錢形平次捕物控
辻斬
野村胡堂
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「八、厄介なことになつたぜ」
錢形の平次は八丁堀の組屋敷から歸つて來ると、鼻の下を長くして待つてゐる八五郎に、いきなりこんなことを言ふのです。
「何にかお小言ですかえ、親分」
「それならいゝが、笹野の旦那が折入つての頼みといふのは、──近頃御府内を荒し廻る辻斬を捉へるか、せめて正體を突き留めろといふのだ」
「へツ、へエ──」
ガラツ八の八五郎さすがに膽を潰したものか、固唾が喉に引つ掛つて、二度に感嘆しました。
「笹野の旦那はかう仰しやるのだよ──この夏あたりから噂は聽いてゐたが、三日に一人、五日に二人罪のない人間がお膝元の江戸で、人參牛蒡のやうに斬られるのは捨て置き難い。いづれ腕自慢が高じての惡業であらうが、近頃は斬つた死體の懷中物まで拔くといふではないか。この上知らぬ顏をしては、御政道の瑕瑾と相成る。御家中若年寄方にも悉く御心痛で、町方へ強つての御言葉があつた──といふことだ」
「へエ──大したことになりましたね、親分」
それは全く大したことでした。
この夏あたりから始まつた辻斬騷ぎ、最初は新刀の切れ味を試す心算でやつたのでせうが、二度三度と重なると、次第に惡魔的な興味が高じて、神田一圓に九段から兩國まで荒し廻る辻斬の狂暴さは、さすがに幕府の老臣方の目にも餘つたのです。
旗本の次男三男、諸藩のお留守居、腕に覺えの浪人者など、辻斬退治に出かける向きもありましたが、相手はそれに輪をかけた凄腕で、いづれも一刀兩斷にしてやられるか、運よくて、這々の體で逃げ歸るのが關の山でした。
秋に入ると、辻斬の狂暴さは一段と拍車をかけました。最初は武家ばかり狙ひましたが、後には百姓町人の見境がなくなり、終には斬つた死骸の懷中を搜つて、紙入、胴卷を拔き取るやうな淺ましい所業をするやうになつたのです。
「どうだ八、辻斬退治をする氣はないか。こいつは十手捕繩の晴れだぜ。腕自慢のお武家が門並み持て餘した相手だ」
平次も緊張しきつてをります。
「附き合ひが惡いやうだが、あの辻斬野郎を相手にするくらゐならあつしは大江山の鬼退治に繰り出しますよ。──素知らぬ顏をして、摺れ違ひざまに、えツ、やツと來るでせう。氣がついて見たら首がなくなつてゐたなんて、どうも蟲が好かねエ」
「何をつまらねエ」
「そいつは強い武者修行か何んかに頼まうぢやありませんか。岩見重太郎てな豪勢なのがをりますよ」
「止さないか、八」
「へエ──」
「怖きや止すがいゝ」
「へツ」
「八五郎が腰を拔かしや、俺が一人でやるだけのことだ。笹野の旦那のお言葉がなくたつて、町人百姓の差別なく、ザクザク斬つて歩く野郎を、放つちや置けめえ。今まで無事でゐたのは、惡運が強かつたんだ」
平次は何時になく昂然として胸を張るのです。
「親分」
ガラツ八は膝ツ小僧を揃へてニジリ寄りました。
「何んだ?」
「あつしが何時腰を拔かしました。え? 親分。あつしは何時怖いなんて言ひました。辻斬や蕎麥切が怖かつた日にや、江戸で御用聞が勤まりますかてんだ」
「大層強くなつたぢやないか、八。先刻、辻斬退治より鬼退治の方が宜い──つて言つたのは誰だつけ」
「そりや物の譬だ。辻斬が怖いわけぢやありませんよ。憚りながらこんなガン首に糸目はつけねエ、どこへでも出かけませう。さ、親分」
「あわてるなよ、八。お前の強いのはよく解つてゐるが、まだ辻斬や夜鷹の出る刻限ぢやねえ。ゆつくり物を考へてよ」
「何をやらかしやいゝんで、親分」
ガラツ八は無暗にせき込みました。
「待ちなよ。差當り研屋を當つて見るのが順當だが、夏から十幾人と人間を斬つた奴が、血刀を近所の研屋に出すやうな間拔けなことはしないだらう」
「──」
