラになつて居り、その下の黒板塀には、明らかに人の足で摺れた跡があることでした。
いや、そればかりではなく、その損じた忍び返しの眞上に、外から覗くやうに冠さつた椎の木の大枝があつて、それを傳つて來れば少し身輕なものなら、外の往來から、樂々と塀の上の忍び返しを越せることがわかつたのです。
平次は思はず膝を打ちました。曲者が外から入つたとすれば、まさに此處です、──が此處から入つたとしても、木戸が錆び付いて開きさうもなく、塀の内からは椎の大枝に飛び付くことなどは思ひも寄らないとなると、忍び込んだ曲者は、何處から逃げ出したか、平次も其處までは謎が解けません。
「ちよいと、若い衆」
「へエ、へエ」
お勝手口の方に、チラリと見えた若い男を平次は呼び留めました。
「お前は」
「喜八と申しますが」
下男には違ひありませんが、二十七八のちよいと好い男です。
「昨夜騷ぎの後で、庭のあたりを見なかつたのか」
「よく見ました。私と粂吉さんと二人で、提灯をつけて、庭の植込みから縁の下まで」
「誰も居なかつたのだらう」
「猫の子一匹居りませんでした」
「裏表の門か切戸が開いてはなかつたのか」
「表門も裏門も、この切戸も、内から嚴重に締つて居りました」
「ところで、お前に訊き度いことがあるが──」
「へエ、へエ」
平次は四方を見廻しましたが、ツイ右手にかなり大きな物置のあるのを見ると、其處に喜八を誘ひ込んで腰をおろしました。
物置は板敷で六坪くらゐはあるでせう、何やら道具類で奧の半分は塞がつて居りますが、入口寄りの方は綺麗に掃き清めて、一部には薄縁などを敷いてあり、南の方に小さい窓が切つてあつて、頭の上は奧の方だけが頑丈な半二階で、其處にもガラクタが入つて居る樣子です。
「此處は大層綺麗ぢやないか」
「旦那は細工物が好きで、ちよいとした指物師くらゐはやります。二本差して居た頃は、内職にやつたものさ──と笑つて居ますが」
喜八は面白さうに説明するのでした。食祿の少ない武家が、内職でそれを補ふのは公然の秘密で、女は手内職から賃仕事、男は釣、細工物、中には稽古事から、芝居の下座で、三味線まで彈いたと言はれて居ります。
綱田屋五郎次郎も、今でこそ江戸で指折の金持ですが、曾て二本差だつた頃は、隨分世帶の苦勞もし、散々鹽を甞めた揚句、武家が嫌になつて兩刀を捨てたのでせう。
一度兩刀は捨てても、小祿の武家生活時代に、世過ぎの足しにした細工物の面白さが忘られず、物置の一部を細工場にして、手作りの箱などを指して樂しんだといふことは、この時代の空氣を知つて居る者には、何んの不自然さもなく享け容れられることでした。
「ところで、お前はまだ若い──人の情事には、よく氣が廻ることだらうな」
座が定まると、平次は妙なことを言ひ出します。
「何んか斯う、からかはれて居るやうですね親分」
喜八はニヤリとなりました。
「お孃さんの許婚の秋月勘三郎さんが、此家の主人と仲違ひをしたさうだが、そのわけを聽き度いのだよ」
「へエ、そんな事が、情事とかゝはりがあるんですか」
「あるよ」
「あつしは何んにも知りやしませんが、人の噂ぢや──お隣りの秋月樣は、小身ながらお役付で御公儀筋に通りが良いので、旦那樣が何んか請負仕事をお願ひ申したさうで、それが都合が惡くなつて、大外れに外れ、元だけが損になつたやうで、自然斯う仲違ひなすつたのぢやありませんか──私は何んにも知りませんがね」
私は何んにも知りませんが、と斷わりながらこの男は、ペラペラと主人の非を鳴らすのです。世間並の金持らしく、派手に高慢に暮して居る綱田屋が、奉公人の心まで囚へることの出來なかつたのも無理はありません。
「で、若いお二人は、どういふことになつたのだ」
「可哀想でしたよ。秋月樣は良い男だし、お孃さんはあの通りのきりやうでせう。生木を割かれちや、目も當てられませんや」
喜八はひどく同情します。二十七八の好い男の下男が、身分の隔てはあるにしても、主人の娘の情事に無關心で居るといふことは想像もされないことです。
「それつきり、二人は神妙に諦めて居るのか」
「飛んでもない親分」
「坊主にも尼にもならずに」
「へツ、大きな聲ぢや言へませんが、お二人は、繁々逢引をして居るとしたらどんなもので──坊主と尼の夫婦雛なんぞ御時世ぢやありませんよ」
喜八は明かに、二人の逢引に興味を持つて居る樣子です。
「あの椎の木に登つて、大枝を傳つて忍び返しを越え、──それからお孃さんの部屋の戸を叩くんだらう」
「親分、まるで見て居たやうで」
喜八は膽を潰しました。
「それから、男の歸る途は何處なんだ。まさか梯子を掛けて、もとの大枝に飛び付かせるわけぢやあるまい」
「お孃さんが裏門をあけて、名殘りを惜しみながらそつと男を出してやるだけのことですよ。へツへツ」
「一伍一什を見て居たのか」
「そんなわけぢやありませんがね、大方そんな事だらうと──」
喜八は大ヘドモドです。が、これで平次は漸く自分の築き上げた想像を完全な姿に畫き上げたわけです。情事には疎い──と八五郎にからかはれ通しの平次は、そんなつまらぬ逢引の驅け引までは氣が付かなかつたのでせう。
裏門から覗くと、路を距てて五六軒の武家屋敷が立ち並び、その一番近いのが、秋月勘三郎の父親、三百五十石の旗本、秋月勘右衞門の屋敷と、下男の喜八は教へてくれます。
「あれは?」
裏門を挾んで、庭の向うにある、小さい建物を平次は指しました。
「お浪人、宇古木兵馬樣と、お孃さんのお勝さんが住んで居ります」
