錢形平次捕物控
闇に飛ぶ箭
野村胡堂
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「大層な人ですね、親分」
兩國橋の上、ガラツ八の八五郎は、人波に押されながら、欄干で顎を撫でてをります。
「まア、少し歩けよ。橋を越せば、一杯呑む寸法になつてゐるんだ」
錢形平次は、泳ぐやうに近づいて、八五郎の袖を引きます。
引つ切りなしに揚がる花火、五彩の火花が水を染めて、『玉屋ア、鍵屋ア』といふお定まりの褒め言葉が、川面を壓し、橋を搖るがして、何時果つべしとも思はれません。
「本當ですか、親分。お濕りをくれるとわかれば、花火なんざどうでも宜いんで」
「現金な野郎だな」
「腹を減らして、舌嘗めずりをしながら、打揚花火にノド佛を覗かせたつて、面白かありませんよ。棧敷や舟の人達のやうに、腹一杯になつたところで、玉屋アと來るから恰好がつくんで」
「相變らず殺風景な野郎だなア──もう少しの辛抱だよ、戌刻(八時)が鳴るまで橋の上にゐることになつてゐるんだから」
「戌刻の鐘を合圖に、良い新造でも迎へに來るんでせう」
「そんな氣のきいた話ぢやない。兎も角、橋の上は混雜で急に動けないから、少しづつ東兩國の方へ寄ることにしよう」
上を見て通れと言はれた兩國の賑はひ、今の常識では想像もつきません。橋の上は盛りこぼれるやうな人波、東西の廣場から、左右の町家は、棧敷を架け、櫓を並べ、諸商人、諸藝人聲を嗄らして呼び交ふのに、川の上はまた、いろ〳〵の趣向を凝らした凉み船が、藝子末社を乘せ、酒と、肴と、歡聲と嬌聲とをこね合せて、まさに沸き立つばかりの賑はひです。
五月二十八日の川開きから、八月二十八日までの三月の間、江戸の歡樂と贅を此處に集めて、兩國の橋を中心に、この一帶の水陸は、爛れるやうな興奮が續くのでした。
江戸の末期には、土地繁榮のため、商人達が金を集め、玉屋、鍵屋を買ひ占めて、人寄せの花火が連夜に亙つたと言はれますが、錢形平次が盛んだつた頃は、まだそれ程ではなくとも、八月十五日の夕凉みの晩の催しなどは、川開きの日に劣らぬ、初秋の夜の最後の歡樂を追ふ凄まじい景氣でした。
「おや、淺草寺の鐘が鳴りますね」
八五郎は人波に搖られながら指を折つてをります。
「この騷ぎの中で、鐘の音の聞える耳は大したものだな」
平次は笑ひを噛み殺しました。
「呑みたい一心ですよ、──鐘が鳴りや宜いんでせう、五つの鐘が」
「何んにも變つたことはないやうだな、さては擔がれたかな」
平次は首を捻つてをります。
「何を擔がれたんです? 親分」
「今朝、──變な手紙を受け取つたのだよ。今晩、五つの鐘を合圖に、兩國橋の上から川面を見張つて貰ひたい。六人の人が死ぬ。それも選り拔きの美しい娘ばかり──といふ文句だ」
「誰がそんな手紙を書いたんでせう」
「そんなことがわかるものか。おや〳〵、あれは何んだ、八」
急に橋の下、大川の水の上が騷がしくなつたのです。
「何んでせう、親分」
「何んかあつたに違ひない。來いツ、八」
平次と八五郎は、人波を掻きわけました。が、今にして思へば、もう少し橋の袖の方に行つて出入を便利にして置くべきでした。
水の上は唯ならぬ騷ぎ、沸き立つ興奮にかき立てられて、橋の群衆も動搖みを打ちます。
「何があつたんだ」
わけもなくわめき散らす人々、盛りこぼれさうな人間の大集團、平次はそれを潜つて、どうやら番所に辿りつきました。
「どうした騷ぎでせう、これは」
「お、平次か、丁度宜いところだ。怪我人があつたらしいよ。いま船を出すところだ。一緒に行くが宜い」
見廻り同心久良山三五郎、土地の御用聞常吉と伊太郎といふのが二人、それに平次と八五郎を加へて、橋の袂から艀舟を出しました。
漕ぎ出して五、六十間、と言つても、これは大變な努力でした。橋の下は、橋の上に劣らぬ大混雜です。
さすがに絃歌の聲は絶えて、不氣味な沈默が水の上を支配しましたが、それでも、時々は遠い鳴物や歌聲が、風に乘つてこの沈默を破るのです。
「その船の人もやられましたよ」
役人の船と見て、一人の男が、胴の間に伸び上がつて教へてくれます。その邊の人は皆、醉も興も醒め果ててしまつた樣子です。
「どれ〳〵、この船か」
とある屋形船、簾も卷き上げた盃盤の中に、毛氈を掛けた横木に凭れて、娘が一人介抱されてゐるのでした。
「お役人樣、──相生町の佐奈屋のお孃さんが、こんなひどい目に逢ひました、どうぞ惡戯者をつかまへて下さい」
舷に立ちはだかつて、乳母さんらしい肥つちよの中年女はわめくのです。
船を寄せて見ると、十六、七の小娘が、頬をやられたらしく、手拭で傷を押へて、二、三人の介抱を受け、あとの五、六人は、爲すこともなく立ち騷いでゐるのです。
「いきなり、矢が飛んで參りました。何處からともわかりません。娘の頬に立つて、この通り」
父親らしい中年男は、茣蓙の上に落ちた短かいが逞ましい矢を、忌々しげに拾ひあげて同心久良山三五郎に渡すのです。
「何んだこれは、本矢の半分しかないが」
「楊弓の矢ではございませんか」
同心久良山と土地の岡つ引の問答を聽いて、
「──」
平次は齒痒さうに默つてをりました。
「平次、これは何んだ。見當が付くか」
「半弓の矢のやうでございますが」
「いや、半弓の矢よりも短かい」
「それは後で調べるといたしまして、まだ他にも怪我人があるやうでございます。それをお調べになるのが先でございます」
平次は氣が氣でない樣子でした。久良山三五郎が武具の講釋をしてゐるうちに、鳥は飛んでしまひます。
「尤も至極だ。次の船を見よう、いや手わけをして調べるが宜い」
此處で平次と八五郎は眼くばせをして次の活動に入りました。
折から船の間を漕ぎ拔けて行く一艘の艀舟、それを見付けて八五郎が、
「待つてくれ。この騷ぎを調べたい、その舟を貸してくれ」
「何を言やがる。俺達は、お銚子を調べに來たんだ」
若い男が二人、それは元柳橋あたりの料亭から、屋形船へ酒肴を運ぶ舟だつたのです。
「若い衆、この騷ぎに氣のつかない筈はあるまい。何人かの人が怪我をしてゐるんだ。酒より命が大事だ、暫らく頼むぜ」
後ろから平次が聲を掛けました。
「あ、いけねえ、錢形の親分だ──この野郎は何んにも知らないんで、相濟みません。どうぞお使ひ下さい」
年嵩の男が向う鉢卷を取ります。
「それぢや、暫らく頼むぜ」
漕がせて、騷ぎの第二の船に、舷と舷がスレスレになると、
「この船にも何にかあつたのか」
八五郎はわめきます。
「御新造さんが肩をやられましたよ。大したことはありませんが」
それは五、六人乘りの傳馬、呑手が揃つてゐるらしく、近寄るとプンと酒精が匂ひさうな中に、二十一、二の半元服の若い女が、單衣の肩を紅に染めて、姑らしい老女の介抱を受け、船は漕ぎ返る仕度をしてゐるのです。
矢は水に落ちたらしく、船の中には見えませんでした。念のために名と所を訊くと、
「横山町の伊豆屋勘六でございます。怪我をしたのは、嫁の菊と申します」
と主人らしい五十年輩の男が代つての挨拶でした。
「少し調べたいが、破傷風にでもなるといけないから、大急ぎで船を岸につけて、近くの醫者へ行くやうに、いづれ詳しいことは後で──」
平次は心を殘して第三の船に行きました。その第三の船といふのは、ツイ隣の大傳馬で、これは十五、六人の武家の一座でした。
「私は神田明神下の平次と申すものでございます。何にかお間違ひがあつたやうで」
恐る〳〵聲をかけると、
「おや、錢形の親分か、それは良い人が來てくれた、──見てくれ、何處からともなく矢が飛んで來て娘の耳を射たのだ」
武家は本田傳右衞門、千石取の旗本、本郷丸山の住、口きゝで、顏が通つて、近く役付になつたばかりといふ仁、その披露を兼ねて同僚、上役、友人方を招いての凉み船に、自慢で出した娘のお節が飛んだ災難を受けたのです。
「飛んだことでございます、矢は何方から飛んで參りました」
「不覺なやうだが、それが少しも見當はつかないのだ」
「何にか、左樣な仇をするもののお心當りは?」
「少しもない。たつた十八の娘、それも隨分嚴しく育ててある。仇も怨もあるわけはない」
さうは言ひ放つたものの、本田傳右衞門、何んとしても腹の虫が納まりさうもありません。
酒で洗つて、用意の藥をつけて幸ひ血も止り、痛みも納まつた樣子ですが、第四の船の災難はそれどころの手輕なものではなかつたのです。
同心久良山三五郎は、橋番所から出した船と力を協せて、一應事件の起つた橋下の一角の、あらゆる船を停めました。その邊はさすがに馴れた手順です。
「怪我のあつた船は、これで皆んなか」
「いえ、橋を潜つた先、川上の方にも何んかあつたやうで」
平次の船は、何時の間にやら近くに舷を寄せてをりました。
「それでは直ぐ行つて見よう」
今までのは橋の下より少しづつ下流に向つた方でしたが、四艘目の船は橋架の下を潜つて、川上の方にあつたことは、何にかの暗示になりさうです。
橋の上手、下手と言つたところで、僅かばかりの距離で、その間は十間とも離れてはをりませんが、それでも、橋の下手の三艘の船に氣を取られて、橋の上手の一艘の調べ方が、ほんの少しばかり遲れました。
久良山三五郎の船と、平次の船は、凉み船の間を漕ぎ拔けて、橋架の下から顏を出すと、これはまた、一ときは大型の屋形船が一艘、滿船の危惧を孕んで、物々しくも沸き返つてゐるのです。
「どうだ、──何があつたんだ」
船は左右から近づきました。
「あ、お役人樣方、どうしようか、途方に暮れてをりました。兎も角、艀舟を出して、お醫者に人を走らせましたが」
久良山三五郎を迎へたのは二十歳を過ぎたばかりの氣のきいた若い男でした。
「何處の船だ」
「御藏前の板倉屋久兵衞の凉み船でございます。お孃樣が大變なことで」
「よし、案内しろ」
と言つたところで、屋形船の中、廣いやうでも、中の樣子が一と眼に見渡されます。見ると、丁度船の中程、眞新しい茣蓙と毛氈を染めて、夏姿ながら眼の覺めるやうな娘が一人倒れてをり、それを取卷いて、四、五人の者が、仕樣こともなく、たゞウロウロしてゐるのです。
「あ、錢形の親分」
續いて船に上がつた錢形平次が、一番先にこの男の眼に留りました。ザラの見廻り同心より、この一介の岡つ引の方が、江戸の町人達の間に顏が賣れてゐたのです。
「久良山三五郎樣だ、粗相のないやうに」
平次はあわてて、見廻り同心を紹介します。こんなときは、妙な人氣が邪魔をして、反つて仕事の進行を妨げることがあります。
御藏前の板倉屋といふのは、當時一流の札差で、主人の久兵衞は聞えた大町人でもあり、金があるに任せてバラ撒くので、大通といふ實はカモの別名のやうな綽名があり、獨り娘のお絹は、型の如く美人で、引く手あまたの人氣娘でした。
金が唸るほどあつて、眼鼻立が整つてゐれば、もう十二分に美人の資格があるわけですが、お絹は全く、非凡の娘だつたのです。
それは十分に驕慢で、冷淡でさへありました。金持の娘によくある型です。でもその我儘らしさが一つの魅力で、身内の者からも、御近所の人からも、接近するほどの人が全部、小面憎いと思ひながらも、お絹のすぐれた肉體と、その輝かしい若さに、誰でも引きつけられずにはゐられなかつたのです。
「私が久兵衞でございます──娘は息を引取りました──醫者の來る前に」
板屋久兵衞は、聲を呑むのです。五十年輩の立派な男で、擧措進退日頃のたしなみも思はれますが、獨り娘の急死に打ちひしがれて、さすがに取亂してをります。
娘お絹、血潮の中に浸つた、美しい揚羽の蝶を思はせる娘は、母親お篠の腕の中に、最後の痙攣を委ねて、白い額を見せて、ガクリと仰向きました。左右から取縋るのは、十六、七の可愛らしい娘──妹のお鳥といふ、揉みくちやにされたやうな悲歎の姿と、許婚の新六郎といふ、嗚咽に端正な顏を引歪めた、二十二、三の男でした。
「平次、よく見て置いてくれ」
「かしこまりました」
久良山三五郎が席を讓ると、平次は自然に前へ押出されました。
「側にゐたのは?」
「私でございます」
振り返ると、恐れと驚きと歎きとに、滅茶々々にされた許婚の新六郎が、顏一杯涙に濡れて答へるのです。
「矢が飛んで來たのだらう」
「お絹さんと二人、舷にもたれて、花火を眺めてをりました。豊年坊主は、小奴の三味線で、何にか踊つてゐたやうで、大きな花火が揚がつて、皆んな其方を向いた時、お絹さんはいきなり悲鳴をあげて船底に倒れました。大變な血が吹き出して、お母さんが抱き起すとこの矢が──」
「この矢がどうした」
「舷をかすつて水に落ちたのです」
咄嗟の間に、新六郎はそれを拾つたのでせう。矢柄も羽もぐつしより濡れて、もはや血の跡もありませんが、不氣味なほど鋭い矢尻をつけた、二尺にも足らぬ逞しく短い矢です。
「あ、矢張りこの矢だ」
久良山三五郎は、矢を受取つてためつすかしつしてをります。
「うまい具合に私は水の中から拾ひました。が、お絹さんは、その時はもう、いけなかつたんです」
新六郎は水から矢を拾ふ機轉があるのに、美しい許婚の死に直面して、意氣地なく泣くのです。
「それにしては、傷の具合が──?」
平次は母親の腕から、娘の死骸を引離さうとしましたが、取りのぼせた母親のお篠は、娘の死骸を抱きしめて、最後の審判のラツパが鳴つても離しさうもありません。
「何にか、氣になることでもあるのか」
同心久良山三五郎は、平次の顏を覗きました。
「大變な矢でございます」
娘の頸動脈を射切つて、水に落ちた矢の矢尻は、まつたく剃刀のやうな切れ味です。
「これを射たのは餘つ程の上手だらうな」
平次はそれに答へずに、新六郎に向ひました。
「ところで、花火が揚がつて、矢が飛んで來たとき、お孃さんは何處にゐたのか、確りしたところを訊きたいが、──序でに皆んな、その時ゐた場所に戻つてくれ、──船は動かさなかつたことだらうな」
「碇をおろしてありますから、大丈夫で」
友吉といふ威勢の良い船頭が、鉢卷を取つて答へました。
一としきり船の中はザワめきました。主人久兵衞夫婦、許婚の新六郎、妹のお鳥、手代の周次郎、それに幇間の豊年、藝者の小奴、お酌のお春、船頭の友吉、なか〳〵の人數です。
その間に、平次が何やら囁くと心得た八五郎は、艀舟を呼んで西兩國へ漕がせて行きます。
「久良山樣、矢の飛んで來た方角に、お氣づきはありませんか」
「いや」
平次の問ひに、久良山三五郎は首を捻るのです。
「橋の向うの三艘の矢は、皆んな橋架の間から飛んで來ましたが、四本目の今度の矢は、土手の方角から飛んで來たことになります」
平次は手を擧げて遙か竹屋の渡しの方を指さすのです。
船の灯は星を散らしたやうですが、夏空が低く垂れて、花火の咲いてない時は、鉛のやうに眞つ暗です。
「すると、どういふことになるのだ」
「曲者は二人ゐる筈はありません。それに川に浮ぶ船を一々調べるわけにも參りません。取あへず、橋架の下を搜すことにいたしたいと思ひます──が」
「かう暗くては、凉み船の灯ぐらゐでは、橋の下を見きはめるわけに行くまい」
「先刻その邊も手配いたしました、あの通り」
見ると兩國橋の、東西兩方の橋詰から、一杯に灯を積んだ船が二艘、この邊の中心點を目がけて、長棹で橋の下を叩きながら、靜かに、靜かに進んで來るのです。
