錢形平次捕物控
娘の守袋
野村胡堂
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「親分、あつしのところへ、居候が來ましたよ」
八五郎がまた、妙な報告を持つて來ました。六月のある朝、無風の薄曇り、今日もまた、うんと暑くなりさうな日和です。
「良い年をしてみつともない。何處へ居候に行くんだ」
單衣の尻を端折つて、三文朝顏の世話を燒き乍ら、平次は氣のない返事をして居ります。素足に冷たい土の感觸、こいつはまた、滅法良い心持です。
「あつしが居候に行くんぢやありませんよ。あつしが居候を置いたんで、へツ、大したものでせう」
八五郎は相變らずのお先煙草、大して極りも惡がらずに、縁側の上に大胡坐をかいて、平次の作業を眺めて居るのでした。
「お前が居候を置いた。そいつは豪氣だな。一人置くも二人置くも、大した違ひはあるまいから、序に俺も居候に置いてくれないか。つく〴〵十手捕繩の御奉公がいやになつたよ」
「置いても構ひませんがね。姐さんはどうなさるんで?」
「あ、成程、其處までは考へなかつたよ」
斯う言つた平次と八五郎です。御用がヒマで〳〵、仕樣がない此頃です。
「尤も、あつしのところの居候は女の子だから、少しは役に立ちますよ。煙草も買つてくれるし、使ひ走りもしてくれるし、頼めばお酌もしてくれる」
「頼まなきや、お前の手酌を眺めてゐるのか。押掛け嫁にしちや、少し我儘が過ぎるやうだな」
「へ、ま、そんなことで」
「いやにニヤニヤするぢやないか。何處の店ざらしで、名は何んといふ、年は幾つだ」
「店ざらしなんかぢやありません。枝からもぎ立ての、桃のやうな小娘で、名はお信乃、可愛らしい名でせう」
「年は?」
「少し若い。數へて十三」
「何んだ、まるつ切りのねんねぢやないか。俺はまた、羅生門河岸から轉げ込んだ、膏藥だらけの年明けかと思つて、宜い加減膽をつぶしたよ。年明けの掟は二十七だが、あすこはうんと、お飾りのサバを讀んで、どうかすると男厄も過ぎたのが居るんだつてね。氣をつけた方が宜いぜ」
「そんな化けさうなのに掛り合ひませんよ。あつしを頼つて轉げ込んだのは、お大名の落し胤のやうな娘で、お十三、まだお手玉で遊んでゐますよ。いや、その可愛らしいといふことは──」
八五郎は眼を細くするのです。
「何んだつてまた、そんな娘を、お前見たいな者に預けたんだ」
「お前見たいな──は氣になりますね。これでも、向柳原へ行くと、町内一番の人氣者で」
「まア、その氣で附き合はう。ところで、その娘の身性をまだ訊かなかつたな」
「平右衞門町の上總屋伊八の娘で」
「そいつは合點が行かないね、平右衞門町の伊八は、元は左官だといふが、金廻りが良いので、評判の良い男だ。娘をお前に預けるわけがないぢやないか」
「あつしもそんなことを言つて、隨分斷りましたがね、一緒に住んでゐる妹のお萬がだらしがない上、相長屋の兩隣りが、屑屋の久吉夫婦と、のんべえで喧嘩早い浪人者の檜木官之助ぢや、娘の躾が出來ないばかりでなく、娘が年頃になつたら、どんなことをされるかもわからないと、食扶持つきで、あつしの叔母さんに預けましたよ」
「何んだ。食扶持付きで叔母さんに預けたのなら、お前が居候扱ひをすることはなからう。言はばお客樣見たいなものぢやないか」
「早く言へば、そんなもので」
「そのお客樣をコキ使つたり、お酌をさしちや惡からう」
「叔母さんもさう言ひますよ。でも、お信乃ちやんはあつしと大の仲好しで、頼むと何んでもしてくれますよ」
「勝手な野郎だな」
「でも、叔母さんと二人、鼻突き合せて小言ばかり喰らつてゐるところへ、若い娘が一人割り込んで來たのは、賑やかになつて良いものですね」
それが本音らしい樣子です。相手が十三であらうと、六十八であらうと、話し相手には不足する八五郎ではありません。
「へ、へ、へツ〳〵」
八五郎は顎が外れでもしたやうに、笑ひの止まらない樣子で木戸を押しあけて、庭口から入つて來ました。
「おい、變な野郎が飛込んで來たよ。水でもぶつかけてやれ」
平次はお勝手へ聲をかけました。井戸端では、女房のお靜が洗濯にいそしんでゐる樣子。五月晴れの拔けるやうな良い天氣です。
「それには及びませんよ。──昨夜から笑ひ續けで、何しろピカピカする年増が乘込んで來て、一と晩あつしと睨めつこでせう」
「それが可笑しいのか。馬鹿々々しい」
