錢形平次捕物控
二つの刺青
野村胡堂




「親分、大變な者が來ましたよ」

 子分の八五郎、ガラツ八といふ綽名あだなの方がよく通るあわて者ですが、これでも十手捕繩を預かる、下つ端の御用聞には違ひありません。

「何んだ? 今更借金取なんかに驚くがらぢやあるめえ。ズイと通しな」

 江戸開府以來と言はれた捕物の名人錢形の平次は、それでもとぐろをほどいて居住ひだけは直しました。まだ三十代に入つたばかり、いぶしたやうな澁い人柄で、ざらの『好い男』扱ひにするには勿體ない肌合ひの男です。

「女ですよ、親分」

「女に驚いた日にや、叔母さんに小言を言はれる度に眼を廻さなきやなるまい」

「それも唯の女ぢやねエ、兩國で江戸中の人氣を湧き立たせてゐる娘手品師のお關──良い女ですぜ」

「馬鹿野郎、よだれを拭いて丁寧に通すんだ。何時までも大玄關に立たせて置くと、お客樣が夕立に流されるぞ」

「へツ、大玄關は嬉しいね」

 ガラツ八は泳ぐやうな足取で入口に引返しました。この掛合ひが、平次の所謂いはゆる大玄關まで筒拔け、丁度その時追つ立てるやうにザーツと一と夕立來ると一と打二た打眼を射る猛烈な稻光り、はじくやうな雷鳴が、押つ冠せてガラガラツと耳をつんさきます。

「あつ」

 その雷鳴に尻を引つ叩かれたやうに、ズブれの女が一人、會釋もなく飛び込んで來ました。尤も格子を開けて障子を押し倒して、取次の八五郎を突き飛ばせば、もう厭も應もなく平次と顏を合せなきやなりません。

「御免下さい、親分。私はあんまりびつくりして」

 女は敷居際にヘタヘタと坐ると、單衣ひとへたもとでいきなり自分の襟やら首やらを拭いてをります。年の頃は二十歳か二十一、白粉ツ氣はありませんが、表情的で仇つぽくて、身のこなしが滅法なまめかしい上、少し大きい顏の造作も、舞臺馴れた人によくある不思議な吸引力を持つてをります。

「大層物驚きをするぢやないか。俺はまた綺麗な雷獸が飛び込んだのかと思つてきもをつぶしたよ」

「あれ、親分」

 お關はさすがに極り惡さうでした。

「ところで何んの用事で飛び込んで來たんだ。まさか雨宿りぢやあるまい」

「え、大變なことが起りました。是非親分のお力を拜借して──」

「斷つて置くが、俺は喧嘩出入りと金のこと、それから色事に首を突つこむことは御免だよ」

 平次は一服吸ひ付けて、大きく手を振りました。安煙草のけむりを拂ひ退けでもするやうに。

「そんな氣障きざなんぢやありません。御存じでせうが、私の妹分のお玉、──あのが見えなくなつたのです」

「何? お玉が行方知れずになつたといふのか」

 それは兩國中の見世物小屋を壓倒した、明星のやうな人氣者でした。藝はさしたることはないにしても、その磨き上げられたやうな冷たい美しさが呼物になつて、姉のお關以上に江戸中の人氣をさらつてゐたのです。

