錢形平次捕物控
矢取娘
野村胡堂




「親分、折角こゝまで來たんだから、ちよいと門前町裏を覗いて見ませうか」

 錢形平次と子分の八五郎は、深川の八幡樣へお詣りした歸り、フト出來心で結改場けつかいば(揚弓場)を覗いたのが、この難事件に足を踏込む發端でした。

「何んだ、こゝまで俺を引張つて來たのは、信心氣かと思つたら、そんなたくらみだつたのかい」

「でもね、親分、揚弓は惡くありませんよ。第一心持が落着いて、腹が減つて、武藝のたしなみにもならうてエわけのもので」

「馬鹿だなア」

「へエ」

「そんな能書を並べるより、矢取女に良いのがゐるとか何んとか言つた方が素直で可愛らしいぜ。第一その上落着いて大食ひをされた日にや、米が高くなつて諸人の迷惑だ」

「惡い口だなア、親分」

「ところで、その八五郎が武藝のたしなみを見せようといふ相手のところへ眞つ直ぐに案内しな」

 そんなことを言ひながら、二人は軒並の揚弓場を覗きながら、入船町の方へ歩きました。

「おや、變ですぜ、親分」

「人の出入りが多いやうだな、何にか間違ひがあつたんだらう」

「お千勢ちせの家ですよ。隣のお秀と張り合つて、この土地では一番の人氣者だが──」

「大層くはしいんだな。それもたしなみの一つかい、八」

「へツ、先づ、そんなことで」

 お千勢の家といふのは、土地で一番繁昌してゐる矢場で、娘のお千勢の外に、矢取女が三人もゐる構へでしたが、近寄つて見ると表戸を締めたまゝ、緊張した顏の人間があわたゞしく出たり入つたりしてをります。

「おや、洲崎の兄哥あにい

 平次は早くも、土地の御用聞洲崎の金六を見付けました。

「お、錢形の」

 中年男金六の顏は少し酢つぱくなります。

「何にかあつたのかい」

「なアに、ちよいとした殺しさ。──錢形の兄哥はどうして嗅ぎ付けたんだ。──鼻が良過ぎるぜ」

 金六の調子には少し反感の響きがあります。

「兄哥の前だが、深川の殺しが神田まで匂ふやうな南風みなみは吹かないよ。──八幡樣へお詣りして、ちよいと矢場を覗いただけのことさ。殺しがありや丁度幸ひだ、八の修業に兄哥の調べ振りでも見せてやつてくれ」

 平次はさり氣なく事件に飛び込みました。

「今度のは、鎌鼬かまいたちや自害ぢやないぜ」

 嫌味を言ひながらも、金六は二人を現場に迎へ入れる外はなかつたのです。

 その頃の結改場けつかいばは、裕福な町人達の樂しみ場で、矢取女に美しく若いのこそ置きましたが、決してみだらな場所ではなく、平次が盛んに働いてゐる頃は、今日では想像されないほどの繁昌を見てゐたのでした。

 二尺八寸の極めて小さい弓──

 それを繼弓にして、金襴きんらんの袋などに入れた、贅澤な道具を持つた旦那衆が、美しく彩色を施した九寸のほおの木の矢で、七間半の距離から三寸の的を射て、その當りを競つて樂しんだのです。

 矢場が魔窟まくつになつたのは、天保以後から明治にかけてのこと、貞享じやうきやう、元祿、享保──の頃は、なか〳〵品格の高い遊戯で、矢取女も後の矢場女のやうなものではありません。

 お千勢の矢場といふは、お千勢の母親のお組が采配さいはいを揮ひ、娘のお千勢の愛嬌を看板に、この二三年めき〳〵と仕上げた店でした。

「この通りだよ、錢形の」

 店も奧もありません。入ると直ぐ矢場で、僅かばかり敷いた疊の上に、若い女の死體は横たへてあるのです。

 死骸の側に身を俯向けて、ヒタ泣きに泣き入るのは母親のお組でせう。三人の若い矢取女は、どうしていゝのか見當も付かぬらしく部屋の隅つこに額をあつめて、脈絡もないことをヒソヒソと話してゐる樣子です。

 平次は進み寄つて、死骸の上に掛けてあるものを取りました。

「あツ、お千勢」

 後ろから差し覗くガラツ八が、思はず頓狂な聲をあげたのも無理はありません。たしなみの良い娘の死骸は、半身あけに染んで、二た眼と見られない痛々しい姿ですが、よく化粧した顏は白蝋はくらふのやうに蒼染あをずんで、何んとなく凄まじい美しさがあるのです。