「だつて、──言ふことを聽いてくれなきや、世間の手前、私も歸るわけには行かない。押掛け嫁のつもりで來たから、部屋の隅にでも泊めてくれ──と、あつしの床の前に坐り込んで──梃でも動かないでせう。餘つ程階下から叔母さんを呼んで、仲人になつて貰はうかと思ひましたがね」
「呆れた野郎だ」
斯う聽くと、八五郎の馬鹿笑ひも、それは複雜なテレ隱しらしく仔細がありさうな氣がして、平次はそれとはなしに、後を促しました。
「平右衞門町の左官の伊八の娘が、あつしのところへ轉げ込んでゐることは、親分に話しましたね」
「十三だつてね。いかに可愛らしい娘でも、そいつは押掛け嫁にならないよ」
「昨夜向柳原へ來たのは、そのお信乃といふ娘の叔母さんのお萬ですよ」
「?」
「叔母と言つた處で、年はまだ若い。亡くなつたお信乃の母親の妹で、出戻りになつて義兄さんの伊八の處に厄介になり、細々と賃仕事なんかをやつて居るが、これがね、親分」
「妙に開き直るぢやないか。少し眼の色が變だぜ」
「二十五になつた許りの、小股の切れ上がつた、少し氣性が勝つてるけれどピカピカするやうな良い年増で、あつしの床の前に坐つて、一と晩まんじりともさせないでせう、いやもう」
八五郎は額を叩いたり、頬を撫でたり、舌を出したりするのです。
「その言ひ分は? どうもお前といふものが相手ぢや、押掛け嫁や借金取りぢやあるめえ」
「口惜しいが、それが圖星で、──手つ取早く言へば、お信乃を歸せといふのですよ」
「何んだつまらねえ、──早く歸しや宜いぢやないか」
「ところが、さう手輕に歸されないことがあるんですよ」
「──」
「誰がどんなこと言つて來ても、娘のお信乃を還してくれちや困ると、父親の伊八にくれ〴〵も念を押されてゐるんで」
「それでお前はどうしたんだ」
「それから一と晩睨めつこですよ。お信乃はお萬叔母さんを怖がつて、あつしの叔母の懷ろの中に隱れて出て來ないし、二人はたうとう勝負がつかないから、睨めつこをしたまゝ首尾よく夜を明かしてしまひましたが」
「何んだつまらねえ」
「でも、二十五の出戻りの、ピカピカする年増と──」
「それはもう三度も聽いたよ」
「お萬といふのは、剛情な女ですね、──たつた一人の姪を側に置き兼ねて、赤の他人に預けたとあつちや、世間體が惡いから、どうしても、連れて歸る──と斯う言ふんです。聽いて見ると伊八は、義理の妹のお萬にも相談せずに、そつと娘のお信乃をあつしのところへ預けたんださうです」
「何にか、わけがありさうだな」
「あつしもさう思ひましたよ。ところが、お萬もそれに氣が付いて、お信乃は何んか持つて來なかつたか──と、うるさく訊くんです」
「何を持つて來たんだ」
「何んにも持つちや居ません」
「飛んだ災難だね」
平次は一應同情しました。
「尤も、あんな客なら、毎晩來たつて退屈しませんよ」
「何をつまらねえ」
「お萬もさう言ひました。當分は毎晩來る──とね」
八五郎は大した迷惑もして居さうもありません。
「サア、大變ツ、親分」
八五郎の大變が飛込んで來たのは、それから又四五日經つてからでした。浴衣の大端折、長刀になつた草履を突つかけて、髷節まで泥をはねあげた淺ましい姿です。
平次はまだ朝飯が濟んだばかり。梅雨の前觸れらしい村雨が、曉方から降つては霽れ、晴れては降り、妙に人じらしな空合です。
「どうした、八。叔母さんに追ひ出されたやうな恰好ぢやないか。下駄のない國から、夜逃げをして來たわけぢやあるめえ」
「落着いちやいけませんよ。平右衞門町の伊八が、昨夜首をくゝつて死んでしまひましたよ。妹のお萬が知らせてくれたんで、一緒に飛んで行つて見ましたが」
八五郎は拳固で鼻をかなぐり捨てるのです。
「手當をして見たのか」
「冷たくなつて伸び切つて居るんですもの、どうすることも出來ません。行つて見て下さいよ、親分」
「俺が行つたところで仕樣があるまいよ」
「でも、腑に落ちないことだらけですよ」
「?」
「伊八が死ぬ前、こちとらに一人娘を頼んだのは、行儀見習とも思へないし、左官乍ら工面の良い伊八が、喰ふに困つての娘を稼がせたわけでなく、それに──」
「それに」
「いざ娘のお信乃を出すとき、父親の伊八が別れを惜んで、──老少不定だの、何時死ぬかも知れないのと、妙なことばかり言つたさうですよ。それに、此間から、誰かに殺されるかも知れないやうなことばかり言つて居たとしたら、──これは唯事ぢやありませんね」
「首でも縊らうといふ人間は、そんな事くらゐは言ふだらうよ」
平次はまだ氣乘りのしない樣子です。
「まだありますよ。左官の伊八は、隨分大金を持つて居たらしいんです。それも職人の稼ぎ溜めた五兩や十兩ではなく、何百兩か何千兩かあつたらしい──と」
