錢形平次捕物控
お由良の罪
野村胡堂
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「親分、變なことがありますよ」
「何が變なんだ。──まだ朝飯も濟まないのに、いきなり飛び込んで來て」
五月のよく晴れた朝、差當つて急ぎの御用もない錢形平次は、八五郎でも誘つて、どこかへ遊びに行かうかと言つた、太平無事なことを考へてゐる矢先、當の八五郎は少しめかし込んだ恰好で、飛び込んで來たのです。
「それがね、親分」
ガラツ八は少し言ひにくさうでもあります。
「めかし込んでゐる癖に、ひどく取亂してゐるぢやないか。火事か喧嘩か、それとも借金取りか」
「そんなのぢやありませんよ──今日は飯田町のお由良と一緒に龜戸の天神樣へ藤を見に出かける約束で、朝早く誘ひに行くと──」
ガラツ八は少しばかり照れ臭い顏になりました。
「お由良? あの柳屋の評判娘かい──あの娘は悧巧過ぎて附き合ひにくいよ。──世間で騷ぐほど綺麗ぢやねえが、お前にはお職過ぎらア、附き合はねえ方がおためだぜ」
「意見は後で承はるとして、まアあつしの話を聽いて下さいよ。そのお由良を誘ひに行くと、昨夜から歸らないつて、柳屋の親爺が蒼くなつてゐる騷ぎでさ、知り合ひや近い親類も訊いたが、どこへもこの二三日顏を出しちやゐない。──夜逃げをする程の不義理もないから、もしか」
八五郎はまたゴクリと固唾を呑みました。
「誘拐されでもしたんぢやあるまいかといふ話だらう。──あの眼から鼻へ拔けるやうな悧巧者のお由良が、金紋先箱で迎ひに來たつて騙されて行くものか」
「それぢや駈落──」
「駈落なんてえのは馬鹿のすることだよ。本所の叔母さんとか、湯島の從妹とかのところへ行つてゐるんだらう」
「そんなのはありませんよ。どうかしたら?」
「待つてくれ、悧巧者のお由良だけに氣になるぜ。近頃懇意にしてゐる男でもなかつたのか」
「近いうちに、伊勢屋の治三郎と一緒になるといふ話はありますがね」
「それぢやお由良には玉の輿だ。祝言前に評判を立てられるやうなお由良ぢやあるめえ。──こいつは變だよ、もう一度行つて見るがいゝ」
「ね、親分」
ガラツ八の八五郎は一生懸命でした。その頃飯田町の飮屋の看板娘でお由良といふのは、色の淺黒い丸ぽちやの二十歳娘で、さして綺麗ではなかつたのですが、滴る愛嬌と、拔群の才氣で、見る影もない小料理屋の娘ながら、神田から番町へかけての人氣を呼んでゐるのでした。
一寸一パイの折助や手代から、二階へ押し上がつて大盡風を吹かせる安旗本の次男三男、大店の息子手合まで、お由良の愛嬌に溺れる者も少くなかつた中に、ガラツ八の八五郎も散々お賽錢を入れ揚げた講中の一人で、三月越し執拗に口説いた擧句、近く足を洗ふお由良も最後の奉仕の心算で一日店を休んで龜戸の藤見に──それも三四人の友達附でやつと附き合ふ約束のできたところを、いざといふ日の前の晩から行方不知になつたのですから、ガラツ八の驚きやうの並大抵ではなかつたのも無理はありません。
錢形平次も、何にか知ら、突き詰めた八五郎の顏を見ると、いつもの調子でからかつてばかりもゐられないやうな氣になるのです。
それからものの四半刻(三十分)ばかり。
二度目に飛び込んで來たガラツ八は、今度こそ本當に逆上あがつてをりました。
「親分。た、大變」
「さア、來た──その大變が來さうな空合だつたよ。お由良がどうしたんだ」
「死んでゐましたよ、親分」
「何? 死んでゐた──矢張りそんなことだつたのか、どこで死んでゐたんだ」
「水道橋の下手──上水の樋の足に引つ掛つてゐたのを、船頭が見付けて引揚げましたが、もう蟲の息さへもねエ──可哀想に──」
「泣くなよ、八。身投げをするやうなお由良ぢやないが、踏み外したのか、それとも突き落されたのか」
「それが解らないから、親分へ相談に來ましたよ。元町の仙太親分の見込みは、お由良を附け廻してゐた浪人者の織部鐵之助か、上總屋の番頭の金五郎か、大工の若吉か下剃の幾松が怪しいつて言ふが──」
