錢形平次捕物控
お秀の父
野村胡堂




 ガラツ八の八五郎が、兩國の水茶屋朝野屋あさのやの樣子を、三日續けて見張つて居りました。

「近頃變なのがウロウロして、何を仕掛けられるか氣味が惡くて叶はないから御用のひまなとき、八五郎親分でも時々覗かして下さいな──」

 朝野屋の名物娘お秀が、人に反對や遠慮をさせたことのない、壓倒的な調子でかう平次に頼んで行つてからのことでした。

 そのころお秀は二十六の年増盛り、啖呵たんかがきれて、小股こまたが締つて、白粉が嫌ひで、茶碗酒が好きで、兩國きつての評判者。その親父の留助は、酒の好きなところだけが娘に似てゐるといつた、店番に生れ付いたやうな、平凡そのものの六十男でした。

 茶汲ちやくみ女は三人、小體こていな暮しですが、銅壺どうこに往來の人間の顏が映らうといふ綺麗事に客を呼んで横網に貸家が三軒と、洒落しやれた住宅まで建てる勢ひだつたのです。

 九月のよく晴れた日の夕景。

「あツ、お前さん、錢箱なんか覗いて、何をするんだい」

 お秀は土間に飛び降りると、木綿物のあはせに、赤いあさの葉の帶をしめた十七八の娘の袖を掴んでグイと引きました。

「何んにもしませんよ」

 極端におびえて、おど〳〵する娘は、これも白粉つ氣のない、不思議に清純な感じのする──お秀とは違つた世界に住む種類の人間でした。

「何んにもしないことがあるものか、若い娘の癖に、錢箱なんか覗いたりして、この中にはからくりも品玉もありやしないよ、──あ、八五郎親分、丁度宜いところでした。この娘を縛つて行つていきなり二三ぞく引つ叩いて見て下さいよ。泥を吐かなかつたら、お詫びをしますから、さ」

 お秀は娘の肩を掴んで、ガラツ八の方に押しやるのです。

泥鰌どぜう見たいなことを言ふなよ、可哀想に娘は泣いてるぢやないか」

 八五郎はノツソリと店先へ入つて來て、張りきつたお秀の顏と、シクシク泣いてゐる、貧しさうな娘の顏を見比べて居ります。

「泣くのはですよ。冗談ぢやない、早く何んとかしなきや、人立ちがするぢやありませんか。──此間から變なことばかり續くと思つたら、矢張り物盜りだつたのねエ」

 お秀の片頬には、意地の惡さうな──その癖滅法魅力的な冷笑が浮ぶのでした。

「どうにも仕樣がないぢやないか、錢箱を覗いたつて、小判がかえるに化けるわけぢやあるめえ。人間氣の持ちやうぢや、錢箱も雪隱せつちんも覗くだらうぢやないか。それだけの事で人一人縛るわけには行かねえよ」

 八五郎はこんな事を言ひ乍ら、何んとかして娘を逃してやり度い心持になつてゐるのでした。お秀ののしかゝつて來る年増美の鬱陶うつたうしさに比べて、この娘はまた何んといふ素朴そぼくな存在でせう。

「本當に頼み甲斐のない人ねえ。そんな事ぢや用心棒の足しにもならないぢやありませんか、チエツ」

 お秀は大舌打を一つ、八五郎を掻きのけて、娘の胸倉を掴みさうな見幕です。

 その頃の下つ引などの中には、とき時節じせつの心付けを貰つて、水商賣の用心棒を兼ねてゐたのもあつたのですから、お秀は親分の平次に頼んで、ガラツ八を用心棒に雇ひきり、晦日みそかにでもなつたら、二朱か一分も包んでやらうといつた、すつかり主人氣取でゐたのも無理のないことでした。

「聞捨てにならない事をいふぢやないか。俺が何時お前の店の用心棒になつた」

 正直者のガラツ八が、ムキになつてそれを迎へました。

「おや、おや、おや、──それぢや八五郎親分、お前さんは泥棒や巾着切きんちやくきりを逃がしてお役目が濟むといふんですか」

「何?」

「娘は──あれ、あんなにあわてて逃げて行くぢやありませんか。錢箱の中から小錢でも無くなつてゐたら、どうしてくれるんですツ」

「小娘が睨んだだけで、錠をおろした錢箱の中から小判が飛んで行くかよ。宜い加減かげんにしないか」

「鳥もちもありますよ、──本當にれつたいね」

「焦れつたいのは俺の方だよ、──最初から無い小判が、盜まれつこないぢやないか」

「何んだとえ、親分」

 爭ひは次第に眞劍になつて行くばかりです。兩國名物のお秀、弱い稼業の女には違ひありませんが意地も張りも、刄のやうに尖鋭せんえいになりきつて、青侍や安岡つ引に負けてゐる女ではなかつたのです。

