錢形平次捕物控
系圖の刺青
野村胡堂
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「親分は源氏ですか、それとも平家ですか」
ガラツ八の八五郎は、いきなりそんなことを言ふのです。御用も一段落になつた春のある日、後ろに一立齋廣重がよく描いた、桃色の空を眺めて、一本の煙管をあつちへやつたり、此方へ取つたり、結構な半日を、百にもならぬ無駄話に暮らすのです。
「螢や蟹ぢやあるめえし、源氏だらうと平家だらうと一向構はないぢやないか」
錢形平次は氣のない返事でした。天氣は上々、春は酣、これからお靜の手料理で、八五郎と酌み交すのが、まさに一刻千金の有難さだつたのです。
「虫や魚の話ぢやありませんよ。それ、何處の家にも祖先といふのがあるでせう。その過去帳見たいな卷物を──何んとか言ひましたね」
「系圖だらう」
「さう、さう、そのけえづのことですがね」
「下らねえ詮索だ。俺の家は親代々の御用聞き、胞衣を引つくり返しや、寛永通寶の紋が附いてゐる」
「交ぜつ返さないで下さい。筋のある話なんだから」
「さうだらうとも、五匁玉半分煙にして、空茶を藥罐で三杯もあけるのは、容易なことぢやあるめえと思つて居たよ。そんなに言ひにくいところを見ると、女房が欲しいのか、金が要るのか、それとも──」
「どつちも欲しかありませんよ。痩せ我慢のやうだが、江戸中の娘にがつかりさせるのも殺生だし、御用聞が金を貰ふと、後が怖いから」
「良い心掛けだよ、お前は」
「そのけえづなんですがね、親分。一つ搜して見る氣になりませんか。首尾よく手に入ると、御褒美の金が何んと小判で百兩」
「止さないか、馬鹿々々しい。そんなものに掛り合つてゐると、御家の騷動に捲き込まれて、腹を切らされるよ」
「へエ、さうでせうか?」
「歌舞伎芝居や黄表紙にあるだらう。紛失物は大概きまつて居るよ。小倉の色紙に、讓葉の御鏡さ。それからそれ、御家の系圖だ。皆んな一度は惡人の手に入つて、大騷ぎするにきまつて居る」
平次はまるつ切り相手にしません。
「さう言はずに聽いて下さいよ。お禮は兎も角、こいつは滅法面白い仕事で、引受け甲斐がありますぜ」
「何處かでまた、おだてられて來たんだらう。兎も角、話して見な。事と次第では、小出しの智惠を貸さないものでもない」
「有難いね、親分が引受けて下されば、系圖の方から、手土産を持つて出て來ますよ」
「おだてちやいけねえ」
「親分は、染井右近といふ人を御存じでせうね」
「そんな小父さんは知らないよ」
「小父さんぢやありません。江戸開府前の名家とやらで」
「ハテネ?」
八五郎の話は、相變らずまことに埒のないものでしたが、それでも、これだけのことはわかりました。
染井右近といふのは、王朝時代に東に下つた、業平朝臣の裔だとも言ひ、染井村に土着して、代々豪士として勢威を振ひ、太田道灌が江戸に築いた頃は、それに仕官して軍功を樹てましたが、徳川家康入府の際には、率先その旗下に參じて忠誠を盡し、大名にも取立てらるべき筈のところ、俄に大患を發したのと、日頃隱遁の志があつたために、身を退いて巣鴨に隱れ、昔乍らの豪士として、幾代かを經たといふのです。
染井の當代は鬼三郎と言つて五十になつたばかり。氣の毒なことに中風を發して半身不隨になり、甥の染井福之助に養はれて、厄介者扱ひにされて居りますが、近頃になつて當代の上樣から、格別の御聲掛りがあり、東照權現樣御入國の際の功勞者の一人として、急に召出されることになつたのです。
もとより、世を隔てたことであり、染井右近の子孫を確めるのも容易のことではなく、江戸氏、染井氏と言つた人達の嫡々は、確かな系圖を持參、龍之口に出頭すれば、分に應じて、御家人、旗本に取立てられ、次第によつては、大名にもなれまいものでもあるまいといふ、誠に棚から牡丹餅の沙汰です。
その頃の人達──わけても若い野心家達は、出世といふことを、どんなに熱望したことでせう。家柄や門閥の垣に閉ぢこめられて、大名の子は大名、町人の子は町人、乞食の子は乞食、其處から一歩も踏出すことは出來なかつた世の中です。
假に金を積んで旗本御家人の株を買ふことが出來たといつても、その爲には少なくとも數千金を投じなければならず、一般の貧乏人などには、どんなに才能があつたところで、出世や立身などといふことは、夢のやうな話です。
それが、祖先の手柄を認められて、公儀からお召となつたのですから、染井家一門の喜びは大變なもの。
