錢形平次捕物控
七人の花嫁
野村胡堂



本篇も亦、平次の獨身もの。許婚中の美しくて純情なお靜が平次の爲に喜んで死地に赴きます。



「やい、八」

「何です、親分」

「ちよいと顏を貸しな」

「へ、へ、へツ、こんなつらでもよかつたら、存分に使つて下せえ」

「氣取るなよ、どうせ身代りの贋首にせくびつてえ面ぢやねえ。顏と言つたのは言葉のあやだ。本當の所は、手前てめえの足が借りてえ」

 捕物の名人とうたはれるくせに、滅多めつたに人を縛つたことのない御用聞の錢形の平次は、日向ひなたとぐろを卷いて居る子分のガラツ八にこんな調子で話しかけました。

 松は過ぎましたが、妙に生暖なまあたゝかいせゐか、まだ江戸の街にも屠蘇とそよひが殘つて居るやうな晝下がり、中年者の客を送り出すと、平次はすぐ縁側へ廻つて、ガラツ八を居睡ゐねむりから呼び起したのです。

「へエ──、何處へ飛んで行きアいゝんで──」

「今の話を聞いたらう、あの客が長々と話しこんだ──」

「いゝえ」

「聞かねえ?」

「人の話なんか聞きやしませんよ、そんなさもしい八さんぢやねえ」

「いゝ心掛だ、──と言ひてえが、實は居睡りをして居たんだらう」

「まアそんなところで、──何しろ日向はあつたけえし、懷ろは凉しいし、凝つとしてゐりや、睡くなるばかりで──」

「呆れたものだ。まアいゝやな、俺がくはしく復習さらつてやらう」

「お手數でもさう願ひませうか」

「默つて聞けよ」

「へエ──」

 平次の態度にはいつもに似氣なく眞劍なところがあるので、無駄の多いガラツ八も、さすがに口を緘んで、親分の顏を見上げました。

「今へ見えたのは、十軒店けんだな八百徳やほとくの主人だ。一人娘のお仙を、同じ商賣仲間の末廣すゑひろ町の八百峰の跡取の息子に嫁にやるについて、俺の力が借りたいと言ふのだよ」

「惡い蟲でも附いてゐるんでせう、どうせ當節の娘だ」

「そんな話ぢやねえ。聞けば近頃、神田から日本橋へかけて、花嫁がチヨイチヨイ消えてなくなるさうだな」

「それなら聞きましたよ。祝言の晩に行方知れずになつた花嫁は、暮から此方、二人くらゐあるでせう。どうせ言ひかはした男でもあつて、いよ〳〵といふ晩に花嫁姿はなよめすがたで道行を極めたんぢやありませんか。土壇場どたんばゑると女の子は思ひの外強くなりますからね」

「ところが、八百徳の主人の話では、消えた花嫁が三人もあるさうだよ」

「妙に氣がそろつたものですねえ」

「そんな暢氣のんきな事を言つちや居られない。一と月や半月のうちに、花嫁が三人も行方知れずになるといふのは、少し可怪をかしくはないかな、八」

「さう言へばさうかもしれませんね」

「何處の家でも、娘に男があつて逃げたと思ひ込んで居るから、世間體をはゞかつて表沙汰にはしないさうだが、八百徳の主人は、どうも自分の娘も消えてなくなりさうで心配でたまらないと言ふんだよ」

「成程ね」

「そこで手前てめえへ頼みといふのは──」

「そのお仙とかいふ娘に、蟲が附いてるか何うかぎ出して來いといふんでせう」

「そんな氣障きざな用事ぢやない。娘の身持は八百徳の主人が引受けるつて言ふから、差し當りそれを信用するとして、手前はソツと嫁入の行列にいて行つて、一と晩見張つて居さへすりやいゝんだ」

「成程、こいつは、嫌な役目だ」

「何だと、八」

「智惠も錢も要らねえ代り大した辛抱役しんばうやくだ。花嫁に蹤いて行つて、三々九度から、床盃とこさかづきまで見せられた日にや、全く樂ぢやないぜ」

「贅澤を言ふな」

「これでも獨り者ですぜ、親分」

「獨り者だから、そんな場所によく眼がとゞくんだ、役不足なんか言つちやならねえ」

「へツ、助からねえな」

 ガラツ八は文句を言ひながらも、頭の中では、その晩の冒險に對する、いろ〳〵の計畫をめぐらして居りました。



 日本橋の十軒店けんだなから神田の末廣町まで、自動車で飛ばせば五分くらゐで行つてしまひますが、昔の花嫁の行列はそんな手輕なわけには行きません。

 町内の駕籠清かごせいから別仕立の駕籠が五梃、花嫁と、仲人なかうど夫婦と嫁の附添と、親類の重立つた者が乘つて、あとは定紋ぢやうもんの附いた提灯ちやうちんはさんで、思ひ〳〵に歩くところですが、時節柄物騷といふので、駕籠だけを飛ばせ、仕出しはゆる〳〵後からつて行かうといふ寸法、韋駄天ゐだてんのやうな粒選りの若い者にかつがせた五梃の駕籠は、江戸の街の宵霜よひしもを踏んで、丁度明神下から鼠屋ねずみや横町へ拔けようとした時でした。