「何を騷ぐんだ、──大變な人立ちぢやないか」

 丁度その爭ひの中へ、親分の錢形平次がブラリと入つて來ました。

「親分、聞いて下さい、──口惜くやしいぢやありませんか。八五郎さんは可愛らしい娘だからつて、怪しい人間を逃がしてしまつて──」

「ま、待つてくれ。さうましく立てられちや話がわからない。一體これはどうしたといふことだ」

 平次はいきり立つお秀を押へて、兎にも角にも話の順序を立てさせました。



「成程、一應はもつともだが、八五郎にしては、それだけの事で人を縛るわけに行くまい」

 平次はお秀をなだめ乍ら、やうやく散つて行く往來の人や、茶代を置いて、つまらなさうに出て行く店の客人を眺めやります。

「だつて見す〳〵怪しい人間を逃がしてしまつたぢやありませんか。この間から、いろ〳〵變なことばかり續くけれど、あの娘が一番執拗しつこく奧を覗いたり、裏へ廻つたり、女共に立入つたことを訊いたりするんです」

 お秀の怒りは紛々ふんぷんとして容易に納まりさうもありません。

「そんな事をいへば、世間には怪しい人間は澤山あるよ。それを一々とがめたり縛つたりしてゐた日には、江戸の人間の半分ほどは岡つ引にしなきやなるまい。ちよいと怪しい事があつても、何事もなく濟めばそれで宜いとしたものさ」

「そんな事があるものですか、親分。怪しい奴や怪しい事を、江戸中にないやうにするのが、親分のつとめぢやありませんか」

 お秀もなか〳〵負けては居りませんでした。

「俺達の眼から見れば、──お前達は氣が付かないだらうが、──この店にだつて二つや三つの怪しい事がある。それを一々とがめ立てすると、揚枝やうじで重箱の隅をほじくるやうになるから、なるべく素知らぬ顏をして、何事もなくて濟むやうに仕向けるのが、俺達の本當の務めさ。人間を縛ることなどは、末の末だよ」

 平次は少し道學先生めきました。お秀のいきり立つたのをなだめて、ガラツ八の間の惡い立場を救ふためだつたのでせう。

「二つ三つ怪しい事? 氣になるぢやありませんか、親分。どんな事が怪しいんです。訊かして下さいな」

 お秀は少しからかひ氣味になりました。平次の言葉を、當座のがれと見て取つたのでせう。

「そんな事はいはない方が宜い」

「でも、それぢや安心して居られないぢやありませんか。錢箱を覗いたり、へんな事を訊いたりする娘より、もつと氣になることがあつちや、この店を開けて置くわけには行きません」

「よし〳〵、それ程いふなら教へてやらう、──ツイ今しがた餘分の茶代を置いて外へ出て行つた若い男があつたらう」

「え」

「二十二三の一寸良い男だ、──町人風には相違ないが、出は武家ぶけらしいな。雪駄せつたの金が鳴り過ぎるし、月代さかやきが狹いし、腰が少し淋しさうだ、──あの若い男を、お前は怪しいとは思はなかつたのか」

「?」

「自分の懷ばかり覗いてゐたらう、──お前の言ひ草ぢやないが、あれは懷中の錢箱を覗いて居るんだよ、──多分親の金でも持出したんだらう」

「それだけですか、親分」

「まだあるよ、もう一人ツイ先刻出て行つた四十五六の女があつた筈だ。身扮みなりもよくなかつたが、ひどく物を考へて居たぜ──あれは身投げの場所を搜しに兩國へやつて來たのさ。つかまへて、不心得を意見してやり度いが、いかに十手捕繩を預つてゐる俺達でも、往來の人をつかまへて『身投げは思ひ止るが宜い』とはいへない」

「どうしてそんな事が、親分」

 お秀もすつかり面喰めんくらはされてしまひました。

「少し氣が付けば、誰にでもわかる事だよ。あの女は、粗末乍ら身扮がキチンとしてゐるくせに、履物はきものが右と左が違つて居た──鼻緒はなをも、塗も──」

「?」

「四十五六の女といふものは、この世の中で一番行屆く人間だ。俺達のやうな物事の裏ばかり讀んでゐる人間も、四十五六の女には時々肩負投しよいなげを喰はされる、──その年頃のしつかり者らしい女が、湯屋や寄席の歸りで履物を間違へたのなら兎も角、兩國の盛り場を、ちんばの下駄を履いて歩くわけはない」

