錢形平次捕物控
土への愛著
野村胡堂
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「親分、良い陽氣ぢやありませんか。少し出かけて見ちやどうです」
ガラツ八の八五郎が木戸の外から風の惡い古金買ひのやうな恰好で、斯う覗いてゐるのでした。
「何んだ八か。そんなところから顎なんか突き出さずに、表から廻つて入つて來い」
錢形平次は、來客と對談中の身體を捻つて、大きく手招ぎました。
「顎──ですかね、へツ、へツ」
ガラツ八は首を引込めて、不平らしく長んがい顎をブルンと撫で廻します。
「木戸の上へ載つかつたのは、まさか鼻の頭ぢやあるめえ。體裁振らずに、さつさと大玄關から入つて來るが宜い」
「大玄關と來たぜ、へツ、へツ、親分も宜い氣のものだ。敷臺に隣の赤犬が寢そべつて居るんだが蹴飛ばしても喰ひ付きやしませんか」
「丁寧に挨拶をして通るんだよ。犬だつて見境があらア、平常亂暴なことをするから、お前の顏を見ると唸るぢやないか。──あの通りだよ、三つ股の兄哥。目白までつれて行つたところで、大した役には立つまい」
平次は客を見て苦笑するのです。
客といふのは、目白臺で睨みを利かして居る顏の古い御用聞で、三つ股の源吉といふ中年者ですが手に餘るほどの大事件を背負ひ込んで、町方役人から散々に油を絞られ、フト二三年前、鬼子母神樣境内の茶店の娘、お菊殺しの難事件を解決した錢形平次の鮮やかな腕前を思ひ出して、我慢の角を折つて助勢を頼みにやつて來たのでした。(『玉の輿の呪』參照)
「親分、何んか用事ですかえ」
八五郎はそれでも犬にも噛み付かれず、障子の外から膝行り込みました。
「三つ股の兄哥だ。挨拶をしな」
「へエ、今日は」
「おや、八五郎兄哥、いつも元氣で結構だね。──用事といふのは、あつしが持込んで來たんだが、昨日雜司ヶ谷に厄介な殺しがあつたのさ。わけもなく下手人を擧げられると思つたところが大違ひ、臭い奴が三人も五人も居て、どれを縛つたものか、まるつきり見當が付かねえ。十手捕繩を預つてこんなことを言ふのは業腹だが、今度ばかりは手を燒いたやうなわけさ」
「殺されたのは、新造ですかえ、年増ですかえ」
八五郎は膝小僧に双掌を挾んでにじり寄ります。
「馬鹿だなア、三つ股の兄哥が男とも女とも言つてないぢやないか」
と平次。
「成程」
「牝が一匹に、男が一人さ」
源吉は引取りました。
「へエ──」
「殺されたのは、雜司ヶ谷きつての大地主で、寅旦那といふ四十男、吝で因業で、無悲慈で亂暴だが金がうんとあるから、殺されたとなると世間の騷ぎは大きい。錢形の兄哥の手を借り度いと思つて來たが、今直ぐと言つてはどうしても手が離せないといふから、せめて八兄哥でも──」
「せめて八兄哥ですか」
八五郎は少し尖りました。
「そんなわけぢやない。是非八五郎兄哥に來て貰つて──」
「せめて八兄哥──で澤山だよ。折角だから、行つて見るが宜い。とんだ良い修業ぢやないか」
平次にさう言はれる迄もなく、退屈しきつて居る八五郎は、何處へでも飛出したくて仕樣のない樣子でした。
「行きますよ、親分。──あつしが行つたからには、御手拍子三つ打つうちに、首尾よく下手人を擧げてお目にかけますよ」
「馬鹿野郎」
「へツ」
「こんな調子だから、頼りないこと此上もなしだが、猫の子よりは役に立つだらう。今日中に形が付かなかつたら、明日は俺が行つて見るよ」
「さうしてくれると有難い。それぢや八兄哥を借りて行くぜ」
三つ股の源吉は八五郎をつれて、兎も角も目白臺に歸つて行きました。それは櫻には少し遲いがまだ鰹にも時鳥にも早い晩春のある日のことでした。
道々源吉は、八五郎のために事件の輪郭を説明してくれました。