「何んだえ、それは?」
「旦那樣の昔のお知り合ひで、眼がお惡いのと、足もいけないので、お世話をして居ります。世間からは何んとか言はれますが、旦那樣はよくそんな事には氣の廻る方で──」
自慢らしく喜八は言ふのでした。
歩みを移して、その小さい建物の前に立つと、入口の掃除をして居たらしい娘が、
「あツ」
おもかげを殘してサツと家の中へ飛び込んでしまひました。チラと見たところは、小鳥のやうに輕捷で、小鳥のやうに可愛らしいとは思ひましたが、淺黒い顏と、紅い唇の外には纒つた印象もありません。
「御免下さい」
平次が訪づれると、
「何處へ行つたのだ。お勝、お勝」
案外近いところから、少し錆びた聲。娘の答へがないのに焦れた樣子で、自分で入口の障子を開けたのは、四十七八、綱田屋五郎次郎よりは少し老けた、品の良い浪人者でした。
「宇古木樣でせうな」
「ハイ、私が宇古木兵馬で、眼が惡いので、何方樣か、よくわかりませんが──」
宇古木兵馬は心もとない顏を擧げました。兩眼田螺のやうに白く、あらぬ方を見詰めて搜り手に敷居のあたりに腰をすゝめるのです。
やつれ果てては居りますが、細面の引締つた顏立ち、鼻が高くて、唇が締つて、いかにも立派な浪人者でした。
「私は神田の平次といふものですが──」
「あゝ、錢形の親分で」
宇古木兵馬の表情は、一瞬ほぐれました。平次の名前に對して、日頃親しみを感じて居たのでせう。
「綱田屋さんの御災難を、一應調べに來ましたが、心當りはございませんか」
「いや、そんな事は頓と」
宇古木兵馬は、まだ四十臺の若さなのに、年寄りらしく掌を振るのです。
「でも、綱田屋さんを怨んで居る者の心當りくらゐはあるでせう」
「私のためには恩人ですが、世間の評判は良くないやうで、──もう厄過ぎになると、人間は『あの世』の事も考へなきや──などと私も折にふれて意見がましい事も言つて居りますが」
宇古木兵馬は苦笑ひをするのです。物慾に陶醉しきつた人の魂は、名僧智識と雖も、どうすることも出來なかつたでせう。
「宇古木樣と、綱田屋さんは、昔からの御知合ひで?」
「同藩でしたよ。綱田氏は御小姓頭、拙者は御馬廻り役──いや、そんな事を思ひ出すだけが、死兒の齡と申すもので、斯う落ち果てては、未練がましい思ひ出ほど毒なものはない」
沁々と言つて、宇古木兵馬は見えぬ眼を外らせるのです。
「御浪人なさいましたのは?」
「かれこれ十八九年の昔、拙者の不始末で、綱田氏にまで迷惑をかけてな、──その節、危ふく切腹を仰せ付けられるのを、救つて下すつたのは綱田氏──斯樣な姿になつて、橋の袂で下手な謠ひを唸つて居るのを、拾つてくれたのも綱田氏だ。重ね、重ねの宏恩、何時の世に酬いやう當てもない」
宇古木兵馬は涙に濡れて絶句しました。狹くはあるが、住居はまこと清潔で、何んとなく滿ち足りて居るのも、平次の眼にも快よく映ります。
あれほど評判の惡い綱田屋五郎次郎、『自分はもと武家であつた。だから私は武家が憎い』と放言して、武家いぢめの金貨として、惡名を謳はれた彼にも、かう言つた美しい一面が隱されて居ることが、妙に平次を考へさせます。
「今、此處にゐらしつたのは、お孃さんでせうな」
「勝と言ひますよ。十六にもなるのに、飛んだ人見知りで、──これよ、お勝。出て來て御挨拶せぬか」
大きな聲で呼ばれると、ツイ障子の蔭に隱れて居て、知らん顏も出來なかつたものか、恐る恐る半身を出して、頼まれたやうなお辭儀をするのです。
十六と言はれると、いかにもとうなづかれる初々しさですが、それにしても、この娘の新鮮さは、全く非凡の趣があります。小麥色の肌は、あまりつくろはぬせゐで、キリツとした顏立に枝からもぎ取つたばかりの桃の實のやうな銀の生毛、曲線のきつい、可愛らしい唇の反り、蛾眉、鳳眼──といふといかめしくなりますが、さう言つた上品な道具立のうちに、言ふに言はれぬ可愛らしさが漲るのです。
「お孃さんの御縁談は?」
平次は押して訊ねました。娘はハツとした樣子で顏を引つ込め、
「飛んでもない。親の私は乞食のやうに、人樣のお情けで命をつなぐ貧乏人ぢや」
と宇古木兵馬の聲が洞ろに響きます。
外に、昨夜は高輪まで主人の用事で出かけ、泊つて今朝、早く歸つたといふ──掛り人の紅屋粂吉といふのが居りました。結構な身上を道樂で潰し、昔馴染を辿つて此處に轉げ込んだ三十男ですが、いくらか算盤がいけるので、番頭の仲左衞門を援けて、帳合などをしてヘラヘラと暮して居るのです。
ヘラヘラと暮す──といふ言葉は、單に間に合せの形容詞ではなく、この男の日常とまで行かずとも、ほんの二こと三言交へて居ると、世の中に斯んな間に合せな、ヘラヘラした男があつたのか──と、誰でも一應は感心させられてしまひます。
中低の杓子のやうな顏、色白でノツペリして、下唇が突き出して、本人は一かど好い男のつもりなのが、言葉の端々にまで現はれて、まことに以てやりきれない人間です。
この男の話題は、儲かる話と持てた話で、損をした話と振られた話は、この男の口から出た例もありません。
「粂吉さんといふんだつてね。どうだえ、近頃は。大層景氣が好いやうだが」
平次は縁側を通るのをつかまへて、脉を引きました。
「へツ〳〵、大したこともございませんよ、親分」
「女の子の方は?」
「それも、からつきし」
などと所作事の一とこまのやうに、なよ〳〵と手を振るのです。
「お孃さんは、お隣りの秋月さんと生木を割かれて泣いてるさうぢやないか」