「それは何處から聽いた?」
「お萬がさう言ふんだから嘘ぢやないでせう」
「よし、行つて見よう。そいつは放つて置けない」
「有難い、それであつしも義理が立ちますよ」
娘お信乃を托された、伊八への義理に、八五郎はこだはつて居るのでせう。
明神下から平右衞門町は一と走り、狐の嫁入りの村雨に濡れ乍ら、平次と八五郎は驅けつけました。左官の伊八の家は表通りではなく、路地を入つて三軒長屋、その眞ん中の家がそれだつたのです。
尤も三軒長屋が三軒とも、物持ちの伊八の持家で、右手の屑屋久吉夫婦と、左手の浪人檜木官之助は、伊八の昔馴染で、前から住んでゐる人を追つ拂つて住み込み、家賃も拂はずに、威張り返つて家主の伊八の世話になつて居ります。伊八の妹のお萬は、平次と八五郎を待つて居りました。
「ま、親分さん」
その顏には、さすがにためらひのない驚きと、喜びの色が漲ります。此間にも平次が、伊八の家の軒下を見ると、昨夜からの小雨で濕つた土の上へ朴齒の跡が二つ三つ附いて居ります。
三軒長屋の中の家、左官の伊八の住居は、まことに粗末なものではありますが、何んとなく豊かな感じがして居るのは、物持で評判の伊八が、世間へ憚り乍ら、精一杯の贅をつくして居たためでせう。
「この通りですもの、親分」
お萬が案内してくれたのは、たつた二た間の次の部屋、床は敷いてありますが、それを隅の方に押しつくねて、古い疊の上に、五十男の伊八が、ボロきれのやうに崩折れて居るのです。
「もう陽が高いのに、佛樣を此始末はひどからう」
平次もさすがに、この有樣を見兼ねました。
「でも、御近所の衆は、ふだんから仲が惡くて、呼んだつて來て下さらないし、江戸には親類といふものもなく、町役人に申上げたけれど、一寸見ただけで、──日頃の心掛が惡いからだ──とか何んとか言つて、すぐ戻つてしまひました」
お萬は泣き度いやうな顏をするのです。小柄な丸ぽちやで、可愛らしさの拔けない年増振り、泣いてなんか居ないことは、平次にもよくわかります。
此上は佛の始末をして、お寺に屆ける外はありませんが、女の手一つでは、それもむづかしいらしく、投込み葬ひをするにしても、人手がなければどうすることも出來ません。
「お萬は此家に居なかつたことは確かだな」
平次は改めてお萬の顏を見ました。
「八五郎親分がよく御存じの筈です。一と晩睨めつこをして、歸つて來ると此始末なんですもの」
チラリと八五郎を見たお萬の顏には、でも、少しは女らしい耻らひの影がさしたやうでもあります。
「どれ、一應」
平次は立ち上がりましたが、あまりのことに見兼ねたものか、手習机やら、線香やらを、八五郎に言ひつけて取出させ、さて死骸を調べにかゝりました。
伊八は若く見える男ですが、實は五十六になつて居るさうで、何方かと言ふと、小意氣な感じの方。勞働者らしく手足は荒れて居りますが、まだ若くもあり丈夫でもあり、眼さへ開いて居れば、女子供には締め殺されさうもありません。首を絞めた繩は、何んの變哲もない細引で、麻の三つぐり、商賣用に作つたものらしく、なか〳〵に頑丈です。
「おや、繩は途中で切つてあるが」
平次は先づそれに氣がつきました。伊八の命を奪つた繩は、罠になつて、首を突つ込んでブラさがれば、そのまゝ引締まるやうになつて居りますが、頭の上一尺ほどのところで、切れない刄物で切つたらしく、麻繩がゴシゴシと三分の二ほど切られ、殘りの三分の一は、死骸の重さで引き千切られて居るのでよくわかります。
「私は何んにも知りません。朝歸つて見ると、戸が開いて、こんなになつて居りました」
「御近所は近いな」
「兩方は壁隣りで、お向うだつて鼻の先です。小さいくしやみをしても聽えます」
「お向うはどんな人が住んでゐるんだ」
「二軒長屋で、一軒は空いて居ますが、一軒は按摩さんの宅の市さんが住んでます。獨り者で」
「すると誰が、此繩を切つて、死骸を引きおろしたのだ」
「──」
「お萬は昨夜、此處へは戻らなかつたのか」
「宵のうち──まだ戌刻(八時)そこ〳〵に出て、お湯へ入つて、それから八五郎親分のところに頑張つて來たんですもの」
お萬の言葉に、八五郎も頷いて居ります。
「八、お前はこの近所の人を知つてるだらうな」
「皆んな知つて居ますよ。大きい聲ぢや言へねえが、油斷のならねえのが揃つて居るやうで」
言ひかけて、八五郎は自分の口に蓋をしました。誰やら、當てつけがましい、大きな咳をして居ります。尤も八五郎の聲は──大きな聲ぢや言へねえが──と斷り乍ら、淺草橋の御見附まで聽えさうな、遠慮のないドラ聲をブツ放すのです。
