錢形平次捕物控
凉み船
野村胡堂




 兩國橋を中心に、大川の水の上にくりひろげられた夏の夜の大歡樂の中を、龜澤町の家主里見屋吉兵衞の凉み船は、上手へ、上手へと漕いで行きました。

 船は大型の屋形で、乘つて居るのは主人吉兵衞、娘お清、養子の喜三郎、番頭周助、それにお長屋の衆が五六人野幇間のだいこの善吉に、藝者が二人、船頭が二人、總計十四人といふ多勢で、三味と太鼓の大狂躁曲に、四方あたりの船を辟易へきえきさせ乍ら、さながら通り魔のやうに白髯しらひげのあたりまで漕ぎ上つたのです。

 夜は暗く、雨模樣でさへありました。六月二十二日の月はまだ昇らず、意地惡く風さへ死んで、飮んで騷いで大汗になつて、このすゞみはまことに散々でしたが、アルコールがゆき渡ると、それさへも忘れて、恐るべき出鱈目でたらめ騷ぎが次から次へと、天才的な飛躍で展開するのです。

 この狂躁曲の演出者は、野幇間のだいこの善吉で、藝者の粂吉くめきちとお吉がその助手。それに女小間物屋のおけさ、その娘のお六、指物職人の勘太、その妹分のお榮など、いづれも申分のない藝達者でした。

 これだけ藝達者が揃ふと、小唄や爪彈つまびきや、ほろ醉ひや膝枕ひざまくらの情緒を樂しむ、しんねこ趣味の船はむしろ邪魔つ氣で、白髯まで伸して、川幅一パイに騷ぐのもまた一つの馬鹿々々しい境地だつたのです。

「あゝくたびれた。まるで御馬前に討死の覺悟でやつてるやうなものだ、安い日當ぢや斯うはかせげねえよ」

 野幇間の善吉は、良い年をして居る癖に、おへそで煙草を吸はせて、お尻に彦徳ひよつとこの面を冠せて、逆立ちになつてかつぽれを踊つて、婆ア藝者のお粂とけんを打つて、ヘトヘトに疲れると、お燗番かんばんの周助にねだつて、湯呑で一杯あふつて斯んな憎い口をきくのです。

 妙に生温かいと思つたら、夕立の來る前觸れでもあつたのでせう。金龍山の堂の上あたりで、遠稻妻いなづまが一と打ち二た打ち、それを合圖のやうに、サツとオゾンの匂ひのする突風が吹いて來ると、屋根船の灯の半分を消して、軒に提げた提灯も幾つかは吹き落されてしまひました。

「あツ、怖い」

「もう歸りませうよ」

 若い女達の騷ぐのへ押ツ冠せるやうに、

「雨なんか來るものか、──まだ早いよ。おかんを直して改めて飮み直さう」

 養子の喜三郎、良い男で道樂者で、精力的で押が強くて、遊びに飽きることを知らないのが聲を掛けると、撥條ぜんまいを卷かれた竹田人形のやうに、一座の人數は再び勇氣を取り戻して、歡樂の殘滓かすの追求に立ち直るのでした。

「酒だ、酒だ」

 野幇間の善吉がそれに應じました。

「此處で用意したなだ一本を開けよう、──善公なんかに呑ませちや勿體ないくらゐの酒だが、お仕着せに一本づつだぜ」

 喜三郎は最初の一本──赤い紐で徳利の口に目印をつけたのを、養父の吉兵衞にすゝめて、あとは一本づつ男の膳に配らせました。それが一巡りゆき渡ると、又もあふられたやうに、亂痴氣騷ぎが蘇生よみがへるのです。

 浪人者出石いづし五郎左衞門は、下手なうたひを始めました。名前は恐ろしく立派ですが、五十二、三の鹽垂しほたれた中老人で、里見屋の長屋に住んで、家主吉兵衞のの相手などをして、細々と暮して居る、影の薄い二本差です。