「それ程でもございませんよ、親分」
などと、人の情事は輕く見たがるたちです。
「お勝さん──あの宇古木さんのところの──あの娘は良い娘だが、何にか、噂はないのかな。お前なら知つてると思ふんだが」
「へツ、情事の本阿彌と來ましたか、──ね親分、實はあの娘、家中で私が一番親しく口を利いてゐるんですが」
などと言つた調子です。生娘に心安くされるのは、輕くあしらはれて居るとは氣のつかないほど、この男は甘く出來てゐるのでせう。
平次は諦めて縁側を立去りました。
お勝手へ廻ると、其處には下女が二人。お今といふのは四十年配の出戻りで、奉公摺れのした達者な女、お鶴といふのは、二十歳位の小綺麗な女で、これは至つて無口、きりやう好みの主人五郎次郎が、給料にも働きにも構はず、こんな女を雇つて置くのでせう。
何を訊いても、お互に顏を見合せるだけで一向に埒があかず、平次も宜い加減にきり上げて、門の外へフラリと出ると、近所の噂をかき集めて來た八五郎と、ハタと顏が合ひました。
「どうだ、八。骨折甲斐はあつたか」
「ありましたよ。──尤も綱田屋五郎次郎の命を狙つてゐるのは、十人くらゐはありさうで」
歩きながら、八五郎は話し始めました。
「誰と誰だ」
「先づ第一番はあの番頭の仲左衞門」
「へエ?」
「うんと取込んで、妾を二人も飼つて居ますよ。飛んでもない黒鼠で、主人に帳尻を見られると、大變なことになりさうですぜ」
「──」
「それから掛り人の粂吉。あれは馬鹿で横着で、圖々しくて欲張りで、お孃さんの玉枝さんに夢中で、養子になることにきめて居るが、二十三本と書き溜めた色文を見付けられて、主人にうんと叱り飛ばされ、盆の帳合が濟めば、追ひ出されることになつて居るんださうです、──尤も昨夜は確かに高輪に泊つたやうですが」
「それから」
「お孃さんの許婚の秋月勘三郎、お孃さんとの間を割かれて、氣が變になつて居ますよ。これは武藝も相當で、椎の木の上から槍の穗くらゐは飛ばし兼ねませんね」
「あとは?」
「金澤町に住んでゐる浪人佐久間佐太郎、中年者ですがね、綱田屋から金を値りて、切米切手を抵當に入れたは宜いが、それが拂へないばかりに表沙汰にされ、御家人の株まで召上げられた氣の毒な人ですよ、──こいつは何をやり出すかわかりやしません」
「それつきりか」
「まだありますよ」
「早く總仕舞にしな」
「下男の喜八、ちよいと好い男でせう、──あの男が、宇古木樣のお孃さんのお勝さんを物置の後ろで口説いてるところを、物置の仕事場で細工物をして居た主人に、窓からすつかり見られてしまひ、これもすんでのことに首になるところを、奉公人仲間が詫びを入れて助かつたさうで──」
「そんなに多勢の殺し手があつちや、此處で番をして居ても無駄だらう」
「歸るんですか、親分」
「どうも、俺は氣が進まないよ。うんと強い用心棒でも頼むやうに、お前から綱田屋の主人に勸めて置くが宜い」
平次はつく〴〵いやになつたらしく、何のこだはりもなく、明神下の自分の家へ歸つて行くのです。
「もう一つ親分、大事な聽き込みがありますよ」
「何んだえ?」
足を淀ませる平次の側へ、
「綱田屋の主人は四十五六でせう」
「そんなことだらうな」
「あの年で、浮氣が止まないんですつてね」
「獨り者だ、丁度うるさい年ぢやないか」
「ところが、あの主人と來たら、タチが惡いんださうで、近頃は初物あさりで、眼の惡い浪人の娘──」
「宇古木兵馬さんの娘、お勝とか言つた」
「あの娘にチヨツカイを出して居るんですつて、呆れ返るぢやありませんか、──尤もあのお勝といふ娘は大したものですね。紅も白粉もなくてあれだけに見せるんだから、あつしも、最初はお孃さんの玉枝さんびいきだつたが、お勝の方に宗旨を變へようかと思つて居ますよ」
「勝手にするが宜い。お前の宗旨などに構つて居られるものか、俺はもうイヤになつたよ。金持と色氣違ひは、付き合ひ度くねえ」
「へツ、あつしは何方の方で」
「自分できめろ、財布に四文錢が三つ四つ入つて居ると、金持のやうな心持になる野郎だ」
平次は言ひ棄てて足を早めます。
一と月ほど經ちました。七夕が近くなると江戸を包む藪は、一日々々繁くなるばかり。甍の波を渡る、眞夏の風に煽られて、その五色の藪が、カサカサと鳴り渡るのも季節の風情でした。
町中を五色の飾り竹で埋め盡した江戸の七夕祭の盛んな姿は、名所圖繪に僅かに名殘を留めるだけ、今は再現する由もありませんが、七夕からお盆へかけて、町中を有頂天にした行事の數々は、夏の暑さと鬪ひ拔く江戸つ子達を、どんなに勇氣づけてくれたかわかりません。
それは兎も角として、春木町の綱田屋の騷ぎは、それつきりなりを鎭めてしまひました。主人五郎次郎の肩の傷も、二た週りほどで治つて、相變らず因業な稼業を續けながら、細工物などを樂しんで居りますが、お盆が近くなつて、帳面の調べが頻繁になるにつれて、番頭仲左衞門と、主人五郎次郎の仲に、妙なこだはりを生じて行くのが、誰の眼にもはつきりして來ました。
番頭は恐ろしく強氣なくせに、一面ひどく逃げ腰なところがあり、主人は物柔かに見えてゐて、次第々々に攻め手を引締めて、追及の網を絞つて行く樣子です。
この二人の間に、大きな破綻が來るのは、眼に見えて居りました。が、その一歩手前で又不思議な事件が突發したのです。
「わツ、親分、大變」
八五郎の大變が、二百十日の嵐のやうに、平次の閑居を襲ひました。それは七月五日の朝のことです。