 闇の中から不意に飛んで來たのは、一本の棒、これが花嫁の乘つた眞ん中の駕籠の、先棒のまたの間へサツと入りました。

「あツ、何をしやがる」

 と言つた時は、もう見事に突んのめつて、はずみの付いた駕籠は、往來の眞ん中へドタリと落されました。

「それ出た」

 それくらゐのことは心得た後棒の若い者、息杖いきづゑを取つて花嫁の駕籠の前に立ちふさがりましたが、相手はその出鼻をくじくやうに、横合から飛出して、胸のあたりをドンと突きました。

 何分宵闇の中に起つた不意の出來事で、それに、曲者は恐ろしい手練しゆれん、後棒の若い衆は思はずね飛ばされて尻餅しりもちをつくと、その間に飛付いた、第二、第三の男、物をも言はずに花嫁の駕籠を引つさらつて、引摺ひきずるやうに、横手の狹い路地の口へ──。

「野郎、待ちやがれ」

 先棒はやうやく起き上がりましたが、向脛むかうずねしたゝかにやられて、急には動けません。前後の四梃の駕籠は、此時漸くおろされて、八人の若い者が、

「何をしやがる」

 息杖を振りかぶつて、八方から花嫁の駕籠を追ひかけました。幸ひ路地は三尺の拔裏で、駕籠は容易に通りません。花嫁の駕籠は少しなゝめに、その口をふさいだまゝ放り出されたところへ、十人の威勢のいゝのが、十ぽんの息杖を振りかぶつて、すかさず追ひすがつたのでした。

 別に町駕籠を仕立てて、花嫁の行列の直ぐ後に續いたガラツ八は、この騷ぎを見ると轉がるやうに降り立ちました。

「到頭出やがつたか、逃すな」

 それでも商賣柄、一番先に路地の口に飛付きました。が、花嫁の駕籠が入口を塞いで急には曲者の後を追ふことも出來ません。

「えツ、面倒臭めんだうくせえ」

 駕籠を飛越して路地の闇に入ると、鼻の先に通せん坊をしたのは恐ろしく巖乘がんじような木戸。

「やい、此處を開けろ」

 押しても叩いてもビクともすることではありません。

 そのうちに、四梃の駕籠から飛降りた仲人夫婦やら附添の者、これは一番先に花嫁の安否あんぴといふことが頭へ響きます。

 飛付くやうに駕籠のたれを押上げて、

「お仙さん、驚いたらう」

 と見ると、中は空つぽ。

「あツ」

 咄嗟とつさの間に、駕籠の中から花嫁はさらはれて了つたのでした。



 八百峰の近くまでたどり着いて、いくらか心持にすきの出來たところをねらつたやり口や、拔裏を利用して、駕籠で入口をふさいだ細工さいくなどを見ると、容易な曲者ではありません。

「親分、何んとも申譯がねえ、俺は腹でも切りてえ」

 すつかり恐入つて報告をする八をなだめるやうに、

「いや、その樣子では俺が行つても失敗しくじつたかもしれねえ。手離せねえ用事があつたにしても、手前てめえ一人やつたのが間違げえだ」

 平次はそんな事を言つて居ります。

 時を移さず、鼠屋ねずみや横町の拔裏から、八百峰の立ち騷ぐ人達の樣子、驚きあきれる十軒店の八百徳まで廻つて見ましたが、手掛りらしいものは一つもありません。

「六尺棒を若い衆のまたの間に投げ込んだ手際てぎはぢや、ザラの泥棒や人さらひぢやねえ──」

 といふ噂を聞いたのが精々、平次は何の得るところもなく、曉方近くなつて引揚げて來ました。

 その頃は、諸大名の門番や、見付の番人は言ふに及ばず、渡り中間、輕輩けいはいな士分の者まで、一種の武器として、棒を使つたもので、駕籠屋の股へ棒を放り込むくらゐの事は、ちよつと心得のある者なら、誰にだつて出來ます。

 花嫁は評判の堅い娘で、八百峰の總領とは許婚いひなづけ同士、色戀の道行でないことは、口善惡くちさがない近所のお神さん達までが牡丹餅判ぼたもちばんします。

 それに、盜まれた花嫁は、暮から勘定して四人目、手口はそれ〴〵違ひますが、兎に角、餘程深いたくらみのあることは、鼻の良い平次には、判り過ぎるほど判ります。

 それから三日目。

「親分、聞きなすつたか」

 朝のうちから、ガラツ八が怒鳴どなり込んで來ました。

「何だ、八。相變らず騷々しい」

「石原のも失敗しくじつたんですとさ」

「何?」

「昨夜柳原河岸で、石原の利助親分があの大きい眼を光らせて居る中から、五人目の花嫁がさらはれたつて言ひますぜ。材木河岸の美倉屋みくらやの娘で、今度は大した容貌きりやうだ」

