錢形平次捕物控
金色の處女
野村胡堂
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これは錢形平次の最初の手柄話で、この事件が平次を有名にしたのです。この頃お靜はまだ平次の女房になつて居ず、ガラツ八も現はれては居りません。
「平次、折入つての頼みだ。引受けてくれるか」
「へエ──」
錢形の平次は、相手の眞意を測り兼ねて、そつと顏を上げました。二十四、五の苦み走つた好い男、藍微塵の狹い袷が膝小僧を押し隱して、彌造に馴れた手をソツと前に揃へます。
「一つ間違へば、御奉行朝倉石見守樣は申すに及ばず、御老中方に取つても腹切り道具だ。押付けがましいが平次、命を投げ出すつもりでやつて見てはくれまいか」
と言ふのは、南町奉行與力の筆頭笹野新三郎、奉行朝倉石見守の智惠嚢と言はれた程の人物ですが、不思議に高貴な人品骨柄です。
「頼むも頼まないも御座いません。先代から御恩になつた旦那樣の大事とあれば、平次の命なんざ物の數でも御座いません。どうぞ御遠慮なく仰しやつて下さいまし」
敷居の中へゐざり入る平次、それをさし招くやうに座布團を滑り落ちた新三郎は、
「上樣には、又雜司ヶ谷の御鷹狩を仰せ出された」
「エツ」
「先頃、雜司ヶ谷御鷹狩の節の騷ぎは、お前も聞いたであらう」
「薄々は存じて居ります」
それは平次も聽き知つて居りました。三代將軍家光公が、雜司ヶ谷鬼子母神のあたりで御鷹を放たれた時、何處からともなく飛んで來た一本の征矢が、危ふく家光公の肩先をかすめ、三つ葉葵の定紋を打つた陣笠の裏金に滑つて、眼前三歩のところに落ちたといふ話。
それツ──と立ちどころに手配しましたが、曲者の行方は更にわかりません。
後で調べて見ると、鷹の羽を矧いだ箆深の眞矢で、白磨き二寸あまりの矢尻には、松前のアイヌが使ふと言ふ『トリカブト』の毒が塗つてあつたと言ふことです。
「その曲者も召捕らぬうちに、上樣には再度雜司ヶ谷の御鷹野を仰せ出された。御老中は申すに及ばず、お側の衆からもいろ〳〵諫言を申上げたが、上樣日頃の御氣性で、一旦仰せ出された上は金輪際變替は遊ばされぬ。そこで御老中方から、朝倉石見守樣へ直々のお頼みで、是が非でも御鷹野の當日までに、上樣を遠矢にかけた曲者を探し出せとのお言葉だ。何んとか良い工夫はあるまいか」
一代の才子笹野新三郎も、思案に餘つて岡つ引風情の平次に縋り付いたのです。
「よく仰しやつて下さいました。御用聞冥利、この平次が手一杯にお引受け申しませう。就ては旦那、私が聞き度いと思ふことを、皆んな隱さずに仰しやつて頂けませうか」
「それは言ふ迄もない事だ。何んなりと腑に落ちない事があつたら訊くが宜い」
「ではお尋ねしますが、上樣を雜司ヶ谷のお鷹野に引付けるのは、何にか深い仔細が御座いませう。小鳥の居るのは雜司ヶ谷ばかりぢや御座いません。目黒にも桐ヶ谷にも千住にも、この秋はことの外獲物が多いといふ評判で御座います。それが何うしたわけで──」
「これ〳〵、段々聲が高くなるではないか」
「へエ──、でもこれが判らなかつた日には手の付けやうが御座いません」
「話すよ──、薄々世間でも知つて居ることだ──、雜司ヶ谷の鷹野の歸り、上樣には決つて、大塚御藥園へ御立寄りになる。あの中に新築した高田御殿で、一と椀の御藥湯を召上がるのが、きつとお樂しみだ」
「と申すと」
「世上の噂でも聞いたであらう。御藥園預りの本草家、峠宗壽軒の娘お小夜は、府内にも並ぶ者なしといふ美人だ」
「さうで御座いますつてね、上樣もまつたくお安くねえ」
「コレコレ、何を申す」
「へエ──、だが、有難う御座いました。それだけ伺へば大方筋はわかります。仔細あつて私もお小夜の顏ぐらゐは存じて居りますが、あの女は何うして〳〵一筋繩でいける雌ぢや御座いません──、宜しう御座います。乘るか反るか、平次の出世試し、命にかけてもやつて見ませう」
