錢形平次捕物控
髷切り
野村胡堂
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「あれを聽いたでせうね、親分」
ガラツ八の八五郎は、この薄寒い日に、鼻の頭に汗を掻いて飛込んで來たのです。
「聽いたよ、新造に達引かしちやよくねえな。二三日前瀧ノ川の紅葉を見に行つて、財布を掏られて、伴の女達にお茶屋の拂ひまでして貰つたといふ話だらう」
錢形平次は立て續けに煙管を叩いて、ニヤリニヤリとして居るのです。
「そんなつまらねえ話ぢやありませんよ。親分も聽いたでせう、近頃大騷ぎになつて居る、土手の髷切り」
「さうだつてね、新吉原の土手で、遊びに行く武家がポンポン髷を切られるんだつてね、──大きい聲ぢや言へねえが、『人は武士なぜ傾城に嫌がられ』とはよく言つたものさ。突き袖かなんかしやがつて、武士たる者が不用心ななりで女郎買なんかに行くから、命から二番目の大髻を切られるのさ。八五郎が財布を掏られるのと違つて、こいつは内々溜飮を下げて居る奴が多いぜ。なア八」
町人平次──お上の御用を勤めてゐるには相違ありませんが、武士の髷切り騷ぎには、内々揉手をして喜んで居るのでした。
その頃江戸中の評判になつた、この髷切りの惡戯は、一ヶ月ほど前から始まつたことですが、月のない眞つ暗な晩に限つて、新鳥越から衣紋坂にいたる、所謂土手八丁と言はれた日本堤で、何者とも知れぬ怪人に襲はれ、アツと言ふ間に髷節から髻を切り取られ、ザンバラ髮になつて、すご〳〵と歸る人間が多くなつたのです。
誰が一體、何んの意趣でそんな惡戯をするのか、全く見當もつきません。髷を切られるのは武家に限り、二本差でないものは、どんなに醉拂つて居ても、たつた一人で通つても、何んの障りもなく、武士は二三人繋がつて歩いて居ても、そのうちのたつた一人だけが見事に髷を切られることさへあるのでした。
切られた者の話によると、音も立てずに忍び寄つて、恐ろしい手際で拔き討に髷節を拂ひ、サツと風の如く飛去るらしいといふのです。中には頭の上を鳥が飛んだやうに感じたとか、頬をかすめて、一陣の風が吹いたと感じたときは、もう自分の髷節は切られて、バラリと毛が耳へ下がつて來て居るといふのです。
その切られた髷は、幾つかづつ繩で編んで場所もあらうに、五十間の右手の高札場、丁度見返り柳と相對して、曝しものにするのです。もとより髷を切られた本人は來るわけはありませんが、
「あつ、今日は三つだ」
「昨日は二つだつたが、──切られた奴の顏が見度いネ」
「あれが千になると大願成就だとよ」
「何んの願を掛けて居るんだらう」
指さして笑ふのは、切られる心配のない町人共で、武士は苦々しく横眼で睨んで通るのです。
「面白がつて居ちや困りますよ。昨日八丁堀へ顏を出すと、笹野の旦那がひどくお困りの樣子で、──平次は何をして居るんだ、髷切りを放つて置くと、八方から文句が來て、大困りだが──とこぼして居ましたよ」
「成程な、考へて見ると笹野の旦那も、二本差に違ひはない。尤もあの方は吉原などへフラフラと出かけて、髷節を切られるやうな方ではないがね──」
「ところで親分、その髷切の曲者は誰だと思ひます」
「それが解らないから不思議だよ、鎌いたちや流行風邪でないことは確かだが──」
錢彩平次の智惠も其處から先は何うしやうもありません。
「此節急に蔓こつて來た、町奴や男達の仕業ぢやありませんか」
「それも考へられないことはないが──」
武家の暴慢と無道に對して、敢然として立つた江戸の町奴。放駒四郎兵衞や幡隨院長兵衞の亜流が、その頃漸く江戸の町を我物顏に横行して、時々は眼に餘る所業もするやうになつて居たのです。最初はもとより武士階級、わけても旗本の横暴に對する反抗で、江戸の町人共にやんやと言はれたに違ひありませんが、それが人氣と勢力を得るに從つて、あべこべに町人共の迷惑になつたことも少くないとは言へず、平次が活躍して居る頃の江戸の町奴は、まことに痛し痒しの存在になりかけて居たのです。