「驚くぜ、八。頼むからその大變だけは止してくれ。この二三日小遣の水の手がきれて、好きな煙草も買へねえから、でつかい虫が起きてゐるんだ」
「でつかい虫ですつて?」
八五郎は平次の懷中のあたりを覗くのです。
「お靜は自分の袢纒を持つて、横町のお藏まで飛んで行つたよ。歸りに五匁玉一つと、一升ブラ下げて來る寸法さ。虫押への禁呪は外にあるわけはねえ。日の暮れる前に始めようぜ、八」
そんな事を言ふ平次です。
「殺生だなア、そんな酒は呑めるもんぢやありませんよ、──姐さんも人が好過ぎる」
などと一かどの事を言ひながら、五匁玉を一人で煙にして、一升の三分の二までは自分で平らげるのが、彼八五郎の習性でもありました。
「ところで、大變は何處へ來たんだ。路地の外へ立たして置いちや惡いぜ」
「へツ、相變らず無精をきめ度いんでせうが、今日の大變は他所行の大變ですよ」
「何が他所行だえ」
「春木町綱田屋五郎次郎、今度は間違ひもなく死にましたぜ。殺されたかどうか、まだわからないが、自害や病死でないことだけは確かで」
「どうして死んだのだ」
「あの物置の細工場で細工物をして居るところへ、頭の上から臼が落ちて來たんですつて──昨夜のことですよ」
「頭へ臼?」
「暮に餅を搗かせる大臼、三十貫もあるのが、あの頭の上の半二階へ載つて居たんです。それが轉げ落ちちや一とたまりもありませんや、綱田屋五郎次郎、首の骨を折つて一ぺんにキユーツと參つた」
「まるで猿蟹合戰だ」
「猿蟹合戰?」
「始めは花火玉で、次は槍の穗で、今度は臼だらう」
「へエ?」
「昔噺で行くと、どん粟と蜂と臼ぢやないか、──念入りに企らんだな。畜生、人を甞めた野郎だ。行つて見よう、八」
二人はお靜の歸るのも待たず、家を開け放した儘、隣りの小母さんに聲を掛けて飛び出しました。江戸市民生活の呑氣さです。
春木町の綱田屋は、恐怖と焦燥を押し包んで、凄まじい靜寂さに占領されて居りました。二人、三人と、ところ〴〵に首を鳩めながら、大きい聲で物も言へないやうな、不思議な壓迫感は、家中の者をすつかり縮み上がらせて、不吉な風が、眞夏の家中へ、隙間といふ隙間から、人々の肌に迫つて居るのでした。
「あ、親分方」
平次と八五郎を迎へた番頭の仲左衞門は、土壇場に引据ゑられた囚人のやうに、引歪んだ顏をして居ります。
「兎も角も佛樣を」
平次は仲左衞門を追つ立てるやうに、いつぞやの主人の部屋、奧の八疊に案内させました。
半日以上經つて居るので、まだ入棺前ではあるにしても、佛樣の恰好は付いて居りました。その部屋の隅に、絶え入るばかりに泣き伏して居るのは、言ふまでもなく娘の玉枝、兎角の噂があつたにしても、この娘に取つてはたつた一人の親で、その鍾愛もまた並大抵ではなかつたらしく、悲歎に暮れる姿は、日頃の嗜みも忘れて、まことに哀れ深いものでした。
それに附き添つて、宥めて居るのは、宇古木兵馬の娘お勝、二人は若い者同士で、平常から仲がよかつたのでせう。
平次は線香をあげて、死骸を一と通り調べました。細工場で俯向いたまゝの後頭部をやられたらしく、腦骨を碎いて首が肩にめり込み、六穴から血を噴いて、まことに目も當てられぬ凄まじい死に樣です。
「物置を」
一應死體を見了つた平次は、座下駄をはいて心覺えの裏へ廻りました。物置の中はまだ手が廻らなかつたか、それとも檢屍を待つたのか、全く昨夜のまゝで、二階から落ちた臼は血潮と道具類の上へ、死の自若さで据ゑられて居ります。
上を仰ぐと、此處から轉がり落ちましたと言はぬばかりに口を開く二階。
「臼は横に置いてあつたのかな」
平次は後ろに跟いて來た仲左衞門に訊ねました。
「そんな筈はないと思ひますが、二階へ臼を載せた喜八に訊いて見ませう」
喜八は間もなく呼び出されました。仲左衞門から、平次の問ひを取次ぐと、
「飛んでもない、そんな危ない物を横に置く者があるものですか。去年の暮餅搗が濟んだ後で、鳶頭に手傳つて貰つて、梯子を滑らせながら、大骨折で押しあげましたが、その時は間違ひもなく、埃が入らないやうに、伏せて置いた筈ですよ。嘘だと思つたら、鳶頭に訊いて下さい」
喜八は少し躍起となるのです。頭の上の二階へ、大臼を横に置くといふことは、常識的には考へられないことで、これは喜八の言ふのを信ずるのが當然でせう。
「八、梯子を借りて來てくれ」
「へエ」
飛んで行つた八五郎は、九つ梯子を引つ擔いで持つて來ました。
「少し長過ぎるが、二階へ掛けてくれ。おや、おや、梯子の足の跡があるぢやないか。土が乾いてゐるからよく見えないが、それでも二つ揃つて三角にめり込んで居るのは、梯子の足の外にない──それを除けて掛けるんだ」
「あつしが乘つて見ませう」
八五郎は氣輕に梯子を踏んで、二階を覗きました。
「大變な埃だらう」
下から平次。
「足跡だらけですよ。草履の跡だから、人別はわからねえが」
「足跡の人別といふ奴があるかえ」
「臼は矢つ張り竪に伏せてあつたんですね、半歳前の跡だから間違ひはありません。その前に臼を横にした跡があつて、二本の繩の跡が──」
「何? 二本の繩の跡、──降りて來い。俺も見て置く」
平次は八五郎と入れ替りました。物置の二階の板の間には、曾て竪に臼を置いた跡も、その前に倒した跡も、その臼を前へ轉がして落すために仕掛けた繩の跡も、そして、心の亂れをそのままに燒きつけたやうな、亂るゝ草履のあともはつきり讀めるのです。