「こいつは三味線に乘りつこはねえや。此方は一番すてゝこと行かうか、お家の藝だぜ」

 善吉はフラフラと立ち上がりました。

「駄目よ、師匠は醉つて居るから、──あ、あ、それ御覽、お膳を穿いてしまつたぢやないか」

 おくめに叱られ乍ら、善吉は膳の上を這ひ廻つて居ります。

 丁度その時でした。又一陣の突風がサツと吹いて來ると、すだれを中空に卷き上げて、殘る灯を全部吹き消してしまつたのです。

「あ、あかりがみんな消えたぢやないか。誰か、火打道具の用意はないのか」

 主人吉兵衞の聲が船の中程からかゝると、

「へエへエ唯今、硫黄附木いわうつけぎがありますから、七輪の火からすぐ附けられます」

 ともの方から答へるのは、お燗番の周助でした。

 その灯がなか〳〵手輕るに提灯や手燭には點かず、船中を硫黄臭くして居る最中、

「あ、わツ」

 不思議な絶叫と共に、凄まじい水の音がして、船の中まで飛沫しぶきましたが、やがてその音もハタと止んで周助の手に灯の入つた提灯がかゝげられると、船の中の一箇所、齒の拔けたやうに人が缺けて居るのです。

「若旦那が見えないぢやないか」

 小間物屋のおかみで、おけさといふ中年女は若旦那の喜三郎と向ひ合つて居たので一番先に氣が付きました。

「お手水場てうづばぢやないか」

 野幇間の善吉は、けろりとして膳を穿いたまゝ、氣のない顏を擧げました。

「船の上だよ、お前さん」

 それをたしなめるやうにおけさ四方あたりを見廻します。

「さう言へばツイ今しがた、──水の音がしたやうだが──私は魚がはねるのかと思つたけれど」

 年増藝者のお粂でした。

「川なら大丈夫で。河童かつぱの申し子と言はれた若旦那ですよ、今に龍宮からお土産を持つて來ますぜ」

 番頭の周助は柄にもない洒落しやれたことを言ひます。

「それにしても、斯う暗くちや」

 出石いづし五郎左衞門でした。間もなく船中の灯はみんな點けられ、船は二人の船頭にがれて、下手へ〳〵と少しづつ動いて行きましたが、若旦那喜三郎は矢張り川へ落ちたらしく、それつきり姿を見せなかつたのです。

 船中は興も醉も醒めてしまひました。船頭を走らせて夜中ながら出せるだけの船を出し、川の上流下流隈なく搜しましたが、若旦那喜三郎はそれつきり見付かりません。

「何しろ酒を呑んで居たからなア、少しくらゐ泳げたところで──」

 出石いづし五郎左衞門は首をひねります。夜の夕立は遠く外れて、雨の心配はなくなりましたが、斯うなると新しい心配にひしがれて、男も女も顏色はありません。



「その喜三郎の死骸が、今朝百本ぐひで上がつたんですがね親分」

 翌る日の朝、この報告を、明神下の錢形平次のところへ持つて來たのは、お馴染の八五郎でした。

「道樂息子が一人、醉拂つて、土左衞門になつたところで、十手を振り廻すわけにも行くめえ」

 平次は自若として、戀女房のお靜のくんでくれる、食後の茶を樂しんで居ります。六月の朝陽は、貧しい縁側一パイに這ひ寄つて、今日もどうやら暑くなりさう。

「ところが、その死骸の肩のところに、突き傷があるとしたらどんなものです」

「百本杭の釘にでも引つ掛つた傷ぢやないのか」

「そんな引つ掻き見たいなものぢやありませんよ、匕首あひくちのみか出刄庖丁ばうちやうか知らないが、一、二寸は突つ立つてますぜ」

「成程そいつは容易ぢやなささうだ。行つて見よう」

「親分が行つて下されば、晝前にらちがあきますよ。喜三郎は始末の惡い男には違げえねえが、殺すほど怨んで居る者が五人も七人もあるわけはねえ」

 これは併し八五郎の見當違ひでした。里見屋の養子喜三郎を怨んで居る者は、實際五人や七人ではなかつたのです。

 龜澤町の家主吉兵衞は、町役人では顏の利いた方で、内々は高利の金も廻し、おびたゞしい家作を持つて、裕福に暮して居ります。年配は五十前後、穩かではあるが、何處かに性根のすわつた中老人です。