「品物は一つも盜つてゐないから、質屋を當つても無駄だ。九段から駿河臺、神田橋外、柳原、兩國へかけて出るが御目附の外へ一と足も出ないところを見ると、この中に住んでゐるに違ひあるまい」
「──」
「それにしても凄い腕だ。腕自慢の御家人が五人、牛ヶ淵で出會はしたはいゝが、二人は斬られ、二人はお濠に叩き込まれ、一人は這々の體で逃げ歸つたと言ふぢやないか」
「三河町に町道場を開いてゐる酒村草之進といふヤツトウの先生が、お弟子と二人で辻斬退治に出かけ、柳原で出會頭に肩先を少し斬られ、面目無くて翌る日の晩夜逃げをしたといふぢやありませんか」
「それほどの人間を相手にするんだ。止した方が無事だぜ、八」
「冗談でせう、親分」
「もういゝ、俺はお前の果し眼の方が餘つ程怖いよ」
「へツ」
「近頃は辻斬の噂に脅えて、神田中の往來は日が暮れるとバツタリ絶える。辻斬だつて斬られ手がなかつたら張り合ひがあるめえ。今晩から俺が出かけて見ようと思ふが何うだ」
「あつしも行きますよ、親分」
八五郎は無暗に乘り出します。
錢形平次とガラツ八は、その晩から辻斬釣りに出かけました。
二人共夜講か參會の歸りの小商人と言つた、滅法野暮つたい風をして、九段から兩國へ、柳原から神田橋へと、淋しい道を選つて歩きますが、どうしたことか、辻斬らしいものに逢はなかつたのです。
「八、今晩も不漁だな。二人一緒ぢや面白くねえやうだ。一人づつ歩くとしようか」
「へエ──」
八五郎はぞつと肩を縮めます。
「怖いかい、八」
「ジヨ、冗談でせう。三度の飯も、強くなきや食つたやうな氣のしねえあつしだ」
「急に強くなりやがつたな、八。──何だ、襟卷なんか出して、そんな時候ぢやあるめえ」
「この襟卷に禁呪があるんですよ」
「どれ、見せな。おや〳〵鐵の火箸を六本も縫ひ込んでるぢやないか」
「まさか鎧を着るわけにも行きませんよ」
「成程ね、筋金入りの襟卷を卷いてゐると、首を斬られる心配はないといふわけだな。さうと知つたら俺も釜でも冠つて來るんだつたよ、フ、フ、フ」
「何んとでも言ふがいゝ。相手は恐しくチヨツカイの早い野郎だ。氣をつけて下さいよ、親分」
「それぢや頼むぜ、八」
二人は右と左に別れました。
八五郎は平次に別れて、柳原土手に差しかゝりました。夜鷹と追剥と辻斬を名物にした柳原は、遠い町家に五日月が落ちて、地獄の底を行くやうな無氣味さです。
「畜生奴」
ガラツ八は大舌打を一つ。節のない鼻唄をくちずさみましたが、凄い相手に、自分といふものの存在を教へてゐるやうな氣がして、それもフツツリ止してしまひました。
足ばかりが無暗に早くなります。役目は役目ながら、少しでも早く灯のある兩國へ出たい本能にさいなまれてゐたのでせう。
「おや?」
ガラツ八はギヨツとして立止りました。夜氣を壓する凄まじい氣合ひと共に、人の悲鳴が聞えたやうに思つたのです。
臆病風は一ぺんに吹飛んでしまひました。猛烈な鬪爭心が、武者顫ひになつて八五郎の五體を走ると、役目柄の勇氣が、勃然として振ひ起ります。
「野郎ツ」
闇を透して見ると、僅か十歩先に、何やら蠢めくもの。──ガラツ八は次の瞬間十手と身體を一緒に叩きつけてをりました。
猛烈な格鬪が始まりました。曲者は匕首を持つてゐるらしく、ガラツ八の脇と肩を突きましたが、ガラツ八は巧みに防いで、三度目には十手に絡んで得物をハネ飛ばし、自慢の力でギユーと押付けてしまつたのです。
「八、捕つたか」
後ろから聲を掛けたのは、心配して引返して來た平次でした。
「親分、今縛り上げますよ。弱い辻斬野郎で」
八五郎はすつかり良い心持です。
「待ちな、俺は灯を借りて來る。傍に死骸があるやうだから動いちやならねエ」
平次は淺草橋の番所まで飛んで行くと、ありたけの提灯と二三人の人手を狩り出して、もとの柳原に引返しました。
「親分、變な野郎ですよ。縛り上げるといきなり泣き出して、五十兩やるから見遁してくれ──つて言やがる」