平次の若々しい顏には感興にも似たものがサツと匂つて、身分柄の隔りも忘れたやうに、胸をトンと叩いて見せました。
「お鷹狩の日取りは明後日だ。ぬかりはあるまいが、そのつもりで──。拙者には拙者の工夫がある。油斷をすると、手柄比べにならうも知れぬぞ」
「へエ──」
二人は顏を見合せて、會心の微笑を交しました。與力と岡つ引では、身分は霄壤の違ひですが、何にかしら此二人には一脈相通ずる名人魂があつたのです。
大塚御藥園、一名高田御藥園といふのは、今の音羽の護國寺の境内にあつたもので、一萬八千坪の中に有名な藥師堂、神農堂をはじめ、將軍臨場の時の爲に、高田御殿といふ壯麗なる御殿まで出來て居ました。
總檜の破風造り、青銅瓦の錆も物々しく、數百千種の藥草靈草から發する香氣は、馥郁として音羽十町四方に匂つたと言はれるくらゐ。幕府の御藥園の權威は大したもので、素より岡ツ引や御用聞などの近付ける場所ではありません。
與力笹野新三郎の屋敷を飛出した錢形平次、いきなり大塚へ飛んで來て、この藥臭い塀にヘバリ付きましたが、場所が場所だけに、何う工面しても入り込む工夫が付かないのです。
丸半日、氣のきかない空巣狙ひのやうな事をしてゐた平次も、その日の晝頃には、到頭シビレをきらしてしまひました。
「チエツ」
舌打を一つ、袂から取出したのは、その頃通用した永樂錢が一枚です。手の平へ載せて中指の爪と親指の腹で彈くと、チン──と鳴つて、二三尺空中に飛上がります。落ちて來るところを掌で受けると、これが其儘錢占。
「歸れつて言ふのか、よし」
錢を袂に落すと、其儘塀を離れて、音羽の通りへ眞つ直ぐに踏出しました。これが錢形平次といふ綽名の出たわけの一つ。もう一つ、平次には不思議な手練があつて、むづかしい捕物に出會すと、二三間飛退つて、腹卷から鍋錢を取出し、それを曲者の面體目がけてパツと抛り付けます。薄くて、小さくて、しかも一寸重い鍋錢ですから、不用意に投げられると、泥棒や亂暴者などは、キツト面體をやられます、ひるむところを付け入つて捕る、このこつはまことに手に入つたもので、錢形の平次といふと、年は若いが惡黨仲間から鬼神の如く恐れられたものです。
その平次が見限つたのですから、御藥園の塀の中の祕密は容易のことではありません。腹立ち紛れの彌造を拵へて、長い音羽の通りを、九丁目まで來ると、ハツと平次の足を止めたものがあります。目白坂の降口に、紺暖簾を深々と掛け連ねて、近頃出來乍ら、當時江戸中に響いた『唐花屋』といふ化粧品屋、何の氣もなく表へ出した金看板を讀むと、一枚は『──おん藥園へちまの水──』次のは『──南蠻祕法、おん白粉──』そして更にもう一枚には、『──峠流祕藥色々──』とあります。
「これだツ」
平次は思はず顎を引きました。
「お靜坊居るか」
「あら親分」
その頃東西の兩國に軒を並べた水茶屋の一つを覗いて、平次は斯う聲を掛けました。
「よう、相變らず美しいネ。罪だぜ、お靜坊」
「あら親分、そんな事を言ふなら、私は嫌」
「どつこい、謝まつた。逃げちやいけねえ、今日は大眞面目に頼み事があるんだ。靜ちやんは、近頃評判の音羽の唐花屋へ買物に行つたことはないか」
「いゝえ、朋輩衆で唐花屋へ行かない人はない程だけれど、私はまだ行つたことはありません」
「さうだらうねえ、お前ほどの容貌ぢや、へちまの水にも南蠻渡來の白粉にも及ぶめえ」
「あれ、親分さん」
なるほどこれは美しい容貌です。精々十七八、血色の鮮やかな瓜實顏に、愛嬌がこぼるゝばかり。襟の掛つた木綿物に、赤前垂をこそしめてをりますが、商賣柄に似ず固いが評判で、枝から取り立ての果物のやうな清純な感じのする娘でした。