「ですから親分」

 お關は持前の彈力的な身體をくねらせて美しい指先をかう拜む形に合せたりするのでした。

「お玉は幾歳いくつだえ」

「十八ですよ」

「親許は?」

「可哀想にそんなものはありません。あんな稼業をしてゐる者は大抵さうですが」

「お前とは眞實ほんたうの姉妹ぢやなかつたのだな」

「え」

 平次は忙しく煙草を詰めて二三服立て續けにふと、夕立の後で庭へ出て來る蟇蛙のやうに、後ろ手を突いて大きく息をしました。

「どうでせう親分」

「あの容貌で十八で、頼りになる親がないと來ると、の面は戀と出るな」

「飛んでもない親分」

先刻さつきも言ふ通り、色事に十手は禁物だ。こいつは御免かうむつた方が無事らしいぜ」

「そんな氣障なんぢやございませんよ。歳こそ十八ですが、玉ちやんはからつきしねんねで、男と聽くと、木戸番のとつさんに聲を掛けられてもイヤな顏をするんですもの」

「當てになるものか、小娘と何んとやらだ」

「ね、親分、本當にお願ひでございます。私にできるだけのお禮はいたしますが」

「お禮附の仕事なんかは眞つ平だよ」

「本當の姉妹ではないけれども、私はあの娘が可愛くて可愛くてならないんですもの。親分、この通り」

 お關は濡れた肩を落して、疊の上へ華奢きやしやな手を突くのでした。美しい眼が少しうるんで意氣な鬘下かつらしたが心持顫へます。

何處いつ、何處からゐなくなつたんだ」

「昨夜、本所石原の宿から、フラフラと出た樣子でございます。朝顏を染めた中形の浴衣を着たまゝで」

「何にか心當りはないのか」

「物心のつく前から、旅藝人の中で育つて、親も兄弟も判らないのを苦にしてゐましたが、近頃何んでも、──私も素姓がわかるかも知れない──とはしやいだり、沈んだりしてゐました。私にしても覺えのあることですが、私達のやうなものが、なまじ素姓の知れるのは本當に怖いことですねえ。どうせ大名のお姫樣である筈はありませんが、萬一惡い人の子だつたりしちや──」

 お關はさう言つて濡れた襟をかき合せるのでした。丁度その時、

「錢形の親分さんのお宅はこちらで?」

 五十年輩の親爺が息せき切つて、危ない木戸を押し倒しさうに外から伸び上がりました。

「平次は俺だが──」

「あの、兩國から參りましたが、お關さんがこちらへ見えませんか」

「お關さんはこゝにゐるよ、何にか用事か」

「あ、爺さん、何んか急の用?」

 掻き立てられるやうなあわたゞしい空氣に驚いて、お關も縁側へ顏を出しました。

「大變ですよ、お玉さんが」

「えツ」

 不吉な豫感にお關は顫へ上がりました。

「死骸が百本杭ひやつぽんぐひで揚がつたんです。早く歸つて下さい」

「本當かい、それは?」

 お關は暫らく氣拔けのしたやうに立ち盡しました。



 百本杭は人の山でした。

「えツ、寄るな〳〵見世物ぢやねエ」

 露拂ひの八五郎に怒鳴り立てられると、彌次馬はパツと散つて、その中心から町役人と土地の下つ引に護られた若い女の死體が現はれます。

 平次は靜かに近づくと片手拜みに、暫らく眼をつぶつてむしろの端をそつと上げました。

「まア玉ちやん」

 それを掻きのけるやうに、飛び付いたのはお關でした。

「お前はまア、何んといふむごたらしい」

 昨夜着て出たまゝの朝顏の浴衣を着て、誰に持つて行かれたものか帶はありませんが、見覺えのある赤い紐が、死骸を縛つた荒繩とからみ合つて眼に沁みるやうな痛々しさです。

「錢形の親分、御苦勞樣で」

 町役人と下つ引は救はれたやうにホツとしました。錢形平次が來さへすれば、このむごたらしいことをした下手人が今直ぐにも捕まりさうに思へたのでせう。

 陽は西に傾きかけて、雨後の清々すが〳〵しい川風が、衣袂いべいを吹いて妙に總毛立たせます。

 海草みるの黒髮が蝋色らふいろの頬に亂れて、水を少しも呑んでゐない水死人の顏は、妙に引緊つて見えるのも、左の耳の下からふくよかな頬へかけて、石で打つたらしい大きい傷の痛々しさを引立てて、身體に卷きつけた荒繩の暗示する、犯罪の恐ろしさを思はせます。