「親分」

「さう氣が付いたところで、親の金を持出した道樂息子や、嫁にいじめられて身投げの場所を見に來たしうとめを、往來でつかまへるわけには行くまい」

「親分、そんな事ぢやありませんよ。現にこの帳場の錢箱を──」

「待つてくれ、お秀」

「この錢箱を幾度も〳〵覗くのは、私に取つちや、道樂息子や身投げ女と一緒にはなりませんよ」

 お秀はなか〳〵引込む樣子もありません。

「こいつはいつて宜いか惡いか解らないが、──その娘ののぞいたのは、錢箱ぢやなかつたんだぜ」

 錢形平次は思ひも寄らぬ事を言ふのです。

「親分」

「娘はその土竈へつつひの横を覗いたんだ」

「え?」

「その土竈は年代ものらしいが、横の方に壞れてつくろつた跡があるだらう。其處の板が取外しが出來るやうになつてゐる樣子で、何んか手摺てずれの跡がある──その中に思ひも寄らぬ大金が隱してないとも限るまい、それとも連判状れんばんじやうかな」

 平次はさう言つて、面白さうに笑ふのです。

「ま、親分」

 お秀の口も完全に封じられましたが、その時、

「お秀、なにをつまらねえ事を言ふんだ。親分が御迷惑なさるぢやないか、──どうも相濟みません。氣ばかり無闇に強くなつて、飛んだ女でございます」

 すだれの影から首だけ出した父親の留助は、臆病らしくピヨコリとお辭儀をしました。五十前後のあぶらの乘つた大親爺で、娘のお秀と違つて、何んとなく氣が弱さうです。



「あれは本當ですかえ、親分」

 兩國の歸り、宵闇の柳原をブラリブラリと歩き乍ら八五郎はたまり兼ねたやうに訊くのです。

「何が?」

「親分の見立てですよ、──親の大金を持出した息子だの、身投げの場所をさがす女房だの──」

「嘘だよ」

 平次の應へのたよりなさ。

「へエ──」

「皆んな嘘だよ、本當の事はたつた一つもないのさ」

「へエ──あれがねえ。驚いたね、どうも、何んだつてあんなこさへ事をいつたんで?」

 ガラツ八も、さすが驚きました。辻の八卦屋はつけや見たいな高慢な顏をしていつた言葉が、全部いゝ加減な出鱈目でたらめだとすると、それは一體何を意味することになるでせう。

「今に判るよ」

 平次はあまりそれに立ち入り度くない樣子です。

「娘が覗いてゐた土竈へつつひの仕掛けも嘘ですか、親分」

「あれだけは本當さ」

「へエ──」

 ガラツ八には益々判らなくなります。

「あの懷中ばかり見てゐた息子も、錢箱の裏ばかり覗いてゐた娘も、逃げたと見せて、實は俺の話を葭簾よしずの外で聽いてゐたよ。俺はあの二人に土竈の仕掛の事を聽かせてやりたかつたんだ」

「へエ──?」

 ガラツ八には愈々いよ〳〵以つて解りません。

「二三日前にお秀が來て、變なことがあるから、お前を用心棒に貸してくれといつた時から、俺はあの家を見張つて居たのさ、──そして、あの水茶屋の親爺の留助といふのは、中國筋の大藩の浪人者で、鳴川留之丞といふ者の世を忍ぶ姿と知つたんだ、──そのうちに一と騷動始まるよ。見てゐるが宜い」