その間に平次は、常吉と伊太郎に指圖をして、橋の下の船を、上流下流に押しやり、虫一匹逃がさずと、橋の下を睨むのでした。
そのうちに、東西から漕ぎ寄せた船は、五、六間の距離まで攻めて來ると、
「あツ、あの野郎だ」
橋の下から湧いて一人の曲者、橋の上へ這ひ上がらうとするところへ、平次の手から、珍らしくも錢が飛ぶのです。
暫らく曲者はためらひましたが、次の瞬間吹き散るやうな錢を潜つて、曲者の身體は欄干を越えました。橋の上は蜂の巣の中に石を投つたやうな、凄まじい動搖が起ります。
曲者が、水へ逃げずに、橋の上へ逃げたといふことは、その頃の『上見て通れ』と言はれた、兩國橋の水の上の賑ひを語るものでした。花火さへ揚がつてゐなければ、橋の上は寧ろ暗いくらゐ、水の上の明るさ賑やかさとは比較にもなりません。
曲者が橋の上の人混みに紛れ込めば、夜の捕物は六づかしくなるばかりです。その上、橋の上に曲者の仲間がゐることも豫想され、平次の立場は困難になるばかりですが、
「あツ」
橋の上も、水の上も、一度にドツと沸きました。群衆の中から八五郎が飛出して、曲者の後ろから、無手と組み付いたのです。
平次はこのことあるを豫想して、八五郎を橋の上に待機させたのです。
この組討ちは厄介極まるものでした。暗い橋の上、豆の中に豆を交ぜたやうな、曲者と岡つ引、組んだりほぐれたり、群衆に揉み込まれての大亂鬪でした。
群衆は八方に散りました。が、散ればまた恐ろしい力で押し返される人波です。が、どうしたことでせう、八五郎の剛力を振り切つて二、三間逃げ伸びた曲者が、僅かな群衆の隙間にヘタヘタと崩折れたのはどうしたことでせう。
「野郎、神妙にしやがれ」
八五郎は、こんなに英雄的な心持になつたことはありません。見物は橋の上一パイの人だかり、人數に不足はない上に、空には引つ切りなしに花火が咲いて、遠くの船からは、まだ絃歌の聲が盛り上がつてゐるのです。
「畜生ツ、世話を燒かしやがる」
もう一度さういつて、橋の上に崩折れた男の首根つこを押へました。
二つ三つ小突いて、得意の早繩、膝に敷いた曲者の手を逆に取つてあげると、
「あツ、血」
曲者の脇腹から吹き出す血が、橋の上を眞紅に染め、花火の青い光に照らされて、毒の花のやうな、無氣味な紫に見えるのです。
橋の上の人々は、かくと見るや本能的な恐ろしい力で、サツと左右に分れました。中に取り殘された八五郎の間の惡さ。
「親分、た、大變なことになりましたよ」
欄干越しに船へ聲をかける八五郎。四方は幸ひ、不意の出來事にシーンとして、船に殘つた平次にも聽えました。
「どうした、八、手に餘るなら行つてやらうか」
平次は八五郎の腕を信じて、少しのんびりとしてをります。
「曲者がやられましたよ。來て見て下さい親分」
八五郎の聲は悲鳴になるのです。
「何んだと?」
事の容易ならぬ發展に驚いて、平次も船を兩國河岸に廻しました。大急ぎで飛降りると、續いて久良山三五郎と、その同勢、
「邪魔だ、邪魔だ、退かねえか」
こんなときだけは、馬鹿に威勢がよくなります。
橋の上に刺された男は、五十五六の不景氣な男、この時は最早虫の息もありません。
「どうした八?」
「何が何んだか、少しもわかりませんよ。あつしの手を振りもぎつて、人混みの中に飛び込んだこの野郎が、いきなり橋の上に引つくり返るんですもの」
八五郎の説明し得るのは、これが精一杯。
「怪しい人間を見なかつたか」
平次の問ひも少し愚問でした。
「誰も見なかつたか。刄物を持つた奴か、着物に血の付いた奴」
久良山三五郎は、自分の無能さを救ふ折を見付けて、東西眞二つに割れた群衆に呼びかけました。
「──」
お立あひは、掛り合ひを恐れてたゞ尻ごみをするばかり。
その中から一人、橋の見廻りをしてゐたらしい、三十前後の男が飛出しました。
「一人、變な女を見ましたよ」
「どんな女だ」
「刄物は持つてゐなかつたが、片手を袂に入れて、その片袖が血だらけでした。人混みに押されながら、──どうしたんだ、大變な血ぢやないか──と訊くと──」
「?」
「──あの騷ぎの側へ寄つて飛んだ目に逢つたよ。こんなに着物を汚されて──と言つて何處かへ行つてしまひました」
「お前は何んだ」
久良山三五郎は、先づその男から調べ始めました。
「り組の若い者で、今夜は人出も多からうし、一應花火も見張らなきやならないといふので、あつしは橋の上を受持つてをります、磯吉と申しますが」
「その女の人相を覺えてゐるか」
「良い女で、二十二、三の、何百人の中で見掛けても間違ひつこはありません」
「それは宜いあんばいだ。次に見掛けることがあつたら、必ず屆け出るのだよ」
「へエ、かしこまりました」
鳶の者と久良山三五郎の問答の間に平次は八五郎ともう二人の岡つ引を走らせ、人混みを東西の橋番所にやつて、袂に血の附いた浴衣を着た女を探させましたが、四半刻經つてもそんな女は見當らず、その代り、血の附いた浴衣の袖の、下の半分だけ千切つたのを拾つた者があります。
浴衣は秋草を染め出した中形で、なか〳〵に粹なものですが、袖を半分から下、刄物で切り捨て、下の方には物凄いほど血が飛沫いてをります。これを着たまゝ、橋番所の前に張つた見張りの眼を、潜る工夫がなく、咄嗟の間に、血の附いた袖の端を切り捨て、袖を抱くか抱へるか、それとも腕に卷くかして、胡麻化して逃げたものでせう。
袖の先三角になつたところに、刄物で突いたらしい穴があり、その穴をめぐつて、ベツトリと紅くなつてをります。
「この穴は何んだ」
久良山三五郎は首を捻りました。
「曲者が──その女が、匕首を拔いたまゝ、袖の中に隱して、この男の側に寄つた時、いきなり脇腹をゑぐつたのでせう。心の臟まで突き上げた手際は大したもので」
「成る程」
「この人混みの中で、時々花火が頭の上で開きます。拔き身の匕首などは持つて歩けません。片腕を袖に入れた若い女が、袖の中で匕首を握つて、袖ごと力まかせに突けば、すぐ傍にゐる者でも氣が付きません」
平次の細かい説明に、久良山三五郎は舌を卷くばかりです。
「ところで、殺されたのは誰でせう」
八五郎が横から口を出しました。
「不景氣な年寄だが、橋架の間から、矢を飛ばした手際は大したものだ。見知り人はないか、訊いて見てくれ」
平次は四方を顧みましたが、掛り合ひを恐れる人達は、遠く引込んでしまつて、一人の名乘る者もありません。
「名乘り人がなければ、見附に曝すほかはあるまいな」
日本橋のほかに、幾つかの見附は、その頃罪人曝場になり、死骸陳列場にも利用されてゐたのです。
その頃はもう、花火も打ち終り、橋の上の群集も次第に疎らになりました。水上の絃歌は、歡樂を追ひ足りぬ人の興奮をのせて、また一としきり華やかになりましたが、やがて曲者の死骸を納め、橋板の上を淨める頃には、次第に靜かになつて行きます。
「平次、隨分厄介な仕事らしいが、乘り掛つた舟だ、宜しく頼むぞ」
同心久良山三五郎はこの跡始末を確と平次に頼んだのです。
翌る八月十六日、晝少し前にはもう、八五郎が明神下の平次の家に飛込んで來ました。大きな事件に出つ逢すと、全く疲れを知らぬ調法な男です。
「お早やう」
「お早やう──は少しをかしいな、もう晝だぜ、八」
「昨夜はよく寢つかれなかつたやうですね、太夫いさゝか、機嫌がよくねえ」
「馬鹿野郎、猿曳き見たいなことを言やがつて、──寢付きの惡いのは、蚊帳にでつかい穴が開いてたせゐだ」
「へエ、兩國の娘殺しのせゐぢやありませんか、──良い娘の死骸を見ると、あつしも二、三日は氣になりますが」
「ところが、俺は橋の上で殺された、あの年寄のことが氣になつたよ。どうも、何處かで見た顏に違ひないが、夜つぴて考へても思ひ出せねえ」
「あの野郎の身許なら、見附へ曝すまでもなくわかりましたよ」
「誰だえ?」
「深川の三十三間堂前に矢場を開いてゐた、半九郎ですよ」
「あ、成程あの男か」
「大弓は引かないが、半弓と、楊弓の名人で、若い女を置いて、結改場(楊弓場)を開き、いろいろ噂になつた男ですよ」
「すると?」
「あの矢は、楊弓の矢よりは大きく、半弓の矢よりは小さいやうだが、恐ろしく頑丈な矢で」
「それはわかつたよ、あの矢は駕籠半弓の矢だ、──俺は今朝横町の道場で訊いたが、半弓よりは少し小さくて、結構ものの役に立つ、枕半弓とか、駕籠半弓といふものがあるさうだ。枕半弓は夜寢る時枕元に備へる飛道具で、駕籠半弓は、旅などをして不意に敵に襲はれた時の用意に駕籠の中に持つて歩く、小さい弓だ」
「へエ、そんなもので人が殺せますかね」
「殺せるどころか、ものの本には永祿八年とかに、竹内大夫左衞門といふ人が、半弓で馬上の侍を十四、五人射殺したといふことが書いてあるさうだ。小さいけれど凄い弓だ、昔は柳で造つたといふ。ヒヨロヒヨロの楊弓とは比べものになるものか」
「へエ、成る程ね、──ところで、半九郎が何んだつて橋の下から、若くて綺麗な女を三人も四人も射たんでせう。氣狂ひ沙汰ぢやありませんか」
「いや、氣狂ひぢやない。現にその半九郎が刺し殺されてゐる、──多分、半九郎の口を塞ぐものの仕業だらうと思ふが──」
「成程ね」
「ところで、秋草の浴衣を着た女に心當りはないのか」
「厄介なことに、あの柄の浴衣は、この夏の流行で、江戸中には何千といふ女が、あの浴衣を着てゐますよ」
「片袖が半分切れてゐるんだ。何んとか搜す工夫があるだらう」
「へエ」
「それから、兩國の近所で、駕籠半弓を搜してくれ。楊弓は二尺八寸だから、駕籠半弓は三尺以上はあるだらう。それから、矢が二本だけ見つかつたが、ほかにまだ二、三本はあるだらう。川に沈んだか、流れてしまつたか」
平次の調べは次第に細かくなります。
「八、今日は、少し骨が折れるぞ」
平次は身仕度をしながら、八五郎を激勵するのです。
「米搗きにでも行くんですか」
かう言つた八五郎です。
「殺された板倉屋お絹のほかに怪我をした女達を見舞つて、それから、深川の三十三間堂前の半九郎の家へも行つて見たい」
「半九郎の家は常吉と伊太郎をやりましたが、娘達の家はあつしが一と廻りして來ましたよ」
八五郎は娘達のことといふとさすがに勤勉です。
「變つたことはなかつたのか」
「四人の親達は、口を揃へて、あんな事をされる覺えはないと言ひますよ、──兎も角改めて親分が行つて見て下さい。あつしは瀬踏みだけで」
「俺はお前の歸つて來るのを待つて出かける氣でゐたんだ」
「先づ御藏前の板倉屋ですが、あの娘は殺されてしまひましたが親達の歎きは大變です。許婚の新六郎なんか、男のくせに眼を泣き腫らして、見ちやゐられませんよ」
「いづれ、一と通り廻つて見なきやなるまいが、俺は女達より、殺された半九郎のことが氣になつてならない。三十三間堂を先にしよう」
「さうですか」
八五郎は少し不足らしい顏をしましたが、それでも默つて平次の後に從ひました。明神下から深川まで、近い道ではありませんが、怪我をした三人の女が、皆んな若くて美しかつた噂は、相變らず八五郎の話術で、すつかり誇張されて聽手に飽きさせません。
深川の三十三間堂は、京の三十三間堂を摸して造つたもので、維新近くまで通し矢の催しがあり、矢數帳が今でも遺つてをります。堂を繞つていろ〳〵の店があり、楊弓場、小料理屋と、一つの別天地を形成つてをります。
その楊弓屋の一軒で、淋しく不景氣なのは半九郎の店でした。
半九郎は楊弓と半弓の名人で、その道にも知られてをりましたが、酒癖が惡いのと、身持が宜しくないので客が寄りつかず、年々さびれるばかりで、近く店仕舞をするほかはあるまいといふ噂でした。
楊弓の結改場が、白粉を塗つた若い女を置くやうになつたのは、遙か後のことですが、半九郎は店の衰微を救ふために、その頃から若い娘を飼つてをり、いつもは派手に賑やかに店を開いてゐるのですが、昨夜主人の半九郎が死んだばかりで、今日はさすがに店を閉めて、ひそやかなうちにも、人の出入りだけは多くなつてゐるやうです。
「御免よ」
「おや、錢形の親分、八五郎親分も一緒か」
常吉と伊太郎は迎へてくれました。店を閉めてゐると、楊弓の結改場などといふものは、まことに狹苦しく、亂雜極まるもので、その一と間に入棺したばかりの主人半九郎の死骸を置き、女房と、子供が二、三人と、女共と、近所の人らしいのが二、三人、たゞわけもなくゴタゴタしてをります。
「飛んだことだつたな、お神さん」
「不斷心掛けの良い人ではありませんでしたが、まさか、こんなことにならうとは思ひませんでした」
佛樣を前にしてツケツケとこんなことを言ふ女房です。亭主の放埒と酒には、悉く懲りてゐる樣子です。
半九郎の女房といふのは、禿げ上がつた四十七、八の女で、夫婦喧嘩と金棒曳の名人で、界隈でも名だたる女房でした。鐵火箸のやうに痩せて、火箸のやうに芯が強く、達辯で戰鬪的で、半九郎に取つては申分のないパートナーだつた樣子です。
「親分、ちよいと」
昨夜から來てゐた、若い御用聞の伊太郎は、平次の耳に口を寄せました。
「何んだい?」
「妙なことがありましたよ」
「?」
「あつしは、半九郎に隱し事があるやうな氣がして、それとはなしに家中を捜して見ました。ところが、明るくなつてから、お勝手の天井裏の、板のズレたところへ手を入れて見ると、二十五兩包みの切餅が二つゾロリと出て來たぢやありませんか」
「それをどうした」
「お神さんが眼を光らせて口惜しがりましたが、兎も角あつしが預かつてあります。このとほり」
伊太郎は内懷ろから切餅を二つ取出して、ドシリと平次の前へ置くのです。
「そいつは、親分、あの人が博奕に勝つた金ですよ。私に渡して下さらなきや、遺つた者は立ち行く當てもありません」
女房はそれを見ると、我慢のなり兼ねた樣子で膝を前めるのでした。
「よし〳〵、筋が通れば返してやる、──ところで、主人の半九郎に、近頃變な樣子はなかつたのか」
平次は、女房を撫めて靜かに訊くのです。
「何んにも變つたことはありませんよ」
「兩國の橋架に隱れて、若い女を四人まで半弓で射たんだよ、──氣紛れや陽氣のせゐで、そんなことをする筈はない。何にか變つたことがあるとか、見慣れない人が訪ねて來たとか、氣のついたことがある筈だと思ふが──」
「さう言へば、近頃見馴れない若い女が──二、三度訪ねて來ました」
「どんな女だ」
「私にはろくに顏も見せないんですもの、前から合圖か何んかで呼出して、八幡樣の境内へ行つて、何にか話し込んだ樣子です。でもうつかりとがめ立てをすると私はひどい目に逢はされるんですもの」
「顏を見た者はなかつたのか」
「店の女達は覗いて見たかも知れません。待つて下さい」
女房はさう言つて、多勢の女達のところへ行きましたが、やがて一人の醜い女をつれて來ました。三十過ぎのこれはあとで、飯炊きのお濱といふ女とわかりました。
「お前が、主人を訪ねて來た女を知つてゐるといふのか」
平次は改めて、この非凡の醜い女に訊ねました。容貌に自信のない三十女が、どんなに結構な諜者の役目をするかは、平次もよく心得てをります。
「知つてゐると言つても、何處の人か知りませんが、良い女でしたよ」
「年は?」
「二十二、三──美い女は若く見えるからもう少し取つてゐたかも知れませんね、──素顏に近い蒼白い顏で、紅をつけて、──素顏に紅をつける女は堅氣の家では嫌ひますがね」
「どんなことを話してゐた」