「實は少し無理な頼みだが、半日暇をもらつて、唐花屋まで買物に行つて貰ひ度いんだが、何うだらうネ、靜い坊」
「え、え、行つて上げるワ」
何んと言ふわだかまりのない返事でせう。
「そいつは有難てえ、それぢや御意の變らぬうちに──」
岡つ引と水茶屋の娘ですが、どちらも水際立つた美男美女で、二人の胸には、何時の間にやら淡い戀心が芽ぐんできたのでせう。兎に角話の運びの早いことは大變です。
兩國から小日向まで駕籠、そこからわざと歩いて、唐花屋の入口に着いたのは彼これ酉刻近い刻限でした。髮形をすつかり堅氣の娘風にしたお靜の後姿──黄八丈の袷と緋鹿の子帶が、唐花屋の暖簾をくゞつて見えなくなつた時は、大日坂の下から遠く樣子を見て居た錢形の平次も、さすがに眼の前が眞つ暗になるやうな心持がしました。唐花屋がどうといふ、突き留めた疑ひがあるわけではありませんが職業的第六感とでも言ひませうか、──此儘お靜を犧牲にするのではあるまいか──と言つた豫感が、平次の頭をサツとかすめて去つたのです。
「へちまの水を下さいな」
お靜は一向そんな事を構ひません。物馴れた調子で日傘を疊み乍ら、店がまちへもう腰を下ろして居ります。
「へエ、いらつしやいまし。丁度今年採つたばかりの新しいのが御座います。これ徳どん、其處からお入れ物を持つて來てお眼にかけな」
美しい客と見ると、馴れて居る筈の店中も、何となくザワついて、二三人の番頭手代が、磁石に吸付けられる鐵片のやうに、左右から寄つて參ります。
「それからアノ、白粉も貰つて行きませう」
「へエ〳〵」
「それにお紅も」
大束な事を言つて、お靜はソツと店中に眼を走らせました。近頃出來の店構へで何となく眞新らしい普請ですが、その癖妙に陰氣で妙に手丈夫に出來ているのが、娘の繊弱な神經を壓迫します。
「お茶を召し上がつて下さいまし」
若い丁稚が、店使ひにしては贅澤過ぎる赤繪の茶碗に、これも店使ひらしくない煎茶をくんで、そつとお靜の傍にすゝめました。
「有難うよ」
身扮に相應した堅氣の娘なら、此茶は飮まなかつたかも知れませんが、お靜は水茶屋の女で、お茶を汲むことも汲ませることも馴れて居ります。桃色珊瑚を並べたやうな美しい指でそつと受けて、馴れた樣子で一と口、二た口。
「オヤ──?」
お茶にしては妙に甘い、そして香氣が可怪しいと思ひましたが、三口目には綺麗に飮んでしまひます。
それから口の小さい素燒の徳利へへちまの水を詰めさしたり、白粉と紅とを取揃へたり、お鳥目を出さうとして帶の間へ手をやつた時は、先程から我慢して居た恐ろしい眠氣が急に襲つて來て、性も他愛もなく美しい島田髷がガツクリ前へ傾きました。
「徳どんは外を見張れ、お前は手を貸せ」
大番頭が立ち上がつて指圖をすると、馴れた樣子で、バタバタと不思議な作業が始まります。
「へツ、こいつは全く掘り出し物だ」
「シツ」
二人の若い手代に抱き上げられたお靜は、死んだもののやうになつて、赤い裳と白い脛とが、ダラリと下にこぼれます。
音羽の通りは暫く絶えて、大日坂の下には、宵暗に光る眼、錢形の平次は全く氣が氣ぢやありません。
此時はじめて平次は、近頃江戸中で評判になつた美しい娘が、頻繁に行方不明になることに思ひ當りました──芝伊皿子の荒物屋の娘お夏、下谷竹町の酒屋の妹おえん、麻布笄町で御家人の娘お幸──、數へて見ると、此秋になつてからでも三人ほど姿を隱して居ります。それも選り拔きの美人ばかり、書置も何んにもないから、まるで神隱しに逢つたやうなものですが、それが早くて三日目、遲くとも七日目には、二た目とは見られぬ慘殺死體となつて、川の中、林の奧、どうかすると往來の眞ん中に捨ててあるといふ始末です。