むごたらしいことをするぢやないか。殺す相手にことを缺いて、こんなに若くて綺麗なのを──」

 金六は口惜しさうに言ひながら、娘の死骸にきれを掛けてやります。

「傷は後ろだね」

左肩胛骨ひだりかひがらぼねの下、短刀で深くやられてゐる。一とたまりもなかつたらうよ」

「どこでやられたんだ」

「三十三間堂の裏さ。──昨夜出たつきり一と晩歸らなかつたさうだ。今朝になつて往來の人が騷ぎ始めたんだ」

 さう言ひながら金六は自分の話の確實性を保證するやうに、泣きじやくりながらうなづく母親のお組をかへりみるのでした。

「一番先に見付けたのは?」

「それが解らないのさ。何しろ人通りも彌次馬も多い場所だから」

「昨夜何んの用事があつて出かけたんだ」

 平次はなほも突つ込みました。

「呼出しが掛つたらしいんだよ」

「どこから、──誰か手紙でも持つて來たのか」

「それが解らないから不思議さ。昨夜は珍しく客もなかつたさうだし、使ひ屋も、人も何んにも來ないつて言ふんだ。ね、それに違ひあるまい」

「ハ、ハイ」

 お組は涙を押しぬぐひながらうなづきました。

「月はなかつた筈だし、あの邊は淋しいから、若い女一人で行く場所ぢやねエ。よく〳〵の用事か、でなきや──」

 金六もそこまでは考へてゐるのでした。

「前からの約束か、當人同士の合圖で呼出したんだらう。いづれにしても、三十三間堂裏へイキの良い若い女をさそひ込むのは、一と通りの仲ぢやあるまいよ」

「俺もそれを考へてゐるんだ」

 平次に説き進められると、金六はあわてて自分の立場の辯護をするのでした。

「お千勢は昨夜變つた素振りはなかつたのかい。宵のうちから、いつもになく浮かれるとか、はしやぐとか、しをれてゐるとか、心配さうにしてゐたとか──」

「いえ、そんなことはありません」

 平次の問ひを、母親のお組は強く否定しました。

「それぢや、前からの約束ぢやあるまい。お千勢を合圖一つで呼出せる相手を搜すんだね」

 平次の言葉には、何やら深い含蓄がんちくがありました。

「俺もそれを考へてゐるんだ」

 金六はまだそんなことを言つてゐるのです。

「それぢや俺は歸るぜ、飛んだ邪魔をしたな」

 平次は八五郎をうながして外へ出ます。

「ちよいと待つてくれ、錢形の」

「何んだい」

兄哥あにいの見込みを聞かしてくれ」

 金六は女達の手前、大きな口をきゝましたが、こゝで錢形の平次に見放される心細さを考へないわけには行きません。

「見込みといふほどのこともないが──。あの傷口の樣子ぢや、前から抱きすくめるやうに、お千勢の後ろに手を廻して突いたんだと思ふよ。刄が横を向いて平に入つてゐるだらう」

「フム」

「合圖でお千勢を呼出せる人間──お千勢に抱き付かれるほど仲の好い人間を搜すんだ」

「フーム」

「合圖は矢取女達が知つてるに違ひない。かゝり合ひが怖くて默つてゐるんだ。若い苦勞人の女はそんなことに拔かりがある筈はないよ」

「有難う。それだけ聽けば、下手人は擧つたも同然だ。さすがに錢形の兄哥は目が高いや」

 金六は平次に競爭心がないと見ると、中年者らしく露骨な世辭などを言ふのです。



 平次はそれつきり事件を忘れて了ひました。お千勢殺しの凄まじい情景を思ひ起すことがあつても日々の新しい御用に追はれて、それはもう、遠い〳〵昔の出來事のやうな氣がしてゐたのです。

「親分、大變なのが來ましたよ」

 ガラツ八の八五郎は、敷居際に聲をひそめて、尾籠びろうな腰になりました。入口には女の客が來たらしく平次の女房のお靜が物柔かに掛け合つてをります。

「大變なのにはれてゐるよ。大家に酒屋に米屋、──それに横町の金貸しさ。それにしちやまだ晦日みそかには早いやうだが」

 五月の十三日、青葉が眼に沁むやうな初夏の清々しい日です。

「そんなんぢやありませんよ。深川の門前町裏の──お秀ですよ」

「何んだい、そんな女からは不義理の金なんか借りた覺えはないよ」

「さうぢやありませんよ。──それ、この間殺されたお千勢の隣の矢場の娘で」

「何んだ、それぢやお千勢殺しの一らつがこんがらかつて、金六兄哥が持て餘したんだらう」

 そんな話をしてゐるところへ、お靜は若い娘を一人案内して來ました。精々十九か二十歳、殺されたお千勢よりは一つ二つ若く、矢取女にもこんなのがあるか知らと思ふやうな、世にもきよらかに、なよやかな感じの娘です。