平次は一歩突つ込みます。
「聲が低くて聽えませんでしたが、粘つたやうな物言ひでした。──女は何にか無理を言つてゐるやうでした。主人はなか〳〵うんと言はないので、しまひには、肩にもたれたり、首つ玉に噛りついたり」
「──」
「主人はもう五十過ぎの年寄だけれど、良い女にあんなにされると、イヤとは言へないんだね」
醜い下女は、それが口惜しくて八幡樣の裏まで後を跟けて行つたのでせう。
「で?」
「それつ切りですよ、──十五日の正戌刻──といふことを繰り返しただけで」
「よし〳〵それでわかつたよ、有難う」
平次は下女のお濱を追ひやつて、もう一度半九郎の女房の方に向き直りました。
「お神さん、御主人は餘つ程半弓がうまかつたんだね」
「それはもう、自慢でしたよ。若い頃長崎にゐて、唐土の人に年季を入れて教はつたさうで、四文錢を糸で釣つて、五間ぐらゐ離れてその糸を射切つて見せました、──俺のこの手際に比べると、御武家の弓自慢などは、甘いものだ──などと言つてゐました」
「すると、七、八間のところで、三寸ぐらゐの的を射るのは何んでもなかつたわけだな」
「百發百中──とか言つてゐました。大弓ほど強くはないが、首筋を狙へば、間違ひもなく、十人でも二十人でも討ち取れると──」
それは實に恐ろしい技術です。尤も昨夜兩國橋の下では、四人狙つて三人は逸し、一人だけ殺したわけですが、それにも何にか、含みがあつたのかも知れません。
「昨夕出かけた時刻は?」
「晝のうちに出かけました」
「半弓を持つて出たのか」
「駕籠半弓を持つて出たやうです。繼ぎ弓になつてゐて、袋へ入れると、二尺にもなりません。それに五、六本の矢を添へると、釣り道具の繼ぎ竿と間違へられます」
平次の手に渡つた、五十兩に未練があるせゐか、女房は訊かないことまで、ペラペラと話してくれます。
「不斷身持が惡かつたといふが何處へ遊びに行つた」
「岡場所を、あちこち漁つたやうです」
「御藏前の板倉屋の話の出ることはなかつたか」
「そんな、大町人の旦那衆は、私どもに掛り合つてくれません。尤も、札差の旦那方にも、楊弓をなさる方はありますが、板倉屋のことは聞いたこともありません」
平次は女房の話を宜い加減に切りあげて、入棺したばかりの半九郎の死骸を見せて貰ひました。
數珠を首に卷いて經帷子、不氣味な白い眼を剥いて、凄まじい死に顏ですが、五十五といふにしては達者な老人で、小造りながら筋骨も逞しく、不意を襲はれなければ、女などに殺されさうな男ではありません。
傷は突き上げた脇腹の一と突き、心の臟をやられたらしく、なか〳〵の手際です。兩國橋の人混みの中で、これだけのことをやり遂げるのは並々ならぬ膽力と手並と、もう一つ、追はれる者の死物狂ひの氣持でもなければ出來ないことです。あの場合曲者に取つては半九郎を刺し殺すほかに自分の身を護る方法はなかつたのでせう。
永代橋から兩國まで船、兩國の橋番所に顏を出すと、
「おや、平次か、丁度宜いところだ。昨夜から搜してゐたが、橋架の下から、この通り、半弓を見付けたよ」
同心久良山三五郎は待つてをりました。
見せてくれた弓といふのは、成る程普通の半弓よりはまた少し小さく、枕半弓よりは逞しくして、中程で繼いでをりますが、籐を卷いて漆を塗つた上に、銀の金具をつけ、なか〳〵の豪華な品です。恐らく戰國の末、徳川期の初めに、然るべき武士が、駕籠に持込んだ護身の具でせう。
「これは良い物が見付かりました。大した品でございますね」
「今はこんなものを道中に持ち歩く人もないだらうが、鐵砲の行渡らぬ頃は、重寶な品だつたに違ひない」
久良山三五郎はこの半弓が氣に入つた樣子です。
「矢はなかつたでせうか」
「橋架の下から二筋、それから水の中から二筋見付かつた──矢柄は浮くが、矢尻が重いから、矢が水の中におつ立つて羽がなくては見付からなかつたことだらう。幸ひ、水があまり濁つてゐないから──」
その頃の大川は今の常識では考へられないほど澄んでをり、落語の巖流島にあるやうな、落した煙管の雁首も場所によつては見えないことはなかつたでせう。
見つけたといふ、二筋の矢は乾いてをりました。これは多分、六本持つて來た矢のうち、二本は放つ遑がなく、弓とともに橋架の下に隱したものでせう。あとの二筋は羽が心持濡れてをりましたが大體は乾いてしまつて、すぐには見分けがつきません。
「この二筋の矢は、川の中に立つて半ばは浮いてゐたやうだ。伊豆屋の嫁と、本田氏のお娘御を射たものだらう」
久良山三五郎は説明してくれました。
「これで六本の矢は揃ひました。一つわからないのは?」
「まだ、何にか、わからないことがあるのか。半弓の名人の半九郎が、氣が狂ふかどうかして、四人の若い女を射た──といふだけではないか」
久良山三五郎は、簡單に片付けます。
「いえ、それだけでは、半九郎が橋の上で刺し殺された意味がわからなくなります」
「?」
「それに、名人の半九郎が、五間や十間の近いところから射て、三人までも人を射損じる筈はございません。四文錢を釣つた木綿糸を射切るといふ半九郎です」
「だが、あれだけの賑はひの中で、取りのぼせるといふこともあるだらう」
「お言葉でございますが、氣違ひの考へは別で、あたりの騷ぎなどに氣を取られる筈はございません」
「成るほど」
「まだ〳〵わからないことばかりでございます。暫らくお待ち下さいますやうに」
平次は久良山三五郎を撫めて、これから怪我をした女達と、殺された板倉屋の娘を見て廻ることにしました。事件は容易ならぬ形相で、久良山三五郎がきめてしまつたやうな、氣違ひの氣紛れでないことはあまりにも明らかです。
平次は道順に無駄をしないやうに、川向うの相生町を第一にしました。
佐奈屋といふのは、本所で指折の酒屋で、主人源之助は土地で顏を賣つた男、娘のお光は十六になつたばかり、簪の花のやうな愛娘でした。
「錢形の親分で、飛んだ御手數で」
「いや、災難だつたね。ちよいと樣子を見せて下さい」
「へエ〳〵どうぞ、本人はまだほんの子供で、何を訊いてもわかりません。それに私どもにも、全く心當りのないことで」
辯解する主人に案内させて、平次と八五郎は奧に通りました。
お得意のために凉み船を出すほどあつて、それはなか〳〵の店でした。奧は廣いといふほどではありませんが、調度もよく整つてをり、傷ついた娘を寢かした六疊には、肥つた乳母のほかに、町内の外科が附きつ切りといふ豪勢さです。
「お孃さん、飛んだことでしたね、──痛みはしませんか」
平次が枕元に坐ると、娘は半身を起して、
「有難うございます、もう痛みはありませんが──」
とツイ涙ぐむのです。
「嫁入前の娘で、萬一顏に傷でも殘つてはと、たいそう心配をいたしましたが、健庵樣の御手當で傷は殘るまいといふことで、安心をいたしました」
父親の源之助は言ひます。晝の明るい光の下で見たところ、大したきりやうではなく、佐奈屋の身代にモノを言はせる、唯の娘に過ぎませんが、親の身になると、そんなことも考へるのでせう。
「お店を怨んでゐる者はありませんか」
「いや飛んでもない、お客樣大事、仲間の者とも折合が良いやう奉公人の扱ひ、附け屆け、勸進寄附など、一つとして手ぬかりのないつもりでございます」
源之助は江戸の大町人らしい誇りで、昂然と言ひ切るのです。
「お孃樣方に、何にかお心當りは」
「何んにもある筈はございません。まだ定まる縁談もなく、堅い一方で」
父親が代つて言ふのです。
「深川三十三間堂前の、結改場を御存じありませんか」
「私はさう言つた遊び事は大嫌ひで、武藝などにも關係もなく、弓も鐵砲も、手に取つたこともございません」
「その楊弓と半弓の名人で半九郎と申すものがやつた惡戯とわかりました。お心當りは?」
「いや、そんな人とは附き合ひもなく、名前を聽くのも初めてで御座います」
主人の源之助は、以てのほかの手を振るのです。
「御藏前の板倉屋さんと、お附き合ひはありませんか」
「お名前だけは存じてをりますが、酒屋と札差では、何んの關はりも御座いません」
さう言ひ切られるとそれつ切りです。
内儀と乳母のクドクドと言ふのは宜い加減にあしらつて、平次と八五郎は兩國橋を渡りました。
「次は何處で?」
「板倉屋だよ、これは娘が死んでゐるから調べも難儀だな」
御藏前の板倉屋は、札差九十六軒のうちでも一流の名家で、富と力とを兼ね備へ、八萬騎の旗本や御家人を、額越しに睥睨すると言つた素晴らしい家柄でした。
その娘のお絹──十九の美しい盛り、厄明けの來年は、從兄妹同士の許婚、新六郎と祝言させて、幸ひ賣りに出てゐる同業札差の株を千兩といふ大金を積んで買はせ、一軒の家まで持たせてやることに話がきまつてゐるところを、凉み船の中で射殺されたのですから、一家一族の悲歎は思ひやられます。
娘一人の命が、藏前中を滅入らせ、町を行く物賣りも呼聲をひそめて、往來を歩く人々も、足音を忍ばせたのも無理のないことでした。板倉屋のお絹は、その頃御藏前中の人氣者で、下谷淺草中の若い男は、お絹を垣間見るのを、何よりの樂しみにし、板倉屋の前を通る若い男達は、一度は屹度躓いたとさへ言はれてをりました。板倉屋の店先を覗いて通るから、足元はツイ留守になつて、どんな小さい石にでも躓いたのです。
若い人達は、町の風呂や髮結床で顏を合せて、その噂が出ないことはなく、いつの間にやら『躓きお絹』などと、妙な綽名が生れました。
そのお絹が死んだのです。しかも人手にかゝつて、怪しい死にやうをしたのです。町内の若い者達がいきり立つて、我こそは──と敵討ちを狙つたのも無理のないことでした。
この騷ぎの中へ、錢形平次と八五郎は、物の順序として乘込みました。
「おや、錢形の親分さん」
裏から廻つて、お勝手口から入ると、ちよいと見は二十歳そこ〳〵の、手拭を姉さん冠りにした、良い女が迎へてくれました。これはお銀と言つて本當の干支を繰ると二十二、向う柳原に住んでゐる八五郎とは顏馴染で、ちよいと鐵火ではあるが、明けつ放しで、お人好しで、そのくせ口が惡くて、ガラガラして、八五郎に言はせると、滅法男好きのする年増だつたのです。
白粉つ氣のない、眞珠のやうに含蓄のある顏の色、細い長い眼、低くて少し太い聲に特色があります。氣の毒なことに、十八の時浪人者の色師に騙されて驅落ちをやらかしましたが、叔父の板倉屋が一文も出さないとわかると、間もなく男に振り捨てられてしまひ、人を頼んで板倉屋に、詫を入れて戻りました。その時後悔の印に髮を切つて後室樣のやうな頭になりましたが、二年經つと大分伸びて、今ではどうやら手拭を冠つて人前にも顏を出すやうになりました。
「大變だつたね、お銀さん」
八五郎が聲をかけると、
「有難うよ。本當に、お絹さんが可哀想。私はあんな良い娘を殺す野郎の顏が見たい」
日頃の調子が思ひやられる態度です。
「お銀さんは船の中にゐなかつたやうだね」
「私は、留守番よ、居候の役目ぢやないの──尤も船に乘つてゐたら、私も殺されたかも知れない──良い女が四人もやられたんですつてね」
かう言つた調子、いかにも八五郎と馬が合ひさうです。
「奧へ案内してくれ、兎も角も」
「さア〳〵、どうぞ、今日は皆んな面食らつて、掃除をする人もないんですもの。こんなに散らばつてゐるでせう」
お銀はそれでも、いそ〳〵と二人を奧へ導くのです。
「錢形の親分か、──これは何んとしたことだらう。たつた十九の嫁入前の娘に、何んの怨みがあつての仕業だらう」
板倉屋の主人久兵衞は、名だたる分別者ですが、娘の不慮の死に取りのぼせたものか、挨拶も拔きにこんな愚痴を言ふのです。
「お氣の毒なことで」
平次は答へる言葉もありません。
「曲者は殺されたと聽いたが、何んだつてこんなことを仕出來したか。大方の目星はついたことでせうな、親分」
「いや、まだ、何んにも見當はつきませんが」
「それは?」
板倉屋久兵衞、甚だ平らかでない樣子です。商賣物の御藏米の取引などは、右から左へ、何んのこだはりもなく扱つてゐるので、江戸一番の御用聞の錢形平次は、眼の前で起つた事件の解決などは、煙草三服のうちに埒をあけるものと思つてゐるのでせう。
「いろ〳〵伺はなきやなりません。先づ旦那は、半弓の名人で、三十三間堂前に楊弓場を開いてゐる、半九郎を御存じでせうか」
「いや、少しも知らない、私は楊弓も半弓も大嫌ひで」
五十年輩の堅いので通つた大町人が、そんなところに出入りする筈もありません。
「お店を怨む者の御心當りはございませんか」
「ないとは言へないが、商賣の方のいざこざは、皆んな御武家が相手だから、まさか、半弓で罪もない娘を殺す筈はあるまいと思ふ」
「いかにも」
「船に乘つてゐたのはが娘を殺す筈もなく、あの晩船に乘らないのを詮議すると、これは當てもないことになるが」
「その船に乘つたのは、どんな顏觸れでせう?」
「手代の周次郎──年は若いが確りものだ。御浪人の近藤宇太八樣用心棒と言つては失禮に當るが、何彼とお世話になつてゐる。尤も武藝よりは碁の方が強い、──それに、幇間の豊年、名前は豊年だがこの上もなく貧乏臭い男だ。私の女房のお篠──これは娘に死なれて氣を落して寢てゐる。お絹の妹のお鳥、たつた十六の娘だ。弟の久太郎、これは私のたつた一人の男の子で十二になつたばかり。あとは船頭の友吉──十年も出入りしてゐる」
「──」
「藝者の小奴にお春、御存じだらう、芳町の良い顏だ。ほかには、さう〳〵手代の新六郎、これは私の甥で、お絹とは從兄妹同士、十二の時孤兒になつて、それから十年もの間この家で育つてゐる。私の兄の子だ、──いづれお絹と一緒にして札差の株を買つて店を持たせるつもりだ。内々披露までしてあるが、十二月の末、立春になつたら盃事をさせる筈であつたが──」
「──」
「氣の毒なことに、娘に死なれて、この新六郎は一番氣を落した。昨夜から男泣きに泣き續けてゐるが、夜が明けてから、二度までも自害をしようとして、一度はお銀に脇差を取上げられ、一度は梁に帶などを下げて、周次郎に見付けられてゐる。この上何をやりだすかわからないので、周次郎に見張らせてゐるが、──困つたことだよ」
主人の久兵衞は、自分の歎きも忘れて、若い者の無分別さを苦々しがるのです。
「すると、お孃樣と、手代の新六郎さんと、掛り人のお銀さんは、從兄妹同士になるわけで?」
平次は口を挾みました。
「いや、從兄同士とはいふものの、血のつながりは遠くなります。新六郎の父親は、この坂倉屋の先代で、私には義理の兄に當り、お銀の母親は、私の義兄の妹で、これも私の娘のお絹とは名ばかりの從姉同士になります」
「そのお銀さんは、昨夜は留守番だつたさうですね」
「下男の圓三郎と二人だけ、店の留守をしてをりました。圓三郎は喘息があつて夜分は外へ出るのを嫌がりますし、お銀はまだ髮が本當に揃はないと言つて、人に顏を見られるのを嫌ひます」
「外から、斷つてお孃さんを欲しいと言つた、御縁談の口はありませんでしたか」
「隨分、そんな口もありましたよ。でも近頃では、新六郎と一緒にするとわかつて、そんなことを言ひ出す者もありません」
「妹のお鳥さんの方には」
「これはまだ子供で」
「お銀さんは?」
「十八の年に變な男に騙されてすつかり懲りたものか、近頃は尼寺に入るなどと、無法なことを言つて困らせてゐる。でもあの通り明けつ放しの女だし、きりやうも滿更でないから、いづれ髮が伸び次第良縁を搜してやりたいと思つてゐますよ」
