錢形平次捕物控
青い帶
野村胡堂
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その晩、代地のお秀の家で、月見がてら、お秀の師匠に當る、江戸小唄の名人十寸見露光の追善の催しがありました。
丁度八月十五夜で、川開きから三度目の大花火が、兩國橋を中心に引つ切りなしに打揚げられ、月見の氣分には騷々しいが、その代りお祭り氣分は申分なく滿點でした。
追悼と言つたところで、改まつた催しではなく、阿呆陀羅經見たいなお經をあげ、お互ひに隱し藝を持寄つて、飮んで食つて、花火が打ち止んだ頃お開きにすればそれでよかつたのです。神祇釋教戀無常を一緒くたにして、洒落のめしてその日〳〵を暮してゐる江戸時代の遊民達は、遊ぶためには法事も祝言も口實に過ぎなかつたのです。
お秀は代地の船宿の娘で、今年二十四の、咲き過ぎた年増でしたが、自分の容貌に溺れて、嫁ぎ遲れになり、兩親の死んだ後は、船宿の株を人に讓つて、有餘る金を費ひ減らすやうな、はなはだ健康でない生活を續けてゐるのでした。
折惡しくその日は晝過ぎから大夕立、一としきりブチまけるやうに降りましたが、暮近い頃から綺麗に上がつて、よく洗ひ拔かれた江戸の甍の上に、丸々と昇つた名月の見事さといふものはありません。
話はその大夕立の時から始まります。
お秀と仲好しで、向柳原の油屋の娘お勢といふ十九になる可愛いのが、少しでも早く行つて、お秀さんに手傳つて上げようと思つたばかりに、うつかり傘を忘れて飛び出し、柳橋の手前であの大夕立に逢つたのです。
ブチまけるやうな雨足で、逃げも隱れもする隙がありません。夢中で飛び込んだ軒下は運惡く空店で、その先は材木置場、二三軒拾つて安全な場所へ辿り着くまでに、お勢の身體は川から這ひ上がつたやうに、思ひおくところなく濡れてをりました。
この夏、母親にねだつて拵へて貰つた、單衣の帶が滅茶々々になつて、泣きたいやうな心持ですが、どうすることもできません。一度家へ歸つて兎も角乾いたのと着換へて來ようと、小止みになつた雨足を縫つて歩き出すと、丁度そこへ、蛇の目をさして通りかゝつたのは、同じお秀のところへ行く、お紋といふ二十二三の中年増でした。
「まア、お勢ちやん、大變ねエ──その姿で町を歩くと、身投げの仕損ひと間違へられるわよ。お秀さんの家は直ぐそこだから、兎も角浴衣でも借りて歸つちやどう?」
「さうね」
お勢もツイその氣になりました。
雨がカラリと上がつて、ピカピカしたお天道樣が顏を出すと、グシヨ濡れの姿で江戸の町を──十九の娘が歩けやう筈もありません。
お秀の家へ行くと、お秀は痒いところに手の屆くやうな親切さでした。
「まア、ひどい目に逢つたのねエ、お勢ちやん。氣味が惡くなかつたら、これを着てお出でよ。氣に入つたら、お勢さんに上げてもいゝくらゐなの」
そんなことを言ひながら、お秀が自慢で着てゐた、空色縮緬の單衣と、青磁色の帶とを貸してくれました。
お勢は好意に甘えるやうな心地で、濡れたものの乾くまで借着で間に合はせる外はなかつたのです。
「少し地味だけれど、よく似合ふぢやないの。家へ歸つて着換へして來るなんて言はずに、氣味が惡くなかつたら、そのまゝ着てらつしやいよ。私はこの通り、同じ柄の新しいのがあるんだから──」
お秀はさう言つて、自分のしめてゐる同じ青磁色の帶を叩いて見せるのでした。空色の單衣に青磁色の帶は、紫陽花のやうな幽邃な調子があつて、意氣好みのお秀が好きで〳〵たまらない取合せだつたのです。
日が暮れきつて、花火がポーン、ポーンと競ひ鳴る頃から、客が寄り始め、やがて月が河向うの家並を離れる頃には、十幾人の顏が揃つて、大川を一と目の部屋に、酒と歌聲が盛りこぼれました。
困つたことにお勢は、大夕立に洗はれて冷え込んだものか、その少し前から、ひどい腹痛を起して、賑やかな席にも顏を出さず、階下の四疊半に、キリキリと差し込むのを抑へて、たつた一人悶えてをりました。