「踏臺は元から此處にあつたのか」
「ハイ」
「誰も動かしやしまいな」
「氣味が惡いんですもの、私は一と眼見ると驚いて飛出し、八五郎親分を呼びに行きました。──それつきりです」
平次はそれを聽き乍ら、默つて踏臺と睨めつこをして居ります。何處にもある半開の扇型の、紙屑入と兼用の踏臺です。
「何にか變なことがありますか? 親分」
「お萬が動かさなかつたといふと、佛樣が踏臺を其處へ持つて行つて据ゑたのかな」
「へエ?」
「首を縊つた者は、大概自分の足で思ひ切り踏臺を踏飛ばすものだ。踏臺が足にさはつて居ちや、それが未練になつて、一と思ひに死ねるものぢやない」
「?」
「蹴飛ばした踏臺が、三尺も先へ普通に滑つて行つて、行儀よく立つて居る筈はない。此疊はボロボロだし、雜物が多過ぎる」
「?」
平次の烱眼が、早くも此事件の底の不合理さを見出したのです。
「それに──」
平次は續けました。その踏臺を持つて來て、伊八がブラ下がつたと思はれる梁の上を覗き、それから、梁にブラ下がつた繩の殘りと、死骸の首から解いた繩を紐で結び合せて、丁寧に寸法などを計り乍ら、
「──繩は短か過ぎるよ。お前氣の毒だが、ちよいと踏臺の上に立つて、梁からブラ下がつた繩に首を引つ掛けて見てくれ」
「へエ、そいつは氣の毒過ぎますね」
「遠慮をするなよ。首を縊る眞似くらゐは、時々やつて見るものだ。その度毎に、親の遺書を思ひ出す」
「へツ〳〵、やりきれねえな」
でも八五郎は、踏臺の上に昇つて、首吊りの實演をやつて見せました。
「それ見ろ、その繩は短か過ぎるだらう。お前のやうなノツポでも、踏臺に登つて、首は梁から吊つた罠に屆くめえ。まして伊八は小造りだ」
「すると、どうなりませう、親分」
「お前も冒頭つから疑つて居たやうだが、伊八は矢張り殺されたのさ。──下で締め殺したか、それとも、恐ろしい力で、いきなり梁に吊つたか、兎も角も人手に掛つて死んだのだ」
「すると」
「お萬、正直のことを言へツ」
「へツ」
平次は急に屹となつて、お萬の方に膝を向けたのです。
「お萬は、姪のお信乃を歸せと、うるさく八五郎を責めたさうだが、たつたそれ丈けのことで、若い男と幾晩も睨めつこをしたのか、──嘘を言つちやならねえよ」
これは底の底まで見通さうとする、妥協のない問ひです。
「でも」
「?」
「近頃兄さんが、嫌らしい事ばかり言つて、差向ひでは居られなかつたんですもの」
お萬の耻らひはなか〳〵です。
「八五郎の方が無事だつたといふのか」
「八五郎親分は男らしい方で、少しも嫌味なところはないんですもの」
平次は八五郎をチラリと見ました。充分に惡戯つ兒らしい一瞥ですが、口にはさすがに何んにも言ひません。
「たつたそれ丈けぢやあるまい」
平次は追及の手を緩めません。
「それは、私からは申上げられません」
お萬はさう言つてチラリと八五郎の顏を見るのです。なか〳〵の技巧です。
「ところで、お前の兄の伊八と近所の衆との仲はどうだ」
平次は話題を變へました。
「あんな近所づき合ひの惡い人はありませんよ。右隣の久吉さんと、左隣の檜木さんは、昔からの知合だと言つてる癖に、往來はおろか、朝夕の口もきかず、お向うの按摩さんなどとは前世からの仇同士見たいに、路地で逢つても、お互に顏をそむけて居りました」
「どうして、そんなに仲が惡かつたのだ」
「皆んな因縁をつけて、金をほしがるからでせう」
此邊にも、何にか仔細がありさうですが、平次はもう一度話題を變へて、
「お萬が昨夜外へ出たのは何刻だ」
「出かけるとき戌刻の鐘が鳴つて居ました。少し早いけれど、遲くなると、向柳原まで行くのが氣味が惡いし、それに、町内の柳湯へ入つて行かうと思つたので──私の湯は半刻はかゝります。──まだ若いんですもの」
もう一度、チラリとした、えも言はれない媚が、この小柄な女の全身に燃えます。
「ところで、伊八を、うんと怨んで居る者はなかつたのか」
「怨んでゐるといふわけぢやありませんが、兄さんが昔々、何んとか言ふ大名のお出入りで、その頃知合だつたといふ、お隣の久吉さんと檜木さんは、月に一度や二度は、兄さんをつかまへて金をせびつて居りました。兄さんに餘つ程弱い尻があつたのでせう」
お萬はヅケヅケと斯うまで言ひ切るのです。伊八の持家の長屋二軒を、無理に明けさして入つたあたりから、三人の關係は、疑へば隨分疑へるものがある樣子です。
「そのくせ、仲が惡いと言つたな」
「そりや、もう犬と猿で」
お萬は簡單に片づけてしまひます。