「江戸の町奴の中に、あんな腕の出來る奴があるかな」
平次が疑ふのはその點でした。
「安宅の辨吉、小人三次郎などはどうでせう。辨吉は小太刀をよく使ふさうで、仲間では評判の腕きゝですよ。小人三次郎は橋場の家に弟子を取つて、柔術の稽古をして居るくらゐで、柄は小さいが、恐ろしい早業だといふことで」
「三次郎の早業と、辨吉の小太刀の腕前を一人で持つてゐれば出來ないこともあるまい。が──」
平次はこんなことを考へて居るのでした。
「お客樣ですよ、──お武家樣がお二人」
平次の女房のお靜、相變らず若くて優しいのが、障子の外から聲をかけました。
「兩刀が二人か──髷を切られたのぢやありませんか」
八五郎が側から口を出します。
「シツ、默つて居ろ、──お前はお勝手へでも消えるが良い」
「消えるんですか。へエ、行きますよ」
八五郎を臺所へ追ひやつた後へ、身扮の立派な武家が二人、御大家の御使者見たいな尤もらしい顏をして入つて來ました。
「拙者はさる御直參大身の用人、大里貫之助と申す者で御座る」
「拙者は佐々見左仲」
「折入つて平次殿にお願ひがあつて參つたが、聽き入れては下さるまいか」
打ち上がつたやうな、謙遜したやうな、妙な調子で二人は始めました。大里貫之助といふのは四十前後、少し好人物らしい逞しい男で、佐々見左仲はそれより六つ七つ若く、拔目のない商人のやうな感じのする二本差です。
「どんな事か存じませんが、私は町方の御用を承はつて居る者で、御武家方の内輪のことには、立ち入り兼ねますが──」
平次はツイ尻ごみするのです。
「それはわかつて居るが、先づ聽いて下さらぬか、平次殿」
「へエ」
「何を隱さう、拙者の主人、──名前を申上げても差支へあるまい、──どうせ衣紋坂の高札場に曝されて、幾百千人とも知れぬ者の眼に觸れた後だ」
「──」
「その主人、青江備前守殿には、困つたことに、御髻を失はれたのだよ」
「えツ」
「昨日、──散々お諫め申したが、どうしても、久し振りで仲町の樣子が見たいと仰しやる。拙者と佐々見氏と、前後から守護を申上げたら、萬に一つも間違ひがあるまいと思つたのが手ぬかりであつた」
「──」
「日本堤を編笠茶屋まで行くと、──これから先は町人共でさへ顏を隱す者が多いくらゐだから、御身分の方がお顏をさらしては通りにくい。と申しても、まさか借物の編笠をお勸めするわけに行かないから、佐々見氏が用意のため持參した御編笠をお着せしようとする、と」
「ほんの瞬く間の油斷であつた。大里氏は前の方にばかり氣を取られ、拙者はまた編笠を持つて前へ廻つたので、殿の後ろは自然空つぽになつた」
大里貫之助と佐々見左仲は、斯う念入りに説明して行くのです。
「その時、他に見て居る者はございませんでしたか」
平次は問ひを挾みます。
「編笠茶屋の評判者、──お妻とか申したな──あの美しい娘が、横の方からそれを見て居たと思ふ。外には人通りも杜絶え、生憎月もなかつた」
「で?」
「何やらヒラリと闇の中に動いたと思ふと、殿の御髻は切られて居た。相手の正體はもとより判らず、神變不可思議の早業で、氣の付いた時はもう、曲者の影も形もなかつた」
「申すまでもございませんが、其邊をよく御覽になつた事でせうな」
「見た、──闇の中とは申しても、二間や三間先の物はかすかに見える。編笠茶屋の灯は心細いものであつたが、其邊を照して居るのだ。併し後にも先にも曲者の姿は見えず、今切られたばかりの殿の髷も見えない」
「?」
「殿には、そのまゝ御歸館になつたが、以ての外の御立腹だ。天下の往來で、武士の髻を切るとは憎みても餘りある曲者だ。草を分けても搜し出して、屹度成敗するやうにと、お供の二人に嚴命だ」
「御尤もなことですが、──若しそれが世上に知れ渡つたとしたら、御公儀の方は何うなりませう」