「どうせそんなことだらう。どれ面を見せろ」
平次の差出した提灯に照らされたのは、ねんねこ半纒を着て耄碌頭巾を冠り、淺黄の股引をはいた老人姿ですが、顏を見るとまだほんの三十前後。──毛蟲眉の顎の張つた少し憎體な男です。
「お前は音松ぢやないか」
この顏はガラツ八の方がよく知つてをります。飯田町に住んでゐるゴミのやうな安やくざ音松、これが江戸中を騷がした、凄い辻斬の本人とはどうしても思はれません。
「あつしぢやありませんよ、親分」
音松は本當に泣き出しさうでした。
その間に平次は四方の樣子を念入りに調べます。ツイ三四間先には死骸が一つ、中年者の武家姿ですが、右手を柄頭に掛けたまゝ、大袈裟に斬られて、縡切れてをります。
「凄い手際だな、八」
平次は八五郎を顧みました。
重ね着をした人間を、たつた一と太刀で、これだけ斬り下げるのは、据物斬の名人でなければなりません。
「この野郎でせうか、親分」
「氣の毒だが違つたよ」
「へエ──」
「折角の手柄をフイにするやうだが、匕首でこれだけ斬れるわけはない」
成程さう言へば、音松の持つてゐたのは匕首が一口だけ、その邊に太刀も脇差も落ちてはゐません。
「へエ──」
八五郎、少し拍子拔けがしました。
「その野郎の懷中を搜つて見るがいゝ」
「──」
縛られた音松の懷中へ手を入れると中に呑んだのはよくふくらんだ紙入が一つ。逆樣にするとバラバラと二三十枚の小判が散ります。
音松を責めるまでもなく、事情は至つて簡單に分りました。音松は矢張り唯の安やくざで、獅子の屠つた獲物を漁る野狐に過ぎなかつたのです。その告白を聽けば──
「あつしも一度あの辻斬にやられましたよ。駿河臺で摺れ違ひ樣ピカリと來たとき、捨石に蹲いて轉んだのが命拾ひでした。轉がり序に石垣の下まで落ちて、死に物狂ひで逃げたが、あとで考へると口惜しくてたまりません。幸ひ辻斬野郎が年寄と女には手を出さないと聞いて、この通り年寄に化けて杖まで突いて毎晩駿河臺で張つてゐると、三日一度、七日に一度、月のない晩に限つて──辻斬野郎の出かけるのを見かけるんです。それをそつと跟けて行つて──こいつは命がけの仕事だが──斬られてヒクヒクする奴の懷中を探ると、大概三兩五兩から、多いときは五十兩にもなるんだからこたへられねエ」
「馬鹿野郎ツ」
ガラツ八の掌は、したゝかに音松の頬に鳴りました。あまりにも下劣な話に、正直者の八五郎は向つ腹を立てたのでせう。
「八、默つて聽け。──ところで、その辻斬の風體人相はどうだ」
平次はガラツ八をたしなめて、肝心の問ひを持出します。
「それが、少しも解らないから不思議ぢやありませんか」
「脊が高いとか、低いとか、年を取つてゐるとか、若いとか」
「高いやうな低いやうな、若いやうな年を取つてゐるやうな、──何しろ眞つ暗なときでなきや出て來ません」
音松の話は頼りないものです。
「それでは後を跟ける見當もつくまい」
「かんでわかりますよ。──それから──」
「それから?」
「衣摺れの音がします。近く寄るとサヤサヤと──」
「贅澤な辻斬だな」
さや〳〵と衣摺れの音の聞えるのは、羽二重か甲斐絹か精巧か綸子でなければなりません。
「親分」
ガラツ八も一脈の不安に襲はれます。曾て三代將軍家光が夜な〳〵辻斬に出て、大久保彦左衞門にたしなめられたといふ傳説的な話さへ傳はつて居ります。江戸の街の夜の秘密は何を包んでゐるか分りません。ことによれば、それは大名の世子、大旗本の二男三男と言つた、縛ることも何うすることも出來ない人間でないと誰が保證するでせう。
「辻斬はたつた一人だな」
「へエ──」
「何しろ容易ならぬことだ。今晩のことは誰にも聞かしちやならねえ。八、俺は八丁堀へ行つて來る。町役人に死骸を始末して貰つて、繩付は番所へ預けて置くんだ。──もう辻斬なんか來る氣づかひはない。一つ殘らず灯を消してそつと片付けるが宜い。世間に知れちや惡い」