「フーム」

「これで五分と五分だ。石原のでさへ馬鹿にされたんだ。八五郎ばかりが失敗しくじつたんぢやねえ──、態ア見やがれだ」

「馬鹿野郎ツ」

「へツ」

「石原の兄哥が失敗つたからつて、手前のドヂの言譯になるか」

「へエ──」

「俺はそんな心掛の人間は大嫌ひなんだ。此方は此方、石原の兄哥は石原の兄哥だ。人の失敗を喜ぶやうな野郎は、俺のところにゐて貰ひたくねえ」

「へエ──」

「手前は人間はガラガラしてゐて、まことに出來のよくねえ野郎だが、惡氣わるげのないところだけが取柄とりえだつたんだ」

「へエ──」

 平次の怒りは、何時になく峻烈しゆんれつを極めました。さすがのガラツ八も、あまりの風向に、暫くは口も利けません。

「さア、出て行きやアがれ。俺はそんなに根性の曲つた野郎を見てゐたかアねえ」

「親分、成程、さう言はれてみると、あつしが惡かつた。勘辨しておくんなさいまし」

「ならねえ」

「さう言はずに、親分」

わびを入れたきア、石原の兄哥へ行つてさう言つてみろ」

「──」

「間誤々々しやがると、向脛むかうずねをカツ拂ふぞ。石原の兄哥の手柄を喜ぶやうな心持になつたら、改めて逢つてやる」

 あまりの劍幕に驚いたか、ガラツ八は二つ三つお辭儀をすると、おびえた猫の仔のやうに、後ずさりに格子の外へ飛出してしまひました。

 日頃温和な平次が、こんなに怒るのは、何か仔細しさいのあることでせう。人のいゝガラツ八は、押して聞き返す勇氣もなく、妙にあきらめ兼ねた涙ぐましさで、何處いづこともなく立ち去つて了ひました。



 間もなく、第六人目の花嫁が盜まれました。新革屋しんかはや町(今の松下町)の染物屋の娘おたつ、同じ神田鍋町の酒屋伊勢直いせなほへ嫁入りさせましたが、何處で何うり替へられたか、向うへ行つて、綿帽子わたぼうしを取つて見ると、花嫁が變つて居たといふのです。

 家を出て駕籠に乘せるまで、仲人なかうどは花嫁の手を離さず、伊勢直への道中は、時節柄出入りのかしらや職人に頼んで嚴重に守らせ、駕籠を下りると、仲人の外に、多勢が人垣を作つて送り込んだのですから、途中で摺り替へられる筈は萬に一つもあるとは思はれません。

 その上、何といふことでせう。この晩は雙方そうはうから頼み込まれて、特に錢形の平次が乘り出し、宵から嫁の姿を見張つて一刻も綿帽子から眼を離さなかつたのです。

 嫁のお辰は、里方の染物屋にゐるうちに替へられたに相違ありませんが、それが、何處で、何うして入れかはつたか、さすがの平次にも、全く見當が付きません。

 お辰の代りに、花嫁に仕立てられたのは、何處から來たともなく、二三年此方このかた、神田あたりを彷徨さまよひ歩く女乞食のお六、これは金看板の白痴ばかで、何を訊いても一向取り止めのない始末です。

「お前は何處から──誰が連れて來たんだ。言はないか」

「言はないよ」

「言はなきア打つよ、あきれた馬鹿だ」

 寄つてたかつて責めると、

「默つて居さへすれば。伊勢屋の若旦那のお嫁さんにするつて言はれたんだ。言ふもんか」

 この調子では全く手が付けられません。

 もつとも、評判娘のお辰とは似もつかぬみにくい容貌で、年も三十は幾つか越したでせう。綿帽子さへなかつたら、お辰と間違へられるお六ではありませんが、女乞食にしては樣子が如何にも華奢きやしやなのと、一言も口を利かなかつたので、伊勢直へ連れこむまで、誰も氣が付かずに居たのでせう。

 それよりも重大な原因は、近頃の物騷な噂におびえて、人間といふ人間が、あまりに緊張しきつて居た爲に、思はぬ心理的缺陷けつかんに乘ぜられたのでせう。何しろ伊勢直は煮えくり返るやうな騷ぎ、折角宵から大目玉をいて居る平次も、今度といふ今度は、すつかり面目玉を踏みつぶして了ひました。

 なほもお六をつかまへて、おどかしたり、すかしたり、一と晩がかりで責め拔いてみると、

「誰やら知らない人が來て、伊勢直の若旦那とはせてやるからと言つて、知らない家へ引摺ひきずり込んで、湯へ入れて、化粧をさせて、紋付を着せて、伊勢直の裏口からそつと引入れた──」

 といふだけは解りましたが、お六の足りない腦味噌なうみそは、問ひ詰められると混亂するばかりで、『誰やら』といふ人相も『引入れられた』といふ家も、まるで見當が付きません。

 解つたことと言ふと、お六の着て居た紋付や帶は、お辰の着て居た品と、色も柄もそつくり其儘といふほどよく似て居りますが、實は、今までに誘拐かどはかされた五人の花嫁の身に着けた品のうちから、お辰の嫁入支度と似寄によりの品を集めたもので、少し氣を付けさへすれば、誰にでもその違ひは判る程度のものだつたことです。

「錢形の親分、御覽の通りの始末だ。誰の所爲せゐといふわけではないが、どうか嫁を探してやつて下さい。六人の花嫁を一緒にさがして下されば、それに越した事はありません。萬一の事があつたら──」