ところが、いざ名乘つて出ることになつて、當主の染井鬼三郎は中風で寢たつ切り、業平朝臣から、先々代染井右近、當代染井鬼三郎の名を連ねた、牙軸鳥の子仕立、金襴表裝の系圖書が何處へ行つたかわかりません。
當主の甥の福之助、幼な心に覺えのある系圖を、家中引つくり返すやうにして搜しましたが見當りません。離屋二階に寢て居る、名ばかりは當主の染井鬼三郎の枕を叩くやうにして訊いたが、
「レロ、レロ、レロ」
と、これは呂律も廻らないのです。
「そこで、錢形の親分を頼み度いといふわけ、こいつは無理もないでせう。その系圖が出て來て、恐れ乍らと龍之口へ持つて出ると、一萬石の大名に取立てられないものでもない。輕く扱はれても何千石のお旗本、將軍樣から格別の御會釋があらうといふわけ。どうです親分、さう聽くと百兩の褒美は、大したこともないでせう」
八五郎はその褒美を貰つてしまつたやうに勢ひ立つのです。
「待ちなよ、八、俺が大名に取立てられるわけぢやあるまい」
平次は泰然として馬鹿なことを言ふのでした。
「當り前ですよ。錢形の親分は、どんなに捕物が名人でも、大名になつてくれとは言やしません。公方樣だつて、お門多いことだから」
「それぢや止さうよ。尤も、大名なんかには成り度くないがね。此上、天下の喰ひ潰しを一人殖す手傳ひも御免蒙らうぢやないか」
「喰ひ潰し?」
「俺はさう思つて居るよ。大名が多くなれば、百姓町人は難儀するばかりさ。尤も、俺が斯んなことを言つたと、人には言ふな。もう少しガン首を肩の上に載つけて置かなきや都合が惡いから」
「呆れたものだ」
八五郎は膽を潰しました。寶搜しにさへ乘り出さない平次です。系圖の餅では動き出しさうもありません。
それから三四日、大事な追ひ込みがあつて、八王子まで行つた平次が、御用が一段落になつて神田明神下の家へ歸り、一と晩休んで、漸く旅の疲れが取れたところへ、八五郎がプリプリし乍らやつて來たのです。
「親分は戻りましたか──」
「昨夜遲く歸つて、先刻起き出したばかりですよ。何んか御用? 八さん」
女房のお靜は、お勝手から廻つて、格子の横へ顏を出しました。
「今日は親分に文句を言ひに來ましたよ、──だから言はないこつちやねえ──と」
「あら、八さん、どうなすつたの? 大變な御機嫌ね。喧嘩ぢやありませんか、肩のあたりは大變な泥ですが」
お靜は心安だてに、八五郎の後ろへ廻つて、袷の肩を叩いてやらうとすると、
「放つて置いて下さい。巣鴨で小半日縁の下を這廻つたんだから、袷に泥もつきますよ」
「まア、まるで、私のせゐ見たやうね。どうなすつたの、八さん」
お靜は手を引つ込めて、大きい眼を見張りました。いつまでも娘氣の拔けない、初々しい女房振りです。
「親分が直ぐ出かけて下されば、こんな騷ぎにならずに濟んだかも知れませんよ」
八五郎がぷん〳〵してゐる原因は、其處でした。
「何を言やがる、俺が旅へ出たのが惡いといふのか」
平次は奧から顏を出しました。
「さう言ふわけぢやありませんがね」
八五郎は少したじろぎます。
「それぢや、どうしろと言ふんだ」
「人が殺されましたよ、親分。斯うなりやこちとらの畑ぢやありませんか」
「誰が殺されたんだ」
「巣鴨の染井鬼三郎が、一昨日の晩殺されましたよ」
「何日、誰が殺したんだ」
「それが判りさへすれば、あつしの手柄にしましたよ」
八五郎は始めて肩を落してニヤリとしました。錢形平次ともあらうものが、不意を突かれると、斯んな愚問を發するのが面白かつたのです。
「さうか、そいつは成程俺の手ぬかりだつたが──百兩欲しさに、系圖搜しは俺の性分では出來ないことだよ。それに御用があつて八王子──いやこいつは言ひわけだ、八五郎さへ面白くねえ顏をして居るくらゐだから、止して置かう。ところで、留守中にどんな事が起つたのだ。詳しく話して見るが宜い」
平次は素直に折れました。殺しがあつた上は、事件の底の底まで搜つて、下手人を擧げてやらうと言つた、御用聞の責任感に立ち還ります。
「巣鴨の染井鬼三郎が殺されたのは一昨日の晩。昨日そいつを見付けて大騷動が始まり、お葬ひの仕度と下手人搜しで面喰らつてゐると、昨夜お通夜の眞つ唯中、家の内も外も、人垣を作るほどの中から、死骸が見えなくなつてしまつたとしたら、どんなものです。こいつは親分だつて驚くでせう」
まさに驚天動地と言つた、大袈裟な身振りをして、八五郎は顎を撫でるのです。
「成程、これは大變だ、──それからどうした」
「それつ切りですよ、──死骸の見えなくなつたのは夜半過ぎ、それから朝へかけて天井裏から物置、落しの中から床下まで、三度も潜つて調べたが、掃除が行屆いて居て、鼠の死骸もありやしません。袷に泥もつくわけぢやありませんか」