殺された寅旦那は、寅五郎が本名で、目白臺の半分を持つて居るといふ大地主、語り傳への山莊太夫のやうな男で、隨分諸方の怨を集めて居りますが、鬼とでも取つ組みさうな恐しい強氣で押し通し、幾度となく刃の下を潜つた強か者です。
それが、今朝、無慘な死骸になつて、自分の部屋の中に發見されたのでした。強氣に任せて、戸締りもろくにしなかつたのと、此邊は江戸の町の中と違つて、あまり物騷なこともなかつたので、すつかり油斷してゐるところを襲はれたのでせう。
一昨日は三月の晦日で、夜中近くまで弟の金次郎を相手に帳面を調べ、それから姪のお豊の酌で珍しく一杯呑んで寢たのは子刻(十二時)過ぎ。昨日の朝、お豊が朝の仕度をして、雨戸を開けに行くと、寅五郎は自分の部屋の中で、紅に染んで死んでゐたといふのです。
多分ほろ醉機嫌でよく寢込んだところを、脇差で一思ひに刺されたのでせう。傷は喉に一ヶ所だけ、主人の部屋が遠かつたので、誰も氣が付かなかつた樣子です。寅五郎の枕刀はありますが、これには手を付けず曲者の使つた兇器は家の中にも外にも見當りません。
「ざつと斯んなわけだ。命がけで寅五郎を怨んでゐる者はうんとある。先づ女房のお富は四十を越してゐるくせに、犬と猿で、朝から晩まで亭主といがみ合つて居る始末だ。寅五郎が吝なのと、お富が我儘なせゐだらう。五年も前から寢部屋まで別にして、お富は姪のお豊と一緒に裏二階に寢て居る」
源吉は語り進みます。
「その二人には下手人の疑ひがかゝらないわけだね」
と八五郎。
「何んとも言へるものか、姪のお豊だつて、給料のない下女見たいに、何年越し滅茶々々にコキ使はれてゐるから、二人相談して口を合せさへすれば、どんな事でも出來るよ」
「でも、傷は一つで喉笛だといふと、馬乘りになる外はない、女がまさか──」
と八五郎。
「そんな事もあるだらうな。さすがに錢形の兄哥の仕込みで、八兄哥も良いところへ氣が付くやうになつたね」
「それに、家の者ぢや刃物を隱しやうはあるめえ。下水や床下へ投り込んだところで、直ぐ知れるに決つてゐる──」
八五郎は少し調子に乘りました。
「そいつは早合點過ぎるぜ。下手人が家の者だからこそ念入りに刃物を隱すんだ。外から入つた殺しなら、そんなものはわざと投り出して行くよ」
「成程ね」
八五郎は簡單に合槌を打ちます。甚だたよりない推理です。
「それから、主人の義理の弟で金次郎といふのがゐる。三十七八の喰へさうもない男だが、不思議に文句も言はずに、長年の間番頭代りに働いて居る」
「給料を貰つて居るだらう」
「そんなものを出す寅旦那ぢやない、食はせるのが惜しくてたまらないと言つた顏だ。四十近くなるまで、女房も持たずに、ガミガミ言はれ乍ら働くのは、いかな金次郎でも容易の辛抱ぢやあるまいよ」
「それから」
「百姓の松藏といふのが、常雇の作男で、納屋に寢泊りして働いてゐるが、何んでも少しばかりの借金の抵當に祖先傳來の田地を寅旦那に捲上げられ、娘のお美代を賣つても追つ付かないから、自分は寅旦那のところへ一生奉公する心算で、默つて働いて居るんださうだ。こいつは佛樣のやうな男で、何んの苦勞もないやうに見えるが、腹の中ではうんと怨んでゐることだらうよ」
「それから」
八五郎は尚ほも根掘りします。
「松藏の伜の松太郎は十九か二十歳で家を飛出し、やくざな仲間に入つて居たが近頃は根岸で大工の眞似をして、どうやら堅氣で暮してゐるさうだ。そいつも手を廻して調べあげたが、その晩江の島詣りの約束で、子刻(十二時)過ぎに根岸の棟梁の家を出て申刻(四時)過ぎには品川で多勢の仲間と落合ひ、何んにも知らずに江の島から鎌倉へ遊び廻つて居る。根岸から品川まで眞つ直ぐに行つても四里以上あるから、二刻で辿り着くのは一杯々々、人間の足で目白臺へ廻れる筈はない」
「──」
「松太郎の妹のお美代は、振袖新造で籠の鳥さ」
「それから」