「飛んだことで、──ところで佛樣は?」

「まだそのまゝにしてありますが」

 主人の案内で平次と八五郎は奧へ通されました。しもたや造りですが、暮しの良さが反映して、木口きぐちも見事、調度も相應、町人にしては先づ最上の暮し向きでせう。

 喜三郎の死體は、奧の六疊に寢かしてありました。變死となると檢屍にどうしても半日はかゝるので、まだ何も彼も其儘。僅かに香花かうげを供へて、番頭の周助がおもりをして居ります。

 平次はいつものやうに一禮してから、死體の側に膝行ゐざり寄りました。顏を隱したさらしの布を取つて、ハツと息を呑んだのも無理はありません。喜三郎の死顏は、水死人といふにしては、かつて平次が經驗したことのないけはしい表情をして居るのです。

 顏に少しのむくみもなくて、齒を喰ひしばつて眼を剥いた激しい苦惱の跡は、良い男の死顏を散々なものにして、二た眼と見られない物凄さがあります。

「傷はどこだ、八」

「これですが」

 八五郎は平次のむねをうけて、死體の肌を押し脱がせました。二十七八といふにしては、毛深いがよくあぶらの乘つた胸や腕、アルコールと美食を思はせる肌の色、──その肌のところ〴〵に斑點はんてん樣のもののあるのを、平次は見のがす筈もありません。

ぶちがあるぢやないか」

おぼれる時、彼方此方へ打つかつたんですね。兩國の橋げたとか、百本ぐひとか、こんなぶちを拵へるものが澤山ありますよ」

 八五郎はそれも氣樂に片付けてしまひます。

 平次は默つて死體の左肩口に口を開いてる傷口を見詰めて居ります。長さ一寸ばかり、肉がはぜて、四角に見えますが、深さは大したこともないやうです。

のみのやうだな、八」

「鑿で突き殺したのですね」

「いや、これくらゐの傷では死ぬまいよ、──若くて達者な男が──」

 平次もこれ以上は見當もつかない樣子です。

 その時、部屋の中にそつと入つて來て、邪魔にならないやうに、平次と八五郎の檢屍振りを見て居る者があります。

 それは十八九の若い娘で、美しいとは言へないまでも健康さうで單純らしくて、なか〳〵に好感の持てるきりやうです。身扮みなりは清潔ではありますが、割合に質素で、赤い帶だけが、唇の紅と對照して、情熱的に燃えます。

「お前は?」

 平次は顏を擧げました。

「お孃さんで、お清さんと申しますが」

 番頭の周助が代つて答へました。

 これが里見屋吉兵衞の一粒種で、やがては死んだ養子の喜三郎と祝言させる相手だつたのでせう。



「御主人、これは容易ならぬことらしい。萬事打ちあけて話しては下さらぬか」

 別室に主人の吉兵衞と對座して、平次は折入つた調子でした。

「私にもに落ちないことばかりだ、──何んなりと訊いて下され」

 吉兵衞も昨夜から思案に餘つて居るらしく、平次の叡智にすがる心持で一ぱいです。

「先づ第一に喜三郎さんの身持はあまり良くなかつたやうに聽いたが──」

「私の口から申上げ兼ねるが、全く話のほかでしたよ」

「では、怨んでゐる者もあつたことでせうな」

「それはもう」

 主人の吉兵衞は、分別らしくひたひを撫で上げるのです。

「それを養子にしたのは、わけのあることでせうな」

「私に取つては義理のある兄の子で、男の子のない私が跡取りにするのは世間並のことでしたよ」

「お孃さんもその氣になつて」

「いや、死んだ者のことを惡く言つては濟まぬが、娘は何んと言つても十八になつたばかりで」

「──」

「道樂者の喜三郎を好きになる筈もありません。その上、この頃の喜三郎の仕打は、増長がひどくなつて、私をおどかして、一日も早く隱居をして家督かとくを讓るやうに、──娘が若くて祝言が早いといふなら、それは二三年後でも宜いではないか、などと言つて居りました」