「では、こんなことにして、佛樣を」
平次は、主人の久兵衞に案内されて、その豪華な部屋から、芝居の大道具のやうな、凝りに凝つた廻り縁に出ました。
奧の佛間──と言つても、次の間付きの十二疊半、さすがに巨富を誇る板倉屋の調度は眼を驚かせます。
型の如く逆さ屏風、經机に名香が煙つて、娘お絹の死骸は、贅澤な絹夜具の上に横たへてあるのです。
平次は丁寧に拜んで近づくと、死顏の上を覆つた白い布を取りました。
「──」
ハツと息を呑んだほどの、それは痛々しい美しさです。十九の厄、娘ざかりの凝脂が、死もまた奪ふ由もない魅力をたゝへて、閉ざしても閉ざしても、自分を殺した下手人を追ひ求めてゐるやうな、大きく見開いた眼、多量の出血に蒼白くなつた皮膚、それにも拘はらず生きてゐるうちの豊滿な美しさを、十分に偲ばせるのも哀れ深い姿です。
傷は白布を卷いて隱してをりました。八五郎にほどかせると、玉を伸べたやうな首筋がパクリと、口をあきます。
「八、お前は不思議だと思はないか」
「何んです、親分」
平次は八五郎を顧みながら續けました。
「あの矢の根は物凄かつたが、矢が當つてついた傷なら、眞つすぐに突き貫ける筈。ところが、この傷は抉れてゐる」
「へエー」
「そんなことがあるだらうか、──多勢の者の見てゐる前でやられたのだから、間違ひもあるまいが」
「──」
「おや」
平次は後ろを振り向きました。襖の陰から、激しい男の泣きじやくる聲が聞えたのです。
「あの通りで、まことに困つてをります。いくら何んでも、泣き過ぎては、娘の冥途の障りになるからと、向うへ追ひやつても、また直ぐ戻ります」
主人の久兵衞は苦々しがるのです。襖を開くと、泣いてゐるのは許婚の新六郎で、大の男のくせに見榮も外聞もなく、たゞ滅茶々々に泣いてゐる有樣でした。
二十二といふ立派な男、少し華奢ではあるが、背が高くて色が淺黒くて、派手で豊麗でさへあつた許嫁のお絹とは、申分のない一對だつたでせう。
「親分さん、この敵は誰でせう──あんまり、あんまりひどいことをします」
「待つてくれ、番頭さん。この敵は半弓の半九郎ぢやないか。兩國橋の上で、もう誰かに殺されて死んでしまつた筈だぜ」
平次は慰め顏にかう言ひました。
「では、矢張り、あの男が曲者だつたでせうか。あの男が」
「お前さんは、あの男を知つてゐたのか」
「知りやしません、人の話で聽きました。橋の下から、何人もの若い女の人を、半弓で射た者があると」
「その中で殺されたのはお孃さん一人だ──お孃さんは、半九郎を知つてゐたのかな」
「あんな不氣味な男を、知つてる筈はありません」
「まア、急には諦められないだらうが、心を落ちつけて、線香でも上げるが宜い。泣いてばかりゐちや、佛樣のためにも良くはあるまい」
「──」
「ところで、旦那」
平次は主人の久兵衞の方に向きを變へました。
「ハイ、何んか、御用で?」
「少しお訊きしたいことがありますが、次の間までお顏を」
「ハイ、ハイ」
板倉屋久兵衞は、平次に誘はれて、次の間に顏を出しました。
「お孃さんが亡くなつたばかりのところへ、こんなことを訊くのは氣がなさ過ぎますが、調べの都合と思つて、勘辨して下さい」
「──」
「この後、新六郎さんはどうなりませう。お孃樣が亡くなれば唯の奉公人になるわけですが──」
平次の問は妙に突つ込みました。
「いや、あれは、私のためには義理のある兄の子で──一季半季の奉公人とは違ひます。いづれ本人達の望みも確かめた上、妹娘のお鳥に娶合せるか、それとも、一度は髮まで切りましたが從姉妹のお銀と一緒にして世帶を持たせるか──まア、そんなことは訊かないで下さい。私は死んだ娘のことで一杯だから」
「──」
「この上は成るやうにさせるほかはありません」
「おや?」
平次は廊下の障子をサツと開けました。誰かが、ヒラリと納戸に隱れた樣子です。
「どうかしましたか、親分」
「いや、なに」
「あれは、下男の圓三郎ですよ。ひどい喘息があるので、人の話の立ち聽きだけは出來ないと笑つてをりますが」
「ちよいと、あの男を呼んで下さいませんか」
「おい、圓三郎、──ちよいと來てくれ、錢形の親分が、訊きたいことがあると仰しやる」
主人の久兵衞は四方かまはぬ聲で、納戸の男を呼出します。
「此方へ來るが宜い。お前は今何を聽いた?」
平次は下男の圓三郎を庭の方に誘ひ出しながら、嚴しい調子で訊ねました。
「何んにも聽きやしません、──私は線香をあげるつもりで、縁側に參りますと、旦那樣と親分方がいらしつて、驚いただけのことで、へエ」
「お前は、此家に何年ゐるんだ」
「二十五、六年にもなりませうか。御先代が繁昌していらつしやる頃からの奉公でございます」
圓三郎は鼻を揉み上げました。六十にしては、ひどく弱つてをり、下男といふのは名ばかりで、飼ひ殺し見たいなものでせう。
「家はあるのか」
「昔は女房子もありましたが、女房も伜も早死をして、今では私一人殘つてしまひました。いづれは、死ぬまで御當家の御厄介になることでございませう」
「御主人はよくしてくれるのか」
「それはもう、申分のない御主人樣で、今では少しばかりですが、私もほまちも出來ました。有難いことで」
「そいつは豪儀だね。いくら溜めたんだ、貸せとは言はないが」
「へエ、──五、六兩も溜まりましたでせうか、皆な御主人樣にお預けしてあります」
「二十五、六年も奉公をして、たつた五、六兩しか溜まらなかつたのか、少し心細いやうだが」
「若い頃は遊びもし、勝負事もいたしました。それから女房を持つたり、伜に死なれたり、年に一兩の給金では、溜まるわけも御座いません」
「成程、そんな勘定になるかな──ところで、爺さんは、昨夜、留守番をしてゐたさうぢやないか」
「いくら八月十五日でも、私は夜の川風は毒でございます。お銀さんと一緒に、飛んだ面白い留守番でございましたよ」
「何をしてゐたんだ」
「鬼の留守で、へツ〳〵、こんなことを言つちや惡うございますが、お銀さんが腕に撚をかけて御馳走を拵へ──私はまた、昔の惚氣をうんと聽かせてやりました。尤も、私の惚氣は死んだ女房が嫁に來たときの話で、もうすつかり黴が生えてをりますが、二年前に髮まで切つたお銀さんには、惚氣くらべぢや叶ひつこはありませんが──」
圓三郎はその時のことを思ひ出したか、相好を崩して話すのでした。
「ほかに變つたことはなかつたのか」
「何んにもございませんよ。たゞもう、つまらない昔話で」
「よし〳〵歸つても宜いよ」
平次はそれを見送ると、もう一度母屋へ入つて行きました。八五郎はほかの雇人達を、誰彼とつかまへては、昨夜のことを聽いてゐる樣子です。
「八、お前はお銀さんに、昨夜のことを訊いてくれ。下男の圓三郎と何をしてゐたか、それとはなしに訊くんだ、──丁度、お銀さんは、お勝手にゐるやうだ、俺はもう一度庭に引返して、圓三郎に訊いて見ることがある」
「へエ」
八五郎はお勝手の方へ行くと、平次は庭に引返して、まだその邊に愚圖々々してゐる下男の圓三郎をつかまへました。
「なア、爺さん」
「へエ、へエ」
庭と言つたところで、ほんの庇の下の五、六坪、その邊にも圓三郎のほかに、近所の人達や、親類の人達が一ぱいに詰めてをりますが、平次の顏を見ると、そこ〳〵に姿を隱してしまひます。
「お絹さんと、仲の良い男はなかつたのか。娘が十九にもなつてあの通り色つぽいんだから」
「そんなことはございませんよ、新六郎さんと、厄が明けるのを待つて、祝言することになつてゐたんですもの。それに、新六郎さんは、あんなに良い男だし」
「先代の板倉屋さんは、矢張り久兵衞と言つたやうだね」
「へエ、新六郎さんの實の親で良い方でございました。人が好過ぎて、商賣の手違ひから、危なく身代限りになり、板倉屋の株まで賣りに出したのを、弟分の今の御主人が買ひ取つて、この身上を立て直しましたが」
「そんな話も、俺は子供心に聽き覺えがあるよ。それから、先代の主人はどうした」
「この店を今の主人に讓つてから一年とも經たないうちに、霍亂とやらで亡くなりました。今から十年も前のことでございます。それに續いて、先代の御内儀も、お氣の毒なことに、まだ四十そこ〳〵で、秋の虫が泣き死ぬやうに、芯から弱つて亡くなりましたが──」
下男の圓三郎は涙を呑むのです。
「それからお銀は邪魔物扱ひにされてゐるわけではないのか。あの通り口が惡くて、それに先代の姪に當るから、今の主人夫婦も遠慮があるだらう」
「あの女は可哀想ですよ。たつた十七か十八の小娘のとき、惡い武家に騙されて、驅落などをしたばかりに、髮まで切つて、奉公人同樣に使はれてゐまさア、──これだけの大世帶に下女一人置かないんだから、全く樂ぢやありませんよ」
「それにしちや、お銀さんは、陽氣で明けつ放しぢやないか」
「性分ですね」
「もう一人、手代の周次郎は?」
「お絹さんをモノにしようと、隨分骨を折つたやうですが、お絹さんは新六郎どんに夢中だつたので、近頃はお宗旨を變へて、妹のお鳥さんに取入つてゐるやうで、──何んと言つても、まだ十六のおぼこぢや、色男も骨が折れますね」
圓三郎の舌は次第に圓滑に動きます。最初遠慮してゐたのが、平次の問ひにつれて、次第に日頃の鬱憤が點火されて行くのでせう。
「一緒に船に乘つた、近藤宇太八さんとかいふ御浪人は」
「四十臺の幇間侍で、旦那と碁を打つて、負けることばかりに骨を折つてる人です」
「あとは通ひの番頭と男衆だけでも十何人、それは昨夜船に見えなかつたやうだな。それから船頭の友吉は?」
「出入りの船宿で顏を合せるだけ、この店へは滅多に顏を出したこともありません」
「小奴にお春といふ藝子も乘つてゐたさうだが、──」
「藝者とは縁の遠い旦那ですよ。札差といふ商賣柄で、たまには札旦那の方々と呑むこともあるでせうが、──幇間の豊年坊主なんか、ろくに御祝儀にもありつけないから、陰へ廻ると散々の惡口で」
圓三郎の舌はなか〳〵に辛辣です。
平次と八五郎は、御藏前の往來に出ると、銘々の報告を、遠慮のない調子で始めました。
「ひどい目にあつたのは、あの内儀の愚痴ですよ。あつしは最初から受け太刀で、何を訊く隙もありやしません。娘を生かして還せと言はれなかつたのが、まだしもみつけもので」
「諦めろよ。あれだけの娘を殺された親だもの」
「さう言へばそれに違ひないが」
「ところで、周次郎に逢つたか」
「逢ひましたよ、隨分嫌な野郎で、──お孃さんが、氣が多過ぎたから、あんなことになるんだ──なんて、變なことを言つてゐましたぜ」
「尤も、お絹が新六郎と許婚になる前は、あの手代の周次郎が、精一杯に口説いたらしいよ。板倉屋の婿になる氣だつたに違ひない。お絹が、どうしても頭を縱に振らないから、近頃は妹のお鳥に乘り換へて、一生懸命御機嫌を取つてゐるさうだ」
「その周次郎が、振られた怨みで、お絹をどうかしたんぢやありませんか」
「周次郎は弓も鐵砲もいけないし、それにあの時お絹から遠く距れてゐた筈だ」
「へエ、それにしても、あの野郎は目を離せない野郎ですね。算盤ずくで女の子を口説く野郎なんかは、男の屑みたいなもので」
「尤も八五郎なんかは、女の子を口説いて損ばかりしてゐる、──ところで、お銀は昨夜何をしてゐたんだ」
平次は漸く問題の焦點に入りました。
「自分の部屋で、お仕事をしたり、ものを考へたり、あの騷ぎのあるまで、人と口をきかなかつたと言ひますよ。尤も、日の暮れる前からお仕事をするまでは、お勝手で働いてゐたといふことですが──」
「下男の圓三郎と一緒ではなかつたのか」
「圓三郎は下男部屋にゐるし、お銀はお勝手と自分の部屋にゐるから、顏も合せなかつたといふことです。それに、あの下男は、妙に依怙地で、先代の旦那のことばかり引合ひに出すから、家中の嫌はれものですよ」
「お銀もその先代の主人の姪ぢやないか」
「それには違ひないが、圓三郎は若い者をつかまへて、妙に意見がましいことを言ふから、お銀とは性が合はないやうです、──ケチな野郎と意見を言ふ奴は大嫌ひですつて。人が髮を切らうと心中をしようと、勝手ぢやないか、糞でも食らへ──とね、これはお銀のせりふで、あられもない年増で」
「あられがなきや菱餅で間に合はせろ、──ところで、これから横川町の伊豆屋と、本郷丸山の本田樣のところへ行くが、付き合つて見るか」
「何處へでも行きますよ。でも四人の女が、半九郎の駕籠半弓でやられたとわかつてゐるんだから、歩くだけ無駄ぢやありませんか。半九郎は死んでしまゝつたことだし」
八女郎には、平次の張り切つた動きが呑み込めません。
「さうかも知れないよ。が、腑に落ちないことがうんとあるんだ」
「へエ、あつしなんか腑に落ち過ぎて困つてゐるが──」
「お前の腑なんてものは、お前の財布と同樣で、底が淺過ぎるのだよ、──この一件には、底の知れないほどの深いものがある──」
平次は歩きながら考へ込んでしまひました。
「八、俺は妙なことを考へたよ」
平次は急に足を淀ませました。
「何んです、親分」
八五郎はその踵を踏みさうにして立ち止りました。彌造が崩れて鼻の下が長くなります。
「お銀と圓三郎は、仲が惡いと言つたな」
「そんな評判ですね。お銀は明けつ放しで、少し浮氣つぽい上に、若い女のくせに遠慮のない口をきくでせう」
「?」
「圓三郎は、少し氣むづかしくて、意見を言ふのが好きで、口がうるさいと來てゐるでせう」
八五郎は二人の性格の違ひを竝べます。
「ところで、圓三郎は先代の久兵衞のことばかり口癖に言つて、今の主人の久兵衞はあまり仲がよくねえやうだ。口では大層恩になつてゐるやうなことを言つてるくせに、顏はニヤニヤ笑つてゐたし、年に一兩の給金で二十五年も働いて、たつた五、六兩溜めるやうぢや、隨分癪にもさはるだらう──それにあの男は、先代の久兵衞の話が出ると、涙ぐんでゐたぜ」
「さうですかね」
八五郎には、其處までは眼が屆かなかつたのです。
「お銀は先代の久兵衞の姪で、若くて綺麗で、あの通り人なつこい女だ。あんな肌合の若い女を、先代の恩を忘れずにゐる、六十の年寄──それも身體が自由でなくて朝夕お銀の世話になつてゐる圓三郎が、目の敵にする筈はない。ちよいと樣子を見ただけでも、お銀は圓三郎の袷のほころびを縫つてゐた樣子だ──お銀の部屋に、田舍縞の袷と、淺黄の股引のあつたのを、お前も見たらう」
「氣がつきませんでしたね」
「そんな心掛けだから、何時まで經つても、お前は良い御用聞になれないのだよ」
「相濟みません」
八五郎は小鬢を掻いて、ヒヨイと頭を下げました。かういふところだけは、小學校の一年生のやうに素直です。
「昨夜、圓三郎はお銀と一緒に面白可笑しく話してゐたと言ふし、お銀は圓三郎と口もきかないと言つた、──二人の口はまつたく合はないのはどうしたわけだ」
「あつしもそれを變だと思ひましたよ」
「兩國橋の上で、半弓の半九郎を刺し殺したのは女だ、──フト俺は、その曲者は、お銀ぢやあるまいかと思つたが、若しお銀が曲者で、圓三郎と相談してやつたことなら、二人は豫て口を合せて置く筈だ。お銀一人の思ひつきでやつたことなら、拔け出したのを、圓三郎が氣のつかない筈はない」
「なるほどね」