「へエ──」

 ガラツ八は何が何やら解りませんが、平次はどうやら重大なことを嗅ぎ出して、その發展まで大方察してゐる樣子です。

 が、事件の破局カタストロフイーを見るために、そんなに待つてゐる必要はありませんでした。

 翌る朝。

「親分、兩國に殺しがありましたよ、直ぐ願ひます」

 バラくやうに網を張つてゐた下つ引が、平次の寢込みを驚かしたのです。

「何處で誰がやられたんだ」

「朝野屋の親爺おやぢですよ」

「あツ、到頭」

「不思議なことに、水茶屋の中で、もう一人浪人者が殺されてゐますよ」

「そいつは大變だ」

 平次は手早く用意をして、飯も食はずに飛び出しました。

 兩國へ行つて見ると、まだ時刻が早いので大した人立ちもせず、

「親分、どうしませう、父さんが──」

 お秀の熱つぽい眼が入口に迎へて、何やら平次に訴へます。

「氣の毒だが、こんな事にならなきや宜いがと思つてゐたよ」

「親分はそんな事まで見拔いてゐたんですか。それぢや、どうして用心させて下さらなかつたんです」

 お秀は平次に食つてかゝりさうでした。

「それが出來なかつた、──どれ、見せてくれ」

 平次は事件に觸れたくない樣子で、お秀をかきのけるやうに入りました。

「親分、お早やう」

「八か。大層早かつたんだね」

「こんな事にならなきや宜いがと思ひましたよ」

口眞似くちまねをするな」

 八五郎がけたのを見ると、五十年輩ねんぱいの浪人者が一人、一刀を提げたまゝ、自分も脇腹をゑぐられて、土間の床几に俯向になつて死んでゐるではありませんか。

鞍掛くらかけ宇八郎──」

「親分は知つてゐなさるんで?」

「近頃知つたばかりだ、──昨日錢箱を覗いた娘の父親だよ」

「えツ」

「後ろから刺すのは卑怯ひけふだが──正面から向つては討つ見込みがなかつたのかな」

 平次はつく〴〵そんな事を言ふのです。

「見てゐたやうですね。親分」

「どれ、もう一人の方を見せてくれ」

「此方ですよ」

 下つ引の一人が指したのは、土竈の裏、問題の錢箱の蔭。水茶屋の親爺留助は、これも一刀を拔いてひしと握つたまゝ、右の肩先から深々と斬り下げられて死んで居たのです。

「八、土竈へつつひへは誰も手をつけないだらうな」

「親分が來なさるまで、そつとして置きましたよ」

「そいつは有難い」

 死骸の側、土竈へ眼を移すと、修繕しうぜんの跡と見せた右側の板──一尺に五寸ほど剥ぎ取られ、その跡には眞つ黒な穴が一つ、ポツコリと口を開いて居るではありませんか。

 手を入れて見ると、

「おや?」

 中から出たのは紙片が一枚。

身の丈五尺四寸五六分、中肉にて眼鼻大なる方。髯の跡青く、受け口にて、前齒二本け落ちたり。右耳朶みゝたぶに小豆粒ほどの黒子あり。言葉は中國なまり。聲小にして、至つて穩かなり──

「こいつは留助の人相書だぜ、親分」

 八五郎は覗き乍ら、水茶屋の親爺の死骸と見比べます。

「その通りさ」

「留助は自分の人相書を、土竈へつつひの中へ入れて置いたんでせうか」

「それは解らねえが、兎に角、昨日この店へ入つて、自分の懷の中ばかり覗いてゐる若い男があつたらう」

「親分が──親の大金を持出した息子──と見立てた」

「この若い男の懷の中に、この人相書があつたのさ」

「それぢや下手人は判つたやうなものぢやありませんか、親分、早く擧げてしまひませう」

「待て〳〵、逃げも隱れもする相手ぢやねえ。それより、調べるだけ此處を調べて行かう」

 平次は落着き拂つて四方を眺めました。店の先にはもう、彌次馬が一杯に立つて居ります。



「お秀、隱さずに言つてくれ」

 平次はいきなり、涙一てきこぼさぬ娘のお秀に聲を掛けました。勝氣なお秀は、激情と悲歎を押し包んで、燒金のやうな猛烈な復讐心を眼に燃やし續けてゐるのです。

「何を隱すもんですか」

「それぢや訊くが、お前の父親留助、──實は淺野樣家中の鳴川なるかは留之丞が國許を退轉したのは、たしか十二年前だつたね」

「えツ?」

「だから隱すなと言つてるぢやないか、──その時江戸へ持つて來た大事な書き物があつた筈だ。それをこの土竈へつつひに隱してから、何年になるんだ」

 平次の問ひは恐ろしく穿うがつたものです。

「そんな事を、──知るものですか、親分」

 お秀の調子は少し自棄やけになります。

「俺は、お前が──變な人間が附けねらふから、八五郎を用心棒に貸せと言つて來た時、誰にも知らさずに此處へ來て、お前の父親にも當つて見たが、何うしても打明けてくれねえ。仕方がないから店の表裏を覗いたり、お前達親子をけたりする浪人者親子と、もう一人別口の若い男があることを見屆けて、其の方から搜つて見たんだ。これは素姓を包むわけでもないから、直ぐ判つてしまつたよ。一人は藝州浪人鞍掛くらかけ宇八郎──此方に死んでゐる浪人者だ。その娘のお京──それからあとの一人の若者は、同じ藝州の浪人きぬた右之助──」