「困つたワねえ、お醫者を呼ばうかしら」
忙しい中から、お秀は時々差しのぞきましたが、その度毎にお勢は、
「いえ、何んでもないの、直ぐ癒るから、そつとして置いて下さい」
唇を噛みながらも、強つて辭退するのです。──「お勢ちやんはさう言つたけれど、矢張りお醫者に診て貰つた方がよかつたかも知れない。でも、その時はお客が後から〳〵見えるし、手が足りないし、お萬は氣がきかないし、本當にてんてこ舞ひだつたから、氣になりながらツイ放つて置いて、本當に濟まなかつたと思ひます」──と後でお秀は言ふのです。
一とわたり酒が濟んで、持寄りの藝盡しが始まりましたが、二度目の夕立が來さうな空合で、一座は何んとなく落着かない心持でした。圓タクも人力車もなかつた時代、夜中に降り出されたら、遠方へ歸る人達は、全くみじめな目に逢はなければなりません。
義理一ぺんの客が歸つて、親しい人達だけ殘つたのは戌刻半(九時)過ぎ、これから又盃を改めて、夜と共に騷がうといふ時、
「あツ、た、大變ツ」
階下から精一杯に張り上げた者があります。
「なんだ、何が大變なんだ」
お秀、お紋を始め、客の菊次郎、猪之松、五助など、一團になつて飛び降りると、下女のお萬といふ十七の娘が、梯子段の下に腰を拔かして、見得も色氣もなく納戸の前の四疊半を指してゐるのでした。
「何んといふ騷ぎだらうね、お前は」
お秀は小言をいひながら、お萬の指の向いた方、四疊半を覗いて、
「あツ」
と立ち竦んでしまひました。部屋半分ほどもひたした血潮の中に、丁子の溜つた行燈がほの暗く灯つて、その明りの中にお勢は、細身の匕首に背中を刺されて、俯向いたまゝ死んでゐるではありませんか。
「お勢ちやん」
飛び込んで抱き起したのは、お秀の家の向うに、小さい炭屋の店を持つてゐる猪之松でした。
「可哀想にねエ」
その後から覗いたのは、兎角の噂の絶えないお紋の、白粉の濃い顏です。
氣丈者の女主人お秀は、自分の家に起つたこの慘劇に顛倒して、たゞもうウロウロするばかり、桝田屋の若旦那菊次郎は、眞つ蒼になつてガタガタふるへるばかりです。
騷ぎは一時にして、町内一パイに擴がりました。年配の巴屋五助が、采配を執つてお勢の家へ人を走らせたり、町役人に屆けさせたり、一方家中の者の口を封じて、無制限に擴がつて行く危險な噂の傳播を防ぎましたが、かうなつては何程の役にも立ちません。
その間に、丁度花火の人混みを見廻つてゐた三輪の萬七と、お神樂の清吉が乘込んで來ました。
「油屋の娘が殺されたさうぢやないか、現場へ案内しろ」
少し權柄づくで、五助を促し立てます。その後姿を見送つて、
「お萬──猪之さんのことを、──言ふんぢやないよ」
下女のお萬に囁いたお秀の言葉が、フト、萬七に續くお神樂の清吉の耳に入つてしまつたのです。
「猪之さんと言ふのは誰だ」
清吉の腕は、逃げ腰になるお萬の襟髮に掛りました。
「何? お向うの炭屋の猪之松だ? ──それがどうしたと言ふんだ」
功名にあせりきつてゐる清吉は、ツイお萬の襟をこじ上げるのです。
「あツ、苦しいツ、言ひますよ、親分──猪之さんは、嫁に欲しがつてゐたんですよ」
「それから何うした」
清吉は責め手を緩めようともしません。
一方、四疊半に飛び込んだ親分の萬七は、物馴れた調子で、たつた一と目で大體の樣子を見て取ると、あとは組織的に、一局部々々へ、拔かりのない檢索眼を注ぐのでした。
「この匕首は誰のだ」
お勢の背、──左肩胛骨の下に突立つた細身の匕首を、萬七は指さすのです。
誰もゐません。多分その問ひを豫期して、その場を外したのでせう。
「清吉、その女を締め上げて見ろ」
「へエ──」
清吉の手は容赦もなくお萬の襟を締めて行きます。
「言ふ、言ひますよ──その匕首は、猪之さんのだよ。二三日前夜店の古道具屋を冷かし損ねて買つて、見せびらかしに來たんだもの──忘れるものか。痛てえや──親分。そんなに喉を締めたつて、あとは何んにも知らねエよ」