「雜司ヶ谷の荒物屋の利八といふ親爺がある。寅旦那にひどい眼に逢はされたとかで、何時かはきつと殺してやると觸れ廻して居るが、その晩は疝氣を起して早寢をしたから、口惜しいが下手人は俺ぢやないと大威張りだ」
「へツ」
「まだ寅五郎を殺しさうなのはうんとあるが、先づ一番手近なところはそんなものだ」
「そのうちで一番臭いのは?」
「松藏かも知れないよ。田地を取られた上、娘を賣つて、伜は家出したんだから、──尤も、松藏はその晩、練馬の弟のところへ法事に招ばれて泊る心算で出かけたが、氣分が惡くなつて途中から歸つたさうだ」
「時刻は?」
「出かけたのは薄暗くなつてから、尤も──法事に行くなら、齋飯は向うで出るんだらう──と寅五郎に當てこすられて、空き腹を抱へて出かけたせゐか、途中で氣分が惡くなつて、半里ばかり行つて引返したといふから、半刻も家をあけなかつた筈だ」
「成程ね」
ガラツ八は高慢らしく腕を組みました。が、何んにも見當が付いたわけではありません。
「親分、到頭捕へましたよ」
鬼子母神手前の現場に着くと、源吉の子分の磯吉が飛出しました。
「何を捕まへたんだ」
「下手人ですよ。──親分に言ひ付けられた通り、そつと弟の金次郎の野郎を見張つてゐると、案の定あの晩盜んだ金を持出さうとするぢやありませんか。否應なしに縛つてしまひましたが、兎も角親分が歸るまで、そつとして考へさせてあります。今頃は請合白状し度いやうな心持になつて居るでせうよ」
磯吉は心得顏に入口のすぐ側にある、長四疊を指さしました。
「そいつは良い鹽梅だ。金は何處に隱してあつたんだ」
源吉はガラツ八などを伴れて來ただけ無駄をしたやうな心持ちでせう、振り返つて氣まづい顏を見合せます。
「物置の炭俵の中ですよ」
「どうして、あの晩盜み出した金と判つたんだ」
「一昨日の夕方炭屋から持つて來た炭俵の中に隱してあつたんだから文句はありません。──その炭俵を音羽の長屋の者にやるとか何んとか言つて、自分で持出したは宜いが、中に千兩箱を一つ隱してあるんだから、腰が切れませんや」
磯吉の鼻は少しばかり蠢きます。
「成程そいつは面白い圖だつたな。──ところで刃物はどうしたか訊かないのか」
「一應訊いて見ましたが、白ばつくれて言やしません。二つ三つ引つ叩いたら、背後の苗代の中とか何んとか言ふに決つてますよ」
「よし〳〵」
源吉はそれを聽き捨てて長四疊に入つて行きました。
「あ、親分、私ぢやない。──兄を殺したのは私ぢやありません。助けて、助けて下さい。お願ひ」
柱に縛られた金次郎は、源吉の顏を見るとわめき立てるのです。四十そこ〳〵の陰慘な忍從に叩き上げられたやうな蒼黒い男です。
「金は盜んだが、兄哥は殺さなかつた──とでも言ふんだらう。そんな言ひ譯は通用しねえ。さア刃物を何處へ隱した。そいつを聽かうぢやないか、え?」
源吉は物馴れた調子で疊みかけ乍ら、縛られた金次郎の前に踞みました。
「刃物なんか、何んにも知りません。──私は金を盜みました。でも、こいつは私の金だつたんです。死んだ主人と兄弟の仲と言つても、もとを洗へば他人同士の私が、二十年近くもたゞで働かされたんです。いづれ給料を勘定して、一度に拂つてやるからと、兄は口癖のやうに言つて居ましたが、その兄が死んだ今となつて、此世帶は何處へ行くか解りませんが、私が言ひ立てたところで、二十年の間の給料を誰も拂つてくれる筈はありません」
「それでツイ殺す氣になつたんだらう」
「飛んでもない。私はそんな人間ぢやありません。昨日の朝兄が殺されて居ると知つた時、皆んな大騷ぎをしてゐる隙を狙つて、千兩箱を一つ持出したのは、いかにも私が惡う御座いました。それは改めて返します」
「今更そんな事をしたつて追つ付くか、馬鹿野郎」
源吉はヌケヌケとした金次郎の辯解に腹を据ゑ兼ねたものか、いきなり叱り飛ばしました。