「──」

 平次の話の行屆くのにお秀も流石さすがに膽を潰した樣子です。

「二人の素姓が判ると──淺野樣御留守居に願つて、十二年前の經緯いきさつが手に取る如く判つてしまつた。話して聽かせようか、お秀」

 檢屍の役人の來るまでは、死骸に手の觸れやうもありません。平次は床几に腰をおろして、暫らくの暇を、斯う靜かに語り進むのでした。

 藝藩の三人侍、鳴川留之丞と、鞍掛宇八郎、きぬた右三郎(砧右之助の父親)は無二の仲でしたが、腹の黒い鳴川留之丞が、永年にわたつて役向の非曲を重ねてゐることを發見した鞍掛、砧の二人は、涙を流して忠告し、聽き入れなければ、上役に訴へてもとまで強意見こはいけんをしました。

 鳴川留之丞はそれをうらんで、砧右三郎と鞍掛宇八郎が、役柄で預つてゐる藝州域の繪圖面を盜み出し、多年積んだ不義の富を拐帶かいたいして江戸の坩堝るつぼの中に深く隱れて了つたのです。

 そのため、責任者の砧右三郎は死に、鞍掛宇八郎は、長のいとまになつて藝州を退散、十二年の歳月を重ねて、ひとり鳴川留之丞を搜して居たのでした。

 きぬた右三郎の子息砧右之助と鞍掛宇八郎は、目的は同じ乍ら、全く別々に行動しましたが、機會が熟したものか、二人共ほぼ一緒に鳴川留之丞の隱れ家──水茶屋の朝野屋を突き止め、夜となく晝となく中の樣子を覗つたのです。押入つて、ひと思ひに鳴川留之丞の留助を討ち取るのは何んでもありませんが、それより先に二人は繪圖面の隱し場所を突き止め、それを舊主淺野家にかへさなければならなかつたのです。

「晝の一らつを娘のお京さんから聽いて、事の切迫を覺つた鞍掛宇八郎は、鳴川留之丞に直々の掛合をする心算つもりで昨夜此處へ乘込んで來たに相違ない。二人は散々言ひ爭つた揚句あげく、拔き合せると、手もなく鞍掛宇八郎は勝つた、──が」

「誰が、その勝つた鞍掛宇八郎を刺したのでせう」

「さア?」

 平次の明察も其處迄は屆き兼ねたのです。

「どうかすると、きぬた右之助と言つた、あの氣の弱さうな若い男ぢやありませんか、──鳴川留之丞を鞍掛宇八郎に討たれた上、大事の繪圖面まで取られちや、砧家は浮ぶ瀬はない」

「──」

 平次のうたがひもそれだつたのです。

「ね、親分」

「それは考へられない事はないが、後ろから突くのはあんまり卑怯ひけふだ。それに、自分の持つて居た人相書を土竈へつつひの穴へ入れるのは變ぢやないか」

「兎に角、あの若い浪人者をしよつ引いて來ませうか」

 とガラツ八。

「砧右之助は駒形の六兵衞だなに、僞名ぎめいもせずに居る。丁寧につれて來るが宜い、──それから、鞍掛宇八郎の浪宅は少し遠い。本郷丸山の手習師匠だ、これも誰か人をやるんだ──お前は此處に居る方が宜い」