 伊勢直の主人はゴクリと固唾かたづを呑みました。

「面目次第も御座いません。平次の男にけて、キツと探し出してお目にかけます。三日といひたいが、せめて後五日、この月中には何とかいたしませう」

 言葉はやはらかいが、平次の胸の中には、勃然ぼつぜんとして、命がけの決心が定つたやうです。後指をさされるやうな心持で、其儘外へ──。騷ぎを聞いた近所の人が往來へ垣を築いて、闇の中には物々しい囁きが微風のやうに動きます。



「おつ母ア、家に居なさるかい」

「あら親分」

 お靜は平次を迎へてイソイソと立ち上がりました。平次の許婚いひなづけになつてからは、兩國の水茶屋へ出るのは止して了つて、八丁堀の與力、笹野新三郎のところへ、手不足の時だけ手傳ふのが精々、大抵たいていは家にゐて、母親を相手に、嫁入の心支度ともなく、針を持つ日の多い此頃だつたのです。

 此の時、お靜は、平次と九つ違ひの十八、厄前やくまへに祝言の盃だけでも濟ませるつもりで、仲人なかうどまで立てて居りましたが、お上の御用の多い平次は、せめて春永にでもなつたら──と、一日延ばしに延ばしてゐたのです。

 美しさもかしこさも申分なく惠まれたお靜は、平次の顏を見ると、ポツと顏を紅らめて立ち上がりましたが、それをおさへるやうに、

「まア、親分。よくいらつしやいました」

 次の間から母親が出て參ります。

「すつかり御無沙汰をしちやつた。お變りもないやうで、こんな結構なことはねえ。ところで今日は少しお願ひがあつて來ましたが──、丁度いゝ鹽梅あんべえだ、ばうも一緒に聞いておくれ」

「まア〳〵、御用の多い身體を氣の毒な、さう言つて使ひでも下されば、此方から伺つたのに」

「飛んでもねえ、年寄を歩かせるやうないゝ話ぢやないんで──、實は」

 平次は言ひにくさうにほゝでました。

「──」

「これは仲人から言つて貰ふのが順當だが、それでは俺の心持が濟まねえ」

「──」

 母娘は默つて顏を見合せました。重大な意味のあるらしい、平次の眞意をはかねたのです。

「ざつくばらんに言つて了へば、一日延ばしにしてゐた私とお靜の祝言を、わけがあつて、この月のうちに運びたいと思ふんだが、何んなものだらう」

「えツ、早いに越したことはありませんよ。私もお靜も、親分がその氣になつて下さると、どんなに嬉しいかしれないが──」

 母親は眞つ紅になつて俯向うつむくお靜を振返つて、かう續けました。

「此の月といつても、あと三日しかないから、支度がとても間に合はないよ、親分」

「おつ母ア、それも承知だ。が、あと三日のうちに祝言の眞似まね事だけでもしないと、俺の男が立たないことがあるんだ」

「親分の男が?」

「さう言つただけでは解るまいが、──知つての通り、近頃彼方此方の花嫁が盜まれる。それも、神田一圓と日本橋の數ヶ町かけての祝言ばかりをねらつて、暮から六人も行方ゆくへ知れずだ。神隱しに逢ふのか誘拐かどはかされるのか、兎も角容易なことぢやねえ」

「さうだつてね、親分」

「笹野樣もことの外御心配で、平次何とかしろと仰しやるが、こればかりは雲をつかむやうで、何うにも手にへねえ。神隱しなどといふ言譯は、お上筋は通らないから、十手捕繩を預かる者から言へば、これは何處までも惡者の仕業に相違ねえ」

「──」

「ガラツ八も石原の兄哥も失敗しくじつたのを承知で、伊勢直の祝言へ行つて見張つたはいゝが、この平次までが見事に裏をかれ、尻尾しつぽいて引下がつてしまつたやうなわけだ」

「──」

「世上の人が後指をさして居るやうで、どうにも外へ出るいきほひもねえ。お願ひといふのは此處だよ、おつ母ア」

「──」

「此節はすつかりおびえて了つて、此界隈かいわいには猫の子の祝言もねえ。愚圖々々して居るうちに、相手が見切りを付けて、六人の花嫁をまとめてあやめるとか──そんな事はない迄も──、遠國にでも持出されたら手の付けやうがねえ。此處でもう一度相手から仕掛けさせて、動きの取れぬ證據を握る爲には、たつた一つでもいゝから祝言が欲しいんだよ」

「──」

「俺の眼の前で花嫁をへた相手だ。平次が嫁を貰ふといつたら、萬に一つも默つて見てゐる筈はねえ。お靜坊しいばうに、幾度も危ない思ひをさせちや氣の毒だが、一番花嫁になつて誘拐かどはかされて、曲者の巣を探つて貰ふわけには行かないだらうか」

 折入つて頼み、男の額には冷汗さへ浮かべて居りますが、あまりの事に、母親は返事の仕樣もありません。暫く胡麻鹽ごましほになつた首をえりに埋めて、何を考へるともなくぼんやりしてしまひました。

