錢形平次捕物控
お登世の戀人
野村胡堂




「親分妙なことがありますよ」

 ガラツ八の八五郎は、入つて來るといきなり洒落しやれた懷中煙草入を出して、良い匂ひの煙草を立て續けに二三服喫ひ續けるのでした。

「陽氣のせゐだね。俺の方にも妙なことがあるんだが──」

 錢形の平次は、肘枕ひぢまくらを解くと、起直つてたしなみの襟などを掻き合せます。

「へエー、不思議ですね。親分の方の妙な事といふのはなんで?」

 ガラツ八は鼻の下を長くしました。

「八五郎の煙草入に煙草が入つて居るのが妙ぢやないか。その煙草が馬糞まぐそ臭い鬼殺しでもあることか、プーンと名香の匂ひのする上葉だ。水戸か薩摩さつまか知らないが、何處でくすねて來やがつたんだ」

「驚いたね、どうも。錢形の親分の鼻の良いには」

「お世辭を言ふな」

「實はこの煙草の施主せしゆに頼まれて來たんですがね。──およそこの」

「凡そこの──と來たか。その次は然りしかうしてと來るだらう、煙草と一緒に學まで仕入れて來やがつた」

 平次と八五郎は何時でも此調子で、大事な話をトントンと運んで行くのでした。平次とガラツ八の流儀から言へば、無駄話も決して無駄ではなかつたのです。

からかつちやいけませんよ。──凡そこの、へツ又出て來やがつた。學があると、ツイこの地が出るんですね」

「間拔けだなア、まだ學にこだはつてやがる。早く話の筋を通しな」

「へエ、──凡そと來たね、下手人げしゆにんのない人殺しといふものがあるでせうか」

「成程そいつは妙だね。下手人がなきや頓死とんしあやまちだらう」

「床の中で過失は變ぢやありませんか。おまけに首筋を刺身庖丁さしみばうちやうで切られて頓死は開闢かいびやく以來で──」

「誰だい、それは?」

「本所御船藏前、水戸樣御用の煙草問屋で常陸ひたち屋久左衞門が、昨夜自分の部屋で殺されて居るのを、今朝になつて見付けましたよ。石原の利助親分ところのお品さんが、親父の繩張内で起つたことだが、こいつはむづかしさうだから、錢形の親分にお願ひして下さい。動きさうもなかつたら、首根つこに繩をつけても──」

「お品さんはそんな事を言やしめえ」

「へツ、その通りで」

「水府のきざみは、常陸屋の店で貰つて來たのか、呆れ返つた野郎だ。どんなに詰めたか知らないが懷中煙草入はハチ切れさうぢやないか」

「煙草入のカマスは大きいに限ると思ひましたよ。今日といふ今日は」

「馬鹿野郎」

「今度お菓子屋に間違ひがあつたら、重箱を背負しよつて行く」

「止さないか、人聞きの惡い」

 錢形平次はそんな無駄を言ひ乍らも、手早く支度をして、八五郎と一緒に神田の家を飛出しました。

 本所御船藏前の常陸屋といふのは、その頃水府の煙草を一手にさばいた老舖しにせで、江戸中にも知られた店ですが、殺されたといふ主人の久左衞門はその時五十八歳。頑固ぐわんこてつで、つむじ曲りで、口やかましくて、少しケチで、そしてなか〳〵の商賣上手といふ評判の老人でした。

 常陸屋の内外は、石原の利助の子分達が、水もらさじと固め。店には老番頭の五助と、若い手代の福次郎が、おびえきつた顏を並べて、平次と八五郎を迎へます。

「早速だが、主人の部屋は?」

うお出でなさいまし」

 利助の子分の多吉が、自分の事のやうに先に立つて案内しました。お品によく〳〵言ひふくめられたのでせう。

 案内された主人の部屋といふのは、店に續いた薄暗い六疊で、其處からはお勝手も女中部屋も近く、土藏に通ふ廊下まで見張れるので、まことに四通八達の要路に當り、奉公人達は蔭口に『鎌倉街道』などと言つて居ります。