「待つてくれ、そんなに下手人があつちや、命が七つ八つあつてもお由良は免れやうはねエ」
「その外に、お由良と張り合つてゐたお美代も、お松も怪しい──」
「やり切れねエなア、さうなりや、八五郎だつて怪しからう。近頃はお由良のことといふと、夢中だつたぜ」
「親分、どうしたものでせう」
八五郎はドツカと腰をおろしました。少し眼の色が變つてゐるやうです。
お由良の死骸は、水道橋の橋詰に三文菓子を商つてゐるお關の家に擔ぎ込み、そこで檢屍を受けてから飯田町の家へ運ぶことになりました。
お關はお由良の亡くなつた母親と懇意で、お由良の相談相手でもあり、良い小母さんでもあつたのですが、お關の一人息子で──ツイ三崎町の海老床で下剃をしてゐた幾松が、氣が少し變になつて、家へ引取られてブラブラしてゐるやうになつてから、お由良の足も遠退きましたが、鼻の先の水道橋下から死體になつて引揚げられると、矢張りお關の家の庇の下で、諸人の好奇の眼から、死骸の恥を蔽うてやる外はなかつたのです。
顏の古い御用聞──元町の仙太も、お由良は投身なんかする女ではないと睨んで、誰彼の差別なく引括りさうな劍幕でしたが、關係者があまりに多かつたので、どこから手を着けていゝか判らず、さすが持て餘し氣味で、子分や彌次馬を叱り飛ばしてをります。
「お、錢形の」
平次はそこへやつて來ました。
「元町の親分、矢張り殺しといふ見當かい」
「身を投げるやうなお由良ぢやないよ。男といふ男はみんな寄つてたかつてチヤホヤしてくれるんだ。この世の中が面白くてたまらない女だつたよ」
「成程ね」
さすがに仙太は老巧でした。
「死骸を見てくれるかい」
「そいつは眼の毒だが」
そんなことを言ふ平次を、仙太はお關の家へ案内してくれました。
お茶の水の崖に、後ろ半分乘出したやうなお關の家の、往來からは完全に隱された裏の空地に、お由良の死骸は筵を被せられてあります。
「フーム」
筵を剥いで一と眼──平次は唸りました。拔群に優れたのは才智で、さして美しくはないと思つたお由良ですが、一度「死」によつて淨化されると、それは思ひも寄らぬ美しい變貌を遂げてゐるのです。
「切つた傷は一つもないよ──突き落されるまで、默つてゐるお由良ぢやあるまいから、よつ程力のある奴が、橋の上から足でもさらつて、一と思ひに投り込んだんだらう。首筋の打撲傷はその時橋架へでも打つ付けたのかも知れない」
「待つてくれ、元町の親分。これは一體どうしたことだ」
死骸の首から肩のあたりへかけて、皮下出血らしい不氣味な斑點があり、首筋のあたりは碎かれてをりますが、充分、疑ひを持たせた口の中は、何んの異常もありません。
「毒ではないよ。口の中は少しも變つてゐない」
仙太は平次の顏にこびり付く難しい疑ひを解くやうにかう言ふのです。
「だが、この打撲傷はをかしいぜ」
「橋架でなきや水の中に杭でもあつたのかな」
「こいつは考へて見ると判らないことばかりだ」
平次はさう言ひながら、死骸の上に筵をかけてやつて、片手拜みに側を離れました。
「柳屋の親爺が來てゐるが、逢つて見ないか」
「そいつはいゝ鹽梅だ」
平次はガラツ八に合圖をして、お由良の父親をつれて來させました。崖の上を削つたほんの少しばかりの空地ですが、こゝで調べるには、往來から見える氣遣ひはありません。
「親分さん方、御苦勞樣で御座います──」
よく禿げた五十年輩の小さい中老人──彌吉は、卑屈らしく二つ三つお辭儀をして手を揉むのでした。
「爺さん、飛んだことだつたね」
「へエ、へエ」
「お由良が家を出たのは昨夜の何ん刻だえ」
「まだ宵のうち、戌刻(八時)そこ〳〵で御座いました。この節は物騷だから、女の夜歩きは止せと申してをりましたが、私に隱れるやうに、何時の間にやら見えなくなつてしまひました」
「ちよい〳〵そんなことがあるのか」
「へエ──」
氣性者のお由良は夜歩きなどは何んとも思つてはゐなかつたのでせう。
「どこへ出かけるか見當くらゐはつくだらう」
「夕方、伊勢屋さんが來たやうで御座いましたが、店が立て混んでゐるので、よくは判りません。へエ」