お萬はペラペラとやつてしまひます。
「猪之松といふのはお前だな──御慈悲を願つてやる、神妙にせいツ」
萬七の十手は、そこにぼんやり突つ立つた、炭屋の猪之松の肩をピシリと叩きました。
「じよ、冗談ぢやありません。匕首は私の品だが、お勢を殺したのは私ぢやありませんよ」
抗ふ猪之松は、馴れた萬七の手にたぐり寄せられました。
「そいつはお白洲で言ふがいゝ、來い」
萬七は容赦もなく引つ立てます。
「親分さん、それは違ひます。猪之さんは人なんか殺すものですか」
主人のお秀は見兼ねて飛び出しました。が、自分の手柄に陶醉した萬七や清吉の耳に入る筈もありません。
「匕首が獨りで背中へ突立つたわけぢやあるめえ──この通り、障子の外から突いた樣子だ」
萬七が指差したのは、死骸の後ろの障子──丁度二階から手洗場に通ふ廊下をちよつと入つた邊で、下から三尺ほどのところに、匕首で突いたらしい血潮に染んだ穴があいてゐるのです。
「清吉、その野郎を番所へつれて行つて、ひと責め責めて見ろ」
萬七は猪之松を顎で指さしました。
その翌る朝。
「親分、腹が立つぢやありませんか」
ガラツ八の八五郎は、この騷ぎを錢形平次のところへ報告して來たのです。
「腹の立つやうな筋はあるめえ──それとも、油屋のお勢が殺されて口惜しいといふのかい。神田中のいゝ娘は一人殘らず親類筋のやうな氣でゐるんだらう」
平次は相變らず泰然として、濕つた粉煙草をせゝりながら朝顏の鉢をいつくしんでをります。
「お勢と親類でも何んでもねエが、お神樂の清吉とは敵同士で」
「何をつまらねエ」
「今朝柳橋で顏を合せると──お膝元の殺しを知らずにゐるやうぢや、錢形の親分も燒が廻つたね──て言やがる」
八五郎は本當に腹が立つてたまらない樣子です。
「言はせて置けばいゝぢやないか、燒が廻つたに違げえねえよ。今年の朝顏は、去年のより、どう見てもひとまはり小さい」
「嫌になるぜ、親分。朝顏なんざ、盥ほどに咲かせたつて、公方樣から褒美が出るわけでもなんでもねエ。それより兩國から代地へかけては錢形の親分の繩張り内ですぜ」
「十手捕繩に繩張りがあるものか、放つて置け」
「でもね、親分」
「折角三輪の兄哥が手柄にしてゐるなら、それでいゝぢやないか」
平次はてんで相手にもしなかつたのです。
が、事件は思はぬきつかけから、新しい發展を見せて、その日のうちに、錢形平次が出馬することになりました。
「あの、あの」
平次の女房のお靜が、濡れた手を拭き〳〵お勝手から顏を持つて來ました。何時まで經つても娘らしさを失はない、優しくも可憐な女房振りですが、それだけに、御用のことに口を容れるのを、ひどく平次が嫌ふので、何にか人に頼まれた餘儀ないことでもあると、かう言つたおど〳〵した調子になるお靜だつたのです。
「何んだえ」
「あの、お秀さんがちよつとお願ひがあるんですつて」
「お秀さん?」
「代地のお秀さん──船宿の──」
「來たよ、親分」
ガラツ八は素つ頓狂な聲を出しました。
「──」
平次は默り込んでしまひました。お靜が水茶屋に奉公してゐる頃の顏馴染には相違ありませんが、かう言つた肌合ひの女──金が有り餘つて、意氣とか通とかを持藥にしてゐる、遊藝の外に生活興味のない人間と附き合ふのを、平次は決して喜んではゐなかつたのです。
「でも、ちよつとでも逢つて上げて下さい」
お靜はガラツ八が見てゐなかつたら手でも合せたことでせう。
「よし、一應話だけは聽いてやらう。こゝへ通すがいゝ」
平次は澁々ながらお秀に逢つて見る氣になりました。
代地のお秀は、お靜と同じ年の二十四、物の影のやうに靜かで、そのくせ傍に寄るほどの男に、情熱の體温を感じさせずには措かない不思議な肌合ひの女です。
「親分さん、本當に困つてしまひました。三輪の親分はすつかり感違ひして、私の言ふことなどには耳も入れてくれません」
お秀はさう言つて、美しい掌を膝の上に重ねるのです。