「あツ、親分さん、私ぢやありません。私はあの晩子刻まで兄と一緒に居ましたが、それからそつと脱出して、夜が明けてから歸つて來ました。出たのも歸つたのも、お豊がよく知つて居ます」
「何處へ行つて浪つて來たんだ」
「表通りのお七のところ──」
「そいつは後で調べる。──尤も、お七のところにしけ込んだにしても、夜中にそつと拔け出して來る術はあるだらう」
「そんな事が出來るものですか」
際限もなく言ひ募る二人。我慢がなり兼ねて、八五郎はそつと源吉の袖を引きました。
「三つ股の、──こいつは少し變ぢやないかね。殺して盜つた金なら、炭俵なんかに隱さずに、その晩のうちに始末をする筈だ。──お七とか言ふ女の方を調べて見ちやどうだらう」
「八兄哥、──俺は下手人は矢張り此野郎だと思ふよ。まア、折角さう言ふなら、もう少しあつちこつち當つて見ようか」
源吉は少し不機嫌な樣子で、漸く長四疊から出ました。
目白長者、寅五郎の屋敷は豪勢でした。細川越中守屋敷の少し先、雜司ヶ谷鬼子母神に至る一廓に百姓風乍ら高々と生垣を圍らし、藁屋根の庇を反らした構へ、これに玄關を取付け、長押を打つたら、そのまゝ大名のお下屋敷と言つても恥しくないでせう。
部屋々々の青疊の清々しさ、家具調度の見事さ、こんな場末に、これほどの生活のあつたのが、八五郎の眼にも不思議に映ります。
寅五郎の女房のお富は、四十を餘程越したらしい年配にも恥ぢず、夫が死んだ二日目に、紅白粉までつけて、ニヤリニヤリと岡つ引を迎へると言つた肌合の女──吝で無慈悲で、強慾だつた寅五郎と、生れ變つて來ても氣性の合ひさうもない柄です。
「私はお豊と一緒に寢みますから、何んにも知りませんよ。梯子はたつた一つ、あの通り奉公人達の枕元を通らなきや、何處へも行けません。ホ」
危ふく笑ひ出しさうにして、掌をちよいと返して、唇の蓋をするのです。
奉公人といふのは、出來るだけ給料の安さうな小僧が二人、小女が二人。これはどう疑つて見ても事件に關係がありません。
主人の姪のお豊といふのは、十八の娘盛り。氣の毒なことに、身に着いた赤いものは、可愛らしい唇だけと言ふ有樣で、朝から晩までこき使はれるらしく、見る影もない痛々しい姿ですが、不思議な美しさが、その底から輝いて、ヂツと見て居ると、涙を誘はれるやうないぢらしい娘でした。
「お前は主人を怨んでゐるだらうな」
八五郎は親分の平次の調子でズバリとやつて見ました。
「──」
默つてそこの八五郎を見上げた眼には、見る〳〵涙が溢れます。
「給料を貰つたことがあるのかい」
娘は默つて頭を振りました。
「主人をうんと怨んでゐるのは誰と誰だ」
「──」
娘はそれにも答へません。
「止すが宜い、八兄哥。その娘の口を開かせるよりは、田圃の地藏樣を口説く方が樂だぜ。俺はもう散々手古摺つたんだ」
無用の努力と思つたか、源吉は八五郎を促して家の外廻りをグルリと一巡しました。
「此處は?」
物の氣はひを感じて、八五郎は納屋を覗きました。
「作男の松藏が居るよ。その男は一番寅五郎を怨んでゐる筈だが、──下手人にしちや少し正直すぎるよ。佛松藏と言や、此邊で知らない者のない老爺だ」
「佛松藏か」
八五郎はそれを口の中で繰り返して、物置の世帶を覗きました。そんな綽名がどうかすると、飛んだ喰はせ者の僞裝になつて居ることを、いろ〳〵の機會で教はつて來て居るのです。
「──」
中はほんたうに形ばかりの世帶で、土間に筵を敷き、木の根つこを二つ並べ、火のない七輪は鉢卷をし、水のない瓶は、三分の一ほどから上は缺け落ちてゐる有樣でした。
筵の上につまんで置いたやうな寒々とした老爺は、二人の姿を見ると、臆病らしくお辭儀をしました。老けては見えますが、それは貧苦と勞働のせゐで、本當は精々五十四五でせう。肘の拔けた野良着、ボロボロの股引、膝つ小僧がハミ出して、蟲喰ひ月代が胡麻鹽髭と共に淺ましく伸びて居ります。