平次は早速家中の草履を集めさせました。が裏金の雪駄以外は、どの草履も同じことで足跡のサイズには、何んの差別もありません。
錢形平次は全身の血が逆流するやうな感じでした。非道な金貸しを、花火玉で脅かしたのはまだ惡戲で濟まないことはなく、續いて起つた槍の穗も、肩に淺い傷を負はせただけで、大した問題にする程のこともなかつたのですが、最後の臼の詭計に至つては、許すべからざる企らみの深さを思はせるのです。
それから、明らかに、猿蟹合戰の段取で、子供の惡戲のやうな、人を喰つたやり方です。一番殘酷な殺しを、用意周到に、萬に一つの間違ひもなく、陰險極まる方法でやり遂げてしまつたのでした。
平次は最初から關係して居るだけに、自分が馬鹿にされて居るとしか思へず、何が何んでも、この下手人を擧げてやらうと、密かに心に誓つたのも無理のないことでした。
「綱は何處から引いたか見定めよう」
平次はもう一度梯子に乘りましたが、それはわけもなくわかつてしまひました。二階の前、太い長押が一本通つて、その中程に埃の摺れたあとがはつきりして居るのです。
「八、向うの青桐の根元と、その枝を見てくれ。その邊から長押を越して、臼の向ふ側に噛ませた綱を引くと、臼は面白いやうに轉がつて落ちるよ」
「あ、青桐の大枝の皮が剥けて居ますよ、──土が乾ききつて居るから、足跡はないが」
「よし〳〵、そんな事で澤山だらう。今度は綱を搜すばかりだ、物置の奧に投り込んであるだらう、青桐の幹に摺れて、青くなつて居るところがある筈だから、直ぐわかると思ふが──」
それは平次の言ふ通りでした。物置の奧のガラクタの中から、その要領にはまつた、手頃の綱──長さ五六間もあるのが見付かつたのです。
「それから、親分」
「急くな、八、いろ〳〵仕事がある。一番先に氣の付いたのは誰だ」
「あつしで。お勝手口に居ると、恐ろしい物音がしたので、飛んで來ましたが」
それは下男の喜八でした。
「綱を見なかつたのか」
「そんなものは見ません」
「お前の次は?」
「びつくりして大きな聲を出すと、お今さんとお鶴さんが飛んで來ました。それから宇古木さんが、四つん這ひになつて──足が惡いでせう、あの方は。それに眼が惡いから、邪魔になるだけで、大した役には立ちませんが、主人が臼に打たれて死んでゐると教へると、暫らくヂツとして物も言へなかつた樣です」
「施主に死なれちや、この先の暮しをどうしようと、考へ込んだことだらう」
後ろから毒を言ふのは、ヘラヘラの粂吉でした。
「何んて口を利きやがるんだ、──今しがた覗いて見ると、あの武家は思ひ出したやうに時々涙を拭いて居たぜ。主人が死んでも、輕口を止さないお前のやうなヘラヘラ野郎とは出來が違はア」
それは下男の喜八でした。この男の純情が粂吉の惡魔的な毒舌を封じてしまつたことは言ふまでもありません。
「昨夜は、家中の者は皆んな揃つて居たのか」
平次は改めて一同を見渡しました。
「皆んな居りました──さう〳〵粂吉どんは三日前から小田原の貸金の取立てに行き、先刻歸つたばかりですが」
それは仲左衞門です。
「尤も、仕掛けは前の晩でも出來るわけだが」
平次は自分の問ひの馬鹿々々しさに氣が付いた樣子です。二階に置いた縱の臼が横になつて居たところで、綱が一本、長押の上を青桐の大枝まで、葉隱れに引つ張つてあつたところで、並大抵のことでは氣のつく筈もありません。
「私の娘が本所の叔母のところへ參り、泊つて今朝戻りましたが──」
何處で聞いて居たか、靜かに口を挾むのは宇古木兵馬でした。
「本所の叔母さんといふと?」
「相生町の小左衞門長屋、浪人前島左近の配偶ぢや──この前の騷ぎの時も娘は留守であつたが」
宇古木兵馬の答へには何んの淀みもありません。
「外には?」
「番頭さんが湯へ行つたぢやありませんか」
それは喜八でした。
「あ、さう〳〵。さう言へばお前は、煙草がきれたと言つて、暫らく出たやうだが」
まさに仲左衞門のしつぺい返しです。
斯うなると、完全な不在證明を持つて居るものは粂吉の外にはなく、事件は相變らず混沌たる姿のまゝ、もとの振り出しへ戻る外はありません。
「親分、まるで見當が付かなくなりましたね」
樂天家の八五郎も、事件の探索が、ハタと行止り路地に入つたことを感じないわけに行かなかつたのです。
「いや、下手人の見當は付いて居る、考へ拔いた企みだ、──猿蟹合戰の筋書通り、──一度綱田屋の主人に、柿の種と握り飯を換へられた者の仕業だ」
柿の種と握り飯、それはどういふ意味になるでせう。
「お隣りの秋月樣が、お悔みに見えましたよ、親分」
粂吉は、そつと囁きました。旗本秋月勘右衞門の總領勘三郎、若いが役付きで、聞えた美男でもありました。
父親の勘右衞門は老病で、この春隱居をし、秋月家は若い勘三郎が當主ですが、一度綱田屋五郎次郎の怒りに觸れて、許婚の仲の玉枝と引割かれたとは言つても、斯うなつた上は、いづれは一緒になる運命でせう。
「秋月樣、少々物を伺ひますが」
平次はその歸途を擁して、門の側で呼留めました。
「──」
「私は町方の御用を承はる、神田の平次と申すもので、綱田屋さんの變死について、いろ〳〵取調べて居りますが」
「──」
秋月勘三郎は默つて平次を見据ゑて居ります。すぐれて高い背、拔群の好い男振りで、戀故でなければ、人目を忍ぶやうなことの出來る人柄とも思はれません。
「外ではございません。昨夜と六月五日の晩に、何にか御氣付きのことはございませんか。お屋敷は塀隣りで、綱田屋主人の部屋は、庭の切戸の前になつて居りますが」