「お關もうよからう。泣いてゐる時ぢやないぜ」

「ハイ」

 平次に注意されて、お關は案外素直に立上がりました。

「傷は大したことはありませんね、死んでから付いたものと見えて、血も出てゐない」

「もう少し念入りに調べて見なきや──」

 町役人と下つ引達が冒涜的ぼうとくてきに眼を光らせながらさゝやきます。

 平次はその眼から娘の死骸をさへぎるやうに、自分の身體でかばひながら彌次馬を見渡しました。

「ところで、これを見付けたのは?」

「私でございます」

 中年輩の船頭風の男が顏を出しました。

何刻いつ頃だ」

「晝頃で、へエー、夕立の來る少し前でございました。潮が引くとくひの間からかう白いものが見えましたので──」

「引つ掛つてゐたのだな」

「不思議なことに、ざつと繩の端を杭に縛つてありましたが──」

「縛つて?」

 平次は一寸考へ込みました。が續けて、

「娘手品のお玉とどうして判つた」

「誰ともなくそんなことを申しました」

「誰ともなく──だな」

「へエー」

「親分、變なことがありますが──」

 後ろからそつと袖を引いたのはお關でした。

「──」

 振り返つた平次は、お關の眼の中に、恐ろしく緊迫した、疑惑とも恐怖ともつかぬ色を讀んだのです。平次は默つて群衆をかき分けるやうに、町の物蔭にお關をさそひ出しました。後のことは眼顏の合圖で心得た八五郎のガラツ八が、精一杯の聲を張りあげて、好奇の眼を光らせながら犇々ひし〳〵と娘の死骸を取圍む彌次馬を追ひ散らしてをります。

「何んだ、大層心配さうだが──」

「大變なことがあるんですが」

「早く言ふがよい、どうしたといふのだ」

「あの死骸は違つてゐますよ」

「何?」

「玉ちやんによく似てゐますが、玉ちやんぢやありませんよ」

「それは本當か」

 平次も驚きました。お關の言葉は、あまりにも豫想外です。

「ちよつと似てはゐますし、浴衣もちやんと玉ちやんのですけれど、──子供の時分から一緒に育つた私にはよくわかります。玉ちやんには左の耳朶みゝたぶの下に可愛らしい黒子ほくろがありますし、左二の腕に私と一緒にふざけてつた、小さい〳〵干支えと(蛇)があるんです。これとつゐの──」

 お關はさう言つて、自分の二の腕を捲つて見せるのでした。夕陽にすかす位置になつて、桃色珊瑚さんごの美しい腕には、徑一寸ほどの可愛らしい(兎)が青々と彫つてあるのです。

「それは良いことを教へてくれた。禮を言ふぜ」

「あら」

「その代り暫らく默つてゐてくれ。曲者がお玉の浴衣まで着せた上、念入りに左の頬に傷をこさへて目印の黒子を隱し、お玉に見えるやうにしたのなら、暫らくそのに乘つたことにして向うの出やうを見たい」

「──」

「ところで干支えと刺青ほりもののことはみんな知つてゐるのか」

「いえ──そんなことが知れると親方に叱られるんですもの、誰にも言やしません」

「それからもう一つ、お玉が自分の素姓が判るかも知れないと言つたのは何時のことだ」

「一と月ほど前のことでした──尤も何んか變つたことがあつた樣子で、一二度そんなことを言つたきり、何んにも言ひませんでしたが、──あの娘は一體そんな片意地なところのある人で、氣に入らないことがあると、いくら訊いても打ち開けてはくれなかつたんです。──たゞソハソハしてゐるだけで」

 平次は暫らく考へ込みましたが、材料が少ないので一流の空想を築きあげやうもありません。

「お玉は、何にか手廻りの物を持つて行つた樣子はないのか」

「いえ、本當に浴衣を着たつきりです。大切にしてゐた赤い羅紗らしやの紙入まで置いて行つたくらゐですもの」

「いづれお玉の手廻りの道具や荷物を見せて貰はう、──多分夜になるだらうが、──それから石原から代りの者が來たら、お前も歸る方がいゝぜ」

「では親分」

 二人はそれきり別れました。



 平次が兩國の小屋へ行つたのはもう夜でした。皆んな石原の家へ引揚げて、小屋に殘つてゐるのは、晝のうち平次の家へ來た和七といふ番人の爺やだけ。

「おや、親分さん、御苦勞樣でございます」

 こんな稼業の人間らしくもなく、少し頑固かたくならしく見えるほど、實體な男です。

「飛んだ驚きだつたね、──ところで、いろ〳〵訊きたいが」

「へエへエ」

「小屋の景氣はどうだい」

「大層な人氣でございますよ、親分さん。尤も今日は休みましたが」

「お玉がゐなくなつたら、人氣にも響くだらうな」

「へエ、少しは響きますが、でも、お關さんがゐらつしやれば、大したことはないと思ひます。容貌きりやうはお玉さん程でなくても、あの愛嬌で人氣を呼びますから」

「お關とお玉は仲が好かつたのか」

「羨ましいほどで、──みんな眞實ほんたうの姉妹と思つてをります」

「二人の氣風は?」

「雪と墨で、へエ」

「何方が雪で、何方が墨なんだ」

「お關さんの方は大ざつぱで、氣前がよくて、そのくせ涙もろくて、お玉さんは細かくて、念入りで、油斷がなくて──まあ、そんなことで御座いますよ」

 和七はたくみに話を外らせました。

「身持は?」

「こんな稼業の女にしちや、二人共嘘みたいに固い方でございます。──尤もお關さんには馬道の伊之助さんといふ、言ひ交したのがありますが、伊之さんは親がかりだし、お關さんはまだ借金が殘つてゐるし、自由にならないんで、可哀想ですよ」