「二人の口の合はないのは、──兩國橋の上で半九郎が女に刺されたと聽いて、圓三郎は日頃のお銀の氣性も知つてゐるし、今の主人の久兵衞とその娘のお絹をよく思つてゐないから、半九郎殺しの疑ひが、お銀にかゝつては氣の毒だと思ひ、餘計な細工をして、お銀を助ける氣ではなかつたのかな」
「待つて下さい、親分、あんまり話がこんがらかつて、あつしは頭がモヤモヤして來ました。こんな時は、一杯飮んで景氣をつけなきや結構な智惠が浮かびませんよ」
八五郎は到頭悲鳴をあげてしまひました。
「話が少し混んがらかつたやうだ。一切御破算にして、──圓三郎はお銀を庇ひ立てして、つまらねえ拵へごとを言つた──といふことだけはお前にもわかるだらう」
「へエ」
八五郎は顏中に引つ掛つた蜘蛛の巣を拂ひのけるやうな恰好をしました。どうもむづかしい考へ事は得手ではありません。
「そこで、お前と俺が相談したところで始まらねえ、大事な活證人があつたんだから、それを伴れて來て、首實驗をするのが一番早い、──り組の若い者磯吉──あの男は半九郎を刺し殺した女を見てゐる筈だ。凄いほど良い女だから、今度顏を見れば、きつとわかると言つた筈だ」
「あ、成る程」
「お前は、り組の鳶頭のところへ行つて、磯吉を探し出し、板倉屋へ連れて行つて首實驗をしてくれ」
「そんなことなら、わけもありませんや」
「たつたそれだけのことだが、お銀に覺られないやうに、うまくやるんだよ」
「へエ」
「それから、幇間の豊年と、浪人者の近藤宇太八にも、一度は逢つて置きたい。お前は瀬踏みをして置いてくれないか。後の者はその日限りの船頭や藝子だが、あの二人は板倉屋にどんな引つ掛りがあるか、身持や金廻りはどんな具合か?」
「親分は?」
「俺は横川町の伊豆屋から、本郷丸山の本田樣まで廻つてみる」
平次の探索は、大變な大きな網になりました。が、殺されたり怪我をさせられたもの、全部を調べるとなると、かうするほかはなかつたのです。
横川町の伊豆屋は、かなりの呉服問屋で、主人の勘六は六十近い年輩、その伜は二十五、六の働き者で、嫁のお菊といふのは二十二、平次が訪ねて行つた時は、まだ奧に寢かしてありました。
「親分、御苦勞樣で」
「飛んだ災難でしたね。怪我の樣子は?」
「もう元氣で、起き出さうとするのを、寢かして置くのに骨が折れます。もう破傷風の心配もないさうですから」
嫁の側に付ききりらしい、伜の勘三郎が説明してくれます。
「暫らくの間、はづして貰ひたいが」
嫁の口から言ひにくいこともあらうかと、舅、姑も、夫の勘三郎までも、席を遠慮させて、さて平次は膝を進めました。
「御新造、遠慮のないことを、正直に打ち明けて貰ひたいが──」
「ハイ」
お菊は半元服の美しい眉をあげて愼しみ深く床の上に起き直りました。肩から首へ繃帶をしてをりますが、若々しさに張り切つた、いかにも良い嫁です。
「誰かに、こんなことをされる心當りはないだらうか」
平次の問ひは無遠慮ですが、かう言つて、正直さうなお菊の顏に往來する表情を讀みます。
「私には何んにもわかりませんが」
お菊の顏には、何んの動きもありません。
聽いて見ると、このお菊といふ嫁は、この五月に下田から嫁に來たばかり、里は豪家で、伊豆屋とは祖先が縁續きで、わけても先代から懇意な間柄といふことがわかりました。
江戸と下田では、あまり近いところではなく、何んか舊怨のある者があつたにしても、嫁のお菊が三人の若い女と一緒に、一となめしにやられるのは受取り兼ねることです。
平次はこの美しくはあるが、何んとなく鄙びた感じの嫁を慰めて伊豆屋を引上げるほかはなかつたのです。主人の勘六はまことに穩かな町人、伜の勘三郎も、評判の孝行者で、人に怨みを受けるやうな人柄ではありません。
横川町から本郷の丸山へ、割り切れない心持で辿りました。半弓の半九郎が、氣が變になつたのでなければ、何んのために若い女四人までも狙つたのでせう。お勝手の落しに忍ばせた五十兩は、決して氣違ひ沙汰のすることではなく、この事件に深い意味のあることは、あまりにも明らかです。
本郷丸山の本田傳右衞門は、千石取りの旗本で、申分のない立派な武家でした。今度お役付になつたので、その心祝ひに呼んだ同僚や朋輩、七、八人の取持ちにつれて行つた娘のお節、十八になつたばかりの、目出度くも可愛らしいのが、凉み船に飛んで來た矢に、右の耳朶を射られましたが、傷が淺かつたので、無二膏を貼つただけで濟ませてをります。
「大したことはあるまいが、嫁入前の娘に怪我をさしては捨て置き難い。聽けば半九郎とやら言ふ男が、半弓で射たといふことだが、その半九郎も殺されたさうではないか。その半九郎が誰かに嗾かけられたに違ひあるまい。どうぢや平次、その半九郎を操つた曲者はわかつたかな」
主人の本田傳右衞門は、平次を庭先から通して、縁側に腰を掛けたまゝ、かう言ふのです。
「恐れ入りますが、ちよつとお孃樣にお目に掛つて、直々その時の樣子を伺ひたいと存じますが──」
「無駄だらうよ、拙者でさへ見窮めかねた。闇を飛んで來た矢を娘にわかる筈もない」
さう言ひながらも、手を拍つて内儀を呼び寄せ、それに申しつけて、娘のお節を呼び出させました。
言葉少なに控へた十八の娘、色白で、上品で、ノツペリして、美人系に屬する顏立ちには違ひありませんが、一と言、二た言話してゐるうち、この娘があまり賢こくないことに平次は氣がつきました。顏がきりやう自慢で、客の前にも好んで出す樣子ですが、智惠の廻りは至つて遲く、受け應への發火點も低くて、何を訊いても埒があきません。
親は家柄のよい、出世にも無理のない本田傳右衞門、内儀は五十近く、娘が少々白痴美では、どう考へても人に怨みを受ける筈もありません。
「では、御大事に、お怪我の方ももう大丈夫と存じますが」
平次は氣休めを言つて引下がるほかはなかつたのです。
「幸ひ、大した痕も殘るまいといふことぢや、──しかし、半九郎は死んでも、嗾かけた者があるだらう。その邊拔かりのないやうに」
と、本田傳右衞門は尚も念を入れるのでした。
その晩、明神下の平次の家へ、八五郎がやつて來たのは、もう戌刻半(九時)過ぎ、少し醉つてをりました。
「大層な機嫌ぢやねえか。何處でお濕りにありついたんだ」
平次は眼顏でその邊を片付けさせて、それでも機嫌よく迎へると、
「相濟みません、飛んだ勸め上手な女につかまつて、尻込みしながら、到頭盛りつぶされてしまひました」
他愛、他愛、──八五郎は泳ぐやうな手つきで、ドカリと尻餅をつくのです。
「仕樣がねえなア、仕事の途中で呑んではいけないと、あれほど言つてゐるのに」
「大丈夫で、醉つてはゐるが、親分に言ひつけられた仕事はちやんと──へツ、へツ、憚り乍らお剩錢を貰ひたいくらゐ、立派にやり遂げて參りましたよ。へツ」
念入りにシヤツクリの合の手の入るほどの報告です。
「それぢや、先づ聽かうか、り組の磯吉とお銀を引合せたのか」
平次はお白洲の代官樣のやうに開き直りました。
「へツ、こいつは大笑ひだ。日本一の大笑ひでしたよ」
「何が大笑ひだ」
「り組の若い者が、御藏前のお銀を知らないと思つたのが大笑ひで、──何んにも言はずに此方へ來い、あとで一杯附き合ふからと、板倉屋の前へ誘つて行つて、お銀を呼出して突き合せると──あらまア、磯吉兄さん、久し振りだねえ、新色でも出來たのかえ──といふ挨拶だ」
「お銀はさう言つたのか」
「その通りで、──手拭を取らないけれど、私はまだ髮が生え揃はないんだから、勘辨しておくれ──といふわけ」
「フーム」
「二人は前から知つてゐるのか──と訊くと」
「下谷淺草の若い者で、お銀さんを知らなきや──男の耻だとね」
「兩國橋の上の話は出なかつたのか」
「出ましたよ、お銀の方から、──磯吉さんは、半九郎の殺されるのを見たんだつてね。下手人は美い女だつたさうぢやないか──ちよいと私より良い女?──と來ちや、あつしは見事に敗北だ」
「すると?」
「磯吉も負けちやゐないや、──毛が生え揃つてゐるだけでも、人殺し女の方が良かつたかも知れない。細面の、少し色の蒼黒い、口紅だけつけた顏は、そりや凄かつたぜ。浴衣の袖の中に匕首を隱してズブリとやつたんだから──といふ話で」
「よし〳〵、それでよくわかつたよ。下手人は矢張りお銀ぢやあるまい。一寸でもあの女を疑つたのは惡かつたが、物事は矢張りトコトンまで調べて見ることだ。そこで──?」
平次は八五郎の醉態の容易でないのを見て、その先を促しました。
「これからが大變で」
「何が大變なんだ」
「近藤宇太八といふ浪人者、ありや大變な二本差ですね。もう四十近いでせうが、金のある町人のところを、渡り用人棒で歩きながら、野幇間よりも情けねえ暮しをしてゐますよ」
江戸時代の武家は、悉く武藝が出來て、剛直で、廉潔で、庶民の龜鑑になるものばかりであつたと思つたら、それは大變な間違ひです。
中には大阪の陣以來、祖先傳來の浪人で箸にも棒にも掛らぬ手合があり、押借、強請、喧嘩口論を渡世にする者も、博奕打や裕福な町人の用心棒になつて生涯をブラブラと暮して了ふ者も少なくはなかつたのです。
「あの近藤といふ浪人には驚きましたよ。あつしが、鳥越の浪宅を訪ねて行くと待つてましたとばかりに直ぐ酒だ。御用聞のあつしを、因縁も義理もないのに、いきなり酒で口を塞がうといふくらゐだから、ありや、餘つ程惡い尻を持つた人間ですね」
八五郎にはまた八五郎の哲學があるのです。それを承知の上で、便々と酌み交すところに八五郎の人の好さ──といふよりは神經の太さがあるのでせう。
「それで、あの浪人者には、大したこともないのか」
「ありやしません。四十過ぎの羊羹色の羽織、わざと碁に負けてお小遣と酒にありつくやうな浪人者が、ピカピカするやうな、美しい娘に引つ掛りがあるわけもないぢやありませんか──尤も板倉屋の主人と碁を打つてゐても、いざ賭けとなりや、あの浪人者の方がきつと勝つんださうで、何んにも賭けなきや、此方が負けるに極つてゐる──と本人が言ふんだから、心得たものでせう」
「それつ切りか」
「それつ切りですよ。癪にさはる程何んにもありやしません。それからあつしは、豊年坊主の方を探りましたがね」
「フーン」
「あの坊主は、氣のふれた鼬みたいに、何處の穴へでももぐり込むんだから、人相書を持つても搜しやうはありません」
「──」
「斯く元柳橋の娘のところにゐるのを見付けて、首根つこをつまみあげて見ましたがね」
「あの坊主に娘があるのか」
「元柳橋のお幾、──踊の師匠で良い女ですぜ。親分は御存じありませんか」
「知つてるよ、──あれが豊年坊主の娘とは知らなかつた」
「あつしも初めて知つたんで。尤も、あんな親爺があると知れちや、師匠の人氣に拘はるからと、秘し隱しに隱してゐたのが、近頃お幾が病氣で寢込んでしまつて、身内の者が側にゐないと心細いからと、あのノラクラ親爺の豊年坊主を呼び寄せたんださうで──何しろ内弟子も二人までゐるが、花火が始まつたと言つちや飛出し、お祭があると言つちや脱け出し、おかげで半病人のお幾が一人で留守番までするから、お勝手に目が屆かなくて、空巣狙ひに入られるといふ騷ぎでせう」
「──」
「あつしが搜し出して行くと、──まア、八五郎さん、珍らしいぢやないか。どんな風の吹き廻しで、こんなところへやつて來たの。私が三年越し岡惚れしてゐることを今晩こそは聽かせてやるから、何が何でも入つてゆつくりしろ──と、親爺の前で惚氣を聞かせながら、また酒が始まつたでせう、いや、もう」
八五郎はまた、フラフラと手を泳がせて仕方話になるのです。
「それつ切りか」
平次は何やら考込みながら、八五郎を促しました。ものの判斷は覺束ないが、見ることと聞くことは人後に落ちない筈の八五郎です。
「それで總仕舞で、へツ」
兩手をパツと開いて、肩をすくめます。
「お幾の顏ばかり眺めて來たんだらう」
「さうでもありませんがね」
「例へば、お幾に男があるかないか、大事なことをお前は聽き漏らしてるぢやないか」
「そんな間拔けなことは訊かれませんよ。散々油を掛けられてるあつしが、面と向つて、師匠にいゝ人があるかえ──なんて」
かう言つた八五郎です。
「だから間拔けだと言ふんだよ、──家にヂツとしてゐても、俺の方は調べが屆いてゐるんだから、恐れ入つたらう」
「へエ、誰です、そのお幾の男といふのは?」
「八五郎でないことは確かだ」
「あつしもそんな氣はしませんがね。尤も先刻の寸法ぢや、へツ〳〵」
「馬鹿だな、──お幾は人をそらさないで評判を取つた女だ。踊よりお世辭がうまいと言はれてゐるのを、お前も聽いたことがあるだらう」
「すると、あつしをつかまへていきなり──三年越しの岡惚れだ──なんて言つたのもお世辭かな」
「まだあんなことを言つてやがる。少し顏の寸法を詰めな、涎が流れさうで、先刻から氣になつてならねえ」
「ところで、そのお幾の良い人といふのは誰です、親分」
「まだそんなことに憑かれてゐるのか、元金は高けえが、ブチまけて置かうよ、──お幾の良い人といふのは、それ、板倉屋の新六郎──先代久兵衞の伜で、殺されたお絹の許婚と聽いたら少しは驚くだらう」
「え、本當ですか、親分」
「お前が働いてゐるうち、俺は晝寢でもしてゐたと思ふのか。兩國から御藏前、柳橋から濱町河岸へかけて、精一杯訊いて廻つたよ」
「へエ、成る程ね。そんなことがあつたんですか、へエ」
「何を感心してゐるんだ。尤も近頃では新六郎も、板倉屋の身上が欲しくなつたか、お幾のところへは、滅多に近寄らない。お幾はそれでヤキモキして、癪を起したり氣が短くなつたり、内弟子の子供達も樂ぢやないといふことだよ」
「へエ」
「ところで、もう一つ、半九郎を殺した片袖──と言つても、半分千切つて捨てた袖だが、あの血だらけの袖は、何處から出た浴衣か、それもわかつたよ」
「へエ、そいつは、良い證據になりますね。誰の着た浴衣なんで?」
「去年の盆に、御藏前の板藏屋から、お中元に出た浴衣だ」
「えツ」
「五十反は出てゐるさうだ。出入りの者は大抵貰つてゐるだらう──元柳橋のお幾も一反貰つた筈だと、板倉屋の店の者はさう言つてゐる、──明日はお幾の家へ俺が行つて見よう」
これは少し厄介なことになります。
その翌る日でした。相變らずまだ朝飯も濟ぬうちから、明神下の平次の家を、八五郎が覗くのです。
「お早やう、親分、今日は何處へ行きませう」
「大層寢起きが良いな、昨夜は大層醉つてゐたが、何んともないのか」
「やけに眼がよく覺めましたよ。尤も、仕事があると、寢ちやゐられない性分ですがね」
八五郎は長んがい顎を撫でます。
「嘘を吐きやがれ、──今日はお幾のところへ行くと聽いて、あわてて飛起きて來やがつたらう──顏を洗つたのか」
「へツ、口が惡いな、──行く先が先だから、今日は鹽磨きでさ」
「あんまり鹽をきかせると、お前の顏は段々ヒネ澤庵見たいになるよ」
無駄を言ひながら、平次は仕度をしました。
「さア、出かけませう」
「どつこい、──お前は兩國へ行つてくれ。半九郎を刺した匕首の鞘が、何處かに落ちてゐる筈だ」
「冗談ぢやありませんよ。一昨日の晩あの人混みの中で、曲者が捨てた匕首の鞘なんか、橋の上に何時までも逗留してゐるわけはないぢやありませんか。とつくの昔に大川へ落ちて、今頃は安房上總の漁師の子の玩具になつてゐますよ」