お萬は平次に言ひつけられて、佛樣の物を買ひに出た後、その後ろ姿を指さして、待ち構へて居たやうに、八五郎は言ふのです。
「あの女が變ぢやありませんか」
「お前そんなことを言つちや濟むめえ。あの女は大層お前を褒めて居たぢやないか」
「思召は辱けねえが、何んとか因縁をつけて、獨り者のあつしの部屋へ潜り込む女ですから、嬉しい相手ぢやありませんよ。身體が小さい癖に恐ろしく氣が強くて、毒のある虫見たいに、ピチピチしたところがありますね、──毎晩逃げ出した方があつしで、たうとう昨夜なんかは、梯子の下で夜を明かしましたよ。樂ぢやありませんね」
「色男にはなり度くないね。でも、下手人はあの女ぢやあるまいよ。女の手で大の男を梁に吊せる筈もないし、ドタバタやらかすには近所が近過ぎる。──俺も一と廻り薄情な御近所の樣子を見て來よう。あとを頼むよ、八」
「へエ」
平次は外へ出ると、先づ第一番に向うの宅の市の家を覗きました。
「御免よ、少し訊き度いが」
「へエ、入らつしやい。錢形の親分さんでせう、──眼が不自由でも、お話の樣子でよくわかります。何しろ帶ほどの路地を距てて向ひ合つて居りますから」
それは三十五六の、立派な男でした。相手を平次と知つたのは、感のよさよりは、寧ろ薄眼の見えるせゐだつたかもわかりません。
「宅の市さんとか言つたね。お前さんは長く此處に住んでゐるのか」
「三年くらゐ前から住んで居ります。此方側の家作は伊八さんぢやございません。これは角の酒屋で」
餘計なことを言ふ宅の市です。
「眼は少し見えさうぢやないか」
「白内障で、中年からの盲目です。仕樣ことなしに、按摩を習ひ覺えましたが、一年ばかり前、つまらないことで喧嘩をして、思ひ切り毆られた時から、ほんの少し見えるやうになりました。これも日頃から慈悲善根を施して、心掛をよくしたお蔭だらうと、精々神信心をいたして居ります。尤も見えると申したところで、まるつきり見えなかつた前に比べての話で、不自由には大した變りはございません。相變らず揉み療治をして、細々と暮して居ります。へエ」
さうは言ふものの、身の丈けも拔群、色白の肥り肉で、なか〳〵の立派な男です。これは後でわかつたことですが、若い時の白内障が、身體の異常な衝動で、混濁した眼の水晶體が剥脱し、覺束なくも見えるやうになるといふ例は、淨瑠璃の壺坂靈驗記の澤市の例でも證明されることです。尤も近世の醫學では手術で白内障の水晶體を切除き、強い凸レンズの眼鏡をかけて、六七十パーセントまでは視力を回復するといふのは、誰でも知つて居ることです。
「その喧嘩の相手は誰だつた」
「伊八親方でございましたよ。あの人は柄は小さいが、きかん氣の人でしたから」
さう言ふ宅の市の住居はなか〳〵よく整頓されて居り、なまじ眼明きの家よりはサツパリして居るくらゐです。
「伊八は大層金を持つて居たといふ話だが、氣がつかなかつたかえ」
「人の懷ろ具合なんか、盲目の私にわかるわけは御座いません」
何にか不便なことがあると、自分の盲目を利用するくせのある男らしいやうです。
「三度のものは自分で仕度をするのか」
「慣れて居りますから。へエ」
「ところで、こいつは大事なことだ。昨夜伊八のところへ誰も來なかつたか」
「夜中に物音がいたしました。人聲もしたやうで、尤も私は大概のことには係り合はないことにして居りますので、默つて寢て居りましたが」
「時刻は?」
「淺草寺の子刻が鳴つたやうに思ひましたが」
「お萬さんが出かけたのを知つてるだらう」
「あの人は愛想の良い人で出かける時はきつと聲をかけてくれますから、よくわかつて居ります。戌刻頃と思ひましたが、それつきり泊つたやうです。今朝歸つて來て、伊八さんが死んで居るのを見付けて大騷動でしたよ。眼の惡い者が飛出すと、人の邪魔をする丈けだと思つて、小さくなつて居りましたが」
これが宅の市の言つてくれた全部です。
平次は一たん宅の市のところから歸つて來ると、其處へ、向柳原の八五郎の叔母さんが、伊八から預つた娘の信乃をつれてやつて來ました。親が死んだと聽いては、何が何んでも、喪主のお信乃をつれて來ないわけに行きません。
「おや〳〵、錢形の親分さん、御苦勞樣ですね。八五郎がまた餘計なことにまで首を突つ込んで」
人の良い叔母さんは、この厄介事を八五郎のせゐと思ひ込んでゐる樣子です。
「なアに、八のせゐぢやありませんよ。伊八親方は、人手に掛つて殺されたんで」
「まア」
平次と叔母さんの問答の間に、小さい娘のお信乃がチヨロチヨロと家の中へ入つて行くと、四邊構はず、ワツと泣き聲をあげるのです。