「何んだい、その伊之助といふのは?」

「米屋の息子で──でも二人の仲は誰知らぬ者はありません。お關さんは又伊之さん一本槍で見掛けに寄らないあの人は貞女ですね」

「お玉は」

「あれは泥で拵へた上出來の人形ですね。あんなに綺麗なくせにこれんばかしも色氣といふものはありません、──そのくせ眞は悧巧なんですが──」

 和七爺やの話はなか〳〵よく要領を盡します。

「ところで二人の樂屋がくやを見せて貰はうか」

「樂屋といふ程のものぢやございませんが、御覽下さいまし」

 和七爺やはさう言ひながら、行燈あんどんげて、案内しました。それは亂雜な道具の中に二面の鏡臺を据ゑただけの、ほんの形ばかりの小さい化粧部屋ですが、さすがに若い娘二人の生活が匂つて、何んとも言へないなまめかしさがあります。

「これは?」

「お關さんの鏡臺ですよ」

 一つの抽斗ひきだしの中は白粉と紅と少しばかり紙が滅茶々々に入つてゐるだけで、もう一つはくしやらすき毛やら少し汚ならしく詰め込んで男が見て氣持の良いものではありません。

「此方はお玉のだね」

「へエ──」

 これはまた綺麗過ぎるほどよく片付いて、紙一枚散らばつては居らず、こぼれた白粉まで丁寧に拭き清めてあります。

 そこから石原の宿へ、平次は、物を考へながら辿たどりました。夜はもう戌刻いつゝ(八時)を過ぎたでせう、西の空のほの明るさも消えて、江戸もこの邊は宵ながら眞夜中の風情さへあります。

 娘手品の親方は近江金十郎といふ五十男で、仲間では顏の通つた方ですが、それよりも女房のお角は、名前の通りの四角な顏と、恐ろしい勢ひでまくし立てる鹽辛聲しほからごゑとで、東西兩國の香具師やし仲間でも、一番煙たがられてゐる四十女でした。

「おや錢形の親分さん」

 金十郎が晩酌ばんしやくの膳を押しやつて、あわてて大肌脱ぎを入れるのを、

「まア、いゝよ。そのまゝで話してくれ」

 そんな氣輕なことを言ひながら、あがかまちで煙草入を拔く平次だつたのです。

「佛樣は何時引取れることになりませう。何んと言つても長い間よくかせいでくれたお玉ですから、出來るだけのことはしてやりたいと思ひますが」

 金十郎は今まで一肌脱ぎで道化だうけの銅作といふ三十男を相手に晩酌をやつてゐたのも忘れたやうに、こんな神妙なことを言ふのです。

「まだ、お調べが殘つてゐるのだ、──明日のことだらうよ」

 そのお玉の死骸が全くの人違ひとも言へず、平次はこんなことを言ふのです。百本ぐひに殘つた八五郎に耳打ちして、係り同心にはその旨を含んで貰つたことは言ふまでもありません──が。

「ところで、お玉の身許みもとを訊きたいが」

 平次は大事なことをきり出しました。

「十七八年前でございました。原庭のお豊さんといふ取上婆さんが、お誕生が過ぎたばかりの女の兒を抱いて來て、引取手のない可哀想な子だからと、私共へ預けて行きました。いづれ若旦那と奉公人か、藝子と客の間にできた子でせう」

「身許がわかるやうな品物とか書き附けとか、そんな物はなかつたのかな」

「何んにもありやしません。小倉の色紙しきしとか何んとかの懷劍でも附いてゐると御大層なんですが」

 鹽辛聲のお角はちうを入れるのでした。

「お關の方は?」

「お玉よりは丸二年も早かつたのですから、今年で丁度二十年になるでせう。これは百日經つたか經たないかと思ふ女の兒を背負しよひ込んで、それから舞臺に立つまで十年近くも丹精しましたよ。一本立の藝人にする仕込みは、並大抵のことぢやありません」