 障子を開けて入ると、線香の匂ひと共に、ムツと立ち籠めてゐる血の臭ひ。馴れた平次も、思はず敷居際に立ち止りました。

 まだ檢屍前で、幸ひ死骸もそのまゝ。平次は念入りに調べ乍ら、昨夜行はれた恐ろしい犯罪の情景を、頭の中に描いて居ります。

 秋と言つても、まだ生暖かい時で、薄い夜の物を蹴飛けとばし加減に、主人の死骸は半分床から滑り落ちて居ります。傷は右寄りに喉へ一ヶ所、凄まじい血潮を見ると、下手人の手際の恐ろしさは舌を卷かせるばかり。

「これで聲を立てなかつたのかな」

 八五郎は平次の後ろから覗きました。

「變な聲を聞いたやうにも思ひますが、何分晝の疲れでよく寢て居りますので。へエ」

 それに答へたのは、何時の間にやら、後ろからついて來た老番頭の五助でした。もう六十近い年配でせう。顏も聲もしわが寄つて、何んとなく見る影もない老人です。

「お前の寢て居る部屋は近いのか」

 平次です。

「いえ、一番遠く離れて居りますが、年寄は主人をのぞけば私一人で、あとは二十歳はたち臺の若い者ばかりでございます」

 老番頭はさすがに長い商賣の掛引で叩き上げたせゐか、見かけよりはシヤンとして居ります。

「戸締りはどうだ」

「此上もなく念入りで御座います。三人で三度に見廻ることになつて居りますから」

「三人で三度に」

「暗くなる時下女のお松が締めて、夕飯の後で私か福次郎が見廻り、それから寢る時主人が手燭てしよくを持つて一々調べることになつて居ります」

「それで今朝戸締りに變つたことがなかつたのか」

「少しも變つたところもございませんでした。さんをおろして、輪鍵をかけて、その上場所によつてかんぬきを差して居ります」

「それは念入りだな──が、戸締りに變りがなければ、下手人が家の中に居るといふことになるが」

「へエ」

 老番頭はさすがにギヨツとした樣子で四方あたりを見廻しました。



 主人の部屋と廊下を隔てて、廣いお勝手があり、其處にはおびえた小鳥のやうな、二人の女がちゞんで居りました。二十四五のは下女のお松で、これはみにくいが正直さうな女。二十歳前後の可愛らしいのが、常陸屋ひたちやの秘藏娘、お登世といふのでせう。

昨夜ゆうべ物音を聽かなかつたか」

 といふ平次の同じ問ひに對して、二人の娘は少し極り惡さうに頭を振りました。

「主人を怨んで居るものはないか」

 平次は一歩突つ込むと、二人は何やら割り切れぬ顏を見合せて居ります。

 この問答の間にも平次は、其邊を隈なく探し廻りました。主人をあやめたといふ、薄刄のよく切れさうな刺身庖丁さしみばうちやうの外には、何んの變つたものもなく、窓も、天窓も、入口の建てつけも、嚴重の上にも嚴重を極めて、此處から曲者の侵入した樣子はありません。

 秋の陽にクワツと照されて、庭の先に見えるのは二た戸前とまへの土藏で、さすがに今日は煙草の荷の出入りもないらしく、土藏は頑固に扉を閉したまゝ沈默して居ります。

 下女と娘の居間の隣が、番頭五助と手代福次郎の寢て居る部屋で、此邊は窓も何んにもなく裏二階へ登る梯子はしごが掛つて居るくらゐですから、晝は通路に使はれて居るのでせう。

「この上は?」

 平次は二階を仰ぎました。

「春松どんの部屋になつて居ります。元は若旦那の久太郎さんが休んで居りましたが、若旦那が居らつしやいませんので、主人の甥御をひごの春松どんが休んで居ります」

 五助は説明してくれました。

「若旦那の久太郎は何處へ行つて居るのだ」

「へエ」

「隱さずに言ふが宜い。いづれは知れることではないか」

 平次は突つ込みます。

「若氣のあやまちで、親御樣の御氣にそむいて、今は六間堀に住んでおいでになりますが──」

「六間堀?」

「親御に勘當されて、お勝といふ小唄の師匠のところへ轉げ込んでゐることは此界隈では誰知らぬものもありません。お勝はそのために、すつかり人氣が落ちて、弟子も皆んな離れてしまひましたが、常陸屋の大身上が後ろに控へて居るので、勘當された若旦那を達引たてひいて離しませんよ。飛んだ貞女で、へツ」