「──」

「あまりのことに私も辛棒がなり兼ねて、近いうちに親類達に寄つて貰ひ、離縁をする段取まで出來て居りました」

「喜三郎さんもそれを知つて居たことでせうな」

「それはよく知つて居りました。あんまり放埒はうらつがひどいから、盆を越せば實家へ歸つて貰ふ筈で」

「放埒といふと、金のつかひやうでもひどかつたわけで?」

「いや、そんな事ではない。金は費つたところで、若いうちのことだから、大目に見られないこともなかつたのだが──」

 吉兵衞の話は奧齒に物がはさまります。が、それ以上は訊いても無駄でした。

「昨夜のことは?」

 平次はそれとなく、僭上せんじやう沙汰の凉み船のことに觸れると、

「今から考へると私共風情にしてはやり過ぎでした。近頃ムシヤクシヤして居るので、思ひきつたことがやつて見たかつたので」

 吉兵衞はさすがに年の手前もぢ入る風情でした。

「もう少しくはしくお話を願ひませうか」

 平次は少しジリジリしました。

「兩國を出たのは酉刻むつ(六時)少し過ぎでした。ゆつくり漕がせて、白髯のあたりに上つたのは戌刻半いつゝはん(八時)頃、その時分はもう船中酒が廻つてすつかり醉つて居りましたよ。船の中の座配ざくばりはみよしに私が坐つて、右に娘、その次が喜三郎、次に幇間ほうかんの善吉で、その次が勘太、左は出石いづしさんに女共が續きました。喜三郎の向うはおけさ母娘、お榮、ともにはおかん番の周助が居た筈です。二人の藝者は膳と膳の間に居りました」

「で、言ふまでもないことですが、酒も料理もみんな同じだつたことでせうな」

「いや、申譯ないことだが、私は酒だけはやかましくてなだ一本を、徳利に目印めじるしをつけて、私の分にして置きました」

「夕立が來さうになつて、あかりが消えたと聽きましたが」

「魔がさしたのですね。二度目の風で船中のあかりがみんな消えると、──いや一つ二つは消え殘つた提灯があつたかも知れませんが、喜三郎が女共の騷ぐのを面白がつて自分の頭の上の提灯を消したやうで、──多分前に居る藝者のお吉とふざけるつもりだつたのでせう」

 吉兵衞は僅かに養子の喜三郎の性惡さに觸れました。



 錢形平次は、昨夜凉み船に乘つた者に、一人々々會つて見る氣になりました。里見屋の持つて居る長屋は、五軒や十軒ではありませんが、凉み船に乘つたのはほんの七八人で、龜澤町の一角に片寄つて居るのは何より好都合でした。

 里見屋の隣の出石いづし五郎左衞門は、さすがに二本差らしいたしなみで、平次のたくみな問ひにもあまり乘つては來ません。

「左樣、若旦那の喜三郎はあまり評判が良くなかつたやうだな。が、殺すといふのは容易のことではない、──拙者には下手人げしゆにんの見當も付かぬて」

 そんな事を言つて、ケロリとして居るのです。

「提灯は消えても、水明りや空明りはあつた筈です。御武家の出石樣が、眼の前の殺しに氣が付かない筈はないと思ひますが」

 平次は突つ込んで見ました。

「まさに一言もない──が、喜三郎がふなばたもたれると、後ろから誰かが、それを川の中へ突き落したやうにも思つたが、確かなことはわからない」

「よくわかりました。出石樣が其處まで仰しやつて下されば、私の方も大變助かります」

 平次は其處を宜い加減にして、小間物屋のお神のおけさ母娘を訪ねて見ました。これは龜澤町の表通りには違ひありませんが、一間半口のほこりつぽい店で、小間物屋といふにしても、あまりに貧弱です。

 四十女のおけさは、無遠慮で圖々しくさへありました。昔は美しくもあつたでせうが、世帶の苦勞が骨のずゐまでみ込んで、薄汚なく女盛りを過した中年女は、平次に取つても決して樂しい相手ではありません。