「親分、そんな事でお役に立つなら、どうぞ私を使つて下さい」

 祝言をしてとは言ひませんが、お靜は顏を上げて、平次よりはむしろ、母親の心持をはかり兼ねた樣子でかう言ひました。

「お靜、何を言ふのだえ、お前」

「いえ、お母さんの御心配は御尤ごもつともですが、私は親分のお力を信じきつて居ります。高田お藥園の手入の時だつて、お茶の水の空屋につるされた時だつて、親分は見事に救つて下すつたぢやありませんか。ね、お母さん、どうぞ私を、今晩にも親分のところへやつて下さい」

 母親の膝に手を置いたお靜、それをゆすぶりかげんに、少し甘える調子でせがんで居ります。平次は此健氣な心意氣に打たれて、兩手を合せて拜みたいやうな心持で、默つて差控へました。



 その翌々日、平次はお靜と祝言の盃をあげることになりました。仲人なかうどは笹野新三郎の用人、小田島傳藏老人、いづれ春には輿入こしいれする筈で、ボツボツ支度を心掛けて居た矢先ですから、貧しい調度ながら、一と通りのものは揃つて居ります。

 お靜の家から平次の家までは、ほんの二三町、駕籠にも車にも及びません。平次とお靜がつて斷るのも聞かず、小田島傳藏老人夫婦の外に、平次の朋輩ほうばいやら乾分やら二三人、花嫁姿のお靜を遠卷にして、平次の家に送り屆けたのは、その晩のまだ宵の内でした。

 ガラツ八が居たら、さぞ頓興とんきような聲で、一座を賑はしてくれるだらう──と思ふと、見えざる相手の仕掛を待つて期待と鬪爭心に燃える平次の胸にも、何かしら一脈の淋しさが冷たい風のやうに吹き入ります。

 新妻をさらはせるつもりの平次、祝言の席から誘拐かどはかされるつもりのお靜、二人の氣持を薄々讀んだ客──この祝言は、まことに不思議なものでした。

 どうせ裏店うらだな住ひの平次、智惠や侠氣けふきはあつても、金つ氣などはろくにありません。それでも花嫁を迎へる用意だけは一と通り調へて、借り物乍ら屏風びやうぶを廻し、島臺しまだいを飾り、足の高い膳や、絹物らしい座蒲團、時節柄寄せ集め物の火鉢まで、何うやらかうやら揃ひました。

 二た間打つこ拔いた室が式場で、その裏が花嫁の支度部屋、長屋の者が集まつて、目出度く三三九度が濟むと、『高砂や──豆腐イ』と言つた調子のが始まります。

 紋付姿の平次も立派でしたが、それにも増して、お靜の花嫁姿はあざやかでした。このまゝ、お開きとなれば、何も彼も無事に納まります。六人の花嫁を盜んだ曲者も、さすがに錢形の平次の嫁には手を付けられなかつたのでせう──か。

 やがて花嫁は次の間へ下がりました。あやながら、紋付を脱いで、色直しといふことになります。盃は幾巡いくまはりかして、さんざめく一座、誘拐かどはかしも何も忘れて了つて、大分いゝ心持になつて來ましたが、何うしたことか、暫く經つても、お靜の姿が見えません。

「ちよいと」

 髮結かみゆひのお鶴さんが、屏風びやうぶから顏を出して小田島老人を呼びました。

「嫁さんは何うしたんだい」

「先程から、お見えになりません」

「何?」

 一座は騷然として立ち上がりました。頭からかぶつた風呂敷でもかなぐり捨てたやうに、亂醉が一遍にさめて了つたのです。

「色直しの着付けを濟して、御不淨ごふじやうへいらしつたやうですが、それつきり見えません」

 界隈でよく知られた、名人の髮結かみゆひ、額から右の眼へかけて赤いあざのあるお鶴が、そのみにくい顏をゆがめておろ〳〵して居ります。

頭到たうとうやりやがつたな」

 聟姿むこすがたの平次、忙しく羽織をかなぐり捨てると、足袋跣たびはだしの儘パツと裏庭へ飛出しました。誰が開けたか、路地へ拔ける木戸はバタバタになつて、其處には夜目にもほの白く、贋物まがひもの乍ら、玳瑁たいまいかんざしが一本落ちて居ります



 平次の活動は、本當に火の出るやうでした。六人の花嫁を救ひ出す爲に、あらゆる物をけて了つた平次は、この上失敗を重ねるやうなことがあれば、死んでも申譯が立たないことになるのです。

 世上の噂、笹野新三郎の督勵とくれい、それは暫く我慢するとしてもお靜の母親のなげきは、一刻も見ては居られません。それに、あの自分の爲に進んで、死地に飛込んだお靜の、清淨無垢せいじやうむくな美しい身體を考へると、さいころの目一つに、あらゆる身上を張り込んだ人間のやうに、平次は腹の底から胴顫どうぶるひを感ずるのでした。

 平次は今までも決して遊んで居たわけではありませんが、もう一度必死のスタートを切つて、嫁入と關係のある、あらゆる商賣を調べて見ました。第一番に、神田日本橋の呉服屋、越後屋、白木屋をはじめ、筋の立つたところを全部當つて見ましたが、江戸中に毎日、幾つあるか判らない祝言のうちから、神田日本橋のを選り出して聞くなどは、呉服屋へ行つたところで、何の足しにもならないことが判つただけでした。