「あれがお信乃といふんですね、叔母さん」
「さうなんですよ、父親が、──何時どんな事があるかもわからないからと、八五郎に預けたさうですね。矢張り虫が知らせたんでせうね。可哀想に」
叔母さんは小さい眼をシヨボシヨボさせて居ります。
「近所附き合ひが惡い上に、ろくな親類もないやうだ。暫らくあの娘を見てやつて下さいよ。叔母さん」
「あ、宜いとも、乘りかゝつた舟ですから」
八五郎の叔母さんは、斯う言つた人だつたのです。
「これが錢形の親分さんよ。信乃ちやんの親の敵を討つてくれるのは、此人の外にないのだから、よくお願して置くんだよ」
叔母さんに言はれて、お信乃は泣きじやくり乍ら、素直にお辭儀しました。十三といふにしては、少し柄の大きい方、まだほんの小娘ですが、可愛らしい顏立をして居ります。
「お父さんは誰かを怖がつて居たと思ふ、お前は氣がつかなかつたか?」
平次は靜かに訊きました。血の繋がりで、この娘が一番よく、伊八の生活や心情を知り拔いて居たやうにも思へるのです。
「お隣の二人です」
「お隣の二人?」
「屑屋の久吉さんと、御浪人の檜木さん、あの二人は、いつかはきつと私の命を狙ふに違ひないと父さんは言つて居ました」
平次もこれは豫想外でしたが、伊八が娘を遠ざけたりしたのは、左右兩隣に恐ろしい敵が待機して居たためかも知れません。
「それはどういふわけだ」
「私にもわかりません。でも、萬一のことがあつたら、これをお役人樣に渡すやうにと、私に持たせました」
お信乃が取出したのは、子供らしい大きな守袋──男の手縫らしい縫目をほぐすと、中から現はれたのは、お信乃の臍の緒書きと、それに三枚のお守札、それから一枚の手紙でした。手紙は半紙に書いて小さく疊んだもので、『私──伊八──はさる大旗本に出入中、その金倉を破つて三千兩の小判を手に入れ、江戸に隱れて今日まで無事に過した。が同じ屋敷に出入中の、久吉と言ふ經師屋と、用人の檜木官之助といふのが、それを嗅ぎ出し、長い間私を脅かし、三千兩を奪ひ取らうとして居る。私は命にかけて守り續けたが、何時殺されるともわからない。私が殺された後は、この小判を、罪障消滅の爲、元の主人神樂坂の潮田樣に還して頂き度い。私は金の亡者となつて十年あまり苦しんだが、娘信乃には此苦しみを頒け度くはないから、萬一の場合の爲に一言申し遺す。但し小判は何處に隱してあるか、それは申上げ兼ねる。久吉と檜木官之助が、此手紙を奪ひ取つて横取りしないものでもないからだ。御上の威光を以て御調べ頂き度い──』斯う言つた事が細々と書き記され、終りに判こまで捺してあるのです。
手紙に添へてあつた三枚のお守りといふのは、何處のお勝手にも貼つてある、荒神樣と同じ札が三枚、──この意味は平次にもわかりません。
「八、少しむづかしいことになつて來たよ。お前は近所の噂を掻き集めてくれ、床屋、湯屋を忘れるな、──それから、お萬の身持が大事だ」
「へツ」
八五郎は話を半分聽いて飛出してしまひました。
その後で平次は、お信乃を叔母さんに頼み、土地の御用聞や下つ引を手傳はせて、町役人や五人組を集め、兎も角も伊八の葬ひの仕度をさせ、自分は、隣の癖に、顏を出さうとしない、久吉と官之助のところへ、此方から出向くことにしました。
「御免よ。居るかい」
右隣の久吉の家は、ゴミ箱を引つくり返したやうです。
「へエ、錢形の親分さんで、よく存じて居ります」
「お隣の伊八親方が死んだといふのに、顏も出さないのは、どういふわけだ」
平次はいきなり、核心に飛込みました。相手は四十五六の、型の如き親仁で、二布一枚に、肩にヒヨイと手拭を掛けた、女房のお虎は、平次の顏を横目でチラリと見たつきり、せつせと、屑を選つて居ります。
「死んだ者のことを惡く言つちや濟みませんが、あの男は、腹の底からの薄情者でしたよ。あんな慾張りは、幽靈火一つでもケチにするから、死んだつて化けて出る氣遣はありません」
何んと言ふ言ひ草でせう。
「でも、此家だつて伊八のもので、お前は無理に明けさして、只で住んでゐるさうぢやないか」
「それにはそれなりのワケがありましてね」
「伊八の弱い尻を掴んで、長い間強請つてゐたといふのは本當か」
「飛んでもない親分。あの野郎こそ、三千兩といふ大金を盜んで、それを隱して置いた筈で──」
「昨夜、お前は何處へ行つた」
「何處へも行きやしません。嚊がよく知つて居ます」
「どつこい、その小判が何處から出た。今お前は膝の下へ隱したやうだが」