平次は言ひ殘して八丁堀へ驅けました。
× × ×
それからの手段は至つて簡單でした。やくざの音松に案内さして、辻斬の出て來るといふ、駿河臺の闇に網を張りさへすれば宜かつたのです。
翌る日の晩は無駄に明けて、三日目の晩、七日月が沈んだ頃。
「大丈夫こゝに間違ひはないな、音松」
「へエ──」
ガラツ八は中腰になつて、繩付の耳に囁きます。闇が淀んだやうな駿河臺の路地、平次を加へて三人は、物の蔭に身を潜めて、曲者の出るのを待つたのです。
「俺達を騙すと承知しないよ」
少し退屈したらしいガラツ八の聲は、次第に威嚇的になります。
「シツ、默つてゐろ」
平次は二人を壓へました。路地の奧から、輕い人の跫音がして、近づくまゝに、サヤサヤと衣摺れの音も聞えるのです。
「──」
音松はゴクリと固唾を呑みながら、合圖の繩をグイと引きました。
「御用ツ」
パツと飛付いた平次、もう相手の凄さなど勘定に入れてはをられません。
「あツ」
右の腕を十手で打たれて、曲者はたじろぎました。
「神妙にせいツ」
後ろから無手と組みついたのはガラツ八です。一と揉み──いや、それにも及ばず、曲者は他愛もなく組敷かれて、ガラツ八の手でキリキリと縛り上げられたのでした。
「八、手荒なことをするな。人違ひのやうだ」
「へエ?」
「灯のあるところへ行かう──」
わざと御用の提灯などは用意しなかつた平次は、曲者を向う角の辻行燈のところまで引立てまゝした。
「親分、女ですぜ」
「分つてゐるよ」
香油と掛香の匂ひが、闇の中にも紛れやうはありません。
疎い灯で見ても、若くて美しさうな女。──俯向くと上品な鼻筋がスーツと通つて、頭巾の縁から可愛らしい唇が覗きます。
身扮は黒羽二重、兩刀を少し閂に、脊の高さまで男になりきつてをりますが、ガラツ八が手を伸ばして頭巾を解くと、下から現れたのは、初々しくも見事な島田髷ではありませんか。
「夜中、男姿でどこへ行くんだ。わけを聽かうか、お孃さん」
「──」
女は俯向いたつきり、物を言はうともしません。
「あつしは町方の御用を勤めるものだ。怪しい風體のものは、身分と行先を訊かなきやならない」
「──」
「お孃さん、身分と、用向きを言つてもらひませうか」
武家風のしかも餘程の身分らしい相手に遠慮して、平次の態度は丁寧でした。
「申し上げられません」
女は顏をあげてはつきり言ひきります。少しうるんだ大きな眼、ほの白い齒、豊かな頬。──平次が日頃附き合つてる種類の人間ではなかつたのです。
「どうあつても」
「ハイ」
「言はなきや氣の毒だが繩付きのまゝ番所へ引いて行かなきやならない」
「いたし方もないことです。──でも、女が夜中に街を歩いてはいけないでせうか」
「え?」
「用心のために男姿になつても御法に反くでせうか。お南のお奉行はよく存じてをります。その前で申開きをいたします」
平次は默り込んでしまひました。このか弱い娘に手もなくやり込められてしまつたのです。
「如何にも尤も、當方にも間違ひはあつたが、女人が夜中男姿で歩くのも穩當とは言はれまい。このまゝお引取下さるやうに──」
「では」
平次が下手に出ると、理窟を言つたのが極り惡くなつたものか、娘は眉を細めて、闇の中に消えも入りさうです。重ねた黒羽二重の袖、紋は三つ鱗。──平次の眼はヂツとそれを見詰めました。
「暫く、──そのお腰の物を拜見いたしたい」
娘は默つて兩刀を差出しました。
平次は受取つて、流儀も作法もなく、灯先に透しましたが、血曇りも刄こぼれもありません。
「親分、あの娘を逃がしてやつていゝんですか」
ガラツ八は裾を引きました。
「いゝつてことよ。あんな弱い辻斬があるものか」
「でも變ですぜ」
「若い娘を縛るのを大嫌ひなお前が、あの娘に限つて縛りたいと言ふのかえ」
「そんなつもりぢやありませんがね」
平次とガラツ八は、繩付の音松を引立てて、昌平橋の方へ下りました。