 次は鰹節屋かつをぶしや、小間物屋、箪笥屋たんすや、諸道具屋、肴屋さかなや、酒屋、いやしくも嫁入の御用を勤めさうな店は、自分か子分かが一と通り廻つて見ましたが、何處にも怪しい節などはなく、又婚禮の日取などを聞き廻つた人間の噂は一つもありません。

 併し、七人の花嫁誘拐かどはかしの手口は、こと〴〵く周到な用意と、長い間の計畫でやつたことで、偶然ぐうぜんの廻り合せで、行當りばつたりな仕事でないことはよくわかつて居ります。

 念の爲、一度はあきらめた女乞食のお六を、その巣にして居る明神樣の裏手の、建て捨てた物置小屋へ見に行きましたが何としたことでせう、これは、見るも無慙むざんくびり殺されて、ボロと藁屑わらくづの上に、みにくい死骸を横たへて居ります。

「しまつたツ、こんな事なら、もう少し口を利かせるんだつた」

 と言つたところで追附きません。

 今度ばかりは錢形の平次ほどの者も、全く持て餘して了ひました。

 下町中の質屋といふ質屋、古物屋といふ古物屋は、子分の者を飛ばして詮索せんさくしましたが、暮から此方、嫁入道具などを持ち込んだ者は一人もありません。

 こんなむなしい努力を續けてゐるうち、たつた一つ氣の附いたことは、石原の利助と、ガラツ八が、平次とほゞ同じ調べ口で、彼方此方を探し廻つて居るといふことだけでした。



 平次はお靜にいろ〳〵のことを言ひふくめて置いた筈ですが、不思議なことに、誘拐かどはかされたお靜からは、何の合圖もありません。

 お靜のえり帶揚おびあげの中には、格子や雨戸のすきからでもはふれるやうに、平次あてに書いた手紙が、幾本も用意してあつた筈ですが、何んな場所に閉ぢ籠められたか、そんなものは、一つも平次の手許に屆かなかつたのです。

 そればかりでなく、お靜の帶の間や、懷ろの中には小さい竹笛たけぶえが幾つかひそめてある筈です。その笛を引つきりなしに吹いてくれさへすれば、平次の子分達が聞込まない迄も、近所の人が變に思つて、井戸端の噂ぐらゐに上らない筈はありません。

 平次は夜となく晝となく、神田から日本橋を、へと〳〵になるまで彷徨さまよひ歩きました。途に落ちた鼻紙にも驚き、按摩あんまの笛の音にもきもを冷して、本當に氣の觸れた犬のやうに馳け廻つたのです。

 併し何も彼も無駄でした。若しかしたら、六人の花嫁と一緒に、美しいお靜の死體は、今月にも大川に浮くかも知れない──といつた恐ろしい幻想に、平次は休むことも眠ることも出來ない有樣になつて居りました。

 犇々ひし〳〵と身にせまるのは、喰ひ入るやうな恐ろしい後悔です。つかてた足を引摺るやうに、聖堂裏から昌平橋しやうへいばしを渡つて柳原の方へ出ようとする平次の、鹽垂しほたれ果てた肩へ、後ろからソツと手を置いたものがあります。