南北町奉行は、配下の與力同心に命じ、江戸中の御用聞を總動員して、この惡鬼のやうな犯人を探させましたが、何としてもわかりません。犯人がわからないばかりでなく、何の目的で選り拔きの美しい娘ばかり殺すのか、皆暮れ見當も付かないのです。その上死體は、洗ひ落してはあるが、歴々と全身に金箔を置いた跡があります。
「これだ〳〵」
錢形の平次は一人頷きながら、宵闇の中をすかして、唐花屋の裏口から出て行く駕籠の後を追ひました。その中にお靜が入れてあることは最早疑ふ餘地はありません。
駕籠は無提灯のまゝ、音羽の裏通りを眞つ直ぐに、今の護國寺、その頃の大塚御藥園の裏門へ、呑まれるやうに入つてしまひました。
「矢張りさうだ」
平次は此儘引返して、笹野新三郎に報告した上、御藥園へ手を入れさせようかと思ひましたが、御藥園の見識は大したもので、若年寄直々の指令を受けなければ、町奉行では手の付けやうがありません。そんな事で暇取つて居る内に、お靜の命が絶たれては一大事。
「先づお靜を助けよう」
後で考へると、それは多分盲目的になりかけて居た、平次の戀心がさせた思案でせう。前後の考へもなく木蔭の土塀に手が掛かると、平次の身體は輕々と塀を越えて、闇の御藥園の中へポンと飛込んでしまひました。
それから何刻經つたか、何處を何う通つたかわかりません。一萬八千坪の御藥園の中、茯苓、肉桂、枳殼、山査子、呉茱萸、川芎、知母、人蔘、茴香、天門冬、芥子、イモント、フナハラ、ジキタリス──幾百千種とも數知れぬ藥草の繁る中を、八幡知らずにさ迷ひ歩いた末、僅かの灯を見付けて、眞黒な建物の中へスルリと滑り込んでしまひました。
それは多分有名な高田御殿だつたでせう。兎に角、非常に宏壯な建物で、人目を忍ぶにはまことに好都合です。廊下から部屋へ、納戸へ、梯子段へと、人と灯を避けて拾つて居るうちに、何時の間にやら平次は、天井裏の密閉した一室へ入り込んで居ります。
ハツと思つて出口を探しましたが、何んな仕掛があつたか、四方一樣に樫の厚板で、戸や窓は愚かなこと、蟻の這ひ出る隙間もあらうと思へません。
「チエツ、勝手にしやあがれ」
度胸を据ゑてドツカと坐ると、不思議なことに、床板の彼方此方から、大きく小さく、下の大廣間の灯が漏れて居ります。
よく見ると、それは悉くギヤーマンを張つた穴で、この天井裏から、下の樣子を覗く爲に出來たのでせう。──これは後で見ると、悉く下の大廣間の格天井に描かれた、天人の眼や、蝶々の羽の紋や、牡丹の蕊などであつたと言ふことです。
最初平次の眼に入つた光景は、廣間の中央に祀られた、何とも形容のしやうのない醜惡怪奇を極めた魔像で、その前と兩側には、眞つ黒な蝋燭が十三本、赤い焔をあげてメラメラと燃えて居ります。
魔像の前には蜥蜴の死骸、猫の腦味噌、半殺しの蛇と言つた不氣味な供物が、足の高い三方に載せて供へられ、その供物の眞ん中に据ゑた白木の大俎板の上には、ピチピチした裸體が仰向に寢かされて、その側には磨ぎ立てた出刃庖丁が、刃を下にしてズブリと板の上に突つ立つてゐます。
「アツ」
さすがの平次も、思はず唇を噛みました。俎の上の赤ん坊は、泣きも叫びもせず、好い心持さうにニコニコしてゐるのが、四方の陰慘な空氣の中に、不思議な對照を描き出して、身の毛のよ立つやうな氣味の惡い情景です。
突然、今迄聞いた事もないやうな、陰慘な合唱と共に、一隊の男女が、妖魔の行列のやうに廣間へ入つて來ました。いづれも眞黒な覆面、その間から、眼ばかり光らして、覆面越しの讀經の聲も、何んとなく陰に籠ります。
續いて燃え立つやうな眞紅の布を纏つた四人の女が、一人の娘を伴れて現はれました。夢見るやうな足取りで、無抵抗に臺の上に押し上げられたのを見ると、こればかりは町娘の服裝をしたお靜の囚はれの姿だつたのです。
「あツ、到頭」