 金十郎は辯解らしくそんなことを言ふのです。

「親許はわかつてゐるのだな」

「いえ、あれは棄兒すてごで」

「棄兒?」

大晦日おほみそかの晩大川橋のたもとに捨ててあつたのを、物好きに家の人が拾つて來ましたよ。これはお玉と違つて、男物の赤合羽あかがつぱ一枚に包んだきり、着物も金も附いてゐたわけぢやありません」

「さう言ふとお玉の方には着物も金も附いてゐたやうに聽えるが──」

「金が五兩に、着物が二枚、──大したものが附いてゐたわけぢやございません。原庭の取上婆さん、──もう七十でせうが、あのお豊さんはまだ達者ですよ。あの人に訊いて下さればわかります」

「いや、そんなことでいゝだらう。ところで肝腎かんじんのお關さんが見えないやうだが」

 平次はあまり廣くない家の中を見廻しました。金十郎夫婦の外には、道化者の銅作と雇婆さんが一人ゐるだけ。そこにはお玉と共に美しさと魅力をき散らさずには措かぬ、あのお關の明るい姿が見えなかつたのです。

「お關はまだ戻りませんが」

「え?」

「あの大夕立の前に出たつきりですよ」

 道化の銅作は註を入れました。舞臺では鼻の下に二本の白い棒を描いて、お關とお玉にからかはれてばかりゐる間拔けですが、素顏は三十五六の小氣の利いた男前です。成程道化は馬鹿には出來ない──忙しい中にも平次はそんなことを考へてをります。



 お關は消えてなくなりました。平次は百本ぐひへ飛んで行きましたが、お玉と見せかけた若い女の死骸の身許はまだ判らず、番屋で神妙に死骸の番をしてゐるガラツ八の八五郎を誘ひ出すと、半分は自分へ言ひ聽かせるやうにかう言ふのでした。

「容易ならぬことだ、一と晩くらゐは寢なくつたつて生命いのちに別状はあるめえ。お前は原庭のお豊といふ取上婆さんを訪ねて、十八年前に金十郎夫婦に預けた女の兒の親許を訊き出し、──それから大川橋の橋番所へ行つて二十年前に橋番をしてゐた人が生きてゐるならそれを搜し出して、二十年前の大晦日の晩に、橋の袂に赤合羽一枚に包んで棄ててあつた棄兒すてごのことを念入りに訊き出してくれ。いゝか──こゝは下つ引に頼んでいゝ」

「親分は?」

「馬道の米屋へ行くよ。お關と言ひ交した相手は、伊之助とか言つたな」

 平次と八五郎は西と東に別れました。もうやがて亥刻半よつはん(十一時)でせう、按摩あんまの笛の遠音も止んで、江戸の家並は大地にメリ込むやうに更けて行きますが、二人の若い女の生命の鍵をたくされた錢形平次に取つては、最早時刻の觀念などはありません。

 馬道の米屋──越後屋の伜伊之助は、錢形平次に月下の往來に呼出されて、眞夏の夜に胴顫ひをしてをりました。江戸中に響き渡つた御用聞に調べられてゐると思ふ緊張感と、もう一つは、二世も三世もと、淨瑠璃じやうるりの文句のやうなことを、大眞面目に言ひ交した、娘手品のお關の身の上を案じての疑惧ぎぐに囚へられてゐたのです。伊之助は二十五六の月の光の下で見るせゐか、この上もなく夢幻的で、この上もなく浪漫的ロマンチツクな男でした。お關のやうな氣性者が、よくもこんな男と──と思ふのは、第三者の冷酷な批評で、戀に盲目になつた若い娘に取つては、この頼りない若旦那型がこの上もなく魅力的に見えるのでせう。

 結局四半刻(三十分)もいろ〳〵のことを訊いて、平次の掴んだことと言つては、──お關と伊之助は一年も前から親しくしてゐたこと、──戀するものの分別で、無理な逢ふ瀬は作つてゐるが、お互にこの行詰つた境遇を打開して一緒になる目當ては殆んど付いてゐないこと──伊之助の父親の伊兵衞は、人並すぐれた頑固ぐわんこ者で、兩國の手品の娘などを、跡取息子の嫁にすることなどは、絶對に考へられないこと、──でも二人はどうしても別れられないこと──。