「爺さん、びく〳〵する事はない。正直に話してくれ」
八五郎はその側へ寄つて、木の根つこの一つに腰をおろしました。
作男松藏の話は、正直過ぎて嘘のやうでした。一つは八五郎の明けつ放しな質問に引出されたのと、もう一つは、土地の者源吉が、いろ〳〵の事情を知り拔いてゐて、松藏に隱し立てを許さなかつたせゐもあるでせう。
「お前が寅旦那から金を借りて、田地を取上げられたといふのは本當か」
八五郎の問ひはこんな事から始まりました。
「へエ──、取上げられたと申しませうか。──お金は五年前に、三十兩ほど拜借しました。重なる不仕合せと、伜の松太郎が手弄みを覺えて、不義理の借金を拵へたためでございます」
「それを拂へなかつたんだね」
「利に利が積つてその翌る年には五十兩になり、三年目には百兩になつてゐました。これはたまらないと思つて願ひに出ますと、田地を皆んなよこせといふ話でございます。──田地はほんの少しばかりですが、何代も前の先祖から傳はつたもので、私の親も、その親も、その親の親も、丹精して肥やして來た土でございます。──私が眼をつぶると、田の畦一本々々、畑の土くれの一つ〳〵もはつきり浮かんで來ます。──私は毎年春先になつて、物の芽が育つ頃になると、朝から晩まで畑に出ては、兩手で黒い土を掴んで、揉みほぐしたり、叩いたり、撫でたり、嗅いだり、時々は嘗めても見て居ります。私一家の汗を何百年の間吸ひ込んだ土を、どうして人樣にやられるものでせう。どうしてもいけないと仰しやるのを無理にお願ひして一年延して貰ひましたが、それでどうなるものでも御座いません。十七になつたばかりの娘のお美代が、土と別れる私の歎きを見兼ねて吉原に身を沈めましたが、女衒の惡いのに引つ掛つて、手取りたつた二十八兩、その時はもう元金が百三十兩で、一年の利子にもならない始末でございました」
松藏は膝に双手を置いたまゝ、ボロボロと涙をこぼすのです。日光と土とに荒された、澁紙色の頬を傳はつて、その涙は胸から膝小僧まで落ちるのです。
「それから何うした」
八五郎も妙につまされて、鼻の中が鹽つ辛くなりました。
「去年の秋になつて、到頭、私の田地を皆んな差上げて、借金を棒引にして頂きました。土地は精々百兩そこ〳〵のものだから、家も屋敷も何も彼も附けても、ひどい損だと寅旦那は仰しやいます」
「その不足分のせゐでお前が一生奉公に此處へ入つたといふ話だが──」
源吉は口を入れます。
「いえ、それどころぢやございません。私は親から讓られた土地に離れ兼ねて、私の方から進んで作男に入つたのでございます。給料も何んにも頂けませんが、斯うして食べさして下されば、私は子供の時から馴染んで來た土地でどうやら斯うやら働き續けてゐられます。──最初旦那樣は私のお願ひをお嫌がりになりましたが、近頃では却つて喜んでゐる樣子でございました。私は一生此處の厄介になつて、少しばかりの不自由さへ我慢すれば、蚯蚓のやうに自分の田地を掘つて居られると思ひましたが、旦那樣が亡くなつては、それも怪しくなりました。よく〳〵運のないことでございます」
松藏はそのまゝ大地にのめり込みさうに、肩を落して洟をすゝるのです。
「そんなに氣を落したものぢやあるまいよ。土は日本國中何處の土も同じことぢやないか」
八五郎はツイお座なりを言ひました。
「──」
默つて頭を振る松藏。
「ところで、伜の松太郎はどうして居るんだ」
ガラツ八は照れ隱らしく訊きました。
「根岸で叩き大工の眞似事をしてゐるといふ噂でございます」
「此處へ來ることがあるのか」
「もう一年も顏を見せません。娘のお美代が賣られて行く時だつて人傳てに教へてやつたのに、逢ひにも來ない奴でございます」
松藏の顏には、頑なな親らしい怒りが燃えました。
「そいつは薄情だな」