「ハツハツ、むきになりやがつたな。まア宜い、匕首の鞘は暮までに搜すとして、矢張り元柳橋のお幾のところへ行かうか」
「さう來なくちや」
と言つた八五郎の甘さでした。
尤も、八五郎がさう言ふだけのことはありました。平次と二人、つながつて元柳橋の家へ行くと、師匠のお幾はまだ起きたばかり。二人の内弟子は、大尻端折の、色氣のない恰好で格子を磨き、居間には青い顏をしたお幾と、これはまた、對蹠的に赤い禿頭の父親の豊年坊主が、火のない火鉢を挾んで、朝の煙草にしてゐたのです。
「おや、まア、錢形の親分。私はこんな風をして極りが惡い。いらつしやるならいらつしやると、八五郎さんでも先觸れさして下されば宜いのに」
お幾は髮を掻き撫でたり、居住ひを直したり、まことにいそ〳〵として二人を迎へました。
「濟まなかつたな、朝つぱら飛込んで。稼業が稼業だから、忙しくなると、遠慮ばかりもしてゐられないのだよ」
「いえ、そんなこと構やしません。朝だつて夜だつて、三年越しの私の岡惚れの親分だもの、お顏を見せて下さりや、本望」
お幾はさう言つて、押入から座布團を出して、それを赤ん坊のやうに抱いて、ちよいと見えないやうに頬ずりして、平次の方へ滑らせるのです。踊で鍛へた、非凡の色氣です。
それを聽くと、平次の肘は、グイと八五郎の横つ腹を小突きました。『三年越しの岡惚れ』と言はれて、すつかり嬉しがつた人間がその邊にもう一人ゐることを思ひ知らせたのです。
だが、その齒の浮くやうなお世辭にも拘らず、お幾の所作振りは大したものでした。白粉燒けのした、蒼黒い細面、口紅は少し濃く、長い眉、物を言ふのに唇を曲げるのは嫌味ですが、歩くと芳芬として裾風が匂ふのです。踊の師匠の一つのたしなみでせう。
「豊年師匠はちよいと大川の景色でも見て來てくれないか」
「へエ?」
「八も俺も、三年越しの岡惚れだといふことだ。親の前ぢや、打ち明けにくいこともあるだらう」
平次にさう言はれると、
「相濟みません。私も藝人の端くれですが、娘のこととなると、滅法野暮になりますんで、へエ、へエ」
豊年坊主は、二つ、三つ、火鉢の角にまでお辭儀をして、秋の陽によく禿げた頭を光らせながら、あたふたと外へ出て行きました。
「怖いねえ、何を訊く氣? 親分」
お幾は少し顏を硬張らせます。
「親のゐないところで話すのは大概きまつてゐるぢやないか、──どうせ三年越しの岡惚れの口ぢやないよ」
「まア?」
「師匠と板倉屋の新六郎とは、人の噂に上つた仲ださうだが、近頃はどうだえ」
「そんな事を打ち明けなきやならないでせうか」
「板倉屋の娘──あのお絹さんが殺された今となつては、板倉屋のことは、根こそぎ調べなきやなるまい。惡く思はないでくれ」
「──」
「先づ第一番に、近頃の板倉屋の新六郎の身持ちだ」
「諦めてゐましたよ。私は、もう」
お幾はさう言つて、ドツと溢れる涙を押へるのでした。
「何を諦めるんだ」
「板倉屋さんの跡取りに、私などが、何をしたところで──でもお絹さんが殺されたところで、私のせゐぢやない。あの晩私は、此家から一と足も外へ出ずに、花火の音だけ聽いてゐたんですもの。それに、お絹さんは、凉み船の中で、矢で射殺されたさうぢやありませんか」
「その通りさ。ところで、新六郎が此家へ來たのは、近いところで、何時のことだ」
「二、三日前でした──確かなところは、お絹さんが殺される二日前」
「その時、どんな話があつた」
「皆んな申上げてしまひます。隣の部屋で子供達が聽いてゐたし、あの年頃の娘に、情事の内證話は隱しやうはない」
「──」
「あの人は、──お絹さんとの祝言は、節分が過ぎれば直ぐだし、私は店が忙しくて、滅多に脱け出せないから、これつ切り私が來なくても、怨んでくれるなと──そんな悲しいことを言つてゐました」
「それからは、來ないのだな」
「あの騷ぎの後では、直ぐには出られないでせう」
「ところで、お前は、三十三間堂前の半九郎を知つてゐるのか」
「よく知つてゐます」
「どんな掛り合ひで?」
「一としきり、藝者さん達の間に、楊弓がはやりました。素人衆の女の人でさへ、隨分凝つた人もあつたくらゐですもの、私も負けん氣でやりましたが、深川まで通ふのが面倒臭くなつて、三月ほどで止してしまひましたが」
「それから、板倉屋の先代の姪のお銀さん、──あの人をお前は知つてゐるのか」
「知つてるどころの沙汰ぢやありません──浪人者に騙されて駈落をしたといふけれど、あの人がゐると板倉屋に面倒なことがあつて身を退いただけのことなんです」
「何? それは初耳だが」
「その證據には、誰もお銀さんを騙してつれ出したといふ、好い男の惡浪人の名前を聽いた人はないでせう」
「フーム」
錢形平次も唸りました。これは全く初耳であるばかりでなく、かなりの重大事です。
「お銀さんは、──うつかりしてゐると、命がたまらない。女一人で逃げたと言はれちや耻だから、白井權八とでも、小栗判官とでも、誰とでも構はないから、手頃な男と逃げたと言つてくれ、──そんな事を言ひ遺して身を隱しましたよ。その間に新六郎さんとお絹さんと祝言の話が始まつて──」
「待つてくれ。すると、お銀さんは、新六郎と仲がよくなつて、板倉屋にゐたゝまれなかつたと言ふのか」
「さア、其處までは」
「成程、お前の口からは言ひにくいだらうが、──すると、新六郎といふのは、思ひのほかの箒ぢやないか」
平次は噛んで吐き出すやうでした。
「でも、あの通りの好い男だし、女は、あんな人を憎めないんですもの、因果ね」
世の女たらし、色魔といふたぐひの男が、どんな出鱈目なことをしても、多くの女に許されて行くといふ、不思議な秘密ばかりは、平次の叡智にも呑込めません。
「そのお銀が、どうして板倉屋に戻る氣になつたんだ」
「あれだけの身上を、ぬく〳〵と今の主人の久兵衞さんと、その子の代に讓るのが口惜しかつたんでせう。あんな多勢の店に、下女一人、飯炊き一人置かずに、お銀さん一人で働くのは、容易のことぢやないわけだけれど、あの人は氣が強いから」
「──」
「今の主人の久兵衞さんが、一度飛出したものを、どうしても入れないといふのを、髮まで切つて詫を入れて戻つたんです、そんな人ですよ、お銀さんといふ人は」
お幾の口調には、何んとなくお銀を怖れもし、非難もするやうな氣持があります。
「ところで、變なことを訊くやうだが、お前も常日頃、板倉屋には出入りしてゐるだらうな」
「何にかあると呼出されます。凉みとか、花見とか、──」
「踊らせてくれるのか」
「そんなことで」
「一昨夜の凉み船には出なかつたぢやないか」
「お使ひはあつたけれど、氣分が惡くて、前からお斷わりして休んでしまひました、──尤も、子供達は、橋まで行つて見たと言ひますが」
「板倉屋に出入りすれば、盆暮れの挨拶はあるだらうな」
「──」
「例へば、配り物の浴衣なんか」
「毎年頂いてをります。堅いやうでも、札差は派手な商賣ですから」
お幾は何んのこだはりもなくスラスラと言ふのです。
「その浴衣を見せて貰ひたいが──」
平次は到頭、言ふべきことを言つてしまひました。
「今年のは、さう言つちや惡いけれど柄が少し野暮なので、仕立てもせずに、反物のまゝになつてをりますが」
「いや、反物で結構だよ」
お幾は浴衣地を二反、押入から出して見せました。成程さう言へば、鯉の瀧上りが、金魚が素麺を食つてゐるやうで、甚だしく野暮です。
「二反づつくれるのか、さすがに豪勢だね」
「いえ、一反は父が頂いたので」
「成程──ところで、去年のは」
「これでございます」
取出したのは、秋草を染め出した浴衣、その頃の好みでは、まことに優雅なものでした。
引つくり返して見ましたが、兩の袖も滿足で、何んの穴も疵もありません。
「昨年は豊年師匠のを貰はなかつたのか」
「親父は氣紛れで、柄の良いのは私に呉れませんよ。年を取つても浮氣つぽいから、何處かの人にやるんでせう」
娘の口から、こんなことをヌケヌケと言はれるのです。
平次の訊きたいことは、これで皆んなになつたやうです。煙草入を仕舞つて起ちかけると、
「あれ、八五郎親分は? 少し早いけれど、お晝を差上げたいと思ふのに」
お幾は氣がついたやうに四方を見廻しました。先刻八五郎が、平次の眼配せで、外へ飛んで出たことに氣がつかないほど緊張してゐた樣子です。
「その邊にゐるだらうよ、放つて置いてくれ」
宜い加減にして外へ出ると、お幾に追ひ出された、内弟子の娘が二人、淋しさうに、そのくせ十分に物好きさうに、路地の外にブラブラしてゐるのでした。
「おや、こんなところにゐたのか、追ひ出して氣の毒だつたな。もう用は濟んだよ」
「──」
さう言はれると、平次の袖の下を潜つて、お幾の家へ引返さうとするのを、平次は呼び止めました。
「ちよいと待つてくれ、──近ごろ師匠のところへ來る男の人は、どんな人だえ」
「──」
二人は、マジマジと顏を見合せてをります。十三と十五くらゐ、十分に物好きさうです。
「板倉屋の若旦那が來るだらう」
「──」
二人は顏を見合せて頭を振りました。
「すると、男の人は誰も來ないといふのか」
「──」
二人は揃つたやうに頭を振ります。
「それは新六郎ぢやないのか」
「誰だい、誰が來るのだ」
「豊年師匠よ」
「あつ、成程、こいつは參つた、──もう一つ、一昨日の晩、お前達二人は、兩國橋へ花火を見に行つたんだつてね」
「──」
「それぢや、橋の上で、半九郎といふ男の人が刺されたことを知つてゐるだらう」
平次の問ひは次第に緊迫して來ます。
二人の小娘の顏から、平次は重大なものを讀んでゐたのです。廣い兩國橋の上、萬といふ群衆の押し合ふなかで、この二人の小娘が、何にかを見てゐたとしら、これは實に有難過ぎるほどの偶然です。
「でも、何んにも見えなかつたんですもの、大變な人混みだつたし」
娘の一人、大きい方が言ひました。そして、十手を持つた怖い小父さんの傍を、少しでも早く逃げ出さうとしてゐる樣子です。
「いや、橋の上は、お役人と蔦の者が固めて、あまり人を歩かせなかつた筈だ。お前達が橋の上にゐたとすれば、半九郎が刺されたのを知らない筈はない。その時の樣子を詳しく訊きたいのだよ」
平次は言葉を盡しました。人混みの中で、遠くからは見えないと言つても、橋へ飛上がつた半九郎は人の頭を渡るやうに飛躍したのですから、全く知らない筈はなく、それに半九郎を刺した女も、人をかきわけて、西兩國に逃げた筈ですから、それを見かけない筈はなかつたのです。
「──」
それにも拘らず、二人の娘は、默つて顏を見合せてゐるのです。この頃の町人達のやうな、事勿れ主義に徹して、極端に掛り合ひを恐れてゐるのでせう。
「心配することはない。どんなことを言つても、お前達に迷惑のかゝるやうなことはしないから──」
平次の調子は、いかにも柔かでした。二人の娘はまだほんの子供ですが、境遇の關係で充分に人馴れてをり、かうまで持ちかけられると、初戀の話でも、ツイ打ちあける氣になつたことでせう。
「でも、私達は橋の袂の方にゐたんですもの。逃げて來るのを、チラリと見ただけ」
一人の娘の口は漸くほころびました。
「秋草の浴衣を着て、右の袂は半分千切れてゐたと思ふが」
「その袂を、胸に抱いてゐたので、よくわからなかつたんです」
「髮は?」
「毛の多い人でした」
「そして、顏は、お師匠のお幾さんに似てはゐなかつたか」
平次は漸く此處まで漕ぎつけたのです。
「──」
二人は默つて顏を見合せて、何やらうなづき合つてをります。
「お前達は見てゐた筈だ。お師匠さんに似てゐたか、似てゐないか、わからない筈はないと思ふが」
平次は精一杯に突つ込むのです。
「似てゐると思ひました。蒼い顏をして、でも違つてゐると思ひました」
「どこが違つてゐたのだ」
「顏は青過ぎました、氣味が惡いほど青かつたんですもの。そして、髮の毛もお師匠さんより多かつたし、背も少し高いやうな──」
二人の娘はまた顏を見合せて、場所柄も構はずクスリと笑ふのです。多分二人は今までも、師匠か師匠でないかを、くり返して爭つたことでせう。
「それから?」
「その女の人は、橋の上の人混みをわけて、私達の側をすり拔けるやうに、左の方へ折れて姿を隱してしまひました」
二人の娘の話を聽くと、平次の疑は益々濃くなるばかりです。半九郎を刺した曲者は、師匠のお幾のやうでもあり、お幾でないやうでもあり、二人の娘の口吻は、師匠を庇つてゐるやうに思へないこともありません。
「それからどうした?」
ほぐれた娘の唇、それを追ふやうに平次は問ひすがります。
「氣味が惡くなつて、家へ戻ると、お師匠さんはのぼせていけないからと、顏を洗つてゐました、──そして二人が外へ出てゐるうちに、お勝手から空巣狙ひに入られて、隣の六疊に置いた着物を盜られたと、ひどく叱られました」
娘は不服さうにいふのです。お幾はあの調子で、二人の娘を、空巣狙ひの手引きでもしたやうに、嵩にかゝつて叱り飛ばしたに違ひありません。
「近頃このあたりに空巣狙ひがはやるのか」
「え、あの晩だけでも、五、六軒やられたさうです、──町内だけで」
やがて平次は、この娘達を解放して、お幾の家の裏の方に廻りました。其處には先刻、目顏で合圖をしてやつた八五郎が、お幾の父親の豊年坊主の後をつけて樣子を見てゐる筈です。
グルリと一と廻りして、丁度裏の路地へ出ると、
「やい、この野郎、何を隱すんだ」
「何んにも隱しやしません」
少し先に、豊年坊主と八五郎が、ドブ板の上で揉み合つてゐるのです。
「どうした八?」
平次が近づくと、
「見て下さい、この野郎が下水の中へ何んか突つ込んでゐるから、棒を引つたくつて取出すと、この浴衣ぢやありませんか」
八五郎は勝誇つた調子で、なほも汚ない下水の奧を、ドブ板の下まで棒を入れて掻き廻すのです。
「隱したわけぢやありません。變なものが出てゐるんで、端つこを引出しただけで」
豊年坊主は、相手が二人になると、萎れ返つて、モグモグと辯解をしてゐるのです。
「ね、親分、こいつは秋草を染めた浴衣ぢやありませんか。その上右の片袖が千切れてゐれば、面白いことになりますね、──どつこい、泥が飛ぶから、退いて下さい」
八五郎は充分に面白さうです。
「ひどい泥だが、矢張り片袖は千切れてゐるやうだ。橋の下へ持つて行つて洗つて見てくれ」
平次に言はれると、棒の先へ引つかけた浴衣を、高々と掲げた八五郎は、
「さア、退いた〳〵、泥がはねたつて知らないよ」
などと、寄つて來る彌次馬を掻きわけて、元柳橋の方へ飛んで行きます。
「親分、證據は揃つたぢやありませんか。お幾を引つ立てて見ませうか」
八五郎は秋草の浴衣を洗つて持つて來ると、もうこんなことを言ふのです。
「待ちなよ、縛るのはわけもないが、縛つたのを解くのがむづかしい、──あの晩、この邊へ空巣狙ひが入つたといふことだ。町内だけで五、六軒は荒らされてゐる。土地の者に訊いたら、思ひの外わけもなく當りがつくだらう。その野郎を擧げて、お幾の家へ入つた時、お幾はゐたかゐないか、──ゐたとしたら何をしてゐたか、それを訊き出してくれ」