「親分さん、お願ひでございます」

「どうしたといふのだ」

 いきなり身を投げかけるやうな、純情な娘の願ひを、聽かぬ先から平次は少したじろぎました。

「若旦那を助けて下さい。あの人はそんな惡いことのできる人ぢやありません」

「若旦那? どこの何んといふ人で、何うしたんだ」

「山城屋の若旦那、紋次郎さんが、お千勢さんを殺したなんて、そんな恐しいことがあるものですか」

 お秀はさう言ふのが精一杯で、あとは身をんで泣くのです。

「洲崎の金六親分が、その紋次郎とか言ふのを縛つたといふんだらう」

「え、──合圖をしてお千勢を誘ひ出すのは、若旦那の外にはないつて言ふんです。でも、若旦那の合圖なら、私だつて知つてゐます。小石を拾つて、羽目板を三つづつ二度叩くんです。それが三十三間堂の裏へ來いといふ──」

 そこまで言つてお秀はフト口をつぐみました。さすがにはしたなさに氣が付いたのでせう。

「どうしてお前はその合圖を知つてゐるんだ」

「──」

 お秀は默つて了ひました。心持頬を染めて、俯向いた首筋のあたりの美しさ。

「親分」

 ガラツ八は後ろから平次のたもとを引きました。

「默つてゐろ。──木場の兄哥のすることにケチを付けちやならねえ」

「いえ、洲崎の金六親分さんは、若旦那を助けたかつたら錢形の親分にお願ひして見ろ。若旦那を縛つたのは錢形の親分の指金だから──つて仰しやるんです」

「それは本當か」

 平次も、一寸面喰ひました。洲崎の金六がそんなことを言ふのは、一應人の惡い皮肉とも聽えますが、事實は下手人として擧げた山城屋の紋次郎が、證據が揃ひながら、どうやら下手人らしくないので、それとはなしに、平次に助力を頼み、何んとか事件の恰好をつけようといふのかも知れません。

「私がこゝへ來るのも、金六親分さんはよく知つてゐる筈です」

「それぢや、兎も角行つて見よう」

 平次はやうやく御輿をあげました。

「有難てえ。さう來なくちや面白くねエ」

 八五郎の有頂天さ、平次の履物はきものを揃へたり、十手を懷ろにねぢ込んだり、滅茶々々に動いてをります。



 深川へ行つて見ると、事件は想像以上にこんがらかつてをりました。

 お秀に別れて門前町の番所へ行くと、丁度ゐあはせた洲崎の金六が、

「お、錢形の、來てくれたか。兄哥あにいのお蔭で飛んだ目に逢つたぜ」

 さう言ひながらも、救はれたやうな顏になるのです。

「山城屋の若旦那とかを擧げたさうぢやないか。それが下手人ぢやないと言ふのかえ」

「お千勢ちせと言ひ交した男だ。深川中で二人の仲を知らない者はないよ。合圖一つでお千勢を三十三間堂裏におびき出したり、抱き付いて來るのを、後ろから匕首あひくちで刺すのは、紋次郎の外にないと見たのさ」

「それが──?」

「困つたことに、その晩紋次郎は町内の風呂へ行つて歸つたきり、一と足も外へ出ないと言ふんだ。本人がさう言ふばかりぢやない。店中の奉公人の口が揃ふから嘘ぢやあるまい」