「若旦那が殺されたんですつてね。當り前ですよ、殺し手がなきや、私が殺したかつたくらゐのもので、──あんな薄情でケチで、自惚うぬぼれと押しが強くて、始末の惡い男はありません。町内の年頃の娘は、みんなあの男の餌になつて居ますよ。高い家賃を取られた上に、娘まで傷物にされちや、間尺ましやくに合やしません」

 おけさの毒舌は、際限もなく發展するのです。

「お前のところにも娘があつた筈ぢやないか」

「娘はありますが、うちのお六はまだ十六ですよ」

 さう言ふおけさの袖の蔭に、女になりかけた可愛らしい娘が、物におびえた兎のやうに、おどおどしながら樣子を見て居るのでした。

 母親のおけさの激しい調子から見れば、この十六娘も、家主の伜の、恐るべき獵色家の前には、決して無事では濟まなかつたでせう。

 平次の足は其處から隣の勘太郎の長屋に向ひました。若い指物師さしものしで、のみと縁があるだけに此處は容易ならぬ匂ひがするのです。

「親方、大層精が出るぢやないか」

 仕事場でせつせと仕事をして居る勘太に、平次は敷居越しに聲を掛けました。

「急ぎの仕事を持込まれてね」

 何やら箱のやうなものを拵へて居る勘太は、不精無精の顏を擧げました。店がすなはち仕事場で、格子を開ける世話もなく、平次と顏が合ひます。

昨夜ゆうべのことを訊き度いんだが」

 平次は相手の勞働意欲に壓倒されたやうに敷居に腰をおろしました。

「錢形の親分でせう、──折角だが、あつしは何んにも知りませんよ」

 勘太は少しばかり劍もほろゝです。

「昨夜、親方は若旦那の喜三郎と隣り合つて坐つて居た筈だ。何んにも知らないでは濟まされないと思ふが──」

 平次は一應からんで見せます。

「さう言へば、若旦那が川へ落ちたのは、唯事ぢやないと思つたが──あつしと若旦那の間に幇間ほうかんの善吉が坐つて居ましたよ」

 勘太は小首をかたむけます。

「ところで、親方は若旦那の喜三郎を怨んぢや居なかつたのか」

「怨んで居ましたよ。妹のお榮がひどい眼に逢はされたからね」

 勘太は齒にきぬを着せなかつたのです。

「お前ののみを見せて貰はうか。いや、細いのぢやない、一寸鑿だ、──少しびて居るやうだが──」

「大工と違つて、指物師は滅多に一寸鑿は使ひませんよ。そいつは棟木むなぎに穴を掘る鑿ですからね」

 勘太は昂然として言ひきるのです。さう言へばそんなものかも知れません。

「妹のお榮さんは居るかえ」

「お勝手に居りますよ、──あの娘に逢つたところで、何んにもなりませんよ」

 勘太は妙に氣を廻しますが、平次は矢張りその娘に會ふことにしました。

「お榮さんと言つたね」

 お勝手に顏を出した平次の前に、

「あら、私」

 二十歳はたち白齒しらばの大柄な娘が、精一杯のしなを作ります。

「お前は里見屋の若旦那をどう思ふ」

 平次の問ひは唐突でした。が、お榮はその唐突さに氣のついた樣子もなく、

「良い方でした、──氣の毒なことに──」

 としをれるのです。

「お前と勘太親方とは、本當の兄妹ではあるまい」

 平次は妙なところへ氣が廻りました。

「え、本當は從兄妹いとこ同士なんです。でも兄妹といふことにして育てられましたが──」

 お榮のさり氣ない言葉のうちに、何やら重大なものを平次は感じないわけには行きません。二十歳のお榮は、色白で、豐滿で、存分に色つぽくて、そして少しばかり愚鈍ぐどんらしくさへ見えたのでした。