 利助の子分の多吉は、つばでも吐き度いやうな調子で言ふのでした。

「その若旦那とお勝とかいふ女が、昨夜何をして居たか。八、ひとつ走り石原の子分衆に案内して貰つて、調べて來てくれ。──言ふ迄もないことだが、二人が口を合せるかも知れないから、別々に訊くんだよ」

 平次はガラツ八をかへりみて、行屆いた指圖をしました。

「親分、言葉を返すわけぢやないが、戸締りは蝸牛かたつむりのやうに念入りで、外から入つた樣子はないといふぢやありませんか。──六間堀に居る若旦那の久太郎が忍び込んで親殺しをする筈はありません」

「家の中から仲間の者が引入れて、歸つた後の戸を締めて置くもあるぢやないか。馬鹿野郎」

「へエ」

 う言はれると一も二もありません。ガラツ八は利助の子分二三人と宙を飛んで行きます。

 丁度それと行違ひに、二十五六の若い男が一人、汗を拭き〳〵歸つて來ました。生暖かい秋の陽は西にかたむいて、この男の健康さうな肩から頬のあたりを照らすのが、如何にも頼母し氣に見えるのでした。

「番頭さん、お寺の方は心得て居ますよ。今夜はお通夜の坊さんが來る筈で」

 若い男は番頭の五助に挨拶して、輕く平次と多吉に目禮するのでした。

「お前は?」

「春松と申します。甥といふことになつて居りますが、もう少し遠い親類で。へエ」

 春松はこんな事を言つて、磊落らいらくらしくカラカラと笑ふのです。

「昨夜は何處に居たんだ」

「恥を申さなきやなりませんが──この二階に追ひ上げられて、梯子を引かれてしまひましたよ」

「それはどういふわけだ」

 平次は少し面白さうでした。

「毎晩家をあけるんで、叔父をすつかり怒らせてしまつたんです。二三日前から二階に追ひ上げられて、梯子を引いた上、下の部屋には番頭さんと福次郎どんが、唐獅子からじしのやうにがん張つて居るんです。いくら私が遊び好きでも、脱け出せやしません」

 春松はさう言ひ乍ら、面目なささうに、ポリポリと小鬢こびんのあたりを掻くのです。時も時、少し不謹愼と言へば不謹愼ですが、正直で無造作で、なか〳〵に好感の持てる態度です。

「毎晩、何處へ行くんだ」

「親分、勘辨して下さい。私はまだ若いんですもの」

 春松は愈々以つて參つてしまひます。



 その次に平次の逢つたのは、下女のお松でした。赤ら顏の丈夫さうな女で、調子の高い、明けつ放しな感じが、頭のみにくさをカヴアーして、妙に人を親しませます。

「お孃さんは好いきりやうだが、縁談の口はあるのか」

「長し短かしで、まだ決らない樣子ですよ。もつとも春松どんがお聟さんになるといふ話もありましたが、お孃さんの方で嫌がるので、近頃は春松どんは自棄やけになつて遊んでばかり居ますよ」

「手代の福次郎は?」

「近頃はお孃さんに夢中ですが、これもお孃さんの方で嫌つて、逃げ廻つてゐるやうです」

「有難う。それで、いろ〳〵の事が判つたよ。ところで、昨夜何にか變つたことがなかつたのか」

 平次は妙なことを尋ねます。

「え、さう言へば、妙なことを聽きました」

「妙なこと?」

「御勘當同樣の若旦那樣が、番頭さんのお口添へでお詫びにいらつしやいましたが、旦那樣は大變なお腹立ちで、──今となつては本當の事を打ちあけて言ふが、お前は私の本當の子ではない。亡くなつた女房の妹の子を、わらのうちから貰つて育てたのだ。嘘だと思ふなら、五助に訊いて見ろ。この常陸屋ひたちやの身代は、娘のお登世に婿を取つて讓るから、お前などに寄り付いて貰ひ度くない。小唄の師匠なり、總嫁そうかなり勝手な女と一緒になつて、何處へでも行くが宜いと、それは大變なお叱りでございましたよ」