「何を感違ひしてゐるんだ。まア、お前さんの知つてゐるだけのことを話して見るがいゝ」
事件に直面すると、平次もツイ膝を乘り出さずにはゐられません。
「炭屋の猪之松さんは、三年前に故郷から出て來て、村でできる炭をさばく心算で店を開いたんです。江戸のことが分らなくて、お得意樣と話もできないからと、私のところへ出入りしてお芝居へもお花見にも附合ひ、近頃は小唄の一つも唸るやうになりました。人なんか殺すやうな、そんな大それた人ぢやございません」
お秀は一生懸命に猪之松の無實を説くのです。
「殺されたお勢を嫁に欲しがつたさうぢやないか」
「そんなことがあるものですか。お勢ちやんの方で、何んとか思つたかも知れませんが──」
お秀は少し頑なに頭を振るのです。
「ぢや、他にお勢を怨む者でもあると言ふのか」
「親分、お勢ちやんは、間違つて殺されたんぢやないでせうか」
「聞違つて殺された?」
「え、お勢ちやんは、そりやいゝ娘なんです。男からも女からも可愛がられてゐたし──人に怨まれる筋なんかなかつたんです」
「──」
「あの大夕立で濡れて、私の着物を着て、私の帶をしめたお勢ちやんが、お腹を痛くして、薄暗い四疊半で休んでゐるのを、障子の隙間から覗いた人があつたら、てつきり、この私と間違つたのも無理はありません」
お秀は不思議なことを言ふのです。
「すると、お勢はお前と間違へられて、殺されたと言ふのか」
「え、さうとでも思はなきや──お勢ちやんが殺される筈はありません」
「お前は始終二階にゐて、皆んなと顏を合せてゐた筈ぢやないか。薄暗い四疊半にゐるのを、お前と間違へるのは變ぢやないかな」
「でも、私は始終階下へ降りて、お勝手の指圖をしました。板前もお萬もゐるけれど、私が顏を出さなきや、料理が途切れたり、酒が冷えたりします」
「──」
「空色の單衣と青い帶を見ると、誰でも私と間違へます。薄暗い四疊半にゐるのを私と思ひ込んで、障子の外からひと思ひに突いたとしたら──」
お秀はさう言つて襟をかき合せるのでした。さすがにそこまで想像すると、ゾツと肌寒いものを感ずる樣子です。
「匕首はどこにあつたんだ」
「猪之さんが忘れて行つたのが、廊下の棚の上に置いてありました」
「誰でもわかる場所か」
「低い棚ですもの、一と目で分ります」
「變な場所へ刄物を置いたものぢやないか」
「でも、匕首なんか、箪笥へ入れたら、なほ氣味が惡いぢやありませんか」
「さう言つたものかな」
女の心の動きは、錢形平次にも讀みきれないものがあります。
「兎も角、一度親分の眼で見て下さいませんか。猪之さんが人殺しで送られちや、あんまり氣の毒です」
「行つて見るのはわけもないが、その前に見當だけでも付けて置きたい。一體お秀さんを殺すほど怨んでゐるのは誰だい」
「──」
お秀は默つてしまひました。江戸娘の粹と言つたお秀は年こそ少し取り過ぎましたが、隨分思ひも寄らぬ罪を作つてゐさうな美しさでした。
平次の旨を承けて、現場へ飛んで行つたガラツ八は、晝少し前にはもう、鬼の首でも取つたやうな勢ひで歸つて來ました。
「分りましたよ、親分」
「何が分つたんだ」
「何も彼も、皆んな分つてしまひましたよ」
「そいつは豪儀だ。順序を立てて話して見るがいゝ」
「昨夜お勢は戌刻(八時)過ぎまで無事だつたさうですよ」
「誰が見たんだ」
「お秀は客の歸る一寸前、少しばかりの隙を見付けて、お萬に葛根湯を煎じさせて、四疊半へ持つて來させて飮ませたさうです。客の歸つたのは二度目の夕立が來かゝつた戌刻半(九時)で、後に殘つたのは、家の近い猪之松と五助と菊次郎とお紋だけ、この顏ぶれは平常から別懇にしてゐるから、腰を据ゑて飮み直すときめて、小用に立つたり、着物を直したり、盃を改めたり、暫くザワザワしてから、賑やかに飮み直したさうです──主人役のお秀は、その間お勝手で板前に二度目の料理のことを打合せたり、お萬に指圖をして、二階から歸つた人の膳を下げたり、それから後は二階へ坐り込んで四半刻(三十分)ばかりの間、四疊半を覗かなかつたといふんです」