 紋次郎は黒江町の呉服屋──山城屋の一人息子で、山城屋は番頭小僧の七八人も使つてゐる老舖しにせでした。

「フーム」

 平次はうなづきました。

「あんなのを送つた日にや、八丁堀の旦那衆から、どんなお小言が出るか判らない。業腹ごふはらだがたうとう繩を解いて了つたよ」

「何時?」

「ツイ先刻さ」

「そいつは氣が早い。が、まアいゝや。もう一度やり直して見よう」

「錢形の兄哥が智慧をかしてくれさへすれば、どうにかなるだらう。ぢや頼むぜ」

 この四五日の心勞と、八丁堀の激勵に、金六はすつかり我を折つてゐる樣子です。

 お千勢の家へ行つて見ると、店だけは開けてをりますが、まだ客は一人もなく女主人のお組と三人の矢取女は氣拔けがしたやうに平次と金六を迎へました。

「少しは落着いたかえ、お神さん」

「へエ」

「氣の毒だつたなア。──こんなことを言つても何んにもなるまいが、あまり氣を落さない方がいゝぜ」

 平次の調子はしんみりしてをりました。

「有難う御座います。親分さん」

 お組はもう涙ぐんでゐるのです。

「お千勢はあんなに綺麗だつたから、いづれ何んとか言ふ人も澤山あつたことだらう」

「え、でも、身持の堅い娘でしたから」

 母親にはさう見えたのでせう。

 ガラツ八が集めて、平次の耳に聽えた情報では、お隣のお秀と張り合つて、たうとう紋次郎をむしり取つたと言つたやうな凄い話もあつたのです。

「夜分に家を明けるやうなことはなかつたのか」

「え」

 お組の答へは妙に濁つてをりました。

 矢取女三人は、おさの、お民、お銀と言つて、十六から十九まで、お千勢ほどではなくとも、かなり容貌きりやうを揃へてあるのは、さすがにこの土地の矢場で、第一等の繁昌を誇るだけのことはあります。

 三人は口を揃へてお千勢と紋次郎の仲を承認し、お隣のお秀との間柄も否定はしませんでした。

 合圖のことも押して訊いて見ると、みんな承知で、その晩も、お勝手口の羽目を小石で叩く音を聞くと、お千勢はゐてもたつてもゐられないらしく、間もなくいそ〳〵と夜の町へ出て行つたと言ふのです。

 三人の矢取女はお互に見張つてゐるので、誰も外へ出たものはなく、これはお千勢の死と絶對に關係がありません。

「他にお千勢か、お前を怨む者はないのかえ」

 平次はお組に戻りました。

「ないとも申されませんが」

たとへば?」

「お隣の半助さん父娘もよくは思つてゐないことでせう。私の家がこの通り運がいゝのに、半助さんが長患ながわづらひで、むづかしい顏をしてゐるせゐか、お隣は段々さびれて行つて、今では矢取女もなく、娘のお秀さん一人でやつてゐる有樣ですから」

「おや」

 平次は聽耳を立てました。隣の家──半助、お秀父娘の家から、何にか女の泣聲らしいものが聞えるのです。ガラツ八の八五郎は早速飛んで行きましたが、やがて歸つて來ると平次の耳に口を寄せて囁くのです。

「父娘喧嘩ですよ。お秀が親父に默つて親分を迎へになんか行つたのが半助に氣に入らなかつたんで」

「さうか、ちよいと行つて見よう。お秀が可哀想だ」

 平次は金六に眼配せすると、壁隣りの半助父娘の家へやつて行きました。



「あ、錢形の親分さん」

 娘を折檻せつかんしてゐたらしい半助は、あわてて素袷すあはせに膝つ小僧を包みました。

 五十を少し越したらしく、ひどい喘息ぜんそくで、秋から春へかけては一と足も外へ出られず、見る蔭もなく痩せてゐる上、近頃は足の病氣を起したさうで、全く氣の毒な姿です。