 お松の話は、成程恐ろしく重大です。

「それを店中の者が聽いてゐたのか」

「町内中に響くやうな聲でやるんですもの、耳をふさいでゐても聽えます」

「それから若旦那の久太郎はどうした」

「お氣の毒なことに、スゴスゴと歸りました。そつと覗いて見ると、泣いてゐた樣子でございます」

 この聞込みは平次に取つては餘つ程重大だつたらしく、お勝手を出ると直ぐ、店の方から番頭の五助を呼んで來させました。

「番頭さん、隱さずに言つて貰ひ度いが──」

「へエ、へエ、決して隱し事はいたしません」

 五助は何やら不安らしく平次を見上げて、滅茶々々な揉手もみてをして居ます。

「昨夜、若旦那の久太郎が歸つて行つた時刻は?」

「かれこれ亥刻よつ(十時)でございました」

「若旦那はひどく父親を怨んで居たことだらうな」

「いえ、とんでもない。若旦那はまことに氣の好い方で、男泣きに泣いて歸りました。小唄の師匠のお勝の情愛に引かれて、切れるには切れられず、さうかと言つて親旦那の御機嫌を直す工夫もなく、本當にお氣の毒でございました。でも、亡くなられた旦那樣は、本心では若旦那の久太郎樣が可愛くて仕樣がなかつた樣子でございます」

「ところで、昨夜福次郎は夜中に起出さなかつたのか」

 平次は題目を變へます。

「一度も起きません。起きさへすれば、枕を並べて寢て居た私が氣が付かない筈はございません」

「二階からも、確かに甥の春松が降りては來なかつたのだな」

「へエ、梯子を引いて、その上、すぐ下には私と福次郎が寢て居りました」

「二階は一と間だけか」

「へエ」

 これでは福次郎も春松も全く疑ひの圈外けんぐわいに立ちます。



「親分、若旦那は亥刻よつ(十時)少し過ぎに六間堀に歸つて、小唄の師匠のお勝と泣いたり笑つたり夜半まで口説くぜつの擧句、到頭隣長屋から苦情が出たさうですよ」

 ガラツ八の八五郎が、飛んで歸つての報告です。

「それから後は外へ出なかつたのだな」

「隣の隱居は、恐ろしくやかましい親爺で、──お蔭で一と晩一すゐもしなかつた、若い者と壁隣に住むのは容易の難行苦行ぢやねえ──と大むくれでしたよ」

「よし、よし、六間堀はそれだけとして、今度は此處だ。家の中を念入りに調べ上げたいがお前も手傳つてくれるか」

「何んでもやりますよ。親分」

「先づ最初は二階だ」

 平次は八五郎と多吉をつれて、二階の六疊──かつての久太郎の部屋、この二三日は毎晩春松が閉ぢ込められたといふ部屋を覗きました。

「よくあるだが、二階正面の格子がそつくり外れるやうな事はあるまいな」

「一々釘で打ち付けてありますよ。これぢや火事や地震の時困るだらう」

「火事や地震より、主人にして見れば道樂息子の方がこはかつたのさ」

「これぢや、脱け出す工夫はありませんね」

「先づむづかしいな」

 平次と八五郎は掛け合ひばなしを續け乍ら、なほも念入りに部屋の中を調べました。

「疊は新しくない樣だが、近頃表替をしたか、大掃除おほさうぢをしたらしいな」

「へエ」

「疊と疊の隙間にほこりがハミ出して居るぢやないか──おや、を切つてあるのか。若い者の癖に、炬燵こたつでもしたんだらう」

 平次はさう言ひ乍ら、まだふさいだまゝの爐のふた、──小さい疊を起して見ると、その下は燒物の火入で、恐ろしく丁寧な掃除をしてあるのも、爐開きにはまだ季節が早いだけに、たしなみ過ぎる感じです。