「何んにも氣が付かぬよ」
秋月勘三郎の言葉は噛んで吐き出すやうでした。岡つ引風情に立入つたことを訊かれる不快さと、逢引きの冒險の一埒──武士としてあるまじき恥かしい所業を、いくらかでも嗅ぎつけて居るらしい平次の口吻が癪にさはつた樣子です。
「奉公人のうちの一人が、時々夜分にあの青桐の枝を傳はつて、この庭に忍び込む者があると申しますが」
平次は到頭突つ込んでしまひました。
「それが拙者と何んの關係があると申すのだ」
秋月勘三郎は平次に二の句を繼がせませんでした。パツと袂を拂ふと、後をも見ずに、眞一文字に自分の家の門に消え込むのです。
「チエツ、だから俺は二本差が嫌ひさ。女の子と逢つたら逢つたで宜いぢやないか」
八五郎はブリブリして居ります。
「でも、白状したも同じことさ、顏色が變つたぜ。もう少し鷹揚な心持になつて、あの晩庭で人影を見たとか、それが女であつたとか何んとか話してくれても宜ささうなものだが、若いから無理もないけれど」
「忍ぶ戀路と來たね。あつしなら節をつけて、町内中を觸れて歩く」
「だからお前には女が出來ないのだよ」
「違げえねえ」
又も話が埒もなくなります。
「今度は佐久間佐太郎といふ浪人者だ。金澤町まで行くか、八」
「何處でも行きますが、二本差と來た日にや、こちとらの俎板には載りませんよ」
だが、佐久間佐太郎は豫想外でした。金澤町のとある路地の奧、二た間の長屋に膝小僧を抱いて逼塞してゐる四十年輩の浪人者は、よく來た──とばかりに、惡罵と呪の嵐を浴びせるのです。
「いや、錢形の親分の前だが、綱田屋五郎次郎が殺されたと聞いて清々したよ。誰も殺し手がなきや、俺が殺す筈だつたが、少し油斷をして居るうちに先鞭をつけられて、あたら溜飮を下げそこねたわけだよ」
青髯の凄まじい男、貧乏臭くて無精で、一寸寄りつけさうもない人柄です。
「大層御立腹ですね」
合槌を打つのが、平次にも精々。
「あんな惡黨はないよ。昔は二本差だつたか知らぬが、強慾で恥知らずで、全く人面獸心とはあの男のことだ。拙者火急のことで切米手形を抵當に僅か五十兩の金を借りると、期限前から催促だ。五日か七日約束の日に遲れると、恐れながらと、その切米手形を持込んで龍の口へ訴へ出る野郎だ。親分も知つて居るだらう、直參の切米手形は首から二番目の大事な品で、それを紛失しただけでも輕くて閉門、重くて追放だ。まして高利の金貸へ抵當に入れて無事で濟むわけはない。拙者切腹を仰せ付けられなかつたのが、見付けものと言つて宜いくらゐ。いや、この怨み骨髓に徹して忘れる隙もない、いづれは叩き斬つて溜飮を下げるつもりで居た拙者だ。親分の都合次第では隨分拙者が下手人になつても宜い、──拙者が綱田屋を殺したとなると、あの男のためにひどい眼に逢つてゐる仲間は、いや喜ぶぞ」
手の付けやうがありません。
「では、いづれ、又」
とか何んとか、平次と八五郎は、眼と眼で喋し合せて、這々の體で逃げ出す外はなかつたのです。
外へ出ると、
「これから、どうしたものでせう親分」
八五郎は心細いことを言ひます。平次と一緒に仕事をして、こんな深刻な敗北感を味はつたことはありません。
「まだ打たない手が三つ四つある」
「何んでもやらして下さい。あつしはもう、腹が立つて、腹が立つて」
「猿蟹合戰に敗けちや見つともない。宜いか、八、三四人下つ引を狩り出して、今日中にこれだけの事を調べてくれ」
「へエ」
「綱田屋では、今年の川開きに行つたかどうか。行つたら、誰と誰が、何處で見物したか、先づそれを訊くんだ」
「それから」
「あの槍の穗は何處から出た品か、名槍だけに、いつかわかる折があると思ふ。その次は宇古木兵馬の身許を調べるのだ。相生町の小左衞門店の浪人前島左近といふ人に訊くが宜い」
「それつきりですか、親分」
「まずそんな事だ、──槍の穗はお前が持つて行つて皆んなに見せるが宜い」
「親分、それぢや」
八五郎は悲愴な心持で、新しいスタートに立つのでした。
八五郎が報告を持つて來たのは、その翌る日も暗くなつてからでした。
「親分、皆んなわかりましたよ」
「そいつは大した手柄だ、先づ腹でも拵へながら話すが宜い」
「へツ、思ひやりがあるね、親分」
「お前のことだ、相變らず、空つ尻で飛び廻つたことだらう」
「お察しの通りで、──ところで、大事の話から始めませう。──今年の川開きに、綱田屋は船を出しましたよ。川甚の小さい船で、乘込んだのは、主人の五郎次郎とお孃さんの玉枝さん、それに下女のお鶴に、あのヘラヘラ野郎の手代粂吉」
「船へ花火の不發玉が落ちなかつたか、お前は訊かなかつたことだらうな」
「下女のお鶴はそんな事も言つて居ましたよ。花火が揚がると直ぐ、舳にどしんと落ちた物があつたが、それつきり見えなかつた。多分不發玉が落ちて、彈ね返つて川へ落ちたことだらう──つて主人が言つて居たさうで」
「その舳に粂吉が乘つて居たと思ふが──」
「その通りですよ」
「よし〳〵、それから」
「槍の穗は宇古木家に傳はる、何んとかの名槍ださうですよ。相生町の前島左近の配偶──宇古木兵馬の義理の妹が言ふんだから間違ひはありません」
「それから?」
「宇古木兵馬も綱田五郎次郎も、九州のさる大藩の同家中で、無二の間だつたと言ひますが、宇古木兵馬が間違ひを起して、危ふくお手討になるところを綱田五郎次郎に助けられ、その恩義に感じて、許婚の娘を讓つたのが、後の綱田屋の女房で、玉枝の母親、十年前に亡くなつたお雪といふ人ださうです。この人は綺麗だつたさうですよ。玉枝そつくりと言ひ度いが、あれよりも立優つて居たと、叔母さんの言葉だから、これも嘘はないでせう」