「フーム、その死骸──といふか、佛樣を置いた部屋には誰も居なかつたのか」
「お通夜は半通夜で、近所の衆も親類方も引取つて貰ひ、近い身内の者と、あつしを始め土地の御用聞だけが、階下の部屋に引下がつて、夜の明けるのを待つて居りました」
「すると、暫らくの間は佛樣だけか」
「ほんの四半刻(三十分)くらゐのものでしたよ。梯子の下は御用聞手先が固めて居るし、御檢屍は濟んだと言つても、下手人も擧がらないことだから、誰も遠慮をして、死骸の傍へは寄り付かなかつたわけです」
「成程な」
「氣が附いて見ると、──鬼三郎の娘のお幽さんといふ、あれは飛んだ良い娘ですぜ。何んかわけがあつて、牛込の親類に預けられて居るのが、父親の變死の知らせで晝のうちから來て居り、水をブツ掛けられた草花のやうに萎れて居りましたが、父親の死顏を見て、お線香でも上げようと、そつと二階へ登つて行くと、死骸を寢かしてあつた床は空つぽ、キヤツといふ騷ぎで、いやもう」
「その娘は幾つだ」
「十八、父親が變りもので自分の名前に鬼が付いてゐるくらゐだから、娘の名前にも幽靈の幽の字を取つて、お幽とつけたといふことで」
「物好きだな、兎も角出かけて見よう。實地を調べた上でないと話が出來ない」
旅の疲れも拔け切らない平次は、事件の相貌の重大さに鼓舞されて、もう獵犬のやうに張り切つて居ります。
晝近い春の陽、うら〳〵と霞む本郷通りを、二人は巣鴨へ飛んだことは言ふまでもありません。
巣鴨の染井家は、まことにてんやわんやの騷ぎでした。主人と言つても、隱居同樣の染井鬼三郎が、床の中で絞め殺され、その始末もつかぬうちに、翌る晩には、死骸が紛失してしまつたのです。
「錢形の親分ださうで、私は亡くなつた主人の甥の福之助でございます。飛んだお手數をかけます」
四十前後の、それは立派な男でした。染井家は土地の舊家で、何百年と傳はる豪族ですが、大した金持といふわけでは無く、かなりの土地を持つて、その收入で手堅く暮してゐると言つた、江戸の郊外によくある旦那衆だつたのです。
「大變なことでしたな。ところで、あつしは旅から歸つたばかりで、何んにも知りません。最初から詳しく話して下さい」
年代の古びたドツシリした調度の中に、平次は──今は此家の主人同樣の福之助と相對しました。素姓の良いせゐか、明日からでも大名にも大旗本にもなれさうな人品ですが、今の身分は苗字帶刀を許されてゐるだけのこと、態度も身扮も、町人風の慇懃さです。
「一昨日の晩は、折惡しく私は留守にいたして居りました。品川まで所用あつて參り、遲くなつて、品川宿の島屋佐兵衞の家へ泊り、昨日晝少し前に歸つて來ると、伯父の鬼三郎が、二階の自分の床の上で、絞め殺されて居るといふ騷ぎでした」
「鬼三郎さんは身體がよくなかつたといふことだが──」
「左樣で、二年前からの中風で、右半身が利かない上に、心持も昔の通りとは申されません。若い頃は本當に鬼だ、鬼三郎だと申された、剛氣の人でしたが、まだ五十を越したばかりなのに、近頃はもう子供も同樣で」
「戸や窓は開いて居なかつたのかな」
「二階の窓が開いて居たさうで。二階と申しても、中二階同樣の至つて低い二階や、格子も何んにもありませんから、その氣にさへなれば、女子供にも忍び込めます」
「その伯父さんを怨んでゐる者は無かつたのかな」
「そんなものがあるわけもございません。中風で寢たつ切りの佛樣のやうな伯父で」
「その伯父さんを殺して、誰が儲かるのでせう」
平次はズバリと言つて退けました、向う三軒筒拔けに聽えさうな聲です。
「儲かる者なんかあるわけはない。現に、染井家祖先の手柄について、公儀の御調が始まつて居る最中です」
福之助は少しムツとした調子で答へました。
「伯父さんが、亡くなれば、公儀のお調べもそれツ切りになるわけで」
「いや、そんなことは御座いません。當主の染井鬼三郎が急死すれば、その跡取になつて居る、甥の私が當主といふことになります」
「すると、貴方は矢張り儲かる方で」
「何、何んといふことだ。町方役人とは申せ、私も苗字帶刀を許されて居る身分ですぞ、──伯父が死んで、儲かるとは何事ツ」
福之助は、いかにも沸然としました。伯父が殺された當夜、此家に居なかつたといふ、上等過ぎるほど上等の不在證明が、この名家の裔の中年男をカツとさした樣子です。
「いや、これは飛んだことを申しました。ところで、御内儀は?」
平次はあわてて話題を逸らします。
「私が、當家の家内、富と申します」