あまりの事に平次は、もう少しで聲を立てるところでした。人間の力で此密室が押し破れるものだつたら、何處かの羽目を踏み碎いても飛出したであらうが、それとても出來ないことです。
又、一としきり奇怪な讀經が湧き起つて、魔像とお靜の四方を、黒裝束の人間の輪が、クルクルと廻り始めました。
それから暫く續いて、廣間は元の靜寂に還ると、不意に、人間の輪はサツと散ります。見ると、臺の上に立つたお靜は何時の間にやら、黒裝束の人間達の手で、十七乙女の若々しい肌へ、ベタベタと金箔を置かれてゐるところだつたのです。お靜は魂の拔けた人形のやうに、少し仰向き加減に突つ立つた儘、なすが儘に任せて身動きもしません。
やがて乙女の上半身に金箔を置き終ると、黒衣長身の長老とも見える男は、黒頭巾の覆面を取つてお靜の前に近づきました。
「あツ」
平次はもう一度聲を立てるところでした。その男といふのは、地獄變相圖から拔け出した、惡鬼のやうに恐ろしく映つたでせう。
「──」
續いて覆面を除つたのは、この藥園の預主、峠宗壽軒です。半白の中老人で、立居振舞に何となく物々しいところがあります。
二人は前後して進んで、金箔を置いた乙女の肩へ唇を觸れました。續く黒裝束の五、六人も、悉く覆面を外して、同じやうに乙女の身體へ唇の雨を降らせます。
この冒涜的な行法が、どんなに平次を怒らせた事でせう。お靜の清らかさを救ふ爲に、どんな事をしても──とあせりましたが、此密室はどんな設計で出來たものか、二刻あまり探し拔いても、どうしても入つた場所がわかりません。
その内に、下の廣間が又賑かになりました。と見ると、焔のやうな赤い布を纏つた、半裸體の四人の美女は、人面獸身の魔像と、金箔を置いたお靜を中心にして、あらゆる狂態を盡して亂舞を始めたのです。
魔像の前の大香爐には、幾度も〳〵異香が投げ込まれました。天井裏でそれを嗅ぐと、平次の心持も、うつら〳〵夢見るやうになります。
幾度か醒めては、廣間の樣子を覗き、幾度か氣を喪つては何刻となく深い眠に陷ちました。──これではならぬと──滿身の力を兩の拳にこめ、兩眼を見開いて氣を勵ましましたが、泥醉した人のやうに崩折れて、その努力も永くは續きません。
金色の處女──お靜の上に加へられる、あらゆる辱かしめと、怪奇至極の大儀式が、斷片的に平次の眼と耳に燒き付けられながら、そのまゝ遠い〳〵過去の出來事のやうに、他愛もなく消えて行きます。
明くれば十月九日、三代將軍徳川家光は近臣十二名を徒へ、微行の姿で雜司ヶ谷へ鷹狩に出かけました。十二人の内四人は將軍と同じ裝ひをした近習連、四人は鷹匠、あとの四人は警衞の士で、微行とは言ひ乍ら、此時代にしては恐ろしく手輕です。尤もこれは家光自身の命令で、目障りになるやうな士卒は、間近に置かれなかつたまでのこと、音羽から小日向、大塚へかけては、何千とも知れぬ警護の士で、蟻の這ひ出る隙間もなく固めて居ります。
此日はことの外不獵だつたせゐか、家光は恐ろしく不機嫌で、近習達とろく〳〵口も利きません。鷹狩が濟むと、待ち構へて居たやうに音羽へ下つて、大塚御藥園の高田御殿へお入りになります。
御藥園の門前に迎へたのは、峠宗壽軒、五十がらみの總髮で、元々本草家で武士ではありませんが、役目ですから、麻裃を着けて將軍を高田御殿へ案内します。
奧の一間、贅を盡した調度の中に納まると、近習達も遠慮をして、將軍を存分にくつろがせなければなりません。高麗縁の青疊の中、脇息に凭れて、眼をやると、鳥の子に百草の譜を書いた唐紙、唐木に百蟲の譜を透し彫にした欄間、玉を刻んだ引手や釘隱しまで、此部屋には何となく、さり氣ないうちに漂ふ一抹の怪奇さがあります。
此時、女の童に襖を引かせて、茶碗を目八分に捧げて入つて來たのは、峠宗壽軒の娘お小夜です。曙色に松竹梅を總縫した小袖、町風に髮を結ひ上げた風情は、長局風俗に飽々した家光の眼には、どんなに美しいものに映つたでせう。年の頃は二十二三、少しふけて居りますが、その代り町家にも武家にもない、滴るやうな美しさがあります。