とある街角を曲つて、暗いところへ出ると、
「えツ」
不意に闇の中から平次に斬付けたものがあります。
「何をツ」
かはして、平次の十手は鳴りました。曲者の刄と、二つ三つ、闇の中に噛み合つたのです。
「親分」
ガラツ八が猛然として飛びつくのを、
「八、手を引けつ」
平次は助太刀を止めて、ツ、ツ、ツと寄ると、曲者の得物を叩き落して、ヒラリと飛び退きました。
曲者はあわてて刀を拾ひましたが、平次の鮮やかな十手に驚いたものか、二度目の襲撃は斷念して悠然と背を見せます。
「親分」
ガラツ八の腕は鳴るのでした。
「八、止さないか」
「だつて」
「そつと後を跟けろ。──ちよつかいを出すな」
「──」
大きくうなづくと、ガラツ八はヒタヒタと曲者の後を追ひました。
その報告を平次が受取つたのは、翌る日の朝でした。
「親分、お早やう」
「昨夜は御苦勞だつたな、八」
平次は朝の膳を押しやつて、上機嫌で八五郎を迎へるのでした。
「あの辻斬野郎の身許は分りましたよ」
行脚り寄つて澁茶の茶碗を引寄せながら、かう振り仰いだ八五郎の鼻は少し蠢きます。
「さうだらうとも、逃げも隱れもする相手ぢやなかつたやうだ」
「甲賀町の御家人、岩井銀之助樣、二十五の辰年だ。腕は大したものぢやねエが、男がよくて、人柄も立派だ」
「それが昨夜斬りかけた相手か」
「さうですよ。祿高百五十石、何不足のねえ身分で、辻斬とは道樂過ぎるぢやありませんか」
「あれは辻斬の本人ぢやないよ、八」
「へエ──」
平次はけろりとしてそんなことを言ふのです。
「いきなり親分へ斬りかけても?」
「辻斬なら御用聞と知つて斬りかける筈はない。お前は現に繩付を引いてゐたぢやないか」
「へエ──」
「それに、あんな腕ぢや三河町の酒村草之進を夜逃げさしたり、腕自慢の御家人を五人まで手玉に取るわけに行くまい」
「へエ?」
「第一、昨夜の曲者は、衣摺の音なんかしなかつたぜ。百五十石や百八十石の御家人ぢや、平常着に羽二重や綸子を着る筈はない。あれは辻斬の疑ひを自分の方へ振り向ける心算で、買つて出た芝居だつたのさ。斬りかける氣合だつて、眞物ぢやねえ」
平次はそんなことまで見拔いてゐるのでした。
「それぢや、眞物の辻斬野郎は誰でせう」
「分らないよ」
「へエ──」
「尤も見當だけはついてゐる。岩井銀之助の近い親類か、無二の友達で、三つ鱗を定紋にしてゐる家を搜してくれ。──駿河臺の鈴木町邊だ」
「そんなことならわけはありませんよ」
「見付かつたら、念入りに調べて來るんだぜ。いゝか」
ガラツ八はもう飛び出してをりました。
それから半日。
「親分、分つた」
ガラツ八が歸つたのはもう夕方でした。
「駿河臺鈴木町の北條出雲樣だらう」
「あ、親分、人が惡いぜ。知つてる癖に」
「いや、お旗本武鑑で見たんだ。──で何んなことが分つた」
「北條出雲樣は去年亡くなつたことは親分も御存じあるめえ」
「そいつは知らなかつた。で、跡取りは?」
「北條左母次郎樣。──二十七の無役だ。祿高三千二百石、殿樣と言はれる御身分だが、腕ができて疳が強くて、人附合ひが嫌ひで、御近所でも疫病神のやうに恐れてゐる」
「それから」
「お妹は萩野さんと言つて、取つて二十歳。美しくて優しくて、辨天樣の申子のやうなお孃さんだ」
「で──?」
「その萩野といふ娘と、甲賀町の御家人岩井銀之助が、許婚の間柄と聞いたらどんなもので」
「お孃さんを見たのか」
「見られるわけはありませんよ。半日や一日頑張つたつて」
「見るとびつくりするよ。──まあいゝ。それで大方分つたが、三千二百石と百五十石の縁組は少し不釣合ぢやないか」
平次の注意は細かいところまで行屆きます。
「北條家と岩井家は縁續きなんださうですよ。それに、岩井銀之助といふのがあの通りの男だから、三千二百石のお姫樣が一生懸命なんださうで──」
「まア宜い。──それで大方見當はついたが──」