「そして、添ひ遂げられなかつたら、二人は死んでしまひます。親分さん」

 さう言つて月に振り仰いだ伊之助の顏は、痛々しくも濡れてゐるのでした。

 この無力で熱烈で、どこまでも無分別と臆病とで動いて行く戀の鬪士の、夢みるやうな悲歎の顏を見ながら、

「お關の行方は判らないんだぜ。今頃は殺されてゐるかも知れないよ。何にか心當りはないのか、え?」

 平次は最後の問ひ──答へのない問ひを投げかけて切上げる外はなかつたのです。

 兎も角も神田の家へ歸つて、戀女房のお靜に遲い晩飯の仕度をさせてゐると、ガラツ八の八五郎もさすがにヘトヘトになつて戻つて來ました。

「親分。あのね、お豊といふ取上婆さんには弱りましたよ。すつかり耄碌まうろくして何んにも判らないが、扱つた子供のことなら、書いたものがあるから明日の朝來てくれ、十七八年前のものでは急には見つからないし、夜は眼が惡くて見えないから──と言ふんで」

「橋番は」

「大川橋の橋番を三十年も勤めた喜之助といふ親爺はこの春死にましたよ。二十年前の大晦日の晩に、赤合羽あかがつぱに包んだ棄兒すてごのことは、よく話してゐたさうです──それつきりのことですが」

「それつきりは心細いが、あとは明日のことにしよう、──御苦勞々々々」

「へエー」

「明日はうんと早く百本ぐひへ行つてくれ。あの水死人の見知りの者が出て來ないとも限らないから」

 八五郎は夜半過ぎの月下の街を向柳原の叔母の家へ歸つて行きました。



「さア、大變だ。親分」

 ガラツ八の八五郎が旋風つむじのやうに飛んで來たのは、その翌る日の朝です。

「お關がどうかしたのか」

 平次は一と晩惱んだ不安をツイ口に出したのです。

「百本杭に引掛つてゐましたよ」

「死骸になつてか」

「ひどくたれて目を廻した樣子で、幸ひ水を呑まなかつたと見えて虫の息がありますが」

「助かるか」

「命だけは取止めるかも知れません」

「有難い」

 平次は直ぐ飛び出しました。が、近所の本道(内科醫)の家にかつぎ込んだお關の容體を見ると、あんまり安心はしてゐられません。

「水を呑む前に目を廻したから、幸ひおぼれ死ぬのは助かつた。それに夜半過ぎからは引潮で、見付けた時は、顏だけでも水の上に出てゐたさうだ。運がよかつたのだな──尤も撲たれた頭の傷は少し手重ておもだが──」

 老醫はさう言ひながら、まだ何方どつちのものとも判らぬお關を介抱してゐるのでした。續いて原庭の取上婆さんのお豊を見張つてゐた下つ引が、少しあわて氣味に歸つて來ました。

「錢形の親分、飛んだことになりました」

「どうしたのだ」

「お豊婆さんは昨夜死んでしまひましたよ」

「えツ」

「七十幾つとか言つても、まだ飛んだ達者な婆さんでしたが、夜更よふけに急にお産があるといふ使で出かけたつきり、堀へちて死んでゐたのを、今朝になつて見付けたんで、──隣町のお産なんか嘘でしたよ」

「そいつは大變だ。八、大急ぎで行つて、婆さんの書いたものをみんな押へろ。覺え書か何にかあるに違げえねえ」

「合點」

 八五郎は飛んで行きました。が、これも併しやがてぼんやり歸つて來る外はなかつたのです。

「駄目だ、親分。一と足先に、婆さんの娘に逢つて、小判で、五兩と投げ出して、──私はお豊さんの昔の弟子だが形見に欲しいから──と、婆さんの書いたものを洗ひざらひ持つて行つた女がありますよ──若い、顏中膏藥かうやくを貼つた女だつたさうで」

「何といふことだ」

 平次は地團太を踏みますが、かう後手々々と廻つては、誰を怨みやうもありません。

 平次の敗北は見事でした。お玉の替玉を殺し、お關を危ふくし、更にお豊婆さんを殺した曲者は、一體何をたくらみ、何を仕出かさうとするのか。その見當も付かず、重く手をこまぬいて、次に相手の打つを待つてゐる外はなかつたのです。

「八、昨夜、石原の金十郎の家で、誰か外へ出た者はないか、念入りに調べてくれ。それからこれは下つ引でいゝが──馬道の米屋──越後屋へ行つて、若旦那の伊之助が何うしてゐるか、それも訊いて來るんだ、──拔かるな、相手は容易でないぞ」