「いろ〳〵懇意な男があつたやうだな」
平次は苦々しくそんなことを訊くのです。
「そんなことはございません。世間では何んと申しますか存じませんが──お由良は悧巧者で、勝手に男を拵へるやうなそんな娘ぢや御座いません」
「なる程ね」
それは多分本當でせう。愛嬌があつて、口上手で、一寸喉がよくて、眼から鼻へ拔ける才氣と、人の心を見透す賢さを持つたお由良は、玉の輿のねらひが眞劍だつただけに滅多なことで男と關係する筈はなかつたのでせう。
「それに、近いうちに、伊勢屋の旦那と祝言する筈でございました」
飯田町の酒屋で、一寸知られた物持の伊勢屋治三郎は、三年前女房に死なれてから、三十五の男盛りをやもめ暮しを續け、お由良が懷ろへ飛び込んで來るのを、長い間待つてゐたのです。
「お由良を欲しいといふのが、大分あつたさうぢやないか」
「それはございました。御浪人の織部鐵之助樣も、上總屋の番頭の金五郎さんも、若吉親方も、こゝの息子の幾松さんも──」
お由良の父親は、娘の威力を勘定するやうに、慕ひ寄つた男の名前を一つ〳〵積み上げるのです。
「お由良は酒を飮んだのかい」
「へエ──」
商賣柄、それは訊くだけ野暮だつたのでせう。
「伊勢屋へ嫁にやるといふのは、何時のことだつたんだ」
「近いうちといふだけで、まだ日までは決つてをりません。尤もいざとなれば、私風情の娘ですから明日にも嫁にやれないことはございません」
そこへお關が出て來ました。いや、出たといふよりは尻ごみするのを、八五郎に引出されたといふ方が穩當でせう。
「昨夜、お由良が來なかつたのか」
平次は靜かに訊きました。
「へエ──いえ、お由良さんはもう三月も姿を見せません」
生れて初めて御用聞に物を訊かれて五十女のお關はすつかり顫へ上つて了つたのです。
「お前の伜の幾松と、お由良を一緒にする心算ぢやなかつたのか」
「へエー、お由良さんが小さい時分には、そんなことを考へたことも言つたこともありますが、年頃になると、男達に騷がれるのが面白さうで、こちとらでは及びも付きませんでした」
お關は何んとなく物悲しさうです。世帶やつれのした、駄菓子屋の五十女は、何も彼も諦めることに馴れた姿です。
「幾松は身體が惡いさうぢやないか」
「世間樣は氣狂ひのやうに言ひますが、人樣に顏を合せるのを嫌がるだけで、別にどうもしたわけぢやありません──あれあの通り」
振り返るとどこの隙間からか此方を見てゐたらしい幾松はあわてて物蔭に姿を隱すのでした。
兎に角、剃刀を持つ稼業には向かなかつたので、母親のもとに歸されましたが、亂暴をするんでも、間違つたことを言ふでもなく、暗いところに引込んで、何時までも何時までも默つて、考へ込んでゐると言つた、世にいふ氣欝の嵩じた症状だつたのです。
續いて嫌がる幾松を、無理にガラツ八に引出させて見ましたが、そんな具合で筋の通つたことを言はせる望みもなく、唯二十四といふ立派な職人が、人附合ひもせずに、暗いところに引込んでゐなければならぬみじめさを、哀れ深く見ただけのことです。
「お前はお由良をどう思ふ?」
平次はいろ〳〵に問ひ試みました。が、幾松は、
「──」
蒼白い顏を硬張らせて、何んにも言はうとはしません。洗ひざらしの縞目も判らない袷一枚、月代は伸びるに任せて、手も足も無殘に垢に塗れたのが、磁石に引かれる鐵片のやうに、無氣味な二つの瞳ばかりは、空地の隅に轉がされた、お由良の死骸に吸ひ付くのです。
「無駄だよ、錢形の。それより他のを當つて見よう」
元町の仙太は、とうにこの氣鬱病患者に匙を投げてをります。
それから平次と八五郎はお由良に少しでも關係のありさうな筋を、片つ端から當つて見ました。最初にお弓町に住んで竹刀を削つてゐる浪人者の織部鐵之助。
「ほゝう、お由良が死んだのか、そいつは大笑ひだ。いづれ疊の上で死ぬ女ぢやないとは思つたが──」
かう言つた調子の、三十近い尾羽打枯らした姿です。
「それに就いて、お由良が身を投げるやうな心當りはございませんか」
「ないよ、あの女が身を投げる氣になれば世の中を少しは見直す」