「フム」
「すると、お勢を殺したのは、戌刻(八時)過ぎまでの間に下へ降りた者の仕業ぢやありませんか」
「よく分つた話だ。誰が下へ降りたんだ」
「みんな一度づつは小用に立ちましたよ。五助も、菊次郎も、猪之松も、お紋も」
「それぢや何んにも分らない」
「でも、お紋はお勢が濡れたことも、お秀の着物や帶を借りたことも知つてゐるからお秀と間違へて殺すやうなことはないでせう」
「お勢と知つて殺せば別だらう」
「お勢とお紋は無二の仲ですよ──お勢は一時菊次郎に絡み付かれて、閉口してお紋に助け舟を出して貰つたくらゐだから」
「まアいゝ、それから何うした」
「お秀の言ひ種ぢやないが、猪之松も人を殺すやうな人間ぢやありません。それに、わざ〳〵自分が忘れて行つた匕首で、そんなことをする馬鹿もないでせう。その上、猪之松が上州から來たのはお秀の世話ですよ。炭燒の伜の猪之松を上州から呼んで、資本を出して炭屋の店を持たせたり、顏の廣いお秀が、いろ〳〵口をきいて御贔屓をふやしてやつたり、隨分恩になつてゐますよ。その恩人のお秀を、猪之松が殺す筈はないぢやありませんか」
「情事は別だよ、八」
「それも考へましたがね。お秀は猪之松を好きで〳〵たまらない樣子ですぜ──ぼんやりしてゐるのは猪之松の方で」
「フーム」
「すると、お秀を殺す氣になるのは、いゝ歳をしてゐる癖に、お秀を何んとかしようと思つてゐる巴屋の五助と、お秀にひどく彈かれた菊次郎と、この二人のうちといふことになりはしませんか」
「そんなものかな」
「こいつはお紋の話ですが、ことに菊次郎は小用を足しに階下へ降りて、ひどくあわてた顏をして二階へ歸つたさうですよ」
「五助は?」
「五助もその前に降りたが、これは平氣な顏をしてゐたさうです」
「お秀は?」
「お秀はお勝手の用事を濟ませてすぐ二階へ來たが、三味線なんか彈いて、少し浮かれてゐたさうです」
「ところで、昨夜の花火は早仕舞だつたな」
「え、戌刻(八時)前に、空模樣が惡くなつたんで、續け樣に揚げきつたやうですよ」
「それでよからう」
これだけのことを訊き了ると、平次はまた粉煙草をせゝりながら、深い考へに沈みました。
「菊次郎と五助を擧げて見ませうか、親分」
ガラツ八は少しじれつたくなりました。
「いや、そんな手輕なものぢやあるまい。もう少し待つがいゝ」
その日の夕景近くなつてから、錢形平次はたうとう御輿を上げました。
代地のお秀の家へ行くと、
「お、錢形の親分」
お神樂の清吉は入口に關を据ゑて、富樫左衞門尉見たいな顏をしてをります。
「お神樂の兄哥、ちよつと見せて貰ふよ」
平次は蟠まりのない態度でヌツと入りました。それに續くガラツ八、これは少しばかり肩肘が張ります。
間取りの具合などは、おほかた八五郎に訊いてをりますが、平次の馴れた眼で見ると、いろいろ考へ直すこともあります。お勝手は入口の左手へグツと遠く建つて、右手には二階への梯子段があり、その梯子段の下を廻ると、便所に通じますが、二階から便所への往來にお勢の殺されてゐた四疊半を覗くためには、少しばかり横の廊下へ入らなければなりません。
問題の四疊半は晝でも薄暗く、中の死體は油屋で引取りましたが、何も彼もそのまゝ、障子に着いた血も、匕首で刺した穴までが、肌寒くなるやうな無氣味さです。
平次は中へ入つて一と目見渡しました。長押の裏、押入、煙草盆──と丁寧に見て來た上、吐月峰を覗いて何やら腑に落ちない顏をしてをります。
「親分、どうしました」
とガラツ八。
「お勢は葛根湯を飮まなかつたらしいよ、吐月峰の中は藥で一杯だ」
「へエ──?」
「お萬を呼んでくれ」
云ふまでもなく、ガラツ八は飛んで行つて、お勝手から山出しらしい下女をつれて來ました。
「何んだね、親分」
「昨夜、お勢が葛根湯を飮むところを見たのか」
平次の問ひは不思議でした。
「見ませんよ。この四疊半の入口でお孃さん(お秀)に渡しただ」