「辻斬野郎は矢張りあの岩井銀之助でせうか? それとも?」
「相手が惡いな、八。三千二百石の殿樣ぢや口惜しくたつて縛りやうがない」
「へエ──」
平次は北條左母次郎に眼をつけた樣子です。が、町方の御用聞では、この三千二百石取りの曲者をどうすることもできません。
それから十日あまり、とも角も江戸の夜は無事に過ぎました。が、月の出が遲くなつて、宵闇が濃くなると、冷酷無殘な辻斬がまたも活動を始めたのです。
旗本北條左母次郎、祖先の手柄で、三千二百石の大祿を食み、役付になれば、隨分人の羨やむ出世もできる筈のを天才的な腕が理智を虐げて、人を斬つて見たいといふ恐しい病に取りつかれたのでした。
最初は卷藁、それから、身分の者は憚つた刑場の二つ胴試し、ツイ惡友に誘はれて、その頃によくあつた辻斬を試みてから、次第に病的な嗜好が高じて、江戸の街の闇を横行して、生身を試すことに浮身を窶すやうになつたのです。
妹の萩野は、兄の氣違ひ染みた病癖を知つて、命を投げ出す覺悟で諫めました。祖先の武名のため、三千二百石の家祿のため、眞に必死の思ひでしたが、歪んだ兄の嗜好は、妹の涙くらゐでは引戻せさうもなく、次第々々に惡業が募るばかりでした。
近頃は町方御用聞が活動を始め、捕物の名人と言はれる錢形平次が乘り出したことが、萩野に取つては我慢のならない恐怖でした。が、兄の左母次郎は自分の腕に信頼しきつて、平次如きは眼中にありません。
その晩もたうとう、一刀を提げて、裏口からフラリと外へ出てしまつたのです。血に渇く辻斬病患者は、近頃はもう老人と女でさへなければ、どんな相手でも構はなかつたのでした。
駿河臺を降りて、九段の方へ──狹い路地を拔けると、向うからスタスタとやつて來る、一人の武家がありました。
覆面、黒裝束、兩刀を少し閂に、強いやうな、弱いやうな、得體の知れない手觸りですが、北條左母次郎はもう、相手の見境もありませんでした。
「え──ツ」
摺れ違ひ樣、例の一刀兩斷と思ふ小手へ、どこから投つたか、發止と叩きつけた礫が一つ。
「あツ」
北條左母次郎思はず氣合を挫かれて、折角の獲物を斬り損ねました。が、もとよりそんなことで諦める左母次郎ではありません。
摺れ違つて、二三歩後の方へ、スタスタと行く相手へ、追ひ討ちに一と太刀、
「え──ツ」
存分に浴びせる筈の手は、思はず宙に釘付けになりました。何やら闇を縫つて飛んで來た物が、したゝかに、左母次郎の振り冠つた拳を打つたのです。
「御用ツ」
錢形平次です。曲者──北條左母次郎と、斬りかけられた武士との間に立つて、高々と右手が擧りました。得意の投げ錢が、二度まで、曲者の襲撃を妨げたのでした。
早くも形勢を察した左母次郎は、物をも言はず、猛然と平次に斬つてかゝりました。
「御用ツ、神妙にせい」
十手は火花を吐きます。二合三合、猛烈な襲撃にたまり兼ねて、平次は辛くも飛び退きました。
距離さへ出來れば、得意の投げ錢が物を言ひます。
「御用だぞツ」
三つ、五つ、八つ、平次の手から投り出される青錢は、左母次郎の眉間へ、唇へ、肘へ、拳へと飛びますが、左母次郎は一刀を巧みに使つて、その十の八つ九つまではハネ返します。
それは實に恐しい相手でした。
そのうへ、一度は逃げた黒裝束の武家が、何時の間に戻つて來たか、左母次郎が危なくなると、平次の後ろから牽制して、必勝の止めを妨げるのです。
「八」
平次は到頭怒鳴りました。
「應ツ」
どこからともなく八五郎の聲が應ずると、それを合圖に物の蔭、町家の庇、塀の袂、──あらゆる場所から、御用の提灯が無數に現れて巴になつて斬り結ぶ三人を照らし、それに續いて、十重二十重の捕物陣が、ヒタヒタと押し寄せます。
平次は先の先まで見拔いて、この辻斬狂を袋の中に追ひ込んだのでせう。
「ウ──ム」
北條左母次郎も、事態を察しました。これだけの人數を斬り拔けることは、人間業ではできさうもありません。