後ろの唐紙が開いて、蒼白い顏が挨拶しました。三十七八の淋しく華奢な女です。
「あ、丁度宜い、錢形の親分に、いろ〳〵申し上げるが宜い」
福之助は口を添へました、今までこの内儀は、襖の蔭で聽いて居た樣子です。
「何んにも申上げることはございません。私はこの二日間、お勝手の方にばかり居りましたので」
「すると、鬼三郎さんが死んで居るのを見附けたのは?」
「姪のお梅でございます。丁度主人は品川泊りで留守、隨分心配をいたしました」
「そのお梅さんとやらは」
「此方へ呼びませう」
福之助が手を叩いて下女を呼ぶと、何やら言ひ附けました。と間もなく、二人の若い娘が押し並ぶやうに、縁側に手を突くのです。
「これは家内の姪のお梅、──そちらは、亡くなつた伯父鬼三郎の娘で私には從妹に當るお幽と申します」
「──」
平次は妙な氣持になりました。内儀の姪のお梅といふのは、豊滿な娘で、もう二十近く、少しばかり下品ですが、拵へたやうな愛嬌は滴るばかり、先づは平凡な唯の娘ですが、その後ろに控へたお幽といふのは、これこそ非凡の娘でした。ほつそりして、顏色なども沈んだ眞珠色ですが、髮が多く、眼が大きくて、何にか斯う深々とした内容的なものを感じさせます。
「お幽さんに訊き度いが、どうしてお前さんは、此家に住まなかつたんだ」
平次はこの淋しく美しい娘に問ひを向けました。
「父親の指圖でございました。丁度二年前から、牛込の叔母さんのところに預けられて、滅多に此處へ歸つて來ることもならなかつたのでございます」
「中氣で身體の自由でない父親が──」
「それは何より私の惱みでございました。でも、伊之吉が居てくれるから、お前は心配はいらないと、父は申しました」
「伊之吉?」
「あの方が伊之吉さんで」
お幽の指した方を見ると、庭で何やら用事をして居る若い男、それは遠縁の者で、此家で手代のやうに働いて居る青年だつたのです。
「何んか私に御用で?」
自分の名を呼ばれて氣が附いたらしく、伊之吉は縁側近く來て挨拶しました。色の淺黒い、キリリとした青年で、この男なら、お幽のために、父親の看病位一手に引受け兼ねないと思はれるふしがあります。
「いろ〳〵訊き度いが、主人鬼三郎さんが殺された晩、何にか氣のつくことはなかつたか」
平次は平凡なことを訊ねました。この男の承け應へを試さうといふのでせう。
「何んにも存じません。旦那樣のお手當をして、宵のうちに自分の部屋へ引込んでしまひましたので」
「翌る日の夜、死骸のなくなつた時は?」
「一日親類方へ知らせに廻り、よほど疲れたものと見えて、半通夜が濟むとぐつすり寢込んでしまひました」
「すると、二た晩とも、何處へも行かなかつたわけだな」
「その通りでございます」
「亡くなつた主人のことをお前はどう思ふ」
「立派な、良い方でしたが、──でも御病氣のせゐか、近頃は少し氣むづかしくなつて居りました」
「何にか、主人のことに就いて、お前は變だと思つたことはないか」
「さう、さう言はれると、御主人には妙な癖がありました」
「癖?」
「あんなにお身體が不自由なのに、腹卷だけは自分で締め直し、決して私共に背中を見せなかつたことです」
「湯に入るときはどうする」
「行水をお使ひになりましたが、その時でも腹卷は卷いたつきりで、身體を拭いてから、新しい腹卷と、自分で取替へられました。隨分不自由さうでしたけれども」
「それはどういふわけか、お前には解るだらうと思ふが──」
平吹は突つ込んで訊きました。
「旦那樣の背から腹へかけて、帶幅ほどの彫物があつたやうでございます」
「彫物?」
「唐艸模樣のやうな、文字のやうな、どうかしたら、若い時言ひ交した、女の名前だつたかも知れません」
先代染井鬼三郎の奇癖は、この帶幅の彫物を隱す爲であつたと言つても差支へはないでせう。
「御當主福之助さんも、それを御存じでせうな」
平次は福之助の取すました顏を振り返りました。
「いや、人の噂には聽いて居りますが、私はまだ見たことはありません」
「御内儀も?」
「──」
内儀のお富は固い表情で默つてしまひました。
「親分」
主人鬼三郎が殺されて、その死骸が紛失した現場、──二階の部屋へ平次はわざと一人で行くと、後から八五郎がついて來ます。
「何んだ、八」
「あの男ですよ、──あつしに系圖さがしを頼んだのは」
「福之助が一存でやつたことかな」
「伯父の鬼三郎とは仲が惡かつたやうですから、どうせあの男の一存でせう」
「百兩の褒美は何處から出す氣だつたんだ」