恐るゝ色もなく、家光の前に進んで、近々と茶碗を進め、二三歩返つて、
「お藥湯を召し上がりませ」
わだかまりもなく言つて、俯向加減に莞爾します。こんな無禮な仕打は、日頃の家光には見ようつたつて見られません。大名が廓通ひに夢中になつたやうに、將軍家光が雜司ヶ谷の鷹狩に夢中になつたのも無理のないことです。
「──」
家光は默つて茶碗を取り上げました。本草家峠宗壽軒の煎じた藥湯、別に何の藥と言ふでもありませんが、神氣を爽かにして、邪氣を拂ふ程度のもの、唇のところへ持つて行くと、高價な藥の匂ひがプーンとします。
天井裏に閉ぢ籠められた錢形の平次、幾刻──いや幾日眠らされたかわかりません。フト眼を覺すと、四方はすつかり明るくなつて、天井裏乍ら埃の一つ〳〵も讀めさうです。怪奇な舞踊を思ひ出して、嘔氣を催すやうな不愉快な心持になりましたが、お靜の安否が心もとないので、もう一度ギヤーマンの穴から覗くと、廣間は廣々と取片付けられて、白日の光が一杯にさし込み、忌はしい物など影も形もありません。
思ひ直して出口を深すと、今度はわけもなく見付かりました。壁は同じやうな樫の厚板で張り詰めてありますから、一箇所だけ手摺れがして、出入口といふことは直ぐわかります。暫く押したり叩いたりして見ると、どうした彈みか、いきなりスーツと開きます。多分扉の下の踏み板に仕掛があつたのでせう。
一足漲るやうな白日の光りの中へ飛出しましたが、困つたことに、庭にも廊下にも、廣間にも玄關にも、夥しい人間がたかつて居て、天井裏から飛出したまゝでは、大手を振つて出て行くわけに行きません。
「あツ、いけねえ。今日は上樣お鷹狩の日だ」
霞んだやうな平次の頭にも、これだけの記憶が蘇つて來ました。今日までに毒矢の曲者を捉へる筈だつたのが、天井裏に閉ぢ籠められてすつかり豫定が狂つてしまつたのです。
「こいつはしまつた」
平次は天井裏で地團駄を踏むばかりです。
それから又何刻か經ちました。御殿の中の空氣は遽に緊張して、
「上樣のお着き」
といふ囁きが、隅々までも行亙ります。
上樣お着きと言ふのは、お鷹野は無事だつたといふ證據にもなりますから、天井裏の平次もそれを聞いてホツとします。
「間違ひがあれば、この御殿内だ。よし、それならば、まだ望みがある」
暫く泥棒猫のやうに、天井から天井へ、梁から梁へと渡つて歩いた平次、何時の間にやら、羽目からスルリと拔け出して、離れの廂の下に這ひ込んでしまひました。首を少し曲げると、一枚開け放つた障子の中に、上段の高麗縁が見えて、豐かに坐つた黒羽二重の膝も見えます。
「上樣だツ」
平次はヒヨイと首を引きました。と同時に小夜が捧げた藥湯の茶碗が見えます。
やがて家光は藥湯を手に取り上げた樣子、それと同時に平次の眼には、もう一つ動くものが映ります。それは障子の外に、物の隈のやうに踞まつた總髮の中老人、霰小紋の裃を着て、折目正しく兩手をついて居りますが、前夜怪奇な行法を修した、この藥園の預主、峠宗壽軒に違ひありません。
家光が茶碗を取り上げて、唇まで持つて行くと、宗壽軒の唇が歪んで、障子を射通すやうな瞳が、キラリと光ります。
「あツ、毒湯だツ」
捕物の名人、錢形平次には、外の人にない第六感が働きます。前後の事情から考へ合せて見ると、家光の手に持つて居る茶碗の中に、正面な藥湯が入つて居るわけはありません。
笹野の旦那が呉々も頼んだのは、これだツ。
平次はいきなり廂から飛出さうとしましたが、高が岡つ引、將軍樣の前へ飛出せるわけもなく、大きい聲を出さうにも、其邊の物々しいたゝずまひを見ると、うつかり騷ぎを大きくして、相手に棄鉢に出られると、反つて恐ろしい事になりさうです。それに毒湯と思ふのは、平次の單なる疑ひで、實は本當の藥湯を勸めて居るのかもわからないのです。