「よしツ、それでわかつたぞ。來い八」
平次と八五郎は、春木町まで一散に飛んだことは言ふ迄もありません。
「ちよいと、平次だが、明けてくれ」
表の戸を叩くと、
「へエ、へエ、ちよいとお待ち下さい」
などと愛想よく開けたのは、ヘラヘラの粂吉でした。
「野郎、御用だぞ」
その肩のあたりをハタと打つ十手。
「あツ、私、私は何んにも知らない」
ヘタヘタと崩折れる粂吉の襟髮を、八五郎が無手と押へました。
「船に落ちた花火玉を拾つて來て、爐に仕込んだのはお前ぢやないか」
「それは惡戲ですよ、親分」
「惡戲も念が入り過ぎた、まかり間違へば命にかゝはる」
「でも、親分」
「その上槍の穗を飛ばして主人に怪我をさせ、臼を落して主人を殺したのは、お前でないとは言はれまい」
「違ふ、違ひますよ親分。あの時私は高輪の石澤樣に泊つて居たし、二度目は川崎の徳田屋に泊つて居ました。人をやつて調べて下さい。私は一と晩一と足も外へは出ない」
悲しいことにそれは本當でした。平次はもう二三日前にそれを確めて居たのです。
「では、主人を殺したのは誰だ、野郎」
八五郎の馬鹿力は、グイグイと粂吉の襟髮をさいなみますが、粂吉からは、これ以上絞れさうもありません。
「私は知らない、何んにも知らない。槍の穗が飛んだ晩と、臼が落ちた晩、この家に居なかつたのは私とお勝さんだけだ」
「何? お勝が二た晩とも此處に居なかつたといふのか」
「相生町の叔母さんのところへ行つた筈ですよ。二た晩とも──それから、今晩も行つたやうですが」
それは番頭の仲左衞門でした。
「そいつは初めて聽くぞ。──ね、番頭さん。あの宇古木兵馬といふ御浪人を、お前さんは昔から知つて居るだらうな」
平次は番頭の仲左衞門を顧みました。ドカドカと店に出た家中の顏の中に、それは一番分別臭く尤もらしく平次の眼に映つたのです。
「よく存じて居ります」
「あの人は、當家の主人を怨んでは居なかつたのかな」
「飛んでもない、口癖のやうに、生命の恩人だと申して居りました。尤も、御當家の亡くなつた御内儀は、昔、宇古木樣の許婚だつたと申すことで、本心のところはよくわかりませんが」
「あの人の眼は本當に見えないのだらうな」
「ほんの少し、隅の方から見えるといふことですが」
「足は?」
「足は中年からの骨の患ひで、ひどい跛足を引けば、歩けないことはありません」
「八、わかつた」
平次は不意に立上がりました。
「何んです、親分」
「俺はあの眼に騙されて居たのだ、瞳に霞が入つた眼だ。次第に惡くなるには決つて居るだらうが、その惡くなる途中で、隅から少しは見えることもあると──眼醫者に話を聽いたことがある」
「すると、あの盲目の浪人者が」
「綱田屋五郎次郎が柿の種をやつて握り飯を取上げたに違ひあるまい。握り飯は玉枝の母親のお雪さんといふ美しい女だ」
「──」
「粂吉が花火玉で惡戲をしたと知つて、それに續いて槍を飛ばしたり、臼を落したり、猿蟹合戰をやつて、昔の怨みを晴らす氣だつたに違ひあるまい」
「──」
「槍の穗は、少しばかりの灯を目當に投つて見事狙ひが狂つたが、目のまだ見える時見定めて置いた臼を使つての細工は、少し跛足でも眼が不自由でも出來る」
「娘のお勝を二た晩とも相生町に追ひやつたのは、その留守に仕掛けるつもりだつた」
平次は言葉せはしく説明しながら、店から飛び出すと一氣に裏へ廻るのでした。
が、裏へ出て驚きました。
「あツ」
錢形平次は一歩遲れました。其處へ立ち竦んだまゝ、暫らくは呆氣に取られるばかりです。
宇古木兵馬は、その晩娘のお勝を相生町にやる時、その手に托して、母屋に居る綱田屋五郎次郎の遺子、玉枝に手紙を渡させました。手紙の文句には、どんな事が書いてあつたかそれはわかりませんが、兎も角も玉枝は、戌刻半(九時)過ぎになつて、そつと離屋に宇古木兵馬を訪ねたことは事實でした。
「小父樣、──あの私、玉枝」
玉枝の聲は小さいが、實によく透りました。
「お、玉枝殿か、よく來て下すつた」
主人の宇古木兵馬は、手さぐりに戸を開けて、娘の手を取らぬばかりに、もとの座に返るのです。
「何にか、御用? 小父樣」
「ちよつと、お待ち下され。誰も聽く者はないか、外の樣子を見て參る」
「お眼が惡るいのに、大丈夫でせうか」
「いや馴れて居るから、その心配は無用ぢや」
宇古木兵馬は、又手搜りで外へ出ると、暫らく何やらやつて居りましたが、間もなく引返して來て、灯の下に玉枝と相對したのです。
「小父樣御用は?」
宇古本兵馬の突き詰めた顏を見ると、玉枝は少し怖くなつた樣子で、斯う膝をすゝめました。
「玉枝殿──父上綱田屋五郎次郎殿は人手に掛つて非業の最期を遜げた。積惡の酬いぢや、──斯く言ふ宇古木兵馬も、今から十八年前、五郎次郎に欺かれて、主君の怒りを招き、危ふく御手討になるところを、五郎次郎は自分の非を隱して拙者に恩を賣り、命の恩人になりすまして、この兵馬の許婚を奪ひ取つた──義理に絡んでの惡企み、私如き智慧のない者では、施こしやうもなかつた──」
「──」
「その許婚といふのは、この兵馬と深く契つた女──玉枝殿の母親のお雪殿であつたよ」
「──」