「さア、人の懷ろ具合までは知りませんが、本人がさう言つたんだから、當てのある仕事でせうよ、──親分はどうして、系圖のことを突つ込んで見なかつたんです」
八五郎はそれが齒痒さうでした。
「脈を引くにはまだ早いよ。お前は間拔けな顏をして居れば宜いんだ」
「間拔けな顏は地ですがね」
「利口さうに見えるのは附け燒刄か」
そんな事を言ひ乍ら、二階へ登りました。至つて質素な六疊で、屏風も花も線香まで用意してありますが、肝心の床の中は空つぽ、寒々とした不氣味さを感じさせます。
「お前は確かに、此處に死骸を置いてあるのを見たことだらうな」
「見ましたとも、首を締めた細紐まで見ましたよ。尤も仰向になつて居ましたが、不思議なことに結び目が首の後ろにあつたやうで」
「變なことを言ふぢやないか。紋め殺された死骸は仰向になるのは當り前ぢやないか」
平次は聞きとがめました。八五郎の言葉には、妙な含みがあります。
「ところが當り前ぢやないんで」
「なぜだい」
「死骸を見て、伊之吉が變な顏をして居るから、蔭へ引つ張つて行つて訊くと、──伯父の鬼三郎は、中風になつて身體が惡くなつてから、俯向になつて、枕に額を當てて眠る癖があつた──といふんで」
「珍らしい癖だが、身體の惡い人には、ないこともあるまい、それが?」
「それが、伯父の死骸は仰向になつて居るから、伊之吉が變な顏をしたのも無理はありません。その上、首を絞めた丈夫な紐が、後ろで結んである。尚ほ變ぢやありませんか」
「良いことを聞かしてくれた。もしそれが本當だとすると、俺は考へ直さなきやなるまい」
「何を考へ直すんです、親分」
「染井鬼三郎は痩せても枯れても豪士だ。武藝の心得もあつたことだらうな」
平次は妙な方に話を持つて行きます。
「若い頃は武藝自慢だつたさうで、五十を越しても良い身體をして居ましたよ」
「それほどの男が、少々身體が不自由でも、腹帶も自分で締め直せるといふのに、女子供に易々と絞め殺される筈はない」
「へエ──」
「俺は間違ひもなく、下手人は大の男だと思つたよ、──ところが、俯向になつて眠つて居るところを絞められたとわかると、話が違つて來る」
「──」
「俯向きになつてゐると、手足をもがきやうもなく、枕に額を押しつけたまゝ殺されるわけだ。下手人は片膝を働かせ乍らやるから、隨分女子供にも出來ないことはない。鬼三郎は中風でそれをハネ返す力もなかつたことだらう」
「──」
「その上、絞めた細紐を後ろ首で結んであつたといふのは、何よりの證據ぢやないか。品川の島屋などへ行つて、染井福之助がその晩泊つたかどうか、調べるまでもあるまいよ」
「すると親分」
「待つてくれ、あわてちやいけない。まだ下手人はわかつたわけぢやない」
「ぢやこれから何をやらかしや宜いんで」
「主人の死骸が、何處へ消えたか、それを搜し出すんだ。それから死骸が紛失したとき、福之助は皆んなの前から姿を隱さなかつたか」
「成る程ね」
「梯子段の下には二三十の眼玉がある。死骸は宙に消えるわけはないから、窓から持出したに違ひあるまい、──縁の下を三べんも這ひ廻つて、プリプリした野郎は誰だつけ」
「すると、此處から──」
「馬鹿だなア、窓の内をキヨロキヨロ見廻したところで今頃何があるものか、外へ出ろ」
「へエ」
八五郎は窓から狹い霧除けへ出て、外へポイと飛降りました。中二階ほどの低い窓で、大したはずみもつきません。
「其處に何にか跡が殘つちや居ないか、泥は柔かい筈だが」
「足跡なんかありませんよ」
「そんな間拔けなものぢやない、梯子の足の跡は?」
「ありませんね」
「陽の具合が惡い。地べたに顏を當てるやうにして、横から透して見るんだ、さう〳〵」
「あ、窓のすぐ下──と言つても、一間も離れたところに、板を置いた跡がありますよ。それも行儀よく二尺ほど離して二枚」
「板の先は?」
「萠え出した草地ですよ」
「車だよ、八」
「へエ、何んの車で?」
「大八車を持つて來て、張板を二枚敷いて窓の下へつけたのだ」
「でも、腰高窓の敷居越しに、窓の下の大八車に死骸をおろすのは、大變な力業ですよ。あの人は十五六貫はあつた筈だから、女子供に出來ることぢやありません」
「待て〳〵」
平次は考へ込んでしまひました。此處まで來て、又ハタと行詰つたのです。
「何んだつて、そんな危ないことをしたんでせう。死骸を盜んで何をする氣でせう」
八五郎はうまい事に氣がつきました。
「それは俺も考へて居るよ。なか〳〵わからなかつたが、先刻の腹卷の話で漸くわかつたよ。曲者は鬼三郎の腹卷に隱した、彫物が見たかつたのだ」
「あ、成る」