ハツと氣が付いて腹卷を探ると、折惡しく鍋錢はありませんが、小粒が二つ三つ。と、それに柄にもなく小判が一枚あります。其頃の小判は大變な値打で、岡つ引などに取つては一と身代ですが、一昨日笹野新三郎から用意のために手渡された金、將軍樣の命に關らうと言ふ場合ですから、物惜みなどをして居る時ではありません。
いきなり小判を右手の拇指と食指との間に立てて、小口を唾で濡らすと、錢形の平次得意の投げ錢、山吹色の小判は風をきつて、五、六間先の家光の手にある茶碗の絲底に發矢と當ります。藥湯は飛散つて、結構な座布團も疊も滅茶々々。
「──」
家光は動ずる風もなく、面をあげて小判の飛んで來た方を屹と見やります。
「あツ」
驚いたのはお小夜、起ち上がると、いそ〳〵と近寄つて、藥湯に濡れた家光の膝へ、身體と一緒に、總縫ひ松竹梅の小袖を、サツと掛けました。
「これ、何をする──」
あわてて居住ひを直す家光の膝を追ふやうに、お小夜は袖の上へ顏を伏せました。
次の瞬間には、
「贋者ツ」
と彈き上げられたやうに起ち上がります。
「漸く氣が付いたか」
「エツ、口惜しい、お前は誰だえ」
飛退く女の帶際を猿臂を延ばしてむんずと掴んだ僞家光。
「與力笹野新三郎、上樣の御座を拜借して、其方親娘の企らみを見破りに參つたのだ。神妙にしろ」
と、高い聲ではありませんが、ツイ調子に乘つて名乘りを上げてしまひました。
これが非常に惡かつた──と言ふのは、障子の外で、深怨の眼を光らせて居た峠宗壽軒、娘の聲にハツと驚いたところへ、續いて笹野新三郎の名乘りです。思はず起ち上がるのへ冠せて障子の内から、
「父上ツ、露見──早く、早く、地雷火ツ」
と娘のお小夜が悲痛な聲を絞ります。
「おツ、娘、さらばだぞツ」
ヒラリと縁側から飛降りると、廂の上から錢形平次が、パツと飛付くのと一緒でした。
「野郎ツ、何處へ失せやがる」
素より捕物の名人、寸毫の隙もありませんが、困つたことに宗壽は思ひの外の剛力で、それに平次は、まる二日物を食はない上、廂から飛降りる機みに足を挫いて、進退駈引自由になりません。
「エツ、面倒」
二人はそれでも負けず劣らず捻ぢ合ひました。あまりに咄嗟の出來事で、遠ざけられた近習達が、驅け付ける暇もなかつたのです。
そのうちにお小夜の背がバラリと解けました。錦の厚板の一と抱ほどあるのが、笹野新三郎の手に殘ると、お小夜は脱兎の如く身を拔けて、
「父上、地雷火は私がツ」
「お、娘頼むぞツ、あの犧牲も逃すなツ」
親娘は最後の言葉を交すと、總縫ひ松竹梅の小袖は、大鳥のやうにサツと奧へ飛込みます。
犧牲と聞いて平次は驚きました。捨鉢になつた宗壽軒父子が、地雷火で高田御殿を吹き飛ばすとなると、あの可哀さうなお靜の命は一たまりもありません。金箔を置いて一度は祭壇に載せた處女の身體は、いづれあの廣間の何處かに隱してあるに相違ないでせう。
「笹野の旦那、此奴を頼みます」
「お、心得た」
その内に遠慮して遠退いて居た近習達も、騷ぎを聽いて驅け付ける樣子。平次は猛然として突つかゝつて來る宗壽軒を、一つかはして芝生の上に叩きのめすと、身を退いてサツとお小夜の後を追ひました。挫いた足首は、燒金を當てるやうに痛みますが、今はそんな事を言つて居る場合ではありません。
勝手を知つた大廣間の中へ入ると、プーンと鼻を衝く煙硝の匂ひ、地雷火の口火は早くも點けられたのでせう。
今更事の危急な勢ひに、平次はゾツと總毛立ちましたが、お靜を匿した場所はまるで見當が付きません。
「お前は錢形平次、もう駄目だよ。一緒に死ぬばかりだ」