「そればかりぢやございません。こんなみじめな目に逢ふのも、もとはあの野郎がやくざ仲間に入つて手弄みなどをしたから起つたことなのに、一言の詫でも言ふことか、近頃は身まで賣つた妹のところへ、ノメノメと無心に行くさうでございます。逢つたら叩きのめして、思ひ知らせてやらうと思ひますが──」
松藏の怒りは際限もなく發展しますが、それが少しばかり滑稽に、そして物哀れにさへ見えるのでした。
八五郎はそのまゝ神田へ歸つて來ました。下手人を擧げる心算のが、源吉の手柄の引立役になつて指をくはへて引下がつたわけです。
「どうした八、元氣がないぢやないか」
平次は輕い調子でした。
「何うにも手の付けやうがありませんよ。下手人は金次郎でなきや松藏だが、あつしの勘ぢや、どうも二人とも下手人らしくねエ」
「勘や見當で下手人をきめられてたまるものか。──それより、主人の寅五郎が殺される前に、牝犬が一匹死んだ筈だ。それはどうしたんだ」
平次はさすがに急所を衝きます。
「殺されたのか死んだのかわかりませんが、二日前の朝、手飼ひの牝犬が、お勝手口でコロリと死んでゐたさうですよ。──前の晩まで、恐しく元氣だつたのが──」
「前の晩まで元氣な犬が、卒中や驚風でコロリと死ぬものか。そいつはマチンを食はされたに決つてゐるやうなものだ。前の日變な奴が來なかつたか、聽かなかつたのか」
「いゝえ」
「まあ宜いやな。犬を二日前に殺す奴は、餘つ程智慧が廻る筈だ。お前をやつたのが間違ひさ」
「親分」
「急に果たし眼になつたつて追つ付かないよ。下手人は外から入つたに決つては居るんだ。もう一度引返して、寅五郎をうんと怨んでゐるといふ音羽の荒物屋利八のその晩の樣子と、それから、犬の死んだ前の日、變な野郎が來なかつたか、それを訊いて來るんだ。宜いか」
「へエ──」
「それから、少し足場は惡いが、歸りに吉原へ廻つて、お美代にも逢つて來るが宜い。こいつは惡くない役目だぜ。兄の松太郎の身持と、親父の松藏の言つたことに、掛引や嘘がないかどうか、それだけ訊けば澤山だ」
「へエ──」
ガラツ八は無精らしく出て行きました。それから小半刻も經つと、平次は何を思ひ付いたか、下つ引の竹を呼んで品川に走らせ、自分は仕度もそこ〳〵に、根岸に向つたのです。
大工の松太郎の巣は直ぐ判りました。まだ棟梁の初三郎の家にゴロゴロして居る身分で、其處で訊くと、
「三日前に江の島から鎌倉へかけて、五六人の仲間と一緒に遊びに出かけ、今晩か、遲くも明日あたりは歸るだらうと言ふ話ですが、松さんと來た日にや、手の付けやうがありませんよ。酒と勝負事が好きで、人間は器用なんだが、仕事に一向身が入りません。あれぢや何年經つたつて、一本の職人になれつこはありませんよ」
初三郎の女房は、待つてましたと言はぬばかりにまくし立てます。
「そいつは始末が惡からう。ところで、二日前の晩に、此處を發つた時刻を聽き度いんだが」
平次はさり氣なく訊ねます。
「宵から急ぎの仕事を片付けて、發つたのは子刻(十二時)大分過ぎでしたよ。どうかしたら子刻半(一時)近かつたかも知れません」
「一人かえ」
「え、仲間の若い人達は、前の晩から品川へ行つて、土藏相模で遊んでゐたさうで──」
「仕度は?」
「大した仕度はなかつたやうです。尤も、路用がないからと言つて、うちの人から三兩ばかり借りて行きましたが」
「有難う、そんな事でよからう」
それ以上は平次にも引出しやうはありません。
物足りない心持で神田へ歸つて來ると、品川へやつた下つ引の竹も、目白へ行つた八五郎も歸つて來て居りました。
竹の報告は豫期した通り、
「松太郎は寅刻(四時)過ぎには品川で土藏相模の仲間と一緒になつて居ますよ」
夜の短かい時分で、寅刻過ぎといふと、すつかり明るくなつて居る筈、根岸から子刻過ぎに出ると五里近い道を辿り着くのが精一杯でせう。
「八の方はどうだ」
平次は八五郎のモヂモヂした顏へ振り向きました。