 最後に平次の訪ねたのは、同じ里見屋の長屋に住む野幇間のだいこの善吉でした。

「いよう、これは錢形の親分」

 などと、五十男の善吉が物事を茶にしてかゝるのを、

「師匠、今は人の命に拘はることだよ。里見屋の若旦那を殺したのは、お前かも知れないと思つてやつて來たんだ」

 平次はガツキと受け留めて、頭からおどかしてかゝりました。

「冗、冗談でせう。後家や新造殺しなら身に覺えはあるが、男の子は苦手で、附き合はないことにして居ますよ、親分」

 善吉はすつかり面喰つて居りました。

「さう言ふお前が、喜三郎の側に居たぢやないか。川へ投り込んでのみを打ち込むとしたら師匠の外にはないことになるが──」

「とんでもない、あつし幇間たいこもちですよ親分。里見屋の若旦那が一番の施主せしゆで、あの方が亡くなれば、路頭に迷ふあつしぢやありませんか」

 善吉は泣き出しさうです。

「それぢや訊くが、喜三郎が船から落ちた時、もう一度船に這ひ上がらうとした筈だ。河童かつぱと言はれた喜三郎が、そんなに手輕におぼれる筈はない」

「その通りですよ、親分。若旦那が船から川へ落ちて、暫らく水に沈んだやうでしたが、間もなく浮び上がつて、ともの方で、一度ふなばたへつかまつたかも知れません」

「それは本當か、善吉」

「見たわけぢやありませんが、昨夜の潮の具合ぢや、そんなことになりさうです」

 善吉の辯解は苦しさうです。



「サア、大變ツ、親分」

 翌る日、ガラツ八の八五郎が長刀草履なぎなたざうり砂埃すなぼこりを飛ばして、明神下の平次のところに飛び込んで來ました。

「何が大變なんだ。頼むから五六日その大變を封じてくれないか、壽命の毒だぜ」

 平次はさして驚く樣子もなく──實は心待ちに八五郎の報告を待ち乍ら、粉煙草と朝顏と、女房のお靜の奉仕に滿足しきつて居るのでした。

「ところが、待つちや居られませんよ。三輪の萬七親分が、お神樂の清吉をつれて來て、指物師の勘太を擧げて行つたからしやくにさはるぢやありませんか」

 八五郎は自分の拳固げんこのやり場に困るやうに鼻を撫で上げたり、額を叩いたりして居ります。

「さうか、そいつは一足先にやられたかな」

「何んです? 親分」

「實は俺も勘太を擧げようかと思つて居たんだ。死體にはのみの傷があるし、勘太とお榮が本當の兄妹でなくて、お榮は滅法色つぽいと來て居るだらう」

「へエ?」

「喜三郎は本所名題のはうきだ。町内の娘を總仕舞ひにして西兩國へ手を出して居るといふぢやないか」

「へエ、そんなものですかね」

 八五郎はに落ちないまゝに歸つてしまひました。

 が、事件はこれからの發展が更に奇怪を極めたのでした。

 三日目の朝、もう一度八五郎が、髷節でかぢを取り乍ら飛び込んで來ました。

「サア、大變。親分、今度こそ本當の大變だ、古渡こわたりの大變で掛け値なしの大變」

「止さないかよ馬鹿々々しい。大變の申し子が、大變こくから大變を賣りに來たやうぢやないか」

 平次は古渡りの大變くらゐには驚く色もありません。

「里見屋を覗いて見ると、番頭の周助が死ぬか生きるかの大騷動ぢやありませんか」

「どうしたといふのだ」

 平次もさすがに立ち上がりました。

「行つて見て下さい。毒を呑んだやうで」

「人に盛られたのか、自分で呑んだのか」

「其處まではわかりませんが、──死に度くない、死に度くない──と言つて居るさうで」