「へエー」
「あの女は薄情で悧巧過ぎて、腹の立つ女だが、附き合つてゐちやこの上もなく面白い女だつたよ。賢い女といふものは、美人よりも男を夢中にさせるな」
「──」
「俺も少しばかりの貯蓄をすつかり費ひ果して、竹刀削りの内職で命を繋ぐやうな目に逢つてゐるが、一年ばかりの間散々面白い思ひをしたから、あの女を怨んでゐるわけぢやない──死んだと聽くと少しは可哀想にもなるよ」
織部鐵之助は痩せた頬を撫でて、カラカラと笑ふのです。何にかかう虚無的になつた棄鉢な諦めを感じさせる男です。
「そのお由良に何時お逢ひになりました」
「昨夜逢つたよ」
「えツ?」
鐵之助の言葉はあまりに豫想外です。
「昨夜逢つたのが、そんなに不思議かえ」
「どこでお逢ひになりました」
「戌刻(八時)過ぎに、たつた一人でこゝへやつて來たよ──尤も、お由良には言はないが、誰か跟いて來て外で見張つてゐる樣だつたが、──俺のところへ來たのは初めてぢやない。時々そんなことをする女だつたよ。昨夜は久し振りだから少し驚いたが──尤も用事もあつた」
「どんな用事で?」
「近いうちに、伊勢屋へ嫁入りすることになつたから、その心算で──といふ丁寧な挨拶だ。少しは小癪に障つたが、起請を取交したわけでも、夫婦約束をしたわけでもないから、文句の言ひやうはない。正直にお祝を申上げて歸つて貰つたのさ。これが武士のたしなみと言ふものだ、ハツハツ」
洞ろな笑ひがケラケラと響きます。
「それつきりで」
「殘念ながらそれつきりだよ──お由良といふ女は、さう言つた女だ。今までいろ〳〵の男と附き合つて、散々良い心持に自惚れさせてゐるから、いざ嫁入りとなると、後の祟のないやうに、自分で一々始末を付けて歩いたのさ。あれほど確かな縁切りはない」
鐵之助の痩せた頬には、苦澁な笑ひが淀むのです。
「それで旦那は?」
「綺麗薩張諦めたよ。本人から後腐れないやうな挨拶をされちや、男の方から未練を言ふ筋はあるまい。──あの女は多勢の男へ附合つて、その一人々々を鏡にして、自分の才智や愛嬌や辯舌や容貌を映して樂しんでゐたんだね。俺や金五郎や若吉に氣があつたわけでも何んでもないのさ、あの女の心はいつでも勘定づくで冷たくなつてゐる──三十五になる意氣地のない伊勢屋の治三郎のところへ嫁く氣になつたのはそのためさ。──あの女は火の燃えるやうな女だが、昨夜は冷んやりとするほど冷えきつてゐたよ。へツ、へツ」
鐵之助はさう言ひきつて、苦々しく笑ひを絞り出すのです。
「旦那は昨夜どこへも出ませんか」
「お由良を追つかけて行つて、野良犬のやうに斬つて捨てようかと思つたが、止したよ。祖先や故主のお名が出ちや濟まない」
「──」
「婆アに五合取つて貰つて、手酌でやらかして寢て了つた──惜しいと思つたが、一と足も出なかつたよ」
お勝手の方でゴトゴトやつている六十がらみの雇婆さんに訊いても、その言葉に嘘はありません。
神保町の質屋、──上總屋の番頭金五郎は、お由良が殺されて御用聞が來たと聽いて、唯もう顫へ上がつてしまひましたが、昨夜宵のうちにお由良が訪ねて來て、豫ての打合せの合圖で路地の外に誘ひ出され、ほんの二た口三口話をしたつきり、中へ入つて多勢の手代達と一緒に寢てしまつたことに何んの疑ひもありません。
「お由良は何んの用事で來たんだ」
「それがその大變なことで──」
「大變なこと?」
「へエー、近いうちに伊勢屋へ嫁くことになつたから、その心算でゐてくれ。何んの約束をしたわけでもないから、默つてゐてもいゝやうなものだが、治三郎さんが氣にするから、はつきり斷つて置く。あとで彼れこれ言つてくれないやうに──といふ挨拶でございました」
三十男の金五郎は、自分にかゝる疑ひを極度に恐れて、ワクワクしながらこれだけのことを言ひきりました。
「ひどくはつきりしてゐるんだね──ところで、お由良をうんと怨んでゐる者がある筈だが、心當りはないのか」