この時も平次は、大變な後悔を嘗めさせられました。踊の師匠のお幾は、板倉屋の新六郎とは深い仲で、現に二、三日前にも、お幾の家を訪ねたことは確かであり、あの晩兩國橋の上で、半弓の半九郎を倒した、女の曲者とよく似てをり、そればかりでなく、片袖の千切れた秋草の浴衣を、親父の豊年が下水の中に突つ込んで隱したのですから、縛れば縛れる證據は充分にありながら、いつもの平次の弱氣で、それをやらなかつたばかりに、飛んでもないことになつてしまつたのです。
その晩、遲くまで、八五郎は平次の家に上がり込んで、埒もない無駄話をしてをりました。お神酒は些かでも、氣の合つた親分子分は自分達の話に醉つて、いつかは陶然とした氣持になつてゐたのです。
「親分、惜しいことをしましたよ。あつしはどうも、半九郎を殺したのは、お幾に違げえねえと思ひますが」
八五郎は、手の甲でおでこを拭いて、舌なめ摺りをするのです。
「あのお幾といふ女は、浮氣で飛上がりで、少し調子つ外れだが、大の男の半九郎を刺し殺すほどの膽つ玉はないよ。もう少し樣子を見なきや」
平次は相變らず用心深く構へて容易に動きさうもありません。
「すると、下手人は誰なんです親分」
「待つてくれ、俺にもよくわからないんだ。半九郎を殺したのはお幾かも知れないが、板倉屋のお絹を殺したのは誰だ」
「それはわかつてゐるぢやありませんか、半九郎の半弓で射殺されたと──」
「いや、軍談本にどうあるか知らないが、半弓では容易に人を殺せないよ。現に四人もの若い女が狙はれたが、本田樣のお孃さんも、伊豆屋の嫁も、佐奈屋の娘も、引つ掻きほどの傷を拵へただけぢやないか」
「すると」
「まア、宜い。もう少し樣子を見よう」
さう言つてる時でした。平次の女房のお靜がお勝手からそつと覗いて、
「あの、今、こんなものを、お勝手へ投り込んだ人がありますが」
と小さく疊んだ手紙を差出すのです。
「その使者はどうした」
「逃げるやうに行つてしまひました」
「仕樣がねえなア。大さな聲でも出して、俺を呼べば宜いのに」
これは併し平次の無理でした。兎も角も手紙を受取つて讀むと、一枚の半紙に恐ろしく下手な字で、
と書いてあるではありませんか。
「豊年坊主ぢやありませんか」
「何を言ふつもりだらう。行つて見ようか」
「あの坊主は出鱈目で、嘘つきで、千三つ屋ですが」
「でも、何にか知つてるに違ひない」
「娘のお幾が疑はれてると知つて、何んか細工をやらかすんぢやありませんか」
そんな疑も充分ありますが、平次はそれよりも、豊年坊主に逢つて、何を言ひ出すか、それを聽くのが樂しみで一杯の樣子です。
「お前は豊年坊主の筆跡を知つてゐるのか」
平次はその手紙から眼を離して、八五郎に訊ねました。
「見たこともありませんよ。あの坊主が字なんか書いたら、夜な〳〵ゲヂゲヂになつて化けて出るでせう。尤も豊年坊主のお臍で煙草を吸ふ藝當なら何べんも見せられましたがね」
「無駄は宜いかげんにして、兎も角も覗いて見よう。娘のお幾に人殺しの疑ひがかゝりさうになつて、あの人を喰つた坊主も少しあわてたやうだ」
「それにしても、恐ろしく下手な字ぢやありませんか」
「さう言ふな、お互に人樣に褒められるやうな字は書けないよ。あの下手なところを見ると、僞筆ではあるまい」
二人が元柳橋の、お幾の家に着いたのはもう戌刻半過ぎでした。
「おや、中は眞つ暗ですね。人を呼んで置いて、こいつは變ぢやありませんか」
八五郎はさう言ひながら、少し荒つぽく格子戸を叩きましたが、中からは何んの返事もなく、シーンとして靜まり返つてをります。
「裏へ廻つて見よう。もう寢たのかも知れない」
さう言つて、狹い路地を裏へ廻ると、其處は開けつ放し、少し晩い月が、寒々と覗いてゐるではありませんか。
「變ですね、裏口は開けつ放しだ」
「間違ひがあつたかも知れない──灯を見付けろ」
「待つて下さい。幸ひ土竈が見えるやうだ、火打箱か燭臺があるでせう」
八五郎は裏口を開け放したまゝ四つん這になつて、ウロウロ深してをります。
言ふまでもないことですが、電燈もマツチも懷中電燈もない時代に生活してゐた人は、灯の道具は、必ず決つた場所に置いたものです。今の人の不意の停電を食つて、家中マツチを搜すのとは大分事情が違ひます。
「氣をつけろ、八」
平次は裏口に見張つて聲を掛けます。不意に、何にか飛出しさうな氣がして、全く油斷のならない情勢でした。
「わツ、畜生ツ」
いきなり家の中で、ドタン、バタンが始まりました。八五郎が曲者と組討を始めた樣子です。
「どうした、八」
平次は聲を掛けましたが、八五郎はそれどころの沙汰ではないらしく、物をも言はずにやり合つてをります。尤も踏み込んで、八五郎の助勢をしようにも、家の中は眞つ暗で手のつけやうもありません。
「あ、畜生ツ、待ちやがれツ」
その間に曲者は、表口を開けて、パツと外に飛出しました。後から追つて出た八五郎は、眼の前で戸を閉められて、鼻の顏をしたゝかにやられた樣子。
「親分、灯、灯を」
と怒鳴り續けてをります。
尤も曲者はこの時早くも外へ飛出して、町の闇の中に姿を隱し、暫く經つて八五郎が飛出したときは、影も形もありません。
その間に、平次は手燭を見つけて、燧石箱を搜しました。パツと灯がつくと、四方は血の海。
「あ、これはどうだ」
お勝手も次の間も、疊も唐紙も斑々たる血潮。そればかりでなく、今まで其處で組討をしてゐた八五郎までが、全身紅に染んで、凄まじくも恐ろしい姿になつてゐるのです。
「八、何處も怪我はないのか」
「摺り剥き一つありませんよ」
「そいつは變だぜ」
手燭を持つて中に入ると、次の六疊の長火鉢の前に、お幾の父親の豊年坊主は、背中から左肩胛骨の下を刺され、巨大な虫のやうに死んでゐるではありませんか。
死骸の前には、空いた徳利が三本、恐らく自棄に飮んだ上、醉が發してウトウトとしたところを後ろから忍び寄つて突いたものでせう。
「恐ろしい手際ですね、親分」
「馴れた手際だ──お前は濟まないが、町役人を呼んで來てくれ」
「へエ」
「それから淺草橋の自身番に聲をかけて、御藏前の板倉屋へ行つて見るんだ」
「へエ、何をやりや宜いんで」
「板倉屋に、誰と誰がゐるか、それを見るだけのことだ。それから──」
「でもこの扮ぢや行けませんよ、親分」
「俺は暫らく此處を動きたくねえ。お幾と二人の内弟子が何處へ行つたか知らねえが、それに逢つて訊きたいことがある」
「へエ」
「かうしようぢやないか。幸ひまだ時候は寒くねえ、手足の汚れをざつと洗ひ落してよ、俺の袷を引つかけて行くが宜い」
「親分は?」
「お前が戻つて來るまで、裸でゐる分のことさ、凉しくて飛んだ宜い心持だぜ」
町役人達が、ドカドカとやつて來た時は、八五郎は平次の袷を引つかけて出かけ、平次は一人、血染の部屋の中に裸で待つてをりました。
それから暫らくすると、豊年の娘のお幾が、二人の内弟子をつれて戻つて來ました。
「何んかあつたんですか、──まア」
入口の高張、家の中の物々しさ、疊と唐紙を染めた血潮を見て、お幾は門口で膽を潰してしまつたのも無理のないことです。
「師匠、驚いちやいけないよ。大變な間違ひがあつたんだ」
「どうしたんでせう、こんなに血が」
お幾は不安に脅えながら、自分の家へ入りましたが、次の六疊に町役人に護られながら、父親の豊年坊主が、紅に染んで倒れてゐるのを見ると、さすがに腰を拔かして、ヘタヘタと坐つてしまひました。
「お幾師匠、氣の毒だが、お前の父さんは、誰かの手に掛つて殺されたのだよ」
「まア」
お幾はあまりのことに涙も出ず、たゞ呆然として、凄まじい四方の樣子と、突き詰めた人々の顏を眺めてをりましたが、暫らくするとワツと父の死骸の上に、折り重なつて、泣き倒れてしまつたのです。
「なア、師匠、父親がこんなことになるのは、ワケのあることだらう。誰がこんな虐たらしいことをしたか、思ひ當ることはないのか」
平次はお幾が少し氣持の落着いたところを見て、靜かに訊ねました。
「誰がこんなことをしたんでせう。私には見當もつきません──世間樣からは評判の良い人ぢやなかつたけれど、私に取つては掛け替のない、たつた一人の父親ですもの、こんなひどいことした者を放つちや置けません。何んとかして下さいよ。親分」
暫らくすると、動亂する氣持を整理して、お幾は沁々と言ふのです。
「尤もなことだが、證據がなくちや、父親の敵が討てねえ、──近頃何んか變つたことがなかつたか。それとも、豊年師匠がお前に話したことでもなかつたか」
平次はお幾の心持をかき亂さないやうに、充分に氣を配りながらその問ひを進めました。
「別に、變つたことも、何んにもありませんが、たゞ、今日になつて急に──俺は大變なことを知つてるのだ。これを錢形の親分にでも言つてしまへば、板倉屋のお孃さんを殺した下手人もわかるに違ひないと思ふが、こんな稼業の辛さで大事な客筋のことはうつかり言へねえ、──いや俺が死ぬまでもこいつは口を緘んでゐるつもりだつたが、俺が默つてゐると、困つたことに何んにも知らないお前が、飛んだ濡れ衣を着ることになる。氣は進まないけれど、こいつは錢形の親分にでも打ち明けようか──と、そんなことを言つてをりました」
「それだよ、師匠、俺はツイ先刻、お前の父親の豊年師匠から手紙を貰ひ、あわてて此處へ飛んで來るとこの有樣だ」
「父さんは、それを言ふのが、餘程辛かつたと見えて、私が家を出る前に、酒の用意をして、──素面ぢや言ひにくいから、今晩は少し過さしてくれ、──などと言つてゐました」
「それを惡者に嗅ぎつけられてこんなことになつたのだらう。師匠はそれから何處へ行つたのだ」
「兩國の凉みも花火も、この二十八日でお仕舞ひ。洒落れた人は、人が出なくて今が丁度宜いと言つて舟を出させます。今晩は札差の旦那方に呼ばれて、凉み船で散々踊らされ、父さんは一人で留守番をしてゐました」
「曲者はそれも知つてゐたのだらう」
平次も其處までは氣がつきますが、四人の若い女を傷つけ、幇間の豊年を殺した曲者は誰? となると、容易にはきめ兼ねます。
「それから、もう一つ、これは申上げにくいけれど」
師匠のお幾は、何やら言ひにくさうに躊躇するのです。
「氣のついたことがあつたら、皆んな話してくれ。親の敵を討てるか討てないかの境ぢやないか」
「では申しませう。氣を惡くしないで下さい、親分」
「そんな斟酌は止してくれ。仕事の上で、氣なんか惡くするものか」
「では申しませう、父さんはかう言つてゐました『たつたこれくらゐのことがわからないやうぢや、錢形の親分も、大したものぢやない』つて」
「それに違ひないよ」
「──どうして錢形の親分は、あの船を調べ拔く氣にならないのだらうつて」
「フン、其處までは手が廻らなかつたよ」
「父さんは、あの晩、殺された板倉屋のお孃さんの側にゐたんですつてね」
「──」
平次は默つてしまひました。これは實に、恐ろしくも痛い暗示です。
間もなく八五郎が歸つて來ました。平次がひどく腐つてゐるのにこれはまた、近所迷惑なほど陽氣を撒き散らします。
「親分、行つて來ましたよ。姐さんが、こんな着物をよこしましたぜ」
「何んだ、明神下まで行つて來たのか。餘計なことをする奴だ」
さう言ふ平次は、さすがに初秋の夜風が肌寒く、八五郎に剥がれたまゝの裸體で、鼻を啜り上げてをります。
「だつて親分に風邪を引かしちや大變でせう。向柳原のあつしの家の方が近いけれど、自分の家へ歸つたところで、筋の通つた着物は皆んなお庫に入つてゐるからろくなものはありやしません。どうせ一と伸しだと思つて、明神下まで飛んで行きました。これが袷にこれが帶、手拭と掛替への煙草入と、──」
「お前が吸ふ氣でなきや、煙草入が二つ要るものか、──行火と温石を持つて來ないのがまだしも見つけものだ」
「相濟みません。ところで、どうなりました、豊年坊主を殺した下手人は──?」
「まだ、そんなことがわかるものか。お幾師匠の前だ、氣をつけて口をきけ」
「へエ、相濟みません」
「よくもさう手輕にお辭儀が出來たものだ。それよりお前は、何をしに出かけたか、とくと思ひ出して見ろ」
「さう〳〵淺草橋の自身番と、御藏前の板倉屋」
「その板倉屋に變りはないのか」
「何んにも變つたことはありませんよ。腹の立つほど無事で」
八五郎は漸く自分の言ひつけられた仕事の報告に立ち還りました。
「皆んな揃つてゐるのか?」
「主人と女達は休んださうで──尤も、あつしの聲を聽くと、お銀は起き出して來ましたがね。相變らずの調子で、つかまへて放さないから弱りましたよ。あれで髮が生え揃つたら、大した色氣でせうね」
「男達は?」
「下男の圓三郎は、自分の部屋で、緡を作つてゐましたよ。手代の周次郎は、札差仲間の凉み船に行つて留守。若旦那の新六郎も凉み船に久兵衞旦那の名代で行つたが、寒氣がすると言つて途中から歸り、温くなりかけた内湯をわかし直して入つてゐるといふことでしたよ、──御藏前衆などといふものは矢張り豪勢なものですね。内湯を持つてゐるのは、大名ばかりかと思つたら──」
その頃は武家でさへ町湯に入る人が多く、内湯を持つてゐるなどは、全く贅澤の沙汰だつたのです。
「その新六郎に逢つて來たのか」
「逢つて來るつもりでしたが──男のくせに恐ろしく長い湯で、あつしなんか烏の行水見たいに、煙草三服の間に一と風呂入つて見せるのを藝當にしてゐるが、男つ振りの良い野郎は、どうしてあんなに湯が長いんでせう」
「馬鹿野郎」
「へエ?」
「新六郎は、いつでも湯が長いか、それとも今晩に限つたことか、それも訊かなかつたらう」
「相濟みません」
「褌を洗つて長湯をしたわけぢやあるめえ」
八五郎はまことに散々の體です。
豊年の手紙を明神下まで持つて來た子供、それはすぐわかりました。近所に住んでゐる後家の子で、少しばかりのお小遣を貰つてやつただけのことで、何んの仔細もありませんが、平次はその少年がお幾の家の居廻りをうろついて、豊年父娘の雜用を足すのを、一つの稼ぎにしてゐると知つて、
「お前は、いろ〳〵のことを知つてる筈だ。一つ教へてくれると百文づつ褒美を出すが、どうだ」
こんな調子に氣を引いて見ました。少年はせい〴〵十四、五、あまり賢こさうではありませんが、丈夫さうで、執拗で、頑固らしいところのあるのは、平次の註文通りでした。こんな子はきつと、一日一ぱいでも、柳の下の鰌を見張つてゐるに違ひありません。
少年は丑松と言ひました。丑のやうに鈍重で、丑のやうに無口で、そして丑のやうに汚れた風をしてをります。
「──」
「どうだ。それ、先づ百文」
平次は豫て懷中に用意してゐる四文錢を勘定して、丑松少年の掌の上にチユウチユウタコカイと突いて見せます。
「おいらは何んにも知らないぜ」
丑松は漸く口を開きました。唇の隅がたゞれてをります。
「師匠のところへ、この間空巣狙ひが入つたが、お前は知つてるだらう」
「うーん」
肯定とも、否定とも取れる返事です。
「知つてるなら、先づそれを教へてくれ。近所の者に違ひないと思ふが」
「知つてるけど言へないや、──おいらが言つたとわかると、怖いから」
果して、丑松は知つてゐたのです。空巣狙ひでもやらうといふ太い人間でも、丑松の存在には氣がつかなかつたのでせう。この少年は、野良犬のやうなもので、どんな人の盲點にでも、ソロリと潜り込めるのでせう。
「何が怖いんだ」
「だつて鼬の千吉に毆られるんだもの」
到頭これは話るに落ちてしまひました。