「俺をどうして平次と知つたんだ」

 平次の問ひは唐突でした。

「錢形の親分さんを知らない者は江戸中にありません。それに、後ろから洲崎の金六親分が附いて來るんですから、大概たいがい見當は付きます」

「さうか。──そんな事はどうでもいゝが、可哀想にお秀は泣いてるぢやないか。何が氣に入らなくて折檻してゐるんだ」

「親分の前ですが、若い者のすることは氣に入らないことばかりですよ」

 半助はすね者らしい眼を光らせました。

「お秀が俺を呼んだのが、氣に入らないと言ふんだらう」

「飛んでもない。錢形の親分さんが來て下されば、深川中夜が明けたやうに明るくなります」

巫山戯ふざけちやいけねえ」

「全くですよ、私はお世辭なんか言やしません。私の氣に入らないのは、娘のお秀が、何時までも山城屋の若旦那を忘れ兼ねて、餘計なことをするからでございます」

「すると、山城屋の紋次郎が無實の罪で處刑になる方がよかつたのか」

「飛んでもない、──無實の罪なものですか。合圖をしてお千勢をおびき出すのは、山城屋の若旦那の外にあるわけはありません」

「山城屋の若旦那がお千勢を殺すわけはないぢやないか」

「お千勢はしつかり者ですから、何時までも若旦那の慰みものになつてゐる筈はありません。嫁にしてくれとか何んとか手詰の強談を持ち込んだのでせう」

「そんなこともあるだらうな。ところで、お前はひどく弱つてゐるやうだが、外へは出られないのか」

 平次は妙なことを訊きます。

「青葉の時節になると、持病の喘息ぜんそくも少しはよくなりますが、この春から瘡毒さうどくで足が立たなくなりました。柱につかまつて、家の中を歩くのが精一杯です」

 さすがに氣丈者の半助も眉を垂れます。

「ところで、お千勢が殺された晩のことを、くはしく聽きたいが、お秀は何んにも氣が付かなかつたのか。お隣の裏口で合圖した人間とか、お千勢の出て行つた樣子とか──」

 平次はお秀の方に話を向けました。

「いえ、何んにも」

「この娘は、あの晩小田原町の叔母のところへ手傳ひに行つて泊つてしまひましたよ。何んにも知つてるわけはありません。私は戸を閉めて早寢をして了つたし」

「小田原町の叔母といふのは?」

相模さがみ屋といふ豆腐とうふ屋ですよ」

 平次が眼配せする迄もなく、ガラツ八の八五郎は横つ飛びに小田原町へ飛んで行きました。

「この家の裏はすぐ川なのかい」

「へエ、揚弓の客は少くなるばかりですから、釣舟屋でも始めようかと思ひましたが、足腰がきかなくなつちや、それもいけません」

 欄干らんかんもたれて覗くと、型ばかりの釣舟が一隻、上げ潮に搖られてお勝手寄りの柱につながれてあります。平次と金六はそこから黒江町の山城屋まで延ばしました。

 間口六間、二た戸前の土藏を後ろに背負つた、界隈一番の呉服屋で、世間體をはゞかつて裏からそつと訪れた平次と金六は、丁寧に奧の座敷に通され、何にか腫物はれものにさはるやうな扱ひです。

「親分さん方、飛んだお手數をかけます」

 父親の紋兵衞は六十前後、思慮も分別も申分がない仁體にんていですが、伜の不心得から、御用聞に度々やつて來られるのだけは、我慢のならぬ屈辱くつじよくを感ずる樣子です。

「若旦那に逢ひたいが──」

「へエ〳〵唯今、呼んで參ります」

 紋兵衞が何やら小僧に囁くと、繩を解かれた紋次郎は、小僧と入れ違ひに入つて來て、父親の後ろに小さく坐りました。

 二十四、五、典型的な若旦那で、撫で肩の色白、肉の薄い、氣の弱さうな、虫も殺せさうもない男です。

「飛んだ災難だつたね。これにりて、矢場なんかに入り浸らない方がいゝぜ──ハツハツ、俺も、こんな意見がましいことを言ふやうになつたかなア」

 平次はさう言つて面白さうに笑ふのです。

「──」

 紋次郎は女の子のやうに、深々と襟へあごを埋めました。

「お前さんは、お秀とお千勢と、どつちが好きだつたんだ」

 變なことを平次は訊きます。

「──」

 紋次郎は答へ兼ねてゐる樣子です。

「お千勢と夫婦約束でもしたんだらう」

「どうしても、さうしなきやならなかつたんです」

 氣の弱さうな紋次郎、かう言ふのさへ精一杯の努力です。

「そんなことだらうな。お秀の方に未練があるが、お千勢にからかつたのがたゝつて、お千勢の母親が手を引かせないやうに仕向けたんだらう」

 紋次郎はうなづきました。お秀のらふたけた美しさと、お千勢母娘のやり手らしい樣子を比べて、平次はもうこれだけの判斷をしてゐたのです。話が混み入つて來ると、平次は父親の紋兵衞に遠慮して貰つて、紋次郎の口から、根こそぎ遠慮のない事情を話して貰ひました。

 それによると、紋次郎とお秀は二年も前から許し合ふ心持になつてゐたのを、隣のお組お千勢母娘が口惜しがつて紋次郎が浮氣心で、たつた一度お千勢にからかつたのを質に取り、逃げ腰になると「父親に言ひ付けてやる」と言つたやうな甘口なおどかしで繋いで、到頭お千勢との間を割くことのできないものにして了つたのです。

 紋次郎は柄にも年にも似た大の浪曼主義者で、お秀と逢ふ時からいろ〳〵合圖を定め、相手がお千勢に變つても、毎日逢ふ者に手紙を書いたり、さまたげるものもないのに、合圖で呼出したり、夢のやうな遊戯に溺れる癖がありました。

「でも、あの晩のは私ではございません。私は明るい中に風呂へ行つて來て、それからズーツと店にゐたことは、店の者もお客樣も町内の方もよく御存じです。後はみんなと一緒に寢て了ひましたが、夜中に拔出さなかつたことも、店中の者がよく知つてをります」