「怨んでゐるとすれば、お關母子でございませう。あの幾松といふ男は子供の時飯事見たいな話でせうが、夫婦約束までしたさうで、長い間お由良をつけ廻してゐましたよ。それを五月蠅がつて、一度はつきり斷つたさうで、幾松はそれつきり柳屋へ來ませんが、その代り氣が少し變になつたとかで、たうとう海老床も止したと聞きました」
「それつきりか」
「へエー」
金五郎は不安と恐怖にさいなまれてゐる樣子で、昨夜お由良を跟けてゐた者にも氣が付かず、それ以上は何を訊いても要領を得ません。
もう一人、お由良をつけ廻した大工の若吉は、四五日前から佐倉の普請へ行つて留守。
「お由良の講中で殘るのは、八、お前ばかりだぜ」
「へエー」
「へエーぢやないよ、昨夜どこへ行つたんだ。眞つ直ぐに白状しな」
「驚いたなどうも。──親分のところで碁を打つてたぢやありませんか」
「あ、さうか、それで安心したよ。お前は確かに下手人ぢやねエ」
「冗談ぢやありません」
八五郎まことに散々です。
「だが、外の男は、此方から押し掛けて行つて、後腐れのないやうに斷つたお由良が、八五郎だけは懷ろに突つ張つてゐる十手の手前もあるから、今日半日神妙に附き合つてよ、天神樣の藤を眺めながらお前に止めを刺さうといふ段取りだつたのさ。臺詞はかうだ──八五郎さんとは夫婦約束をした覺えはないから、これから逢つても口もきかないやうに──とな」
「へツ」
八五郎は照れ隱しに鼻を撫であげます。
平次は時を移さず飯田町の伊勢屋へ飛んで行きました。
「主人の治三郎はゐるかい、俺は神田の平次だが──」
「へエ、私がその治三郎でございますが──」
帳場で心も空の算盤を彈いてゐるのは、三十五六の青白い中年男。意氣地のないやうな、そのくせ一克者らしい治三郎でした。
「お由良の死んだことは知つてるだらうな」
「へエ──」
それを承知の上、素知らぬ顏で算盤を彈かなければならぬ治三郎の心持は、平次にも解りません。
「それをどう思ふ」
「へエ」
「店の者のゐないところで、ゆつくり話を聽きたいが──」
平次は四方に眼を光らす手代や丁稚達の顏を見渡して、たうとうかうきり出さなければなりませんでした。
「それではどうぞ此方へ──」
奧の一と間、店の者の眼の及ばないところに行くと、平次は改めて訊きました。
「由良は殺されたんだが、心當りはないのか──打ち明けて話して貰ひたいが──」
「そのことで御座います、親分さん。奉公人達の手前、私は我慢に我慢をしてをりますが、朝から眞つ暗な心持で、この先どうして生きていゝか見當も付きません」
「──」
治三郎の言葉はようやくほぐれました。
「お由良は内證にして置いてくれと、堅く口止めしましたが、實は明日にもお由良を引取つて、内祝言する筈でございました。店の者にも内々申し聞かせ、出入りの酒屋、肴屋、鳶頭にも話して、内々仕度をしてゐると、あの騷ぎでございます。私はもう、どうしていゝかこの先生きて行く張り合ひもないやうな心持でございます」
「──」
治三郎の涙聲になつた愚痴を聽きながら、平次はチラリとガラツ八に眼配せしました。治三郎の言つたことを、店の者や出入りの商人達に確かめさせる心算でせう。ガラツ八は早くもその意嚮を察すると、よく馴れた獵犬の樣に素早く座を外して、どこかへ行つて了つたのです。
「誰があんな慘たらしいことをしたかわりませんが、どうか、敵を討つて下さい。お願ひでございます、親分」
「お由良を殺したのは誰だらう、見當くらゐは付かないものかな」
平次は脈を引きました。
「何分あの通り、人氣者のお由良でございましたから──」
治三郎にも見當は付かない樣子です。
「昨夜はお由良に逢はなかつたのか」
「逢ひません、──あと二三日の辛抱で、こゝへ來て貰へると思ひましたので、宵からこの部屋に引籠つて、帳面の調べをいたしました」
最後の晩に逢へなかつた悲しみが、治三郎をさいなむ樣子です。
そんなことで切上げて、伊勢屋を出た平次は、路地の外でハタと心得顏のガラツ八に逢ひました。
「親分、治三郎の言ふ通りだ。祝言は明後日に決まつてゐましたぜ。柳屋の親爺は不承知だつたが、それはいづれ金で承服させる心算だつたんでせう」
「昨夜治三郎は外へ出なかつたのか」