「お前表から廻つて、家中の者に聽いて來い。昨夜、半通夜が濟んでから、線香を替へに二階へ來たものがあるに違ひない。男で二階へ登つたものはないか、それを訊くんだ」
「へエ」
「それから此邊に庵寺か、空家か、大きな物置はないか。家を普請して居るところはないか。序にそれも訊いてくれ」
「それつきりで」
「家へ入るとき、足を拭くのを忘れるな。その足で入られちや大變だぞ」
平次はそんなことまで氣をくばるのでした。
「八、來い」
二人はいきなり外に飛出しました。
「何處へ行くんです、親分」
「お前が言つたぢやないか。第一に福之助は階下で頑張つて何處へも行かないし、二階に線香を代へに行つたのは内儀のお富だと、それから此邊には堂宮や庵寺がうんとあるが、死骸を持込みさうなところは、お藥園裏の無住の尼寺の外にはない」
「なるほどね、尼寺は手廻しの良いことで」
「お葬を持ち込んだわけぢやないよ」
「さう言へば、あの林の中に、荷車が捨ててありますよ」
「しめたツ」
二人はまつしぐらに林の中へ入ると、尼寺の戸へ躰當りをくれました。
戸が何んの抵抗もなく開いて、八五郎が突つ轉んだのは、まさに、正面佛壇の下に横たへた、殆んど半裸體の死骸の上だつたのです。
「わツ氣味が惡い。死骸があつしの頬を嘗めましたよ」
「何をつまらねえ、──お前はこの死骸をよく知つてるだらう」
「間違ひなく、染井鬼三郎ですよ」
「ところで、曲者は、何んだつて死骸をこんなところに持込んだんだ」
「あつしのせゐ見たいに言はないで下さい。おや、腹卷が解けて、百尋みたいな──」
「いやな事を言ふな。おや、おや、おや、腹卷の下を見ろ、背中の方だ」
「皮を剥いだんですね、ひどい事をしやがる」
「彫物が知りたかつたのだよ。そして他の者には見せ度くなかつたのだ。死骸を尼寺の中に持込んで、佛壇の前で皮を剥ぐ──」
「ひどい事をやつたもんです。間違ひもなくこいつは地獄行だ」
「腹を立てたつて何んにもならないよ」
「その死骸の皮には、どんな彫物があつたでせう」
「百兩出しても見付け度いといふ、染井家の系圖かな」
「それに違ひありませんよ」
「あわてるな、八、そいつは素人料簡だ。系圖を背中に彫物にしたところで、それを上樣のお目にかけるわけに行くまい」
「?」
「系圖ではあるまい。系圖を隱してある場所かな、それとも」
「兎も角歸りませうよ。死骸を染井家へ運ばせなきや」
「それはわかつて居るが、その前に、もう一つ氣のついたことがある」
「何んです、それは」
「林の中に捨てた大八車に、妙なものが附いて居たんだ」
「?」
平次は懷紙を出して、八五郎の眼の前に開いて見せました。
「車の上から拾つた、キラキラする屑だよ。これを何んだと思ふ、八」
「さア、見當もつきませんよ」
「法衣か袈裟か、古幅の表裝か、それとも女の締める帶かな、──間違ひもなくこれは金襴の屑だよ」
「さう言へばさうですね」
「女の帶は鯨の一丈だ。その端を窓の敷居にしかと留め、一方の端を窓の外の大八車に留めて、死骸を上から滑らせたのだ。金襴はよく滑るぞ──この術でやると、非力なものでも、二階から窓下の大八車に死骸をおろせる」
「へツ、うまい事を考へたもので」
「お前はその帶を見付けるのだ。金襴の立派な帶が、ひどく損んでゐる。兩方の端には穴くらゐあいたかも知れない」
「そんなものなら、わけはありませんよ。ちよいと家搜しをすれば」
「さうお手輕には行くまい。帶は何處かへやつてしまつたことだらう」
「さうでせうか」
「もう一つ術がある」
「?」
「この彫物は決して古いものではあるまい。誰が彫つたのか知り度い。彫物師は、人肌に彫物をする時は、必ず下繪を作るものだ。その下繪を持つて居るに違ひない」
「わけはありませんよ。彫物師も上手になると、江戸に何人とありません。どうせ此近くなら、神田の彫辰か、竹町の彫定か──」
「そいつを直ぐ調べるのだ。ぬかるな、相手は飛んだ手剛いぞ」
「何んの」
八五郎は飛んで行きました。この事件ももう山が見えたやうですが、思はぬところに躓きがあつて、錢形平次をもう一つ唸らせてしまつたのです。
「親分、──驚いたね、どうも」
八五郎が明神下の平次の家へ歸つたのは、もう暗くなつてからでした。
「どうした八、腹が減つたらう。有合せの乾物で底を入れてから話して見るが宜い。大した結構な手柄もなかつたやうだが」
平次はそれを迎へて、お勝手に合圖を送つて居ります。
「丸潰れだよ、親分」
「彫辰か、彫定に逢つたのか」
「逢ひませんよ、──彫辰は旅へ出て留守、竹町の彫定は、三日前から行方不知ですぜ」