 さう言ふ言葉に嘘があらうとも思はれません。これ以上調べることもないので、二人は物足りない心持で外へ出ると、

「あ、親分、こゝでしたか」

 ガラツ八の八五郎が息せききつて歸つて來ました。

「どうした八、小田原町の豆腐屋は」

「半助の言つた通りですよ。あの晝、法事の註文を二つ引受けて、めひのお秀まで手傳つて貰つたが、夜明しをする忙しさで、お秀は一と足も出なかつたとかう言ふんで」

「成程な」

 平次はすつかり考へ込んで了ひました。

「錢形の兄哥、こいつはどう言ふことになるんだ」

 金六は悲鳴をあげます。紋次郎もお秀も下手人でなく、お祖母娘を怨んでゐる半助が、あの通り外へも出られない容體では、お千勢殺しは全く見當もつかなくなるでせう。

「お千勢は間違ひもなく人手に掛つて死んだ。──合圖にさそはれて行つて、月明りの中で何にかを見たに違ひない。近所の衆が何も聽かなかつたところを見ると、不意に抱き付いて刺されたのではなくて、お千勢の方で見知り越しの人間を助け起さうとしたに違ひない。──ところが相手はお千勢を殺す氣で待つてゐたんだ。いきなり抱き付くやうにして後ろからしたんだらう」

「すると?」

「一番怪しいのは矢張り半助だ。娘のお秀が紋次郎に捨てられて泣いてゐる──お千勢の母親お組が商賣上手で、半助の矢場は見る〳〵さびれて行く──ツイお千勢を殺す氣になりはしないかな。──自分はどうせ足腰も立たない上、この先長く生きさうもない身體だ。お千勢さへなくなれば紋次郎の氣が變つて、末長くお秀の世話を見てやる氣になるかも知れず、お組の矢場の繁昌もこれきりになる」

 平次の想像は思はぬ方に飛躍して行きます。

「あの足で?」

「隣の裏口へ行つて、小石で羽目を叩くくらゐのことはできるだらう」

「三十三間堂の裏へは」

「舟といふものがある。自分の家の裏から釣舟に乘つて、汐見橋の下をくゞれは、すぐ三十三間堂だ。──半助はかいが自慢だらう、釣舟屋を始めたいと言つてゐたくらゐだ。──三十三間堂へ這ひ上がつて打ちのめされたやうに倒れてゐるのを、顏見知りのお千勢が見付けて抱き起した。──そこを──」

「それだツ」

 金六は飛び上がりました。かう言はれるともう疑ふ餘地もないやうな氣がするのです。

「待つてくれ、金六兄哥。急いで縛つて、又紋次郎の二の舞をやつちや恥の上塗りだ」

 平次は辛くもはやる金六を止めました。



 翌朝、洲崎の金六の使ひが、神田の平次の家へ飛んで來ました。

「大變、親分。半助が殺されましたぜ」

「えツ」

 平次もこの時ほど驚いたことはありません。昨日は半助をお千勢殺しの下手人と睨んで、金六の手柄にさせる心算つもりで歸つて來たばかりです。八五郎をつれて三人、深川へ駈け付けた時はもう晝近い頃。