「晩飯が濟むと、婚禮前に帳面を調べるからと、一人で奧へ引込んださうですよ」
「今までそんなことがあつたのか」
「時々あつたやうです。十日に一度とか、一と月に一度とか」
「さてこゝまで來て見ると、お由良を殺しさうなのは一人もないぢやないか。どうしたもんだらうな八」
平次も少し持て余した樣子です。
「水道橋へ引返しませう。お關親子が一番臭いぢやありませんか」
水道橋へ引返すと事件は急轉回をしてをりました。
お關と幾松の樣子が變なので、多勢の子分に見張らせてゐた元町の仙太は、お關が貧乏徳利の酒を川に捨てるところを見付けて、有無を言はせず、母子を縛つて番屋へ引立てて了つたといふのです。
「錢形の兄哥、氣の毒だが一と足先に下手人を縛つて了つたよ。お關が川へ捨てた酒の中には、石見銀山と言つたやうな毒が入つてゐたに違ひない、──伜の幾松の氣が變になつたのは、お由良のせゐだから、昨夜ヌケヌケと縁切話に來たお由良に、毒を盛る氣になつたのも無理はないよ」
元町の仙太は得々として言ふのです。
「昨夜お由良が來ると解つて、毒を用意したのかな」
「さア、そこまでは判らないが──」
平次の投げた疑問の重大さを、元町の仙太は消化しきれない樣子です。
「お由良の肩の斑點を、俺は撲つた傷だと思ふよ──毒で死んだのなら、口の中がどうかなつてゐる筈だし、胸のあたりにも斑點が出る筈だ」
平次は續けて疑問を投げました。
「そんなこともあるだらうよ。だが錢形の、お關は白状してゐるんだぜ」
「えつ」
「お由良は昨夜亥時(十時)過ぎに、お關母子のところへ來て、あんまりひどいことを言ふから、腹を据ゑ兼ねて毒の入つてゐる酒を呑ませたといふんだ」
「待つてくれ元町の、そいつは大變な番狂はせだが、俺が考へてゐた筋道とはまるつきり違つて來る。──お關母子に逢はせてくれないか」
「いゝとも」
平次は仙太と一緒に、その足で番所まで伸しました。
お關と幾松は嚴重に縛られて、口書を取つて奉行所に送られるばかりになつてゐましたが、錢形平次はその繩を解かせて、さて問ひ進むのです。
「お由良に毒を飮ませた──と言ふさうだが、その毒はどうして用意したんだ。昨夜お由良の來るのが解つてゐたとでも言ふのか」
「親分さん、聽いて下さい──お由良の母親と私は幼な馴染で、お由良は幾松と一緒に育ちました。お互に言ひ交さなくとも、大きくなつたら一緒にと親同士の言つたことを聽いてゐるのに違ひありません」
お由良と幾松が、幼な友達といふ埒を越えて、樂しい將來を夢みる間だつたことは、お關の説明をまつまでもなく明らかなことです。
そのお由良が次第に賢く冷たくなつて多勢の男達にチヤホヤされるに從つて、下剃の幾松を疎ましく見たのはまことに自然な成行で、幾松がそれを悲觀して、極度の憂鬱症に陷つたのも考へられることでした。
世帶の苦勞に、虐げ拔かれたお關が、伜の憂鬱症を救ふ唯一の道として、母子心中を企てたことも、また考へられない節ではありません。
「私と幾松と、一緒に死んで了へば、それで市が榮えるでせう。生きてゐる樂しみも望みもない母子が、死ぬ氣になつたのは無理でせうか。石見銀山の鼠取りを酒で呑んで、一緒に死ぬ氣でゐましたがいざとなつて石見銀山が手に入らなかつたので、本郷三丁目の生藥屋で、○○を買つて來て酒に入れ、幾松と二人で呑んで死ぬ心算でゐるところへ、いきなりお由良が飛び込んで來ました」
「──」
「お由良は少しは醉つてゐる樣子でしたが、──近いうちに伊勢屋へ嫁くことになつたから、古い關係はないことにして、これから道で逢つても口を利かないかも知れない。私も大家の嫁になるんだから、それくらゐのことは我慢してくれと、自分勝手なことを言ひます」
「──」
「どうせ死ぬ氣の母子ですから、腹が立ちながらもいゝ加減にあしらつてゐると、すつかり有頂天になつて、私達母子が死ぬために用意した酒を、湯呑に注いで、アツと言ふ間に二杯も立て續けに呑んで了ひました。──私も幾松もあつけに取られて見てゐると、お由良は言ひたいだけのことを言つて、フラフラと出て行きました。酒の中にはうんと○○が入つてゐます。私は心配でたまらないから、そつと後を跟けて行くと──」