「行方不知は穩かぢやないな、どうしたんだ」
「湯へ行く恰好でフラリと出たつきり、いまだに戻らないさうで」
「それつきりか」
「湯屋の前で若い女と立話をして居たのを見た者がありますが、濡手拭をブラ下げての駈落は珍らしい」
「はてな?」
平次は首を捻りました。
「親分、これはどんなことでせう。湯屋から消えて三日、氣になりますね」
「相手は容易ならぬ曲者だ。──なア、八、白状すると、俺の方も大縮尻さ」
「へエ、親分の方もね」
「あの家中の者に訊いたが、金襴などは何處にもなかつたぜ」
「へエ?」
「内儀のお富は貧乏人の子で、金襴の帶どころか、ろくな前掛も持たずに嫁入して居るし、姪のお梅は、お轉婆で粹好みで、そんな大時代なものは大嫌ひ。鬼三郎の娘のお幽は、金襴の帶くらゐは持つて居たかも知れないが、牛込の叔母さんのところへ行つて留守。よしや居たところで、實の父親の皮を剥ぐとは思はれない」
「すると、どうなるでせう。親分」
「行止りよ。袋路地に入つてしまつたのさ」
平次は投げ出してしまひました。事件が大袈裟で出鱈目で、馬鹿々々しく見えたくせに、いやにこんがらかつて、平次の叡智にも及ばない厄介さがあつたのです。
「これから先、どうすれば宜いのでせう」
八五郎が悲鳴をあげたのも無理のないことでした。
「此上は鬼三郎の娘のお幽に聽く外はあるまいな」
「でも、あの娘は、こちとらには喰ひつけませんよ。用心深く殼の中へ入つて居るやうで」
「それを俺は心配して居るんだ」
「──」
「でも、染井鬼三郎の彫物は大したものでないやうな氣がしてならないのさ」
平次は妙なことを言ひ出しました。
「それは、どういふわけです」
「考へて見るが宜い。文字にも書けないほどの大事なことを、自分の身體に刺青にする奴があるだらうか」
「──」
「自分の背中に彫つたものは、自分には讀めないのだよ」
「鏡といふものがあるぢやありませんか」
八五郎は氣のきいたことを言ひました。
「鏡に映るのは左文字だよ。その上、人間の背中を、まる〳〵映すやうな鏡は何處かのお社の拜殿でもなければ備へ付けてはゐないよ」
平次は言ふのです。その頃ギヤーマンに水銀を塗つた鏡も無いではありませんが、非常に珍らしくて高價で、ザラに町人の手に入るものではなく、一般の鏡の上等の品と言つても白銅製のもので、それも甚だ不完全で、人間の背中一面を完全に映すやうなものはまだ出來て居なかつたのです。
「すると、どうなるでせう、親分」
「皆んな嘘だよ。系圖を彫物にするといふのも嘘なら、系圖の隱した場所を、刺青で教へるといふのも嘘だ」
「?」
「兎も角、此上はお幽に口を割らせる外は無いが、あの娘は滅法綺麗な癖に、神々しいほど取澄してるから、俺やお前ぢや手に負へまい」
「御白洲へ引出して石を抱かせるには、少し痛々しい」
「馬鹿なことを言へ。そんな虐たらしいことが出來るか」
「良いことがありますよ。あの娘と染井の手代伊之吉とは、唯の仲ぢやありませんね」
「何をツ?」
「錢形の親分も、此道にかけると、まるで唯の人だ。物言ひ、物腰、目のやり場、あつしは二人がちやんと出來て居ると睨みましたよ。堅い娘ほどこの道には脆い。一つ伊之吉に當らせませう」
「そいつは良い思案かも知れない。それについて、これだけの事を言ふが良い」
「へエ〳〵」
「あの娘の父親を殺したのは、女に違ひない。父親の染井鬼三郎が仰向に眠つて居るところへ忍び込み、首の下に前から仕掛けた細紐で絞め殺し、窓の下へ相棒に大八車を持ち込ませ、窓の敷居から車の上へ、金襴の帶を張り渡して、死骸を車の上へ滑らせた、──その仕掛けを皆んな話してやるのだ」
「──」
「金襴の帶は多分お幽のものに違ひあるまい。それが出て來ると、お幽は親殺しの疑ひを受ける、──曲者はちやんと其處まで用意してあるのだ。帶の兩端はひどく損じて居ることだらう、──そこで曲者は死骸を無住の尼寺に運び、其處で死骸の皮を剥いだ。死骸の背中、丁度褌の三つのあたり、文句が隱してあるに違ひないが、人目のあるところでは讀みきれないか、讀んでもその意味がわからないので、生皮のまゝ手に入れ、念入りに判じようといふ企みだらう」
「へエ、恐ろしい野郎で」
「野郎ぢやない、曲者は女だよ。刺青の文句は染井家の系圖である筈はないから、系圖を隱してある場所の繪圖面かも知れない。どうかしたら、何んでもないものかも知れない、染井鬼三郎といふ人は、餘つ程智惠の廻る人らしいから」
「──」