 押入を開けたが、何んにも目立つたものはなく、布團一と組と、脱ぎ捨てた春松の着物が二三枚あるだけ、それも男の獨り者らしく、妙に脂切つて、汚れ腐つて居るのが目立ちます。

「今度は階下しただ」

 平次は五助を案内に、奉公人達の荷物を一つ〳〵見せて貰ひました。春松、お松、五助と、荷物は同じやうなもので、大して變つた物もありませんが、唯一つ、最後に開けた手代の福次郎の行李かうりの底から、主人の娘のお登世に宛てた、齒の浮くやうな戀文が、三本も五本も出て來たには、さすがの平次も顏を反けました。

 當の福次郎は、このことあるを知つて、早くも姿を隱したらしく、其邊には影も形もありません。

「錢形の親分」

「何んだ、多吉兄哥あにい

「あの野郎を擧げてしまひませうか」

「誰だ」

「福次郎の野郎ですよ」

 多吉はさう信じきつてゐる樣子です。

「人でも殺さうといふ奴は、あんな極りの惡い手紙を、破りも燒きもせずに、行李の底に温めて置くものか。荷物調べが始まると、直ぐ人に讀まれるぢやないか」

 平次の考へ方は穩當で常識的です。

「でも、裏の裏といふことがありますよ。福次郎が本當の惡黨なら、錢形の親分のやうな人に、さう思はせるために、わざと戀文位は温めて置きますよ」

「そんな事も考へられるだらう。が、福次郎は一と晩中番頭の五助の傍に居たんだぜ」

「宵とか、曉方とか、一寸でも五助が油斷をしたとしたら?」

「そんな事を言つては際限がないよ。春松にだつて、宵や朝には折があつた筈だし、下女のお松だつて、人を殺さないと限つたものでもあるまい。──待てよ、俺はもう少し番頭に訊いて見たい事がある」

 平次は、何を考へたか、もう一度五助と福次郎の寢た部屋に戻つて、店に行つた番頭を呼び寄せました。

「何にか御用で、親分さん」

「近頃二階の五疊の疊の表替か、大掃除おほさうぢでもしたのか」

「いえ何んにもいたしませんが」

 五助はけげんな顏をして居ります。

「それから昨夜久太郎が呼付けられて、ひどく主人に叱られたといふことだな」

 平次の問ひは急に方向を變へます。

「へエ」

「隱さず言つてくれ。その久太郎が主人の本當の子でないといふことは、昨夜まで誰も知らずに居たことか」

「いえ、皆んな存じて居りました。御主人の手前知らない分にして居ただけのことで──」

「本人の久太郎も、妹のお登世もか」

「へエ」

「奉公人も知つて居たのか」

「いえ、知つて居るのは古い奉公人だけでございます」

「それを又昨夜ゆうべ、何んだつて主人が久太郎を呼び付けてそんな話をしたんだ」

「小唄の師匠と手を切らせようといふ親心でございます。あゝでも言つたら、若旦那樣が考へ直すかと思つたのでございませう。實の子ではないと申しても、大旦那樣にして見ればわらのうちから育てた若旦那樣が可愛くてならないのでございます」

「そんな事もあるだらうな。ところで、話は變るが、お前さんは此店へ毎晩泊つて居るのか」

 平次は突如として話題を變へました。

「いえ、私は通ひでございます。家は四つ目にありますが、仕事の忙しい時や、ひどく遲くなつた時は、よくお店に泊ります」

「泊る日は極つて居ないわけだな」

「月に五度や六度は泊りますが、仕事の都合で、晝のうちにその晩泊る時は、家まで小僧を使にやります」

「すると昨日きのふも、晝のうちから店の者にはお前が泊ることがわかつて居たのだな」

「へエ」

「下手人が家の者だ、──お前が泊るのを知つて居て、わざとその晩、お前に番人をさせて主人を殺した手口は恐ろしいな」

 平次はう獨り言のやうに言ふのです。



「極りを惡がらずに、打ち明けて貰ひ度いが──」

「──」

 平次が最後に逢つたのは、娘のお登世とよでした。二十歳といふ此節の相場では、とつぎ遲れのとうの立つた娘ですが、見たところは十八九の幼々うひ〳〵しさで、その豊かな頬にも、鈴を張つた眼にも、小さい口許にも、町娘の可愛らしさが溢れます。