「直ぐ後を跟けたのか」
平次は言葉を挾みました。
「いえ、ほんの煙草を二三服ほどの間はありました。──お由良の後を跟けるともなく水道橋へ行くと──橋の欄干に凭れて死んでゐるのが、ツイ今しがた私の家を出て行つたお由良ぢやありませんか」
お關はその時の事を思ひ出したか、ゴクリと固唾を呑みます。
「それからどうした」
と平次。
「月の光に照らされた死顏を見ると、私は急に死ぬのが怖くなりました。──こゝでお由良の死骸が見付かると、私と幾松に疑ひがかゝると思つたので、恐々ながら、橋の欄干の間を潜らせて、お由良の死骸を川へ落してしまひました」
「その時、死骸が橋架か水除か何かに引つ掛らなかつたのか」
「いえ、眞つ直ぐに水の中へ落ちましたよ。──大きな音を立てて──私は大急ぎで歸つて來て、まんじりともせずに明してしまひましたが──」
お關の言ふのは、本當でせう。今は死の恐怖から解放されて、どうともなれと言つた捨鉢な氣持が、疲れ果てた五十女の、自白となつた樣子です。
「親分」
「どうした八」
「本郷三丁目の生藥屋ぢや、お關へ○○なんか賣らないつて言つてゐますよ」
「?」
ガラツ八の報告は平次にも豫想外です。
「お關は──鼠が多いから、石見銀山の代りに○○を欲しいと言つて來たが、ひどく突き詰めた樣子だし、橋の袂で駄菓子を賣つてゐるお關の苦勞も知つてゐるから、うつかり毒藥を賣るわけにも行かず、番頭と相談して、○○だと言つて、實は砂糖を賣つたと──手代が言ふんです」
「本當かい、それは?」
あまりのことに平次も驚きました。
「番頭も手代も言ふんだから、ウソぢやないでせう」
「すると、お關母子は砂糖酒を呑んで死ぬ心算だつたんだね」
「まア、そんなことですね」
「そして、お由良は砂糖酒で死んだことになるわけだ」
「──」
「八、こいつは面白くなつて來たぜ。もう一度振出しに戻つて、やり直しだ」
「どこへ行くんで? 親分」
「柳屋を調べなかつたのが手落だよ。來るか、八」
「へエ──」
二人は飯田町に飛びました。柳屋はお由良の死骸を持込んで、ひと方ならぬ混雜でしたが、お勝手口からそつと滑り込んだ平次とガラツ八は、親爺の彌吉を物蔭に呼んで、一生懸命の調べを始めたのです。
「お由良の敵を討ちたいとは思はないのか」
平次の問ひは唐突ですがこの上もなく效果的でした。
「それは言ふまでも御座いませんよ、親分さん」
「それぢや、誰が一番お由良を怨んでゐたか、そいつを聽かしてくれ」
「そいつは申兼ねますが、──どうしても言へと仰しやれば──矢張り氣が變になるほど思ひ詰めた幾松ぢやございませんか」
「お由良が死んで困るのは?」
「私と伊勢屋さんでございますよ。私はまア親ですから當り前で、伊勢屋さんの方はあんなに仕度をして待つてゐたのですから、お由良が死んで、どんなにがつかりなすつたでせう」
「そんなものかな──ところで、伊勢屋は本當にお由良に打ち込んでゐたに違ひあるまいな」
平次はせき立てられるやうな調子です。
「伊勢屋さんから、大變な起請が入つてゐましたよ、お由良は虎の子のやうに大事にしてゐましたが」
彌吉が持つて來たのは、治三郎の書いた型の如き起請でその文句は、
と言つた嚴しいことが書いてあるのです。
「何んと言ふことだ。馬鹿々々しい」
ガラツ八が危ふく破つて捨てさうにするのを、平次は辛くも止めました。
「そいつが面白いんだよ。──尤も、それほどの約束があつても、肝腎のお由良が死んで了つちや何んにもならないが──」
「全く、親分の仰しやる通りでございます。どんな證文があつたところで、本人が殺されたんぢや何んにもなりません」
彌吉の愚痴が際限もなく發展しさうなのを外らして平次とガラツ八は外に飛び出しました。
「どうしたもんでせう、親分」
ガラツ八は袋路地へ逃げ込んだ野良犬の樣な顏をしてゐました。
「段々判つて來るぢやないか──もう一度水道橋へ行つて見るとしよう」
平次は水道橋へ來ると、橋の袂を搜して手頃な澤庵石ほどの石を見付けました。