「へエー」

 八五郎が飛び出した後、平次は大川橋の橋番へ行つて、去年死んだといふ橋番喜之助の伜喜太郎を搜し出しました。それを搜し出すまでには、半日かゝりましたが、それでも竹町でかざり職人になつてゐる、正直者らしい喜太郎に逢つた時は、平次は何んとなくホツとした心持になつてゐたのです。

「二十年前の話だが、大晦日おほみそかの晩の雪の中に棄ててあつた女の兒のことを、お前は親父さんから聽いたことがあるだらうと思ふが」

「え、あの大人おとなの赤合羽に包んで棄ててあつたといふ、──」

「その話をくはしく訊きたいが。實は雪の降る大晦日の晩に、生れたばかりの赤ん坊を、赤合羽に包んで橋のたもとに棄てるといふのは腑に落ちないことだ。どんな鬼でも蛇でも、赤ん坊を雪の中に棄てる時は、襤褸ぼろでも何んでも温かいものを一枚は着せるだらうと思ふ。何うだらう、──この話にはきつと深い仔細しさいがあるに相違ない。そのことから現に今三人の命にも拘はるといふ大變なことが持上がつてゐるんだ。父親が亡くなつた今となつては、もう遠慮はあるまい。眞實ほんたうのことを詳しく話してはくれまいか」

 平次の問ひは嚴重で周到でしたが、折入つた丁寧さがありました。

「みんな申上げませう。親父が生きてゐるうちは、嚴重に口止めされたさうですが、私の代になつてまで、二十年も昔の義理を守つて、人樣に迷感を掛けちや濟みません。實は親分──あの赤ん坊は、最初立派な紋服を着せて金襴きんらんの守袋と、小判をうんと入れた財布を附けて捨ててあつたさうですよ」

「え?」

「どこかの武家風のお女中が、供の者に抱かせて來て、棄てる時紋服の紋所だけははさみで切取つて行つたさうです。するとその後から一人の中間ちうげん者が來て、赤ん坊をすつかりいだ上、自分の赤合羽一枚だけ着せて雪の上に投り出し、紋服も守り袋も持つて行かうとするから、橋番をして居た親父がびつくりしてとがめると、小判で二十兩入つてゐた財布をくれて──これが口止料だ。餘計なことを言ふとお前の命がないと思へ──と言つたまゝ姿を隱したんださうです」

 話は全く豫想外ですが、平次の胸には始めてこの恐ろしい疑問を解く緒口いとぐちが見付かりました。

「その後へ金十郎が來て、赤合羽に包んだ赤ん坊を拾つて行つたのだな」

「その通りですよ。金十郎はこの子は眼鼻立が良いから育て甲斐があるだらう──と言つたさうで」

「赤ん坊の紋服の紋を見なかつたらうか」

「女中が切り取る時チラと見たさうです、──恐ろしく珍らしい紋だつたと言ひますよ。何んでもさかづきを三つ三角に並べたやうな──」

「有難う、それで解つたよ」

 平次の聲は七月の空に晴々しく響きました。



 杯三つ並べた不思議な紋は、旗本武鑑を見るまでもなく、上野山下に屋敷を持つてゐる三千五百石取の旗本三杯みつき龍之助の外にあるわけはありません。その當時三杯龍之助が一ヶ月前に老病で急死し、跡取り息子は早世して家を繼ぐ者がなく、死後養子のことでも秘して揉めてゐるといふことがやがて平次の調べで判つて來ました。

 一方ガラツ八の調べで、お豊とお關が襲はれた晩、金十郎の家を脱出したのは、道化の銅作と判つて、これもその日のうちに御手當になつたことは言ふまでもありません。

 越えて翌る八月の五日、亡くなつた三杯龍之助のをひ、同苗宇三郎の屋敷から、龍之助の忘れ形見、お玉といふのが三杯家に乘込んで來るところを、道にようして錢形の平次とその子分の八五郎が喰ひ止めました。

 宇三郎は小身者ですが、それでも二本差には相違なく、町方の御用聞風情が差出がましく、彼れこれ言ふ筋では、なかつたのですが、日頃平次に眼を掛けて居る筆頭與力笹野新三郎が乘出してお玉の化の皮を剥ぎ、三杯みつき家の浮沈にもかゝはる危機一髮のところを救つて、辛くも事件は解決しました。