「廓外の事だから、深い御とがめはあるまいと思ふが、何んとしても世上の嘲弄の口は塞がれない。殿もそれを御心配になつて、せめて曲者を青江家中の者の手で召し捕り、屹度成敗でもしたなら、今まで幾十百人の髻を切られた方々も、さすがは青江備前守樣と言はれるだらうと、──今ではそれより外に汚名を救ふ術はないのだ」
大里貫之助の素直な調子には、耻辱を打ち開ける努力で痛々しいものさへありました。
間もなく平次は、八五郎と一緒に觀音樣を横目に拜んで、新鳥越から日本堤にかゝつて居りました。
「いよ〳〵髷切りを擧げるつもりですかえ、親分」
此邊まで來ると、仲町の空氣が──ドブ臭く酒臭く香つて、八五郎の鼻は蠢めきます。
「武家の髷節なんざ、腐つた茸ほども有難くねえが、一と晩にそいつを三つも四つも切つて落す手際が憎いぢやないか。縛る縛らないは別として、俺はその惡戯者の面が見度えよ」
江戸開府以來と言はれた御用聞、錢形平次は弱氣で引つ込み思案の癖に、妙に斯う言つた戰鬪的なところがあつたのです。
「さう來なくちや面白くない」
八五郎はすつかり悦に入つて、揉手などをして居ります。
山谷から三輪に通ずる八丁の土手は、諸大名に命じて築かせた荒川の水除けで、これを日本堤と言つたのには、いろ〳〵の江戸人らしい傳説や附會があります。
土手の兩側は一段低い町家で、土手の上には、葭簾張りや粗末な板屋根の、遊客目當ての茶屋が斷續し乍ら續いて居ります。明暦大火後の吉原が、日本橋から此處へ引越したばかりで、まだ徳川末期の『大吉原時代』の榮華はなく、何んとなく粗野な淋しい道でもありました。
「曲者が髷を切つて逃げ出したとしたら、何處へ行くだらう。闇の夜を選つてやるにしても、振り返つて曲者の姿が見えないといふのは變ぢやないか」
平次は四方の景色を眺め乍ら、土手の上で腕などを拱くのです。
「土手の外へ轉げ込むより外に工夫はありませんが、道傍の柳は植ゑたばかりのヒヨロヒヨロで人間を一人隱せさうもないし、所々にある茶屋は、夜つぴて商ひをして居るか、宵だけで仕舞つて歸るにしても、葭簾張の見通しだ。猫の子一匹だつて首尾よく姿は隱せませんよ」
「さう言つたものかな」
平次は土手の兩側を覗いたりして居ります。
「變な坊主が居ますよ、親分」
八五郎は柳の下の、小汚ない乞食坊主を指さしました。
「土手の道哲の眞似事さ──日本堤は昔から乞食坊主の多いところだよ」
平次は懷中を搜して青錢を二三枚掴み出すと、乞食坊主の鐵鉢の中に入れてやりました。
「南無、南無、南無」
乞食坊主は何やら口の中でブツブツ言つて居ります。五十前後、或は六十近いかも知れません。何を食べて生きて居るかわかりませんが、骨と皮ばかりの青黒く乾からびた身體を、羊羹色になつた破れ御衣に包んで、髯だらけの顏、蟲喰ひ頭、陽に焦けて思ひおくところなく眞つ黒になつた顏を少し阿呆たらしく擧げて、意味もない念佛やらお經やらを、ブツブツつぶやくと言つた世にも情けない存在です。
心も空に、吉原へ飛んで行く遊冶郎の中に、たま〳〵諸行無常とか、色即是空とか言つた後生氣を出して、此乞食坊主の鐵鉢に、小錢を投り込んで行く人間も、稀にはあることでせう。
「少し訊き度いことがあるんだがな」
「へエ」
自分の前にしやがんだ、大枚十二文の大檀那の顏を、乞食坊主の鑑哲は、腑に落ちない顏で、ぼんやり見上げるのです。
「近頃此土手で、變なことがあるさうだが、お前は知つて居るだらうな」
「へエ?」
「武家の髷を切る曲者のことだよ」
「へエ」
「此土手に住んでゐるお前が、その曲者を見ない筈はないと思ふが、どうだえ」
「へエ、──それらしいのを見ないわけぢやございませんが」
「それを聽き度かつたんだ。その髷切りの曲者は、どんな野郎だ。若いか、年寄か、身扮は、──?」
「それを言ふと、私は殺されるかもわかりませんが」
「えツ?」
乞食坊主の言葉はまことに豫想外でした。
「でも、人助けのために思ひ切つて申上げませう。私はもう此處から引揚げて、もう少し收入のある四宿の何處かへ行き度いと思つて居りますから」