「五郎次郎の爲に、身分も家も許婚まで喪つた拙者が、橋の袂で謠を歌つて居るのを、五郎次郎は見付けて情らしく拾ひ上げた。その五郎次郎に怨みはあつても恩がある筈はない。いつかはこの怨みを思ひ知らせてやる氣で、隙を狙つて居るうちに、眼病に取つかれ、その上の足萎えでは、怨みを晴らす見込みもなく、うか〳〵と今まで過してしまつたのだ」
「──」
「玉枝殿、今はもう、おん身の父親、あの無類の惡人、五郎次郎も死んでしまつた、──宇古木兵馬最早この世に望みはない、せめて、せめて──」
「──」
「お雪殿の生んだ、怨敵五郎次郎の胤と、此處で最期を遂げ、惡逆非道の裔をこの世から亡ぼすのが、せめてもの望みだ。怨んでくれるなよ、玉枝殿」
「あ、あゝれ、小父樣」
玉枝は立上がりました。が、この時はもう、先刻宇古木兵馬が、離屋の八方に積んで置いた藁や柴や、存分な燃え草に放つた火が、四方の窓、壁を燃え拔いて、二人の身邊にメラメラと迫るのです。
「お、火、火、明るいぞ。俺の眼が、不思議に見える。玉枝殿、──いや、お前はお雪殿ではないか。十八年前の、お雪殿そつくりではないか──逃げてはならぬ、一緒に死ぬのだ。一緒に、この兵馬と」
宇古木兵馬は逃げ惑ふ玉枝を引寄せ、その細腰を抱いて、顏と顏を摺り寄せるやうに、見えぬ目を見張つて、斷末魔の迷ひを呟くのです。
「小父樣、──いえ、お父樣、逃げはしません。母が十年前に亡くなる時、そつと私に言ひ遺しました。──お前は綱田五郎次郎樣の子ではない。實は、實は、私が十八年前に深く契つた、宇古木兵馬樣の子──と」
「な、な、何んといふ、玉枝殿。それは嘘、嘘だ」
「お父樣、今死ぬ私は嘘を申しませうか」
「では、もつとよく顏を見せえ、お前には、──さう言へば、五郎次郎の刻薄無殘な人相は少しも傳はつて居ない」
「お父樣、私は、私は死んでも嬉しい」
「いや、さう聽けば、滅多に死なせることではないぞ、──熱い、離屋の中はもう火の海だが、何處か逃げ道はないか。せめて、お前だけでも助けてやり度い」
四方の壁を燃え拔いた焔は、この時どつと襲ひかゝつて、最早助かる術もないと見えました。
中はもう焦熱地獄、吐く息も焔になりさうで、新しい世界を見出した不思議な縁の父と娘が、犇々と相抱いたまゝ、瞬一瞬と迫る、死の手を待つ外はなかつたのです。
「惡かつた。私が惡かつたのだ、人を呪ひ過ぎた、──罰は自分へ當たるのは構はないが、──何んとしても、玉枝、お前だけは助け度い」
「お父樣、一緒に」
「いや、──死んではならぬ。この懷ろへ入れ、この私の身體は燒けても、お前だけは助けてやるぞ」
それは併し空しい努力でした。焔は天井を甞め、床板を這つて、ジリジリと二人の身近に死の舌を近づけるのです。
丁度その時、入口のあたりから、どつと一條の瀧──と見たのは、手桶と、盥と、龍吐水と、一緒に動員した救ひの水。
「それ、もう一と息」
外から高々と號令をかけて居るのは、錢形平次の勇ましい聲でした。
宇古木兵馬と玉枝は、殆んど無傷のまゝ、平次の手に救ひ出されました。
「親分、助かつて見れば、あの盲目の浪人者を縛らなきやなりませんね」
八五郎は、濡れ鼠になつた兵馬玉枝の姿を哀れと見ながらも、職業意識に目ざめないわけには行かなかつたのです。
「いや、俺は、離屋の中の二人の話を聽き過ぎて、危ふく救ひの手が遲くなる所だつたよ」
「?」
「もう一度やり直しだ。──宇古木兵馬さんは下手人ぢやない」
「すると親分」
八五郎はこの時程面喰つた事はありません。
「手剛いぞ、八。逃げ出す奴を縛れ」
「誰です、それは」
「宇古木さんの槍の穗を盜み出した奴、武藝のたしなみのある奴、足腰の達者な奴、二た晩ともこの家に居た奴、主人の金をうんと費ひ込んでる奴、粂吉の惡戲を見拔いた奴、妾を二人も持つてる奴──あツ逃げたぞ、八」
パツと逃げ出す人影へ、
「野郎、神妙にしやがれ」
八五郎が無手と組付きました。この爭ひは短かくて激しいものでしたが、平次が手傳つて、灯の中に擧げさした顏を見ると、それはあの番頭の仲左衞門の齒を食ひしばつた惡相だつたのです。
× × ×
この事件は簡單で明瞭で、八五郎も繪解きに及ばず呑込んでしまひました。粂吉の花火の惡戲の惡魔的な思ひ付きに誘はれて、猿蟹合戰に仕立て、深怨のある者の仕業と見せた仲左衞門の惡賢こさは、さすがの平次も舌を卷きましたが、解決して見ると、この上もなくあつけない事件です。たゞ、槍の穗を盜まれた宇古木兵馬が、それを言はなかつたのが手落ちでしたが、つまらぬ疑ひを避けた兵馬の用心がかへつて惡かつたとも言へるのでせう。
玉枝は不義の寶を捨てて秋月家に嫁入り、宇古木兵馬と腹違ひの妹お勝を引取つたのは後の話です。兵馬は兩眼を失ひましたが、一度に二人の娘を儲けたやうな氣がして、この上もなく幸福さうでした。そして下男の喜八は、やがて秋月家の家來に取立てられ、お勝と一緒になることに、誰も異存のある者もありません。
底本:「錢形平次捕物全集第二十七卷 猿蟹合戰」同光社
1954(昭和29)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1950(昭和25)年8月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「惡戯」と「惡戲」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年4月18日作成
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