「へエ──」

 ガラツ八は飛んで行きました。下つ引を二三人狩り集めて、走らせる心算つもりでせう。



「お秀」

 手配が一段落になると、平次は靜かに話を向けましたが、當のお秀は以ての外の不機嫌さです。

「此處は毎晩誰か泊るんだ」

「決つちや居ませんよ。相吉さんが泊つたり、辨次郎さんが泊つたり」

「それは何だ」

「相吉さんは私の從兄いとこで、辨次郎は用心棒ですよ。──二人共、今駈け付けて面喰つてるぢやありませんか」

「何方が相吉だ」

あつしで」

 平次の聲に應じて出たのは、二十五六の一寸肌合の意氣な男でした。

小遣こづかひはふんだんにあるのか」

「御冗談で、親分」

 平次の唐突たうとつさに、相吉はすつかり面喰つて居ります。

「辨次郎は?」

あつしで、へエ──」

 ピヨコピヨコと三つ四つ續け樣にお辭儀をしたのは、三十二三のたくましい男。頤の四角なのと、眼の鋭いのと、法外に腰の低いのが、この男をひどく精力的に見せます。

「ドスを持つてゐるかい」

「へエ──」

「出して見せな」

 この問ひも辨次郎を驚かすに充分です。

「用心棒が拳固げんこ一つといふことはあるまい、遠慮せずに出すが宜い」

「へエ──」

 辨次郎は觀念したらしく、腹卷をさぐつて匕首あひくちを一口取出し、柄をぎやくにして、平次のの上に戴せます。

「見事な道具だが、血は附いちやゐないな」

「親分、御冗談でせう」

 少しあわてた辨次郎に、平次は面白さうに笑つて匕首あひくちを返してやりました。

「昨夜は二人共外へ出なかつたんだな」

「へエ──珍らしく親方が店へ來て泊るつて言ふから、あつしと相吉さんは、横網よこあみの家の二階で夜中まで話し込んで、散々お秀さんに小言を言はれ乍ら寢ましたよ」

 辨次郎はそんな事まで、先をくゞつて辯解するのでした。

「八、暫らく此處を頼むぜ。一人も外へ出しちやならねえ、宜いか」

「親分は?」

「ちよいと八卦はつけでも置いて來るよ」

 平次は笑ひ乍ら出て行きました。行先は横網のお秀の家であつたことは言ふ迄もありません。

 留守番は下女が一人。

「昨夜此處に泊つたのは誰と誰だ。隱さずに言へ」

「親方が店へ泊つた外は、皆んな此處に居ましたよ」

「お秀は何處へ寢る」

梯子段はしごだんの下へ、──三人のお茶汲みと一緒に寢ますよ」

 下女の口は思ひの外なめらかに動きます。

「二階は?」

「相吉さんと辨次郎さんが、夜更けまでベチヤベチヤ話して居るんで、姐さんに小言を言はれてゐました」

「お秀は下から怒鳴どなつたんだな」

「へエ──」

「二人共一と晩中何處へも出ないだらうな」

「出られるわけはありませんよ、梯子段は一つだし──格子は釘付けだし」

 下女は思ひの外氣が廻ります。

「二階を見せてくれ」

「へエ──」

 十手を見せられると、文句はありません。平次は呆氣あつけに取られて居る下女を尻目に二階へ上りましたが、屋根は眞新しく、格子は嚴重な釘付けで、梯子より外には外へ出る道があらうとも思はれません。押入から二人の持物を引出して見ましたが、よく〳〵困つて居ると見えて錢も金も百も無い有樣。血刀などは素より隱してある筈もなく、何も彼も平次の豫想を裏切つてしまひました。

「相吉と辨次郎は、二人共昨夜ゆふべ飯を食つたかい?」

「いえ、辨次郎さんは、お腹の加減が惡いとか言つて、二階から降りて來たのは相吉さん一人でしたよ」

「朝飯は?──それも相吉一人か」

「いえ。辨次郎さんも今朝けさは降りて來ました。まだあんまり食が進まない樣子でしたが」

「二人は金づかひは何うだ」

「二人共まだ若いんですもの」

「借金は?」

「私からまで借りるくらゐですから──」

 この下女には、相吉と辨次郎を頤で使ひさうなところがあります。

「二人は脇差を持つてゐるかい」

「相吉さんが持つてゐますよ」

「見えないやうだが」

「質にでも入れたんでせう」

 それでは疑ふ張合もありません。平次はもう一度二階へ行きました。念のため格子へブラ下げて朝陽にしてあつた袷が辨次郎のだといふことを確かめ、その腰のあたりからほこりをつまみ取つて、それから二人の履物はきものをしらべて、

「相吉と辨次郎と、何方が聲が大きいんだ」

 こんな變なことまでも訊きます。

「辨次郎さんは柄に似ない小さい優しい聲で、相吉さんは大きな聲ですよ」

「よし〳〵、飛んだ世話になつたな」

 平次はお世辭を言ひ捨てて、疾風しつぷうの如く兩國の水茶屋に引返しました。



「八、解つたよ」

 平次はいきなり斯んなことを言ひ乍ら飛び込んだのです。

「何が解つたんで、親分?」

 八五郎は顏へ掛つた蛛の巣でも拂ふやうな手付きをしました。

「皆んな解つたよ、鞍掛くらかけ宇八郎を殺した奴も、──盜んだ金を隱した場所も」

「えツ」

「鞍掛宇八郎を刺した血刀がないんで俺は骨を折つたが、眼の前の大川が流れてゐることに氣が付かなかつたんだ。ちよつと出て俺の立てた目印めじるしのあたりを覗いて見ねえ、底に脇差が一ふり沈んでゐるのが、よく見えるぜ」