「牝犬の死んだ前の日、變な奴がウロウロして居たさうですよ。小僧や小女が追つ拂つても、頬冠りも取らずに何にかブツブツ言つて居たが、主人の顏を見ると、さすがに驚いて逃げ出したさうで」
「それから、もう一つ──」
「音羽の荒物屋の利八は疝氣が起きて早寢をしたのは本當で、音羽の本道が言ふんだから嘘ぢやないでせう。──あの晩の容體ぢや、便所へ行くのも難儀だつたに違げえねえつて」
「そんな事で宜からう」
平次は腕を拱きました。
「下手人の見當は付いたんですか、親分」
「いや、少しも解らねえよ」
「矢張り下手人は金次郎ですかねえ」
「大違ひだ。下手人は翌る日千兩箱を持ち出すやうな、そんな間拔けぢやない」
「松藏は?」
「今のところ、松藏が一番怪しいよ。それほどまでに大事に思ふ土地を奪られた上、たつた一人の娘を吉原へ賣つた──そいつは皆んな寅五郎のせゐだからな」
「恐しく正直さうな老爺ですよ、親分」
「そいつが當てにならないのさ。今までも此上もなく正直さうな惡者を隨分手がけてゐる筈だ」
「さう言へばそんなものですが」
「兎も角、本人に逢つて見ようか。猫つ冠りか、腹の底からの正直者か、大概一と眼で判るだらう」
平次はガラツ八と一緒に、到頭目白長者の家へ出かけて見る氣になつたのです。
「さう來なくちや面白くない」
その後ろからいそ〳〵とついて行くガラツ八。
「あ」
平次は鶴龜の松の前に、棒のやうに突つ立ちました。
「親分、どうしたんです」
八五郎の方が驚いたのも無理はありません。
「八、あれを見たか」
「何んですえ、親分。細川樣の御門と鶴龜の松、──外に何んにもないぢやありませんか」
「いや、ある筈だ」
「御門の前に駕籠が一梃」
「それから」
「飛脚が飛出しましたね、お下屋敷から。九州熊本の御領地へ、急ぎの手紙でも持つて行くんでせうよ」
「そこだよ、八」
「へエ──」
八五郎はキヨトンとしました。親分の平次の調子が、あんまり不斷と違つて居たのです。
「夜でも晝でも。俺達は江戸の町の中を、滅多に駈けちや歩けないな」
「夕立に逢つた時は別ですがね」
「その通りだ。夕立にでも逢はなきや、江戸の町を駈けて歩くと、誰でも變だと思ふ。まして眞夜中だ」
「へエ──」
「ところが、江戸の町の眞ん中を、存分に駈け出しても、一向人の驚かない稼業がある」
「へエ──」
「駕籠屋と飛脚だよ、八」
「?」
「四つ手なら飛ぶ方が當り前だが、町駕籠だつて、急ぎの用事の時は隨分飛ばせる。まして飛脚はノソノソ歩いた日にや、恰好がつかない」
「?」
「寅五郎殺しの下手人は、──俺に漸く判つたやうな氣がするよ。──俺は此處から引返す。お前は眞つ直ぐに目白へ行つて、松藏を縛り度くてウジウジしてゐる三つ股の源吉兄哥に──勝手にするやうにと言つてくれ」
平次の言葉は、あまりにも豫想外です。
「下手人は、あの佛松藏ですか」
「さうかも知れない、でないかも知れない。が、兎に角、松藏を縛ると、下手人は苦もなく判るよ、それが反つて松藏を助ける手段になるかも知れない」
「へエ──」
平次はそれつきり引返して了ひました。
親分の意見に、善惡共に盲從するガラツ八は、目白屋敷に立ち向ふと、驚き騷ぐ人達を尻目に、キリキリと作男の松藏を縛り上げ、源吉の嫌味を聽き流して、番所へ投り込んだことは言ふ迄もありません。
それからいろ〳〵の手順を運んで、神田の平次のところへ歸つたのは夜の戌刻半頃。
思ひきや其處には、松藏の伜松太郎が、江の島から歸つたまゝ、旅の埃も拂はずに、
「目白長者の寅五郎を殺したのは、この松太郎に相違ありません。親父の繩を解いてやつて下さい。お願ひで御座います」
さうわめき立て乍ら、平次のところに飛込んだところでした。
「宜し〳〵。お前が名乘つて出るのを待つて居たんだ」
「へエ──」