「錢形の、──又違つたよ。今日は半助を擧げる心算で、證據を揃へて手ぐすね引いてゐるとこの騷ぎだ」

 金六はもつての外の機嫌です。

「昨夜縛つて置けば、半助は殺されずに濟んだかも知れない、──が」

 紋次郎を縛つて縮尻しくじつた金六の面目はどうなるでせう。

「まア、入つて見てくれ。檢屍は濟んで、片付けるばかりのところだ」

 中へ入ると、泣き濡れたお秀が、ろくな身寄もないらしく、二三人の近所の衆に助けられて、形ばかりのことを整へてをります。

「氣の毒なことになつたな、お秀」

 平次は痛々しい娘姿に目禮して、屏風びやうぶの中の死體に近づきました。

「あの通りだ。刄物が手近にあれば、自殺と間違へるところを──隨分搜して見たが刄物は中にない」

 喉笛のどぶえを掻き切られて、半身紅に染んだ死體は、見る目も凄まじい限りです。

「お秀はゐなかつたのか」

「昨夜も小田原町の叔母のところへ手傳ひに行つて、今朝遲く歸つて來てこれを見付けたのさ」

 金六は泣きじやくるお秀に代つて答へました。

「戸は開いてゐたのか」

「え、表は締りがありませんでした」

 お秀はようやく顏を擧げます。

「あの窓は?」

 平次は、三間ばかり向う、的の横に開いた川に面する窓を指さしました。

「開いてゐました。蒸し暑い晩でしたから。でも、あすこからは入れません」

 お秀の言ふのを背後に聽いて、延び上がつて高い窓から覗くと、川から切つたやうな羽目板で、手がかりも足がかりもありません。

「書置きも何んにもないんだね」

「え」

 平次が死體の側へ戻ると、金六は眼顏に物を言はせて、それを物蔭に誘ひます。

「どうした、洲崎の」

「死體の側に、こんなものがあつたんだよ」

 金六が懷ろから出して見せたのはその頃では申分のない贅澤とされた、黒羅紗くろらしやの懷ろ煙草入、銀延ぎんのべの細い煙管まで添へてあつたのです。

「こいつは?」

「紋次郎の持物だ。間違ひはない。自慢の品で深川中で知つてゐる。──それが死體の側にあつたんだぜ──少し血が附いて」

「血が附いて?」

「この邊さ」

 金六は死體の側に戻つて、疊の上を指さします。凄まじい血潮の中に手廻りの道具と、商賣物の揚弓が一梃、血に染んでゐるのも哀れ深い風情でした。

「この揚弓を誰がつかんだんだ」

 平次は、揚弓の端つこをつまみ上げました。

「八丁堀の旦那かも知れない」

「これを掴んだら、手へ血が附いたらう」

「そんな樣子もなかつたが」

「ところで、兄哥あにいの見込みは?」

 改めて平次は金六に訊きました。

「紋次郎を縛つたものか、どうか。相談しようと思つて兄哥に來て貰つたんだが」

「外に證據は?」

「昨日薄暗くなる頃、紋次郎は半助に逢つてゐるんだ」

「こゝへ來たのか」

「さうだよ。本人に訊くと──半助が相談があると言ふから行つたが、お秀とよりを戻して店の立ち直るまで資本を百兩貸してくれといふから、そんな金は部屋住みで出來るわけはないし、お秀との仲もお千勢とのことがあつた後で、世間の口がうるさいから、暫くそつとして置いて貰ひたい──と體よく斷つたと言ふんだ」

「フーム、煙草入のことは?」

「それも訊いたが、その時忘れて來たかも知れないが、氣が立つてゐるから思ひ出さなかつた、どうせ伊達だて煙草だ、なくとも不自由をしないからといふ逃げ口上さ」

「一應筋は通るが──」

 平次は深々と考へ込みました。

「物事がこんがらかると面倒だから、この邊で紋次郎を縛つたもんぢやあるまいか」

「さア、──側に刄物があれば、間違ひなく自害なんだが──」

 そんなことを平次は考へてゐるのでせう。

「殺しだつて、少し働きのある奴なら、かへつて刄物を置いて行くかも知れないよ」

 自殺に見せる細工は、この場合立派に成り立ちます。

「でも、紋次郎を縛るのは早過ぎるやうだ。あの男には、人など殺せさうもない。兎に角、山城屋へ行つて調べて見ちやどうだ」

「無駄だよ、相變らず家中の口が揃つてゐるのだ。──若旦那は風呂へ行つて歸つたきり、店から一と足も動かないとな。あの家の人間は、手洗てうづにも行かないやうな顏をしやがる」

 金六はブリブリしてをります。



「親分、もう一度行つて見て下さい」

 その翌る日、深川へ樣子を見にやつた八五郎は、こんなことを言ひながら歸つて來たのです。

「どうなんだ、八」

「金六親分はたうとう紋次郎を縛つて了ひましたよ。二度目だから、山城屋ではそれ程驚きもしないが、可哀想にお秀はまだ紋次郎に未練みれんがある樣子で、あつしを蔭へ呼んでそつと手を合せるんで」

「御用聞冥利みやうりだ。あんな可愛い娘に拜まれたら、惡い心持ぢやあるめえ」

「からかつちやいけません。──ね親分。お秀は、お願ひだから、もう一度錢形の親分に逢はせて下さいつて。──へツ〳〵、姐御の手前少しばかり惡いやうな氣がするが、お秀が逢ひたがつてゐるのは親分ですよ」

「馬鹿野郎」

 さう言ひながらも平次は、仕度もそこ〳〵に八五郎と一緒に三度目の深川に向ひました。

 最初金六に逢つて見ましたが、紋次郎を縛つた手柄に陶醉たうすゐして、今度は平次の言ふことなどを耳にも入れず、少しは痛め付けても、今日中に口書きを取らうとあせつてゐる樣子です。

 お秀のところへ行くと、

「お、錢形の親分さん、──山城屋の若旦那を助けてあげて下さい。あの方に人なんか殺せる譯はありません。──それに、父さんはこの間から口癖の樣に、死にたい、死にたいつて言ひ續けてゐました」

「──」

「こんな業病ごふびやうが取付かれて、お前に難儀をさせるし、治る見込みもない。店は段々さびれて、この盆には否も應もなく夜逃げでもしなきやなるまい──と言つてゐました」

「で?」

 ほぐれる樣に語るお秀、それを迎へて平次は優しくうながしました。

「二三日前にも、何を考へたか匕首あひくちなんか出してゐました。危ないから私が取上げて隱して置きましたが、先刻見ると、箪笥たんす抽斗ひきだしの底にさやだけあつて、中味はどこへ行つたか見付かりません」