 平次の言葉の豫想外さに、何んとなく皆んな顏見合せて默りこくつてしまひました。丁度その時三人の下つ引は、きぬた右之助をつれて來たのでした。

「拙者をどうしようと言ふのだ。無禮な事をすると許さんぞ」

 昨日の町人とも武家ともつかぬ身扮みなりと違つて、今日は堅鬢付かたびんづけでカンカンに結つた髷も、衣服、大小のつくりも、押しも押されもせぬ武家姿です。

「砧樣、お手間は取らせません。昨夜、此處で起つたことを、皆んな仰しやつて下さいまし」

 平次はぐつと下手に出ました。

「お前は何んだ」

「神田の平次でございます。十二年前の藝州に起つた事、鳴川留之丞の惡事、何も彼も存じて居ります」

「──」

「それから、昨夜ゆふべ、貴方樣が、此處へお出になつたことも」

「何?」

「懷ろの人相書を落していらつしやいましたね、──これ、この通り」

 平次は土竈へつつひから出た人相書を、砧右之助に渡してやるのでした。

「成程それほどまで判つてゐるなら、皆んな言つても差支えあるまい。──昨日この店先で、其方が土竈へつつひに何か隱してあると言つた言葉、あれを聞くと、いよ〳〵繪圖面が手に入ると思ひ込み、昨夜子刻こゝのつ少し過ぎ、如何にも此處へ乘込んで來たに相違はない──が、その時はもう萬事終つてゐた。今此處で見る通り、鳴川留之丞も、鞍掛宇八郎もこと切れてゐたのだ。誰が殺したか解らぬが、拙者に取つては千載せんざい遺恨ゐこん、鳴川留之丞は是が非でも討取るべき相手であつたし、鞍掛宇八郎にも一言のうらみが言ひ度かつた。拙者の父上は自殺して相果てたが、同じ役目の鞍掛宇八郎は、追放といふ輕い罪で濟んだ。その上繪圖面までも手に入れようと張合つて居た」

 砧右之助の述懷じゆつくわいには、何かしら八五郎などには腑に落ちないものがあります。極端に家と名を惜む武家氣質は、違つた世界の出來事だつたのです。

「用意の懷提灯ふところちやうちんに火を入れて見ると、幸ひ鞍掛殿の手に、私の搜してゐる繪圖面はあつた。少し血に汚れてゐるが、洗ひきよめて舊主藝州候におかへし申上げ、せめて亡き父上の亡執まうしふを晴し度いと、それは誰はゞかる者もなく持ち歸り、本日はこれから、霞ヶ關御屋敷に參上するところであつた」

 砧右之助の言葉は、立派に筋が通りますが、疑へはまだ、いくらでも疑へます。

「鞍掛樣を誰が刺したか、お心當りはございませんか」

「ない」

 砧右之助の調子はブツ切ら棒でした。その時不意に、一陣の櫻咲雪さくらふぶきのやうに飛び込んだものがあります。

「砧右之助覺悟ツ」

 ひらめく匕首あひくちの下に身をひるがへして、右之助は床几しようぎへだてて聲を絞りました。

「覺えはないぞ」

「言ふな、卑怯者ツ」

 床几を廻つて、兎もすれば右之助に飛びかからうとするのは昨日錢箱騷ぎを起した娘、──鞍掛宇八郎の娘お京です。たつた十八、色の淺黒さも、眼の凉しさも、野の花をつて來たやうな純な少女ですが、父親の無樣な死骸を見ると、一も二もなく、砧右之助を敵と思ひ込んだのでせう。ガラツ八も先刻そんな事を考へたくらゐですから、咄嗟とつさの間には、まことに起りさうな間違ひでした。

「違ふ、お孃さん、敵違ひだ」

 平次は二人の間に割つて入りました。

「言ふな」

 少しあせつたお京、──蒼い顏、ひらめく匕首あひくち、赤い帶。

「鞍掛樣をだまし討にした曲者は、──仔細あつてこの平次が見破つた。八、逃げ場〳〵をふさげ」

「おツ」

 ガラツ八は下つ引と手をわけて、茶店を遠卷に、グルリと圓陣を描きました。

「今ぞ、御教へ申しませう。昨夜ゆふべ、鳴川留之丞を討つたは、間違ひなく鞍掛宇八郎樣。鞍掛樣を騙し討ちにして、繪圖面と一緒に隱してあつた、土竈へつつひの金を盜み出したのは、その辨次郎に相違はないツ、──横網の二階に居て、一と晩獨り言を言つてゐた。その相吉も敵の片割れ」

「な、何を言ふ。岡つ引奴ツ、俺達はそんな大それた事をするものか」

 辨次郎と相吉は、飛び退いてきつと身構へました。

「證據は山ほどある。夜露に濡れた辨次郎の袷には、一と晩かした柳原土手の葉が附いて居るばかりではない。たもと飛沫しぶいた返り血を洗ひ落した跡まである」

「えツ」

「脇差は川へ投り込んだが、金はその丸太を槓杆てこにして、土竈へつつひの下に隱してある筈だ。土竈から取出した金を、土竈に隱すのは働きだが、先刻さつき、──この平次が金の隱し場所が解つたと言つた時、二人の眼は土竈の下へ吸ひ附いたのに氣がつくまい。──それに槓杆てこの枕を捨てたのは宜いが、土竈へつつひを据ゑた場所が少し動いて居ることに氣が付かなかつた」