「先祖の染井右近の系圖が見付かれば、染井の跡取は召出されて、大名と行かないまでも、旗本御家人くらゐに取立てられるかも知れない。世間の評判は大きいが、お上は容易に大名などを拵へないから、大したことにならないのかも知れない。兎も角、お幽に當つて見ることだ。父親の染井鬼三郎は、不自由な身體のくせに、どうして娘を叔母のところに預けたか、俺はそれを知り度いのだよ。序に金襴の帶のことも訊き度い」
「よし、やつて見ませう。あの伊之吉といふのは飛んだ好い男で、すつかりあつしと友達になつてしまひましたよ」
八五郎は安請合に請合つて、巣鴨へその晩のうちに飛んで行きました。
× × ×
翌る日の朝、八五郎は伊之吉とお幽をつれて、明神下の平次の家を訪ねて來ました。
「親分さん、私の父親を害めた相手は誰でせう。それを教へて下されば、私は皆んな、申上げてしまひます」
お幽は伊之吉に援けられて、精一杯の氣持で言ふのです。冷たく、底光りがして、あらゆる情熱を眞珠に押し包んだやうな、不思議な娘です。
「お孃さん、よくその氣になりました。親の敵は、染井福之助ぢやありませんよ。福之助を大名にでもする氣の、馬鹿な女の仕業です」
「馬鹿な女?」
「福之助は皆んなに見張られて居るから何んにも出來なかつた。お孃さんの父親を殺して、その皮まで剥いだのは、お孃さんの金襴の帶を盜んで隱して居る女。それも一人では無い、二人の女ですよ」
「すると、矢張り?」
「心配する事はありません、手配はつけてあります。何處へも逃れやう筈はありません」
平次はキツパリと言ひきるのです。
「では申します。父は、自分の背に系圖の隱し場所を彫らせ、萬一の場合には私に讀ませるつもりでしたが、その後、福之助夫婦の氣が知れないので、その刺青を潰してしまひ、すつかり讀めないやうにして、改めて同じものを私の背中に彫らせました」
「あ、成る程」
「隨分用心して人に知られないやうにいたしましたが、父は身體が不自由になると、益々心配になつたらしく、嫌がる私を、叱るやうにして、牛込の叔母に預けました」
「わかりましたよ、それで何も彼も。すると、お孃さんの肌には、系圖の隱し場所が、今でも彫物になつてあるわけですね」
「その通りです」
「その系圖を搜し出して、龍之口に訴へ出ると、いづれ詮議の上、お孃さんのお配偶は、少くとも御旗本御家人に取立てられ、祖先のお手柄で、お孃樣の立身出世にもなる譯ですが」
平次もツイ乘出しました。此處に出世の玉子を身につけた美少女が居るのです。
「いえ、私も、この彫物を潰してしまひ度いと思ひます」
「それは又、どういふわけで」
「こんなものを身につけて置くと、氣味が惡う御座います。それに、伊之さんも、侍は嫌だと申します」
「──」
若い二人は顏を見合せました。
「牛込の叔母は細々と商ひをして居ります。叔母の望み通り、二人は養子に入つて、一生を氣樂に過し度いと思ひます」
お幽は言ひきつて、美しい眉を擧げます。
「系圖は」
「誰も取出すものが無ければ、そのまゝ土の中で腐つてしまひませう」
何んといふこと。若い二人に取つては、そんなものは大した値打がなかつたのでせう。
この時伊之吉は、愼ましく口を挾んで、
「家名は此處で絶えます。御先祖には濟まないと思つても。人殺しまでして爭つた系圖を、出世や金に代へ度くはございません。私もお幽さんも、その氣で居ります」
と、靜かに言ひ添へるのでした。
平次はそれを、良いとも惡いとも言はず、若くて純情な二人を勵ますやうに、うなづいて見せただけのことです。
やがて二人はお靜にまで挨拶して、大急ぎで歸つてしまひました。父染井鬼三郎の死骸を取入れて、お葬ひの仕度をしなければならなかつたのです。
「八、お前はどう思ふ」
平次は路地に消えて行く二人の後ろ姿を指さしました。
「良い話ですね、あつしはもう嬉しくなつて」
「百兩貰ひそこねて、口惜しくはなかつたか」
「飛んでもねえ、此方から百兩やり度いくらゐで」
「百文も無い野郎は、よくそんな氣になるものだよ」
「違げえねえ」
八五郎は顎を撫で廻すと、お靜はお勝手でそつと涙を拭いて居ります。
底本:「錢形平次捕物全集第二十一卷 闇に飛ぶ箭」同光社
1954(昭和29)年2月15日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1953(昭和28)年5月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年9月9日作成
2017年3月4日修正
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