自害じがいしかけた人間が、死に損ねると氣が變つて、無闇に死に度くなくなるものらしいよ。兎も角行つて見よう」

 平次と八五郎は二頭の三歳駒のやうに、兩國橋を渡つて龜澤町へ一氣に飛びました。

 里見屋へ行つて見ると、

「一と足遲れましたよ、親分。周助は今息を引取つたばかりで──」

 主人の吉兵衞は、さすがに顛倒して出迎へます。

「そいつはしいことをした」

 店の隣の周助の部屋に通ると、散々に取り亂した中に凄まじい死骸を守つて、まだ町内の本道が、坊主頭に湯氣を立てて去りもやらずに居るのでした。

「毒が薄かつたので、一と晩苦しみ拔いたが、──矢つ張り助からなかつた」

 本道は獨り言のやうに言ふのです。

「毒は何でせうね」

 と平次。

砒石ひせきだよ──石見いはみ銀山鼠取りかも知れない」

「そんなものを、何んだつて呑む氣になつたでせう」

「間違ひだよ、錢形の親分、──一昨夜の凉み船で呑んだ酒の殘り、徳利に殘つてかんざましになつたのを、物事に氣のつく周助が、白丁はくちやうに入れて持つて歸つたのだ。それを騷ぎにまぎれて手をつけずに居たが、昨夜とこへ入つてから、寢酒に一杯やつたものらしい、──この通りだ」

 主人吉兵衞の指した通り、死人の枕元には一升徳利が一本、小型の茶碗を添へて供へてあるのです。

 平次はその酒を嗅いでみましたが、もとより何んの臭ひがあるわけではなく、たらしてめて見ても、味に何んの變りもありません。

「凉み船の中で酒の毒にあたつた者はなかつた筈ですね」

「一人もなかつた」

 主人は答へました。

「?」

 平次は何やら深々と考へ込んで居ります。

「不思議なことがあるものだな、錢形の親分」

「いえ、私には段々わかつて來るやうな氣がします。──お孃さんに少し訊き度いことがありますが」

 平次はあの子供々々したお清に何を訊かうといふのでせう。



「ね、お孃さん、隱さずに言つて下さい。あの凉み船の中で起つたこと──お孃さんは何にか知つて居るに違ひないと思ふんだが」

 小部屋にお清をさそひ込んだ平次は、物柔かにうきり出しました。

 木綿物の質素な單衣に、赤いしまの帶、──決して美しくはないと言つたところで、それは十八の年弱で、まだ女の本當の美しさが發揮されない爲と言つた方が宜いでせう。

 色の淺黒さも、紅白粉と縁の遠いのも、この娘をひどく地味に見せては居りますが、斯う近々と側に寄ると、純情で總明さうで、得も言はれない新鮮な魅力があるのです。

「でも」

 お清はおびえるやうに、自分の胸を抱きました。

「言つて下さい。少しも怖がることはない。何を聽いても、私はこの場限りといふことにしませう、──相手を平次とは思はずに、石の地藏に向つて獨り言のつもりで言つて下さい」

 娘の清潔さと、その善良さを見拔くと、平次は斯う言はなければならなかつたのです。

「でも──私はこはかつたんですもの。喜三郎さんが、一本の徳利に何にか白い藥を入れて、その徳利の口を赤いひもで縛るんですもの、──皆んな大騷ぎで、歌つたり踊つたりして居るから誰も氣が付かなかつたやうです」

「それから」

「赤い紐で首をゆはへた徳利は、お父さんの召し上がるお酒でした、──私は變な氣がして、誰も見てゐない時、その赤い紐を解いて、別の徳利の首を結へてしまつたんです、──それだけです」