呵々と氣違ひ染みた笑ひを突走らせるのは、黒髮も衣紋も滅茶々々に亂した妖婦お小夜、金泥に荒海を描いた大衝立の前に立ちはだかつて、艶やかに邪しまな眼を輝かせます。
「やい、女、あの娘を何うした」
「知らない」
「いや、知つてゐる筈だ、言へツ」
「言はない、──どうしても言はない。私達をこんな破目に陷し込んだのはお前だらう。──その代りお前の名前を譫言に言つて居るあの娘は、この御殿と一緒に木葉微塵に碎け散るよ。好い氣味だ、──あれはお前の情人だらう。知らなくつてさ、──お、もう口火は燃えきつた。ホ、ホ、ホ、ホ」
「いや、俺はお靜を助けて見せる」
「馬鹿なツ」
荒海の衝立、怒り狂ふ紺青の波頭を背にして、小袖の前を掻き亂したまゝ、必死の笑ひに笑ひ狂ふ美女の物凄さ。物慣れた平次も、思はずタジタジと退りましたが、次第に激しくなる煙硝の匂ひに、もう一度氣を取り直して、毒蛇の眼の如きお小夜の瞳を、精魂こめて凝つと見詰めました。
「解るまい、もう最後だ。それツ」
「いや、解つた」
何を考へたか平次は、猛然としてお小夜の身體に飛び付きました。細腕を取つて引退け、荒海の衝立をサツと前へ引倒すと、その背後にあるの。は『御藥草』と書いた御用の唐櫃、力任せに蓋をハネると、中から燦として金色無垢の處女の姿が現はれます。
全身に金箔を置かれたお靜は、半死半生の儘此中に入れられて、捨てるか殺されるかする最後の運命を待つて居たのでした。
「あツ、それを助けては」
後ろから縋り付くお小夜を蹴返して、金色の處女を小脇に痛む足を引摺つて外へ飛出す平次、──それと同時に、
轟然──天地も崩るゝやうな物音。
天に冲する火焔の中に、高田御殿は微塵に崩れ落ちてしまひました。
これは後でわかつた事ですが、峠宗壽軒の前身は、駿河大納言忠長の臣で、本草學の心得があるのを幸ひ、京都に行つてその道の蘊奧を窮め、身分を隱して大塚御藥園を預るまでに出世したのです。
主君忠長自殺の後は、何んとかして、家光に怨を報じようと、高田御殿の中に祭壇を設けて、中世に流行つた惡魔を祭神とする呪法を行つたのでした。その祭に夥しい犧牲を要するところから、腹心の者に命じて、音羽九丁目に唐花屋といふ小間物屋を出させ、江戸中の美女を釣り寄せては、その内でも優れた美人を誘拐かして犧牲にし、連夜ひそかに惡魔の呪法を修して將軍家光を調伏する計畫だつたのです。
それも埒が明かないと見て、近頃は毒矢を飛ばしたり、娘お小夜の美色を餌に、毒湯をすゝめて一擧に怨を報じようとしましたが、奉行の朝倉石見守が老中に進言して、將軍家光に面差の似た與力笹野新三郎を替玉に使ひ、見事にその裏を掻いて取つて押へたのでした。
峠宗壽軒は詮議中に自殺してしまひましたが、娘のお小夜はそれつきり何處へ行つたかわかりません。
大塚御藥園は、その後間もなく取潰しになり、天和元年護國寺建立の敷地として召上げられた事は人の知るところです。
錢形の平次はこれだけの仕事をして、將軍の命を狙ふ怨敵を平げましたが、笹野新三郎に約束したお鷹野以前に曲者を擧げることが出來なかつたのと、事件の性質が性質なので、表向はその手柄に酬いられませんでした。併し、家光の胸に錢形平次の名が印象深く記憶された事と、金色の處女──お靜の愛を確り掴んだことだけで、若い平次は滿足しきつて居りました。
底本:「錢形平次捕物全集第二十二卷 美少年國」同光社
1954(昭和29)年3月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1931(昭和6)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年1月1日作成
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