「?」
「髷切の曲者は、お武家でございますよ、──立派なお武家で、四十五六にもなりますか、背の低い、少し跛足ですが、恐ろしい體術でございます」
乞食坊主の鑑哲の言葉は恐ろしいほどはつきりして居りました。
「それは有難い、宜い話を聽いた、──八、跛足で背の低い體術の名人といふのをお前は知つて居るか」
「橋場に町道場を開いて居る俵右門先生そつくりぢやありませんか」
「フーム、評判の良い先生だな」
「あの人は髷なんか切りさうもありませんね」
「ところで──」
平次はまた乞食坊主の方に顏を向けました。
「へエ、へエ」
「その髷切りの曲者は、──据物斬の名人だらうが、髷を切られた武家が、振り返つても姿は見えないさうだ。何處へ逃げるかお前は知つてるだらう──どんな上手な手品でも樂屋から見れば種も仕掛もわかるものだ」
「土手の下へ轉げるやうに逃げ込みますよ」
「そんな事が出來るかな」
「其處が體術の名人で」
「有難う、それだけ聽かして貰へば大助かりだ」
平次は乞食坊主に丁寧過ぎる禮を言つて、小粒を一つ、鐵鉢の中へ追加してやりました。
「橋場の俵右門とわかれば、あとは調べにも及ばないでせう。引返して道場へ踏込みませうか」
「威勢は良いが、俺とお前と二人でヤツトウの道場へ踏込んだところで、弱い武者修行ほどの働きもむづかしからう。まア〳〵默つて俺に附いて來るが宜い」
「へエ」
其處から直ぐ、左手に軒を竝べて、編笠茶屋といふのがあります。其處で編笠を借りて冠つて、厄介な荷物は預けて、吉原へ繰り込むのですが、澁茶一碗の設備もあり、店には美しい娘などを置いて、客を呼ぶにおろそかはありません。
「御免よ、お前一人か」
柳屋といふのへ八五郎が長んがい頤を覗かせると、
「あら八五郎親分」
店火鉢を離れて立つたのは、お妻といふ土手一番の評判娘でした。十九といふにしては少し老けて居りますが、地味な袷にこればかりは燃えるやうな赤い片襷、いづれかと言へば淋しく品の良い顏立ちで、口の惡い素見の客などは、「へエ、こいつは大した玉だ。晝三の太夫よりは此方が光つて居るぜ」などと、お座なりを言つて通り過ぎるのが度々のことです。
「お妻坊、相變らず綺麗だなア、お前が土手に居るんで、仲町は火の消えたやうだつて言ふぜ」
「あら、親分、御冗談ばつかり」
打つ眞似をした手をそつと引込めて、パツと赤くなると言つた、初心さがたまらない魅力でした。
「ところで、今日は錢形の親分をつれて來たが昨夜の髷切りの一件を詳しく話してくれないか」
「でも、私、何んにも知らないんですもの」
「知つてるだけで宜いよ。三人の武家に氣のつかないことでも、側に見てゐたお前には氣のついた事が澤山あつた筈だ」
平次は八五郎の後ろから、穩かな調子で──が退引ならぬ問ひを投げかけました。
「あの、何んにも氣が付きませんが──」
三人の武家に見えないことが、この十九の娘に見える筈もあるまい──、平次はフトそんな心持にもなりましたが、
「だが、髷切りは、よく此邊に出るやうだ。二度や三度はお前も騷ぎを見て居るだらう」
「──」
「昨夜の青江備前守樣は、何處に居たか、私を其處へ立たして見てくれ」
「此邊でございました、──此方を向いて、え、そんな具合に」
「二人の御家來は──八五郎、お前は大里さんと佐々見さんの二た役勤めるんだ」
「へエ──」
お妻は心得て八五郎を平次の前に立たせると、商賣物の編笠などを持たせて、その時の恰好をさせるのです。
「二人の御家來は、店に背後を見せて居たのだな。殿樣の顏の前には編笠があつた──ところでお前は何處に居たのだ」
「此邊でございました」
お妻は店先──二人の家來から少し離れて立つて見せました。
「灯は斜後ろから射して居る筈だ、──するとお前の眼には、曲者の姿が見えなければならないが」
「さう言へば、何にかチラリと見たやうにも思ひますが」