「親分、御心配ですね」

 振返つて見ると、髮結のお鶴、まづい顏ですが、それでも人のいゝ笑ひを浮べて、なぐさめ顏に、平次の顏を差しのぞきます。

「あ、お鶴さんか」

 平次は夢見るやうに立止りました。

「お靜さんの行方ゆくへは、少しも判りませんか」

 毛筋けすぢびんに差して、襟の掛つた小袖、結び下げた黒繻子くろじゆすの帶は、少し猫じやらしにしりを隱します。

「因つたよ、お鶴さん。お前さんにも心當りはないだらうか」

「ホ、ホ、ホ、錢形の親分さんがそんな事をおつしやつちや困るぢやありませんか。でも、今度ばかりは、本當にお氣の毒ねえ」

 親切とも、皮肉とも聞える言葉を空耳に、平次はお鶴にいてその家の前まで行つて居りました。

「ちよいと寄つていらつしやいな? お茶でもれませう」

「有難う、少し休まして貰はうか」

 斷るかと思つた平次は、お鶴にさそはれるまゝ、細かい格子戸をくゞりました。

 中は女やもめの住みさうな、みがき拔かれた調度、二三人の若い梳手すきてが、男の客を物珍らしさうに、奧の方から娘らしい視線を送つてゐる樣子です。

出涸でがらしで御座います」

 んで出す茶、一と口飮んで、長火鉢ながひばち猫板ねこいたの上に置いた平次。

「あの娘さん達は、夜も此處へ泊んなさるのかね」

「いえ、用事のない時は、日が暮れると銘々めい〳〵の家へ歸しますよ」

「住込みもあるんだらう」

「私はこんな性分しやうぶんで人樣の娘を預かることなどは、面倒臭くて出來ませんから、皆んな歸つて貰ひますよ」

「すると夜分はお鶴さん一人だね」

「え」

「丁度いゝ鹽梅あんべえだ。これからチヨクチヨク遊びに來るとしよう」

「あれ、冗談ばかり。そんな事を言ふと罪ですよ、これでも女なんですから」

「それはそれとして、いゝ加減にして、頭巾づきんつたらどうだえ」

「え? 何を仰つしやるんです」

 お鶴は思はずきつとなりました。

「七人の花嫁を出して貰はうか」



 平次の手はサツと延びて、お鶴の左の手首をピタリとつかみます。

「何をするんだえ、いやらしい。巫山戯ふざけたことをすると、岡ツ引だつて勘辨しないよ」

 と言ふのを引寄せて、グイと掴んだ女の腕をしごくと、二の腕に赤々と朱彫しゆぼり折鶴をりづる

丹頂たんちやうのお鶴、御用だツ」

「何をツ」

 何處から取出したか、お鶴の手には、キラリと匕首あひくち、平次の首にサツと來るのを、叩き落して膝の下へ。

「お前があやしいことは、早くから氣が附いたが、證據がなくて踏込ふみこまずに居たんだ。花嫁が七人も續け樣に消えてなくなるのに、それを手掛けた髮結かみゆひを疑はずに居るほどの平次と思ふか」

 言ふ内にも、懷ろから蛇のやうに引出した捕繩、見る〳〵お鶴の身體は高手小手に縛り上げられて了ひました。

「何をするんだ、私は女髮結のお鶴、下町したまちでも知らない者はない。何を證據に、錢形とも言はれる者が繩を打つんだ」

 疊をめさせられたひたひ赤痣あかあざは火の如く燃えて、醜女しこめうらみの眼は、毒蛇のやうにキラキラと光ります。

「默れツ、あの壁を見ろ。ところ〴〵に爪で引つ掻いた蛇の目の印があるだらう。あれはお靜に言ひ附けた合圖のしをり、俺の名前から思ひ付いた錢形だ。あの印があるところにお靜が居るに相違ない──サア言へ、七人の花嫁を何處に隱した」

「知らない知らない。たつて探したかつたら、裏は神田川だ。水の底でも覗いて見るがいゝ」

 不貞腐ふてくされたお鶴、齒を食ひ縛つて、平次の顏を憎々しく見上げます。

「七人の命には替へられない。言はなきア、平次の宗旨しうしにはないことだが、お前の身體を五分試しだ。これでもか」

 平次もさすがに一生懸命です、額にふりそゝ冷汗ひやあせを片手なぐりに拭き上げると、女の手から打落した匕首あひくちを取つて、その白々としたのどへピタリと當てました。

「冷たくて、飛んだいゝ心持だよ、さア一と思ひに突いておくれ、──お前に殺されゝば本望だ。何を隱さう、私は長い間、お前に岡惚をかぼれして居たんだよ」

 それは恐らく本音でせう。平次を斜下なゝめしたから見上げる惡女の眼には、不思議な情火が、メラメラと燃えさかるのです。

「えツ、しぶとい女だ。言へツ、七人の花嫁を何處へやつた」

 思はずゾツとし乍らも、平次は匕首のみねを返して、女の頬を叩きます。

「駄目だよ、そんな事を言つて居るうちに、七匹のめすは一とまとめにして江戸から送り出す手筈が出來て居るんだ。私はお處刑しおきになるだらうが、その代り私の首がさらされる頃は、お靜を始め七人の花嫁は、島原か長崎へ叩き賣られて居るよ」

「何? まとめにして江戸から送り出す?」

 平次はサツと次の間の唐紙を開けました。此騷ぎに、梳手すきての娘達は何處へ行つたかわかりませんが、突き當りの障子を開けると、目の下は眞つ黒に濁つた神田川の流れ、平次の胸には、始めて事件の謎を解く最後の曙光しよくくわうが射したのです。



「石原の親分、さう言つたやうなわけだ。面目次第もないが、當分此處へ置いておくんなさい」

 ガラツ八は悄氣しよげ返つて、利助の前に兩手を突きます。

「──」

 利助は默つて腕をこまぬきました。平次の恬淡てんたんな心持が、今はもう判り過ぎるほど判りましたが、長い間反目して來た利助は、ガラツ八の前に釋然しやくぜんとして見せるには、少しばかり負借まけをしみが強かつたのです。

「兎も角、わびをするなら、石原の兄哥あにきにしろといふくらゐですから、あつしの言ふことなどを聞く錢形の親分ぢやありません。ついでの時、どうぞ宜しく取なして下さい。私はあの親分から見離されるくらゐなら、くびでもつて死んでしまひますよ」