「これは私の溜めた金を兩替して貰つた小判で、紙屑の中から出た譯ぢやございません」
「ちよいと見せてくれ」
「へエ」
平次は手に取つて見ましたが、それは極めて良質の小判で、少し土が附いて居る外には何んの變りもありません。
「昨夜何にか物音を聽かなかつたか」
「宵のうちは、いつものお萬さんと喧嘩でした。でもすぐ納まつたやうで」
「そんなことはチヨイチヨイあるのか」
「此節は毎晩ですよ」
「喧嘩の種は?」
「兄妹と言つても、お萬さんは、亡くなつたお内儀さんの妹で、あのきりやうですもの。それに伊八と來たら三千兩は愚か三百文だつて只は出しません。喧嘩にもなるわけですよ」
久吉の言葉は妙に含蓄がありますが、小判を一枚持つて居たからと言つて縛る譯にも行かず、平次は其儘隣の浪人の家へ行きました。
「やい、岡つ引」
「へエ」
平次は度肝を拔かれました、檜木官之助の細目に開いた格子へ手をかけて、ガラリとやると、頭の上から小氣味の良い一喝を喰はされたのです。
「人の家の表玄關を、無斷で開ける奴があるか。次第によつては、勘辨罷りならぬぞツ」
大刀を引きつけて、クワツと眼を剥いたのは、凡そ汚なづくりの、四十七八の浪人者、何をして暮してゐるのか、まこと慘憺たる有樣です。
「相濟みません。お隣に殺しがあつたんで、氣が立つて居ります。何しろ三千兩といふ大金を搜さなきやなりませんから」
こんな男は、案外金のことを言ふ方がわかりが良いと思つたか、平次はヌケヌケと斯んなことを言ふのでした。
「その三千兩が見付かつたといふのか」
「大方見當が付いて居ります。──ところで、その三千兩の因縁を、旦那は御存じありませんか」
「知らなくてどうするものか。潮田家の藏を破つて取出した金だ。その節藏の係をして居た拙者が役目の落度で長の暇と相成り、無念骨髓に徹して、伊八の跡をつけ廻して居るが、何處に隱したか見付ける工夫がなく、確とした證據もないので、どうすることも出來ないのだ」
「その三千兩が見付かつたら、どうなさいます」
「御主人樣に屆出で、歸參を願ふつもり」
「成程、御武家はさすがに潔よいもので、隨分、その三千兩を見付けてあげないものでもありませんが、伊八の娘のお信乃には、何んのおとがめもないことでせうな」
「それは申す迄もない」
「では一つ伺ひますが、此三軒長屋を伊八が求めたのは何時頃のことでせう」
「隨分古いことだな。拙者が伊八の江戸の隱れ家を搜し當てた時は、もう此處へ入つて居たよ。三千兩は手近に隱してあるに違ひないと思つたから、無理に此家を明けさせて入つたら、經師屋の久吉──今は屑屋をして居るが、あの男も私の眞似をして入つて來た。同じ三千兩の匂ひを嗅ぎ出したことだらう」
「ところで、昨夜、伊八の家へ誰も來なかつたでせうか」
「誰も來ない。尤も宵にお萬と喧嘩をして居たが、──それは戌刻時分のことであつた」
「喧嘩の種は?」
「伊八は六十近いくせに、死んだ女房の妹のお萬に懸想して、うるさく言ひ寄るらしいが、お萬は若くて達者な按摩の宅の市と懇ろにしてゐる」
「按摩と?」
この朴念仁らしい浪人者は案外に眼が屆きます。
「あの男は眼が見えるのだ。伊八にひどく毆られてから、少し眼が見えるやうになつたが、眼あきでは稼業にならないので、今でも盲目のふりをして居る」
「?」
平次は何にやら考へ込んでしまひました。
「ところで三千兩はどうなつた。伊八の家を念入りに搜して見ようか。立ち合つてくれ」
檜木官之助は氣がせく樣子です。散々の勞苦と貧乏で、隨分氣むづかしくはなつて居るにしても、こんな男が案外の正直者かもわかりません。
「それには及びません。──これを御覽下さい」
「荒神樣のお札ではないか」
「伊八の娘の信乃はこれを三枚持つて居りました。御勝手の土竈の上の、荒神樣のところに貼つてあつたのを剥したものです。煤けたり、破けたりして居りますが」
「──」
「伊八は左官が本職だと言ひましたが、土竈くらゐは造つたことでせう。──此三軒長屋の土竈も、伊八が築いたものに違ひありません。家が古いのに、土間の土竈は三つとも新しく、同じ頃拵へたものです」
「──」
「御覽下さい、此通り」
平次は土間に降りると、門口に立てかけてあつた、古材木を一本持つて來て、土間の隅に築いた、頑丈な土竈を力任せに突いたのです。
「あツ」
檜木官之助が驚いたのも無理はありません。二つ三つ平次の突く材木に從つて、土竈が一角を崩されると、生のまゝの小判が、乾き切つた土くれと共に、ゾロゾロゾロと崩れ落ちるのです。
「おや、小判? どうしたんです、親分」