「その時お勢は確かに生きてゐたんだね」
「お孃さんと話してゐなすつたよ。生きてゐたに違ひなかんべエ」
「苦しさうだつたかい」
「お勢さんの聲は低かつたよ」
「この障子の血や穴は?」
「その時はなかつたよ。それから二階へ何べんも行つたが、二階で三味線の音がして、二度目の酒盛が始まるまではこんなものはなかつたよ。一番お仕舞の銚子を持つて行くときこの血に氣がついたんだ。驚いて四疊半を覗くと──」
お萬はその時の凄まじい光景を思ひ出したらしく、ゴクリと固唾を呑みます。
「もういゝ──ところで八、この穴は少し高過ぎるとは思はないか」
「へエ──?」
八五郎は平次の言ふことがよく分らなかつた樣子です。
「障子越しに突いたのなら──その時お勢は氣分が惡くて坐るか、横になるかしてゐる筈だから、もう少し低くなきやならない。これではお勢が中腰になつてゐたことになる」
「成程ね」
「それに、血の撥ねやうも少いぢやないか。障子越しに人間を突いたら、こんなことぢやあるまい──これぢやまるで後で血をなすつたやうなものだ」
「へエ──?」
「八、氣の毒だが油屋へ行つて、お勢の傷を見て來てくれ。刄が上を向いてるか下を向いてるか」
「それだけですか、親分」
「それから、お勢が近頃懇意にしてゐる男がなかつたか──浮氣つぽい話でなくても、嫁入りの話がなかつたか。それを訊きやいゝ」
「へエ──」
ガラツ八は相變らず鐵砲玉のやうに飛び出します。
「親分、猪之さんは助かるでせうね」
ソツと後ろから囁くのはお秀でした。
「安請合ひはできないよ。恐しくこんがらかつてゐるから──ところで、昨夜お勢が葛根湯を飮むところを見なかつたのかい」
平次はまだ葛根湯に取憑かれてをります。
「後で飮むからと言ふんです。湯呑に入れたまゝ、そこへ置いて、私は二階へ行きましたよ。あの娘は藥が大嫌ひだつたんです」
お秀はさり氣もありません。
間もなく足の早いガラツ八は歸つて來ました。
「親分、變なことがありますよ」
「何が變なんだ」
「刄が下向きになつてゐますがね」
「矢張りさうか、障子越しに逆手で突く筈はない。下向きとすると少しむつかしいぞ」
「それから匕首で刺した痕が二つあるんです」
「何?」
八五郎の報告はあまりに豫想外です。
「背中に並べて二つ、一つは深く、一つは淺く──」
「血の出てゐる方はどつちだ」
「深い方が、うんと血が出たやうで、肉もハゼてゐますよ」
「そいつは大變だ」
「どうしたんです、親分」
「新規蒔直しだ。何も彼も新しく組立てなきや」
廊下に出ると、梯子段に腰をおろして、平次はがつちり考へ込んだのです。
それから間もなく、平次とガラツ八は、昨夜の關係者を一人々々當つて歩きました。
巴屋の五助は町内の家作持で、四十を越した年配ですが、お秀を後添に望んでゐたといふ外には、何んの企みもなく、昨夜のことも表面に現れたこと以外は何も知りません。
「お秀を怨む者はなかつたのかな」
「桝田屋の菊次郎さんが、怨めば怨んでゐるでせう。平常お秀さんと張り合つてゐるお紋だつて、あんまりいゝ心持はしないかも知れませんよ」
こんな話では一向埒があきません。
枡田屋の菊次郎は、それに比べると種々のことを知つてゐました。
「私が一時お秀さんを怨んだことも本當ですが、近頃あの人は猪之松さんに夢中だから、諦めてしまひましたよ。それに私は、この秋はいよ〳〵お紋と一緒になる約束ですから──」
さう言へば何んの別條もありません。
「昨夜、小用を足して二階へ歸つたとき、ひどくソハソハしてゐたさうだが、何か變つたことがあつたのか」
平次は取つて置きの急所を押へました。
「あれを見てしまつたんですよ、親分。──うつかり四疊半の障子を開けると、お勢が血だらけになつて死んでゐるぢやありませんか」
「なぜその時人に言はなかつたんだ」
「うつかり喋つて、どんなことになるか分りません。私は恐しかつたんです」
「そのとき障子に血は着いてゐなかつたのか」