 道化たうちにも妙に眞劍なガラツ八の調子を見ると、利助は何となくくすぐつたい心持になります。

「まア、いゝやな、その内に何んとかなるだらう。暫く此處にブラブラして居るがいゝ」

「有難う御座います、親分」

 二人がそんな話をして居るところへ、表から利助の子分が二人連れで歸つて來ました。

「親分、變な噂を聞き込みましたよ」

「何だ?」

「兩國の水よけに、緋縮緬ひぢりめんの片袖が引掛つて居たさうですよ」

「えツ」

「そればかりぢやありません。この二三日、鬱金色うこんいろ扱帶しごきだの、鹿しぼりの下締したじめだの、變なものが百本杭ぼんぐひや永代へ流れ着くさうですよ」

「そいつは耳寄りな話だ。行つてみるか、八兄イ」

 利助は立ち上がりました。

めえりませう」

「お靜さん始め七人の花嫁は、何處か河岸かしツぷちの家にでも押し込められて居るに違げえねえ」

 それから間もなく、利助とガラツ八は、子分の者に輕舸はしけがせて、大川の右左を、上から下へ、下から上へと見廻り始めたことは言ふまでもありません。

 日はもうトツプリ暮れて、筑波颪つくばおろしが、灰色の水を渡つてヒユウーと吹き起ります。

 丁度その時。

 錢形の平次も一さう輕舸はしけを漕がせて、大川の上を漕ぎ廻つて居りました。これは、濱町河岸から駒形まで、兩岸の人家には眼もくれずに、川の中に浮んで居る船にばかり目を附けて居ります。

 七人の美女をまとめにして、人目に附かぬやうに上方へ持つて行くには、船より外に手段てだてはないと睨んだのでせう。

 橋の上手、此時候には滅多に見掛けない屋根船のもやつて居るのを、遠くの方から二三度うかゞつた平次は、最早躊躇ちゆうちよはしませんでした。

 見ると目ざす屋根船はいかりをあげて、上げ潮にゆるぎ出しさうな有樣。

「待て〳〵、その船に不審がある」

 宵闇の中から聲を掛けた平次、輕舸はしけをピタリと附けさせると、ふなばたから舷へ、サツと飛び移りました。

「何だ、いきなり人の船に入つて來やがつて」

 水棹みづざをを取り上げて、ガバと打つてかゝるのを、身を開いて、ツ、ツ、ツ、懷ろへ入ると見るや當身一本、船頭は苦もなく水垢あかの中にります。

 中へ飛込まうとすると、

「誰だ、騷々しい」

 胴の間から飛出したのは、一人、二人、三人、いづれも荒くれた大男。そのうちの一人は二本差しのやうです。

「御用だぞ、神妙にしろ」

「何をツ」

「七人の花嫁を誘拐かどはかしたのは、貴樣等だらう」

「何を、それツ、相手は一人だ、斬つて了へツ」

 三人の男は、切先を揃へて、平次を三方から取りかこみました。平次の武器といふのは十手が一ちやう

 眞つ先に飛込んで來た脇差をぱづして、十手を左に持換もちかへると、右手が懷ろに入つて、取出した青錢。

「エツ」

 眞つ先の一人は、左の眼を打たれて引退ひきしりぞきました。

 しかし相手はまだ二人、ともの方からはもう二三人船頭が助太刀に飛んで來る樣子です。

 平次は十手と青錢とをかはる〴〵飛ばして、わづかに身を防ぎましたが、相手の武家は思いの外の使ひ手で、平次も次第に壓迫されるばかりです。

 大川の上から下へ、輕舸はしけを漕がせて居た利助とガラツ八は、此時やうやく平次の危難を見附けました。

「それツ」

 と屋根船へへさきを叩き附けると、利助、ガラツ八を始め、二人の子分。

「錢形の兄哥、もう大丈夫だ。利助が來たぞツ」

「親分、八五郎が參りました」

「御用ツ」

「御用ツ」

 船の上には、一としきり亂鬪が續きましたが、平次と利助の捕物上手な駈引と、一つは多勢の力で、大したあやまちもなく、間もなく一味五人を、雁字がんじがらめにして了ひました。

 中仕切を開けて見ると、胴の間には、縛られた七人の花嫁、くだかれた花束の樣に一とかたまりになつてふるへて居ります。

「あツ、親分」

 その中でも一番美しくて、一番氣の確かなお靜は、平次の姿を見ると、惡夢から覺めたやうに飛起きて、驅寄かけよりました。

        ×      ×      ×

 七人の花嫁を誘拐かどはかした髮結のお鶴は、丹頂たんちやうのお鶴といふ有名な女賊で、ひたひから眼へかけての赤痣あかあざは、人目を忍ぶ爲に繪の具でかせたものでした。

 しかあざはなくとも恐ろしい醜婦しうふで、三十過ぎるまで男といふものに眼を掛けられたこともなく、もとより縁談を持込む物好きもなかつたので、自棄やけのろひとがかうじて、世上の美しい花嫁を皆んな手當り次第に祝言の席からさらつて、幸福の絶頂から不幸のドン底に落してやらうと、思ひ立つたのでした。

 それを助けたのは、こと〴〵くお鶴の相棒や子分で、美しい盛りの七人の女を、船で島原か長崎へ持つて行つて、いゝ値に賣り飛ばさうとする矢先を、危ふく錢形の平次に捕まつてしまつたのです。大川へ緋縮緬ひちりめんの片袖や、鬱金うこん扱帶しごきを流したのは、お靜の智惠だつたことは言ふ迄もありません。

 ガラツ八を叱り飛ばして、利助のところへやつた平次の眞意は、言ふまでもなく、この先輩と和解する爲で、平次のわだかまりのない態度に、今度こそは利助もすつかりかぶといでしまひました。

底本:「錢形平次捕物全集第二十二卷 美少年國」同光社

   1954(昭和29)年325日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋社

   1932(昭和7)年1月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2014年12日作成

2018年120日修正

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