「よし〳〵、そいつは訊かずに置かうよ。お前が毆られちや可哀さうだから」
平次はさう言つて後ろを振り向くと、何やら合圖をしました。それを見た八五郎が、すつ飛んだことは言ふまでもありません。
「もう宜いかい、歸つても」
丑松は小錢をザクザクさせながら、逃出しさうにしてをります。
「もう一つ、お前が豊年さんの手紙を頼まれた時、誰か見てゐた人はなかつたのか」
「覺えちやゐないよ。多勢人が通つたから」
丑松の答は一向につかまへどころもありません。
「無理もないな、──ところでもう一つ、これを知つてゐたら、今度は穴のあいたのぢやない、ピカリと小粒をやらう」
「へ、一朱かい。本當にくれるか」
「昨夜、この家の裏の下水へ、浴衣を突つ込んで隱した者があるだらう。お前はそれを見てゐたことと思ふが」
平次は掌の上で、ポンと小粒を踊らせました。
「あ、知つてるとも、こいつはしやべつても毆られつこはねえや」
丑松は物欲しさうに手を出すのです。
「どんな人間が、下水の中に浴衣を隱したんだ」
「年を取つた人だよ。男さ、皺だらけで、足が惡くて、御藏前で時々見かけるよ」
丑松の言ふのは、板倉屋の下男圓三郎に間違ひもありません。
平次はそのまゝ飛んで行かうとしましたが、まだ、肝心の船の調べが殘つてをり、うつかり飛出すわけにも行きません。
が、宜いあんばいに、八五郎が戻つて來ました。
「親分、鼬の千吉の野郎を生け捕つて來ましたよ。二、三束引つ叩いて見ませうか」
襟髮をつかまれた、小柄の男は八五郎の馬鹿力に壓倒されて、グウとも言へません。
「お白洲ぢやない、手荒なことをするな。なア、千吉、お前も良い惡黨だ。花火の晩ご町内の油斷を見すまして、向う三軒兩隣を荒しちや、ご先祖の石川五右衞門樣に濟むめえぜ」
「へ、相濟みません。盜んだ品は、皆んな仲間のところに預けてありますから、お目こぼしを願ひます。今度突出されると、水汲み人足にされます」
「佐渡へ行つて、お前の好きな黄金の汁を汲み出すのも惡くなからう。ところで、あの晩、お幾師匠は家にゐたに違ひないか、花火を見物には出かけなかつたさうだが──」
「たしかに家にゐましたよ。でも、梅干を貼つて、奧で唸つてゐたから、あつしがお勝手から忍び込んだのも氣がつかなかつたやうで」
「よし〳〵それだけのことを見屆けて、お前は飛んだ人助けをしたよ。盜んだ品をそつくり返せば今度のところは、俺は知らないことにしてやらう」
「有難うございます」
鼬の千吉はヒヨイヒヨイとお辭儀をして、二人の下つ引につれられて出て行きました。
「八、お前にも大概わかつたことだらうが、まだ極め手がない、──あの晩、板倉屋で出した船を見たい。夜晩くなつて氣の毒だけれど、お前は二、三軒船宿を當つて見てくれ」
平次はゴールに近づいた緊張で、夜の更けたのも忘れてしまつた樣子です。
「それなら、わかつてますよ、親分」
「何處の船だ」
「船頭は、吾妻屋の若い衆でした、──行つて見ませう、眼と鼻の間だ」
「よしツ、夜の明けないうちに片付けよう」
平次と八五郎はそのまゝ元柳橋の軒並び、吾妻屋を叩き起しました。
「お内儀さん濟まねえが、急ぎの用事だ。この間の晩、板倉屋の凉みに出した船があるだらうか」
八五郎が無遠慮に取次ぐと、
「ま、八五郎親分、錢形の親分もご一緒で、──あの船は、あのまゝにしてあります。一應洗ひましたが、念入りにお祓ひをして、せめて廿八日の晩には使ひたいと思ひましてね」
「氣の毒だがちよいと見せて貰ひたいが」
「へエ、へエ、お易い御用で」
「凉みに出る前、誰か、あの船に乘つたものはないのか」
「前の晩、板倉屋の若旦那の新六郎さんが入りなすつて、船を改めると仰しやつて──」
内儀は二人を川へ案内しながら説明します。
お内儀は手燭、八五郎は提灯を持つて、川の水面に下りました。
夜更けの大川はさすがに鎭まり返つて、最早絃歌も燭りもなく、夜半過ぎの初秋の風が、サラサラと川波を立ててをります。
「八、船は上手を向いて、殺されたお絹は此方の舷にもたれてゐたやうだな」
平次は船の中に降りて、念入りに調べてをります。
「さうですよ、その後ろが豊年師匠、隣が新六郎、二人は若いから、灯をよけ〳〵、凭れるやうになつてゐた筈です」
「すると、橋架から半弓を射てお絹の喉笛を射切るのは、むづかしいな」
「ヒヨイと振り返つた時やつたのかも知れませんね」
「そんなうまい具合に行けば宜いが、──あの時大川の上は船だらけで、隨分灯もあつたし、時々は花火も揚がつたが、何んといつても夜のことだ」
平次は何やら新しい疑ひにさいなまれてゐる樣子です。
「豊年坊主が、船を調べろ──と言つたのは、死に際の妄想で、何を言つたか、わけがわかりませんね」
「いや、わけのあることだらう──お内儀さん、船を洗つたとき、何にか變つたことがなかつたかな」
平次は岸に立つてゐる内儀に聲をかけました。
「ざつと血を洗つただけで、──何んにもなかつたやうですが」
「待つてくれ、八、お前は灯を差出すんだ」
「へエ」
平次は舷の裏を撫でてをりましたが、八五郎に提灯を差出させてグイと船の外へ身體を乘出し、額を水にスレスレに、舷の下を覗くのです。
「それは何んだ、八」
「舷の裏に、折釘が打ち込んでありますね。一尺五寸ぐらゐ離して、二本まで」
「何んのためだ」
「?」
平次は内儀を呼んで見せましたが、何に使つたものか、少しもわからない樣子です。
「わかつたよ、八」
平次は漸く顏を擧げました。珍らしく明るい聲です。
「何んです、親分」
「前の晩、凉み船を調べに來たのは新六郎だと言つたね」
「?」
「その時、舷の裏に折釘を打ち込み、その釘に半弓の矢を隱して行つたのだよ」
「何んだつて、そんなことをしたんでせう」
八五郎には、何が何やら少しもわかりません。
「曲者は、板倉屋のお絹が狙ひだつたのさ。他の三人の若い女は、狙ひの當人を胡麻化すための氣の毒な道連れだつたに違ひない」
「?」
「橋の下の船の、三人の若い女が半弓でやられるのを切つかけに、曲者はすぐ側にゐる板倉屋の娘のお絹の喉笛を、隱し持つた匕首で刺し殺し、舷の裏から前の晩隱して置いた半弓の矢を取り出して、人に見せたのだ」
平次の推理は、最早一點の疑ひもありません。三人の若い女は、半弓の矢で傷つけられたでせうが、板倉屋のお絹だけは、間違ひもなく鋭い匕首で一とゑぐりにされ、曲者は匕首を水の中に捨てて、舷の裏から、半弓の矢を取出し、皆んなに見せたのでせう。
若しこの時、半九郎が橋の上に逃出したり、その半九郎が刺されるやうなことがなかつたら、お絹も三人の若い女と同樣、半弓で射られて殺されたものと、簡單に片付けられて、眞當の下手人は、永久に現はれずに濟んだかも知れません。
「すると、下手人は、あの?」
「許婚の新六郎だよ、行かう、八」
「生つ白い面しやがつて、太てえ野郎で」
二人は兩國から御藏前へ、眞に一足飛びに駈け付けました。
が、一と足遲れました。
板倉屋の店は不氣味なほどシーンとしてをりました。日頃雇人の少ない家ですが、それにしても、こんなことはない筈です。平次と八五郎は、代る〴〵表の戸を叩きましたが、誰も起きて來てくれず、お仕舞には近所の衆が騷ぎ出して町役人も立ち合ひ、
「錢形の親分が心得て下さるなら、こいつは打ち壞しても入るほかはあるまい」
「いづれにしても、たゞ事ではないやうだ」
かうなると鳶の者を頼んで、表戸をはづすほかはありません。
いざとなると、簡單に埒があきました。嚴重に締め切つた表の潜戸をあけ、八五郎を先頭に、ドツと入つたのが七、八人。平次は家の中で、入つて來る人數を制限するのに骨を折つたくらゐです。
幸ひ町役人達は提灯を用意したので、家の中は簡單に見窮められました。
「あツ、これだツ」
奧の主人夫婦の居間に飛込んだ八五郎は、四方構はぬ聲を張りあげます。
「どうした、八」
「この通り、──ひどい事をするぢやありませんか」
主人の久兵衞は、匕首らしいもので、喉をゑぐられてこと切れ、その側に内儀のお篠は氣を喪つたまゝ、縛られてゐるではありませんか。
「若旦那の新六郎さんはどうした?」
「姪のお銀さんも見えない」
八方を手をわけて搜しましたが、若い二人は影も形もありません。
「ほかの者は兎も角、下男の圓三郎がゐなきやならない。下男部屋を搜してくれ、八」
平次にさう言はれて、飛んで行つた八五郎は、間もなく、藏前中に響かせます。
「親分、此處にゐますよ。早く來て見て下さい」
下男部屋は母家に續いた物置の一部で、其處へ飛込んだ八五郎は下男圓三郎の容易ならぬ姿に手を下し兼ねてワメキ立てるのです。
それは蜜柑箱を經机に、その上に有難い經文を載せ、半紙一杯に幾つかの戒名を並べて、手に數珠を絡ませ、半眼に眼を閉ぢて禪定に入つたやうに、鎭まり返つた下男圓三郎の姿だつたのです。
「どうした、圓三郎。若旦那とお銀さんは何處へ行つた」
平次は靜かにその肩に手を置きました。
「錢形の親分、若旦那の新六郎樣と、お銀さんは、死にましたよ」
圓三郎は僅かに顏を擧げて、かう應へました。
「何を言ふんだ。何處へ行つたか、それを言へツ。四人まで人を殺し、ほかに若い女多勢に怪我をさして、逃れようといふのは、卑怯すぎるぜ」
平次は激しく追求しました。落つき拂つた圓三郎の頬桁を、白磨きの十手で毆つてやりたいほど、日頃の平次にも似ぬ興奮です。
「最初から若旦那もお銀さんも助かる氣はなかつたんです、──詳しく申上げませう、落着いて聽いて下さい、一度死んだ者は、逃げも隱れもしやしません」
「フーム、それでは聽かう。皆んな話せ」
平次は藁打臺を引寄せて、どつかと腰をおろしました。今となつては、この頑固一徹の下男の口から訊くほかに、眞相を窮めやうはなかつたのです。
「先代の久兵衞樣は、良い旦那樣でしたが、義理の弟の久三郎樣──それは今の旦那久兵衞樣ですが──この方夫婦を信用したばかりに板倉屋の身上は、日向の雪達磨のやうに、見る〳〵うちに小さくなり、到頭主人を隱居させて一生安穩に養つてやるといふ約束で、今の旦那が板倉屋の株を買ひ取り、見る〳〵うちに身上を肥らせましたが、一年經つか經たないうちに先の旦那樣は、霍亂とやらで亡くなりました。その時今の旦那がお勝手で、鳥兜の根をうんと煎じ、藥だと言つて、先代の旦那の嫌がるのを無理に呑ませたことを、見てゐた奉公人は皆んな追ひ出され、見なかつたと言ひ張つた私だけが無事に殘されました。その術で先代の御内儀も亡くなり──」
「──」
圓三郎の話はなか〳〵の含蓄のあるものです。
「その後暫らく經つて、先代の旦那樣の獨り息子で、板倉屋の跡取りになる筈の新六郎樣とお銀さんと、仲がよくなつたところで、無理もござりません。二人は若い上に好い男に良い女ですもの。その上、新六郎樣は先代の忘れ形見、お銀さんは先代の御内儀の姪、二人は兄妹のやうに育つたんですもの」
「──」
「それが知れると、お銀さんは近所に住んでゐたタチの惡い浪人者と戀仲になつたと、ありもしない惡名をつけて追ひ出されました。お銀さんは利巧な人だから、二年後に髮まで切つて詫を入れ、元の板倉屋に戻りましたが、その時はもう、新六郎樣と、今の旦那の娘のお絹さんと、祝言するばかりに決つてをりました」
「──」
「お銀さんが、新六郎を怨んだり口説いたり、その上私まで證人に立つて、新六郎樣の實の親──先代の久兵衞旦那を殺したのは、今の旦那に相違ないと動きのとれない證據をつき付けました。すると新六郎樣も、お銀さんの言ふことを聽き、親の敵を討つ氣になり、その手始めに、お銀さんのすゝめで、久兵衞旦那の娘のお絹さんを殺す氣になりました」
「ほかの三人の女に怪我をさしたのは?」
「あれはやり過ぎだつた、──とあとで新六郎樣も後悔してをりました。半弓の名人の半九郎は先代からの懇意で、少し金をやりさへすれば、どんなことでもやつてくれます」
こんな關係で、遂に恐ろしい事件にまで發展してしまつたのです。
「お銀が、半九郎を刺し殺したのは」
平次は問ひました。
「半九郎が捕まつてしまへば、皆んなわかるにきまつてゐます」
「半九郎はどうして、橋の下に隱れてゐなかつたのだ」
「半九郎は、花火の揚がつた時、人の眼を外らせて、橋架から川の中へ滑り落ち、遙か下流に泳ぎつく筈だつたのです、──ところが、橋の下はあまりに明るくて、水の中に逃げるわけに行かず、皆んなに追はれて、ノコノコ橋の上へ這ひ上がつてしまひました──僅かばかりの金でこんな大それた事を引受けるくらゐの半九郎だから、お役人に調べられると、ベラベラしやべつて了ふのは見え透いてをります。橋の上で樣子を見てゐたお銀さんは、氣丈な人だから、用意の匕首で半九郎を刺したことでせう」
「一つの罪は次から次へと、幾つも罪を作つて行く。恐ろしいことだな」
平次は坊んさんのやうな事を言ひます。
「錢形の親分に訊かれた時、──私とお銀さんの言ふことはすつかり違つてをりました。二人はあまりの事に顛倒して、其處までは打ち合せて置かなかつたのです。それと氣がついて、お銀さんは蒼くなつてしまひました。錢形の親分はきつと氣が付くに相違ないと」
「?」
「新六郎樣も心配して、すぐ片袖を千切つたお銀さんの血染の浴衣を、元柳橋まで持つて行つて、下水の下にねぢ込みました。新六郎樣は、ちよいと浮氣をなすつてお幾と浮名が立つたりして、ひどくお銀さんが氣にしてゐたので、お銀さんの機嫌を取るつもりだつたんでせう、──男といふものは、強いやうでも弱いものですね」
圓三郎までが悟つたことを言ふのです。
「幇間の豊年を殺したのは?」
「あの豊年坊主は、凉み船で若旦那の側にゐて、一から十まで見てしまつたのです、それも、默つて知らん顏をしてゐれば無事だつたのを、翌る日はもう、若旦那を強請に来ました、──あまりの現金さに腹を立てて、ツイあんな手荒なことをしてしまつたのでせう」
「──」
「豊年坊主が『船を調べろ』と言つたと、お幾の家の横の路地に隱れた若旦那が聽いてしまひ、錢形の親分が川へ出かけたと知つて、すつかり諦めて歸つて來ました。そして、お銀さんと私とに因果を含めて、圓三郎はまさか打首にもなるまいから此處に殘つてゐるが宜い。二人は仇を討ち過ぎた。ほかにやりやうもあつたのに、──兎も角、生きてはゐられない、──と、行きがけの駄賃に一番怨んでゐた今の旦那を殺しましたが、お銀さんにとめられて、内儀さんだけを助けて、一刻ほど前、何處ともなく行つてしまひました。その跡の戸締りをして、私は親分方をお待ちしたわけです」
圓三郎の話はこれで終りました。
× × ×
言ひ落しましたが、二番目の娘のお鳥と手代の周次郎は、一人は親類へ泊りに行つて留守、一人はぼんやり朝歸りをして來てこの事件を知りました。若旦那の新六郎と姪のお銀の履物は兩國の橋の上に脱ぎ捨ててありましたが、二人の死骸は房州まで流れて行つたものか、到頭あがらなかつた樣子です。
底本:「錢形平次捕物全集第二十一卷 闇に飛ぶ箭」同光社
1954(昭和29)年2月15日発行
初出:「報知新聞」
1953(昭和28)年
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年12月22日作成
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