「氣がつきません。多分着いてなかつたでせう。いくら面喰つても障子に血が着いてゐれば見落す筈はありません」
「お勢へさはつて見なかつたのか」
「そんな大膽なことができるものですか」
「血が流れてゐたかい。固まりかけてゐたかい」
「チラと見たところでは、血はもう固まりかけたやうでした」
「よし〳〵早くそれを言つてくれさへすればよかつたんだ。さうでないと、お前が縛られる番だつたぜ」
「親分」
菊次郎はさすがに蒼くなります。
最後に幾つたお紋は、
「四疊半にゐたのが、お勢と知つてゐるのは、お前とお秀とお萬だけか」
「いえ、猪之松さんだつて知つてゐますよ」
「それは初耳だが、どうして分つた」
平次は少し豫想外の樣子です。
「好き同士は、匂ひでも分りますよ。お勢ちやんが來てゐないので、猪之さんは、それとはなしに家中に眼を配つてゐたんでせう。まだ宵の口でした。酉刻半(七時)頃かな、私は何の氣なしに四疊半の前を通ると、猪之さんが中へ入つて、お勢ちやんを介抱してゐましたよ」
「そいつを見たのはお前だけか」
「お秀さんも見たでせう。私の後から二階へ上がつて來て、面白くない顏をしてゐた樣子だから」
「猪之松はお勢と一緒になる氣だつたのか」
「お勢ちやんは可愛い娘でしたよ」
お紋は少しばかり妬ける樣子です。
「親分」
不意にガラツ八は頓狂な聲を出しました。
「何んだ八?」
「するとお勢を殺したのは騷ぎの前に障子へ血をつけることのできる奴──下女のお萬の外にはないぢやありませんか」
「そんな筈はあるまい、もう少し考へて見ることだ。──五助や菊次郎は幾度も階下へ降りてゐる」
平次もこれ以上は手のつけやうもありません。
その晩のうちに、炭屋の猪之松は歸されて、枡田屋の菊次郎が縛られました。錢形平次の探索振りを見張つてゐるお神樂の清吉は、親分の萬七に報告して、望み少なになつた猪之松を歸し、その代り騷ぎの始まる前にお勢の死骸を見てゐる菊次郎を擧げたのでせう。
その晩遲く、炭屋の狹い店先で、平次は猪之松にいろ〳〵のことを訊いてをりました。
「あの四疊半で、お勢を介抱してゐたといふぢやないか」
「へエ、でも、その時分はもう、お勢もすつかり元氣で、お秀さんに見られると惡いから、二階へ行つてくれと言つてゐました」
猪之松は極り惡さうにこんなことを言ふのです。山の中から掘り出したやうな男ですが、健康で若々しくて、正直さうで、本當に野に吹く風か、山に生えた杉を思はせる人柄です。
「お秀に見られちや惡いのか」
「へエ、お秀さんには恩になつてゐますから」
猪之松の正直な眼が、悲しさうにまたゝくのを平次は見のがしませんでした。
「それは戌刻(八時)前のことか」
「酉刻(六時)少し過ぎだつたでせう。大きな花火が、引つきりなしに鳴つて、戸や障子がピリピリしてゐました」
「ところで、戌刻(八時)過ぎに大勢の客が歸つて、改めて飮み始めてからお秀は階下へ降りなかつたのか」
「降りなかつたやうです」
「何をやつてゐたんだ」
「みんなで騷いでゐました。──あ、三味線を持つて來ると言つて隣の部屋へ行つたやうでしたよ」
「それつきりか」
「へエー」
それつきり手掛りの絲は切れてしまひました。氣を揉んだのは八五郎です。
「親分、どんなことになるでせう」
「俺にも分らない。兎に角お秀の家へもう一度行つて見るんだ」
平次と八五郎がすぐ向うの家へ行つた時は、もうすつかり夜更けになつて、お秀の家も締めてをります。
叩き起すまでもなく、聲を掛けただけでお秀は開けてくれました。傾きかけた月明りを浴びて、青白くて上品なお秀の顏は、本當に紫陽花のやうな哀れ深い姿です。
「ちよいと二階を見せて貰ひたいが──」
平次はさり氣なく梯子を踏んでをります。
「どうぞ」
手燭を持つて、お秀は案内しました。六疊と八疊の二た間續き、その手前に長四疊があつて、奧にはまだ、一と間くらゐありさうな作りです。
「梯子はこれ一つしかないのかな」