「父親をあやめた下手人が、お前の口一つで捕まらないやうになるかも知れない。解るか、俺の言ふことが──」

 娘心の秘密を覗くことが出來れば、大概のむづかしい捕物は、朝陽の前の霧のやうに解決することを平次は知つて居たのです。

「よくわかりました、どんな事でも申上げます」

 思ひ定めた樣子で、お登世は可愛らしい顏を振り仰ぎました。

「先づ、何より先に、お前は久太郎と本當の兄妹でないといふことを、何時頃から知つて居る」

「小さい時でした。乳母うばがそつと教へてくれたんですもの」

「その久太郎とお前が、末は夫婦になるつもりで居たのだな」

「あれ親分さん」

 お登世は眞赤になりましたが、決してそれを否定したわけではありません。

「お前の口からは言ひにくからう、俺の言ふことに返事をしくれさへすれば宜い」

「──」

「その矢先──久太郎は小唄の師匠のお勝に逆上のぼせて、親から勘當されるやうになつた。お前はそれを心配して、いろ〳〵取なしたが、うまく行かなかつた。──現に昨晩も、父親に久太郎を呼寄せさして、お勝と切れさせようとしたが──」

「親分、私はそんなにまでは──」

「よい〳〵、口で言はなくても、心で思つただけでも宜いのだ。父親は娘の心持を察して、久太郎を呼寄せて意見をしたのだらう」

「──」

 お登世は默つて俯向うつむきました。いぢらしく可愛らしい姿です。鹿の子絞りの襟に白い頤を埋めて──。

「春松と福次郎が、何彼とお前に附きまとつたが、お前の心には久太郎があるので、お前は取合はなかつた、──さう思つて宜いだらうな」

「──」

 お登世は默つてしまひました。見ると、小娘らしく袂に顏を埋めて、身も浮くばかりに泣いて居るのです。

 泣きひたる娘をそつとして置いたまゝ、平次は廊下に滑り出て居りました。

「八、來い。面白いものを見せてやる」

「下手人が判つたんですか親分」

「大概見當は付いたつもりだ。──その踏臺ふみだいを持つて來て、春松の寢て居た二階の下の部屋の、押入寄りの隅へ置いてくれ。そして、お前は其邊を見張つて居るのだ、宜いか」

 平次は言ひ捨てて二階へ登りましたが、暫らく何やらゴソゴソ作業をして居たと思ふと、いきなり階下したの部屋の押入寄りの隅の天井板がスーツと動いて、其處から伸びた二本足が、八五郎が置いた踏臺を探して居るではありませんか。

「あツ」

 八五郎が驚く間もありません。踏臺を探り當てて、身輕に降り立つたのは、何んと錢形平次のほこりも被らぬ、ニヤニヤした顏だつたのです。

「よく掃除さうぢしてあるよ、蜘蛛くもの巣一つありやしない」

「曲者は其處から降りたんですか、親分」

「外に道はないよ。二階の炬燵こたつを拔いて此處へ降り、廊下へ出て、若い女共の寢込んでゐる部屋の前を、主人の部屋へ忍んで行くのは何んでもない──お勝手から刺身庖丁さしみばうちやうを取出して、主人を刺すと、又元の道を二階に歸つて、知らん顏をして居たのだ──踏臺は翌る朝片付けたつて、誰が氣付くものか」