「御用」
「御用だぞツ」
「神妙にせい」
四方に迫る御用の聲の中に、平次の聲は凛として響きました。
「恥を知らぬか、北條左母次郎。──妹御、萩野樣は、諫め兼ねて、斬られて死なうとしたぞ。あれを見るがいゝ」
平次が指さす方、氾濫する灯の中に、ツイ今しがた左母次郎に斬りかけられた黒裝束の武家は、覆面を剥がれて、紛れもない妹萩野の顏を晒してゐるのです。
「──岩井銀之助樣は、非道の其方に代つて、縛られようとしたことさへあるぞ。人の心の、こんなにも温く美しい中に、其方の曲りひねくれた根性は何んとしたことだ。恥かしいとは思はぬか」
「──」
「それとも繩打つて、龍の口へ突き出さうか」
「──」
「十幾人の無辜を殺した惡虐無道、天道樣も許しては置かぬぞ」
振り冠つた左母次郎の刄の下に、錢形平次の聲は凛々と響くのでした。
「萩野」
曲者は一と聲、純情の妹に聲を掛けると、次の瞬間、振り冠つた刀を降して自分の腹に突つ立ててをりました。
「兄上」
飛びつく男姿の萩野。
「妹、許せよ」
キリキリと引き廻す刄に、次第に死の色が曲者の頬に濃くなります。四方を照らす幾十とも知れぬ提灯。その灯の洪水の中から覗く夥しい人の顏も、劇的な情景に打たれて、一言の口をきく者もありません。
× × ×
「驚いたぜ、親分。こんな捕物は初めてだ」
事件がその晩のうちに落着して、八丁堀の笹野新三郎に報告して歸ると、ガラツ八は平次を迎へて好奇心にハチきれさうな質問を浴びせるのでした。
「俺だつて初めてだよ」
「あの北條左母次郎といふのが、何が面白くてあんなに人を斬つたんでせう」
「腕が出來て、心が練れないからだよ」
平次は悟つたことを言ひます。
「あつしなんざ、腕はできないが、その代り心が練れてゐるから無暗に人なんか斬る氣にならない」
「まア、その氣でゐるがいゝ。──辻斬なんて飛んでもない道樂さ。人を蟲ケラのやうに思はなきやできないことだ」
「ところで、どうして北條左母次郎と分つたんです」
「理窟ぢやない、勘だよ。詳しく言へば三つ鱗の紋と、旗本武鑑と、あの妹の萩野の顏色さ。──兄を諫め兼ねて、自分が縛られて、兄に強意見をしようと思ひ込んだ一本氣には驚いたね」
「岩井銀之助は?」
「それと感付いて、萩野の後を跟けて來たのさ。萩野が捉まつたと知つて、自分が辻斬になり濟し、萩野と兄の左母次郎を助けようとしたんだらう。それにしちや拙いが心意氣だけは買つてやらうよ」
「武家のすることは一々變つてゐるんだね。で、後はどうなるでせう」
「そいつは分らない。が、あんなに多勢の人を害めては、北條家は立ち行くまいよ」
平次は何も彼も見透したやうなことを言ふのです。
事實は全くその通りで、北條家は取潰し、萩野は間もなく岩井家に縁付いて、幸せに送りました。三千二百石の大旗本を一つ潰して、平次は寢覺めの惡い思ひをしましたが、その代り左母次郎に腹を切らせたために、平次の手柄もフイになり、内々笹野新三郎からお褒めの言葉があつただけで事件は闇から闇へ葬られてしまひました。
「武家の騷動は眞平だ。大江山の鬼退治の方がまだしも面白からうよ、なア八」
平次はさう言つてカラカラと笑ふのでした。
底本:「錢形平次捕物全集第二十四卷 吹矢の紅」同光社
1954(昭和29)年4月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1941(昭和16)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
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校正:門田裕志
2016年6月10日作成
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