 お秀は帶の間から眞つ直ぐに伸びた、匕首の白鞘を出して見せるのです。この中味ならを加へて一尺近い業物わざものだつたでせう。

「お秀さん」

「ハイ」

 改まつた平次の顏を、お秀は恐る〳〵見上げました。

「俺にはだん〳〵判つて來たやうな氣がする。──が、本當のことが判ると、お前は困つたことになるかも知れないよ」

「困つたこと?」

「父さんの曲つた望みを、すつかり駄目にした上、お前は世間へ顏向けができなくなる──」

 平次はそれだけのことを言つて、お秀の答へを待ちました。

「構ひません。──父さんは、病氣やら苦勞やらで、色々よくないことを考へてゐました。曲つたのぞみといふのはお隣の小母さんや山城屋の若旦那をひどい目に逢はせることぢやありません」

「お組や紋次郎は、あの通りひどい目に逢つてゐるよ」

「私はどうなつても構ひません。死んだ父さんの惡いのぞみを遂げさしては、却つて冥途めいどの障りとやらになるでせう。──その代り私は尼にでもなつて父さんにお詫びします。──若旦那を助けて上げて下さい。お願ひで御座います」

 お秀は平次の前に身を投げて、ひた泣きに泣くのです。

「それ程の決心なら、俺の考へたことだけをやつて見よう」

 平次はその日のうちに人を雇つて、お秀の家の窓下の川二間四方ほどのところを丁寧にさらひました。

 その作業は決して樂なものではなかつたにしても、幸ひの干潮を利用して、日暮れ近くなつてから、泥の中に落ちてゐた細い匕首の中味──つかごと一尺近いのを搜し當てたことは言ふまでもありません。

 その晩、お秀の家に金六を呼んで、八五郎とお秀と立會はせ、平次は血染の揚弓に川から拾つた細い直刄すぐばの匕首をつがへて射て見せました。

「あの通りだ。俺がやつても三間以上は飛ぶ」

 平次は的の前に落ちた匕首を指さしながら續けます。

「半助はお千勢殺しが露見して、明日にも縛られさうになつたのと、自分の身體が長く生きられさうもないと知つて、自殺の覺悟をきめた。──が、唯死んではつまらないと思つて、紋次郎を呼んで、最後の望みを持出して見たが、紋次郎に斷られてカーツとした眼に、紋次郎が忘れて行つた煙草入れが映ると、急に恐しいたくらみを思ひ付いたのだらう」

「──」

「幸ひお秀は小田原町に行つて留守、──半助は煙草入と揚弓を前に置いて、喉笛を掻き切つた上、人間離れのした骨折で、苦しい息を我慢して、血染の匕首あひくちを揚弓で射飛ばした。死にかけてゐても、揚弓の腕前は確かだ。血染の匕首が開けたまゝの窓の外へ飛んで行くのを見窮めて半助は死んだのだらう」

「──」

 あまりの恐しい企らみ、しかも疑ひを容るゝ餘地もない平次の調べに、聽き入る三人はぞつと身に迫るものを感じます。

 行燈あんどんが點いても、窓にはまだ殘る夕映。一昨夜はそこから血染の匕首が蛇のやうに飛んだのでせう。

「お秀さんの望みで、俺はこれだけのことを調べ上げた。子として親の非をあばくのは本意ではあるまいが、──親の非を遂げさせるよりは、人の道にも叶ふだらう。今では佛になつた父親の半助も、自分の罪をつぐなつてくれたお秀の志を喜んでゐるに違ひない。──あの通り、お秀の健氣な心持を見ると、俺も泣かされて了つたよ」

 指したお秀の頭、氣が付いて見るとまげの根から短かく切つて、一つ振ると、びんの毛がバラリと頬へ下がります。

        ×      ×      ×

 事情を聽いて、山城屋の紋兵衞父子も、つてお秀を嫁にと望みましたが、お秀は堅く辭退して、あはれな戀を墨染の袖に包んだまゝ、鎌倉の尼寺に入つたといふことでした。

「驚いたな、どうも」

 ガラツ八は思ひ出しては、それをもつたいないことにしてをります。

「あんな結構な新造は滅多にないぜ。ね、親分」

「諦めろよ八、お秀は二度と娑婆しやばツ氣を出す氣遣ひはない。親父のたくらみは恐し過ぎたし、あの娘はよく出來過ぎたよ」

 平次はつく〴〵さう言ふのです。

底本:「錢形平次捕物全集第二十四卷 吹矢の紅」同光社

   1954(昭和29)年425日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋社

   1941(昭和16)年7月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2016年610日作成

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