 平次が八五郎に説明して居る時でした。外からけげんな顏をして飛込んで來た多吉が、

「錢形の親分、親分は本當に〳〵春松に言ひ付けて、お登世を伯母さんの家へ送り屆けたんですか」

「え、俺はそんな事を言つた覺えはないが」

 平次は何にか知ら愕然がくぜんとしました。

「たつた今春松は、嫌がる娘をつれて、竪川たてかはの伯母さんの家へ行くんだと出て行きましたよ」

「そいつは大變だ、──春松は俺が二階から降りたのを見たんだらう、──あいつが下手人げしゆにんだ、──娘が危ない」

 平次のあわてやうは大變でした。

「それツ」

 と八方へ人を走らせる眞最中。

「春松がお登世を何うかしたといふぢやありませんか」

 汗になつて馳け付けたのは若旦那の久太郎です。二十三といふ若盛り、純情家らしくて危な氣はありますが、その代り世辭せじも驅け引もないと言つた、生一本の良い男です。

「久太郎か、──お登世が危ない。春松の主殺しがばれたので、捨鉢になつてお登世をさらつて行つた」

 言葉せはしく説明する平次。

「あの野郎の巣はわかつて居ます。私が行つて妹をつれて來ませう」

 飛んで行く久太郎の後ろ姿を見送つて、

「八、お前も行け、あの男だけでは心細い。腕も惡智慧も、春松の方が上は手だ」

「合點」

 八五郎を飛ばせる平次だつたのです。

        ×      ×      ×

 その時はもう薄暗くなりかけて居りました。竪川筋のとある材木小屋につれ込まれたお登世が、春松の執拗しつあうな邪惡な戀の前に、あはや命も處女も奪はれかけて居るところへ、若旦那の久太郎は、鐵砲玉のやうに驅け込んだのです。

 二人の爭ひは深刻しんこくで無殘でした。叩き合ひ、むしり合ひ、上になり下になり、息も絶え〴〵に爭つた揚句、ほんの少しばかり力のおとつた久太郎が、春松のために組敷かれて、たくましい角材で打ち殺されやうとしたのを、今度は半死半生の目に逢つたお登世が、必死の力を振り絞つて春松の腕に噛り付きました。

 此爭ひは何時果つべしとも思へなかつたのですが、幸ひ驅け付けた八五郎が間に合つて、その猛烈な戰鬪力を役立たせ、久太郎と力をあはせてたけり狂ふ春松を犇々ひし〳〵と縛り上げたことは言ふまでもありません。

 この厄介な捕物が一段落すむと、興奮と疲勞と恐怖とにヘトヘトになつた久太郎とお登世は、何方からともなく這ひ寄りました。そして極めて自然に、──十何年の昔に返つた心持で、互にひしとその手を取り合つてゐたのです。

 何も彼も濟んで、下手人の春松を石原の子分衆に引渡した平次は、八五郎と一緒に、夕闇の中を神田の家へ急いで居りました。

「何んだつて春松が叔父に當る主人を殺す氣になつたんでせう」

 八五郎は相變らず事件の説明をせがみました。

「自分の不始末がバレて、叔父の信用がなくなり、その上お登世に嫌はれて常陸屋ひたちやの跡取りになる望がなくなつたからさ。叔父の久左衞門は、實の子でないと言つても、正直者で人柄の良い久太郎が好きだから、いづれは勘當を許すことになるだらうと思つたのだらう」

「それにしても、二階から炬燵こたつを拔いて、階下したへ降りた工夫には驚きましたね」

「わざ〳〵梯子を引かせた上、番頭の泊つた晩にやつたのはあの男の喰へないところだ、──下手人が家の者と解つてゐるし、番頭でも福次郎でも、娘でも下女でも、ないとなると、春松を疑つて見るのが順當だが、あんまり細工がうまいので、ツイだまされたよ」

「若旦那とお登世はどうなるでせう」

「いづれ一緒になるだらうよ──お前が氣をもむまでもあるまい。海千山千の小唄の師匠よりは、をさな友達の許婚の方がよかつたのさ、娘心は正直だ。お登世が春松を嫌つて、久太郎にこがれたのも無理はないよ」

 平次はさう言ひ乍ら、胸をはだけて大川の水面を吹いて來る秋の夜風のさはやかさを享樂するのでした。

底本:「錢形平次捕物全集第二十卷 狐の嫁入」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年1115日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1948(昭和23)年2月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2016年34日作成

2017年34日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。