「親分、そんな石をどうするんで?」
「こいつを手拭に包むのさ──その手拭の端つこを持つて、力任せに振廻したら、どんなことになると思ふ」
「あぶないね、親分」
「お由良はこの石でやられたんだらう。お關は死骸を眞つ直ぐに水に落したといふが、死骸の首から肩へかけての斑點が變ぢやないか──多分聲をも立てずに、あつと言ふ間に死んで了つたことだらう」
「──」
「橋の欄干の下に倒れてゐると、そこへお關が來て、てつきり毒酒にやられたと思つて、欄干の下を潜らせて水へ落した──」
事件の輪郭が次第に明白になつて行きます。
「すると親分──」
「お由良を殺したのは、宵からお由良を跟けてゐた奴だ──人知れず家を脱出せる人間だよ──そんな都合の良い家に住んでゐるのは、八五郎と──」
「親分」
「もう一人ある筈だ」
平次はさう言ひながらもう一度飯田町に引返すと、伊勢屋に飛び込んで主人の治三郎を縛つて了つたのです。
「あ、親分。私ぢやない、私は」
「默れツ」
平次が取合ひさうもないと見ると、
「お由良は恐しい女でした。あいつを殺さなきや、私が殺されるか身上を奪られたに違ひありません。親分、どうぞお見逃しを願ひます。そのお禮には」
「そんなことはお白洲で言へツ」
平次は耳にも入れようとしません。
× × ×
治三郎を送つてから、ガラツ八はたまり兼ねて平次に繪解きをせがみました。
「あつしには少しも判らない。どうして治三郎は明後日は祝言といふ間柄のお由良を殺したんです」
「うつかりお由良の才智に引つ掛つた治三郎は、中年者だけにいろ〳〵考へたのさ。第一、あんな起請文を商人が書くといふのは無法だ。うつかり治三郎に落度があつて破談になれば、伊勢屋の身上をお由良父子に卷き上げられるぢやないか」
「へエー」
「治三郎は怖くなつたが、お由良と別れる手段も口實もない。そこで──お由良に言ひ寄つた男が多いやうだが、祝言してからそんな男に因縁をつけられては困る──と言ひ出した」
「──」
「お由良はそれを聞くと、今まで念入りに愛嬌をふりまいてゐた男や、執念深く自分をつけ廻してゐた男のところへ、片つ端から押しかけて縁切り話を叩きつける代り、直ぐ祝言してくれと治三郎に持ちかけたのさ」
「──」
「治三郎はあの晩柳屋へ行つてお由良に逢ひ、その話を聽かされて女のヌケヌケした調子に心から嫌になつた。──念のために後をつけて歩くと、お由良は一軒々々男を訪ねて、キビキビと片付けて歩いた上、先々で一杯づつ引つかけて、水道橋へ來た時は女のくせに大虎だ」
「──」
「こんな女と無理に一緒になることを考へると、治三郎は心の底から怖くなつた。お由良が醉つて正體のないのを幸ひ、手拭に石を包んで二つ三つ喰はせ、息の絶えるのを見定める隙もなく逃げ出した。──人の跫音を聞いたんだらう。その跫音が母子心中をやり損ねたお關だつたのさ」
「成程ね」
八五郎もようやく事件の眞相が判つたやうな氣がしたのです。
「だから、あんな氣の多い悧巧な女と掛り合つちやいけないよ。女は正直で生一本なのが一番良い──」
さう言ふ平次の胸には、戀女房お靜の純情な淨らかさが、活々と浮彫されてゐるのでした。
治三郎のお白洲の調べが平次の推理と寸毫の喰ひ違ひもなかつたことや、お關幾松母子が、平次の助力で平和な幸せな日を取戻したことは改めて書くまでもありません。
底本:「錢形平次捕物全集第二十四卷 吹矢の紅」同光社
1954(昭和29)年4月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1941(昭和16)年6月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「氣欝」と「氣鬱」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年7月30日作成
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