松太郎は氣拔けがしたやうに、上框に崩折れました。
「お前はあの晩、根岸で辻駕籠を拾つて目白臺まで駈け付け、駕籠屋に小判一枚はずんだらう」
平次は掌を指します。
「どうしてそれを、親分」
「根岸の駕籠屋に聽いたのさ。それにお前は、棟梁のところで三兩借りて行つたぢやないか。それから、寅五郎を殺して刀を江戸川に投り込み、細川樣の飛脚の振りをして、品川まで飛んだ筈だ。──その間がたつた一刻半、恐しく早い足だな、松太郎」
「へエ──」
何も彼も言ひ當てられたらしく、松太郎は唯恐れ入ります。
「だが、お前にも恐しい當て違ひがあつた。──その晩親仁の松藏が練馬へ行く筈だから、疑ひは萬に一つも親仁へ懸る筈はないと思ひ込み、犬まで殺して仕事に取かゝつたが、運惡く親仁の松藏が腹痛を起して途中から歸つて來たとは知らなかつた」
「──」
松太郎は恐れ入つて了ひました。平次の明察には、一點の狂ひもありません。
「金次郎か利八が縛られる分には、お前は知らん顏をしてゐる心算だつたらう。太てえ奴だ」
「親分、あつしは其處までは考へません。あんなに土地を大事にして居た親仁と、身賣りまでした妹の敵を打ち度い心持で一ぱいだつたんです。──でも、こんなあつしでも命は惜しいと思ひました。免れるだけは免れようと犬を殺したり、飛脚に化けたりしました。親仁が練馬へ行つたことと思ひ込んだのが間違ひの基です」
「惡いことは出來ないな、松太郎」
「だから名乘つて出ました。どんなお仕置にでもして下さい。その代り親分、錢形の親分さんを見込んでお願ひ申します。寅五郎に奪られた土地を親仁に返してやつて下さい。親仁は地蟲のやうなもので、土がなくちや生きて行けない人間です」
「ウム、そいつは何んとかしようよ」
平次は大きくうなづきました。
「それから、吉原に居る妹──」
「それもお前の父親の手許に返してやらう。心配するな」
「有難い。それであつしは、磔刑になつても怨はない。親分、この通り」
松太郎は土間に滑り落ちて、平次の前に兩掌を合せるのでした。
「止してくれ。俺はまだ人に拜まれるほど劫を經ちや居ねえ」
平次は呟しさうに手を振るだけです。
お白洲は思ひの外寛大で、松太郎は、三宅島に流され、目白長者の寅五郎の屋敷は缺所になりました。その土地の大部分は、無理に挘り取られた人達に返され、松藏は田地と家屋敷の外に、親元身請にするだけの金を返して貰つたのは、錢形平次が、與力笹野新三郎を通しての運動のせゐだつたでせう。
「驚いたね、親分。こんな政談は初めてだ」
ガラツ八がさう言ふのも無理のないことでした。
「俺も初めてさ。この上は松太郎が早く島から歸るやうに、笹野の旦那やお奉行にお願ひして見よう。お豊が一生懸命で待つてゐるやうだから」
平次はさう言ふのです。もとの安らかな生活に還つた松藏は、娘の美代と、頼る者のないお豊を迎へて只管伜の無事に歸る日を待つて居るのでした。自分の手に還つた土を、揉みほぐしたり、撫でたり、叩いたり、嘗めたり、愛撫の限りを盡し乍ら──。
底本:「錢形平次捕物全集第二十二卷 美少年國」同光社
1954(昭和29)年3月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1941(昭和16)年5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「(『玉の輿の呪』參照)」は、「(『玉の輿の呪』第十二卷參照)」となっています。「第十二卷」は底本のシリーズによるため削除しました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年1月20日作成
2016年5月10日修正
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