 お清はこれだけ打ち明けるのが精一杯でした。が、何んの惡計畫わるけいくわくもあるわけでなく、唯この娘の善良な本能が父の命を護つたと見るべきでせう。

 平次はそれで滿足した樣子でした。店の方に出て來ると、八五郎を物蔭に呼び出して、何やら細々こま〴〵と言ひふくめ、そのまゝ明神下の家へ引揚げてしまつたのです。

 その晩遲くなつてから、八五郎は誰やらと一緒に、今度は泥棒猫のやうにそつと入つて來ました。

「親分、ようやく拾つて來ましたよ。兩國中を呑み廻つて、すつかり虎になつて居りましたがね」

 親指をまむしにして入口の方を指さします。

「よし〳〵、あんまりおどかしちやいけねえ」

 平次に注意されて、引返した八五郎は、間もなく泥醉した大坊主──野幇間のだいこの善吉を、ずつこけ相に引つ抱へて入つて來ました。

「善公、しつかりしろ。錢形の親分が、お前に訊き度いことがあるんだとよ」

「何をツ」

 善吉はきよとんと四方あたりを見廻しましたが、平次の眼とハタと出逢ふと、崩折れたやうに、ヘタヘタと疊の上に手を突いて、よだれと涙を一緒にこね廻すのです。

「確かりしろ、善公。お前は、ヂツとして居られない事があるんだらう、それで一日飮み廻つて、自分で自分の氣持を誤魔化ごまかして居た筈だ」

「親分さん」

「みんな言つてしまつてはどうだ、──大した惡氣でやつたことでもあるまい。が、喜三郎が死骸になつて百本ぐひに浮いたと聽いて、お前はきもを潰した筈だ」

 平次の言葉は決して烈しいものではありませんが、善吉に取つてはまぬかれやうのない嚴しい攻手でした。

「泳ぎ自慢の若旦那が、ふなばた俯向うつむきになつてゲエゲエやつて居るから、つい惡戯いたづらがして見度くなつたまでのことですよ、親分」

 善吉は思ひきつた樣子で、フラフラと醉顏を擧げました。

「川へ突き落したのだな」

「突き落したわけぢやございません。落ちさうになつたのを、押へてやらなかつただけで」

「少しは落ちる手傳ひもしたことだらう」

「飛んでもない、親分」

「──」

 善吉は大きく手を振りましたが、がつくり首を垂れると、思ひきつた調子で斯う語り續けるのです。

「でもね、若旦那のことを考へると、私の胸は煮えくり返りますよ、──私は斯んな──くさつた南瓜かぼちやのやうな仕樣のない野郎だが、娘のお菊は生一本な育ちで、町内でも評判の孝行者で、その上珍らしいきりやうよしでしたよ。それをあの若旦那の喜三郎が、辯口べんこうと金と力づくで玩具おもちやにし、たつた半年で振り捨ててしまひました、──私はお客樣のお供で大阪へ行つて居る留守に、腹の子の始末に困つた娘は、たつた十九で大川に身を投げて死んでしまひました、──この怨みは、一體何處へ持つて行つたら宜いでせう。ね、親分。娘は、氣立もきりやうも江戸一番で、此方でその氣になれば、大名高家へも嫁入りさせられるやうに──馬鹿な親は思ひ込んで居ました。それを、それを、一年前の八月──」

 野幇間の善吉は泥にまみれた顏を、ベロベロと涙でこね廻してかき口説くどくのです。粕漬かすづけのやうになつた大坊主のそれは言ひやうもないみにくい姿ですが、隣の部屋で平次の女房お靜は、たまり兼ねてシクシクと貰ひ泣きして居りました。

「もう宜い、歸れ、──いや、一人ぢやむづかしからう。八、善公を龜澤まで送つてやれ」

「へエ」

 これも上がりかまちで泣いて居た樣子でした。

「里見屋の喜三郎は、親殺しの毒酒を仕掛けて、間違つて自分が飮んだのだ。天罰てんばつだよ、──善公にも勘太にも罪はない。のみでやられたと思つた死骸の肩の傷は、兩國の橋梁はしげたの釘かなんかでやられたんだらう」

「有難いツ親分」

 八五郎は思はず飛び上がりました。

「何を愚圖々々して居るんだ、早く善公をつれて行つてくれ。俺は醉つ拂つた幇間たいこなんかに附き合ひ度くねえよ、──それから番所へ廻つて夜中だが勘太を貰つて來るんだ。喜三郎は毒死にきまつた。嘘だと思ふなら、周助の死骸と比べて見るが宜い、とな──二人は同じ毒でやられたんだ」

「へエ」

「三輪の親分にもさう言つてやるが宜い。隅田川をさらつたつて鑿なんか出るわけはないとな」

「そいつは是非言つて來ますよ。遲くなつてもわざ〳〵三輪へ廻つて」

「夜が明けるぜ」

「夜が明けたつて日が暮れたつて驚くものですか」

 八五郎は善吉を引擔ひつかつぐやうに眞つ暗な夜の街に出て行きます。八五郎の背中で、後ろを伏し拜み伏し拜みする善吉が、どんなに厄介な荷物だつたことか。

底本:「錢形平次捕物全集第二十六卷 お長屋碁會」同光社

   1954(昭和29)年61日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1949(昭和24)年8月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2017年112日作成

2017年34日修正

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