「若い眼で、これだけの灯で、見えない筈はない──遠慮することはない、曲者の樣子を言つて見るが宜い」
「──」
「お前は怖いのか、無理もないことだが、世上の迷惑には代へられない。相手はどんな人間であらうと、お前には指も差させないつもりだ。知つてるだけの事を言ふが宜い」
平次の言葉は條理を盡します。
「若い男でした──背の高い」
「武家か、町人か」
「チラと見ただけで、よくはわかりませんが、遊び人風の」
「そして何處へ逃げたのだ」
「土手の下へ、轉げるやうに逃げました。でも、その邊は眞つ暗で、夜分は覗いても何んにも見えません」
「切つた髷は、曲者が拾つて行つたのだな」
「え」
「そんな隙はない筈だが──」
それは重大な疑問でしたが、お妻も覺束なく、可愛らしい眼をしばたゝくばかりです。
「親分」
「何んだ八、袖なんか引つ張つて」
「曲者は安宅の辨吉ですよ。やくざ者だが小太刀の名人で、自分の腕に慢じて、武家の髷などを切つて見度くなつたんですね」
「先刻は俵右門とかいふヤツトウの先生だと言つたぢやないか」
「へエ」
平次と八五郎は、お妻の茶屋を出ると、衣紋坂を下つて、五十間を門竝に、大門前までいろいろの事を訊ね廻りました。髷切りの曲者の噂は大變ですが、まことに神出鬼沒で、誰も正體を見たといふ者はありません。
「驚きましたね、親分。こんなわけもない事が、どうしてわからないんでせう」
「思ひの外企らみが深いよ、高札場へ行つて、切られた髷を見せて貰はう」
二人は高札場の番屋へ寄つて、切られた髷を見せて貰ひました。淺ましくも竹笊へ、醜い葺のやうに入れたのが、ざつと二十もあるでせう。
「不思議なことにこの紛失物ばかりは誰も取りに來ませんよ」
番人はさう言つて笑ひ乍ら、眞つ黒な髷をかき廻して見せます。
「尤も、そいつは返して貰つても、燒繼ぎも糊附けもきかねえ」
「默つて居ろ、八。少しは切られた者の身にもなつて見るが宜い」
「へエ」
「ところで、高札場へ曝した髷で、名前を貼り出されたのは、青江備前守樣たつた一人だね」
「さうですよ、不思議なことに、あとはどれが誰のか名前はわかりません」
高札番屋の番人はかう言ふのでした。
「面白いな、八。下つ引を六七人集めて、安宅の辨吉と小人の三次郎と、俵右門とを見張らせてくれ。晝は要らない、夜だけだ。三人は何處へも出ないのに、髷切りがまだ續くやうなら、考へ直さなきやならない」
「親分は?」
「俺は青江備前守の身持を調べ拔くよ、──それからお前には外に頼み度いことがある。耳を貸せ」
それから五日目の朝、
「わツ、驚いたの驚かねえの」
相變らずの調子で飛込んで來たのはガラツ八の八五郎でした。
「何うした、見せろ、髷は無事か」
平次も釣られて、八五郎の髷節に眼をやります。
「髷は無事ですがね、驚いたの何んの──全く膽をつぶしましたよ、──親分の言ひ付け通り、損料で紋付と大小を借り出し、侍姿に化けて三晩續け樣に土手から仲町へそそつたが、髷切りは姿も見せねえ、──考へて見るとあつしの柄が少し意氣過ぎた」
「馬鹿野郎、宜い氣のものだ」
「それからグイと野暮に作つた。本場の淺黄裏の拵へで編笠茶屋のあたりをウロウロして居ると、來たね」
「──」
聽いて居る平次もツイ固唾を呑みます。
「足音も何んにも見えねえ、サツと太刀風が襟をかすめたと思ふと、髷はポロリと落ちた──氣合も何んにも掛けずに、いきなり背後からピカリとやるんだから、凄いなア、親分」
「待てよ、八。髷がポロリと落ちたと言つたが、お前の髷は切られもどうもしないぢやないか」
「其處が計略だつたんで」
「?」
「あつしの眞物の髷は髱の中へ突つ込んで、叔母さんから鬘の古いのを貰つて、附け髷を拵へて頭の上へ載つけて行きましたよ、──遉に曲者も僞物の髷とは氣が付かなかつた」
「ハツハツハツ、そいつは上出來だ」
平次も思はず笑つてしまひました。
「どうです、うまい工夫でせう」
「工夫は良いが、曲者の姿でも見窮めたのか」