 平次の論告は烈々として寸毫すんがうの假借もありません。

「まだある、──辨次郎は昨日俺の話を立ち聽きしてゐた筈だ。土竈に何にか隱してあると覺つて相吉と相談して薄明るい内に二階を脱出し、柳原土手で時を過した上、一人で忍んで來ると、留助はもう殺され、鞍掛樣は夢中になつて土竈へつつひを搜してゐた。──忍び寄つて後ろから一と突き、土竈の中の金だけ取つて逃げ出したところへ、きぬた樣がやつて來た」

「──」

「隱れて樣子を見て居ると、砧樣は繪圖面だけ取つて歸つた。ホツとして出て來ると、砧樣の落した人相書が目に付いた。──辨次郎は猿智慧さるぢゑを働かせて、それを土竈の中へ入れたのは、餘計な事であつた。──さア、これでも下手人はお前達二人でないと言ふか」

 詰め寄る平次。二人は顏見合せて、ジリジリと引き退ると見せて、

「えツ、破れかぶれだ」

 匕首あひくちを振つて左右からお京に殺到したのです。

「あ、危いツ」

 平次の投げ錢は、僅かにそれを救ひましたが、

「えツ、くたばつて了へツ」

 二度目の襲撃、お京は床几しようぎに足を取られて、横倒しになつた上へ、

「己れツ」

 砧右之助はパツと飛び込みました。横合からお京に殺到する相吉を迎へて、

「わツ」

 相吉が見事もんどり打ちました。

「あツ」

 け反る辨次郎。逃げ出すところを、ガラツ八に足の間へまきを投り込まれたのです。

「捕物だ」

 兩國の橋へかけての眞晝の人雪崩ひとなだれ

「寄るな〳〵」

 ガラツ八は精一杯の蠻聲ばんせいを張り上げてそれを喰ひ留めて居ます。

        ×      ×      ×

「變な捕物だつたね、親分」

 歸り途、ガラツ八は相變らず平次の心境を叩くのでした。

「お蔭で一と組の良い若夫婦が出來上るよ。──お京さんの危いところを見兼ねて、フト助太刀したのは砧右之助の大手柄さ、あれで兩家の面白くないわだかまりも解けるだらう」

「そんな蟠りがあつたでせうか」

「自分の親だけ自害して、繪圖面まで其方の手柄にされちや、砧右之助一寸納まるまいよ。尤も繪圖面は右之助の手に入つたが──」

「へエ──」

「武家はうるさいな、八」

「もう一つ解らない事があるんだが──」

「何んだい」

 平次もすつかり上機嫌です。

「身投げの場所を搜した女房といふのは今日出て來ませんね」

「あれは身投げなんかぢやないよ、お京さんの乳母うばのお淺といふ女さ。お孃さんが危いところへ行つたと知つて、下駄を片跛かたちんば穿いて本郷丸山から飛んで來たのさ」

「なアーンだ」

「それを身投げにしたところが俺の作だ」

 平次は面白さうでさへありました。

「もう一つ、──脇差が本當に大川の底にあつたんですか」

「ないよ」

「へエ──」

「あつたところで見えるものか、それも俺の作だよ」

 ガラツ八も少し驚きました。

「尤も、同じ親分の作でも、土竈へつつひを丸太の槓杆てこで起すと、その底から八百兩といふ小判が出て來たのは驚きましたね。──土竈の横腹から盜んで土竈の尻の下に隱す奴も馬鹿ぢやねえが、それを見破つた親分もエライ」

 ガラツ八は二つ三つ首を振つて眼を据ゑました。

おだてちやいけねエ」

天眼通てんがんつうだつたね、全く」

「なアに、順當に物を運んで考へただけさ。嘘だと思つたら大川をかひ堀して見ねえ、脇差だつてきつとあの底から出て來るから」

 二人は聲を合せて笑ひました。全くよき秋の日の夕ぐれです。

底本:「錢形平次捕物全集第二十三卷 刑場の花嫁」同光社

   1954(昭和29)年45日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋社

   1939(昭和14)年9月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

※底本は「鞍掛宇八郎」「鞍掛字八郎」が混在していますが、「鞍掛宇八郎」で統一しました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2016年610日作成

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