平次はよく拭き込んだ廊下から、廣い梯子段を見おろしました。
「不用心だからもう一つあるといゝと言ひますが──」
お秀は靜かな調子です。
「隣の部屋は? ──昨夕三味線を取りに行つたといふのはこゝだね」
「え」
唐紙を開けると、そこは三疊の化粧の間で、行止りの壁が一切の手掛りを封じてをります。
「大層いゝ月だな──こゝから花火を眺めながら一杯やりたいな、八」
平次はそんなことを言ひながら、雨戸を開けて外を見ました。そこは大川へ突き出すやうに花火見物の棧敷ができてゐて、危ない梯子で、狹い庭へ降りられるやうになつてをります。
「親分、その梯子は腐つてゐますよ」
お秀は後ろから聲を掛けました。
「なアに、女一人降りられる梯子なら、俺に降りられないことはあるまい」
平次は謎のやうなことを言つて、危ない梯子を降りると、便所の傍の戸を押しあけて、ソロリと階下へ入つた樣子です。
同時に、お秀はバタバタと平次の後を追ひました。物見臺から同じ梯子を降りると、平次の入つた戸へ入らずに、小さい庭を横切つて黒板塀の潜戸を押すと、パツと外へ──
「八、氣をつけろツ」
續いて八五郎が飛び出した時は、何も彼も終つてをりました。潜戸を脱けたお秀の身體は、夜空に弧を描いて、大川へ水音高く飛び込んでしまつたのです。
「親分」
「えツ、しやうのない徳利野郎だ。少しは泳ぎでも稽古して置け」
平次が飛び込んだ時は、夜の上げ潮はお秀の身體を呑んで搜しやうもありません。
× × ×
事件の一埒が付いてから、ガラツ八にせがまれて、平次はかう説明してやりました。
「意氣とか通とかの世界に溺れきつたお秀が、山から掘出したやうな猪之松を見て、すつかり夢中になつたのさ。店を持たせたり、得意をふやしてやつたり、いづれは自分と一緒になる心算でゐると、猪之松は何時の間にやらお勢と親しくなつてゐたんだ。あの晩猪之松がお勢を介抱してゐるのを見て、お秀はフラフラとお勢を殺す氣になつたんだらう。多分それは花火のポンポン揚つてゐる酉刻半(七時)頃だつたらう、少しくらゐの音は二階までは聞えない。
お秀は賢こ過ぎる女だから、一たんカツとなつて殺したのを、何んとか誤魔化さうとした。葛根湯を飮ませると言つて、藥を吐月峰に捨て、その後で殺されたやうに見せるために、いろ〳〵の細工をした。二階へ坐り込んだ後で、三味線を持つて來ると言つて、物見臺から庭を通つて階下の四疊半に入り、死骸から匕首を拔いて障子に細工した上、また死體に匕首を刺すやうな恐しい細工までした。が、下手人の疑ひが猪之松へ行つたんで、びつくりして俺のところへ飛んで來たのさ」
「太てえ女ですね」
「太てえか細いか知らないが、金と暇があり餘つて、遊藝と淨瑠璃で教へ込まれた女は、どこかに變なところのあるものさ。貧乏と四つに組んで、眞劍に子供を育てたり、親に甘いものでも食はせたりすることを考へる人間は、そんな馬鹿な氣になるものぢやない」
「猪之松は江戸に愛想を盡かして、故郷の上州へ歸るさうぢやありませんか」
「それがいゝ。──山奧から江戸へ飛び出して、通や意氣の世界を泳がうとしたのが間違ひさ。あの男は根がいゝ人間なんだ。江戸を諦めて上州の山奧へ歸ると、天道樣ものんびり照らして下さるよ」
「あつしも上州へでも行きませうか」
「それもよからうよ。江戸は人間が多過ぎるから、みんな氣が立つて、蟲持ちになるんだ」
そんなことを言ふ平次だつたのです。
底本:「錢形平次捕物全集第二十四卷 吹矢の紅」同光社
1954(昭和29)年4月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1941(昭和16)年9月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年6月10日作成
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