「何んにも見やしませんよ。口惜しいが、サツ、ポロリだ。あわてて其邊中搜し廻つたが、犬の子一匹居ねエ。ありや魔物ですね、親分、──その癖今朝見ると、あつしの附け髷が、麗々しく高札場にブラ下がつて居るぢやありませんか、その上青江備前守この方二度目の貼り紙だ、──御用聞八五郎殿の髷──とね」
「フーム」
「あんまり癪にさはつたから、高札場の石垣の上に立つて、大きな聲でやりましたよ、──憚り乍ら八五郎は錢形平次の子分だ。素直に髷などを切られる人間ぢやねえ。嘘だと思ふならこれを見ろ、此通り──とね」
「だが、容易でない相手だな、──ところで、見張りを附けて置いた三人はどうした」
「安宅の辨吉も、小人の三次郎も、俵右門も此四五日は神妙に家に居て、一寸も敷居の外へ出ませんよ」
「フーム、いよ〳〵むづかしい、今度は俺が髷を切られる番かな」
「親分が侍姿で出かけるんですか、──鬘の古いのを搜して來ませうか」
「そんな術は二度きくものか」
「所で、青江備前守の方の調べはどうです」
「あの殿樣は身持がよくないな。髷を切られた噂は、公儀のお耳にも入つたやうだから、いづれ八千五百石の大身代は持ちきれまいよ」
「へエ」
「何人となく妾を入れて、ひどい目に逢はせて居る。嫉妬が激しくて、ケチで、無道で、薄情だから手のつけやうがない。中には自殺したのも、責め殺されたのもあるといふことだ」
「それぢや髷で仕合せで、首を切られても不思議はありませんね」
其晩錢形平次は、侍姿に化けて、土手から衣紋坂をブラリブラリと歩きました。
「意氣過ぎますぜ、親分は。まるで島田重三郎か白井權八の廓通ひといふ圖だ」
「馬鹿、お前は顏を出さない方が宜い、鳥越の勘六の家で待つて居ろ」
うるさく跟いて來る八五郎を追つ拂つて、平次はもう一度編笠茶屋の方へ引返します。
「精が出るな。斯う暗くなつちや、貰ひもあるめえ」
立止つたのは、乞食坊主の鑑哲の菰の前でした。
「おや、親分さんで、妙な身扮で?」
鑑哲は木乃伊のやうな身體を起して、薄黒い顏でふり仰ぎました。杖にした青竹を力に上半身を支へるのが精一杯です。
「なアにお茶番だよ、誰にも言ふな。ところで、もう亥刻(十時)だらう。店を仕舞つちやどうだ」
「へエ、でも、本當の貰ひはこれからで御座います。素見客は後生氣はありませんが、本當に遊ぶ方は、いくらでも惠んで下さいます。へエ、南無」
乞食坊主はブツブツ言ひ乍ら、思ひ出したやうに小さい笊鉦などを鳴らすのです。
平次はそれから衣紋坂へ、幾度歩いたことでせう。髷切りの噂に脅えて、更けると人足も疎になり、僅かに威勢の良い四つ手が、思ひ出したやうに宙を飛んで來ます。
丁度五回目、編笠茶屋を過ぎて、衣紋坂へ近くなつた頃でした。と、ある空茶屋の軒下を廻ると、不意に、
「──」
サツと太刀風、平次の頭にカチと鳴つて、あとは不氣味に靜まり返ります。
太刀風と一緒に、平次の右の手は激しく頭上に動きました。が、別に土手の下を覗くでも、四方をキヨロキヨロするでもなく、そのまゝ引返して新鳥越の方へ──
「親分」
道でバタリと逢つたのは、八五郎のあわてた顏でした。親分の平次を案じてやつて來たのでせう。
「出たよ、八。兎も角勘六の家へ引返さう」
二人は其處からツイ鼻の先の下つ引勘六の家へ引返しました。
「おや、錢形の親分」
「挨拶は後だ、──灯を見せてくれ」
平次は勘六の持出した手燈の側へ、右手に持つて居た三尺あまりの繼竿の先を出しました。竿の末端に嚴く縛つた鰻針の逞しいのに、何やら黒い巾の千切れたのが引つ掛つて、少しばかりですが、血さへ附いて居るではありませんか。
「親分、これは?」
「曲者の着物だよ、──少し釣針で引つ掻いたかも知れない。直ぐ行つて見よう」
「何處です、親分」
「色の褪めた墨染の木綿を着て居る人間は土手に一人しか居ない筈だ」
「あツ、あの乞食坊主?」