 三杯家の眞實の血筋を引いたのは、かつて二十年前の大晦日の晩、大川橋の袂に赤合羽に包んで捨てられた、お關だつたことは言ふまでもありません。

 だが、ようやく身體がもと通りに治つて、錢形平次のところに引取られたお關は、眞つ向から三杯家に引取られることを拒みました。

「眞つ平御面蒙ごめんかうむるわ。いくら奉公人の腹に出來た子で、奧方の嫉妬やきもちがうるさいからつて、生れて百日も經たない赤ん坊を、赤合羽に包んで雪の中へ捨てるやうなそんな薄情な家へ誰が歸るものか。甥の宇三郎の細工さいくかは知らないが、私はそんな家風は大嫌ひさ、──そのために三杯家が潰れるんなら器用に潰しやいゝぢやないか。馬鹿々々しい、三千五百石が何んだえ」

 頑として頭を振るお關の胸のうちには、越後屋の若旦那伊之助のおもかげが息づいてゐるのでした。この娘手品の女が、三千五百石の大旗本の跡取りの權利を棒に振つたとしたら伊之助の父親も、さすがにやかましいことはいはないでせう。

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 お玉は銅作、宇三郎と處刑されました。萬事落着した後で平次は八五郎のためにかう説明してくれたのです。

「宇三郎は三杯家の跡取りがなくなると、昔の自分の指金で捨てさせた三杯家の娘をさがさせたのさ。娘手品師になつてゐると直ぐわかつたが、お關とお玉が同じやうに綺麗で、一寸見當が付かない。そこで先づ何んとなく上品で美しいお玉に當つて見ると、こいつは飛んだ大伴おほとも黒主くろぬしで、すぐ宇三郎に喰ひ下がつて、年の違ひも忘れて妙な仲になつてしまつた。──尤も後でお關の方が眞物ほんものだと解つたが、宇三郎にして見れば、お玉を擔ぎ出せば、本家横領の足掛りになる」

「へエー、太てえ奴ですね」

「ところで、お玉を見世物小屋からつれて行くと世間の口がうるさい。その噂の種を封じるつもりで、幸ひ神奈川在から來て居る親なしの女中が急死したのを、お玉の身代りに百本ぐひへ投り込んだ。あれはお今とか言ふ可哀想な娘だが、不思議によくお玉に似てゐたので、惡人共の道具に使はれたのだよ。お屋敷方の女中で、親元がないんだから、死骸を大川へ投り込んでも、これは知れつこない──尤も病死と解ると面白くないから。荒繩なんかで縛つて殺されたやうに見せかけた」

「へエー」

「その上、死骸の耳の下に傷を拵へて、お玉の黒子ほくろを誤魔化したが、二の腕の(蛇)の彫物ほりものをお關に見られて、たくらみに龜裂ひびが入つた。あの彫物は二人の干支えとだから、歳を繰つて見ると二十年前に捨てられたお關の(兎)の彫物が三杯みつき家の娘に間違ひないわけだ」

「──」

「俺も最初は五里霧中だつたが、手品の小屋で二人の鏡臺を見た時、お玉の方があんまりよく片付いてゐるので、これは用意をして逃げたのだな──と判つたよ。銅作が相棒とは氣がつかなかつたが、お關を殺しかけた晩に取上婆さんを殺したのは、どうせ一人の仕事ではない。──お關を殺さうとしたのは矢つ張りいろ〳〵のことを知られてゐるからだよ。それに二の腕の彫物が物を言ふとお關の方が三杯家の血筋とすぐわかるぢやないか」

「ひどい女ですね」

「あのお玉は、綺麗で冷たくて勘定高いから、小屋で育つて十八になつても、下らない男には迷はないが、勘定づくでは年の三十も違ふ宇三郎に喰ひ下がつたり、鼻の下に胡粉ごふんで二本棒を描く男も迷はせる。──一方お關は正直者で夢中になると三千五百石くらゐは朝飯前に振りとばす」

「そのお關はどうなるでせう」

「心配するなよ、今では越後屋の嫁になるのばかりを樂しみにしてゐるよ。あの通りお靜が手傳つて、せつせと嫁入支度だ」

 平次はさう言ひながら、隣の部屋でせつせと針を動かす二人の若い女の幸福な姿をそつと指でさすのでした。

底本:「錢形平次捕物全集第二十五卷 火の呪ひ」同光社

   1954(昭和29)年510日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1946(昭和21)年10月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2016年34日作成

2017年34日修正

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