八五郎が歸つて來て、ひよいと覗いて精一杯わめきました。それを聽くと屑屋の久吉も、女房のお虎も、按摩の宅の市までが、杖を忘れて飛出したのは無理もないことです。
三千兩の小判が、檜木官之助の家と、屑屋の久吉と、伊八の家と、三軒の土竈から、ゾロゾロと飛出し、算へて見ると、三千兩より少し多いくらゐです。
「多い分は、伊八が稼ぎ溜めたものでせう、娘のお信乃の爲に取りわけて置きます」
平次はその餘分の小判二三十枚を、あわてて取除けてやつたのは賢いことでした。
「俺の家の土竈から出たのは、俺のものだ」
久吉は慾張りましたが、それは通用する筈もなく、あべこべに土のついた小判を一枚、平次が紙屑の中から見付けたのは、小判の重みで土竈が崩れ、その隙間から屑の中へこぼれたものとわかつて、それも檜木官之助に取り上げられてしまつたのは、あはれにも滑稽なことでした。
「ところで親分、三千兩の金は出たが、伊八を殺したのは誰でせう」
八五郎は小判の騷ぎが一段落になると、改めて平次に訊ねました。
「お前へ頼んだことは?」
「近所の噂ですが、──あの宅の市は、飛んだ色男のノラクラ者で、評判ですよ。眼なんか見えないといふのは大嘘で、按摩なんかぢやありませんよ」
「先刻、小判が出たと聽いて飛出した樣子ぢや杖にも及ぶまいな」
「それから、お萬と來ちやいか物喰ひで大變な女で、宅の市と親しくなつて、伊八との間に喧嘩が絶えなかつたさうですよ。伊八が毆つて、眼の障子を落したのも、過ちの功名で」
「お萬が昨夜お湯へ行つた時刻は?」
「亥刻過ぎに湯屋へ來て、すぐ歸つたさうで──まだ戌刻半くらゐでせうね。と番臺へ幾度も念を押したりして」
「向柳原のお前の家へ行つたのは?」
「亥刻半でした」
「よしわかつた」
「あの女ですか、親分」
「女も女だが、あの僞按摩を縛れ。盲目だと思つて油斷するな。こちとらより眼は確かだぞ」
「野郎ツ」
八五郎は按摩の家へ飛込みました。其處で高飛びの相談をして居る男女二人が、八五郎とそれに助力した、二三人の下つ引に擧げられたことは言ふ迄もありません。
「えツ、神妙に歩けツ、杖などが要るものか」
八五郎の聲は路地一パイに響きます。
× × ×
一件落着の後、八五郎にせがまれて、平次は斯う説明してやりました。
「伊八は久吉と官之助ばかり怖がつたが、本當の敵は、傍に居たのだよ。信乃の身につけてやつた手紙の謎を奪り上げようと、お萬はお前に附き纒つたに違ひない。そんな事でもなきや、良い年増に追ひ廻されさうなお前ぢやないよ」
「へツ、へツ、有難い仕合せで」
「あの晩、お萬は冗談見たいにして伊八の首に罠を掛け、宅の市に手傳はせて一度は梁へ吊つたが、恐ろしくなつて、菜切庖丁で繩を切つた。──その前に半死半生の目に逢はせ、脅かして、三千兩を出させるつもりだつたらう。だが、おろして見ると、伊八は死んでしまつたので、今更口も開かず、助けることも出來ない。それつ切り二人は逃げ出し、お萬は一寸誤魔化しに湯へ行つて、亥刻を過ぎたのに、『戌刻半でせうね』と番臺で念を押した」
「成程ね」
「夜中に曲者が入つたやうに宅の市は言つて居るが、伊八は顏を知らない曲者や、來る筈でない者が來たのを、默つて通す筈はない。その上、兩隣が近いから、罠でも拵へて、不意に天井へ引きあげる外に、ジタバタさせずに殺す工夫はない」
「──」
「伊八の家へ入る者は、宅の市の家からはよく見える、──宅の市の眼はよく見えるから、曲者の人相を見破る筈だ。暑いから夜半まで開けつ放しだ」
「あ、成るほど」
「それに伊八の家の軒下に朴齒の跡があつた。按摩でもなきやあんなものは穿かない」
「そいつは氣が付きませんでした」
「二人は馴れ合ひで伊八を殺し、三千兩を家の中から搜し出さうとしたことだらう」
「──」
「もう少しのところで、お前も飛んだ相棒にさせられるところさ。獨りで居るとろくな事はないよ。早く女房を持つ氣になれ」
「へエ」
八五郎は嬉しく叱られて居りました。
底本:「錢形平次捕物全集第二十一卷 闇に飛ぶ箭」同光社
1954(昭和29)年2月15日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1953(昭和28)年8月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年11月23日作成
2017年3月4日修正
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