平次と八五郎と勘六は、疾風の如く土手を引返しました。何んにも知らずに、菰の上で鉦を叩いてゐた乞食坊主の鑑哲は、大骨を折らせ乍らも、三人の手で取つて押へられました。
「親分、聽いて下さい。私は逃げも隱れもしません──これには深いわけがある」
繩を掛けられ乍ら、乞食坊主の鑑哲は聲を絞りました。
「よし、そのわけは俺も聽き度い、此處で言ふが宜い」
勘六の家へ引立てて來ると、平次は此坊主の言ひ分を聽いて見度くなつたのです。
「私はこれでも武士の端くれだ。が、二本差がいやになつて、こんな姿になつてしまつたのだ。そのわけは、主人筋の青江備前守に、娘を人身御供同樣の妾に取上げられ、三年經たないうちに、氣に入らない事があると言つて、なぶり殺しにされてしまつたからだ。人の良い娘は化けて出るほどの氣力もないらしいが、親の私は腹の蟲が納まらない。青江備前守が時々吉原へ遊びに來ることを知つて居るから、あの高慢な頭の髷を切つて、青江の家を取潰させる氣になつたのだ。──他の罪もない武家多勢の髷を切つたのが惡いといふのか、ハツハツハツ、そいつは平次親分にも似合はない言葉だ。吉原へ來て賣女に現を拔かす二本差などは、此世にあつて益のないものだ。祖先の手柄で高祿を喰み、ノラリクラリと遊んで暮し、その上女郎買とは何んといふタワゴトだ。そんな武家の髷を切り拂つて、何處が惡い」
乞食坊主の鑑哲の氣焔は、まさに虹の如きものがあります。
「よい〳〵、人を害めたわけではないから、今度だけは知らぬ振りをしてやらう。その代り、こんな人騷がせは二度とはならぬぞ。宜いか、鑑哲」
「フーム」
「解つたら歸れ。娘が心配して、外で待つて居る樣子だ、──土手に居てはろくな事があるまい。巣を變へろ、宜いか」
「有難い、──さすがは錢形の親分だ。それぢや、土手ともお別れだ。八五郎親分、勘六親分、長い間世話になつたなア」
枯木のやうな鑑哲が、ヒヨイヒヨイとお辭儀をして外へ出ると、其處にはシヨンボリ待つて居た若い女が一人、
「まア、父さん、無事で」
飛付くやうに鑑哲に取すがつたのは、編笠茶屋のお妻でなくて誰であるものでせう。
× × ×
それを見送つて、眞つ暗な道を山の宿の方へ辿り乍ら、
「變な捕物でしたが、あのお妻が乞食坊主の娘とは氣が付きませんでしたよ」
八五郎は口を切ります。
「切つた髷を拾つたのがお妻さ、──此間鑑哲とお妻の二人に訊いた時二人の見たといふ曲者の樣子が、まるつきり違つて居るので、こいつは臭いと思つたよ」
「釣竿で捕物は始めてですね」
「曲者はどうしても姿は見せないと言ふから、編笠茶屋や空茶店の屋根の上から、通りすがりの武家の髷を斬るのだと解つたよ。それから繼竿の一番先の細いのを用意して、太刀風と一緒に頭の上をかき廻したのさ」
「それにしても、親分も髷は無事ぢやありませんか。附け髷でも用意したんですか」
「そんな間拔けたものを用意するものか。俺のは女房の銀簪をかりて、足を曲げて髷の中へ仕込んだよ。切られるとカチリと言つたが、毛は少し削げたかも知れない」
「成程そいつは氣が付かなかつた、──尤も氣が付いても、こちとらには簪をかしてくれる女房もないが」
「そのうちに良いのを見付けてやるよ」
二人は他愛もない事を言ひ乍ら、輕い心持で家路へ急ぎました。
底本:「錢形平次捕物全集第二十卷 狐の嫁入」同光社磯部書房
1953(昭和28)年11月15日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1947(昭和22)年12月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
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校正:門田裕志
2016年5月15日作成
2017年3月4日修正
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